ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 五月に入ると、校内の空気が少しずつ変わり始めた。

 昇降口の掲示板には、体育祭まであと一か月という大きなポスターが張られ、休み時間になると、あちこちの教室から競技の話が聞こえてくる。

「今年、クラス対抗リレーあるんだって!」

「二人三脚、誰と組む?」

「応援ダンスもやるらしいよ」

 二年二組の教室も、朝からにぎやかだった。

 そんな中。

 陽菜乃は自分の席で、できるだけ小さくなっていた。

「では、体育祭のクラス係を二人決めます」

 担任の森川先生が黒板に、

『体育祭係 男子一名・女子一名』

 と大きく書いたからだ。

(どうか、当たりませんように……)

 陽菜乃は心の中でお願いしながら、そっと視線を下げた。

 みんなの前に立つのは苦手だ。

 ダンス部では舞台に立てるのに、教室で話すとなるとなぜか緊張してしまう。

「女子、誰かやりたい人?」

 しーん。

 誰も手を上げない。

「困ったなあ」

 先生が教室を見回した。

 嫌な予感がする。

「ダンス部の子がいいんじゃない?」

 誰かが言った。

「それなら小宮山じゃん!」

「応援の振り付けとか考えられそう!」

「えっ?」

 突然自分の名前が出て、陽菜乃は顔を上げた。

「わ、私は……」

「いいじゃん、陽菜乃!」

 前の席の美緒まで振り返る。

「ダンス得意なんだし!」

「で、でも……」

 クラス中から視線を向けられ、陽菜乃の頬が熱くなる。

 無意識に、制服の袖口をぎゅっとつかんだ。

「小宮山、お願いできるか?」

 先生にまで言われてしまった。

 断るのも申し訳ない。

 陽菜乃は迷った末、小さくうなずいた。

「……はい」

「よし。女子は小宮山」

 黒板に名前が書かれる。

 その瞬間、教室から拍手が起こった。

 うれしいような、恥ずかしいような。

(ちゃんとできるかな……)

 心配になって、また袖を握る。

「じゃあ男子は?」

 先生が続ける。

 今度も誰も手を上げない。

「お前らなあ……」

 先生が困ったように笑った、その時。

「俺やります」

 低い声が教室の後ろから聞こえた。

 陽菜乃は驚いて振り返った。

「え?」

 手を上げていたのは――水野柊真だった。

 教室のあちこちから、

「え、水野?」

「マジ?」

 という声が上がる。

 先生まで少し驚いた顔をした。

「水野、お前こういうのやるのか?」

「誰もやらないんでしょ」

 柊真は何でもないことのように答える。

 それから、ちらっと陽菜乃を見る。

「小宮山一人じゃ大変そうだし」

「……!」

 陽菜乃の胸が小さく跳ねた。

「じゃあ男子は水野。二人ともよろしくな」

「はい」

「……はい」

 先生が黒板に、

『小宮山陽菜乃・水野柊真』

 と並べて名前を書く。

 陽菜乃はその文字を不思議な気持ちで見つめた。

 水野くんと二人で、体育祭係。

 少し前までなら、考えもしなかった組み合わせだった。


「水野くん」

 ホームルームが終わったあと。

 陽菜乃は勇気を出して柊真の席へ向かった。

「ん?」

 柊真が顔を上げる。

「あの……ありがとう」

「何が?」

「体育祭係。一緒にやってくれて」

「別に」

 柊真は机の中へ教科書をしまいながら言った。

「一人でやらせたら、お前、全部自分で抱えそうだし」

「そんなこと……」

 陽菜乃は言いかけて止まった。

 たぶん、やる。

 頼まれたことを断れなくて、一人で頑張ろうとする自分が想像できた。

 柊真がその顔を見て笑う。

「ほら。図星」

「……でも、迷惑かけないように頑張るから」

「それ」

「え?」

「迷惑かけないようにって言うの禁止」

「どうして?」

「一緒にやる係なのに、一人でやろうとするから」

 柊真は立ち上がった。

「半分は俺がやる。分かんないことあったら言え」

「……うん」

「返事小さい」

「うん!」

「今度はでかい」

「もう、水野くん!」

 陽菜乃が思わず笑う。

 すると、柊真が一瞬こちらを見たままになった。

「……なに?」

「いや」

 柊真はすぐ視線をそらした。

「ほんとよく笑うなと思って」

「え?」

「なんでもねえ」

 その耳が少しだけ赤く見えたのは、陽菜乃の気のせいかもしれない。


 放課後。

 二人は教室に残り、体育祭で使うクラス旗を作ることになった。

 机をいくつかくっつけ、その上に大きな白い布を広げる。

「二組だから、これでどうかな?」

 陽菜乃がスケッチブックを開く。

 そこには、クラスカラーに合わせた旗のデザインが描かれていた。

 中央には大きな星。

 周りにはクラス全員の名前を書く予定だ。

 柊真が少し驚いたように見る。

「これ、陽菜乃が描いた?」

「うん。昨日考えたの」

「うまいじゃん」

「ほんと?」

「ああ」

 まっすぐ褒められ、陽菜乃の頬が少し熱くなる。

「……ありがとう」

「また言った」

「え?」

「ありがとう」

「だって褒めてくれたから」

「そんな何でも礼言わなくていいだろ」

「でも、うれしかったから」

 陽菜乃が笑うと、柊真は困ったように頭をかいた。

「そういう顔で言うの、ずるい」

「何が?」

「……なんでもねえ」

 陽菜乃は不思議そうに首をかしげた。

 二人で下書きを始める。

 最初は緊張していた陽菜乃だったが、作業を始めると夢中になった。

「ここ、もう少し大きくしたほうがいいかな?」

「いいんじゃね?」

「水野くん、ちゃんと見てる?」

「見てるって」

「ほんと?」

「じゃあここの星、ちょっと右」

「……ほんとだ」

「な?」

「水野くん、意外と細かい」

「それ褒めてる?」

「褒めてるよ」

 二人で話しながら作っていると、時間が過ぎるのが早かった。

 陽菜乃は青い絵の具を筆につけ、布へ色をのせていく。

 ところが――。

「あっ」

 筆先から小さな絵の具が跳ねた。

 ぺちっ。

 陽菜乃の頬につく。

「……」

「……」

 柊真がこちらを見る。

「水野くん?」

「動くな」

「え?」

 柊真が机に置いてあったティッシュを一枚取った。

 そして陽菜乃の頬へ手を伸ばす。

「ちょ……」

 そっと絵の具を拭かれた。

 思ったより顔が近い。

 陽菜乃の体がぴたりと止まる。

 柊真の目は、普段は少し怖く見える。

 でも今は、陽菜乃の頬についた絵の具を真剣に見ていた。

「取れた」

「あ、ありがとう……」

 頬が熱い。

 きっと絵の具とは関係ない。

「お前、顔まで塗るなよ」

「わざとじゃないもん」

 陽菜乃は恥ずかしくなって顔をそむける。

 その時だった。

「陽菜乃」

 教室の入り口から声がした。

 陽菜乃はすぐに振り向く。

「湊?」

 そこに立っていたのは、制服姿の湊だった。

 肩にはサッカー部の大きなバッグ。

「今日、部活は?」

「ミーティングだけで終わった」

「そうなんだ」

 陽菜乃はうれしくなった。

「じゃあ一緒に帰れる?」

 聞いた瞬間。

 なぜか湊はすぐに答えなかった。

 視線が陽菜乃から、向かい側にいる柊真へ移る。

 そして机の上のクラス旗。

「……何してんの?」

「体育祭係になったの」

「陽菜乃が?」

「うん。水野くんも一緒」

「ふーん」

 湊の返事が短くなる。

 陽菜乃には、それがどういう意味なのか分からない。

「まだかかる?」

 湊が聞いた。

「あと少しかな」

「じゃあ待ってる」

「え?」

「終わるまで」

「でも、いつになるか分からないよ?」

「別にいい」

 湊は空いている椅子を引き、窓際に座ってしまった。

「……成瀬」

 柊真が筆を持ったまま湊を見る。

「何?」

「暇なの?」

「暇だから待ってる」

「へえ」

 二人の間に、なんとなく変な空気が流れた。

 陽菜乃は何も分からず、二人を交互に見る。

「どうしたの?」

「別に」

「何も」

 二人がほぼ同時に答えた。

(……変なの)

 陽菜乃がもう一度作業へ戻ろうとした、その時。

「湊くん!」

 廊下から明るい声が飛んできた。

 陽菜乃の手が止まる。

 一ノ瀬美羽だった。

 教室の入り口に顔を出し、湊を見つける。

「やっぱりここにいた」

「何?」

「キャプテンが探してるよ。明日の練習試合のことで話あるって」

「あ……忘れてた」

「もう、また?」

 美羽があきれながら笑う。

「早く行こう」

「分かった」

 湊は立ち上がった。

 そして陽菜乃を見る。

「悪い。先行く」

「……うん」

「終わったら連絡して」

「大丈夫だよ」

「でも――」

「美羽ちゃん待ってるよ」

 陽菜乃は笑ってみせた。

「私、水野くんとやってくから」

 一瞬。

 湊の表情が変わった気がした。

「……そっか」

 それだけ言って、湊は教室を出ていった。

 美羽がその隣に並ぶ。

「明日の相手、強いらしいよ」

「マジ?」

 二人の声が少しずつ遠ざかっていく。

 陽菜乃は、開いたままの絵の具を見つめた。

 さっきまで楽しかった気持ちが、急にしぼんでいく。

(まただ……)

 湊の隣には、美羽がいる。

 学校でも。

 放課後も。

 サッカーのことなら、自分より美羽のほうがずっと近い。

「陽菜乃」

「え?」

 柊真に呼ばれて顔を上げる。

「そこ」

「どこ?」

「同じところずっと塗ってる」

「あ……」

 気づけば、筆を同じ場所に何度も動かしていた。

「ごめん」

「また謝る」

 柊真は少しだけ陽菜乃を見つめた。

「気になるんだ?」

「何が?」

「あのマネージャー」

「……!」

 心の中を見られたようで、陽菜乃は慌てた。

「ち、違うよ」

「分かりやす」

「違うってば」

「じゃあなんで成瀬があの子と行った瞬間、そんな顔してんの」

「どんな顔?」

「泣きそうな顔」

 陽菜乃は言葉に詰まった。

「……泣かないよ」

「うん」

「私、そんなことで泣かないもん」

「分かったから」

 柊真はそれ以上聞かなかった。

 絵の具のついた筆を持ち直し、

「ほら、さっさと終わらせるぞ」

 と言う。

「俺、星のほう塗るから」

「でも水野くん、こういうの苦手じゃ……」

「陽菜乃よりは顔に塗らねえ」

「もう!」

 思わず笑ってしまった。

 すると柊真も少し笑う。

「やっと普通の顔」

「え?」

「そっちのほうがいい」

 胸の奥が、少しだけ温かくなる。

 美羽と一緒に歩いていった湊のことを考えると、まだ苦しい。

 でも。

 隣で何も聞かずにいてくれる柊真の優しさに、陽菜乃は少し救われていた。


 一方。

 階段を下りながら、湊は何度も後ろを振り返りそうになっていた。

「湊くん?」

 隣を歩く美羽が顔をのぞき込む。

「どうしたの?」

「別に」

「さっきから教室のほう気にしてない?」

「気にしてない」

「そう?」

 美羽は首をかしげた。

 けれど、少しだけ笑う。

「小宮山さん、水野くんと仲いいんだね」

 湊の足がほんの少し遅くなった。

「……最近みたい」

「そうなんだ」

「同じクラスだからだろ」

「でも水野くんって、あんまり女子と話さないって聞いたよ?」

「知らない」

 返事が自分でも驚くほど冷たくなる。

 美羽がくすっと笑った。

「湊くん、もしかして気になる?」

「何が?」

「小宮山さんと水野くん」

「幼馴染だから心配なだけ」

「ふうん」

 美羽はそれ以上何も言わなかった。

 でも。

 湊はさっき見た光景を思い出していた。

 陽菜乃のすぐ近くに立っていた柊真。

 楽しそうに笑っていた陽菜乃。

 そして――。

『私、水野くんとやってくから』

 その言葉が、なぜか胸に引っかかっている。

 昔から。

 陽菜乃が困った時に頼るのは自分だった。

 何かあれば、

『湊』

 と呼ばれるのが当たり前だった。

 なのに最近、その隣に別の男がいる。

「……水野、か」

 誰にも聞こえない声でつぶやく。

 胸の奥にもやもやするものの正体を。

 この時の湊は、まだ認めようとしていなかった。

 それが――。

 ただの幼馴染への心配ではなく、はっきりとした嫉妬なのだということを。