三月の終わり。
長かった冬がようやく終わり、街のあちこちに淡い桜色が戻ってきていた。
まだ朝の空気には少し冷たさが残っている。
けれど、陽菜乃が玄関を開けると、やわらかな春の風が頬をなでた。
「……あ」
門の向こう。
隣の家の前に、湊が立っている。
制服姿で、片手には鞄。
もう片方の手でスマホを見ていた湊は、陽菜乃に気づくと顔を上げた。
「おはよ」
「おはよう」
「今日は早いじゃん」
「今日はって何?」
「いつも五分くらい待つから」
「最近はちゃんと間に合ってるもん」
「昨日は?」
「……三分だけ」
「ほら」
「三分は遅刻に入らないよ」
「待ってる側には入る」
「もう」
陽菜乃は頬をふくらませながら、湊の隣へ並んだ。
こんな朝が。
また戻ってきた。
でも。
前とは少しだけ違う。
以前の湊なら、陽菜乃が家から出てくるのが遅ければ、当たり前のように待っていた。
陽菜乃も、湊が待っていてくれることを当たり前だと思っていた。
今は違う。
前日の夜には、
『明日、一緒に行く?』
とどちらかが聞く。
用事があれば、
『今日は先に行くね』
と伝える。
小さなこと。
でも。
その小さなことを、二人は大事にするようになった。
「行こっか」
「うん」
二人で歩き始める。
春休み前の登校日。
あと少しで二年生も終わる。
四月になれば。
陽菜乃たちは高校三年生だ。
「三年生かあ……」
陽菜乃がぽつりと言う。
「早いな」
「受験とか考えないとだよ?」
「陽菜乃、行きたい大学決まった?」
「まだ迷ってる」
「ダンス続けたいって言ってなかった?」
「うん。でも、それだけで決めるのも違うかなって」
「じゃあ一緒に探せば?」
「一緒に?」
「大学」
湊が前を向いたまま言う。
「別に同じところ行こうって意味じゃなくて」
「……うん」
「陽菜乃が行きたいところ、一緒に調べるくらいならできるし」
陽菜乃は湊の横顔を見る。
「ありがとう」
「ん」
昔なら。
湊が行く大学を聞いて、
(できれば近いところがいいな)
と思っていたかもしれない。
でも今は。
自分が何をしたいのか。
ちゃんと考えてみたい。
そして湊も、それを応援してくれる。
それが。
なんだかとても嬉しかった。
「陽菜乃ー!」
教室へ入ると、美緒が大きく手を振った。
「おはよう」
「おはよ! ねえ聞いた?」
「何を?」
「クラス替え!」
「まだ発表されてないよね?」
「そうなんだけど、三年は文理でかなり分かれるらしいよ」
「えっ」
陽菜乃は思わず柊真の席を見る。
ちょうどその時。
「何」
柊真が鞄を机へ置きながら、こちらを見た。
「柊真くん、文系だっけ?」
「そうだけど」
「私も文系」
「じゃあまた同じになるかもな」
「ほんと?」
「確率はあるだろ」
「そっか」
陽菜乃は少し嬉しくなる。
あの日。
柊真に気持ちを伝えてから。
しばらくは。
少しだけ距離があった。
話せば普通に返してくれる。
でも。
以前のように二人きりで長く話すことは減った。
陽菜乃も、それが必要な時間なのだと思っていた。
無理に元へ戻そうとはしなかった。
そして。
少しずつ。
本当に少しずつ。
二人はまた普通に話せるようになった。
「水野くん」
後ろから女子の声がした。
「これ、昨日のプリント。先生が渡してって」
「ああ、ありがと」
柊真が受け取る。
「それと……」
女子が少しだけ頬を赤くする。
「今日、帰り時間ある?」
「え?」
「ちょっと聞きたいことあって」
陽菜乃は思わず、その女子を見る。
別クラスの女の子。
確か、図書委員で柊真と一緒だった子だ。
「……」
柊真は少し考えて。
「部活ないからいいけど」
「ほんと?」
「うん」
女の子は嬉しそうに笑って去っていった。
「おおー」
莉子がすぐに反応する。
「何」
「水野くん、春が来た?」
「意味分かんねえ」
「絶対あの子、水野くんのこと好きだよ」
「知らねえよ」
「どうするの?」
「何が」
「告白されたら!」
「されてから考える」
「冷静!」
みんなが笑う。
陽菜乃も。
少し遅れて笑った。
胸が痛くない。
ほんの少し。
よかったな、と思った。
(柊真くんにも)
いつか。
柊真くんを一番に選ぶ女の子が現れたらいい。
そして。
柊真も。
その子を一番に好きになれたらいい。
心から。
そう思えた。
「陽菜乃」
「え?」
柊真がこちらを見る。
「何にやにやしてんの」
「してないよ」
「してる」
「してない!」
「怪しい」
「もう」
そんなやり取りも。
今では。
大切な友達との、いつもの会話になった。
昼休み。
陽菜乃が美緒たちと購買へ向かう途中。
「あ」
廊下の向こうから美羽が歩いてきた。
サッカー部のジャージ姿。
手にはたくさんのファイル。
「美羽ちゃん」
「小宮山さん」
美羽が足を止める。
「それ、重そう」
「部の書類。新入生用」
「もうそんな時期なんだ」
「四月になったら一年生来るからね」
「そっか」
以前なら。
美羽とこうして普通に話す未来なんて、想像もできなかった。
今でも。
ものすごく仲がいいわけではない。
一緒に遊ぶこともない。
でも。
会えば挨拶をする。
たまに話す。
それで十分だった。
「成瀬くんとは?」
美羽が少し笑う。
「うまくいってる?」
「……うん」
「顔見れば分かるけど」
「えっ」
「小宮山さん、分かりやすいから」
「美緒ちゃんにも言われる……」
「だろうね」
美羽が笑う。
その笑顔は。
以前より、ずっと自然に見えた。
「湊くん」
美羽は少しだけ声を落とす。
「最近ちゃんとしてるよ」
「え?」
「女子から個人的な差し入れ渡されても、必要ないものは断ってる」
「……」
「部活の連絡も、前よりきっちり」
陽菜乃の胸が温かくなる。
陽菜乃に見せるためではない。
見ていないところでも。
湊は変わろうとしている。
「よかったね」
美羽が言う。
「うん」
陽菜乃は。
今度は迷わず笑った。
「ありがとう」
「私は何もしてないけど」
「教えてくれたから」
「……そっか」
美羽は少しだけ笑って。
「じゃあ私、行くね」
「うん」
「また」
「またね」
美羽が歩いていく。
その背中を見ながら。
陽菜乃は思った。
あの頃。
美羽が怖かった。
湊を取られると思った。
でも。
本当は。
湊は誰かのものではなかった。
陽菜乃のものでも。
美羽のものでも。
人の気持ちは。
誰かが先に隣にいたからといって、約束されるものではない。
だから。
ちゃんと好きだと伝える。
ちゃんと相手の気持ちを聞く。
それが。
一番大切だったのだ。
放課後。
陽菜乃はダンス部の最後のミーティングを終え、校舎を出た。
空はまだ明るい。
春が近づいたせいか。
少し前までなら真っ暗だった時間なのに、西の空には薄いオレンジ色が残っていた。
「陽菜乃」
校門近くから声。
「湊」
サッカー部の練習を終えた湊が立っていた。
「今日、一緒に帰れる?」
「うん」
「よかった」
二人で並んで歩く。
校門を出たところで。
陽菜乃が湊を見る。
「ねえ」
「何?」
「今日、美羽ちゃんに会った」
湊の表情が少しだけ慎重になる。
「何か言われた?」
「ううん」
「ならよかった」
「湊、最近ちゃんとしてるって」
「何が」
「女子からのプレゼントとか」
「ああ」
湊は少し気まずそうに視線をそらす。
「普通だろ」
「前は普通じゃなかった」
「……それは」
「ふふ」
「笑うなよ」
「だって」
陽菜乃は笑う。
「嬉しかったから」
「……」
「私が見てないところでも、ちゃんとしてくれてるんだなって」
湊が足を少しだけ止める。
「当たり前だろ」
「うん」
「陽菜乃に見せるためにやってるわけじゃないし」
「うん」
「俺がもう同じことしたくないから」
まっすぐな言葉。
陽菜乃は。
胸があたたかくなる。
「ありがとう」
「でも」
「ん?」
「何でも断るわけじゃないからな」
「え?」
「部活の差し入れとか、全員に配ってるやつは普通にもらう」
「分かってるよ」
「そこまで全部断ったら逆に変だろ」
「うん」
「ちゃんと区別する」
陽菜乃は少し笑った。
「そこまで説明しなくても大丈夫」
「いや」
湊が言う。
「説明する」
「……」
「もう陽菜乃に『分かってくれるだろ』って思わないことにしたから」
陽菜乃は目を丸くした。
そして。
ゆっくり笑った。
「うん」
「陽菜乃も」
「なに?」
「嫌なことあったら言って」
「うん」
「勝手に距離置くの禁止」
「……努力します」
「約束って言え」
「約束します」
「よし」
「偉そう」
「彼氏だから」
「それ関係ないよ」
二人で笑う。
家へ向かう途中。
公園の前を通る。
あの日。
二人が幼馴染から恋人になった場所。
「寄ってく?」
湊が聞く。
「少しだけ」
二人で公園へ入る。
春休み前の夕方。
小学生たちが何人か遊んでいる。
ブランコ。
滑り台。
昔の自分たちみたいだ。
「あそこ」
陽菜乃が指をさす。
「小二の時、転んだところ」
「落ちたところ」
「転んだの!」
「まだ言う?」
「湊が間違ってるから」
「はいはい」
ベンチに並んで座る。
目の前。
大きな桜の木。
まだ満開ではない。
でも。
枝の先には。
小さな花がいくつも咲き始めていた。
「もうすぐ一年だね」
陽菜乃が言う。
「何が?」
「二年生になってから」
「ああ」
「あの頃」
陽菜乃は桜を見上げる。
「私ね」
「うん」
「湊の隣にいるの、ずっと当たり前だと思ってた」
「……俺も」
「幼馴染だし」
毎朝一緒。
何かあれば頼る。
困れば湊が助けてくれる。
それが。
ずっと続くと思っていた。
「だから」
陽菜乃は少し笑う。
「美羽ちゃんが湊の隣にいるの見て」
「うん」
「すごく怖かった」
「……ごめん」
「もう謝らなくていいよ」
陽菜乃は首を横に振る。
「今はね」
湊を見る。
「分かったから」
「何が?」
「隣って」
少し考える。
「ずっと同じ人のために空いてる場所じゃないんだね」
湊は何も言わず聞いている。
「幼馴染だから」
「うん」
「昔から好きだったから」
「うん」
「それだけで、ずっと隣にいられるわけじゃない」
離れた。
すれ違った。
ほかの誰かに心が動いた。
その全部があったから。
今。
分かる。
「ちゃんと」
陽菜乃は続ける。
「相手を好きで」
「……」
「相手にも選んでもらって」
「うん」
「それで初めて、一緒にいられるんだね」
湊が少しだけ笑う。
「陽菜乃」
「なに?」
「急に大人みたいなこと言うじゃん」
「えっ」
「成長した?」
「もう!」
陽菜乃が頬をふくらませる。
「いい話してたのに!」
「ごめん、ごめん」
「台無し!」
湊が笑う。
陽菜乃も。
少しして笑った。
こういうところは。
やっぱり。
昔と変わらない。
「そういえば」
湊が言った。
「水野」
「うん?」
「今日、女子と帰ってた」
「えっ!」
陽菜乃は思わず身を乗り出す。
「ほんと?」
「たぶん」
「どんな子?」
「知らない」
「かわいかった?」
「知らないって」
「髪長かった?」
「見てない」
「湊、全然役に立たない」
「なんで俺が水野の恋愛情報集めないといけないんだよ」
「気になるじゃん」
「……」
湊がじっと陽菜乃を見る。
「何?」
「それ俺が嫉妬するやつ?」
「え?」
「水野のことそんな気にして」
「違うよ!」
陽菜乃は慌てる。
「応援してるの!」
「ほんと?」
「ほんと!」
「じゃあいいけど」
「まだ柊真くんに嫉妬するの?」
「する」
即答。
「ええ……」
「だって一回取られかけたし」
「取られてないよ」
「陽菜乃、結構あいつに傾いてたじゃん」
「……」
「ほら」
「でも最後は湊を選んだでしょ」
言った瞬間。
湊が黙った。
「……何?」
「今の」
「え?」
「もう一回」
「嫌」
「なんで」
「恥ずかしいから!」
「俺を選んだって」
「言わない!」
「陽菜乃」
「絶対言わない!」
笑いながら。
陽菜乃はベンチから立ち上がった。
「帰る!」
「逃げた」
「逃げてない!」
湊も立ち上がる。
◇
公園を出る。
桜並木の道。
春の風が吹いた。
「わっ」
陽菜乃の髪がふわっと揺れる。
その時。
湊が手を伸ばした。
「動くな」
「え?」
髪に触れる。
指先に。
一枚の桜の花びら。
「ついてた」
「……」
胸が。
どきん。
同じ。
あの日と。
二年生になったばかりの春。
湊が。
陽菜乃の髪についた桜の花びらを取ってくれた。
あの時。
陽菜乃は改めて思った。
やっぱり湊が好きだと。
そして。
その少しあと。
サッカー部のグラウンドで。
湊の隣に美羽がいた。
そこから。
全部が始まった。
「陽菜乃?」
「……懐かしいなって」
「何が?」
「秘密」
「何それ」
陽菜乃は笑った。
同じ春。
同じ道。
同じ人。
でも。
今は違う。
「湊」
「ん?」
陽菜乃は少しだけ立ち止まった。
「手」
「え?」
「つなぎたい」
自分から。
言う。
湊は少し驚いたあと。
すぐに笑った。
「いいよ」
手を差し出す。
陽菜乃は。
その手を取った。
指と指が重なる。
あたたかい。
「ねえ、湊」
「何?」
「私ね」
「うん」
「前はずっと思ってた」
桜並木を歩きながら。
陽菜乃は言う。
「湊の隣は、私の場所だって」
「……」
「幼馴染だから」
「うん」
「ずっと一緒だったから」
「うん」
「でも違った」
陽菜乃は。
つないだ手を少しだけ強く握る。
「隣にいることって、当たり前じゃないんだね」
湊も。
握り返してくれる。
「うん」
「だから」
陽菜乃は湊を見る。
まっすぐ。
今度は。
恥ずかしくても目をそらさない。
「これからは、私がちゃんと選ぶ」
「何を?」
湊が聞く。
陽菜乃は笑った。
「湊の隣にいたい」
湊の目が少しだけ大きくなる。
それから。
とても優しく笑った。
「俺も」
「……うん」
「陽菜乃に、隣にいてほしい」
春の風が。
二人の間を吹き抜ける。
桜の花びらが。
ひらひらと舞う。
少し前まで。
知らない女の子がいると思っていた場所。
もう。
そこを誰かと比べる必要はない。
湊が選んだ。
陽菜乃も選んだ。
だから今。
二人は並んで歩いている。
「陽菜乃」
「なに?」
「三年になっても」
「うん」
「その先も」
湊が少しだけ照れたように笑う。
「いっぱい話そうな」
「うん」
「勝手に決めつけない」
「うん」
「逃げない」
「……うん」
「噂信じる前に聞く」
「それはもう分かったよ!」
「一番大事」
「湊だってちゃんと言ってよ?」
「言う」
「本当に?」
「言うって」
「じゃあ」
陽菜乃が少しだけ笑う。
「今は?」
「何が?」
「……好きとか」
自分から言っておいて。
すぐに恥ずかしくなる。
「やっぱり何でもない!」
「遅い」
「えっ」
湊が笑う。
「好き」
「……!」
「すごく好き」
「一回でいい!」
「陽菜乃は?」
「言わない」
「ずるい」
「さっき湊の隣にいたいって言ったもん」
「好きとは違う」
「同じ!」
「違う」
「もう!」
陽菜乃は笑いながら。
それでも。
小さな声で。
「……私も好き」
と伝えた。
「聞こえない」
「聞こえてたでしょ!」
「もう一回」
「絶対嫌!」
二人の声が。
春の住宅街に響く。
明日も。
来年も。
この先も。
きっと。
喧嘩することもある。
また不安になることだってあるかもしれない。
でも今度は。
ちゃんと聞く。
ちゃんと話す。
そして。
何度でも。
自分の気持ちで相手を選ぶ。
陽菜乃は、つないだ手を離さなかった。
幼馴染だった君の隣は、もう当たり前の場所じゃない。
私が好きになって。
私自身が選んだ。
――大好きな人の隣だった。
――完――
長かった冬がようやく終わり、街のあちこちに淡い桜色が戻ってきていた。
まだ朝の空気には少し冷たさが残っている。
けれど、陽菜乃が玄関を開けると、やわらかな春の風が頬をなでた。
「……あ」
門の向こう。
隣の家の前に、湊が立っている。
制服姿で、片手には鞄。
もう片方の手でスマホを見ていた湊は、陽菜乃に気づくと顔を上げた。
「おはよ」
「おはよう」
「今日は早いじゃん」
「今日はって何?」
「いつも五分くらい待つから」
「最近はちゃんと間に合ってるもん」
「昨日は?」
「……三分だけ」
「ほら」
「三分は遅刻に入らないよ」
「待ってる側には入る」
「もう」
陽菜乃は頬をふくらませながら、湊の隣へ並んだ。
こんな朝が。
また戻ってきた。
でも。
前とは少しだけ違う。
以前の湊なら、陽菜乃が家から出てくるのが遅ければ、当たり前のように待っていた。
陽菜乃も、湊が待っていてくれることを当たり前だと思っていた。
今は違う。
前日の夜には、
『明日、一緒に行く?』
とどちらかが聞く。
用事があれば、
『今日は先に行くね』
と伝える。
小さなこと。
でも。
その小さなことを、二人は大事にするようになった。
「行こっか」
「うん」
二人で歩き始める。
春休み前の登校日。
あと少しで二年生も終わる。
四月になれば。
陽菜乃たちは高校三年生だ。
「三年生かあ……」
陽菜乃がぽつりと言う。
「早いな」
「受験とか考えないとだよ?」
「陽菜乃、行きたい大学決まった?」
「まだ迷ってる」
「ダンス続けたいって言ってなかった?」
「うん。でも、それだけで決めるのも違うかなって」
「じゃあ一緒に探せば?」
「一緒に?」
「大学」
湊が前を向いたまま言う。
「別に同じところ行こうって意味じゃなくて」
「……うん」
「陽菜乃が行きたいところ、一緒に調べるくらいならできるし」
陽菜乃は湊の横顔を見る。
「ありがとう」
「ん」
昔なら。
湊が行く大学を聞いて、
(できれば近いところがいいな)
と思っていたかもしれない。
でも今は。
自分が何をしたいのか。
ちゃんと考えてみたい。
そして湊も、それを応援してくれる。
それが。
なんだかとても嬉しかった。
「陽菜乃ー!」
教室へ入ると、美緒が大きく手を振った。
「おはよう」
「おはよ! ねえ聞いた?」
「何を?」
「クラス替え!」
「まだ発表されてないよね?」
「そうなんだけど、三年は文理でかなり分かれるらしいよ」
「えっ」
陽菜乃は思わず柊真の席を見る。
ちょうどその時。
「何」
柊真が鞄を机へ置きながら、こちらを見た。
「柊真くん、文系だっけ?」
「そうだけど」
「私も文系」
「じゃあまた同じになるかもな」
「ほんと?」
「確率はあるだろ」
「そっか」
陽菜乃は少し嬉しくなる。
あの日。
柊真に気持ちを伝えてから。
しばらくは。
少しだけ距離があった。
話せば普通に返してくれる。
でも。
以前のように二人きりで長く話すことは減った。
陽菜乃も、それが必要な時間なのだと思っていた。
無理に元へ戻そうとはしなかった。
そして。
少しずつ。
本当に少しずつ。
二人はまた普通に話せるようになった。
「水野くん」
後ろから女子の声がした。
「これ、昨日のプリント。先生が渡してって」
「ああ、ありがと」
柊真が受け取る。
「それと……」
女子が少しだけ頬を赤くする。
「今日、帰り時間ある?」
「え?」
「ちょっと聞きたいことあって」
陽菜乃は思わず、その女子を見る。
別クラスの女の子。
確か、図書委員で柊真と一緒だった子だ。
「……」
柊真は少し考えて。
「部活ないからいいけど」
「ほんと?」
「うん」
女の子は嬉しそうに笑って去っていった。
「おおー」
莉子がすぐに反応する。
「何」
「水野くん、春が来た?」
「意味分かんねえ」
「絶対あの子、水野くんのこと好きだよ」
「知らねえよ」
「どうするの?」
「何が」
「告白されたら!」
「されてから考える」
「冷静!」
みんなが笑う。
陽菜乃も。
少し遅れて笑った。
胸が痛くない。
ほんの少し。
よかったな、と思った。
(柊真くんにも)
いつか。
柊真くんを一番に選ぶ女の子が現れたらいい。
そして。
柊真も。
その子を一番に好きになれたらいい。
心から。
そう思えた。
「陽菜乃」
「え?」
柊真がこちらを見る。
「何にやにやしてんの」
「してないよ」
「してる」
「してない!」
「怪しい」
「もう」
そんなやり取りも。
今では。
大切な友達との、いつもの会話になった。
昼休み。
陽菜乃が美緒たちと購買へ向かう途中。
「あ」
廊下の向こうから美羽が歩いてきた。
サッカー部のジャージ姿。
手にはたくさんのファイル。
「美羽ちゃん」
「小宮山さん」
美羽が足を止める。
「それ、重そう」
「部の書類。新入生用」
「もうそんな時期なんだ」
「四月になったら一年生来るからね」
「そっか」
以前なら。
美羽とこうして普通に話す未来なんて、想像もできなかった。
今でも。
ものすごく仲がいいわけではない。
一緒に遊ぶこともない。
でも。
会えば挨拶をする。
たまに話す。
それで十分だった。
「成瀬くんとは?」
美羽が少し笑う。
「うまくいってる?」
「……うん」
「顔見れば分かるけど」
「えっ」
「小宮山さん、分かりやすいから」
「美緒ちゃんにも言われる……」
「だろうね」
美羽が笑う。
その笑顔は。
以前より、ずっと自然に見えた。
「湊くん」
美羽は少しだけ声を落とす。
「最近ちゃんとしてるよ」
「え?」
「女子から個人的な差し入れ渡されても、必要ないものは断ってる」
「……」
「部活の連絡も、前よりきっちり」
陽菜乃の胸が温かくなる。
陽菜乃に見せるためではない。
見ていないところでも。
湊は変わろうとしている。
「よかったね」
美羽が言う。
「うん」
陽菜乃は。
今度は迷わず笑った。
「ありがとう」
「私は何もしてないけど」
「教えてくれたから」
「……そっか」
美羽は少しだけ笑って。
「じゃあ私、行くね」
「うん」
「また」
「またね」
美羽が歩いていく。
その背中を見ながら。
陽菜乃は思った。
あの頃。
美羽が怖かった。
湊を取られると思った。
でも。
本当は。
湊は誰かのものではなかった。
陽菜乃のものでも。
美羽のものでも。
人の気持ちは。
誰かが先に隣にいたからといって、約束されるものではない。
だから。
ちゃんと好きだと伝える。
ちゃんと相手の気持ちを聞く。
それが。
一番大切だったのだ。
放課後。
陽菜乃はダンス部の最後のミーティングを終え、校舎を出た。
空はまだ明るい。
春が近づいたせいか。
少し前までなら真っ暗だった時間なのに、西の空には薄いオレンジ色が残っていた。
「陽菜乃」
校門近くから声。
「湊」
サッカー部の練習を終えた湊が立っていた。
「今日、一緒に帰れる?」
「うん」
「よかった」
二人で並んで歩く。
校門を出たところで。
陽菜乃が湊を見る。
「ねえ」
「何?」
「今日、美羽ちゃんに会った」
湊の表情が少しだけ慎重になる。
「何か言われた?」
「ううん」
「ならよかった」
「湊、最近ちゃんとしてるって」
「何が」
「女子からのプレゼントとか」
「ああ」
湊は少し気まずそうに視線をそらす。
「普通だろ」
「前は普通じゃなかった」
「……それは」
「ふふ」
「笑うなよ」
「だって」
陽菜乃は笑う。
「嬉しかったから」
「……」
「私が見てないところでも、ちゃんとしてくれてるんだなって」
湊が足を少しだけ止める。
「当たり前だろ」
「うん」
「陽菜乃に見せるためにやってるわけじゃないし」
「うん」
「俺がもう同じことしたくないから」
まっすぐな言葉。
陽菜乃は。
胸があたたかくなる。
「ありがとう」
「でも」
「ん?」
「何でも断るわけじゃないからな」
「え?」
「部活の差し入れとか、全員に配ってるやつは普通にもらう」
「分かってるよ」
「そこまで全部断ったら逆に変だろ」
「うん」
「ちゃんと区別する」
陽菜乃は少し笑った。
「そこまで説明しなくても大丈夫」
「いや」
湊が言う。
「説明する」
「……」
「もう陽菜乃に『分かってくれるだろ』って思わないことにしたから」
陽菜乃は目を丸くした。
そして。
ゆっくり笑った。
「うん」
「陽菜乃も」
「なに?」
「嫌なことあったら言って」
「うん」
「勝手に距離置くの禁止」
「……努力します」
「約束って言え」
「約束します」
「よし」
「偉そう」
「彼氏だから」
「それ関係ないよ」
二人で笑う。
家へ向かう途中。
公園の前を通る。
あの日。
二人が幼馴染から恋人になった場所。
「寄ってく?」
湊が聞く。
「少しだけ」
二人で公園へ入る。
春休み前の夕方。
小学生たちが何人か遊んでいる。
ブランコ。
滑り台。
昔の自分たちみたいだ。
「あそこ」
陽菜乃が指をさす。
「小二の時、転んだところ」
「落ちたところ」
「転んだの!」
「まだ言う?」
「湊が間違ってるから」
「はいはい」
ベンチに並んで座る。
目の前。
大きな桜の木。
まだ満開ではない。
でも。
枝の先には。
小さな花がいくつも咲き始めていた。
「もうすぐ一年だね」
陽菜乃が言う。
「何が?」
「二年生になってから」
「ああ」
「あの頃」
陽菜乃は桜を見上げる。
「私ね」
「うん」
「湊の隣にいるの、ずっと当たり前だと思ってた」
「……俺も」
「幼馴染だし」
毎朝一緒。
何かあれば頼る。
困れば湊が助けてくれる。
それが。
ずっと続くと思っていた。
「だから」
陽菜乃は少し笑う。
「美羽ちゃんが湊の隣にいるの見て」
「うん」
「すごく怖かった」
「……ごめん」
「もう謝らなくていいよ」
陽菜乃は首を横に振る。
「今はね」
湊を見る。
「分かったから」
「何が?」
「隣って」
少し考える。
「ずっと同じ人のために空いてる場所じゃないんだね」
湊は何も言わず聞いている。
「幼馴染だから」
「うん」
「昔から好きだったから」
「うん」
「それだけで、ずっと隣にいられるわけじゃない」
離れた。
すれ違った。
ほかの誰かに心が動いた。
その全部があったから。
今。
分かる。
「ちゃんと」
陽菜乃は続ける。
「相手を好きで」
「……」
「相手にも選んでもらって」
「うん」
「それで初めて、一緒にいられるんだね」
湊が少しだけ笑う。
「陽菜乃」
「なに?」
「急に大人みたいなこと言うじゃん」
「えっ」
「成長した?」
「もう!」
陽菜乃が頬をふくらませる。
「いい話してたのに!」
「ごめん、ごめん」
「台無し!」
湊が笑う。
陽菜乃も。
少しして笑った。
こういうところは。
やっぱり。
昔と変わらない。
「そういえば」
湊が言った。
「水野」
「うん?」
「今日、女子と帰ってた」
「えっ!」
陽菜乃は思わず身を乗り出す。
「ほんと?」
「たぶん」
「どんな子?」
「知らない」
「かわいかった?」
「知らないって」
「髪長かった?」
「見てない」
「湊、全然役に立たない」
「なんで俺が水野の恋愛情報集めないといけないんだよ」
「気になるじゃん」
「……」
湊がじっと陽菜乃を見る。
「何?」
「それ俺が嫉妬するやつ?」
「え?」
「水野のことそんな気にして」
「違うよ!」
陽菜乃は慌てる。
「応援してるの!」
「ほんと?」
「ほんと!」
「じゃあいいけど」
「まだ柊真くんに嫉妬するの?」
「する」
即答。
「ええ……」
「だって一回取られかけたし」
「取られてないよ」
「陽菜乃、結構あいつに傾いてたじゃん」
「……」
「ほら」
「でも最後は湊を選んだでしょ」
言った瞬間。
湊が黙った。
「……何?」
「今の」
「え?」
「もう一回」
「嫌」
「なんで」
「恥ずかしいから!」
「俺を選んだって」
「言わない!」
「陽菜乃」
「絶対言わない!」
笑いながら。
陽菜乃はベンチから立ち上がった。
「帰る!」
「逃げた」
「逃げてない!」
湊も立ち上がる。
◇
公園を出る。
桜並木の道。
春の風が吹いた。
「わっ」
陽菜乃の髪がふわっと揺れる。
その時。
湊が手を伸ばした。
「動くな」
「え?」
髪に触れる。
指先に。
一枚の桜の花びら。
「ついてた」
「……」
胸が。
どきん。
同じ。
あの日と。
二年生になったばかりの春。
湊が。
陽菜乃の髪についた桜の花びらを取ってくれた。
あの時。
陽菜乃は改めて思った。
やっぱり湊が好きだと。
そして。
その少しあと。
サッカー部のグラウンドで。
湊の隣に美羽がいた。
そこから。
全部が始まった。
「陽菜乃?」
「……懐かしいなって」
「何が?」
「秘密」
「何それ」
陽菜乃は笑った。
同じ春。
同じ道。
同じ人。
でも。
今は違う。
「湊」
「ん?」
陽菜乃は少しだけ立ち止まった。
「手」
「え?」
「つなぎたい」
自分から。
言う。
湊は少し驚いたあと。
すぐに笑った。
「いいよ」
手を差し出す。
陽菜乃は。
その手を取った。
指と指が重なる。
あたたかい。
「ねえ、湊」
「何?」
「私ね」
「うん」
「前はずっと思ってた」
桜並木を歩きながら。
陽菜乃は言う。
「湊の隣は、私の場所だって」
「……」
「幼馴染だから」
「うん」
「ずっと一緒だったから」
「うん」
「でも違った」
陽菜乃は。
つないだ手を少しだけ強く握る。
「隣にいることって、当たり前じゃないんだね」
湊も。
握り返してくれる。
「うん」
「だから」
陽菜乃は湊を見る。
まっすぐ。
今度は。
恥ずかしくても目をそらさない。
「これからは、私がちゃんと選ぶ」
「何を?」
湊が聞く。
陽菜乃は笑った。
「湊の隣にいたい」
湊の目が少しだけ大きくなる。
それから。
とても優しく笑った。
「俺も」
「……うん」
「陽菜乃に、隣にいてほしい」
春の風が。
二人の間を吹き抜ける。
桜の花びらが。
ひらひらと舞う。
少し前まで。
知らない女の子がいると思っていた場所。
もう。
そこを誰かと比べる必要はない。
湊が選んだ。
陽菜乃も選んだ。
だから今。
二人は並んで歩いている。
「陽菜乃」
「なに?」
「三年になっても」
「うん」
「その先も」
湊が少しだけ照れたように笑う。
「いっぱい話そうな」
「うん」
「勝手に決めつけない」
「うん」
「逃げない」
「……うん」
「噂信じる前に聞く」
「それはもう分かったよ!」
「一番大事」
「湊だってちゃんと言ってよ?」
「言う」
「本当に?」
「言うって」
「じゃあ」
陽菜乃が少しだけ笑う。
「今は?」
「何が?」
「……好きとか」
自分から言っておいて。
すぐに恥ずかしくなる。
「やっぱり何でもない!」
「遅い」
「えっ」
湊が笑う。
「好き」
「……!」
「すごく好き」
「一回でいい!」
「陽菜乃は?」
「言わない」
「ずるい」
「さっき湊の隣にいたいって言ったもん」
「好きとは違う」
「同じ!」
「違う」
「もう!」
陽菜乃は笑いながら。
それでも。
小さな声で。
「……私も好き」
と伝えた。
「聞こえない」
「聞こえてたでしょ!」
「もう一回」
「絶対嫌!」
二人の声が。
春の住宅街に響く。
明日も。
来年も。
この先も。
きっと。
喧嘩することもある。
また不安になることだってあるかもしれない。
でも今度は。
ちゃんと聞く。
ちゃんと話す。
そして。
何度でも。
自分の気持ちで相手を選ぶ。
陽菜乃は、つないだ手を離さなかった。
幼馴染だった君の隣は、もう当たり前の場所じゃない。
私が好きになって。
私自身が選んだ。
――大好きな人の隣だった。
――完――

