ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 三月の終わり。

 長かった冬がようやく終わり、街のあちこちに淡い桜色が戻ってきていた。

 まだ朝の空気には少し冷たさが残っている。

 けれど、陽菜乃が玄関を開けると、やわらかな春の風が頬をなでた。

「……あ」

 門の向こう。

 隣の家の前に、湊が立っている。

 制服姿で、片手には鞄。

 もう片方の手でスマホを見ていた湊は、陽菜乃に気づくと顔を上げた。

「おはよ」

「おはよう」

「今日は早いじゃん」

「今日はって何?」

「いつも五分くらい待つから」

「最近はちゃんと間に合ってるもん」

「昨日は?」

「……三分だけ」

「ほら」

「三分は遅刻に入らないよ」

「待ってる側には入る」

「もう」

 陽菜乃は頬をふくらませながら、湊の隣へ並んだ。

 こんな朝が。

 また戻ってきた。

 でも。

 前とは少しだけ違う。

 以前の湊なら、陽菜乃が家から出てくるのが遅ければ、当たり前のように待っていた。

 陽菜乃も、湊が待っていてくれることを当たり前だと思っていた。

 今は違う。

 前日の夜には、

『明日、一緒に行く?』

 とどちらかが聞く。

 用事があれば、

『今日は先に行くね』

 と伝える。

 小さなこと。

 でも。

 その小さなことを、二人は大事にするようになった。

「行こっか」

「うん」

 二人で歩き始める。

 春休み前の登校日。

 あと少しで二年生も終わる。

 四月になれば。

 陽菜乃たちは高校三年生だ。

「三年生かあ……」

 陽菜乃がぽつりと言う。

「早いな」

「受験とか考えないとだよ?」

「陽菜乃、行きたい大学決まった?」

「まだ迷ってる」

「ダンス続けたいって言ってなかった?」

「うん。でも、それだけで決めるのも違うかなって」

「じゃあ一緒に探せば?」

「一緒に?」

「大学」

 湊が前を向いたまま言う。

「別に同じところ行こうって意味じゃなくて」

「……うん」

「陽菜乃が行きたいところ、一緒に調べるくらいならできるし」

 陽菜乃は湊の横顔を見る。

「ありがとう」

「ん」

 昔なら。

 湊が行く大学を聞いて、

(できれば近いところがいいな)

 と思っていたかもしれない。

 でも今は。

 自分が何をしたいのか。

 ちゃんと考えてみたい。

 そして湊も、それを応援してくれる。

 それが。

 なんだかとても嬉しかった。

「陽菜乃ー!」

 教室へ入ると、美緒が大きく手を振った。

「おはよう」

「おはよ! ねえ聞いた?」

「何を?」

「クラス替え!」

「まだ発表されてないよね?」

「そうなんだけど、三年は文理でかなり分かれるらしいよ」

「えっ」

 陽菜乃は思わず柊真の席を見る。

 ちょうどその時。

「何」

 柊真が鞄を机へ置きながら、こちらを見た。

「柊真くん、文系だっけ?」

「そうだけど」

「私も文系」

「じゃあまた同じになるかもな」

「ほんと?」

「確率はあるだろ」

「そっか」

 陽菜乃は少し嬉しくなる。

 あの日。

 柊真に気持ちを伝えてから。

 しばらくは。

 少しだけ距離があった。

 話せば普通に返してくれる。

 でも。

 以前のように二人きりで長く話すことは減った。

 陽菜乃も、それが必要な時間なのだと思っていた。

 無理に元へ戻そうとはしなかった。

 そして。

 少しずつ。

 本当に少しずつ。

 二人はまた普通に話せるようになった。

「水野くん」

 後ろから女子の声がした。

「これ、昨日のプリント。先生が渡してって」

「ああ、ありがと」

 柊真が受け取る。

「それと……」

 女子が少しだけ頬を赤くする。

「今日、帰り時間ある?」

「え?」

「ちょっと聞きたいことあって」

 陽菜乃は思わず、その女子を見る。

 別クラスの女の子。

 確か、図書委員で柊真と一緒だった子だ。

「……」

 柊真は少し考えて。

「部活ないからいいけど」

「ほんと?」

「うん」

 女の子は嬉しそうに笑って去っていった。

「おおー」

 莉子がすぐに反応する。

「何」

「水野くん、春が来た?」

「意味分かんねえ」

「絶対あの子、水野くんのこと好きだよ」

「知らねえよ」

「どうするの?」

「何が」

「告白されたら!」

「されてから考える」

「冷静!」

 みんなが笑う。

 陽菜乃も。

 少し遅れて笑った。

 胸が痛くない。

 ほんの少し。

 よかったな、と思った。

(柊真くんにも)

 いつか。

 柊真くんを一番に選ぶ女の子が現れたらいい。

 そして。

 柊真も。

 その子を一番に好きになれたらいい。

 心から。

 そう思えた。

「陽菜乃」

「え?」

 柊真がこちらを見る。

「何にやにやしてんの」

「してないよ」

「してる」

「してない!」

「怪しい」

「もう」

 そんなやり取りも。

 今では。

 大切な友達との、いつもの会話になった。


 昼休み。

 陽菜乃が美緒たちと購買へ向かう途中。

「あ」

 廊下の向こうから美羽が歩いてきた。

 サッカー部のジャージ姿。

 手にはたくさんのファイル。

「美羽ちゃん」

「小宮山さん」

 美羽が足を止める。

「それ、重そう」

「部の書類。新入生用」

「もうそんな時期なんだ」

「四月になったら一年生来るからね」

「そっか」

 以前なら。

 美羽とこうして普通に話す未来なんて、想像もできなかった。

 今でも。

 ものすごく仲がいいわけではない。

 一緒に遊ぶこともない。

 でも。

 会えば挨拶をする。

 たまに話す。

 それで十分だった。

「成瀬くんとは?」

 美羽が少し笑う。

「うまくいってる?」

「……うん」

「顔見れば分かるけど」

「えっ」

「小宮山さん、分かりやすいから」

「美緒ちゃんにも言われる……」

「だろうね」

 美羽が笑う。

 その笑顔は。

 以前より、ずっと自然に見えた。

「湊くん」

 美羽は少しだけ声を落とす。

「最近ちゃんとしてるよ」

「え?」

「女子から個人的な差し入れ渡されても、必要ないものは断ってる」

「……」

「部活の連絡も、前よりきっちり」

 陽菜乃の胸が温かくなる。

 陽菜乃に見せるためではない。

 見ていないところでも。

 湊は変わろうとしている。

「よかったね」

 美羽が言う。

「うん」

 陽菜乃は。

 今度は迷わず笑った。

「ありがとう」

「私は何もしてないけど」

「教えてくれたから」

「……そっか」

 美羽は少しだけ笑って。

「じゃあ私、行くね」

「うん」

「また」

「またね」

 美羽が歩いていく。

 その背中を見ながら。

 陽菜乃は思った。

 あの頃。

 美羽が怖かった。

 湊を取られると思った。

 でも。

 本当は。

 湊は誰かのものではなかった。

 陽菜乃のものでも。

 美羽のものでも。

 人の気持ちは。

 誰かが先に隣にいたからといって、約束されるものではない。

 だから。

 ちゃんと好きだと伝える。

 ちゃんと相手の気持ちを聞く。

 それが。

 一番大切だったのだ。


 放課後。

 陽菜乃はダンス部の最後のミーティングを終え、校舎を出た。

 空はまだ明るい。

 春が近づいたせいか。

 少し前までなら真っ暗だった時間なのに、西の空には薄いオレンジ色が残っていた。

「陽菜乃」

 校門近くから声。

「湊」

 サッカー部の練習を終えた湊が立っていた。

「今日、一緒に帰れる?」

「うん」

「よかった」

 二人で並んで歩く。

 校門を出たところで。

 陽菜乃が湊を見る。

「ねえ」

「何?」

「今日、美羽ちゃんに会った」

 湊の表情が少しだけ慎重になる。

「何か言われた?」

「ううん」

「ならよかった」

「湊、最近ちゃんとしてるって」

「何が」

「女子からのプレゼントとか」

「ああ」

 湊は少し気まずそうに視線をそらす。

「普通だろ」

「前は普通じゃなかった」

「……それは」

「ふふ」

「笑うなよ」

「だって」

 陽菜乃は笑う。

「嬉しかったから」

「……」

「私が見てないところでも、ちゃんとしてくれてるんだなって」

 湊が足を少しだけ止める。

「当たり前だろ」

「うん」

「陽菜乃に見せるためにやってるわけじゃないし」

「うん」

「俺がもう同じことしたくないから」

 まっすぐな言葉。

 陽菜乃は。

 胸があたたかくなる。

「ありがとう」

「でも」

「ん?」

「何でも断るわけじゃないからな」

「え?」

「部活の差し入れとか、全員に配ってるやつは普通にもらう」

「分かってるよ」

「そこまで全部断ったら逆に変だろ」

「うん」

「ちゃんと区別する」

 陽菜乃は少し笑った。

「そこまで説明しなくても大丈夫」

「いや」

 湊が言う。

「説明する」

「……」

「もう陽菜乃に『分かってくれるだろ』って思わないことにしたから」

 陽菜乃は目を丸くした。

 そして。

 ゆっくり笑った。

「うん」

「陽菜乃も」

「なに?」

「嫌なことあったら言って」

「うん」

「勝手に距離置くの禁止」

「……努力します」

「約束って言え」

「約束します」

「よし」

「偉そう」

「彼氏だから」

「それ関係ないよ」

 二人で笑う。

 家へ向かう途中。

 公園の前を通る。

 あの日。

 二人が幼馴染から恋人になった場所。

「寄ってく?」

 湊が聞く。

「少しだけ」

 二人で公園へ入る。

 春休み前の夕方。

 小学生たちが何人か遊んでいる。

 ブランコ。

 滑り台。

 昔の自分たちみたいだ。

「あそこ」

 陽菜乃が指をさす。

「小二の時、転んだところ」

「落ちたところ」

「転んだの!」

「まだ言う?」

「湊が間違ってるから」

「はいはい」

 ベンチに並んで座る。

 目の前。

 大きな桜の木。

 まだ満開ではない。

 でも。

 枝の先には。

 小さな花がいくつも咲き始めていた。

「もうすぐ一年だね」

 陽菜乃が言う。

「何が?」

「二年生になってから」

「ああ」

「あの頃」

 陽菜乃は桜を見上げる。

「私ね」

「うん」

「湊の隣にいるの、ずっと当たり前だと思ってた」

「……俺も」

「幼馴染だし」

 毎朝一緒。

 何かあれば頼る。

 困れば湊が助けてくれる。

 それが。

 ずっと続くと思っていた。

「だから」

 陽菜乃は少し笑う。

「美羽ちゃんが湊の隣にいるの見て」

「うん」

「すごく怖かった」

「……ごめん」

「もう謝らなくていいよ」

 陽菜乃は首を横に振る。

「今はね」

 湊を見る。

「分かったから」

「何が?」

「隣って」

 少し考える。

「ずっと同じ人のために空いてる場所じゃないんだね」

 湊は何も言わず聞いている。

「幼馴染だから」

「うん」

「昔から好きだったから」

「うん」

「それだけで、ずっと隣にいられるわけじゃない」

 離れた。

 すれ違った。

 ほかの誰かに心が動いた。

 その全部があったから。

 今。

 分かる。

「ちゃんと」

 陽菜乃は続ける。

「相手を好きで」

「……」

「相手にも選んでもらって」

「うん」

「それで初めて、一緒にいられるんだね」

 湊が少しだけ笑う。

「陽菜乃」

「なに?」

「急に大人みたいなこと言うじゃん」

「えっ」

「成長した?」

「もう!」

 陽菜乃が頬をふくらませる。

「いい話してたのに!」

「ごめん、ごめん」

「台無し!」

 湊が笑う。

 陽菜乃も。

 少しして笑った。

 こういうところは。

 やっぱり。

 昔と変わらない。


「そういえば」

 湊が言った。

「水野」

「うん?」

「今日、女子と帰ってた」

「えっ!」

 陽菜乃は思わず身を乗り出す。

「ほんと?」

「たぶん」

「どんな子?」

「知らない」

「かわいかった?」

「知らないって」

「髪長かった?」

「見てない」

「湊、全然役に立たない」

「なんで俺が水野の恋愛情報集めないといけないんだよ」

「気になるじゃん」

「……」

 湊がじっと陽菜乃を見る。

「何?」

「それ俺が嫉妬するやつ?」

「え?」

「水野のことそんな気にして」

「違うよ!」

 陽菜乃は慌てる。

「応援してるの!」

「ほんと?」

「ほんと!」

「じゃあいいけど」

「まだ柊真くんに嫉妬するの?」

「する」

 即答。

「ええ……」

「だって一回取られかけたし」

「取られてないよ」

「陽菜乃、結構あいつに傾いてたじゃん」

「……」

「ほら」

「でも最後は湊を選んだでしょ」

 言った瞬間。

 湊が黙った。

「……何?」

「今の」

「え?」

「もう一回」

「嫌」

「なんで」

「恥ずかしいから!」

「俺を選んだって」

「言わない!」

「陽菜乃」

「絶対言わない!」

 笑いながら。

 陽菜乃はベンチから立ち上がった。

「帰る!」

「逃げた」

「逃げてない!」

 湊も立ち上がる。

     ◇

 公園を出る。

 桜並木の道。

 春の風が吹いた。

「わっ」

 陽菜乃の髪がふわっと揺れる。

 その時。

 湊が手を伸ばした。

「動くな」

「え?」

 髪に触れる。

 指先に。

 一枚の桜の花びら。

「ついてた」

「……」

 胸が。

 どきん。

 同じ。

 あの日と。

 二年生になったばかりの春。

 湊が。

 陽菜乃の髪についた桜の花びらを取ってくれた。

 あの時。

 陽菜乃は改めて思った。

 やっぱり湊が好きだと。

 そして。

 その少しあと。

 サッカー部のグラウンドで。

 湊の隣に美羽がいた。

 そこから。

 全部が始まった。

「陽菜乃?」

「……懐かしいなって」

「何が?」

「秘密」

「何それ」

 陽菜乃は笑った。

 同じ春。

 同じ道。

 同じ人。

 でも。

 今は違う。

「湊」

「ん?」

 陽菜乃は少しだけ立ち止まった。

「手」

「え?」

「つなぎたい」

 自分から。

 言う。

 湊は少し驚いたあと。

 すぐに笑った。

「いいよ」

 手を差し出す。

 陽菜乃は。

 その手を取った。

 指と指が重なる。

 あたたかい。

「ねえ、湊」

「何?」

「私ね」

「うん」

「前はずっと思ってた」

 桜並木を歩きながら。

 陽菜乃は言う。

「湊の隣は、私の場所だって」

「……」

「幼馴染だから」

「うん」

「ずっと一緒だったから」

「うん」

「でも違った」

 陽菜乃は。

 つないだ手を少しだけ強く握る。

「隣にいることって、当たり前じゃないんだね」

 湊も。

 握り返してくれる。

「うん」

「だから」

 陽菜乃は湊を見る。

 まっすぐ。

 今度は。

 恥ずかしくても目をそらさない。

「これからは、私がちゃんと選ぶ」

「何を?」

 湊が聞く。

 陽菜乃は笑った。

「湊の隣にいたい」

 湊の目が少しだけ大きくなる。

 それから。

 とても優しく笑った。

「俺も」

「……うん」

「陽菜乃に、隣にいてほしい」

 春の風が。

 二人の間を吹き抜ける。

 桜の花びらが。

 ひらひらと舞う。

 少し前まで。

 知らない女の子がいると思っていた場所。

 もう。

 そこを誰かと比べる必要はない。

 湊が選んだ。

 陽菜乃も選んだ。

 だから今。

 二人は並んで歩いている。

「陽菜乃」

「なに?」

「三年になっても」

「うん」

「その先も」

 湊が少しだけ照れたように笑う。

「いっぱい話そうな」

「うん」

「勝手に決めつけない」

「うん」

「逃げない」

「……うん」

「噂信じる前に聞く」

「それはもう分かったよ!」

「一番大事」

「湊だってちゃんと言ってよ?」

「言う」

「本当に?」

「言うって」

「じゃあ」

 陽菜乃が少しだけ笑う。

「今は?」

「何が?」

「……好きとか」

 自分から言っておいて。

 すぐに恥ずかしくなる。

「やっぱり何でもない!」

「遅い」

「えっ」

 湊が笑う。

「好き」

「……!」

「すごく好き」

「一回でいい!」

「陽菜乃は?」

「言わない」

「ずるい」

「さっき湊の隣にいたいって言ったもん」

「好きとは違う」

「同じ!」

「違う」

「もう!」

 陽菜乃は笑いながら。

 それでも。

 小さな声で。

「……私も好き」

 と伝えた。

「聞こえない」

「聞こえてたでしょ!」

「もう一回」

「絶対嫌!」

 二人の声が。

 春の住宅街に響く。

 明日も。

 来年も。

 この先も。

 きっと。

 喧嘩することもある。

 また不安になることだってあるかもしれない。

 でも今度は。

 ちゃんと聞く。

 ちゃんと話す。

 そして。

 何度でも。

 自分の気持ちで相手を選ぶ。

 陽菜乃は、つないだ手を離さなかった。

 幼馴染だった君の隣は、もう当たり前の場所じゃない。

 私が好きになって。

 私自身が選んだ。

 ――大好きな人の隣だった。

                ――完――