次の日の放課後。
最後のチャイムが鳴った瞬間から、陽菜乃の胸はずっと落ち着かなかった。
「起立。礼」
「ありがとうございました」
先生が教室を出ていく。
途端に、教室のあちこちから明るい声が上がった。
「部活行こー!」
「今日コンビニ寄らない?」
「宿題どこだっけ?」
椅子を引く音。
鞄を閉じる音。
冬の放課後らしい、いつものにぎやかさ。
けれど陽菜乃は、机の中から教科書を取り出しながらも、どこか上の空だった。
昨日。
柊真には、自分の気持ちを伝えた。
優しくしてくれたこと。
心が動いたこと。
柊真と一緒に過ごした時間が、本当に大切だったこと。
それでも。
最後に選びたい人は湊だということ。
ちゃんと、自分の言葉で伝えた。
そして昨夜。
湊にもメッセージを送った。
『ちゃんと返事したい』
湊からは、
『分かった。待ってる』
と返ってきた。
たったそれだけ。
なのに、その文字を見たあと、陽菜乃はなかなか眠れなかった。
(今日……言うんだ)
ずっと好きだった人に。
今度こそ。
自分から。
「陽菜乃」
「えっ?」
目の前に美緒の顔があった。
「わっ!」
「わ、じゃないよ。何回呼んだと思ってるの?」
「ご、ごめん」
「三回」
「そんなに?」
「そんなに」
美緒は少し笑ったあと、陽菜乃の顔をじっと見る。
「今日なんでしょ?」
「……うん」
「成瀬くんに返事するの」
陽菜乃は小さくうなずいた。
「緊張してる?」
「すごく」
「顔見れば分かる」
「そんなに?」
「うん。さっきから筆箱を三回鞄から出したり入れたりしてる」
「えっ」
陽菜乃は手元を見る。
確かに今、また筆箱を持っていた。
「……全然気づかなかった」
「陽菜乃らしい」
美緒が笑う。
その笑顔に、陽菜乃の肩から少しだけ力が抜けた。
「美緒ちゃん」
「なに?」
「私……ちゃんと言えるかな」
昨日は柊真に言えた。
でも。
湊となると、やっぱり怖い。
何年も好きだった。
近すぎて。
大切すぎて。
何度も言えなくなった相手。
美緒は少し考えてから言った。
「上手に言おうとしなくていいんじゃない?」
「え?」
「陽菜乃がずっと思ってたこと、そのまま言えばいいよ」
「……そのまま」
「うん」
美緒は笑った。
「今までずっと言えなかったんだから、今日くらい全部言っちゃえ」
陽菜乃も、少しだけ笑う。
「……うん」
今度こそ。
逃げない。
「陽菜乃」
教室の後ろから、柊真の声がした。
「柊真くん」
昨日の今日だから。
一瞬、胸がぎゅっとなる。
柊真も少しだけ気まずそうだった。
でも。
いつものように鞄を肩へかけながら、陽菜乃のところへ来た。
「今日、話すんだろ」
「……うん」
「成瀬と」
「うん」
柊真は陽菜乃を見た。
「緊張してんの?」
「すごく」
「まあ、そうだろうな」
「柊真くん」
「何」
「昨日……」
「その話はもういい」
陽菜乃が言い終わる前に、柊真が止めた。
「でも」
「ちゃんと聞いたから」
「……うん」
「陽菜乃が考えて出した答えなんだろ?」
「うん」
「じゃあ、それでいい」
胸があたたかくなる。
やっぱり優しい。
でも。
もうその優しさに、曖昧な気持ちで甘えない。
「ありがとう」
「またそれかよ」
「だって本当に思ってるから」
「……ならいいけど」
柊真は少しだけ笑った。
そして。
「行ってこい」
「え?」
「成瀬待たせんなよ」
陽菜乃は目を丸くしたあと。
今度はしっかり笑った。
「うん」
学校を出る頃には、空が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
冬の空は暗くなるのが早い。
校門を出る生徒たちの吐く息が、白く広がっている。
陽菜乃はマフラーを巻き直し、スマホを見る。
『公園で待ってる』
湊から。
陽菜乃と湊が、小学生の頃によく遊んでいた近所の公園。
学校から歩いて十五分ほど。
(どうして、あそこなんだろう)
でも。
少し嬉しかった。
二人にとって。
何度も一緒に過ごした場所だから。
陽菜乃はゆっくり歩き始めた。
途中。
赤信号で止まる。
胸がどきどきする。
(何から言おう)
好き。
まずそれ?
それとも。
待たせてごめん?
美羽のことで傷ついたことは、もう話した。
柊真への気持ちも。
湊には正直に伝えた。
今日は。
答えだけでいい。
そう思うのに。
考えれば考えるほど緊張する。
「……だめ」
陽菜乃は両手で頬を軽く押さえた。
「普通に話せばいいの」
青信号。
歩き出す。
公園へ着く。
夕方の公園には、もう小さな子どもたちの姿はなかった。
ブランコが冬の風に少しだけ揺れている。
砂場の近くには、小学生の頃から変わらない大きな木。
その木のそばに。
湊が立っていた。
「……湊」
呼ぶ。
湊が振り返る。
「陽菜乃」
黒いダウンジャケット。
首元には紺色のマフラー。
何度も見てきた姿なのに。
今日だけは。
少し違って見えた。
「待った?」
「十分くらい」
「ごめん」
「いいよ」
湊が少し笑う。
その笑顔に。
陽菜乃の胸がまた大きく鳴った。
二人は少し離れて向かい合った。
でも。
なかなか言葉が出てこない。
「……寒いな」
湊が言った。
「うん」
「手袋は?」
「あ……」
持ってきていない。
「忘れた」
「また?」
「朝は持ってたのに……」
「どこ置いてきたんだよ」
「たぶんロッカー」
湊が小さく笑った。
「相変わらずだな」
「もう」
陽菜乃も笑う。
緊張していた空気が。
少しだけやわらかくなる。
「ここ」
陽菜乃は公園を見回した。
「懐かしいね」
「うん」
「あの滑り台、まだある」
「陽菜乃、小二の時あそこから落ちたよな」
「落ちてないよ!」
「落ちた」
「転んだだけ」
「同じようなもんだろ」
「違うもん」
昔と同じ会話。
陽菜乃は思わず笑った。
「湊が背負って家まで送ってくれた」
「覚えてんじゃん」
「それは覚えてるよ」
「泣いてた」
「それは忘れて」
「嫌」
「もう!」
二人で笑う。
この感じ。
ずっと好きだった。
隣にいるだけで安心する。
何でもない話ができる。
でも。
それだけじゃない。
陽菜乃はもう分かっている。
湊は。
大切な幼馴染で。
それ以上に。
好きな男の子だ。
「……湊」
陽菜乃の声が少しだけ真面目になる。
湊も気づいた。
「うん」
「返事」
自分の指先をぎゅっと握る。
「ちゃんとするね」
湊の表情が緊張したものへ変わる。
「……うん」
陽菜乃は一度、ゆっくり息を吸った。
「私」
声が震えそうになる。
でも。
逃げない。
「ずっと湊が好きだった」
「……」
「中学生の頃から」
たぶん。
もっと前から。
恋だと気づいていなかっただけかもしれない。
「ずっと」
陽菜乃は続けた。
「いつか好きって言ってくれないかなって思ってた」
湊は黙って聞いている。
「女子に告白されるたびに嫌だった」
「……うん」
「でも」
美羽が現れて。
本当に。
湊が自分のものではないと気づいた。
「美羽ちゃんのことがあって」
陽菜乃の胸が少しだけ痛む。
「湊を諦めようと思った」
「……」
「その時」
柊真。
いつも助けてくれた。
そばにいてくれた。
「柊真くんに、いっぱい優しくしてもらった」
湊の目が少し揺れる。
でも。
口を挟まない。
「私、本当に心が動いたよ」
「……うん」
「クリスマスも楽しかった」
柊真と手をつないだ。
プレゼントをもらった。
学校に来なかった時は寂しかった。
「だから」
陽菜乃は湊をまっすぐ見る。
「簡単に『やっぱり湊』って戻りたくなかった」
「……」
「柊真くんへの気持ちまで、嘘にしたくなかったから」
湊は静かにうなずいた。
「うん」
「でも」
陽菜乃は胸元へ手を置いた。
「発表会の日」
たくさんの人。
大きな舞台。
踊り切ったあとのロビー。
「私、一番に探してたの」
「……」
「湊を」
湊の目が少し大きくなる。
「柊真くんが来てくれて嬉しかった」
「うん」
「褒めてもらえて、すごく嬉しかった」
「……うん」
「でも」
湊を見つけた瞬間。
どうしても。
心が違った。
「湊が見てくれてたって分かった時」
陽菜乃は少し笑った。
「一番嬉しかった」
「……陽菜乃」
「その時、やっと分かったの」
初恋だからじゃない。
昔から一緒だったからでもない。
「私」
陽菜乃の頬が熱くなる。
でも。
今度は隠さない。
「今も、湊が好き」
言えた。
湊は。
すぐには何も言わなかった。
「……湊?」
「ちょっと待って」
「え?」
「今」
湊が顔をそらした。
「普通にめちゃくちゃ嬉しい」
陽菜乃は目をぱちぱちさせた。
「……それ、柊真くんも言ってた」
「今、水野の名前出す?」
「ご、ごめん!」
「冗談」
湊が笑った。
その顔を見たら。
陽菜乃まで笑ってしまう。
「でも」
湊が改めてこちらを見る。
「本当に?」
「うん」
「俺でいい?」
「……その聞き方嫌」
「なんで?」
「『俺でいい』じゃなくて」
陽菜乃は少しだけ勇気を出した。
「湊がいい」
今度こそ。
湊が完全に固まった。
「……」
「湊?」
「陽菜乃」
「なに?」
「それ反則」
「どうして?」
「もう一回言って」
「嫌」
「なんで!」
「恥ずかしいもん」
「一回言ったじゃん」
「一回で十分」
陽菜乃が顔をそらす。
でも。
湊は笑っていた。
すごく。
嬉しそうに。
「俺も」
湊が言った。
「陽菜乃がいい」
胸が。
どくん。
「ずっと」
「……」
「でも」
湊の表情が少し真面目になる。
「一個だけ」
「なに?」
「俺」
湊は言葉を選ぶように続けた。
「これから、ちゃんと聞くから」
「聞く?」
「陽菜乃がどうしたいか」
「……」
「今まで」
勝手に迎えに来て。
勝手に荷物を持って。
勝手に守るつもりでいた。
それを陽菜乃も喜んでいると。
ずっと思っていた。
「幼馴染だからって」
湊は少し苦笑する。
「分かってるつもりになるのやめる」
陽菜乃の胸がじんわり温かくなる。
「だから」
湊が一歩だけ近づく。
「陽菜乃」
「うん」
「俺と付き合ってください」
正式に。
まっすぐ。
言われた。
「……」
何年も。
待っていた言葉。
でも。
昔想像していたより。
ずっと嬉しい。
すれ違った。
泣いた。
諦めようとした。
別の人に心が動いた。
それでも。
ここへ戻ってきた。
陽菜乃は。
笑った。
「はい」
それから。
少しだけ勇気を出して。
「私も、湊の彼女になりたい」
湊の顔が。
一気に明るくなった。
少しして。
湊が手を差し出した。
「……何?」
「手」
「え?」
「つないでいい?」
陽菜乃は少し驚いた。
今まで。
何度もつないできた。
小さい頃から。
でも。
湊がこんなふうに聞いたことはなかった。
「聞くって言っただろ」
陽菜乃は。
少しだけ笑った。
「……うん」
自分の手を。
そっと重ねる。
湊の手。
昔から知っているはずなのに。
今日は。
全然違う。
「陽菜乃」
「なに?」
「手、冷た」
「手袋忘れたから」
「やっぱり取りに戻ればよかったじゃん」
「もう家帰るからいいの」
「じゃあ」
湊が少しだけ手を握り直した。
「これであっためる」
「……」
陽菜乃の顔が熱くなる。
「それ、急に彼氏っぽくしすぎ」
「今日から彼氏だけど」
「……そうだった」
言葉にすると。
もっと恥ずかしい。
「顔赤い」
「寒いから」
「絶対違う」
「寒いの!」
「はいはい」
二人で笑いながら。
公園を出る。
帰り道。
並んで歩く。
この道も。
何百回と一緒に歩いた。
学校帰り。
夏祭り。
買い物。
小学生の頃。
中学生の頃。
昨日まで。
ずっと。
幼馴染として。
でも。
今日からは。
少し違う。
「湊」
「ん?」
「明日の朝」
「うん」
陽菜乃は少し迷ってから言った。
「一緒に学校行く?」
湊が一瞬止まる。
「……いいの?」
「聞くようになったね」
「だって約束したし」
陽菜乃は笑った。
「一緒に行きたい」
「うん」
「でも」
「何?」
「七分待ったとか言わないでね」
「遅れたら言う」
「えー」
「じゃあ早く出てこいよ」
「頑張る」
「頑張るじゃなくて」
「たぶん」
「信用できない」
二人で笑う。
昔と同じ。
なのに。
違う。
家の前。
小宮山家と成瀬家。
二人は門の前で立ち止まった。
「じゃあ」
「うん」
でも。
手を離すタイミングが分からない。
「……」
「……」
二人とも。
同じところを見る。
つないだ手。
陽菜乃が先に笑ってしまった。
「何?」
「なんか変」
「何が?」
「今まで普通に手つないでたのに」
「うん」
「今日のほうが恥ずかしい」
「俺も」
「湊も?」
「当たり前だろ」
少し安心する。
「じゃあ……また明日」
「うん」
手を離す。
少しだけ。
寂しい。
でも。
明日また会える。
今までなら。
それを当たり前だと思っていた。
でもこれからは。
一緒にいられることを。
ちゃんと大切にしたい。
「陽菜乃」
「なに?」
玄関へ向かおうとしたところで呼ばれる。
振り返る。
「好き」
「……!」
突然。
陽菜乃の顔が一気に赤くなった。
「急に言わないで!」
「言いたかったから」
「心の準備が……」
「これから何回も言う」
「えっ」
「だって今まで言わなさすぎたから」
湊が笑う。
「その分」
少し照れた顔で。
「ちゃんと言う」
陽菜乃の胸が。
幸せでいっぱいになる。
「……じゃあ」
陽菜乃も。
少し勇気を出す。
「私も」
「ん?」
「好き」
今度は。
湊の顔が赤くなった。
「……」
「湊も赤い」
「うるさい」
「ふふ」
二人で笑う。
ずっと。
幼馴染だった。
近すぎて。
言えなかった。
離れて。
すれ違って。
初めて。
自分にとって相手がどれだけ大切なのか知った。
そして。
ようやく。
同じ気持ちを。
同じ言葉で伝えられた。
陽菜乃は。
自分の家の玄関へ向かいながら。
もう一度だけ振り返った。
湊も。
まだこちらを見ていた。
「おやすみ!」
「おやすみ!」
明日も。
きっと。
あの門の前で会える。
でも。
今度は。
ただの幼馴染としてではない。
初恋の男の子は。
今日。
陽菜乃の恋人になった。
最後のチャイムが鳴った瞬間から、陽菜乃の胸はずっと落ち着かなかった。
「起立。礼」
「ありがとうございました」
先生が教室を出ていく。
途端に、教室のあちこちから明るい声が上がった。
「部活行こー!」
「今日コンビニ寄らない?」
「宿題どこだっけ?」
椅子を引く音。
鞄を閉じる音。
冬の放課後らしい、いつものにぎやかさ。
けれど陽菜乃は、机の中から教科書を取り出しながらも、どこか上の空だった。
昨日。
柊真には、自分の気持ちを伝えた。
優しくしてくれたこと。
心が動いたこと。
柊真と一緒に過ごした時間が、本当に大切だったこと。
それでも。
最後に選びたい人は湊だということ。
ちゃんと、自分の言葉で伝えた。
そして昨夜。
湊にもメッセージを送った。
『ちゃんと返事したい』
湊からは、
『分かった。待ってる』
と返ってきた。
たったそれだけ。
なのに、その文字を見たあと、陽菜乃はなかなか眠れなかった。
(今日……言うんだ)
ずっと好きだった人に。
今度こそ。
自分から。
「陽菜乃」
「えっ?」
目の前に美緒の顔があった。
「わっ!」
「わ、じゃないよ。何回呼んだと思ってるの?」
「ご、ごめん」
「三回」
「そんなに?」
「そんなに」
美緒は少し笑ったあと、陽菜乃の顔をじっと見る。
「今日なんでしょ?」
「……うん」
「成瀬くんに返事するの」
陽菜乃は小さくうなずいた。
「緊張してる?」
「すごく」
「顔見れば分かる」
「そんなに?」
「うん。さっきから筆箱を三回鞄から出したり入れたりしてる」
「えっ」
陽菜乃は手元を見る。
確かに今、また筆箱を持っていた。
「……全然気づかなかった」
「陽菜乃らしい」
美緒が笑う。
その笑顔に、陽菜乃の肩から少しだけ力が抜けた。
「美緒ちゃん」
「なに?」
「私……ちゃんと言えるかな」
昨日は柊真に言えた。
でも。
湊となると、やっぱり怖い。
何年も好きだった。
近すぎて。
大切すぎて。
何度も言えなくなった相手。
美緒は少し考えてから言った。
「上手に言おうとしなくていいんじゃない?」
「え?」
「陽菜乃がずっと思ってたこと、そのまま言えばいいよ」
「……そのまま」
「うん」
美緒は笑った。
「今までずっと言えなかったんだから、今日くらい全部言っちゃえ」
陽菜乃も、少しだけ笑う。
「……うん」
今度こそ。
逃げない。
「陽菜乃」
教室の後ろから、柊真の声がした。
「柊真くん」
昨日の今日だから。
一瞬、胸がぎゅっとなる。
柊真も少しだけ気まずそうだった。
でも。
いつものように鞄を肩へかけながら、陽菜乃のところへ来た。
「今日、話すんだろ」
「……うん」
「成瀬と」
「うん」
柊真は陽菜乃を見た。
「緊張してんの?」
「すごく」
「まあ、そうだろうな」
「柊真くん」
「何」
「昨日……」
「その話はもういい」
陽菜乃が言い終わる前に、柊真が止めた。
「でも」
「ちゃんと聞いたから」
「……うん」
「陽菜乃が考えて出した答えなんだろ?」
「うん」
「じゃあ、それでいい」
胸があたたかくなる。
やっぱり優しい。
でも。
もうその優しさに、曖昧な気持ちで甘えない。
「ありがとう」
「またそれかよ」
「だって本当に思ってるから」
「……ならいいけど」
柊真は少しだけ笑った。
そして。
「行ってこい」
「え?」
「成瀬待たせんなよ」
陽菜乃は目を丸くしたあと。
今度はしっかり笑った。
「うん」
学校を出る頃には、空が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
冬の空は暗くなるのが早い。
校門を出る生徒たちの吐く息が、白く広がっている。
陽菜乃はマフラーを巻き直し、スマホを見る。
『公園で待ってる』
湊から。
陽菜乃と湊が、小学生の頃によく遊んでいた近所の公園。
学校から歩いて十五分ほど。
(どうして、あそこなんだろう)
でも。
少し嬉しかった。
二人にとって。
何度も一緒に過ごした場所だから。
陽菜乃はゆっくり歩き始めた。
途中。
赤信号で止まる。
胸がどきどきする。
(何から言おう)
好き。
まずそれ?
それとも。
待たせてごめん?
美羽のことで傷ついたことは、もう話した。
柊真への気持ちも。
湊には正直に伝えた。
今日は。
答えだけでいい。
そう思うのに。
考えれば考えるほど緊張する。
「……だめ」
陽菜乃は両手で頬を軽く押さえた。
「普通に話せばいいの」
青信号。
歩き出す。
公園へ着く。
夕方の公園には、もう小さな子どもたちの姿はなかった。
ブランコが冬の風に少しだけ揺れている。
砂場の近くには、小学生の頃から変わらない大きな木。
その木のそばに。
湊が立っていた。
「……湊」
呼ぶ。
湊が振り返る。
「陽菜乃」
黒いダウンジャケット。
首元には紺色のマフラー。
何度も見てきた姿なのに。
今日だけは。
少し違って見えた。
「待った?」
「十分くらい」
「ごめん」
「いいよ」
湊が少し笑う。
その笑顔に。
陽菜乃の胸がまた大きく鳴った。
二人は少し離れて向かい合った。
でも。
なかなか言葉が出てこない。
「……寒いな」
湊が言った。
「うん」
「手袋は?」
「あ……」
持ってきていない。
「忘れた」
「また?」
「朝は持ってたのに……」
「どこ置いてきたんだよ」
「たぶんロッカー」
湊が小さく笑った。
「相変わらずだな」
「もう」
陽菜乃も笑う。
緊張していた空気が。
少しだけやわらかくなる。
「ここ」
陽菜乃は公園を見回した。
「懐かしいね」
「うん」
「あの滑り台、まだある」
「陽菜乃、小二の時あそこから落ちたよな」
「落ちてないよ!」
「落ちた」
「転んだだけ」
「同じようなもんだろ」
「違うもん」
昔と同じ会話。
陽菜乃は思わず笑った。
「湊が背負って家まで送ってくれた」
「覚えてんじゃん」
「それは覚えてるよ」
「泣いてた」
「それは忘れて」
「嫌」
「もう!」
二人で笑う。
この感じ。
ずっと好きだった。
隣にいるだけで安心する。
何でもない話ができる。
でも。
それだけじゃない。
陽菜乃はもう分かっている。
湊は。
大切な幼馴染で。
それ以上に。
好きな男の子だ。
「……湊」
陽菜乃の声が少しだけ真面目になる。
湊も気づいた。
「うん」
「返事」
自分の指先をぎゅっと握る。
「ちゃんとするね」
湊の表情が緊張したものへ変わる。
「……うん」
陽菜乃は一度、ゆっくり息を吸った。
「私」
声が震えそうになる。
でも。
逃げない。
「ずっと湊が好きだった」
「……」
「中学生の頃から」
たぶん。
もっと前から。
恋だと気づいていなかっただけかもしれない。
「ずっと」
陽菜乃は続けた。
「いつか好きって言ってくれないかなって思ってた」
湊は黙って聞いている。
「女子に告白されるたびに嫌だった」
「……うん」
「でも」
美羽が現れて。
本当に。
湊が自分のものではないと気づいた。
「美羽ちゃんのことがあって」
陽菜乃の胸が少しだけ痛む。
「湊を諦めようと思った」
「……」
「その時」
柊真。
いつも助けてくれた。
そばにいてくれた。
「柊真くんに、いっぱい優しくしてもらった」
湊の目が少し揺れる。
でも。
口を挟まない。
「私、本当に心が動いたよ」
「……うん」
「クリスマスも楽しかった」
柊真と手をつないだ。
プレゼントをもらった。
学校に来なかった時は寂しかった。
「だから」
陽菜乃は湊をまっすぐ見る。
「簡単に『やっぱり湊』って戻りたくなかった」
「……」
「柊真くんへの気持ちまで、嘘にしたくなかったから」
湊は静かにうなずいた。
「うん」
「でも」
陽菜乃は胸元へ手を置いた。
「発表会の日」
たくさんの人。
大きな舞台。
踊り切ったあとのロビー。
「私、一番に探してたの」
「……」
「湊を」
湊の目が少し大きくなる。
「柊真くんが来てくれて嬉しかった」
「うん」
「褒めてもらえて、すごく嬉しかった」
「……うん」
「でも」
湊を見つけた瞬間。
どうしても。
心が違った。
「湊が見てくれてたって分かった時」
陽菜乃は少し笑った。
「一番嬉しかった」
「……陽菜乃」
「その時、やっと分かったの」
初恋だからじゃない。
昔から一緒だったからでもない。
「私」
陽菜乃の頬が熱くなる。
でも。
今度は隠さない。
「今も、湊が好き」
言えた。
湊は。
すぐには何も言わなかった。
「……湊?」
「ちょっと待って」
「え?」
「今」
湊が顔をそらした。
「普通にめちゃくちゃ嬉しい」
陽菜乃は目をぱちぱちさせた。
「……それ、柊真くんも言ってた」
「今、水野の名前出す?」
「ご、ごめん!」
「冗談」
湊が笑った。
その顔を見たら。
陽菜乃まで笑ってしまう。
「でも」
湊が改めてこちらを見る。
「本当に?」
「うん」
「俺でいい?」
「……その聞き方嫌」
「なんで?」
「『俺でいい』じゃなくて」
陽菜乃は少しだけ勇気を出した。
「湊がいい」
今度こそ。
湊が完全に固まった。
「……」
「湊?」
「陽菜乃」
「なに?」
「それ反則」
「どうして?」
「もう一回言って」
「嫌」
「なんで!」
「恥ずかしいもん」
「一回言ったじゃん」
「一回で十分」
陽菜乃が顔をそらす。
でも。
湊は笑っていた。
すごく。
嬉しそうに。
「俺も」
湊が言った。
「陽菜乃がいい」
胸が。
どくん。
「ずっと」
「……」
「でも」
湊の表情が少し真面目になる。
「一個だけ」
「なに?」
「俺」
湊は言葉を選ぶように続けた。
「これから、ちゃんと聞くから」
「聞く?」
「陽菜乃がどうしたいか」
「……」
「今まで」
勝手に迎えに来て。
勝手に荷物を持って。
勝手に守るつもりでいた。
それを陽菜乃も喜んでいると。
ずっと思っていた。
「幼馴染だからって」
湊は少し苦笑する。
「分かってるつもりになるのやめる」
陽菜乃の胸がじんわり温かくなる。
「だから」
湊が一歩だけ近づく。
「陽菜乃」
「うん」
「俺と付き合ってください」
正式に。
まっすぐ。
言われた。
「……」
何年も。
待っていた言葉。
でも。
昔想像していたより。
ずっと嬉しい。
すれ違った。
泣いた。
諦めようとした。
別の人に心が動いた。
それでも。
ここへ戻ってきた。
陽菜乃は。
笑った。
「はい」
それから。
少しだけ勇気を出して。
「私も、湊の彼女になりたい」
湊の顔が。
一気に明るくなった。
少しして。
湊が手を差し出した。
「……何?」
「手」
「え?」
「つないでいい?」
陽菜乃は少し驚いた。
今まで。
何度もつないできた。
小さい頃から。
でも。
湊がこんなふうに聞いたことはなかった。
「聞くって言っただろ」
陽菜乃は。
少しだけ笑った。
「……うん」
自分の手を。
そっと重ねる。
湊の手。
昔から知っているはずなのに。
今日は。
全然違う。
「陽菜乃」
「なに?」
「手、冷た」
「手袋忘れたから」
「やっぱり取りに戻ればよかったじゃん」
「もう家帰るからいいの」
「じゃあ」
湊が少しだけ手を握り直した。
「これであっためる」
「……」
陽菜乃の顔が熱くなる。
「それ、急に彼氏っぽくしすぎ」
「今日から彼氏だけど」
「……そうだった」
言葉にすると。
もっと恥ずかしい。
「顔赤い」
「寒いから」
「絶対違う」
「寒いの!」
「はいはい」
二人で笑いながら。
公園を出る。
帰り道。
並んで歩く。
この道も。
何百回と一緒に歩いた。
学校帰り。
夏祭り。
買い物。
小学生の頃。
中学生の頃。
昨日まで。
ずっと。
幼馴染として。
でも。
今日からは。
少し違う。
「湊」
「ん?」
「明日の朝」
「うん」
陽菜乃は少し迷ってから言った。
「一緒に学校行く?」
湊が一瞬止まる。
「……いいの?」
「聞くようになったね」
「だって約束したし」
陽菜乃は笑った。
「一緒に行きたい」
「うん」
「でも」
「何?」
「七分待ったとか言わないでね」
「遅れたら言う」
「えー」
「じゃあ早く出てこいよ」
「頑張る」
「頑張るじゃなくて」
「たぶん」
「信用できない」
二人で笑う。
昔と同じ。
なのに。
違う。
家の前。
小宮山家と成瀬家。
二人は門の前で立ち止まった。
「じゃあ」
「うん」
でも。
手を離すタイミングが分からない。
「……」
「……」
二人とも。
同じところを見る。
つないだ手。
陽菜乃が先に笑ってしまった。
「何?」
「なんか変」
「何が?」
「今まで普通に手つないでたのに」
「うん」
「今日のほうが恥ずかしい」
「俺も」
「湊も?」
「当たり前だろ」
少し安心する。
「じゃあ……また明日」
「うん」
手を離す。
少しだけ。
寂しい。
でも。
明日また会える。
今までなら。
それを当たり前だと思っていた。
でもこれからは。
一緒にいられることを。
ちゃんと大切にしたい。
「陽菜乃」
「なに?」
玄関へ向かおうとしたところで呼ばれる。
振り返る。
「好き」
「……!」
突然。
陽菜乃の顔が一気に赤くなった。
「急に言わないで!」
「言いたかったから」
「心の準備が……」
「これから何回も言う」
「えっ」
「だって今まで言わなさすぎたから」
湊が笑う。
「その分」
少し照れた顔で。
「ちゃんと言う」
陽菜乃の胸が。
幸せでいっぱいになる。
「……じゃあ」
陽菜乃も。
少し勇気を出す。
「私も」
「ん?」
「好き」
今度は。
湊の顔が赤くなった。
「……」
「湊も赤い」
「うるさい」
「ふふ」
二人で笑う。
ずっと。
幼馴染だった。
近すぎて。
言えなかった。
離れて。
すれ違って。
初めて。
自分にとって相手がどれだけ大切なのか知った。
そして。
ようやく。
同じ気持ちを。
同じ言葉で伝えられた。
陽菜乃は。
自分の家の玄関へ向かいながら。
もう一度だけ振り返った。
湊も。
まだこちらを見ていた。
「おやすみ!」
「おやすみ!」
明日も。
きっと。
あの門の前で会える。
でも。
今度は。
ただの幼馴染としてではない。
初恋の男の子は。
今日。
陽菜乃の恋人になった。

