ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 次の日の放課後。

 最後のチャイムが鳴った瞬間から、陽菜乃の胸はずっと落ち着かなかった。

「起立。礼」

「ありがとうございました」

 先生が教室を出ていく。

 途端に、教室のあちこちから明るい声が上がった。

「部活行こー!」

「今日コンビニ寄らない?」

「宿題どこだっけ?」

 椅子を引く音。

 鞄を閉じる音。

 冬の放課後らしい、いつものにぎやかさ。

 けれど陽菜乃は、机の中から教科書を取り出しながらも、どこか上の空だった。

 昨日。

 柊真には、自分の気持ちを伝えた。

 優しくしてくれたこと。

 心が動いたこと。

 柊真と一緒に過ごした時間が、本当に大切だったこと。

 それでも。

 最後に選びたい人は湊だということ。

 ちゃんと、自分の言葉で伝えた。

 そして昨夜。

 湊にもメッセージを送った。

『ちゃんと返事したい』

 湊からは、

『分かった。待ってる』

 と返ってきた。

 たったそれだけ。

 なのに、その文字を見たあと、陽菜乃はなかなか眠れなかった。

(今日……言うんだ)

 ずっと好きだった人に。

 今度こそ。

 自分から。

「陽菜乃」

「えっ?」

 目の前に美緒の顔があった。

「わっ!」

「わ、じゃないよ。何回呼んだと思ってるの?」

「ご、ごめん」

「三回」

「そんなに?」

「そんなに」

 美緒は少し笑ったあと、陽菜乃の顔をじっと見る。

「今日なんでしょ?」

「……うん」

「成瀬くんに返事するの」

 陽菜乃は小さくうなずいた。

「緊張してる?」

「すごく」

「顔見れば分かる」

「そんなに?」

「うん。さっきから筆箱を三回鞄から出したり入れたりしてる」

「えっ」

 陽菜乃は手元を見る。

 確かに今、また筆箱を持っていた。

「……全然気づかなかった」

「陽菜乃らしい」

 美緒が笑う。

 その笑顔に、陽菜乃の肩から少しだけ力が抜けた。

「美緒ちゃん」

「なに?」

「私……ちゃんと言えるかな」

 昨日は柊真に言えた。

 でも。

 湊となると、やっぱり怖い。

 何年も好きだった。

 近すぎて。

 大切すぎて。

 何度も言えなくなった相手。

 美緒は少し考えてから言った。

「上手に言おうとしなくていいんじゃない?」

「え?」

「陽菜乃がずっと思ってたこと、そのまま言えばいいよ」

「……そのまま」

「うん」

 美緒は笑った。

「今までずっと言えなかったんだから、今日くらい全部言っちゃえ」

 陽菜乃も、少しだけ笑う。

「……うん」

 今度こそ。

 逃げない。


「陽菜乃」

 教室の後ろから、柊真の声がした。

「柊真くん」

 昨日の今日だから。

 一瞬、胸がぎゅっとなる。

 柊真も少しだけ気まずそうだった。

 でも。

 いつものように鞄を肩へかけながら、陽菜乃のところへ来た。

「今日、話すんだろ」

「……うん」

「成瀬と」

「うん」

 柊真は陽菜乃を見た。

「緊張してんの?」

「すごく」

「まあ、そうだろうな」

「柊真くん」

「何」

「昨日……」

「その話はもういい」

 陽菜乃が言い終わる前に、柊真が止めた。

「でも」

「ちゃんと聞いたから」

「……うん」

「陽菜乃が考えて出した答えなんだろ?」

「うん」

「じゃあ、それでいい」

 胸があたたかくなる。

 やっぱり優しい。

 でも。

 もうその優しさに、曖昧な気持ちで甘えない。

「ありがとう」

「またそれかよ」

「だって本当に思ってるから」

「……ならいいけど」

 柊真は少しだけ笑った。

 そして。

「行ってこい」

「え?」

「成瀬待たせんなよ」

 陽菜乃は目を丸くしたあと。

 今度はしっかり笑った。

「うん」

 学校を出る頃には、空が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。

 冬の空は暗くなるのが早い。

 校門を出る生徒たちの吐く息が、白く広がっている。

 陽菜乃はマフラーを巻き直し、スマホを見る。

『公園で待ってる』

 湊から。

 陽菜乃と湊が、小学生の頃によく遊んでいた近所の公園。

 学校から歩いて十五分ほど。

(どうして、あそこなんだろう)

 でも。

 少し嬉しかった。

 二人にとって。

 何度も一緒に過ごした場所だから。

 陽菜乃はゆっくり歩き始めた。

 途中。

 赤信号で止まる。

 胸がどきどきする。

(何から言おう)

 好き。

 まずそれ?

 それとも。

 待たせてごめん?

 美羽のことで傷ついたことは、もう話した。

 柊真への気持ちも。

 湊には正直に伝えた。

 今日は。

 答えだけでいい。

 そう思うのに。

 考えれば考えるほど緊張する。

「……だめ」

 陽菜乃は両手で頬を軽く押さえた。

「普通に話せばいいの」

 青信号。

 歩き出す。


 公園へ着く。

 夕方の公園には、もう小さな子どもたちの姿はなかった。

 ブランコが冬の風に少しだけ揺れている。

 砂場の近くには、小学生の頃から変わらない大きな木。

 その木のそばに。

 湊が立っていた。

「……湊」

 呼ぶ。

 湊が振り返る。

「陽菜乃」

 黒いダウンジャケット。

 首元には紺色のマフラー。

 何度も見てきた姿なのに。

 今日だけは。

 少し違って見えた。

「待った?」

「十分くらい」

「ごめん」

「いいよ」

 湊が少し笑う。

 その笑顔に。

 陽菜乃の胸がまた大きく鳴った。

 二人は少し離れて向かい合った。

 でも。

 なかなか言葉が出てこない。

「……寒いな」

 湊が言った。

「うん」

「手袋は?」

「あ……」

 持ってきていない。

「忘れた」

「また?」

「朝は持ってたのに……」

「どこ置いてきたんだよ」

「たぶんロッカー」

 湊が小さく笑った。

「相変わらずだな」

「もう」

 陽菜乃も笑う。

 緊張していた空気が。

 少しだけやわらかくなる。


「ここ」

 陽菜乃は公園を見回した。

「懐かしいね」

「うん」

「あの滑り台、まだある」

「陽菜乃、小二の時あそこから落ちたよな」

「落ちてないよ!」

「落ちた」

「転んだだけ」

「同じようなもんだろ」

「違うもん」

 昔と同じ会話。

 陽菜乃は思わず笑った。

「湊が背負って家まで送ってくれた」

「覚えてんじゃん」

「それは覚えてるよ」

「泣いてた」

「それは忘れて」

「嫌」

「もう!」

 二人で笑う。

 この感じ。

 ずっと好きだった。

 隣にいるだけで安心する。

 何でもない話ができる。

 でも。

 それだけじゃない。

 陽菜乃はもう分かっている。

 湊は。

 大切な幼馴染で。

 それ以上に。

 好きな男の子だ。

「……湊」

 陽菜乃の声が少しだけ真面目になる。

 湊も気づいた。

「うん」

「返事」

 自分の指先をぎゅっと握る。

「ちゃんとするね」

 湊の表情が緊張したものへ変わる。

「……うん」

 陽菜乃は一度、ゆっくり息を吸った。

「私」

 声が震えそうになる。

 でも。

 逃げない。

「ずっと湊が好きだった」

「……」

「中学生の頃から」

 たぶん。

 もっと前から。

 恋だと気づいていなかっただけかもしれない。

「ずっと」

 陽菜乃は続けた。

「いつか好きって言ってくれないかなって思ってた」

 湊は黙って聞いている。

「女子に告白されるたびに嫌だった」

「……うん」

「でも」

 美羽が現れて。

 本当に。

 湊が自分のものではないと気づいた。

「美羽ちゃんのことがあって」

 陽菜乃の胸が少しだけ痛む。

「湊を諦めようと思った」

「……」

「その時」

 柊真。

 いつも助けてくれた。

 そばにいてくれた。

「柊真くんに、いっぱい優しくしてもらった」

 湊の目が少し揺れる。

 でも。

 口を挟まない。

「私、本当に心が動いたよ」

「……うん」

「クリスマスも楽しかった」

 柊真と手をつないだ。

 プレゼントをもらった。

 学校に来なかった時は寂しかった。

「だから」

 陽菜乃は湊をまっすぐ見る。

「簡単に『やっぱり湊』って戻りたくなかった」

「……」

「柊真くんへの気持ちまで、嘘にしたくなかったから」

 湊は静かにうなずいた。

「うん」

「でも」

 陽菜乃は胸元へ手を置いた。

「発表会の日」

 たくさんの人。

 大きな舞台。

 踊り切ったあとのロビー。

「私、一番に探してたの」

「……」

「湊を」

 湊の目が少し大きくなる。

「柊真くんが来てくれて嬉しかった」

「うん」

「褒めてもらえて、すごく嬉しかった」

「……うん」

「でも」

 湊を見つけた瞬間。

 どうしても。

 心が違った。

「湊が見てくれてたって分かった時」

 陽菜乃は少し笑った。

「一番嬉しかった」

「……陽菜乃」

「その時、やっと分かったの」

 初恋だからじゃない。

 昔から一緒だったからでもない。

「私」

 陽菜乃の頬が熱くなる。

 でも。

 今度は隠さない。

「今も、湊が好き」

 言えた。


 湊は。

 すぐには何も言わなかった。

「……湊?」

「ちょっと待って」

「え?」

「今」

 湊が顔をそらした。

「普通にめちゃくちゃ嬉しい」

 陽菜乃は目をぱちぱちさせた。

「……それ、柊真くんも言ってた」

「今、水野の名前出す?」

「ご、ごめん!」

「冗談」

 湊が笑った。

 その顔を見たら。

 陽菜乃まで笑ってしまう。

「でも」

 湊が改めてこちらを見る。

「本当に?」

「うん」

「俺でいい?」

「……その聞き方嫌」

「なんで?」

「『俺でいい』じゃなくて」

 陽菜乃は少しだけ勇気を出した。

「湊がいい」

 今度こそ。

 湊が完全に固まった。

「……」

「湊?」

「陽菜乃」

「なに?」

「それ反則」

「どうして?」

「もう一回言って」

「嫌」

「なんで!」

「恥ずかしいもん」

「一回言ったじゃん」

「一回で十分」

 陽菜乃が顔をそらす。

 でも。

 湊は笑っていた。

 すごく。

 嬉しそうに。


「俺も」

 湊が言った。

「陽菜乃がいい」

 胸が。

 どくん。

「ずっと」

「……」

「でも」

 湊の表情が少し真面目になる。

「一個だけ」

「なに?」

「俺」

 湊は言葉を選ぶように続けた。

「これから、ちゃんと聞くから」

「聞く?」

「陽菜乃がどうしたいか」

「……」

「今まで」

 勝手に迎えに来て。

 勝手に荷物を持って。

 勝手に守るつもりでいた。

 それを陽菜乃も喜んでいると。

 ずっと思っていた。

「幼馴染だからって」

 湊は少し苦笑する。

「分かってるつもりになるのやめる」

 陽菜乃の胸がじんわり温かくなる。

「だから」

 湊が一歩だけ近づく。

「陽菜乃」

「うん」

「俺と付き合ってください」

 正式に。

 まっすぐ。

 言われた。

「……」

 何年も。

 待っていた言葉。

 でも。

 昔想像していたより。

 ずっと嬉しい。

 すれ違った。

 泣いた。

 諦めようとした。

 別の人に心が動いた。

 それでも。

 ここへ戻ってきた。

 陽菜乃は。

 笑った。

「はい」

 それから。

 少しだけ勇気を出して。

「私も、湊の彼女になりたい」

 湊の顔が。

 一気に明るくなった。


 少しして。

 湊が手を差し出した。

「……何?」

「手」

「え?」

「つないでいい?」

 陽菜乃は少し驚いた。

 今まで。

 何度もつないできた。

 小さい頃から。

 でも。

 湊がこんなふうに聞いたことはなかった。

「聞くって言っただろ」

 陽菜乃は。

 少しだけ笑った。

「……うん」

 自分の手を。

 そっと重ねる。

 湊の手。

 昔から知っているはずなのに。

 今日は。

 全然違う。

「陽菜乃」

「なに?」

「手、冷た」

「手袋忘れたから」

「やっぱり取りに戻ればよかったじゃん」

「もう家帰るからいいの」

「じゃあ」

 湊が少しだけ手を握り直した。

「これであっためる」

「……」

 陽菜乃の顔が熱くなる。

「それ、急に彼氏っぽくしすぎ」

「今日から彼氏だけど」

「……そうだった」

 言葉にすると。

 もっと恥ずかしい。

「顔赤い」

「寒いから」

「絶対違う」

「寒いの!」

「はいはい」

 二人で笑いながら。

 公園を出る。


 帰り道。

 並んで歩く。

 この道も。

 何百回と一緒に歩いた。

 学校帰り。

 夏祭り。

 買い物。

 小学生の頃。

 中学生の頃。

 昨日まで。

 ずっと。

 幼馴染として。

 でも。

 今日からは。

 少し違う。

「湊」

「ん?」

「明日の朝」

「うん」

 陽菜乃は少し迷ってから言った。

「一緒に学校行く?」

 湊が一瞬止まる。

「……いいの?」

「聞くようになったね」

「だって約束したし」

 陽菜乃は笑った。

「一緒に行きたい」

「うん」

「でも」

「何?」

「七分待ったとか言わないでね」

「遅れたら言う」

「えー」

「じゃあ早く出てこいよ」

「頑張る」

「頑張るじゃなくて」

「たぶん」

「信用できない」

 二人で笑う。

 昔と同じ。

 なのに。

 違う。


 家の前。

 小宮山家と成瀬家。

 二人は門の前で立ち止まった。

「じゃあ」

「うん」

 でも。

 手を離すタイミングが分からない。

「……」

「……」

 二人とも。

 同じところを見る。

 つないだ手。

 陽菜乃が先に笑ってしまった。

「何?」

「なんか変」

「何が?」

「今まで普通に手つないでたのに」

「うん」

「今日のほうが恥ずかしい」

「俺も」

「湊も?」

「当たり前だろ」

 少し安心する。

「じゃあ……また明日」

「うん」

 手を離す。

 少しだけ。

 寂しい。

 でも。

 明日また会える。

 今までなら。

 それを当たり前だと思っていた。

 でもこれからは。

 一緒にいられることを。

 ちゃんと大切にしたい。

「陽菜乃」

「なに?」

 玄関へ向かおうとしたところで呼ばれる。

 振り返る。

「好き」

「……!」

 突然。

 陽菜乃の顔が一気に赤くなった。

「急に言わないで!」

「言いたかったから」

「心の準備が……」

「これから何回も言う」

「えっ」

「だって今まで言わなさすぎたから」

 湊が笑う。

「その分」

 少し照れた顔で。

「ちゃんと言う」

 陽菜乃の胸が。

 幸せでいっぱいになる。

「……じゃあ」

 陽菜乃も。

 少し勇気を出す。

「私も」

「ん?」

「好き」

 今度は。

 湊の顔が赤くなった。

「……」

「湊も赤い」

「うるさい」

「ふふ」

 二人で笑う。

 ずっと。

 幼馴染だった。

 近すぎて。

 言えなかった。

 離れて。

 すれ違って。

 初めて。

 自分にとって相手がどれだけ大切なのか知った。

 そして。

 ようやく。

 同じ気持ちを。

 同じ言葉で伝えられた。

 陽菜乃は。

 自分の家の玄関へ向かいながら。

 もう一度だけ振り返った。

 湊も。

 まだこちらを見ていた。

「おやすみ!」

「おやすみ!」

 明日も。

 きっと。

 あの門の前で会える。

 でも。

 今度は。

 ただの幼馴染としてではない。

 初恋の男の子は。

 今日。

 陽菜乃の恋人になった。