ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 二月の初め。

 朝の空は、冬らしい薄い青色をしていた。

 校庭の端には、数日前に降った雪がまだ少しだけ残っている。

 日なたではもう溶け始めているけれど、校舎の影になっているところには白いかたまりが残り、登校してきた生徒たちが珍しそうに足を止めていた。

「寒いね」

「うん」

 陽菜乃は白い息を吐きながら、校門をくぐった。

 今日は美緒と一緒だ。

 最近は一人で登校することにも慣れた。

 少し前までなら、朝の道に湊がいないだけで落ち着かなかったのに。

 自分も変わったと思う。

 でも。

 変わったからこそ。

 分かったこともあった。

「陽菜乃」

「なに?」

「昨日から、また考え込んでない?」

 美緒が顔をのぞき込む。

「……分かる?」

「分かるよ」

「そんなに?」

「うん。今朝なんて信号青なのに三秒くらい止まってたし」

「えっ」

「後ろの人に抜かされてた」

「全然気づかなかった……」

 陽菜乃は恥ずかしくなって、マフラーへ口元を隠した。

 昨日。

 ダンス部の冬季発表会があった。

 大きな舞台。

 緊張して。

 何度も失敗を想像して。

 それでも最後まで踊り切った。

 終わったあと。

 陽菜乃が人混みの中で最初に探した人。

 それは――湊だった。

 そのことが。

 ずっと胸から離れない。

「答え、出た?」

 美緒が小さな声で聞いた。

 陽菜乃は少し黙ってから。

「……たぶん」

 答えた。

「そっか」

 美緒は、それ以上何も聞かなかった。

 ただ、

「じゃあ、ちゃんと伝えないとね」

 とだけ言った。

「……うん」

 陽菜乃は小さくうなずいた。

 でも。

 最初に話さなくてはいけない相手は。

 湊ではなかった。


 教室へ入る。

「おはよう」

「おはよー!」

 クラスメイトたちの声。

 陽菜乃は自分の席へ向かいながら。

 自然に、後ろの席を見た。

 柊真。

 もう来ている。

 机に頬杖をつきながら、スマホを見ていた。

「柊真くん」

 呼ぶ。

 柊真が顔を上げる。

「おはよ」

「おはよう」

 いつも通り。

 そのことが。

 陽菜乃には少し苦しかった。

 昨日も。

 発表会を見に来てくれた。

 差し入れも。

 陽菜乃の好きないちご味のお菓子。

 何度も。

 自分のことを見ていてくれた。

 柊真の気持ちは。

 もう分かっている。

 だからこそ。

 曖昧なままではいけない。

「柊真くん」

「ん?」

「今日、放課後……少し時間ある?」

 柊真の表情が。

 ほんの少しだけ変わった。

「あるけど」

「話したいことがあるの」

「……分かった」

 たぶん。

 柊真には。

 もう何の話なのか分かっているのかもしれない。

 それでも。

 何も聞かずに。

「じゃあ放課後」

 と答えてくれた。


 その日の授業は。

 いつもより長く感じた。

 黒板に書かれる文字。

 先生の声。

 ページをめくる音。

 全部。

 いつもと同じなのに。

 陽菜乃だけが、何度も時計を見てしまう。

 昼休み。

「陽菜乃、食べないの?」

 美緒が聞く。

「食べてるよ」

「全然減ってない」

「……」

 お弁当を見る。

 まだ半分以上残っていた。

「緊張してる?」

「うん」

「水野くんと話すから?」

「……うん」

 陽菜乃は箸を置いた。

「私」

 小さく言う。

「柊真くんのこと、傷つけるよね」

 美緒はすぐに否定しなかった。

「たぶん」

「……」

「でも」

 美緒が続ける。

「言わないほうが、もっと傷つくんじゃない?」

 陽菜乃は顔を上げる。

「水野くん、ずっと陽菜乃の気持ち待ってたんでしょ?」

「うん」

「だったら、ちゃんと答えるのも大事だと思う」

「……うん」

 分かっている。

 だから。

 今日、話す。

 柊真の優しさに甘えたままではいけない。


 放課後。

 校舎の裏にある小さな中庭。

 冬の冷たい風が。

 枯れた木々の枝を揺らしていた。

 生徒の姿は少ない。

 部活動へ向かう声が、遠くから聞こえる。

 陽菜乃はベンチの前で立っていた。

「待った?」

 声に振り返る。

「柊真くん」

 黒いコートを羽織った柊真が歩いてくる。

「ううん。今来たところ」

「そっか」

 それから。

 二人とも黙った。

 いつもなら。

 柊真が何か言って。

 陽菜乃が笑って。

 すぐに会話が始まる。

 でも今日は。

 何を言えばいいのか分からない。

「……話」

 柊真が先に言った。

「あるんだろ」

「うん」

 陽菜乃は自分の手を握った。

 手袋はしていない。

 指先が少し冷たい。

「私ね」

 声が。

 思っていたより小さくなった。

「ずっと考えてた」

「うん」

「湊のことも」

 柊真の表情は変わらない。

「柊真くんのことも」

「……うん」

「どっちが大切かとか」

 言葉にしてから。

 少し違うと思った。

「違う」

「え?」

「どっちも大切なの」

 陽菜乃は柊真を見る。

「同じじゃないけど」

 湊は。

 幼い頃からずっと一緒だった。

 初恋だった。

 思い出が多すぎるくらいある。

 柊真は。

 高校二年になって出会った。

 怖いと思っていたのに。

 本当は優しくて。

 陽菜乃が一人で困っている時。

 何度もそばにいてくれた。

「柊真くんといると」

 陽菜乃は続ける。

「安心する」

「……」

「楽しいし」

 クリスマス。

 初詣。

 学校の昼休み。

 帰り道。

 全部。

 大切だった。

「会えないと寂しいって思った」

「うん」

「ほかの女の子と話してるの見て、嫌だって思ったこともある」

 柊真の目が少し動く。

「だから」

 陽菜乃は一度、視線を落とした。

「私、柊真くんを好きになったんだと思ってた」

「……思ってた?」

 その言葉に。

 陽菜乃の胸が痛む。

「うん」

 逃げない。

 ちゃんと。

 全部言う。

「でも昨日」

 顔を上げる。

「ダンスが終わって」

「……」

「ロビーに出た時」

 たくさんの人。

 応援してくれた友達。

 家族。

 柊真。

 そして。

「私、一番に探した人がいたの」

 柊真は何も言わない。

 でも。

 もう分かっているような顔だった。

「……成瀬?」

「うん」

 陽菜乃は答えた。

 嘘をつかなかった。

「湊だった」

 冬の風が。

 二人の間を通り抜ける。

「目が合った瞬間」

 陽菜乃は胸元へ手を置く。

「すごく嬉しかった」

「……」

「来てくれたことも」

「うん」

「見ててくれたことも」

「……うん」

「一番、湊に褒めてもらいたかったんだって分かった」

 言葉にすると。

 答えが。

 ますますはっきりしていく。

「柊真くん」

 陽菜乃の声が震えた。

「ごめんなさい」

「……」

「私が好きなのは」

 唇をきゅっと結ぶ。

 そして。

「湊です」

 やっと。

 言えた。


 しばらく。

 柊真は何も言わなかった。

 陽菜乃も。

 言葉を続けられない。

「……そっか」

 やがて。

 柊真が小さく言った。

「うん」

 陽菜乃は俯く。

「ごめんなさい」

「だから謝んなって」

「でも……」

「陽菜乃」

 少し強い声。

 顔を上げる。

「俺」

 柊真はポケットへ手を入れながら。

 少しだけ笑った。

「最初から分かってたよ」

「え?」

「お前が成瀬見る時の顔」

「……」

「全然違うから」

 胸が痛くなる。

「だったら」

 陽菜乃は思わず言った。

「どうして……」

「諦めなかったか?」

「……うん」

「好きだったから」

 答えは簡単だった。

「俺だって」

 柊真は少しだけ苦笑する。

「もしかしたらって思った」

「……」

「実際、クリスマスとか」

「うん」

「結構いい感じだっただろ?」

 陽菜乃の顔が少し熱くなる。

「……うん」

「だから」

 柊真は笑った。

「期待した」

 その笑顔が。

 少しだけ寂しそうで。

 陽菜乃の胸がぎゅっとなる。

「ごめん」

「また」

「だって……」

「陽菜乃が俺のこと、何とも思ってなかったなら」

 柊真は言う。

「たぶんもっとへこんでる」

「え?」

「ちゃんと俺にも心動いてたんだろ?」

「……うん」

 それだけは。

 嘘じゃない。

「すごく」

「なら」

 柊真は少しだけ顔をそらす。

「俺、結構頑張ったじゃん」

 思わず。

 陽菜乃は笑ってしまった。

「そこで笑う?」

「ご、ごめん」

「まあいいけど」

 柊真も笑った。


「ねえ」

 陽菜乃は少し迷ってから。

「私」

 続ける。

「柊真くんのこと、好きになりかけた気持ちも」

「うん」

「なかったことにはしたくない」

 柊真がこちらを見る。

「本当に大切だったから」

「……」

「傷ついてた私を」

 あの頃。

 美羽と湊を見て。

 何度も。

 自分から離れようとした。

 その時。

「いっぱい助けてくれた」

「うん」

「柊真くんがいなかったら」

 陽菜乃は少しだけ笑った。

「私、ずっと一人で泣いてたかもしれない」

「泣いてた?」

「たぶん」

「陽菜乃、我慢するからな」

「……うん」

「もっと泣けばよかったのに」

「なんで?」

「そしたら俺が慰めた」

「……」

 陽菜乃は、また少し笑った。

「やっぱり優しいね」

「今それ言う?」

「だって本当」

 柊真は少し困ったように眉を下げる。

「それ以上言うと、また好きになるからやめろ」

「……え」

「冗談」

 そう言ったけれど。

 たぶん。

 全部冗談ではない。

「でも」

 柊真が続ける。

「一個だけ約束して」

「なに?」

「成瀬のところ行くなら」

 まっすぐ陽菜乃を見る。

「もう逃げんなよ」

「……」

「美羽がどうとか」

「うん」

「噂がどうとか」

「うん」

「勝手に一人で決めて離れんな」

「……うん」

「ちゃんと本人に聞け」

「うん」

 陽菜乃は。

 今度はしっかりうなずいた。

「約束する」

「ならいい」


 教室へ戻る途中。

 二人で廊下を歩いた。

 窓の外は。

 夕方の色になり始めている。

「柊真くん」

「ん?」

「これからも友達でいてくれる?」

 柊真が足を止めた。

「……それ今聞く?」

「だめ?」

「正直、少し時間ほしい」

「……そっか」

 胸が少し沈む。

 でも。

 当たり前だ。

 今日。

 自分は。

 柊真の気持ちを断った。

「ごめ――」

「謝るなって」

「あ……」

「ただ」

 柊真が笑う。

「ずっと避けるとかはしねえよ」

「ほんと?」

「ああ」

「よかった」

 陽菜乃がほっとすると。

「そんな嬉しそうにするなよ」

「え?」

「こっちは振られた直後なんだけど」

「……ごめん」

「だから!」

 二人とも。

 少しだけ笑った。

 たぶん。

 明日からすぐに。

 何もなかったようには戻れない。

 でも。

 柊真との時間は。

 これからも。

 陽菜乃の高校生活の大切な思い出になる。


 校門を出る。

「じゃ」

 柊真が言う。

「うん」

「成瀬にちゃんと言えよ」

「……うん」

「また変なところで怖がんな」

「分かってる」

「ほんとか?」

「ほんと!」

「信用できねえ」

「もう!」

 最後まで。

 いつものやり取り。

 でも。

 柊真が背を向けた時。

 陽菜乃の胸は。

 少しだけ痛かった。

「柊真くん」

 呼び止める。

「何」

「……ありがとう」

 柊真は。

 少しだけ黙って。

「うん」

 それだけ答えた。

 そして。

 今度こそ歩いていった。


 一人になった陽菜乃は。

 ゆっくり歩き出した。

 空は淡い夕焼け。

 冷たい風が。

 髪を揺らす。

 胸は。

 少し寂しい。

 でも。

 不思議なくらい。

 すっきりしていた。

 もう。

 分からないふりをしない。

 陽菜乃は。

 ちゃんと自分で選んだ。

 柊真への気持ちも。

 大切だった。

 嘘ではなかった。

 でも。

 一番。

 会いたい人。

 一番。

 笑ってほしい人。

 一番。

 自分の隣にいてほしい人。

「……湊」

 名前を口にする。

 それだけで。

 胸が。

 きゅっと。

 あたたかくなる。

 スマホを取り出す。

 湊とのトーク画面。

 指が。

 少しだけ震える。

『今日、話せる?』

 打つ。

 でも。

 送信する前に。

 手が止まった。

(また怖がってる)

 自分で気づく。

 柊真との約束。

『もう逃げんなよ』

「……うん」

 陽菜乃は小さくつぶやいた。

 そして。

 送信。

『今日、話せる?』

 すぐ。

 既読がついた。

 数秒後。

『話せる。どうした?』

 陽菜乃は画面を見つめた。

 返事を打つ。

『ちゃんと返事したい』

 今度は。

 迷わなかった。


 隣の家。

 自分の部屋でスマホを見ていた湊は。

 そのメッセージを読んだまま。

 動けなくなっていた。

『ちゃんと返事したい』

「……」

 心臓が。

 信じられないくらい速い。

 いい返事なのか。

 悪い返事なのか。

 分からない。

 でも。

 明日。

 陽菜乃から。

 答えを聞く。

 湊はスマホを握った。

「……待ってる」

 誰にも聞こえない声で。

 そうつぶやいた。

 長くすれ違った二人の恋が。

 今度こそ。

 同じ場所へ向かおうとしていた。