ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 一月も終わりに近づいた頃。

 朝から冷たい雨が降っていた。

 校舎の窓ガラスには細かな水滴がつき、灰色の空をぼんやり映している。

 小宮山陽菜乃は、二年二組の自分の席で、一枚の紙を何度も見つめていた。

『ダンス部・冬季発表会 選抜メンバー発表』

 その下。

 十人ほど並んだ名前の中に。

 小宮山陽菜乃。

 確かに、自分の名前があった。

「陽菜乃、おめでとう!」

「……ありがとう」

 美緒がうれしそうに肩をたたく。

「すごいじゃん! 選抜だよ?」

「うん……」

「もっと喜びなよ」

「うれしいよ」

 それは本当だった。

 ずっと頑張ってきた。

 文化祭が終わってからも、毎日練習した。

 冬休みに入っても、家で動画を見ながら何度も振りを確認した。

 だから、選ばれたことは本当にうれしい。

 ただ。

 発表会の会場は、市民ホール。

 学校の体育館よりずっと大きい。

 観客も、学校の生徒だけではない。

 しかも今回。

 陽菜乃には、前列で踊るパートが与えられていた。

「……失敗したらどうしよう」

 陽菜乃は紙の端を指先でつまんだ。

「またそれ言ってる」

「だって」

「選ばれたってことは、先生も先輩も陽菜乃ならできるって思ったんでしょ?」

「でも……」

 頭では分かっている。

 それでも。

 怖いものは怖い。

 ダンスをすることは好きだ。

 音楽が流れれば、自然に体も動く。

 でも。

 大事な舞台になるほど、

『失敗できない』

 という気持ちが大きくなる。

「陽菜乃」

 後ろから声がした。

「え?」

 振り返る。

 柊真が、机の横に立っていた。

「選ばれたんだって?」

「うん」

「おめでと」

「ありがとう」

「で、なんでそんな顔してんの」

「そんな顔?」

「今にも『私には無理かも』って言いそうな顔」

「……」

 陽菜乃は何も言えなくなった。

 当たっていた。

 柊真が少し笑う。

「やっぱり」

「だって、大きい会場なんだよ?」

「うん」

「前のほうで踊るし」

「うん」

「失敗したら目立つよ」

「じゃあ練習すれば?」

「……簡単に言う」

 陽菜乃が少し頬をふくらませる。

 すると柊真は、からかうような顔をやめた。

「簡単だとは思ってねえよ」

「え?」

「陽菜乃がずっと練習してんの知ってるから」

「……」

「選ばれたんなら、やってみればいいじゃん」

 柊真はまっすぐ陽菜乃を見る。

「俺は、陽菜乃ならできると思ってる」

 胸の奥が、じんわり温かくなった。

「……ありがとう」

「うん」

 柊真はそれだけ言って、自分の席へ戻っていく。

 陽菜乃はその背中を見ながら、小さく笑った。

 やっぱり。

 柊真は優しい。

 いつも、陽菜乃が前へ進むための言葉をくれる。


 放課後。

 ダンス部では、さっそく発表会に向けた練習が始まった。

「選抜メンバー、前へ!」

「はい!」

 陽菜乃は指定された位置へ移動する。

 鏡張りの壁。

 天井の高い体育館。

 床にはテープで立ち位置が示されている。

「今回の曲はテンポが速いから、途中で遅れたらすぐ目立つよ」

 部長の奏が説明する。

「特に前列。陽菜乃」

「はい!」

「ここのターンのあと、半歩前。そこだけ今日少し遅れてた」

「分かりました」

「でも全体はいいよ」

「ありがとうございます」

 音楽が流れる。

 陽菜乃は集中した。

 右。

 左。

 腕を伸ばす。

 回る。

 次の列へ。

 一曲が終わる。

「もう一回!」

「はい!」

 何度も繰り返す。

 汗が額を伝った。

 冬なのに、体育館の中では体が熱い。

「陽菜乃、ターン!」

「はい!」

 足を踏み込む。

 回る。

 その瞬間。

「……あっ」

 わずかに軸がずれた。

 足がもつれる。

 転びはしなかった。

 でも曲には遅れた。

「止める!」

 音楽が消える。

 陽菜乃の胸がぎゅっと縮んだ。

「ごめんなさい!」

 すぐに頭を下げる。

「大丈夫」

 奏は怒らなかった。

「でも焦ると余計に崩れるよ」

「……はい」

「五分休憩しよう」

 みんなが壁際へ移動していく。

 陽菜乃もタオルを持って座った。

 ペットボトルを開ける。

 でも。

 なかなか飲む気になれなかった。

(また失敗した)

 発表会まで、まだ時間はある。

 分かっている。

 でも。

 自分だけが遅れた。

 そのことが頭から離れない。

「陽菜乃」

 美緒が隣へ座る。

「大丈夫?」

「……うん」

「またその返事」

「だって」

 陽菜乃は膝を抱える。

「みんなちゃんとできてるのに」

「まだ初日みたいなもんだよ」

「でも本番でもああなったら……」

「ならないように練習するんでしょ?」

「……うん」

 美緒も柊真と同じことを言う。

 分かっている。

 なのに。

 気持ちは簡単にはついてこなかった。


 練習が終わったのは、午後六時半を過ぎてからだった。

 外はすでに暗い。

 雨は朝より弱くなっていたけれど、まだ細かく降り続いている。

 陽菜乃は昇降口で傘を開いた。

「陽菜乃」

 聞き慣れた声に振り返る。

「……湊?」

 校門近く。

 大きな黒い傘を持った湊が立っていた。

 サッカー部は、雨のため今日は早く終わったらしい。

 以前なら。

 湊が待っているだけで、

『一緒に帰れる!』

 とうれしくなっていた。

 でも今は。

 告白されてから。

 少しだけ緊張する。

「まだいたんだ」

「うん」

 湊は陽菜乃へ近づく。

「今帰り?」

「うん」

「……今日、一緒に帰ってもいい?」

 陽菜乃は少し驚いた。

 昔なら。

『帰るぞ』

 だった。

 陽菜乃の予定を聞かず、当たり前のように並んで歩き始めた。

 それが嫌だったわけではない。

 むしろ。

 その当たり前が大好きだった。

 でも今の湊は。

 ちゃんと聞いてくれる。

「……うん」

 陽菜乃は答えた。

「一緒に帰ろ」


 二人で住宅街へ向かう。

 傘に落ちる雨の音。

 街灯の光が、濡れた道路に細長く映っている。

 陽菜乃は自分の傘。

 湊も自分の傘。

 少しだけ間を空けて並んで歩く。

「今日、ダンス遅かった?」

「うん」

「発表会?」

「知ってるの?」

「学校の掲示板に出てた」

「あ……」

「選抜、おめでとう」

 湊が言う。

 陽菜乃は少し笑った。

「ありがとう」

「すごいじゃん」

「……でも」

「でも?」

 陽菜乃は少し迷った。

 言わなくてもいい。

 そう思った。

 でも。

 昔から。

 湊には弱いところまで全部見せてきた。

「今日、失敗しちゃった」

「何を?」

「ターン」

「転んだ?」

「転んでないよ!」

「ならよかった」

「よくないよ」

 陽菜乃は少しむっとする。

「曲に遅れたの」

「ああ」

「本番でも失敗したらどうしようって思って……」

 そこまで言う。

 以前の湊なら。

『陽菜乃なら大丈夫だって』

 とすぐ言っただろう。

 でも今日は。

 少しだけ黙った。

「陽菜乃」

「なに?」

「やめたい?」

 思っていなかった質問だった。

「え?」

「失敗するの怖いから、選抜やめたい?」

「……それは嫌」

 すぐに答えた。

「せっかく選んでもらったし」

「うん」

「ちゃんと踊りたい」

「じゃあ、やればいいんじゃない?」

「……」

「失敗するかもしれないけど」

 陽菜乃は湊を見る。

「失敗しても?」

「うん」

「前だったら『絶対大丈夫』って言ったのに」

「言ったかも」

 湊が少し笑う。

「でも」

 前を向く。

「俺、最近分かったから」

「何を?」

「勝手に相手のこと決めつけるの、よくないって」

 胸が小さく動いた。

「陽菜乃が本当に怖いなら、やめたっていい」

「……」

「でもやりたいなら」

 湊は陽菜乃を見る。

「俺は、応援する」

 静かな言葉。

 柊真とは少し違う。

 でも。

 どちらも。

 陽菜乃自身に決めさせてくれる。

 それが。

 今の陽菜乃には嬉しかった。

「……やる」

「うん」

「ちゃんと練習する」

「頑張れ」

 湊が笑う。

 その笑顔。

 昔から何度も見てきた。

 なのに。

 今は。

 少しだけ新しく見えた。


 翌日から。

 陽菜乃は、前よりも練習に集中した。

「もう一回お願いします!」

 自分から言う。

 ターン。

 止まる。

 位置を確認。

「陽菜乃、今いい!」

「はい!」

 家へ帰ってからも。

 鏡の前で何度も練習した。

 足の位置。

 腕の高さ。

 顔の向き。

 その間。

 柊真も。

 湊も。

 何度か励ましてくれた。

『今日遅くなる?』

 柊真からメッセージ。

『うん。でも前よりできるようになった!』

『ならよかった』

 短い。

 でも。

 読めば嬉しい。

 別の日には湊から。

『発表会って一般でも見れる?』

 と届いた。

 陽菜乃は画面を見て、少し驚いた。

『うん。入場無料だよ』

『じゃあ行く』

 それだけ。

 でも。

 陽菜乃の胸は大きく動いた。

(湊、来るんだ)

 そしてすぐ。

(柊真くんも……来てくれるかな)

 どちらも気になった。

 そのことに。

 自分で少し困った。


 発表会当日。

 市民ホール。

 舞台裏には、緊張した空気が広がっていた。

「陽菜乃、リボン曲がってる」

「あっ」

 美緒に直してもらう。

「ありがとう」

「顔白いよ」

「緊張してる……」

「知ってる」

 陽菜乃は鏡を見る。

 白を基調にした衣装。

 髪は高くまとめている。

 ステージ用のメイク。

 いつもの自分とは違って見える。

 それでも。

 指先は落ち着かない。

 ぎゅっと。

 衣装の端を握る。

「陽菜乃」

 奏が声をかける。

「そろそろ」

「はい」

 舞台袖へ移動する。

 客席は見えない。

 でも。

 大勢の人の気配がする。

 ざわざわ。

 小さな話し声。

 陽菜乃の心臓が速くなる。

(大丈夫)

 そう言い聞かせる。

 失敗しても。

 それで全部が終わるわけではない。

 でも。

 やるなら。

 自分ができる全部を出したい。

「行くよ!」

「はい!」

 照明が落ちる。

 音楽。

 舞台へ。


 最初の一歩。

 ライトがまぶしい。

 客席は暗くて、顔まではよく見えない。

 陽菜乃は曲だけを聞いた。

 右へ。

 左へ。

 腕。

 足。

 ターン。

(ここ)

 練習で何度も失敗した場所。

 体を回す。

 着地。

 できた。

 その瞬間。

 陽菜乃の顔に笑顔が戻る。

 そのあとは。

 楽しかった。

 音楽。

 仲間。

 光。

 全部。

 踊ることが好き。

 やっぱり。

 そう思った。

 最後のポーズ。

 音楽が止まる。

 大きな拍手。

「……!」

 終わった。

 ちゃんと。

 踊り切った。

「やったー!」

 舞台裏へ戻った瞬間。

 美緒と抱き合った。

「陽菜乃、ターン完璧だった!」

「ほんと?」

「ほんと!」

「よかった……!」

 胸の奥にあった重いものが、一気になくなる。

 陽菜乃は嬉しくて。

 何度も笑った。

「あとでロビー行こう!」

「うん!」

 着替えを終え。

 部員たちとロビーへ出る。

 保護者。

 友達。

 たくさんの人。

「陽菜乃!」

 声をかけられる。

「すごかった!」

「ありがとう!」

 ダンス部の後輩。

 クラスメイト。

 何人もいる。

 陽菜乃は笑いながら答えた。

 でも。

 気づけば。

 誰かを探していた。

(……どこ?)

 人の間。

 一人。

 二人。

 見つからない。

 その時。

「陽菜乃」

 後ろから声。

 振り返る。

「柊真くん!」

 黒いコート姿。

 手には小さな紙袋。

「来てくれたの?」

「ああ」

「言ってくれたらよかったのに!」

「言ったら緊張するかと思って」

「……したかも」

「だろ」

 柊真が笑う。

「どうだった?」

 陽菜乃が聞く。

「よかった」

「ほんと?」

「めちゃくちゃ」

 陽菜乃は嬉しくなる。

「ターンも?」

「どれがターンか分かんねえ」

「もう!」

「でも」

 柊真はまっすぐ陽菜乃を見る。

「かっこよかった」

「……」

 かわいいではなく。

 かっこいい。

 それが。

 なんだか嬉しかった。

「ありがとう」

「ん」

 紙袋を差し出される。

「これ」

「なに?」

「差し入れ」

 中を見る。

 陽菜乃が好きないちご味のお菓子。

「……覚えてた?」

「忘れるかよ」

 胸が温かくなる。


 そして。

 陽菜乃は。

 柊真と話しながらも。

 もう一度。

 ロビーの奥を見た。

(湊……)

 来ると言っていた。

 でも。

 まだ見つからない。

「陽菜乃」

「え?」

 柊真が気づく。

「成瀬探してる?」

 陽菜乃の動きが止まる。

 嘘をつこうとして。

 やめた。

「……うん」

 正直に答えた。

 柊真は。

 少しだけ寂しそうな顔をした。

 でも。

「そっか」

 それだけだった。

「ごめん」

「謝るな」

「でも」

「探せばいいだろ」

「……」

 陽菜乃は何も言えなかった。

 その時。

 人混みの向こう。

 見つけた。

「……湊」

 湊がいた。

 少し離れた場所。

 悠人と一緒。

 そして。

 目が合った。

 その瞬間。

 胸が。

 どくん。

 大きく鳴った。

 陽菜乃は。

 考えるより先に。

「湊!」

 名前を呼んでいた。

 湊が少し驚く。

 陽菜乃は。

 一歩。

 前へ出た。

 その瞬間。

 自分自身も気づいてしまった。

 たくさんの人の中で。

 発表を終えたあと。

 一番に。

 見つけたかった人。

 褒めてもらいたかった人。

 それは。

 ――湊だった。


「陽菜乃」

 湊が近づいてくる。

「見た?」

 陽菜乃は、自分でも驚くほどすぐに聞いた。

「ああ」

「最初から?」

「最初から」

「ターン……」

「成功してた」

 湊が笑う。

「分かったの?」

「陽菜乃、ずっとそこ気にしてたから」

「……」

 覚えていた。

 あの日。

 帰り道で話したこと。

 ほんの小さなこと。

「よかった」

 湊が言う。

「すごかった」

「……ありがとう」

 陽菜乃の胸が。

 熱くなる。

「途中」

 湊が続ける。

「楽しそうだった」

「うん」

「それ見てたら」

 少し照れたように笑う。

「俺も嬉しかった」

「……」

 何だろう。

 この気持ち。

 柊真に褒めてもらった時も。

 すごく嬉しかった。

 でも。

 湊の、

『俺も嬉しかった』

 を聞いた瞬間。

 胸の奥。

 ずっと昔からある場所が。

 強く動いた。

「湊」

「何?」

「来てくれてありがとう」

「うん」

 陽菜乃は笑った。

 湊も笑った。

 ほんの数秒。

 二人で見つめ合う。


 少し離れた場所。

 柊真は。

 その二人を見ていた。

「……」

 何も言わない。

 でも。

 たぶん。

 分かってしまった。

 陽菜乃が。

 成瀬を見つけた瞬間の顔。

 自分へ向けられる笑顔とは。

 少し違った。

 長い時間。

 ずっと好きだった人を見る顔。

「水野」

 悠人が近くまで来ていた。

「……何」

「お前、大丈夫?」

「何が」

「いや」

 悠人はそれ以上言わなかった。

「俺は」

 柊真は小さく言う。

「最初から分かってたし」

 陽菜乃の初恋が。

 簡単に終わるものではないことくらい。

 それでも。

 自分を見てくれるかもしれないと思っていた。

 今も。

 まだ諦めたくはない。

 でも。

 あの顔を見たら。

 何も分からないふりはできなかった。


 帰り。

 陽菜乃は家へ向かう電車の中で、一人窓の外を見ていた。

 美緒たちは別の車両。

 柊真も途中の駅で降りた。

 湊は悠人と用事があるらしく、少し遅れて帰ると言っていた。

 一人になった途端。

 今日のことが。

 何度も頭に浮かんだ。

 舞台。

 成功したターン。

 柊真の、

『かっこよかった』

 という言葉。

 いちごのお菓子。

 全部。

 嬉しかった。

 大切だった。

 でも。

 ロビーへ出た時。

 自分は。

 誰を探した?

「……」

 答えは。

 もう分かっている。

 湊。

 目が合った瞬間。

 考えるより先に名前を呼んだ。

 来てくれたと分かっただけで。

 どうしようもなく嬉しかった。

「……私」

 電車の窓に映る自分。

 少し困ったような顔。

 でも。

 もう。

 前ほど迷っていなかった。

 柊真の優しさは本物。

 柊真に心が傾いたのも本物。

 だから。

 軽い気持ちでなかったことにはしたくない。

 でも。

 自分が一番に見てほしかった人。

 一番に見つけてほしかった人。

 一番、隣にいてほしいと思った人。

 それは。

「……湊なんだ」

 初恋だからではない。

 昔から一緒だからだけでもない。

 離れて。

 別の人に心を動かされて。

 それでも。

 もう一度。

 湊を見た時。

 自分の心が。

 一番大きく動いた。

 陽菜乃は。

 胸元へそっと手を当てた。

 答えが。

 ようやく。

 見え始めていた。