ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 冬休みが終わった。

 一月の朝は、外へ出た瞬間に頬が痛くなるくらい冷たい。

 校門の脇には、まだ少しだけお正月らしい飾りが残っていたけれど、校舎の中はすっかりいつもの学校に戻っていた。

「陽菜乃、おはよー!」

「美緒ちゃん、おはよう」

 二年二組の教室へ入ると、美緒が大きく手を振った。

 久しぶりに会うクラスメイトたちも、

「あけおめ!」

「宿題終わった?」

「冬休み短すぎ!」

 と朝からにぎやかだ。

 陽菜乃も笑いながら自分の席へ向かう。

 そして。

 何気なく教室の後ろを見る。

 柊真は、もう来ていた。

 窓際の席で友達と話している。

 陽菜乃に気づくと、少しだけ手を上げた。

「おはよ」

「おはよう」

 それだけで。

 胸が少し温かくなる。

 初詣の日。

 柊真は言ってくれた。

『俺が好きなのは変わらないけど』

 冗談でもなく。

 からかうでもなく。

 まっすぐに。

 あれから陽菜乃は何度も、その言葉を思い出している。

 でも。

 同じくらい。

 湊の言葉も頭から離れなかった。

『俺が好きなのは、ずっと陽菜乃』

 ずっと好きだった人。

 今、心が傾き始めている人。

 どちらも大切で。

 簡単に答えを決めてはいけない気がした。

「陽菜乃」

「え?」

 美緒が前の席から振り返る。

「また難しい顔してる」

「してないよ」

「してる」

「……考え事」

「どっちの?」

「えっ」

「成瀬くん? 水野くん?」

「美緒ちゃん!」

 陽菜乃は慌てて周りを見る。

「声大きいよ!」

「ごめん、ごめん」

 美緒は笑う。

「でも、ちゃんと考えてるんでしょ?」

「……うん」

 陽菜乃は小さくうなずいた。

「今度は、ちゃんと自分で決めたいから」

「それでいいと思うよ」

 美緒が優しく笑った。

 陽菜乃も少しだけ笑い返した。


 二時間目が終わった休み時間。

 陽菜乃は職員室へ提出するプリントを抱えて、廊下を歩いていた。

 冬の太陽が窓から差し込み、床に長い四角い光を作っている。

「よいしょ……」

 プリントはそれほど重くない。

 でも量が多くて、少し前が見えにくい。

(今日は落とさない)

 そう思って、慎重に歩く。

「小宮山さん」

「え?」

 呼ばれて足を止めた。

 プリントの上から顔をのぞかせる。

 少し離れたところに、一ノ瀬美羽が立っていた。

「……美羽ちゃん」

 胸の奥が小さく揺れた。

 冬休みに入る前。

 湊から、美羽のSNSのことを聞いた。

 美羽が意図的に、付き合っているように見える投稿をしていたこと。

 陽菜乃に、

『どうだろうね』

 と言ったのも。

 勘違いしてほしい気持ちがあったからだということ。

 湊は謝ってくれた。

 でも。

 美羽とは、あれから一度も話していない。

「今、時間ある?」

 美羽が聞く。

「……職員室にこれ届けたあとなら」

「じゃあ待ってる」

「うん」

 美羽の顔は、以前と少し違って見えた。

 いつもなら明るく笑っていた。

 自信たっぷりに。

 でも今日は。

 少し緊張しているようだった。


 プリントを届けたあと。

 二人は、人の少ない渡り廊下へ向かった。

 外から冷たい風が入り込む。

 窓の向こうには、冬の校庭。

 サッカーゴールの白い枠が、青い空の下に見えている。

「……」

「……」

 しばらく。

 二人とも何も言わなかった。

 陽菜乃も、何から話せばいいのか分からない。

 やがて。

 美羽が先に口を開いた。

「ごめんなさい」

 陽菜乃は目を見開いた。

「……え?」

「ちゃんと謝りたかった」

 美羽はまっすぐ陽菜乃を見る。

「SNSのこと」

「……」

「それと」

 少しだけ視線を落とす。

「小宮山さんに、湊くんと付き合ってるのか聞かれた時のこと」

 胸がきゅっとした。

 あの日。

 どれだけ勇気を出したか。

 今でも覚えている。

『湊と付き合ってるの?』

 美羽は。

『どうだろうね』

 と笑った。

 それだけで。

 陽菜乃は。

 全部分かった気になってしまった。

「私」

 美羽が続ける。

「わざとだった」

「……」

「小宮山さんが、付き合ってるって思えばいいって思ってた」

 陽菜乃は黙って聞いた。

「どうして?」

 分かっている。

 それでも。

 本人の口から聞きたかった。

 美羽は少しだけ唇をかんだ。

「湊くんが好きだったから」

「……うん」

「一年生の頃から」

 窓の外を見る。

「でも、いつも小宮山さんがいた」

「……」

「朝も一緒」

「うん」

「学校でも、湊くんが気にするのは小宮山さん」

 美羽の声は。

 少し苦しそうだった。

「私がサッカー部でどれだけ一緒にいても」

「……」

「湊くんが試合のあと探すのは、小宮山さんだった」

 陽菜乃の胸が動く。

「……私を?」

「うん」

 美羽が少し寂しそうに笑った。

「毎回」

 知らなかった。

 陽菜乃は。

 いつも美羽ばかり見ていた。

 湊の隣にいる美羽。

 湊と笑う美羽。

 湊に飲み物を渡す美羽。

 だから。

 湊がどこを見ていたのかまで、気づけなかった。

「文化祭も」

 美羽が続ける。

「私と一緒にいたのに」

「……」

「湊くん、ずっと小宮山さんと水野くんのこと気にしてた」

「え?」

「分かりやすかったよ」

 陽菜乃は何も言えなくなる。

「だから」

 美羽は両手をぎゅっと握った。

「悔しかった」

 その声は。

 今まで陽菜乃が聞いたことのないほど素直だった。

「私だって好きなのにって思った」

「……」

「小宮山さんは、幼馴染ってだけで何もしなくても特別に見えて」

 美羽は少しだけ顔を伏せる。

「ずるいって思ってた」

 陽菜乃の胸が少し痛んだ。

 でも。

「私も」

 陽菜乃はゆっくり言った。

「美羽ちゃんがずるいって思ってたよ」

 美羽が顔を上げる。

「……え?」

「だって」

 陽菜乃も笑う。

 少しだけ。

 苦しい笑顔。

「私は湊がサッカーしてる時間、一緒にいられなかったから」

「……」

「美羽ちゃんは毎日近くにいられて」

 試合の日も。

 練習の日も。

 怪我をした時も。

「私の知らない湊をいっぱい知ってるように見えた」

 ずっと。

 羨ましかった。

「だから」

 陽菜乃は小さく息を吸った。

「お互い、相手ばっかり羨ましいって思ってたのかもね」

「……そうかも」

 美羽が少しだけ笑った。

 でも。

 すぐに表情を真面目に戻す。

「でも」

「うん」

「私がしたことは違う」

 陽菜乃を見る。

「小宮山さんが誤解するって分かってた」

「……」

「SNSも」

 美羽はスマホを取り出した。

「全部消した」

「え?」

「湊くんと付き合ってるみたいに見える投稿」

 画面を見せる。

 以前。

 何度も陽菜乃を苦しめた写真。

 もう、そこにはなかった。

「コメントも?」

「うん」

「……そっか」

「もうしない」

 美羽ははっきり言った。

「湊くんにも言われたし」

 少しだけ寂しそうな顔。

「私も、もうやめなきゃって思った」


「美羽ちゃん」

「うん?」

 陽菜乃は迷った。

 でも。

 ここで。

『大丈夫だよ』

『気にしてないよ』

 とは言いたくなかった。

 それでは。

 今までの自分の気持ちを、なかったことにしてしまう。

「私ね」

 自分の指先を見る。

「すごく傷ついたよ」

 美羽の顔が少し曇る。

「うん」

「SNS見るたびに」

 陽菜乃は続ける。

「湊の隣にいるのは、私じゃないんだって思った」

「……」

「試合で美羽ちゃんが抱きついた時も」

 あの日。

 湊に渡そうと思っていた飲み物を、鞄へ戻した。

「文化祭も」

 クレープを一緒に食べていた二人。

「誕生日も」

 自分のプレゼントを渡せなかった。

「クリスマスも」

 最後の匂わせ投稿。

 それを見た頃には。

 陽菜乃の心は。

 少しずつ柊真へ向き始めていた。

「だから」

 陽菜乃は美羽を見る。

「すぐに全部いいよっては言えない」

「……うん」

 美羽はうなずいた。

「分かってる」

「でも」

「……?」

「謝ってくれてありがとう」

 これは。

 本当にそう思った。

 美羽の目が少し揺れる。

「許してくれるの?」

「まだ分かんない」

 陽菜乃は正直に答えた。

「でも、ちゃんと話せてよかったとは思う」

「……そっか」

 美羽は少しだけ笑った。

「小宮山さんって」

「なに?」

「思ってたより強いね」

「え?」

 陽菜乃は驚く。

「私?」

「うん」

「全然だよ」

「前はもっと、何でも飲み込む子だと思ってた」

「……」

 確かに。

 少し前の陽菜乃なら。

 傷ついても。

『大丈夫』

 と笑って終わらせていた。

 でも。

 湊から離れて。

 柊真と出会って。

 いろいろなことがあって。

 少しずつ。

 自分の気持ちを言えるようになったのかもしれない。


「ねえ、小宮山さん」

 美羽が言った。

「もう一つだけ」

「なに?」

「湊くんから……聞いた?」

 何のことか。

 すぐに分かった。

「好きって?」

「……うん」

「聞いたよ」

 美羽は少しだけ目を伏せた。

 やっぱり。

 まだ苦しいのだと思う。

「そっか」

「……」

「じゃあ」

 美羽が笑う。

「私から言うことじゃないかもしれないけど」

 陽菜乃を見る。

「湊くん、本当にずっと小宮山さんしか見てなかったよ」

 胸が鳴る。

「でも……」

「私があれだけ近くにいても」

 美羽は苦笑した。

「一回も私を女の子として見てくれなかった」

「……」

「悔しいくらい」

 陽菜乃は何も言えなかった。

「私」

 美羽は窓の外へ視線を向ける。

「マネージャーだから、選手のこと見てるでしょう?」

「うん」

「だから分かるの」

 試合中。

 練習中。

「湊くん、何かあるたび小宮山さん探すから」

「……私を?」

「うん」

 陽菜乃の胸がじんわり熱くなる。

「体育祭で足ひねった時も」

「……」

「小宮山さん来ないかなって、ずっと見てた」

 陽菜乃は目を見開いた。

 あの日。

 美羽がいたから。

 自分は必要ないと思って戻った。

 でも。

 湊は。

 自分を待っていた。

「花火大会も」

 美羽が続ける。

「水野くんと歩いてる小宮山さん見つけてから、ずっと機嫌悪かった」

「……」

「文化祭なんてもっと分かりやすかったよ」

「どうして……」

 陽菜乃は小さく言う。

「私、全然気づかなかった」

「小宮山さんも水野くんのこと見てたからじゃない?」

「えっ」

 美羽が少し笑う。

「そこは否定しないんだ」

「……」

 否定できない。

 柊真は。

 陽菜乃にとって本当に大切になっている。

「水野くん、いい人だよね」

 美羽の言葉に。

 陽菜乃は驚いた。

「知ってるの?」

「噂くらい」

「怖いって?」

「最初は」

 美羽が笑う。

「でも小宮山さんに優しいの、見てれば分かる」

「……うん」

「だから」

 美羽は少しだけ寂しそうにする。

「迷うよね」

 陽菜乃は答えなかった。

 でも。

 その通りだった。


「じゃあ私、戻るね」

 美羽が歩き出そうとする。

「美羽ちゃん」

「なに?」

 陽菜乃は呼び止めた。

「サッカー部……辞めないよね?」

「え?」

「湊に振られたから」

 美羽は少し驚いたあと。

 小さく笑った。

「辞めないよ」

「……よかった」

「私、サッカー自体も好きだから」

「そっか」

「それに」

 美羽は少しだけ肩をすくめた。

「湊くんに振られたくらいで学校辞めるほど弱くないよ」

 その言葉に。

 陽菜乃も笑った。

「美羽ちゃんも強いね」

「小宮山さんには言われたくないかも」

「どうして?」

「自覚ないところ」

 二人は。

 初めて。

 少しだけ普通に笑い合った。

「じゃあね」

「うん」

 美羽は渡り廊下の向こうへ歩いていった。

 陽菜乃は。

 その後ろ姿を見送った。

 まだ。

 すぐに友達にはなれないと思う。

 傷ついた気持ちだって消えていない。

 でも。

 もう。

 美羽を怖いとは思わなかった。


 昼休み。

 陽菜乃は中庭のベンチに座っていた。

 一人。

 冬の空を見上げる。

 冷たい風。

 でも今日は。

 日差しがあるから少しだけ暖かい。

「こんなとこいた」

 声がして振り返る。

「柊真くん」

 柊真がパンと飲み物を持って立っていた。

「隣いい?」

「うん」

 ベンチへ座る。

「何してた?」

「考え事」

「珍しく真面目」

「いつも真面目だよ」

「そうだった?」

「もう」

 陽菜乃は少し笑う。

 柊真がパンの袋を開く。

「何かあった?」

「……美羽ちゃんと話した」

「マネージャー?」

「うん」

 柊真は驚いた様子を見せず、

「そっか」

 とだけ答える。

「何話したか聞かないの?」

「陽菜乃が話したければ聞く」

「……」

 また。

 この優しさ。

 陽菜乃は胸が温かくなる。

「謝ってくれた」

「うん」

「SNSのことも」

「そっか」

「湊のことも」

 柊真の手がほんの少し止まる。

 でも。

「うん」

 それだけ。

「柊真くん」

「ん?」

「怖くないの?」

「何が?」

「私が……湊を選ぶかもしれないって」

 言ってから。

 少し後悔した。

 でも。

 聞きたかった。

 柊真は少し考えて。

「怖いよ」

 あっさり答えた。

「……え?」

「普通に嫌」

「……」

「成瀬のほう行かれたら、かなりへこむ」

 陽菜乃の胸が大きく鳴る。

「でも」

 柊真は前を見る。

「それで陽菜乃に無理やり俺選ばせても意味ねえじゃん」

「……」

「俺が欲しいのは」

 少し照れたように。

「ちゃんと俺を好きな陽菜乃だから」

 陽菜乃は何も言えなくなった。

 胸が。

 どきどきする。

「だから」

 柊真がこちらを見る。

「考えろ」

「……うん」

「ちゃんと」

「うん」

「で、決まったら教えて」

「……分かった」

 陽菜乃は小さくうなずいた。


 その日の帰り道。

 陽菜乃は一人で歩いていた。

 以前なら。

 湊の言葉だけで。

 きっと答えは決まっていた。

 ずっと好きだった。

 両想いだった。

 それだけで。

 何も迷わなかったはず。

 でも今は。

 湊がずっと自分を見ていたと知っても。

 美羽とのことが全部誤解だったと分かっても。

 柊真のことを忘れることはできなかった。

 同時に。

 柊真に優しくされても。

 湊への気持ちが全部消えるわけでもない。

「……難しい」

 陽菜乃は空を見上げる。

 白い雲が。

 ゆっくり流れている。

 でも。

 前みたいに。

 苦しいから決めるのはやめよう。

 誰かに取られそうだから。

 寂しいから。

 優しくされたから。

 そんな理由ではなく。

 自分が本当に。

 その人の隣にいたいと思えるか。

「……ちゃんと考えよう」

 陽菜乃は小さくつぶやいた。

 美羽が教えてくれた。

 湊は。

 ずっと陽菜乃を見ていた。

 柊真は。

 今の陽菜乃を見て、待ってくれている。

 大切なのは。

 どちらから強く想われているかではない。

 陽菜乃自身が。

 誰を想っているのか。

 答えを出すのは。

 もう。

 ほかの誰でもなく。

 陽菜乃自身だった。