冬休みが終わった。
一月の朝は、外へ出た瞬間に頬が痛くなるくらい冷たい。
校門の脇には、まだ少しだけお正月らしい飾りが残っていたけれど、校舎の中はすっかりいつもの学校に戻っていた。
「陽菜乃、おはよー!」
「美緒ちゃん、おはよう」
二年二組の教室へ入ると、美緒が大きく手を振った。
久しぶりに会うクラスメイトたちも、
「あけおめ!」
「宿題終わった?」
「冬休み短すぎ!」
と朝からにぎやかだ。
陽菜乃も笑いながら自分の席へ向かう。
そして。
何気なく教室の後ろを見る。
柊真は、もう来ていた。
窓際の席で友達と話している。
陽菜乃に気づくと、少しだけ手を上げた。
「おはよ」
「おはよう」
それだけで。
胸が少し温かくなる。
初詣の日。
柊真は言ってくれた。
『俺が好きなのは変わらないけど』
冗談でもなく。
からかうでもなく。
まっすぐに。
あれから陽菜乃は何度も、その言葉を思い出している。
でも。
同じくらい。
湊の言葉も頭から離れなかった。
『俺が好きなのは、ずっと陽菜乃』
ずっと好きだった人。
今、心が傾き始めている人。
どちらも大切で。
簡単に答えを決めてはいけない気がした。
「陽菜乃」
「え?」
美緒が前の席から振り返る。
「また難しい顔してる」
「してないよ」
「してる」
「……考え事」
「どっちの?」
「えっ」
「成瀬くん? 水野くん?」
「美緒ちゃん!」
陽菜乃は慌てて周りを見る。
「声大きいよ!」
「ごめん、ごめん」
美緒は笑う。
「でも、ちゃんと考えてるんでしょ?」
「……うん」
陽菜乃は小さくうなずいた。
「今度は、ちゃんと自分で決めたいから」
「それでいいと思うよ」
美緒が優しく笑った。
陽菜乃も少しだけ笑い返した。
二時間目が終わった休み時間。
陽菜乃は職員室へ提出するプリントを抱えて、廊下を歩いていた。
冬の太陽が窓から差し込み、床に長い四角い光を作っている。
「よいしょ……」
プリントはそれほど重くない。
でも量が多くて、少し前が見えにくい。
(今日は落とさない)
そう思って、慎重に歩く。
「小宮山さん」
「え?」
呼ばれて足を止めた。
プリントの上から顔をのぞかせる。
少し離れたところに、一ノ瀬美羽が立っていた。
「……美羽ちゃん」
胸の奥が小さく揺れた。
冬休みに入る前。
湊から、美羽のSNSのことを聞いた。
美羽が意図的に、付き合っているように見える投稿をしていたこと。
陽菜乃に、
『どうだろうね』
と言ったのも。
勘違いしてほしい気持ちがあったからだということ。
湊は謝ってくれた。
でも。
美羽とは、あれから一度も話していない。
「今、時間ある?」
美羽が聞く。
「……職員室にこれ届けたあとなら」
「じゃあ待ってる」
「うん」
美羽の顔は、以前と少し違って見えた。
いつもなら明るく笑っていた。
自信たっぷりに。
でも今日は。
少し緊張しているようだった。
プリントを届けたあと。
二人は、人の少ない渡り廊下へ向かった。
外から冷たい風が入り込む。
窓の向こうには、冬の校庭。
サッカーゴールの白い枠が、青い空の下に見えている。
「……」
「……」
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
陽菜乃も、何から話せばいいのか分からない。
やがて。
美羽が先に口を開いた。
「ごめんなさい」
陽菜乃は目を見開いた。
「……え?」
「ちゃんと謝りたかった」
美羽はまっすぐ陽菜乃を見る。
「SNSのこと」
「……」
「それと」
少しだけ視線を落とす。
「小宮山さんに、湊くんと付き合ってるのか聞かれた時のこと」
胸がきゅっとした。
あの日。
どれだけ勇気を出したか。
今でも覚えている。
『湊と付き合ってるの?』
美羽は。
『どうだろうね』
と笑った。
それだけで。
陽菜乃は。
全部分かった気になってしまった。
「私」
美羽が続ける。
「わざとだった」
「……」
「小宮山さんが、付き合ってるって思えばいいって思ってた」
陽菜乃は黙って聞いた。
「どうして?」
分かっている。
それでも。
本人の口から聞きたかった。
美羽は少しだけ唇をかんだ。
「湊くんが好きだったから」
「……うん」
「一年生の頃から」
窓の外を見る。
「でも、いつも小宮山さんがいた」
「……」
「朝も一緒」
「うん」
「学校でも、湊くんが気にするのは小宮山さん」
美羽の声は。
少し苦しそうだった。
「私がサッカー部でどれだけ一緒にいても」
「……」
「湊くんが試合のあと探すのは、小宮山さんだった」
陽菜乃の胸が動く。
「……私を?」
「うん」
美羽が少し寂しそうに笑った。
「毎回」
知らなかった。
陽菜乃は。
いつも美羽ばかり見ていた。
湊の隣にいる美羽。
湊と笑う美羽。
湊に飲み物を渡す美羽。
だから。
湊がどこを見ていたのかまで、気づけなかった。
「文化祭も」
美羽が続ける。
「私と一緒にいたのに」
「……」
「湊くん、ずっと小宮山さんと水野くんのこと気にしてた」
「え?」
「分かりやすかったよ」
陽菜乃は何も言えなくなる。
「だから」
美羽は両手をぎゅっと握った。
「悔しかった」
その声は。
今まで陽菜乃が聞いたことのないほど素直だった。
「私だって好きなのにって思った」
「……」
「小宮山さんは、幼馴染ってだけで何もしなくても特別に見えて」
美羽は少しだけ顔を伏せる。
「ずるいって思ってた」
陽菜乃の胸が少し痛んだ。
でも。
「私も」
陽菜乃はゆっくり言った。
「美羽ちゃんがずるいって思ってたよ」
美羽が顔を上げる。
「……え?」
「だって」
陽菜乃も笑う。
少しだけ。
苦しい笑顔。
「私は湊がサッカーしてる時間、一緒にいられなかったから」
「……」
「美羽ちゃんは毎日近くにいられて」
試合の日も。
練習の日も。
怪我をした時も。
「私の知らない湊をいっぱい知ってるように見えた」
ずっと。
羨ましかった。
「だから」
陽菜乃は小さく息を吸った。
「お互い、相手ばっかり羨ましいって思ってたのかもね」
「……そうかも」
美羽が少しだけ笑った。
でも。
すぐに表情を真面目に戻す。
「でも」
「うん」
「私がしたことは違う」
陽菜乃を見る。
「小宮山さんが誤解するって分かってた」
「……」
「SNSも」
美羽はスマホを取り出した。
「全部消した」
「え?」
「湊くんと付き合ってるみたいに見える投稿」
画面を見せる。
以前。
何度も陽菜乃を苦しめた写真。
もう、そこにはなかった。
「コメントも?」
「うん」
「……そっか」
「もうしない」
美羽ははっきり言った。
「湊くんにも言われたし」
少しだけ寂しそうな顔。
「私も、もうやめなきゃって思った」
「美羽ちゃん」
「うん?」
陽菜乃は迷った。
でも。
ここで。
『大丈夫だよ』
『気にしてないよ』
とは言いたくなかった。
それでは。
今までの自分の気持ちを、なかったことにしてしまう。
「私ね」
自分の指先を見る。
「すごく傷ついたよ」
美羽の顔が少し曇る。
「うん」
「SNS見るたびに」
陽菜乃は続ける。
「湊の隣にいるのは、私じゃないんだって思った」
「……」
「試合で美羽ちゃんが抱きついた時も」
あの日。
湊に渡そうと思っていた飲み物を、鞄へ戻した。
「文化祭も」
クレープを一緒に食べていた二人。
「誕生日も」
自分のプレゼントを渡せなかった。
「クリスマスも」
最後の匂わせ投稿。
それを見た頃には。
陽菜乃の心は。
少しずつ柊真へ向き始めていた。
「だから」
陽菜乃は美羽を見る。
「すぐに全部いいよっては言えない」
「……うん」
美羽はうなずいた。
「分かってる」
「でも」
「……?」
「謝ってくれてありがとう」
これは。
本当にそう思った。
美羽の目が少し揺れる。
「許してくれるの?」
「まだ分かんない」
陽菜乃は正直に答えた。
「でも、ちゃんと話せてよかったとは思う」
「……そっか」
美羽は少しだけ笑った。
「小宮山さんって」
「なに?」
「思ってたより強いね」
「え?」
陽菜乃は驚く。
「私?」
「うん」
「全然だよ」
「前はもっと、何でも飲み込む子だと思ってた」
「……」
確かに。
少し前の陽菜乃なら。
傷ついても。
『大丈夫』
と笑って終わらせていた。
でも。
湊から離れて。
柊真と出会って。
いろいろなことがあって。
少しずつ。
自分の気持ちを言えるようになったのかもしれない。
「ねえ、小宮山さん」
美羽が言った。
「もう一つだけ」
「なに?」
「湊くんから……聞いた?」
何のことか。
すぐに分かった。
「好きって?」
「……うん」
「聞いたよ」
美羽は少しだけ目を伏せた。
やっぱり。
まだ苦しいのだと思う。
「そっか」
「……」
「じゃあ」
美羽が笑う。
「私から言うことじゃないかもしれないけど」
陽菜乃を見る。
「湊くん、本当にずっと小宮山さんしか見てなかったよ」
胸が鳴る。
「でも……」
「私があれだけ近くにいても」
美羽は苦笑した。
「一回も私を女の子として見てくれなかった」
「……」
「悔しいくらい」
陽菜乃は何も言えなかった。
「私」
美羽は窓の外へ視線を向ける。
「マネージャーだから、選手のこと見てるでしょう?」
「うん」
「だから分かるの」
試合中。
練習中。
「湊くん、何かあるたび小宮山さん探すから」
「……私を?」
「うん」
陽菜乃の胸がじんわり熱くなる。
「体育祭で足ひねった時も」
「……」
「小宮山さん来ないかなって、ずっと見てた」
陽菜乃は目を見開いた。
あの日。
美羽がいたから。
自分は必要ないと思って戻った。
でも。
湊は。
自分を待っていた。
「花火大会も」
美羽が続ける。
「水野くんと歩いてる小宮山さん見つけてから、ずっと機嫌悪かった」
「……」
「文化祭なんてもっと分かりやすかったよ」
「どうして……」
陽菜乃は小さく言う。
「私、全然気づかなかった」
「小宮山さんも水野くんのこと見てたからじゃない?」
「えっ」
美羽が少し笑う。
「そこは否定しないんだ」
「……」
否定できない。
柊真は。
陽菜乃にとって本当に大切になっている。
「水野くん、いい人だよね」
美羽の言葉に。
陽菜乃は驚いた。
「知ってるの?」
「噂くらい」
「怖いって?」
「最初は」
美羽が笑う。
「でも小宮山さんに優しいの、見てれば分かる」
「……うん」
「だから」
美羽は少しだけ寂しそうにする。
「迷うよね」
陽菜乃は答えなかった。
でも。
その通りだった。
「じゃあ私、戻るね」
美羽が歩き出そうとする。
「美羽ちゃん」
「なに?」
陽菜乃は呼び止めた。
「サッカー部……辞めないよね?」
「え?」
「湊に振られたから」
美羽は少し驚いたあと。
小さく笑った。
「辞めないよ」
「……よかった」
「私、サッカー自体も好きだから」
「そっか」
「それに」
美羽は少しだけ肩をすくめた。
「湊くんに振られたくらいで学校辞めるほど弱くないよ」
その言葉に。
陽菜乃も笑った。
「美羽ちゃんも強いね」
「小宮山さんには言われたくないかも」
「どうして?」
「自覚ないところ」
二人は。
初めて。
少しだけ普通に笑い合った。
「じゃあね」
「うん」
美羽は渡り廊下の向こうへ歩いていった。
陽菜乃は。
その後ろ姿を見送った。
まだ。
すぐに友達にはなれないと思う。
傷ついた気持ちだって消えていない。
でも。
もう。
美羽を怖いとは思わなかった。
昼休み。
陽菜乃は中庭のベンチに座っていた。
一人。
冬の空を見上げる。
冷たい風。
でも今日は。
日差しがあるから少しだけ暖かい。
「こんなとこいた」
声がして振り返る。
「柊真くん」
柊真がパンと飲み物を持って立っていた。
「隣いい?」
「うん」
ベンチへ座る。
「何してた?」
「考え事」
「珍しく真面目」
「いつも真面目だよ」
「そうだった?」
「もう」
陽菜乃は少し笑う。
柊真がパンの袋を開く。
「何かあった?」
「……美羽ちゃんと話した」
「マネージャー?」
「うん」
柊真は驚いた様子を見せず、
「そっか」
とだけ答える。
「何話したか聞かないの?」
「陽菜乃が話したければ聞く」
「……」
また。
この優しさ。
陽菜乃は胸が温かくなる。
「謝ってくれた」
「うん」
「SNSのことも」
「そっか」
「湊のことも」
柊真の手がほんの少し止まる。
でも。
「うん」
それだけ。
「柊真くん」
「ん?」
「怖くないの?」
「何が?」
「私が……湊を選ぶかもしれないって」
言ってから。
少し後悔した。
でも。
聞きたかった。
柊真は少し考えて。
「怖いよ」
あっさり答えた。
「……え?」
「普通に嫌」
「……」
「成瀬のほう行かれたら、かなりへこむ」
陽菜乃の胸が大きく鳴る。
「でも」
柊真は前を見る。
「それで陽菜乃に無理やり俺選ばせても意味ねえじゃん」
「……」
「俺が欲しいのは」
少し照れたように。
「ちゃんと俺を好きな陽菜乃だから」
陽菜乃は何も言えなくなった。
胸が。
どきどきする。
「だから」
柊真がこちらを見る。
「考えろ」
「……うん」
「ちゃんと」
「うん」
「で、決まったら教えて」
「……分かった」
陽菜乃は小さくうなずいた。
その日の帰り道。
陽菜乃は一人で歩いていた。
以前なら。
湊の言葉だけで。
きっと答えは決まっていた。
ずっと好きだった。
両想いだった。
それだけで。
何も迷わなかったはず。
でも今は。
湊がずっと自分を見ていたと知っても。
美羽とのことが全部誤解だったと分かっても。
柊真のことを忘れることはできなかった。
同時に。
柊真に優しくされても。
湊への気持ちが全部消えるわけでもない。
「……難しい」
陽菜乃は空を見上げる。
白い雲が。
ゆっくり流れている。
でも。
前みたいに。
苦しいから決めるのはやめよう。
誰かに取られそうだから。
寂しいから。
優しくされたから。
そんな理由ではなく。
自分が本当に。
その人の隣にいたいと思えるか。
「……ちゃんと考えよう」
陽菜乃は小さくつぶやいた。
美羽が教えてくれた。
湊は。
ずっと陽菜乃を見ていた。
柊真は。
今の陽菜乃を見て、待ってくれている。
大切なのは。
どちらから強く想われているかではない。
陽菜乃自身が。
誰を想っているのか。
答えを出すのは。
もう。
ほかの誰でもなく。
陽菜乃自身だった。
一月の朝は、外へ出た瞬間に頬が痛くなるくらい冷たい。
校門の脇には、まだ少しだけお正月らしい飾りが残っていたけれど、校舎の中はすっかりいつもの学校に戻っていた。
「陽菜乃、おはよー!」
「美緒ちゃん、おはよう」
二年二組の教室へ入ると、美緒が大きく手を振った。
久しぶりに会うクラスメイトたちも、
「あけおめ!」
「宿題終わった?」
「冬休み短すぎ!」
と朝からにぎやかだ。
陽菜乃も笑いながら自分の席へ向かう。
そして。
何気なく教室の後ろを見る。
柊真は、もう来ていた。
窓際の席で友達と話している。
陽菜乃に気づくと、少しだけ手を上げた。
「おはよ」
「おはよう」
それだけで。
胸が少し温かくなる。
初詣の日。
柊真は言ってくれた。
『俺が好きなのは変わらないけど』
冗談でもなく。
からかうでもなく。
まっすぐに。
あれから陽菜乃は何度も、その言葉を思い出している。
でも。
同じくらい。
湊の言葉も頭から離れなかった。
『俺が好きなのは、ずっと陽菜乃』
ずっと好きだった人。
今、心が傾き始めている人。
どちらも大切で。
簡単に答えを決めてはいけない気がした。
「陽菜乃」
「え?」
美緒が前の席から振り返る。
「また難しい顔してる」
「してないよ」
「してる」
「……考え事」
「どっちの?」
「えっ」
「成瀬くん? 水野くん?」
「美緒ちゃん!」
陽菜乃は慌てて周りを見る。
「声大きいよ!」
「ごめん、ごめん」
美緒は笑う。
「でも、ちゃんと考えてるんでしょ?」
「……うん」
陽菜乃は小さくうなずいた。
「今度は、ちゃんと自分で決めたいから」
「それでいいと思うよ」
美緒が優しく笑った。
陽菜乃も少しだけ笑い返した。
二時間目が終わった休み時間。
陽菜乃は職員室へ提出するプリントを抱えて、廊下を歩いていた。
冬の太陽が窓から差し込み、床に長い四角い光を作っている。
「よいしょ……」
プリントはそれほど重くない。
でも量が多くて、少し前が見えにくい。
(今日は落とさない)
そう思って、慎重に歩く。
「小宮山さん」
「え?」
呼ばれて足を止めた。
プリントの上から顔をのぞかせる。
少し離れたところに、一ノ瀬美羽が立っていた。
「……美羽ちゃん」
胸の奥が小さく揺れた。
冬休みに入る前。
湊から、美羽のSNSのことを聞いた。
美羽が意図的に、付き合っているように見える投稿をしていたこと。
陽菜乃に、
『どうだろうね』
と言ったのも。
勘違いしてほしい気持ちがあったからだということ。
湊は謝ってくれた。
でも。
美羽とは、あれから一度も話していない。
「今、時間ある?」
美羽が聞く。
「……職員室にこれ届けたあとなら」
「じゃあ待ってる」
「うん」
美羽の顔は、以前と少し違って見えた。
いつもなら明るく笑っていた。
自信たっぷりに。
でも今日は。
少し緊張しているようだった。
プリントを届けたあと。
二人は、人の少ない渡り廊下へ向かった。
外から冷たい風が入り込む。
窓の向こうには、冬の校庭。
サッカーゴールの白い枠が、青い空の下に見えている。
「……」
「……」
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
陽菜乃も、何から話せばいいのか分からない。
やがて。
美羽が先に口を開いた。
「ごめんなさい」
陽菜乃は目を見開いた。
「……え?」
「ちゃんと謝りたかった」
美羽はまっすぐ陽菜乃を見る。
「SNSのこと」
「……」
「それと」
少しだけ視線を落とす。
「小宮山さんに、湊くんと付き合ってるのか聞かれた時のこと」
胸がきゅっとした。
あの日。
どれだけ勇気を出したか。
今でも覚えている。
『湊と付き合ってるの?』
美羽は。
『どうだろうね』
と笑った。
それだけで。
陽菜乃は。
全部分かった気になってしまった。
「私」
美羽が続ける。
「わざとだった」
「……」
「小宮山さんが、付き合ってるって思えばいいって思ってた」
陽菜乃は黙って聞いた。
「どうして?」
分かっている。
それでも。
本人の口から聞きたかった。
美羽は少しだけ唇をかんだ。
「湊くんが好きだったから」
「……うん」
「一年生の頃から」
窓の外を見る。
「でも、いつも小宮山さんがいた」
「……」
「朝も一緒」
「うん」
「学校でも、湊くんが気にするのは小宮山さん」
美羽の声は。
少し苦しそうだった。
「私がサッカー部でどれだけ一緒にいても」
「……」
「湊くんが試合のあと探すのは、小宮山さんだった」
陽菜乃の胸が動く。
「……私を?」
「うん」
美羽が少し寂しそうに笑った。
「毎回」
知らなかった。
陽菜乃は。
いつも美羽ばかり見ていた。
湊の隣にいる美羽。
湊と笑う美羽。
湊に飲み物を渡す美羽。
だから。
湊がどこを見ていたのかまで、気づけなかった。
「文化祭も」
美羽が続ける。
「私と一緒にいたのに」
「……」
「湊くん、ずっと小宮山さんと水野くんのこと気にしてた」
「え?」
「分かりやすかったよ」
陽菜乃は何も言えなくなる。
「だから」
美羽は両手をぎゅっと握った。
「悔しかった」
その声は。
今まで陽菜乃が聞いたことのないほど素直だった。
「私だって好きなのにって思った」
「……」
「小宮山さんは、幼馴染ってだけで何もしなくても特別に見えて」
美羽は少しだけ顔を伏せる。
「ずるいって思ってた」
陽菜乃の胸が少し痛んだ。
でも。
「私も」
陽菜乃はゆっくり言った。
「美羽ちゃんがずるいって思ってたよ」
美羽が顔を上げる。
「……え?」
「だって」
陽菜乃も笑う。
少しだけ。
苦しい笑顔。
「私は湊がサッカーしてる時間、一緒にいられなかったから」
「……」
「美羽ちゃんは毎日近くにいられて」
試合の日も。
練習の日も。
怪我をした時も。
「私の知らない湊をいっぱい知ってるように見えた」
ずっと。
羨ましかった。
「だから」
陽菜乃は小さく息を吸った。
「お互い、相手ばっかり羨ましいって思ってたのかもね」
「……そうかも」
美羽が少しだけ笑った。
でも。
すぐに表情を真面目に戻す。
「でも」
「うん」
「私がしたことは違う」
陽菜乃を見る。
「小宮山さんが誤解するって分かってた」
「……」
「SNSも」
美羽はスマホを取り出した。
「全部消した」
「え?」
「湊くんと付き合ってるみたいに見える投稿」
画面を見せる。
以前。
何度も陽菜乃を苦しめた写真。
もう、そこにはなかった。
「コメントも?」
「うん」
「……そっか」
「もうしない」
美羽ははっきり言った。
「湊くんにも言われたし」
少しだけ寂しそうな顔。
「私も、もうやめなきゃって思った」
「美羽ちゃん」
「うん?」
陽菜乃は迷った。
でも。
ここで。
『大丈夫だよ』
『気にしてないよ』
とは言いたくなかった。
それでは。
今までの自分の気持ちを、なかったことにしてしまう。
「私ね」
自分の指先を見る。
「すごく傷ついたよ」
美羽の顔が少し曇る。
「うん」
「SNS見るたびに」
陽菜乃は続ける。
「湊の隣にいるのは、私じゃないんだって思った」
「……」
「試合で美羽ちゃんが抱きついた時も」
あの日。
湊に渡そうと思っていた飲み物を、鞄へ戻した。
「文化祭も」
クレープを一緒に食べていた二人。
「誕生日も」
自分のプレゼントを渡せなかった。
「クリスマスも」
最後の匂わせ投稿。
それを見た頃には。
陽菜乃の心は。
少しずつ柊真へ向き始めていた。
「だから」
陽菜乃は美羽を見る。
「すぐに全部いいよっては言えない」
「……うん」
美羽はうなずいた。
「分かってる」
「でも」
「……?」
「謝ってくれてありがとう」
これは。
本当にそう思った。
美羽の目が少し揺れる。
「許してくれるの?」
「まだ分かんない」
陽菜乃は正直に答えた。
「でも、ちゃんと話せてよかったとは思う」
「……そっか」
美羽は少しだけ笑った。
「小宮山さんって」
「なに?」
「思ってたより強いね」
「え?」
陽菜乃は驚く。
「私?」
「うん」
「全然だよ」
「前はもっと、何でも飲み込む子だと思ってた」
「……」
確かに。
少し前の陽菜乃なら。
傷ついても。
『大丈夫』
と笑って終わらせていた。
でも。
湊から離れて。
柊真と出会って。
いろいろなことがあって。
少しずつ。
自分の気持ちを言えるようになったのかもしれない。
「ねえ、小宮山さん」
美羽が言った。
「もう一つだけ」
「なに?」
「湊くんから……聞いた?」
何のことか。
すぐに分かった。
「好きって?」
「……うん」
「聞いたよ」
美羽は少しだけ目を伏せた。
やっぱり。
まだ苦しいのだと思う。
「そっか」
「……」
「じゃあ」
美羽が笑う。
「私から言うことじゃないかもしれないけど」
陽菜乃を見る。
「湊くん、本当にずっと小宮山さんしか見てなかったよ」
胸が鳴る。
「でも……」
「私があれだけ近くにいても」
美羽は苦笑した。
「一回も私を女の子として見てくれなかった」
「……」
「悔しいくらい」
陽菜乃は何も言えなかった。
「私」
美羽は窓の外へ視線を向ける。
「マネージャーだから、選手のこと見てるでしょう?」
「うん」
「だから分かるの」
試合中。
練習中。
「湊くん、何かあるたび小宮山さん探すから」
「……私を?」
「うん」
陽菜乃の胸がじんわり熱くなる。
「体育祭で足ひねった時も」
「……」
「小宮山さん来ないかなって、ずっと見てた」
陽菜乃は目を見開いた。
あの日。
美羽がいたから。
自分は必要ないと思って戻った。
でも。
湊は。
自分を待っていた。
「花火大会も」
美羽が続ける。
「水野くんと歩いてる小宮山さん見つけてから、ずっと機嫌悪かった」
「……」
「文化祭なんてもっと分かりやすかったよ」
「どうして……」
陽菜乃は小さく言う。
「私、全然気づかなかった」
「小宮山さんも水野くんのこと見てたからじゃない?」
「えっ」
美羽が少し笑う。
「そこは否定しないんだ」
「……」
否定できない。
柊真は。
陽菜乃にとって本当に大切になっている。
「水野くん、いい人だよね」
美羽の言葉に。
陽菜乃は驚いた。
「知ってるの?」
「噂くらい」
「怖いって?」
「最初は」
美羽が笑う。
「でも小宮山さんに優しいの、見てれば分かる」
「……うん」
「だから」
美羽は少しだけ寂しそうにする。
「迷うよね」
陽菜乃は答えなかった。
でも。
その通りだった。
「じゃあ私、戻るね」
美羽が歩き出そうとする。
「美羽ちゃん」
「なに?」
陽菜乃は呼び止めた。
「サッカー部……辞めないよね?」
「え?」
「湊に振られたから」
美羽は少し驚いたあと。
小さく笑った。
「辞めないよ」
「……よかった」
「私、サッカー自体も好きだから」
「そっか」
「それに」
美羽は少しだけ肩をすくめた。
「湊くんに振られたくらいで学校辞めるほど弱くないよ」
その言葉に。
陽菜乃も笑った。
「美羽ちゃんも強いね」
「小宮山さんには言われたくないかも」
「どうして?」
「自覚ないところ」
二人は。
初めて。
少しだけ普通に笑い合った。
「じゃあね」
「うん」
美羽は渡り廊下の向こうへ歩いていった。
陽菜乃は。
その後ろ姿を見送った。
まだ。
すぐに友達にはなれないと思う。
傷ついた気持ちだって消えていない。
でも。
もう。
美羽を怖いとは思わなかった。
昼休み。
陽菜乃は中庭のベンチに座っていた。
一人。
冬の空を見上げる。
冷たい風。
でも今日は。
日差しがあるから少しだけ暖かい。
「こんなとこいた」
声がして振り返る。
「柊真くん」
柊真がパンと飲み物を持って立っていた。
「隣いい?」
「うん」
ベンチへ座る。
「何してた?」
「考え事」
「珍しく真面目」
「いつも真面目だよ」
「そうだった?」
「もう」
陽菜乃は少し笑う。
柊真がパンの袋を開く。
「何かあった?」
「……美羽ちゃんと話した」
「マネージャー?」
「うん」
柊真は驚いた様子を見せず、
「そっか」
とだけ答える。
「何話したか聞かないの?」
「陽菜乃が話したければ聞く」
「……」
また。
この優しさ。
陽菜乃は胸が温かくなる。
「謝ってくれた」
「うん」
「SNSのことも」
「そっか」
「湊のことも」
柊真の手がほんの少し止まる。
でも。
「うん」
それだけ。
「柊真くん」
「ん?」
「怖くないの?」
「何が?」
「私が……湊を選ぶかもしれないって」
言ってから。
少し後悔した。
でも。
聞きたかった。
柊真は少し考えて。
「怖いよ」
あっさり答えた。
「……え?」
「普通に嫌」
「……」
「成瀬のほう行かれたら、かなりへこむ」
陽菜乃の胸が大きく鳴る。
「でも」
柊真は前を見る。
「それで陽菜乃に無理やり俺選ばせても意味ねえじゃん」
「……」
「俺が欲しいのは」
少し照れたように。
「ちゃんと俺を好きな陽菜乃だから」
陽菜乃は何も言えなくなった。
胸が。
どきどきする。
「だから」
柊真がこちらを見る。
「考えろ」
「……うん」
「ちゃんと」
「うん」
「で、決まったら教えて」
「……分かった」
陽菜乃は小さくうなずいた。
その日の帰り道。
陽菜乃は一人で歩いていた。
以前なら。
湊の言葉だけで。
きっと答えは決まっていた。
ずっと好きだった。
両想いだった。
それだけで。
何も迷わなかったはず。
でも今は。
湊がずっと自分を見ていたと知っても。
美羽とのことが全部誤解だったと分かっても。
柊真のことを忘れることはできなかった。
同時に。
柊真に優しくされても。
湊への気持ちが全部消えるわけでもない。
「……難しい」
陽菜乃は空を見上げる。
白い雲が。
ゆっくり流れている。
でも。
前みたいに。
苦しいから決めるのはやめよう。
誰かに取られそうだから。
寂しいから。
優しくされたから。
そんな理由ではなく。
自分が本当に。
その人の隣にいたいと思えるか。
「……ちゃんと考えよう」
陽菜乃は小さくつぶやいた。
美羽が教えてくれた。
湊は。
ずっと陽菜乃を見ていた。
柊真は。
今の陽菜乃を見て、待ってくれている。
大切なのは。
どちらから強く想われているかではない。
陽菜乃自身が。
誰を想っているのか。
答えを出すのは。
もう。
ほかの誰でもなく。
陽菜乃自身だった。

