次の日の朝。
「陽菜乃ー、行くぞー」
玄関の向こうから聞こえた声に、小宮山陽菜乃はびくっと肩を揺らした。
「い、今行く!」
鏡の前で髪を整えていた手を止め、慌てて鞄を持つ。
昨日と同じ朝。
いつもと同じように、湊が迎えに来てくれた。
それなのに今日は、玄関を開けるのが少しだけ怖かった。
昨日、美緒から見せてもらったメッセージ。
『成瀬と一ノ瀬って付き合ってるってほんと?』
その文字が、朝になっても頭から離れてくれない。
ただの噂。
まだ何も決まっていない。
そう思おうとしているのに、昨日グラウンドで見た二人の姿まで浮かんでくる。
美羽が渡したスポーツドリンク。
自然に受け取った湊。
そして――。
『ありがとう、美羽』
名前で呼んでいた。
「陽菜乃?」
「えっ」
「今日も遅い」
門の前に立っていた湊が、じっと陽菜乃を見る。
春の朝日が、湊の黒い髪を明るく照らしていた。
いつもの制服。
いつものスポーツバッグ。
いつもの湊。
なのに陽菜乃は、どうしていいのか分からなくなった。
「ご、ごめん」
「また謝ってる」
「だって待たせちゃったから」
「今日は二分だからいい」
「二分は待ったんだね……」
「数えてた」
湊が笑う。
陽菜乃もつられて笑いそうになって途中でやめた。
聞けばいい。
今なら二人きり。
学校までの道はいつもと同じで、周りには誰もいない。
少し勇気を出して、
『美羽ちゃんと付き合ってるの?』
そう聞くだけ。
「湊、あのね」
「ん?」
湊がこちらを見る。
陽菜乃は言葉を飲み込んだ。
「……なに?」
「あ……」
胸がどきどきする。
もし、うん、と言われたら。
今日から何かが変わってしまうような気がした。
朝、一緒に学校へ行くことも。
帰り道を並んで歩くことも。
家が隣だからと気軽に話すことも。
全部、美羽に悪いことになるのかもしれない。
「なんでもない」
「なんだよ、それ」
「ほんとになんでもないの」
「変なやつ」
湊は深く考えなかったようで、また前を向いた。
ほっとしたのに。
同時に、胸の奥が少し苦しくなる。
(聞けなかった……)
陽菜乃は足元へ視線を落とした。
道路の端には、昨日の風で落ちた桜の花びらがいくつも重なっている。
去年の春も、湊とこの道を歩いていた。
その時は、湊の隣に知らない女の子がいるなんて考えたこともなかった。
「陽菜乃」
「え?」
「前」
言われて顔を上げた瞬間、電柱が目の前にあった。
「わっ!」
慌てて止まろうとする。
けれど間に合わない。
腕をつかまれ、ぐいっと横へ引かれた。
「危ないって」
湊だった。
「ご、ごめん……」
「今日どうした?」
「何が?」
「ぼーっとしすぎ」
「ちょっと考え事してただけ」
「歩きながら考えるなよ」
「そんな無茶な……」
「陽菜乃ならほんとにどっかぶつかるから」
「もう」
陽菜乃は頬をふくらませる。
けれど、つかまれた腕が少しだけ熱かった。
やっぱり優しい。
だからこそ、聞くのが怖い。
もしその優しさが、もう自分だけに向けられるものではないのだと知ってしまったら。
そう思うと、また何も言えなくなった。
「小宮山さん、おはよう」
「おはよう」
「陽菜乃、おはよー!」
「美緒ちゃん、おはよう」
二年二組の教室は、朝からいつも以上ににぎやかだった。
窓から入る春の風がカーテンをふわりと揺らし、机の間を生徒たちが行き来している。
陽菜乃が席へ着いた途端、美緒が前の席から身を乗り出してきた。
「ねえ、昨日の話」
「……うん」
「成瀬くんに聞いた?」
陽菜乃は小さく首を横に振った。
「聞けなかった」
「やっぱり」
「そんな顔しないでよ」
「だって、朝一緒に来たんでしょ?」
「うん」
「二人きりだったんでしょ?」
「……うん」
「最高のタイミングじゃん」
「そうなんだけど……」
陽菜乃は机の上に鞄を置き、そっと息をつく。
「怖かったの」
その言葉に、美緒の表情が少し変わった。
「もし本当だったら?」
「うん」
陽菜乃は自分の制服の袖を指先でつまんだ。
「湊が自分から『付き合ってる』って言ったら……たぶん私、普通にできない」
「陽菜乃……」
「だから、知らないほうがいいのかなって」
「それは違うと思うけどなあ」
美緒は困ったように眉を下げた。
その時。
教室の後ろから、女子たちの明るい声が聞こえてきた。
「ねえ、聞いた?」
「何?」
「五組の成瀬くんと一ノ瀬さん!」
陽菜乃の手が止まる。
聞こうと思ったわけではなかった。
でも、名前が耳に入ってしまった。
「やっぱ付き合ってるっぽいよ」
「えー! ほんと?」
「昨日、部活終わりも二人で話してたって」
「一ノ瀬さん、成瀬くんのこと『湊くん』って呼んでるし」
「お似合いじゃない?」
くすくすと笑う声。
陽菜乃は顔を上げられなかった。
机の木目ばかりが目に入る。
(お似合い……)
確かにそうかもしれない。
美羽は明るくて、可愛くて、誰にでも堂々と話せる。
サッカー部のマネージャーだから、湊が好きなサッカーのことも分かる。
試合にも行ける。
練習の時も一緒にいられる。
自分より、ずっと湊のそばにいる。
「陽菜乃」
美緒が小声で呼ぶ。
「大丈夫?」
「……うん」
「全然大丈夫そうじゃない」
「ほんとに」
陽菜乃は無理に笑った。
その時だった。
ガタン。
椅子を引く音がして、隣の列から誰かが立ち上がる。
「朝からうるせえな」
低い声。
教室がほんの少し静かになった。
水野柊真だった。
少し明るい髪。
今日もネクタイがゆるく、制服はきっちり着ているとは言いにくい。
柊真がさっき噂をしていた女子たちを見る。
「本人でもねえのに、よくそんな盛り上がれるな」
「み、水野には関係ないじゃん」
「じゃあ本人にも関係ないだろ。噂だけで勝手に決めんなよ」
女子たちは顔を見合わせ、そのまま別の話題に変えた。
陽菜乃は目をぱちぱちさせる。
柊真は何事もなかったように自分の席へ戻る。
「水野くん」
「ん?」
「……ありがとう」
「何が?」
「さっき」
「別に陽菜乃のためじゃねえよ」
そう言いながら、柊真は机に頬杖をついた。
でも少しだけ、陽菜乃の顔を見る。
「つーか、お前が分かりやすくへこんでたから気になっただけ」
「……分かりやすかった?」
「めちゃくちゃ」
「そんな……」
陽菜乃は恥ずかしくなって俯く。
柊真は小さく笑った。
「その噂の男、幼馴染なんだろ?」
「うん」
「じゃあ本人に聞けば?」
「美緒ちゃんと同じこと言う……」
「普通そうだろ」
「聞けないから困ってるの」
「なんで?」
陽菜乃は答えられなかった。
好きだから。
その一言を柊真に言うのは恥ずかしい。
「……秘密」
「ふーん」
柊真はそれ以上聞かなかった。
ただ、
「まあ、噂なんて半分くらい適当だろ」
とだけ言う。
その言葉に、陽菜乃は少しだけ救われた気がした。
昼休み。
陽菜乃と美緒は教室でお弁当を広げていた。
「今日の卵焼きおいしそう」
「お母さんが作ってくれたの」
「ひとつちょうだい」
「いいよ」
陽菜乃が卵焼きを美緒のお弁当箱へ移した、その時。
「陽菜乃」
教室の入り口から聞き慣れた声。
顔を上げる。
「湊」
いつものように湊が立っていた。
陽菜乃の胸が少しだけ明るくなる。
朝からずっと気持ちは重かったけれど、顔を見るとやっぱり嬉しい。
「何?」
「これ」
湊が小さな袋を差し出した。
「昨日、うちの母さんが焼いたクッキー。陽菜乃んちにも渡してって」
「香織さんが?」
「うん」
「わあ、ありがとう」
陽菜乃は両手で受け取った。
湊のお母さんのお菓子は、昔から大好きだ。
「帰ったらお礼言っといて」
「自分で言えよ。どうせ家隣なんだから」
「それもそうだね」
思わず笑う。
その時。
「湊くん!」
廊下から明るい声がした。
陽菜乃の笑顔が止まった。
美羽だった。
サッカー部のジャージではなく、今日は制服姿。
髪をふんわり一つにまとめていて、教室の中でも目を引くくらい可愛らしい。
「こんなところにいたんだ」
「何?」
「昼休み、サッカー部のミーティングあるって先輩が呼んでたよ」
「あ、忘れてた」
「もう。キャプテン探してたよ?」
「悪い」
美羽が陽菜乃を見る。
一瞬だけ目が合う。
「小宮山さん?」
「……うん」
「湊くんの幼馴染だよね」
陽菜乃は驚いた。
「私のこと知ってるの?」
「もちろん。湊くんから聞いたことあるし」
「え……」
湊から。
その言葉だけで、胸が少し跳ねる。
でも美羽は明るく続けた。
「家も隣なんでしょ? すごいよね。幼稚園から一緒なんだっけ?」
「うん……」
「本当の兄妹みたい」
「……!」
兄妹。
何気ない一言。
なのに、陽菜乃の胸に小さな針が刺さったようだった。
「あ、美羽。行くぞ」
「うん」
湊は何も気づいていない。
「陽菜乃、またあとで」
「……うん」
美羽と並んで廊下を歩いていく。
二人の後ろ姿を、陽菜乃はじっと見つめた。
本当の兄妹みたい。
(そう見えるんだ……)
幼馴染として近いだけ。
女の子として特別なわけじゃない。
分かっていたはずなのに。
改めて誰かに言われると、思っていたよりずっと苦しい。
「陽菜乃」
美緒が心配そうに見る。
「美羽ちゃん、悪気はないと思うけど……」
「うん。分かってる」
陽菜乃は笑った。
「本当に、兄妹みたいなものだし」
自分で言った言葉なのに。
胸がもっと痛くなった。
放課後。
ダンス部の練習では、文化祭に向けた新しい振り付けの確認が始まっていた。
「陽菜乃、そこ半歩右!」
「はい!」
「次、ターン!」
音楽に合わせて体を動かす。
踊っている時だけは、余計なことを考えずにすむ。
足を踏み出して。
腕を上げて。
音に合わせて回る。
窓から差し込む夕日の中で、みんなの影が体育館の床に長く伸びていた。
「今日はここまで!」
「ありがとうございました!」
練習が終わると、陽菜乃はほっとして床へ座った。
「疲れたぁ……」
「陽菜乃、今日ちょっと動き固かったよ」
隣に座った美緒がペットボトルを開けながら言う。
「やっぱり?」
「成瀬くんのこと考えてた?」
「ち、違うよ」
「顔に書いてある」
「もう……」
陽菜乃はタオルで顔を隠した。
そんな時、体育館の入り口から先生に呼ばれる。
「小宮山ー、これダンス部の荷物だって。倉庫へ運んどいてくれ」
見ると、衣装用の布が入った大きな箱が二つ。
「はい!」
返事をしたものの。
実際に持ってみると、思ったより重い。
「う……」
「陽菜乃、私一個持とうか?」
美緒が言ってくれたが、別の先輩に呼ばれてしまう。
「大丈夫。私、一個ずつ運ぶから」
本当は少し大変。
でも何でも人に頼ってばかりなのも嫌だった。
一つ目の箱を抱え、廊下へ出る。
前が少し見えにくい。
「よいしょ……」
慎重に歩いているつもりだった。
なのに。
床に置かれていた小さな段差に気づかなかった。
「あっ」
体がぐらりと傾く。
箱が腕から滑り落ちそうになる。
「危ねえ!」
横から誰かが箱をつかんだ。
同時に、陽菜乃の肩も支えられる。
「……え?」
「お前、また何やってんの」
「水野くん」
柊真だった。
「これ、一人で運んでた?」
「うん」
「なんで?」
「部活の荷物だから」
「そういう意味じゃねえよ」
柊真は箱を陽菜乃から取り上げる。
「どこ持ってく?」
「でも重いよ」
「見りゃ分かる」
「私も持つ」
「じゃあ後ろ見て歩け」
「え?」
「お前にもう一個持たせたら、次は転ぶ」
「転ばないもん」
「さっき転びかけただろ」
「……」
何も言い返せない。
柊真が少し笑う。
「倉庫どこ?」
「一階の奥」
「案内して」
結局、柊真が大きな箱を持ち、陽菜乃はその隣を歩くことになった。
「水野くん、部活は?」
「入ってねえ」
「そうなの?」
「俺が部活やってそうに見える?」
「……ちょっと見えないかも」
「正直だな」
「ご、ごめん」
「また謝った」
柊真が笑う。
その横顔を見ながら、陽菜乃は思う。
学校で言われている噂とは、本当に違う。
怖いと思っていた。
でも、こうして話してみるとすごく優しい。
噂だけでは分からないこともある。
(……あ)
その瞬間。
朝、柊真に言われた言葉を思い出した。
『噂なんて半分くらい適当だろ』
湊と美羽のことも。
もしかしたら。
本当にただの噂なのかもしれない。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなる。
「どうした?」
「え?」
「急に笑ってるから」
「笑ってた?」
「うん」
「……ちょっとだけ」
陽菜乃は胸の前で手を組んだ。
「水野くんのおかげで、少し元気出たかも」
「俺、なんかした?」
「したよ」
「荷物持っただけだけど」
「それも」
陽菜乃が笑う。
柊真は一瞬、言葉を止めた。
そして、少しだけ視線をそらす。
「……ほんと、変なやつ」
「え?」
「なんでもない」
荷物を倉庫へ置いて昇降口へ向かう頃には、空がすっかり夕方の色に変わっていた。
「水野くん、ほんとにありがとう」
「もういいって」
「でも……」
「じゃあ今度ジュース一本」
「え?」
「それでチャラ」
柊真が冗談っぽく言う。
陽菜乃も少し笑った。
「分かった。好きなジュース教えて」
「ほんとに買うの?」
「だってお礼だから」
「律儀すぎ」
二人で靴を履き替え、校舎を出る。
その時だった。
「陽菜乃」
聞き慣れた声。
陽菜乃が顔を上げる。
校門近くに湊が立っていた。
サッカー部のジャージ姿。
どうやら練習が終わったばかりらしい。
「湊」
「帰るなら一緒に――」
そこまで言ったところで、湊の視線が陽菜乃の隣へ動いた。
「……水野?」
「成瀬」
柊真が軽く返す。
「二人、知り合いなの?」
「同じ学年なら名前くらい知ってる」
柊真が答える。
湊は陽菜乃と柊真を交互に見る。
「何してたの?」
「水野くんが部活の荷物運ぶの手伝ってくれたの」
「ふーん」
なぜか声が少し低い。
陽菜乃は首をかしげる。
「どうしたの?」
「別に」
その時、グラウンドのほうから美羽が走ってきた。
「湊くん!」
陽菜乃の胸がまたきゅっと縮む。
「忘れ物!」
美羽は湊のタオルを持っていた。
「これ、ベンチに置きっぱなしだったよ」
「あ、悪い」
「ほんと忘れ物多いんだから」
美羽が笑う。
湊も、
「助かった」
と受け取った。
二人のやり取りは、とても自然だった。
陽菜乃は無意識に一歩下がった。
それに気づいた柊真が横を見る。
「陽菜乃?」
「……ううん」
陽菜乃は小さく笑う。
「私、美緒ちゃんと約束あるの思い出した」
本当はそんな約束はない。
「先に帰るね」
「え、陽菜乃」
湊が呼び止める。
でも陽菜乃は、
「また明日!」
とだけ言って歩き出した。
これ以上、美羽と湊が並ぶところを見たくなかった。
後ろから、
「陽菜乃!」
と湊の声が聞こえる。
それでも振り返らなかった。
胸の奥が苦しい。
(何やってるんだろう、私)
ただの幼馴染なのに。
美羽に嫉妬する資格なんてない。
それなのに。
湊の隣に美羽がいるだけで、こんなにも寂しくなる。
夕暮れの道を歩きながら、陽菜乃は初めてはっきりと思った。
(私……湊の隣を、誰にも取られたくないんだ)
でも。
その気持ちを伝える勇気は、まだなかった。
「陽菜乃ー、行くぞー」
玄関の向こうから聞こえた声に、小宮山陽菜乃はびくっと肩を揺らした。
「い、今行く!」
鏡の前で髪を整えていた手を止め、慌てて鞄を持つ。
昨日と同じ朝。
いつもと同じように、湊が迎えに来てくれた。
それなのに今日は、玄関を開けるのが少しだけ怖かった。
昨日、美緒から見せてもらったメッセージ。
『成瀬と一ノ瀬って付き合ってるってほんと?』
その文字が、朝になっても頭から離れてくれない。
ただの噂。
まだ何も決まっていない。
そう思おうとしているのに、昨日グラウンドで見た二人の姿まで浮かんでくる。
美羽が渡したスポーツドリンク。
自然に受け取った湊。
そして――。
『ありがとう、美羽』
名前で呼んでいた。
「陽菜乃?」
「えっ」
「今日も遅い」
門の前に立っていた湊が、じっと陽菜乃を見る。
春の朝日が、湊の黒い髪を明るく照らしていた。
いつもの制服。
いつものスポーツバッグ。
いつもの湊。
なのに陽菜乃は、どうしていいのか分からなくなった。
「ご、ごめん」
「また謝ってる」
「だって待たせちゃったから」
「今日は二分だからいい」
「二分は待ったんだね……」
「数えてた」
湊が笑う。
陽菜乃もつられて笑いそうになって途中でやめた。
聞けばいい。
今なら二人きり。
学校までの道はいつもと同じで、周りには誰もいない。
少し勇気を出して、
『美羽ちゃんと付き合ってるの?』
そう聞くだけ。
「湊、あのね」
「ん?」
湊がこちらを見る。
陽菜乃は言葉を飲み込んだ。
「……なに?」
「あ……」
胸がどきどきする。
もし、うん、と言われたら。
今日から何かが変わってしまうような気がした。
朝、一緒に学校へ行くことも。
帰り道を並んで歩くことも。
家が隣だからと気軽に話すことも。
全部、美羽に悪いことになるのかもしれない。
「なんでもない」
「なんだよ、それ」
「ほんとになんでもないの」
「変なやつ」
湊は深く考えなかったようで、また前を向いた。
ほっとしたのに。
同時に、胸の奥が少し苦しくなる。
(聞けなかった……)
陽菜乃は足元へ視線を落とした。
道路の端には、昨日の風で落ちた桜の花びらがいくつも重なっている。
去年の春も、湊とこの道を歩いていた。
その時は、湊の隣に知らない女の子がいるなんて考えたこともなかった。
「陽菜乃」
「え?」
「前」
言われて顔を上げた瞬間、電柱が目の前にあった。
「わっ!」
慌てて止まろうとする。
けれど間に合わない。
腕をつかまれ、ぐいっと横へ引かれた。
「危ないって」
湊だった。
「ご、ごめん……」
「今日どうした?」
「何が?」
「ぼーっとしすぎ」
「ちょっと考え事してただけ」
「歩きながら考えるなよ」
「そんな無茶な……」
「陽菜乃ならほんとにどっかぶつかるから」
「もう」
陽菜乃は頬をふくらませる。
けれど、つかまれた腕が少しだけ熱かった。
やっぱり優しい。
だからこそ、聞くのが怖い。
もしその優しさが、もう自分だけに向けられるものではないのだと知ってしまったら。
そう思うと、また何も言えなくなった。
「小宮山さん、おはよう」
「おはよう」
「陽菜乃、おはよー!」
「美緒ちゃん、おはよう」
二年二組の教室は、朝からいつも以上ににぎやかだった。
窓から入る春の風がカーテンをふわりと揺らし、机の間を生徒たちが行き来している。
陽菜乃が席へ着いた途端、美緒が前の席から身を乗り出してきた。
「ねえ、昨日の話」
「……うん」
「成瀬くんに聞いた?」
陽菜乃は小さく首を横に振った。
「聞けなかった」
「やっぱり」
「そんな顔しないでよ」
「だって、朝一緒に来たんでしょ?」
「うん」
「二人きりだったんでしょ?」
「……うん」
「最高のタイミングじゃん」
「そうなんだけど……」
陽菜乃は机の上に鞄を置き、そっと息をつく。
「怖かったの」
その言葉に、美緒の表情が少し変わった。
「もし本当だったら?」
「うん」
陽菜乃は自分の制服の袖を指先でつまんだ。
「湊が自分から『付き合ってる』って言ったら……たぶん私、普通にできない」
「陽菜乃……」
「だから、知らないほうがいいのかなって」
「それは違うと思うけどなあ」
美緒は困ったように眉を下げた。
その時。
教室の後ろから、女子たちの明るい声が聞こえてきた。
「ねえ、聞いた?」
「何?」
「五組の成瀬くんと一ノ瀬さん!」
陽菜乃の手が止まる。
聞こうと思ったわけではなかった。
でも、名前が耳に入ってしまった。
「やっぱ付き合ってるっぽいよ」
「えー! ほんと?」
「昨日、部活終わりも二人で話してたって」
「一ノ瀬さん、成瀬くんのこと『湊くん』って呼んでるし」
「お似合いじゃない?」
くすくすと笑う声。
陽菜乃は顔を上げられなかった。
机の木目ばかりが目に入る。
(お似合い……)
確かにそうかもしれない。
美羽は明るくて、可愛くて、誰にでも堂々と話せる。
サッカー部のマネージャーだから、湊が好きなサッカーのことも分かる。
試合にも行ける。
練習の時も一緒にいられる。
自分より、ずっと湊のそばにいる。
「陽菜乃」
美緒が小声で呼ぶ。
「大丈夫?」
「……うん」
「全然大丈夫そうじゃない」
「ほんとに」
陽菜乃は無理に笑った。
その時だった。
ガタン。
椅子を引く音がして、隣の列から誰かが立ち上がる。
「朝からうるせえな」
低い声。
教室がほんの少し静かになった。
水野柊真だった。
少し明るい髪。
今日もネクタイがゆるく、制服はきっちり着ているとは言いにくい。
柊真がさっき噂をしていた女子たちを見る。
「本人でもねえのに、よくそんな盛り上がれるな」
「み、水野には関係ないじゃん」
「じゃあ本人にも関係ないだろ。噂だけで勝手に決めんなよ」
女子たちは顔を見合わせ、そのまま別の話題に変えた。
陽菜乃は目をぱちぱちさせる。
柊真は何事もなかったように自分の席へ戻る。
「水野くん」
「ん?」
「……ありがとう」
「何が?」
「さっき」
「別に陽菜乃のためじゃねえよ」
そう言いながら、柊真は机に頬杖をついた。
でも少しだけ、陽菜乃の顔を見る。
「つーか、お前が分かりやすくへこんでたから気になっただけ」
「……分かりやすかった?」
「めちゃくちゃ」
「そんな……」
陽菜乃は恥ずかしくなって俯く。
柊真は小さく笑った。
「その噂の男、幼馴染なんだろ?」
「うん」
「じゃあ本人に聞けば?」
「美緒ちゃんと同じこと言う……」
「普通そうだろ」
「聞けないから困ってるの」
「なんで?」
陽菜乃は答えられなかった。
好きだから。
その一言を柊真に言うのは恥ずかしい。
「……秘密」
「ふーん」
柊真はそれ以上聞かなかった。
ただ、
「まあ、噂なんて半分くらい適当だろ」
とだけ言う。
その言葉に、陽菜乃は少しだけ救われた気がした。
昼休み。
陽菜乃と美緒は教室でお弁当を広げていた。
「今日の卵焼きおいしそう」
「お母さんが作ってくれたの」
「ひとつちょうだい」
「いいよ」
陽菜乃が卵焼きを美緒のお弁当箱へ移した、その時。
「陽菜乃」
教室の入り口から聞き慣れた声。
顔を上げる。
「湊」
いつものように湊が立っていた。
陽菜乃の胸が少しだけ明るくなる。
朝からずっと気持ちは重かったけれど、顔を見るとやっぱり嬉しい。
「何?」
「これ」
湊が小さな袋を差し出した。
「昨日、うちの母さんが焼いたクッキー。陽菜乃んちにも渡してって」
「香織さんが?」
「うん」
「わあ、ありがとう」
陽菜乃は両手で受け取った。
湊のお母さんのお菓子は、昔から大好きだ。
「帰ったらお礼言っといて」
「自分で言えよ。どうせ家隣なんだから」
「それもそうだね」
思わず笑う。
その時。
「湊くん!」
廊下から明るい声がした。
陽菜乃の笑顔が止まった。
美羽だった。
サッカー部のジャージではなく、今日は制服姿。
髪をふんわり一つにまとめていて、教室の中でも目を引くくらい可愛らしい。
「こんなところにいたんだ」
「何?」
「昼休み、サッカー部のミーティングあるって先輩が呼んでたよ」
「あ、忘れてた」
「もう。キャプテン探してたよ?」
「悪い」
美羽が陽菜乃を見る。
一瞬だけ目が合う。
「小宮山さん?」
「……うん」
「湊くんの幼馴染だよね」
陽菜乃は驚いた。
「私のこと知ってるの?」
「もちろん。湊くんから聞いたことあるし」
「え……」
湊から。
その言葉だけで、胸が少し跳ねる。
でも美羽は明るく続けた。
「家も隣なんでしょ? すごいよね。幼稚園から一緒なんだっけ?」
「うん……」
「本当の兄妹みたい」
「……!」
兄妹。
何気ない一言。
なのに、陽菜乃の胸に小さな針が刺さったようだった。
「あ、美羽。行くぞ」
「うん」
湊は何も気づいていない。
「陽菜乃、またあとで」
「……うん」
美羽と並んで廊下を歩いていく。
二人の後ろ姿を、陽菜乃はじっと見つめた。
本当の兄妹みたい。
(そう見えるんだ……)
幼馴染として近いだけ。
女の子として特別なわけじゃない。
分かっていたはずなのに。
改めて誰かに言われると、思っていたよりずっと苦しい。
「陽菜乃」
美緒が心配そうに見る。
「美羽ちゃん、悪気はないと思うけど……」
「うん。分かってる」
陽菜乃は笑った。
「本当に、兄妹みたいなものだし」
自分で言った言葉なのに。
胸がもっと痛くなった。
放課後。
ダンス部の練習では、文化祭に向けた新しい振り付けの確認が始まっていた。
「陽菜乃、そこ半歩右!」
「はい!」
「次、ターン!」
音楽に合わせて体を動かす。
踊っている時だけは、余計なことを考えずにすむ。
足を踏み出して。
腕を上げて。
音に合わせて回る。
窓から差し込む夕日の中で、みんなの影が体育館の床に長く伸びていた。
「今日はここまで!」
「ありがとうございました!」
練習が終わると、陽菜乃はほっとして床へ座った。
「疲れたぁ……」
「陽菜乃、今日ちょっと動き固かったよ」
隣に座った美緒がペットボトルを開けながら言う。
「やっぱり?」
「成瀬くんのこと考えてた?」
「ち、違うよ」
「顔に書いてある」
「もう……」
陽菜乃はタオルで顔を隠した。
そんな時、体育館の入り口から先生に呼ばれる。
「小宮山ー、これダンス部の荷物だって。倉庫へ運んどいてくれ」
見ると、衣装用の布が入った大きな箱が二つ。
「はい!」
返事をしたものの。
実際に持ってみると、思ったより重い。
「う……」
「陽菜乃、私一個持とうか?」
美緒が言ってくれたが、別の先輩に呼ばれてしまう。
「大丈夫。私、一個ずつ運ぶから」
本当は少し大変。
でも何でも人に頼ってばかりなのも嫌だった。
一つ目の箱を抱え、廊下へ出る。
前が少し見えにくい。
「よいしょ……」
慎重に歩いているつもりだった。
なのに。
床に置かれていた小さな段差に気づかなかった。
「あっ」
体がぐらりと傾く。
箱が腕から滑り落ちそうになる。
「危ねえ!」
横から誰かが箱をつかんだ。
同時に、陽菜乃の肩も支えられる。
「……え?」
「お前、また何やってんの」
「水野くん」
柊真だった。
「これ、一人で運んでた?」
「うん」
「なんで?」
「部活の荷物だから」
「そういう意味じゃねえよ」
柊真は箱を陽菜乃から取り上げる。
「どこ持ってく?」
「でも重いよ」
「見りゃ分かる」
「私も持つ」
「じゃあ後ろ見て歩け」
「え?」
「お前にもう一個持たせたら、次は転ぶ」
「転ばないもん」
「さっき転びかけただろ」
「……」
何も言い返せない。
柊真が少し笑う。
「倉庫どこ?」
「一階の奥」
「案内して」
結局、柊真が大きな箱を持ち、陽菜乃はその隣を歩くことになった。
「水野くん、部活は?」
「入ってねえ」
「そうなの?」
「俺が部活やってそうに見える?」
「……ちょっと見えないかも」
「正直だな」
「ご、ごめん」
「また謝った」
柊真が笑う。
その横顔を見ながら、陽菜乃は思う。
学校で言われている噂とは、本当に違う。
怖いと思っていた。
でも、こうして話してみるとすごく優しい。
噂だけでは分からないこともある。
(……あ)
その瞬間。
朝、柊真に言われた言葉を思い出した。
『噂なんて半分くらい適当だろ』
湊と美羽のことも。
もしかしたら。
本当にただの噂なのかもしれない。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなる。
「どうした?」
「え?」
「急に笑ってるから」
「笑ってた?」
「うん」
「……ちょっとだけ」
陽菜乃は胸の前で手を組んだ。
「水野くんのおかげで、少し元気出たかも」
「俺、なんかした?」
「したよ」
「荷物持っただけだけど」
「それも」
陽菜乃が笑う。
柊真は一瞬、言葉を止めた。
そして、少しだけ視線をそらす。
「……ほんと、変なやつ」
「え?」
「なんでもない」
荷物を倉庫へ置いて昇降口へ向かう頃には、空がすっかり夕方の色に変わっていた。
「水野くん、ほんとにありがとう」
「もういいって」
「でも……」
「じゃあ今度ジュース一本」
「え?」
「それでチャラ」
柊真が冗談っぽく言う。
陽菜乃も少し笑った。
「分かった。好きなジュース教えて」
「ほんとに買うの?」
「だってお礼だから」
「律儀すぎ」
二人で靴を履き替え、校舎を出る。
その時だった。
「陽菜乃」
聞き慣れた声。
陽菜乃が顔を上げる。
校門近くに湊が立っていた。
サッカー部のジャージ姿。
どうやら練習が終わったばかりらしい。
「湊」
「帰るなら一緒に――」
そこまで言ったところで、湊の視線が陽菜乃の隣へ動いた。
「……水野?」
「成瀬」
柊真が軽く返す。
「二人、知り合いなの?」
「同じ学年なら名前くらい知ってる」
柊真が答える。
湊は陽菜乃と柊真を交互に見る。
「何してたの?」
「水野くんが部活の荷物運ぶの手伝ってくれたの」
「ふーん」
なぜか声が少し低い。
陽菜乃は首をかしげる。
「どうしたの?」
「別に」
その時、グラウンドのほうから美羽が走ってきた。
「湊くん!」
陽菜乃の胸がまたきゅっと縮む。
「忘れ物!」
美羽は湊のタオルを持っていた。
「これ、ベンチに置きっぱなしだったよ」
「あ、悪い」
「ほんと忘れ物多いんだから」
美羽が笑う。
湊も、
「助かった」
と受け取った。
二人のやり取りは、とても自然だった。
陽菜乃は無意識に一歩下がった。
それに気づいた柊真が横を見る。
「陽菜乃?」
「……ううん」
陽菜乃は小さく笑う。
「私、美緒ちゃんと約束あるの思い出した」
本当はそんな約束はない。
「先に帰るね」
「え、陽菜乃」
湊が呼び止める。
でも陽菜乃は、
「また明日!」
とだけ言って歩き出した。
これ以上、美羽と湊が並ぶところを見たくなかった。
後ろから、
「陽菜乃!」
と湊の声が聞こえる。
それでも振り返らなかった。
胸の奥が苦しい。
(何やってるんだろう、私)
ただの幼馴染なのに。
美羽に嫉妬する資格なんてない。
それなのに。
湊の隣に美羽がいるだけで、こんなにも寂しくなる。
夕暮れの道を歩きながら、陽菜乃は初めてはっきりと思った。
(私……湊の隣を、誰にも取られたくないんだ)
でも。
その気持ちを伝える勇気は、まだなかった。

