ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 次の日の朝。

「陽菜乃ー、行くぞー」

 玄関の向こうから聞こえた声に、小宮山陽菜乃はびくっと肩を揺らした。

「い、今行く!」

 鏡の前で髪を整えていた手を止め、慌てて鞄を持つ。

 昨日と同じ朝。

 いつもと同じように、湊が迎えに来てくれた。

 それなのに今日は、玄関を開けるのが少しだけ怖かった。

 昨日、美緒から見せてもらったメッセージ。

『成瀬と一ノ瀬って付き合ってるってほんと?』

 その文字が、朝になっても頭から離れてくれない。

 ただの噂。

 まだ何も決まっていない。

 そう思おうとしているのに、昨日グラウンドで見た二人の姿まで浮かんでくる。

 美羽が渡したスポーツドリンク。

 自然に受け取った湊。

 そして――。

『ありがとう、美羽』

 名前で呼んでいた。

「陽菜乃?」

「えっ」

「今日も遅い」

 門の前に立っていた湊が、じっと陽菜乃を見る。

 春の朝日が、湊の黒い髪を明るく照らしていた。

 いつもの制服。

 いつものスポーツバッグ。

 いつもの湊。

 なのに陽菜乃は、どうしていいのか分からなくなった。

「ご、ごめん」

「また謝ってる」

「だって待たせちゃったから」

「今日は二分だからいい」

「二分は待ったんだね……」

「数えてた」

 湊が笑う。

 陽菜乃もつられて笑いそうになって途中でやめた。

 聞けばいい。

 今なら二人きり。

 学校までの道はいつもと同じで、周りには誰もいない。

 少し勇気を出して、

『美羽ちゃんと付き合ってるの?』

 そう聞くだけ。

「湊、あのね」

「ん?」

 湊がこちらを見る。

 陽菜乃は言葉を飲み込んだ。

「……なに?」

「あ……」

 胸がどきどきする。

 もし、うん、と言われたら。

 今日から何かが変わってしまうような気がした。

 朝、一緒に学校へ行くことも。

 帰り道を並んで歩くことも。

 家が隣だからと気軽に話すことも。

 全部、美羽に悪いことになるのかもしれない。

「なんでもない」

「なんだよ、それ」

「ほんとになんでもないの」

「変なやつ」

 湊は深く考えなかったようで、また前を向いた。

 ほっとしたのに。

 同時に、胸の奥が少し苦しくなる。

(聞けなかった……)

 陽菜乃は足元へ視線を落とした。

 道路の端には、昨日の風で落ちた桜の花びらがいくつも重なっている。

 去年の春も、湊とこの道を歩いていた。

 その時は、湊の隣に知らない女の子がいるなんて考えたこともなかった。

「陽菜乃」

「え?」

「前」

 言われて顔を上げた瞬間、電柱が目の前にあった。

「わっ!」

 慌てて止まろうとする。

 けれど間に合わない。

 腕をつかまれ、ぐいっと横へ引かれた。

「危ないって」

 湊だった。

「ご、ごめん……」

「今日どうした?」

「何が?」

「ぼーっとしすぎ」

「ちょっと考え事してただけ」

「歩きながら考えるなよ」

「そんな無茶な……」

「陽菜乃ならほんとにどっかぶつかるから」

「もう」

 陽菜乃は頬をふくらませる。

 けれど、つかまれた腕が少しだけ熱かった。

 やっぱり優しい。

 だからこそ、聞くのが怖い。

 もしその優しさが、もう自分だけに向けられるものではないのだと知ってしまったら。

 そう思うと、また何も言えなくなった。

     

「小宮山さん、おはよう」

「おはよう」

「陽菜乃、おはよー!」

「美緒ちゃん、おはよう」

 二年二組の教室は、朝からいつも以上ににぎやかだった。

 窓から入る春の風がカーテンをふわりと揺らし、机の間を生徒たちが行き来している。

 陽菜乃が席へ着いた途端、美緒が前の席から身を乗り出してきた。

「ねえ、昨日の話」

「……うん」

「成瀬くんに聞いた?」

 陽菜乃は小さく首を横に振った。

「聞けなかった」

「やっぱり」

「そんな顔しないでよ」

「だって、朝一緒に来たんでしょ?」

「うん」

「二人きりだったんでしょ?」

「……うん」

「最高のタイミングじゃん」

「そうなんだけど……」

 陽菜乃は机の上に鞄を置き、そっと息をつく。

「怖かったの」

 その言葉に、美緒の表情が少し変わった。

「もし本当だったら?」

「うん」

 陽菜乃は自分の制服の袖を指先でつまんだ。

「湊が自分から『付き合ってる』って言ったら……たぶん私、普通にできない」

「陽菜乃……」

「だから、知らないほうがいいのかなって」

「それは違うと思うけどなあ」

 美緒は困ったように眉を下げた。

 その時。

 教室の後ろから、女子たちの明るい声が聞こえてきた。

「ねえ、聞いた?」

「何?」

「五組の成瀬くんと一ノ瀬さん!」

 陽菜乃の手が止まる。

 聞こうと思ったわけではなかった。

 でも、名前が耳に入ってしまった。

「やっぱ付き合ってるっぽいよ」

「えー! ほんと?」

「昨日、部活終わりも二人で話してたって」

「一ノ瀬さん、成瀬くんのこと『湊くん』って呼んでるし」

「お似合いじゃない?」

 くすくすと笑う声。

 陽菜乃は顔を上げられなかった。

 机の木目ばかりが目に入る。

(お似合い……)

 確かにそうかもしれない。

 美羽は明るくて、可愛くて、誰にでも堂々と話せる。

 サッカー部のマネージャーだから、湊が好きなサッカーのことも分かる。

 試合にも行ける。

 練習の時も一緒にいられる。

 自分より、ずっと湊のそばにいる。

「陽菜乃」

 美緒が小声で呼ぶ。

「大丈夫?」

「……うん」

「全然大丈夫そうじゃない」

「ほんとに」

 陽菜乃は無理に笑った。

 その時だった。

 ガタン。

 椅子を引く音がして、隣の列から誰かが立ち上がる。

「朝からうるせえな」

 低い声。

 教室がほんの少し静かになった。

 水野柊真だった。

 少し明るい髪。

 今日もネクタイがゆるく、制服はきっちり着ているとは言いにくい。

 柊真がさっき噂をしていた女子たちを見る。

「本人でもねえのに、よくそんな盛り上がれるな」

「み、水野には関係ないじゃん」

「じゃあ本人にも関係ないだろ。噂だけで勝手に決めんなよ」

 女子たちは顔を見合わせ、そのまま別の話題に変えた。

 陽菜乃は目をぱちぱちさせる。

 柊真は何事もなかったように自分の席へ戻る。

「水野くん」

「ん?」

「……ありがとう」

「何が?」

「さっき」

「別に陽菜乃のためじゃねえよ」

 そう言いながら、柊真は机に頬杖をついた。

 でも少しだけ、陽菜乃の顔を見る。

「つーか、お前が分かりやすくへこんでたから気になっただけ」

「……分かりやすかった?」

「めちゃくちゃ」

「そんな……」

 陽菜乃は恥ずかしくなって俯く。

 柊真は小さく笑った。

「その噂の男、幼馴染なんだろ?」

「うん」

「じゃあ本人に聞けば?」

「美緒ちゃんと同じこと言う……」

「普通そうだろ」

「聞けないから困ってるの」

「なんで?」

 陽菜乃は答えられなかった。

 好きだから。

 その一言を柊真に言うのは恥ずかしい。

「……秘密」

「ふーん」

 柊真はそれ以上聞かなかった。

 ただ、

「まあ、噂なんて半分くらい適当だろ」

 とだけ言う。

 その言葉に、陽菜乃は少しだけ救われた気がした。

     

 昼休み。

 陽菜乃と美緒は教室でお弁当を広げていた。

「今日の卵焼きおいしそう」

「お母さんが作ってくれたの」

「ひとつちょうだい」

「いいよ」

 陽菜乃が卵焼きを美緒のお弁当箱へ移した、その時。

「陽菜乃」

 教室の入り口から聞き慣れた声。

 顔を上げる。

「湊」

 いつものように湊が立っていた。

 陽菜乃の胸が少しだけ明るくなる。

 朝からずっと気持ちは重かったけれど、顔を見るとやっぱり嬉しい。

「何?」

「これ」

 湊が小さな袋を差し出した。

「昨日、うちの母さんが焼いたクッキー。陽菜乃んちにも渡してって」

「香織さんが?」

「うん」

「わあ、ありがとう」

 陽菜乃は両手で受け取った。

 湊のお母さんのお菓子は、昔から大好きだ。

「帰ったらお礼言っといて」

「自分で言えよ。どうせ家隣なんだから」

「それもそうだね」

 思わず笑う。

 その時。

「湊くん!」

 廊下から明るい声がした。

 陽菜乃の笑顔が止まった。

 美羽だった。

 サッカー部のジャージではなく、今日は制服姿。

 髪をふんわり一つにまとめていて、教室の中でも目を引くくらい可愛らしい。

「こんなところにいたんだ」

「何?」

「昼休み、サッカー部のミーティングあるって先輩が呼んでたよ」

「あ、忘れてた」

「もう。キャプテン探してたよ?」

「悪い」

 美羽が陽菜乃を見る。

 一瞬だけ目が合う。

「小宮山さん?」

「……うん」

「湊くんの幼馴染だよね」

 陽菜乃は驚いた。

「私のこと知ってるの?」

「もちろん。湊くんから聞いたことあるし」

「え……」

 湊から。

 その言葉だけで、胸が少し跳ねる。

 でも美羽は明るく続けた。

「家も隣なんでしょ? すごいよね。幼稚園から一緒なんだっけ?」

「うん……」

「本当の兄妹みたい」

「……!」

 兄妹。

 何気ない一言。

 なのに、陽菜乃の胸に小さな針が刺さったようだった。

「あ、美羽。行くぞ」

「うん」

 湊は何も気づいていない。

「陽菜乃、またあとで」

「……うん」

 美羽と並んで廊下を歩いていく。

 二人の後ろ姿を、陽菜乃はじっと見つめた。

 本当の兄妹みたい。

(そう見えるんだ……)

 幼馴染として近いだけ。

 女の子として特別なわけじゃない。

 分かっていたはずなのに。

 改めて誰かに言われると、思っていたよりずっと苦しい。

「陽菜乃」

 美緒が心配そうに見る。

「美羽ちゃん、悪気はないと思うけど……」

「うん。分かってる」

 陽菜乃は笑った。

「本当に、兄妹みたいなものだし」

 自分で言った言葉なのに。

 胸がもっと痛くなった。

     

 放課後。

 ダンス部の練習では、文化祭に向けた新しい振り付けの確認が始まっていた。

「陽菜乃、そこ半歩右!」

「はい!」

「次、ターン!」

 音楽に合わせて体を動かす。

 踊っている時だけは、余計なことを考えずにすむ。

 足を踏み出して。

 腕を上げて。

 音に合わせて回る。

 窓から差し込む夕日の中で、みんなの影が体育館の床に長く伸びていた。

「今日はここまで!」

「ありがとうございました!」

 練習が終わると、陽菜乃はほっとして床へ座った。

「疲れたぁ……」

「陽菜乃、今日ちょっと動き固かったよ」

 隣に座った美緒がペットボトルを開けながら言う。

「やっぱり?」

「成瀬くんのこと考えてた?」

「ち、違うよ」

「顔に書いてある」

「もう……」

 陽菜乃はタオルで顔を隠した。

 そんな時、体育館の入り口から先生に呼ばれる。

「小宮山ー、これダンス部の荷物だって。倉庫へ運んどいてくれ」

 見ると、衣装用の布が入った大きな箱が二つ。

「はい!」

 返事をしたものの。

 実際に持ってみると、思ったより重い。

「う……」

「陽菜乃、私一個持とうか?」

 美緒が言ってくれたが、別の先輩に呼ばれてしまう。

「大丈夫。私、一個ずつ運ぶから」

 本当は少し大変。

 でも何でも人に頼ってばかりなのも嫌だった。

 一つ目の箱を抱え、廊下へ出る。

 前が少し見えにくい。

「よいしょ……」

 慎重に歩いているつもりだった。

 なのに。

 床に置かれていた小さな段差に気づかなかった。

「あっ」

 体がぐらりと傾く。

 箱が腕から滑り落ちそうになる。

「危ねえ!」

 横から誰かが箱をつかんだ。

 同時に、陽菜乃の肩も支えられる。

「……え?」

「お前、また何やってんの」

「水野くん」

 柊真だった。

「これ、一人で運んでた?」

「うん」

「なんで?」

「部活の荷物だから」

「そういう意味じゃねえよ」

 柊真は箱を陽菜乃から取り上げる。

「どこ持ってく?」

「でも重いよ」

「見りゃ分かる」

「私も持つ」

「じゃあ後ろ見て歩け」

「え?」

「お前にもう一個持たせたら、次は転ぶ」

「転ばないもん」

「さっき転びかけただろ」

「……」

 何も言い返せない。

 柊真が少し笑う。

「倉庫どこ?」

「一階の奥」

「案内して」

 結局、柊真が大きな箱を持ち、陽菜乃はその隣を歩くことになった。

「水野くん、部活は?」

「入ってねえ」

「そうなの?」

「俺が部活やってそうに見える?」

「……ちょっと見えないかも」

「正直だな」

「ご、ごめん」

「また謝った」

 柊真が笑う。

 その横顔を見ながら、陽菜乃は思う。

 学校で言われている噂とは、本当に違う。

 怖いと思っていた。

 でも、こうして話してみるとすごく優しい。

 噂だけでは分からないこともある。

(……あ)

 その瞬間。

 朝、柊真に言われた言葉を思い出した。

『噂なんて半分くらい適当だろ』

 湊と美羽のことも。

 もしかしたら。

 本当にただの噂なのかもしれない。

 そう思うと、少しだけ胸が軽くなる。

「どうした?」

「え?」

「急に笑ってるから」

「笑ってた?」

「うん」

「……ちょっとだけ」

 陽菜乃は胸の前で手を組んだ。

「水野くんのおかげで、少し元気出たかも」

「俺、なんかした?」

「したよ」

「荷物持っただけだけど」

「それも」

 陽菜乃が笑う。

 柊真は一瞬、言葉を止めた。

 そして、少しだけ視線をそらす。

「……ほんと、変なやつ」

「え?」

「なんでもない」

     

 荷物を倉庫へ置いて昇降口へ向かう頃には、空がすっかり夕方の色に変わっていた。

「水野くん、ほんとにありがとう」

「もういいって」

「でも……」

「じゃあ今度ジュース一本」

「え?」

「それでチャラ」

 柊真が冗談っぽく言う。

 陽菜乃も少し笑った。

「分かった。好きなジュース教えて」

「ほんとに買うの?」

「だってお礼だから」

「律儀すぎ」

 二人で靴を履き替え、校舎を出る。

 その時だった。

「陽菜乃」

 聞き慣れた声。

 陽菜乃が顔を上げる。

 校門近くに湊が立っていた。

 サッカー部のジャージ姿。

 どうやら練習が終わったばかりらしい。

「湊」

「帰るなら一緒に――」

 そこまで言ったところで、湊の視線が陽菜乃の隣へ動いた。

「……水野?」

「成瀬」

 柊真が軽く返す。

「二人、知り合いなの?」

「同じ学年なら名前くらい知ってる」

 柊真が答える。

 湊は陽菜乃と柊真を交互に見る。

「何してたの?」

「水野くんが部活の荷物運ぶの手伝ってくれたの」

「ふーん」

 なぜか声が少し低い。

 陽菜乃は首をかしげる。

「どうしたの?」

「別に」

 その時、グラウンドのほうから美羽が走ってきた。

「湊くん!」

 陽菜乃の胸がまたきゅっと縮む。

「忘れ物!」

 美羽は湊のタオルを持っていた。

「これ、ベンチに置きっぱなしだったよ」

「あ、悪い」

「ほんと忘れ物多いんだから」

 美羽が笑う。

 湊も、

「助かった」

 と受け取った。

 二人のやり取りは、とても自然だった。

 陽菜乃は無意識に一歩下がった。

 それに気づいた柊真が横を見る。

「陽菜乃?」

「……ううん」

 陽菜乃は小さく笑う。

「私、美緒ちゃんと約束あるの思い出した」

 本当はそんな約束はない。

「先に帰るね」

「え、陽菜乃」

 湊が呼び止める。

 でも陽菜乃は、

「また明日!」

 とだけ言って歩き出した。

 これ以上、美羽と湊が並ぶところを見たくなかった。

 後ろから、

「陽菜乃!」

 と湊の声が聞こえる。

 それでも振り返らなかった。

 胸の奥が苦しい。

(何やってるんだろう、私)

 ただの幼馴染なのに。

 美羽に嫉妬する資格なんてない。

 それなのに。

 湊の隣に美羽がいるだけで、こんなにも寂しくなる。

 夕暮れの道を歩きながら、陽菜乃は初めてはっきりと思った。

(私……湊の隣を、誰にも取られたくないんだ)

 でも。

 その気持ちを伝える勇気は、まだなかった。