ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 一月一日。

 新しい年の朝は、驚くほどきれいに晴れていた。

 窓を開けると、冷たい空気が一気に部屋へ入り込んでくる。

「さむっ……!」

 小宮山陽菜乃は慌てて窓を閉め、両手をこすり合わせた。

 空は淡い水色。

 遠くに見える家々の屋根が、朝の光を受けて白く輝いている。

 いつもの住宅街なのに、元日の朝というだけで少し特別に見えた。

「陽菜乃ー! お雑煮できたわよ!」

「はーい!」

 母の声に返事をして、陽菜乃は階段を下りた。

 リビングには、お正月らしい料理が並んでいる。

 お雑煮。

 黒豆。

 伊達巻き。

 テーブルの中央には、小さな重箱。

「明けましておめでとう」

「おめでとう」

「今年もよろしくね」

 家族で新年の挨拶をして、席につく。

 けれど。

 お雑煮を食べながら、陽菜乃は何度か隣の家のほうを気にしてしまった。

 成瀬家。

 昨日。

 湊から聞いた言葉が、まだ胸の中に残っている。

『俺が好きなのは、ずっと陽菜乃』

 何年も。

 ずっと聞きたかった。

 夢みたいだった言葉。

 なのに陽菜乃は、まだ返事をしていない。

 できなかった。

 嬉しかった。

 本当に。

 でも。

 今の陽菜乃の胸の中には、湊だけではない人がいる。

「陽菜乃」

「え?」

 姉の結衣が、向かい側からじっと見ていた。

「お餅、さっきから全然減ってないよ」

「……ほんとだ」

「考え事?」

「ちょっとだけ」

「恋?」

「お姉ちゃん!」

 陽菜乃は慌てて周りを見る。

 母は台所。

 父はテレビ。

 聞かれていないようで、ほっとする。

「声大きい……」

「陽菜乃のほうが大きいよ」

「もう」

 結衣は楽しそうに笑った。

「今日、初詣行くんでしょ?」

「うん」

「誰と?」

「美緒ちゃんと莉子ちゃんと、クラスのみんな」

「水野くんも?」

 陽菜乃の箸が一瞬止まる。

「……来るよ」

「へえ」

「だから何?」

「何も言ってないって」

「顔が言ってる」

 陽菜乃は頬をふくらませた。

 今日は、二人きりではない。

 美緒と莉子。

 柊真。

 それからクラスの友達数人。

 冬休みに入る前から、みんなで初詣へ行こうと話していたのだ。

 だから。

 今日、柊真に会うことを楽しみにしているからといって。

 特別な意味があるわけでは――。

「……」

 そこまで考えて。

 陽菜乃は、自分で分からなくなった。

(本当に……ないのかな)


 午後一時。

 陽菜乃は駅前の待ち合わせ場所へ向かった。

 白いコート。

 淡いピンク色のマフラー。

 足元は歩きやすいブーツ。

 両手には、クリスマスに柊真からもらった白い手袋。

 手首の小さないちごの刺しゅうを見ると、自然に頬がゆるむ。

「陽菜乃ー!」

「美緒ちゃん!」

 駅前には、もう何人か集まっていた。

 美緒。

 莉子。

 クラスの男子二人。

 そして。

 少し離れた柱の近くに、柊真。

「明けましておめでとう!」

「おめでとう!」

 みんなで新年の挨拶をする。

 陽菜乃も一人ずつ顔を見て。

 最後に柊真を見る。

「柊真くん、明けましておめでとう」

「あけおめ」

「今年もよろしくね」

「こちらこそ」

 柊真が少し笑った。

 それだけで。

 胸の中がふわっと温かくなる。

 そして柊真の視線が、陽菜乃の手元で止まった。

「……それ」

「え?」

「手袋」

 陽菜乃は少しだけ嬉しくなった。

「気づいた?」

「そりゃ気づくだろ」

「今日もつけてきた」

「気に入った?」

「うん。すごく」

 陽菜乃が笑う。

 柊真は少しだけ顔をそらした。

「……そっか」

「水野くん、照れてる?」

 莉子がすぐ横から口を挟む。

「照れてねえ」

「今絶対照れてた!」

「うるせえ」

「陽菜乃も顔赤いよ?」

「えっ!」

「ほらー!」

「莉子ちゃん!」

 みんなが笑う。

 陽菜乃は恥ずかしくて、マフラーへ口元を隠した。

(もう……)

 でも。

 嫌ではなかった。

     ◇

 神社へ近づくにつれ、人がどんどん増えていった。

 大きな赤い鳥居。

 その向こうには、長い参拝の列。

 屋台もたくさん並んでいる。

「たこ焼き!」

「参拝してから!」

「えー!」

 莉子と美緒が言い合いながら笑っている。

 陽菜乃もその後ろを歩いていた。

 けれど。

 元日の神社は、思っていた以上に混雑していた。

「わっ」

 後ろから人に押され、陽菜乃の体が少しよろける。

「陽菜乃」

 すぐに腕をつかまれた。

 柊真。

「大丈夫?」

「う、うん」

「ちゃんと前見ろ」

「見てたよ」

「じゃあなんでぶつかるんだよ」

「人が多いから……」

「はいはい」

 柊真が陽菜乃を、人の流れから少し外れた場所へ寄せる。

「美緒ちゃんたち……」

 前を見る。

 美緒と莉子の姿が、人の間に見えたり消えたりしている。

「はぐれそう」

「じゃあ」

 柊真は少し考えて。

「袖つかんどけ」

「え?」

「またどっか行かれたら探すの面倒」

「行かないよ」

「信用できない」

「もう……」

 そう言いながら。

 陽菜乃は、柊真のコートの袖をそっとつまんだ。

 その瞬間。

 胸がどきっとした。

 昔から。

 人混みで不安になると。

 いつも湊の袖をつかんでいた。

 でも今は。

 その手が自然に伸びた相手は、柊真。

「陽菜乃」

「なに?」

「強く握りすぎ」

「えっ」

 慌てて少し力をゆるめる。

「ご、ごめん」

「別にいいけど」

 柊真が小さく笑った。

 それだけなのに。

 陽菜乃の胸は、なかなか落ち着かなかった。


「やっと着いたー!」

 みんなで長い列を進み、ようやく本殿の前へたどり着いた。

 一人ずつお賽銭を入れる。

 陽菜乃も小銭を入れて。

 二礼。

 二拍手。

 そっと目を閉じた。

(今年も家族みんな元気でいられますように)

 まずは、いつもの願い。

 それから。

 陽菜乃は少し迷った。

 去年までなら。

 同じ願いをしていた。

 湊とずっと一緒にいられますように。

 いつか、湊に好きになってもらえますように。

 でも。

 今年は。

(……ちゃんと自分の気持ちを決められますように)

 そう願った。

 湊が好き。

 その気持ちは本物。

 ずっと長い間。

 陽菜乃の中にあった。

 でも。

 柊真といる時の安心。

 会えると嬉しい気持ち。

 ほかの女の子と話しているだけで気になったこと。

 それも。

 なかったことにはできない。

(誰かに決めてもらうんじゃなくて)

 自分で。

 選びたい。

 陽菜乃はゆっくり目を開けた。

「陽菜乃、長い!」

 横から美緒が笑う。

「え?」

「お願い何個したの?」

「一個だよ」

「絶対三個くらいある」

「ないってば」

 陽菜乃も笑った。


「次、おみくじ!」

 莉子の一声で、みんなでおみくじを引くことになった。

「せーので開けようよ!」

「子どもか」

 柊真が言う。

「水野くんもやるの!」

「はいはい」

「じゃあ、せーの!」

 一斉に開く。

「やった! 大吉!」

 美緒が喜ぶ。

「私は中吉!」

 莉子も嬉しそう。

 陽菜乃は。

「……吉」

「いいじゃん!」

「うん」

 そして。

 隣の柊真を見る。

「柊真くんは?」

「大吉」

「えっ」

「何」

「ずるい」

「俺のせいじゃねえだろ」

「いいなあ」

 陽菜乃は柊真のおみくじをのぞこうとする。

「見せて」

「やだ」

「どうして?」

「お前、恋愛見るだろ」

「見ないよ!」

「今目がそこ行ってた」

「……ちょっとだけ」

「正直だな」

 柊真が笑う。

「じゃあ陽菜乃の見せろ」

「えっ!」

 陽菜乃は反射的に自分のおみくじを胸元へ隠した。

「怪しい」

「怪しくない!」

 本当は。

 隠した理由がある。

 恋愛。

 そこには。

 『焦らず心を見つめよ。近くにいる人を大切に』

 と書かれていた。

 見た瞬間。

 陽菜乃の頭に浮かんだ人。

 それが。

 自分でも少し意外だった。

(……柊真くん)

 慌てておみくじを閉じる。

「陽菜乃」

「なに?」

「顔赤い」

「寒いから!」

「それさっきも言ってた」

「寒いんだもん!」

 陽菜乃は逃げるように、おみくじを結びに行った。


 参拝を終えたあとは、みんなで屋台を回った。

「陽菜乃、何食べる?」

「甘酒」

「また熱いの選ぶ」

「今日はちゃんと気をつけるもん」

 柊真に言われて、陽菜乃は少しむっとする。

「笑わないでね」

「まだ笑ってない」

「絶対笑うと思ってるでしょう?」

「ちょっと」

「もう」

 甘酒を受け取り。

 陽菜乃は何度も息を吹きかける。

「ふー……」

「長い」

「猫舌なんだから仕方ないでしょ」

「貸せ」

「え?」

 柊真が紙コップを受け取った。

 少しだけ冷たい空気に当ててから、陽菜乃へ返す。

「これならいけるだろ」

「……ありがとう」

 一口。

「あったかい」

「よかったな」

 陽菜乃は笑った。

 昔。

 湊にも、似たようなことをしてもらったことがある。

 熱い飲み物を冷ましてもらったり。

 寒い日にカイロを渡してもらったり。

 それが嬉しかった。

 でも。

 今は。

 柊真がしてくれたことを。

 柊真だから嬉しいと思っている。

(……違うんだ)

 湊の代わりではない。

 柊真は。

 柊真。

 そう思った時。

 胸が小さく鳴った。


「陽菜乃?」

 突然。

 聞き慣れた声がした。

 陽菜乃の体が少しだけ固まる。

 振り返る。

「……湊」

 少し離れた場所に、湊が立っていた。

 隣には悠人。

「明けましておめでとう」

 陽菜乃が先に笑う。

「……おめでとう」

「悠人くんも」

「あけおめ、陽菜乃ちゃん」

「今年もよろしくお願いします」

 それから。

 湊の視線が。

 陽菜乃の手元へ向かう。

 柊真の袖。

 陽菜乃がつかんでいる。

「あ……」

 気づいた。

 離そうとした。

 でも。

 一瞬。

 手が止まった。

(どうして離すの?)

 柊真とは。

 何も悪いことをしていない。

 付き合っているわけでもない。

 ただ、人混みではぐれないようにつかんでいただけ。

 陽菜乃は。

 慌てて離すことをやめた。

「水野も来てたんだ」

 湊が言う。

「みんなで来たの」

 陽菜乃はすぐに答えた。

 美緒たちのほうを見る。

「クラスのみんなと」

「ああ……」

 湊の顔が、ほんの少しだけやわらいだ。

 陽菜乃はその変化に気づいた。

(もしかして)

 柊真と二人だと思った?

 そんな考えが浮かんで。

 胸が少しだけ落ち着かなくなる。

「湊は?」

「悠人たちと」

「そっか」

「……うん」

 短い会話。

 昨日。

 好きだと告白されたばかりなのに。

 何を話したらいいのか分からない。

「陽菜乃」

「なに?」

「昨日のこと」

 胸が跳ねる。

 周りには。

 美緒たちも。

 柊真もいる。

 湊もそれに気づいたようだった。

「……いや」

「え?」

「今じゃない」

 湊は少しだけ笑った。

「返事、急がなくていいって言ったし」

「……うん」

「ちゃんと考えて」

「ありがとう」

 その言葉を聞いた瞬間。

 陽菜乃の胸が少しだけ温かくなった。

 以前の湊なら。

 自分の気持ちを優先していたかもしれない。

 でも今は。

 待ってくれる。

 陽菜乃が決めるまで。

「じゃあ、また」

「うん」

 湊と悠人は、人混みの向こうへ歩いていった。

 陽菜乃は、その背中をしばらく見つめた。


「陽菜乃」

 美緒に呼ばれる。

「大丈夫?」

「……うん」

「成瀬くんと何かあった?」

 一瞬。

 答えるか迷った。

「昨日ね」

 陽菜乃は小さな声で言った。

「好きって言われた」

「えっ!?」

 美緒が目を大きくする。

「声大きい!」

「ご、ごめん!」

 莉子も近づいてくる。

「何何?」

「あとで!」

 陽菜乃は慌てた。

 でも。

 すぐ横。

 柊真も聞いていた。

「……」

 目が合う。

「柊真くん」

「俺、向こう見てくる」

「え?」

 柊真が少しだけ距離を取ろうとする。

 陽菜乃は反射的に、袖をつかんだ。

「待って」

「……何?」

「行かないで」

 自分でも驚いた。

 でも。

 今。

 柊真に離れてほしくなかった。

 柊真の目が少しだけ揺れる。

「陽菜乃」

「ごめん」

「何が」

「私……ちゃんと話したい」

 美緒と莉子は、空気を読んだのか。

「私たち、あっちの屋台見てくるね」

「う、うん」

 二人が離れていく。

 少し静かになる。


「湊に」

 陽菜乃はゆっくり言った。

「ずっと好きだったって言われた」

「……そっか」

「私も」

 柊真の表情が少しだけ変わる。

「ずっと湊が好きだった」

 言葉にすると。

 やっぱり胸は動く。

「だから」

 陽菜乃は自分の手袋を見る。

「本当なら……すぐ嬉しいって言えたはずなの」

「うん」

「でも、言えなかった」

「……」

「柊真くんのことが浮かんだから」

 柊真がこちらを見る。

「陽菜乃」

「私ね」

 まだ答えは分からない。

 でも。

 これだけは。

 ちゃんと伝えたかった。

「柊真くんといると、すごく安心する」

「……」

「学校にいないと寂しかったし」

 あの日。

 何度も空いた席を見た。

「クリスマスも楽しかった」

「うん」

「今日も」

 陽菜乃は少しだけ笑う。

「みんなで来るって聞いた時、柊真くんも来るって分かって……嬉しかった」

 言いながら、顔が熱くなる。

「だから」

 陽菜乃は困ったように笑った。

「私、自分が何を思ってるのか分からなくなっちゃった」

 柊真は黙って聞いていた。

 そして。

「じゃあ今は決めんな」

「え?」

「分かんねえなら」

 柊真はいつもの少しぶっきらぼうな声で言う。

「俺のこと好きって言う必要もないし」

「……」

「成瀬選ぶ必要もない」

 陽菜乃は目を丸くした。

「でも」

「陽菜乃が決めることだろ」

「……うん」

「俺は」

 柊真は少しだけ視線をそらす。

「陽菜乃に無理して俺を選ばれても嬉しくねえし」

 胸がぎゅっとなる。

 優しい。

 本当に。

「……ありがとう」

「またそれ」

「だって」

「でも」

 柊真が陽菜乃を見る。

「俺が好きなのは変わらないけど」

「……え?」

 今度は陽菜乃が固まった。

「何その顔」

「だ、だって!」

「言ってなかったっけ?」

「ちゃんとは聞いてない!」

「じゃあ今言った」

「……!」

 頬が一気に熱くなる。

「ずるい」

「何が」

「そんな普通に言う」

「本当だから」

 陽菜乃は何も言えなくなった。

 心臓が。

 ひどくうるさい。


 しばらくして。

 みんなと合流し、駅へ向かう。

 人混みは少し減っていた。

 もう袖をつかむ必要はない。

 陽菜乃も。

 柊真から手を離した。

 でも。

 さっきより距離が離れたように感じる。

(……寂しい)

 そう思って。

 すぐ自分で驚いた。

 でも。

 手は伸ばさなかった。

 今は。

 そこまでしてしまったら。

 自分の気持ちを決めたように見えてしまう気がしたから。

 陽菜乃は、ただ。

 柊真の隣を歩いた。

 それだけ。

 でも。

 その距離が心地よかった。


 夜。

 部屋へ戻った陽菜乃は。

 今日引いたおみくじを机の上に置いた。

『焦らず心を見つめよ。近くにいる人を大切に』

「……」

 その隣には。

 湊から誕生日にもらった白い花の髪飾り。

 そして。

 柊真からもらった白い手袋。

 二つを並べて見る。

 どちらも大切。

 でも。

 どちらを見た時に胸がどう動くのか。

 陽菜乃は。

 今までより少しだけ。

 自分の気持ちを見ようとしていた。

「急がなくていい」

 柊真が言ってくれた。

 湊も。

『返事は急がなくていい』

 と言ってくれた。

 二人とも。

 待ってくれている。

 だから。

 今度こそ。

 思い込みで決めない。

 噂にも逃げない。

 誰かに言われたからでもない。

 陽菜乃自身が。

 ちゃんと答えを出す。

「……私が本当に好きなのは、誰?」

 小さくつぶやく。

 すぐには答えは出なかった。

 でも。

 胸の奥。

 ずっと隠れていた答えが。

 少しずつ。

 陽菜乃自身に見つけてもらうのを。

 待っているような気がした。