ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 十二月二十六日。

 終業式を終えた校舎には、冬休みを迎えた生徒たちの明るい声が響いていた。

「よいお年をー!」

「宿題忘れないでね!」

「冬休み遊ぼう!」

 廊下を行き交う生徒たちは、いつもよりずっと楽しそうだ。

 窓の外には薄い冬の雲。

 冷たい風が吹くたび、校庭の木々の細い枝が揺れている。

 そんな中。

 陽菜乃だけは、朝からずっと落ち着かなかった。

『明日、少し話せる?』

 昨日の夜、湊から届いたメッセージ。

 何の話なのかは書いていなかった。

 陽菜乃も聞かなかった。

 けれど朝起きてからずっと、そのことばかり気になっている。

「陽菜乃」

「……」

「陽菜乃?」

「えっ?」

 美緒に肩をつつかれ、陽菜乃は慌てて顔を上げた。

「どうしたの?」

「それこっちの台詞」

 美緒は机に頬杖をつく。

「さっきから同じプリント三回たたみ直してるよ」

「……ほんと?」

「ほんと」

 陽菜乃は自分の手元を見る。

 終業式でもらったプリント。

 確かに、きれいに折っては開き、また折っていた。

「何かある?」

「……うん」

「成瀬くん?」

 すぐに当てられて、陽菜乃は少しだけ目を丸くした。

「どうして分かったの?」

「今の陽菜乃がそんな顔するの、成瀬くんか水野くんのことくらいでしょ」

「……」

 否定できない。

 少し前までなら。

 そこに柊真の名前が並ぶこと自体、考えられなかった。

「昨日ね」

 陽菜乃は声を落とした。

「湊から、今日話したいって連絡が来たの」

「話したい?」

「うん」

「何の話?」

「分かんない」

「聞かなかったの?」

「……怖くて」

 陽菜乃は小さく笑った。

 美緒が少し心配そうな顔になる。

「まだ怖い?」

「分かんない」

 本当に分からなかった。

 昔なら。

 湊から「話がある」と言われたら、期待していたかもしれない。

 もしかして。

 もしかしたら。

 ずっと待っていた言葉を聞けるのではないかと。

 でも今は。

 胸の中にいるのは、湊だけではない。

 クリスマスの日。

 柊真と手をつないだ。

 プレゼントを交換した。

 その夜も、何度も柊真のことを思い出した。

 だからこそ。

 今さら湊に何を言われても。

 以前の自分と同じようには受け止められない気がした。

「陽菜乃」

「うん?」

「ちゃんと聞いてきなよ」

 美緒が言う。

「怖くても」

「……うん」

「ここまでずっと、聞けないまますれ違ってきたんでしょ?」

 その通りだった。

 美羽と付き合っているのか。

 湊は誰が好きなのか。

 何度も聞こうとして。

 何度も逃げた。

「今度は逃げない」

 陽菜乃は、自分に言い聞かせるように答えた。


 午後一時。

 ほとんどの生徒が帰った校舎は、急に静かになっていた。

 陽菜乃はダンス部の荷物をロッカーへ置き、自分のスマホを見る。

『中庭で待ってる』

 湊から届いたメッセージ。

 胸がどきっと鳴る。

「……行こう」

 陽菜乃は白いマフラーを巻き直し、階段を下りた。

 冬休み前の校舎。

 いつもなら走り回る生徒でいっぱいの廊下も、今日は人が少ない。

 自分の足音ばかりが聞こえる。

 中庭へ続く扉を開けると、冷たい風が一気に頬へ当たった。

「さむ……」

 思わず首をすくめる。

 そして。

 すぐに見つけた。

 ベンチの近く。

 制服のポケットに手を入れて立っている湊。

 陽菜乃に気づくと、まっすぐこちらを見る。

「陽菜乃」

「……待った?」

「ちょっとだけ」

「ごめん」

「大丈夫」

 昔なら。

 こうして二人でいることは何でもないことだった。

 朝も。

 帰りも。

 休みの日も。

 ずっと一緒だったから。

 でも今は。

 どこに立てばいいのかさえ少し迷う。

 陽菜乃は湊から一歩ほど離れた場所で足を止めた。

「話って?」

「ああ」

 湊はすぐには話し始めなかった。

 何度か息を吐いてから。

「まず」

 陽菜乃を見る。

「謝りたい」

「……謝る?」

「うん」

 予想していなかった言葉だった。

「何を?」

「美羽のこと」

 その名前に。

 胸が少しだけざわつく。

「美羽ちゃん?」

「昨日、知った」

「……何を?」

「SNS」

 陽菜乃の指先が止まった。

「……見たの?」

「悠人に見せられた」

 湊の表情は真剣だった。

「試合の写真も。文化祭も。飲み物の写真も。クリスマスも」

「……」

「俺、あんなふうに投稿されてるの知らなかった」

 陽菜乃は何も言えなかった。

 湊は続ける。

「二人でいたみたいに見える写真もあったけど、実際は悠人とかサッカー部のみんながいた時も多かった」

「……そうだったんだ」

「文化祭も買い出しだった」

「うん」

「クリスマスも、二人じゃない」

「……うん」

 一つ一つ。

 今まで陽菜乃が苦しんできた光景が、違う形へ変わっていく。

 でも。

 不思議だった。

 少し前なら。

『全部違ったんだ』

 と知った瞬間、飛び上がるほど嬉しかったはずなのに。

 今は。

 もちろん安心はする。

 でも。

 それだけではなかった。

「美羽とも話した」

 湊の声で、陽菜乃は顔を上げる。

「話した?」

「うん」

 湊は少し迷ったあと。

「陽菜乃に……俺と付き合ってるのか聞かれたって」

 陽菜乃の胸がぎゅっとなる。

 あの日。

 勇気を出して。

『湊と付き合ってるの?』

 と美羽に聞いた。

『どうだろうね』

 美羽は笑っていた。

「聞いたよ」

 陽菜乃は答えた。

「美羽ちゃんに」

「ごめん」

「なんで湊が謝るの?」

「俺にも責任あるから」

「……」

「俺、美羽とは一回も付き合ってない」

 今。

 初めて。

 湊本人の口から聞いた。

 陽菜乃は黙って聞いていた。

「好きだったこともない」

 さらに。

 ずっと知りたかった答え。

「じゃあ」

 陽菜乃は、自分でも驚くほど静かな声で聞いた。

「どうして噂、否定しなかったの?」

 湊が言葉を止める。

「みんな言ってたよ」

「……うん」

「湊と美羽ちゃんが付き合ってるって」

「知ってた」

「知ってたの?」

 そこだけは驚いた。

 湊は小さくうなずく。

「少しは」

「……」

「でも本当じゃないから、そのうち消えると思ってた」

 陽菜乃の胸に。

 ちくっとした痛みが走った。

「そう……」

「陽菜乃」

「私は」

 気づけば。

 言葉が出ていた。

「ずっと本当だと思ってたよ」

 湊が黙る。

「試合のあと、美羽ちゃんが湊に抱きついて」

「……うん」

「お弁当作ってきて」

「うん」

「文化祭も一緒に歩いてて」

「……」

「誕生日にもプレゼント渡してた」

 思い出すたびに。

 胸が少し苦しくなる。

「SNSだって」

 陽菜乃は自分の手をぎゅっと握った。

「みんな『付き合ってるの?』って聞いてるのに、美羽ちゃんは一度も違うって言わなかった」

「……ごめん」

「それで」

 少しだけ声が震える。

「私、湊本人に聞こうとしたことも何回もあった」

「……」

「でも怖かった」

 もし。

『付き合ってる』

 と言われたら。

 自分の初恋が終わってしまう。

 そう思って。

 聞けなかった。

「私も悪かったと思う」

 陽菜乃は小さく言った。

「ちゃんと湊に聞けばよかった」

「陽菜乃は悪くない」

「でも――」

「違う」

 湊は首を横に振った。

「聞けないような状況にしてたの、俺だから」

 陽菜乃は少し目を見開いた。

「美羽を好きじゃないって、自分が分かってればそれでいいと思ってた」

「……」

「陽菜乃なら、俺のこと分かってるって勝手に思ってた」

 湊は苦しそうに笑った。

「幼馴染だから」

 その言葉。

 ずっと二人をつないできた言葉。

 でも。

 同時に。

 二人が恋人になるのを邪魔していた言葉でもある。

「陽菜乃が俺から離れ始めても」

 湊は続ける。

「どうせそのうち元に戻ると思ってた」

「……」

「朝一緒に行かなくなっても」

「うん」

「昼も来なくなっても」

「……うん」

「水野といる時間が増えても」

 柊真の名前。

 陽菜乃の胸が少しだけ大きく鳴った。

「ずっと隣の家なんだから、陽菜乃が本当にいなくなるなんて思ってなかった」

 湊は視線を落とした。

「俺、完全に甘えてた」

「……湊」

「ごめん」

 もう一度。

 はっきり謝られた。

 陽菜乃は。

 何も言えなかった。

 怒っていたわけではない。

 ずっと悲しかった。

 苦しかった。

 でも。

 本当は。

 湊を嫌いになりたくなかったから。

 何も言わず、自分から離れた。

「……私ね」

 陽菜乃はゆっくり口を開いた。

「ずっと、湊が好きだった」

 湊の顔が上がる。

 初めて。

 本人に言った。

 十年以上。

 胸の中だけに隠していた気持ち。

「中学生の頃から」

 いつから恋になったのかは。

 もうはっきり思い出せない。

「湊が女子に告白されるたび嫌だった」

「……」

「でも、幼馴染じゃなくなるのが怖くて」

 だから言わなかった。

「いつか湊も私を好きになってくれたらいいなって」

 陽菜乃は少し笑った。

「ずっと思ってた」

 湊の瞳が大きくなる。

「……陽菜乃」

「だから美羽ちゃんが来た時」

 胸の奥が痛む。

「すごく怖かった」

「……」

「私の場所がなくなった気がした」

 グラウンドで。

 湊の隣に立つ美羽を初めて見た日。

 あの日から。

 少しずつ。

 すべてが変わった。

「何度も泣きそうになった」

「ごめん」

「うん」

「本当にごめん」

「……うん」

 陽菜乃は。

 初めて。

 その謝罪を受け取った。


 しばらく。

 二人とも話さなかった。

 冬の風が、中庭を通り抜ける。

 陽菜乃の髪が揺れ。

 湊が小さく息を吐いた。

「俺も」

「え?」

 湊が顔を上げる。

「俺もずっと好きだった」

 陽菜乃の体が。

 ぴたりと止まった。

「……誰を?」

 分かっているはずなのに。

 聞き返してしまう。

 湊は。

 今度は逃げなかった。

「陽菜乃」

「……」

「俺が好きなのは、ずっと陽菜乃」

 心臓が。

 大きく。

 一度。

 鳴った。

「……うそ」

「嘘じゃない」

「でも」

 陽菜乃は混乱する。

「だって……」

 今まで。

 一度も。

「言ってくれなかった」

「うん」

「そんな感じもしなかった」

「……それは俺が悪い」

「女子に告白されても普通だったし」

「全部断ってた」

「……」

「付き合ったことない」

 知らなかった。

「なんで?」

 陽菜乃の声が震えた。

「どうして言わなかったの?」

 ずっと好きだったなら。

 どうして。

 美羽にあんなに近づかれても。

 どうして。

 自分が離れていくまで。

「怖かった」

 湊が答えた。

「……湊も?」

「陽菜乃に振られて、今までみたいにいられなくなるのが」

「……」

「俺も同じだった」

 二人とも。

 同じことを怖がって。

 同じように黙っていた。

 なのに。

 その間に。

 たくさんの勘違いが生まれた。

「……いつから?」

「中二くらい」

 陽菜乃の目が大きくなる。

「そんな前?」

「うん」

「私も……そのくらい」

「マジ?」

「うん」

 二人はしばらく見つめ合った。

 本当なら。

 笑ってしまうくらい。

 ずっと両想いだった。

 それなのに。

「……もっと早く」

 陽菜乃の声が震える。

「もっと早く言ってよ」

 胸の奥から。

 今まで我慢していたものが、一気にこみ上げてきた。

「陽菜乃?」

「ずっと待ってたのに……」

 目の奥が熱くなる。

「湊が好きって言ってくれたら」

 何度。

 想像しただろう。

「私、絶対嬉しかった」

「……うん」

「美羽ちゃんのことで、あんなに苦しまなくてよかった」

「……」

「湊から離れようって思わなくてよかった」

 一粒。

 涙が頬を伝った。

「陽菜乃」

 湊が手を伸ばしかける。

 でも。

 触れる直前で止めた。

 今の自分には。

 勝手に触れる資格がないと思ったように。

「ごめん」

「……遅いよ」

 陽菜乃は泣きながら言った。

「遅すぎるよ」

「うん」

 湊は否定しなかった。

「分かってる」

 その答えが。

 余計に胸を締めつけた。

「でも」

 湊が。

 静かに続ける。

「遅いからって、言わないまま終わるのは嫌だった」

 陽菜乃は涙をぬぐう。

「俺」

 湊はまっすぐ見る。

「陽菜乃が好き」

「……」

「幼馴染だからじゃない」

 昔から。

 何度も言われてきた。

『兄妹みたい』

『家族みたい』

 そのたび。

 陽菜乃は少し傷ついた。

「一人の女の子として好き」

 ずっと。

 聞きたかった言葉。

「陽菜乃と朝一緒に行くのが好きだった」

「……」

「帰り道も」

「うん」

「俺の袖つかんでくるのも」

「……恥ずかしいから言わないで」

「でも好きだった」

 湊が少しだけ笑う。

「水野にそれやってるの見た時、めちゃくちゃ嫌だった」

「……」

「弁当作った時も」

「あれはお礼だよ」

「分かってる」

「文化祭のうさぎも」

「……」

「クリスマスに手つないでるのも」

 湊の声が少し苦しくなる。

「全部嫌だった」

 陽菜乃は。

 何も言えない。

「嫉妬してた」

 初めて。

 湊自身の口から聞いた。

「ずっと」

 胸が揺れる。

 もし。

 これを数か月前に聞いていたら。

 陽菜乃は。

 迷わず湊の胸へ飛び込んでいたかもしれない。

 でも。

 今は。

 違う。

「……湊」

「うん」

「私」

 言わなければならない。

「今、すぐに答えられない」

 湊の表情が少しだけ曇る。

 でも。

「うん」

 と答えた。

「柊真くんのことが」

 名前を口にしただけで。

 胸が動く。

「……大切なの」

「分かってる」

「クリスマス、一緒にいてすごく楽しかった」

「うん」

「柊真くんが学校休んだら寂しかった」

「……」

「ほかの女の子と話してると嫌だった」

 湊の瞳が少し揺れる。

「私」

 陽菜乃は、自分の胸元へ手を置いた。

「柊真くんを好きになり始めてる」

 ちゃんと。

 言えた。

 湊は。

 すぐには何も言わなかった。

 冷たい風だけが。

 二人の間を通り抜ける。

「……そっか」

 やっと。

 それだけ答えた。

「ごめん」

「なんで陽菜乃が謝るんだよ」

「だって」

「俺が遅かっただけだから」

 湊は苦しそうに。

 でも笑った。

「陽菜乃が悪いこと、一個もない」

 その言葉に。

 また涙が出そうになった。


「だから」

 湊は続ける。

「今すぐ俺を選んでって言わない」

「……」

「水野のことも、ちゃんと考えて」

 陽菜乃は驚いた。

「いいの?」

「よくはない」

 湊はすぐに答えた。

「本当はめちゃくちゃ嫌」

「……」

「でも」

 少しだけ笑う。

「今まで陽菜乃の気持ちちゃんと考えなかった俺が、今さら急かせないだろ」

 陽菜乃は湊を見る。

 昔から知っている。

 大好きだった男の子。

 でも。

 今日の湊は。

 少しだけ違って見えた。

「俺」

 湊が言う。

「もう幼馴染だからって甘えない」

「……」

「陽菜乃にもう一回、俺を好きになってもらえるようにする」

「え?」

「だって」

 湊は少しだけ照れたように視線をそらす。

「まだ振られてないだろ?」

「……」

「返事、まだなんだよな?」

「うん」

「じゃあ諦めない」

 陽菜乃の胸が。

 また大きく鳴った。

「ずるい」

「何が?」

「今まで何も言わなかったのに」

「うん」

「急にそんなこと言う」

「……ごめん」

「そこは謝るんだ」

 二人とも。

 ほんの少し。

 笑った。

 泣いたあとの陽菜乃の頬に。

 冬の風が冷たく触れた。


 校門を出るところで。

 二人は立ち止まった。

「送る?」

 湊が聞く。

 以前なら。

『送る』

 と勝手に決めていた。

 陽菜乃はその違いに気づく。

「今日は大丈夫」

「分かった」

 湊はそれ以上言わなかった。

「じゃあ」

「うん」

「気をつけて」

「湊も」

 陽菜乃は一人で歩き出した。

 数歩。

 十歩。

 振り返る。

 湊はまだそこにいた。

 目が合う。

 少しだけ。

 お互いに笑った。


 帰り道。

 陽菜乃は一人だった。

 冬休みに入ったばかりの街。

 駅前にはまだクリスマスの飾りが残っている。

 明日には、少しずつお正月の飾りへ変わっていくのだろう。

 陽菜乃も。

 昨日までとは。

 何かが変わった。

『俺が好きなのは、ずっと陽菜乃』

 あれほど。

 聞きたかった言葉。

 ずっと。

 夢に見ていた。

「……嬉しかった」

 嘘ではない。

 本当に。

 すごく嬉しかった。

 それなのに。

 同時に。

 浮かんだ顔がある。

 柊真。

『陽菜乃が俺のこと考えて選んだんだろ』

 クリスマスプレゼントを受け取って。

 嬉しそうに笑った顔。

『嫌ならいいけど』

 手を差し出してくれた時。

 自分からその手を握った。

「……」

 陽菜乃は白い手袋を見つめた。

 柊真からもらったもの。

 湊が好き。

 その気持ちは。

 まだ確かにある。

 でも。

 柊真への気持ちも。

 もうなかったことにはできない。

「どうしたらいいんだろう……」

 答えは出ない。

 だから。

 急いで出さない。

 今度こそ。

 噂でも。

 思い込みでもなく。

 自分の気持ちを。

 ちゃんと確かめたい。

 陽菜乃は。

 白い手袋をした手を、そっと胸元へ当てた。

 長かった初恋が叶うかもしれないと知った日。

 それなのに。

 陽菜乃の心は。

 もう。

 あの頃のように、湊だけを見てはいなかった。