十二月二十六日。
終業式を終えた校舎には、冬休みを迎えた生徒たちの明るい声が響いていた。
「よいお年をー!」
「宿題忘れないでね!」
「冬休み遊ぼう!」
廊下を行き交う生徒たちは、いつもよりずっと楽しそうだ。
窓の外には薄い冬の雲。
冷たい風が吹くたび、校庭の木々の細い枝が揺れている。
そんな中。
陽菜乃だけは、朝からずっと落ち着かなかった。
『明日、少し話せる?』
昨日の夜、湊から届いたメッセージ。
何の話なのかは書いていなかった。
陽菜乃も聞かなかった。
けれど朝起きてからずっと、そのことばかり気になっている。
「陽菜乃」
「……」
「陽菜乃?」
「えっ?」
美緒に肩をつつかれ、陽菜乃は慌てて顔を上げた。
「どうしたの?」
「それこっちの台詞」
美緒は机に頬杖をつく。
「さっきから同じプリント三回たたみ直してるよ」
「……ほんと?」
「ほんと」
陽菜乃は自分の手元を見る。
終業式でもらったプリント。
確かに、きれいに折っては開き、また折っていた。
「何かある?」
「……うん」
「成瀬くん?」
すぐに当てられて、陽菜乃は少しだけ目を丸くした。
「どうして分かったの?」
「今の陽菜乃がそんな顔するの、成瀬くんか水野くんのことくらいでしょ」
「……」
否定できない。
少し前までなら。
そこに柊真の名前が並ぶこと自体、考えられなかった。
「昨日ね」
陽菜乃は声を落とした。
「湊から、今日話したいって連絡が来たの」
「話したい?」
「うん」
「何の話?」
「分かんない」
「聞かなかったの?」
「……怖くて」
陽菜乃は小さく笑った。
美緒が少し心配そうな顔になる。
「まだ怖い?」
「分かんない」
本当に分からなかった。
昔なら。
湊から「話がある」と言われたら、期待していたかもしれない。
もしかして。
もしかしたら。
ずっと待っていた言葉を聞けるのではないかと。
でも今は。
胸の中にいるのは、湊だけではない。
クリスマスの日。
柊真と手をつないだ。
プレゼントを交換した。
その夜も、何度も柊真のことを思い出した。
だからこそ。
今さら湊に何を言われても。
以前の自分と同じようには受け止められない気がした。
「陽菜乃」
「うん?」
「ちゃんと聞いてきなよ」
美緒が言う。
「怖くても」
「……うん」
「ここまでずっと、聞けないまますれ違ってきたんでしょ?」
その通りだった。
美羽と付き合っているのか。
湊は誰が好きなのか。
何度も聞こうとして。
何度も逃げた。
「今度は逃げない」
陽菜乃は、自分に言い聞かせるように答えた。
午後一時。
ほとんどの生徒が帰った校舎は、急に静かになっていた。
陽菜乃はダンス部の荷物をロッカーへ置き、自分のスマホを見る。
『中庭で待ってる』
湊から届いたメッセージ。
胸がどきっと鳴る。
「……行こう」
陽菜乃は白いマフラーを巻き直し、階段を下りた。
冬休み前の校舎。
いつもなら走り回る生徒でいっぱいの廊下も、今日は人が少ない。
自分の足音ばかりが聞こえる。
中庭へ続く扉を開けると、冷たい風が一気に頬へ当たった。
「さむ……」
思わず首をすくめる。
そして。
すぐに見つけた。
ベンチの近く。
制服のポケットに手を入れて立っている湊。
陽菜乃に気づくと、まっすぐこちらを見る。
「陽菜乃」
「……待った?」
「ちょっとだけ」
「ごめん」
「大丈夫」
昔なら。
こうして二人でいることは何でもないことだった。
朝も。
帰りも。
休みの日も。
ずっと一緒だったから。
でも今は。
どこに立てばいいのかさえ少し迷う。
陽菜乃は湊から一歩ほど離れた場所で足を止めた。
「話って?」
「ああ」
湊はすぐには話し始めなかった。
何度か息を吐いてから。
「まず」
陽菜乃を見る。
「謝りたい」
「……謝る?」
「うん」
予想していなかった言葉だった。
「何を?」
「美羽のこと」
その名前に。
胸が少しだけざわつく。
「美羽ちゃん?」
「昨日、知った」
「……何を?」
「SNS」
陽菜乃の指先が止まった。
「……見たの?」
「悠人に見せられた」
湊の表情は真剣だった。
「試合の写真も。文化祭も。飲み物の写真も。クリスマスも」
「……」
「俺、あんなふうに投稿されてるの知らなかった」
陽菜乃は何も言えなかった。
湊は続ける。
「二人でいたみたいに見える写真もあったけど、実際は悠人とかサッカー部のみんながいた時も多かった」
「……そうだったんだ」
「文化祭も買い出しだった」
「うん」
「クリスマスも、二人じゃない」
「……うん」
一つ一つ。
今まで陽菜乃が苦しんできた光景が、違う形へ変わっていく。
でも。
不思議だった。
少し前なら。
『全部違ったんだ』
と知った瞬間、飛び上がるほど嬉しかったはずなのに。
今は。
もちろん安心はする。
でも。
それだけではなかった。
「美羽とも話した」
湊の声で、陽菜乃は顔を上げる。
「話した?」
「うん」
湊は少し迷ったあと。
「陽菜乃に……俺と付き合ってるのか聞かれたって」
陽菜乃の胸がぎゅっとなる。
あの日。
勇気を出して。
『湊と付き合ってるの?』
と美羽に聞いた。
『どうだろうね』
美羽は笑っていた。
「聞いたよ」
陽菜乃は答えた。
「美羽ちゃんに」
「ごめん」
「なんで湊が謝るの?」
「俺にも責任あるから」
「……」
「俺、美羽とは一回も付き合ってない」
今。
初めて。
湊本人の口から聞いた。
陽菜乃は黙って聞いていた。
「好きだったこともない」
さらに。
ずっと知りたかった答え。
「じゃあ」
陽菜乃は、自分でも驚くほど静かな声で聞いた。
「どうして噂、否定しなかったの?」
湊が言葉を止める。
「みんな言ってたよ」
「……うん」
「湊と美羽ちゃんが付き合ってるって」
「知ってた」
「知ってたの?」
そこだけは驚いた。
湊は小さくうなずく。
「少しは」
「……」
「でも本当じゃないから、そのうち消えると思ってた」
陽菜乃の胸に。
ちくっとした痛みが走った。
「そう……」
「陽菜乃」
「私は」
気づけば。
言葉が出ていた。
「ずっと本当だと思ってたよ」
湊が黙る。
「試合のあと、美羽ちゃんが湊に抱きついて」
「……うん」
「お弁当作ってきて」
「うん」
「文化祭も一緒に歩いてて」
「……」
「誕生日にもプレゼント渡してた」
思い出すたびに。
胸が少し苦しくなる。
「SNSだって」
陽菜乃は自分の手をぎゅっと握った。
「みんな『付き合ってるの?』って聞いてるのに、美羽ちゃんは一度も違うって言わなかった」
「……ごめん」
「それで」
少しだけ声が震える。
「私、湊本人に聞こうとしたことも何回もあった」
「……」
「でも怖かった」
もし。
『付き合ってる』
と言われたら。
自分の初恋が終わってしまう。
そう思って。
聞けなかった。
「私も悪かったと思う」
陽菜乃は小さく言った。
「ちゃんと湊に聞けばよかった」
「陽菜乃は悪くない」
「でも――」
「違う」
湊は首を横に振った。
「聞けないような状況にしてたの、俺だから」
陽菜乃は少し目を見開いた。
「美羽を好きじゃないって、自分が分かってればそれでいいと思ってた」
「……」
「陽菜乃なら、俺のこと分かってるって勝手に思ってた」
湊は苦しそうに笑った。
「幼馴染だから」
その言葉。
ずっと二人をつないできた言葉。
でも。
同時に。
二人が恋人になるのを邪魔していた言葉でもある。
「陽菜乃が俺から離れ始めても」
湊は続ける。
「どうせそのうち元に戻ると思ってた」
「……」
「朝一緒に行かなくなっても」
「うん」
「昼も来なくなっても」
「……うん」
「水野といる時間が増えても」
柊真の名前。
陽菜乃の胸が少しだけ大きく鳴った。
「ずっと隣の家なんだから、陽菜乃が本当にいなくなるなんて思ってなかった」
湊は視線を落とした。
「俺、完全に甘えてた」
「……湊」
「ごめん」
もう一度。
はっきり謝られた。
陽菜乃は。
何も言えなかった。
怒っていたわけではない。
ずっと悲しかった。
苦しかった。
でも。
本当は。
湊を嫌いになりたくなかったから。
何も言わず、自分から離れた。
「……私ね」
陽菜乃はゆっくり口を開いた。
「ずっと、湊が好きだった」
湊の顔が上がる。
初めて。
本人に言った。
十年以上。
胸の中だけに隠していた気持ち。
「中学生の頃から」
いつから恋になったのかは。
もうはっきり思い出せない。
「湊が女子に告白されるたび嫌だった」
「……」
「でも、幼馴染じゃなくなるのが怖くて」
だから言わなかった。
「いつか湊も私を好きになってくれたらいいなって」
陽菜乃は少し笑った。
「ずっと思ってた」
湊の瞳が大きくなる。
「……陽菜乃」
「だから美羽ちゃんが来た時」
胸の奥が痛む。
「すごく怖かった」
「……」
「私の場所がなくなった気がした」
グラウンドで。
湊の隣に立つ美羽を初めて見た日。
あの日から。
少しずつ。
すべてが変わった。
「何度も泣きそうになった」
「ごめん」
「うん」
「本当にごめん」
「……うん」
陽菜乃は。
初めて。
その謝罪を受け取った。
しばらく。
二人とも話さなかった。
冬の風が、中庭を通り抜ける。
陽菜乃の髪が揺れ。
湊が小さく息を吐いた。
「俺も」
「え?」
湊が顔を上げる。
「俺もずっと好きだった」
陽菜乃の体が。
ぴたりと止まった。
「……誰を?」
分かっているはずなのに。
聞き返してしまう。
湊は。
今度は逃げなかった。
「陽菜乃」
「……」
「俺が好きなのは、ずっと陽菜乃」
心臓が。
大きく。
一度。
鳴った。
「……うそ」
「嘘じゃない」
「でも」
陽菜乃は混乱する。
「だって……」
今まで。
一度も。
「言ってくれなかった」
「うん」
「そんな感じもしなかった」
「……それは俺が悪い」
「女子に告白されても普通だったし」
「全部断ってた」
「……」
「付き合ったことない」
知らなかった。
「なんで?」
陽菜乃の声が震えた。
「どうして言わなかったの?」
ずっと好きだったなら。
どうして。
美羽にあんなに近づかれても。
どうして。
自分が離れていくまで。
「怖かった」
湊が答えた。
「……湊も?」
「陽菜乃に振られて、今までみたいにいられなくなるのが」
「……」
「俺も同じだった」
二人とも。
同じことを怖がって。
同じように黙っていた。
なのに。
その間に。
たくさんの勘違いが生まれた。
「……いつから?」
「中二くらい」
陽菜乃の目が大きくなる。
「そんな前?」
「うん」
「私も……そのくらい」
「マジ?」
「うん」
二人はしばらく見つめ合った。
本当なら。
笑ってしまうくらい。
ずっと両想いだった。
それなのに。
「……もっと早く」
陽菜乃の声が震える。
「もっと早く言ってよ」
胸の奥から。
今まで我慢していたものが、一気にこみ上げてきた。
「陽菜乃?」
「ずっと待ってたのに……」
目の奥が熱くなる。
「湊が好きって言ってくれたら」
何度。
想像しただろう。
「私、絶対嬉しかった」
「……うん」
「美羽ちゃんのことで、あんなに苦しまなくてよかった」
「……」
「湊から離れようって思わなくてよかった」
一粒。
涙が頬を伝った。
「陽菜乃」
湊が手を伸ばしかける。
でも。
触れる直前で止めた。
今の自分には。
勝手に触れる資格がないと思ったように。
「ごめん」
「……遅いよ」
陽菜乃は泣きながら言った。
「遅すぎるよ」
「うん」
湊は否定しなかった。
「分かってる」
その答えが。
余計に胸を締めつけた。
「でも」
湊が。
静かに続ける。
「遅いからって、言わないまま終わるのは嫌だった」
陽菜乃は涙をぬぐう。
「俺」
湊はまっすぐ見る。
「陽菜乃が好き」
「……」
「幼馴染だからじゃない」
昔から。
何度も言われてきた。
『兄妹みたい』
『家族みたい』
そのたび。
陽菜乃は少し傷ついた。
「一人の女の子として好き」
ずっと。
聞きたかった言葉。
「陽菜乃と朝一緒に行くのが好きだった」
「……」
「帰り道も」
「うん」
「俺の袖つかんでくるのも」
「……恥ずかしいから言わないで」
「でも好きだった」
湊が少しだけ笑う。
「水野にそれやってるの見た時、めちゃくちゃ嫌だった」
「……」
「弁当作った時も」
「あれはお礼だよ」
「分かってる」
「文化祭のうさぎも」
「……」
「クリスマスに手つないでるのも」
湊の声が少し苦しくなる。
「全部嫌だった」
陽菜乃は。
何も言えない。
「嫉妬してた」
初めて。
湊自身の口から聞いた。
「ずっと」
胸が揺れる。
もし。
これを数か月前に聞いていたら。
陽菜乃は。
迷わず湊の胸へ飛び込んでいたかもしれない。
でも。
今は。
違う。
「……湊」
「うん」
「私」
言わなければならない。
「今、すぐに答えられない」
湊の表情が少しだけ曇る。
でも。
「うん」
と答えた。
「柊真くんのことが」
名前を口にしただけで。
胸が動く。
「……大切なの」
「分かってる」
「クリスマス、一緒にいてすごく楽しかった」
「うん」
「柊真くんが学校休んだら寂しかった」
「……」
「ほかの女の子と話してると嫌だった」
湊の瞳が少し揺れる。
「私」
陽菜乃は、自分の胸元へ手を置いた。
「柊真くんを好きになり始めてる」
ちゃんと。
言えた。
湊は。
すぐには何も言わなかった。
冷たい風だけが。
二人の間を通り抜ける。
「……そっか」
やっと。
それだけ答えた。
「ごめん」
「なんで陽菜乃が謝るんだよ」
「だって」
「俺が遅かっただけだから」
湊は苦しそうに。
でも笑った。
「陽菜乃が悪いこと、一個もない」
その言葉に。
また涙が出そうになった。
「だから」
湊は続ける。
「今すぐ俺を選んでって言わない」
「……」
「水野のことも、ちゃんと考えて」
陽菜乃は驚いた。
「いいの?」
「よくはない」
湊はすぐに答えた。
「本当はめちゃくちゃ嫌」
「……」
「でも」
少しだけ笑う。
「今まで陽菜乃の気持ちちゃんと考えなかった俺が、今さら急かせないだろ」
陽菜乃は湊を見る。
昔から知っている。
大好きだった男の子。
でも。
今日の湊は。
少しだけ違って見えた。
「俺」
湊が言う。
「もう幼馴染だからって甘えない」
「……」
「陽菜乃にもう一回、俺を好きになってもらえるようにする」
「え?」
「だって」
湊は少しだけ照れたように視線をそらす。
「まだ振られてないだろ?」
「……」
「返事、まだなんだよな?」
「うん」
「じゃあ諦めない」
陽菜乃の胸が。
また大きく鳴った。
「ずるい」
「何が?」
「今まで何も言わなかったのに」
「うん」
「急にそんなこと言う」
「……ごめん」
「そこは謝るんだ」
二人とも。
ほんの少し。
笑った。
泣いたあとの陽菜乃の頬に。
冬の風が冷たく触れた。
校門を出るところで。
二人は立ち止まった。
「送る?」
湊が聞く。
以前なら。
『送る』
と勝手に決めていた。
陽菜乃はその違いに気づく。
「今日は大丈夫」
「分かった」
湊はそれ以上言わなかった。
「じゃあ」
「うん」
「気をつけて」
「湊も」
陽菜乃は一人で歩き出した。
数歩。
十歩。
振り返る。
湊はまだそこにいた。
目が合う。
少しだけ。
お互いに笑った。
帰り道。
陽菜乃は一人だった。
冬休みに入ったばかりの街。
駅前にはまだクリスマスの飾りが残っている。
明日には、少しずつお正月の飾りへ変わっていくのだろう。
陽菜乃も。
昨日までとは。
何かが変わった。
『俺が好きなのは、ずっと陽菜乃』
あれほど。
聞きたかった言葉。
ずっと。
夢に見ていた。
「……嬉しかった」
嘘ではない。
本当に。
すごく嬉しかった。
それなのに。
同時に。
浮かんだ顔がある。
柊真。
『陽菜乃が俺のこと考えて選んだんだろ』
クリスマスプレゼントを受け取って。
嬉しそうに笑った顔。
『嫌ならいいけど』
手を差し出してくれた時。
自分からその手を握った。
「……」
陽菜乃は白い手袋を見つめた。
柊真からもらったもの。
湊が好き。
その気持ちは。
まだ確かにある。
でも。
柊真への気持ちも。
もうなかったことにはできない。
「どうしたらいいんだろう……」
答えは出ない。
だから。
急いで出さない。
今度こそ。
噂でも。
思い込みでもなく。
自分の気持ちを。
ちゃんと確かめたい。
陽菜乃は。
白い手袋をした手を、そっと胸元へ当てた。
長かった初恋が叶うかもしれないと知った日。
それなのに。
陽菜乃の心は。
もう。
あの頃のように、湊だけを見てはいなかった。
終業式を終えた校舎には、冬休みを迎えた生徒たちの明るい声が響いていた。
「よいお年をー!」
「宿題忘れないでね!」
「冬休み遊ぼう!」
廊下を行き交う生徒たちは、いつもよりずっと楽しそうだ。
窓の外には薄い冬の雲。
冷たい風が吹くたび、校庭の木々の細い枝が揺れている。
そんな中。
陽菜乃だけは、朝からずっと落ち着かなかった。
『明日、少し話せる?』
昨日の夜、湊から届いたメッセージ。
何の話なのかは書いていなかった。
陽菜乃も聞かなかった。
けれど朝起きてからずっと、そのことばかり気になっている。
「陽菜乃」
「……」
「陽菜乃?」
「えっ?」
美緒に肩をつつかれ、陽菜乃は慌てて顔を上げた。
「どうしたの?」
「それこっちの台詞」
美緒は机に頬杖をつく。
「さっきから同じプリント三回たたみ直してるよ」
「……ほんと?」
「ほんと」
陽菜乃は自分の手元を見る。
終業式でもらったプリント。
確かに、きれいに折っては開き、また折っていた。
「何かある?」
「……うん」
「成瀬くん?」
すぐに当てられて、陽菜乃は少しだけ目を丸くした。
「どうして分かったの?」
「今の陽菜乃がそんな顔するの、成瀬くんか水野くんのことくらいでしょ」
「……」
否定できない。
少し前までなら。
そこに柊真の名前が並ぶこと自体、考えられなかった。
「昨日ね」
陽菜乃は声を落とした。
「湊から、今日話したいって連絡が来たの」
「話したい?」
「うん」
「何の話?」
「分かんない」
「聞かなかったの?」
「……怖くて」
陽菜乃は小さく笑った。
美緒が少し心配そうな顔になる。
「まだ怖い?」
「分かんない」
本当に分からなかった。
昔なら。
湊から「話がある」と言われたら、期待していたかもしれない。
もしかして。
もしかしたら。
ずっと待っていた言葉を聞けるのではないかと。
でも今は。
胸の中にいるのは、湊だけではない。
クリスマスの日。
柊真と手をつないだ。
プレゼントを交換した。
その夜も、何度も柊真のことを思い出した。
だからこそ。
今さら湊に何を言われても。
以前の自分と同じようには受け止められない気がした。
「陽菜乃」
「うん?」
「ちゃんと聞いてきなよ」
美緒が言う。
「怖くても」
「……うん」
「ここまでずっと、聞けないまますれ違ってきたんでしょ?」
その通りだった。
美羽と付き合っているのか。
湊は誰が好きなのか。
何度も聞こうとして。
何度も逃げた。
「今度は逃げない」
陽菜乃は、自分に言い聞かせるように答えた。
午後一時。
ほとんどの生徒が帰った校舎は、急に静かになっていた。
陽菜乃はダンス部の荷物をロッカーへ置き、自分のスマホを見る。
『中庭で待ってる』
湊から届いたメッセージ。
胸がどきっと鳴る。
「……行こう」
陽菜乃は白いマフラーを巻き直し、階段を下りた。
冬休み前の校舎。
いつもなら走り回る生徒でいっぱいの廊下も、今日は人が少ない。
自分の足音ばかりが聞こえる。
中庭へ続く扉を開けると、冷たい風が一気に頬へ当たった。
「さむ……」
思わず首をすくめる。
そして。
すぐに見つけた。
ベンチの近く。
制服のポケットに手を入れて立っている湊。
陽菜乃に気づくと、まっすぐこちらを見る。
「陽菜乃」
「……待った?」
「ちょっとだけ」
「ごめん」
「大丈夫」
昔なら。
こうして二人でいることは何でもないことだった。
朝も。
帰りも。
休みの日も。
ずっと一緒だったから。
でも今は。
どこに立てばいいのかさえ少し迷う。
陽菜乃は湊から一歩ほど離れた場所で足を止めた。
「話って?」
「ああ」
湊はすぐには話し始めなかった。
何度か息を吐いてから。
「まず」
陽菜乃を見る。
「謝りたい」
「……謝る?」
「うん」
予想していなかった言葉だった。
「何を?」
「美羽のこと」
その名前に。
胸が少しだけざわつく。
「美羽ちゃん?」
「昨日、知った」
「……何を?」
「SNS」
陽菜乃の指先が止まった。
「……見たの?」
「悠人に見せられた」
湊の表情は真剣だった。
「試合の写真も。文化祭も。飲み物の写真も。クリスマスも」
「……」
「俺、あんなふうに投稿されてるの知らなかった」
陽菜乃は何も言えなかった。
湊は続ける。
「二人でいたみたいに見える写真もあったけど、実際は悠人とかサッカー部のみんながいた時も多かった」
「……そうだったんだ」
「文化祭も買い出しだった」
「うん」
「クリスマスも、二人じゃない」
「……うん」
一つ一つ。
今まで陽菜乃が苦しんできた光景が、違う形へ変わっていく。
でも。
不思議だった。
少し前なら。
『全部違ったんだ』
と知った瞬間、飛び上がるほど嬉しかったはずなのに。
今は。
もちろん安心はする。
でも。
それだけではなかった。
「美羽とも話した」
湊の声で、陽菜乃は顔を上げる。
「話した?」
「うん」
湊は少し迷ったあと。
「陽菜乃に……俺と付き合ってるのか聞かれたって」
陽菜乃の胸がぎゅっとなる。
あの日。
勇気を出して。
『湊と付き合ってるの?』
と美羽に聞いた。
『どうだろうね』
美羽は笑っていた。
「聞いたよ」
陽菜乃は答えた。
「美羽ちゃんに」
「ごめん」
「なんで湊が謝るの?」
「俺にも責任あるから」
「……」
「俺、美羽とは一回も付き合ってない」
今。
初めて。
湊本人の口から聞いた。
陽菜乃は黙って聞いていた。
「好きだったこともない」
さらに。
ずっと知りたかった答え。
「じゃあ」
陽菜乃は、自分でも驚くほど静かな声で聞いた。
「どうして噂、否定しなかったの?」
湊が言葉を止める。
「みんな言ってたよ」
「……うん」
「湊と美羽ちゃんが付き合ってるって」
「知ってた」
「知ってたの?」
そこだけは驚いた。
湊は小さくうなずく。
「少しは」
「……」
「でも本当じゃないから、そのうち消えると思ってた」
陽菜乃の胸に。
ちくっとした痛みが走った。
「そう……」
「陽菜乃」
「私は」
気づけば。
言葉が出ていた。
「ずっと本当だと思ってたよ」
湊が黙る。
「試合のあと、美羽ちゃんが湊に抱きついて」
「……うん」
「お弁当作ってきて」
「うん」
「文化祭も一緒に歩いてて」
「……」
「誕生日にもプレゼント渡してた」
思い出すたびに。
胸が少し苦しくなる。
「SNSだって」
陽菜乃は自分の手をぎゅっと握った。
「みんな『付き合ってるの?』って聞いてるのに、美羽ちゃんは一度も違うって言わなかった」
「……ごめん」
「それで」
少しだけ声が震える。
「私、湊本人に聞こうとしたことも何回もあった」
「……」
「でも怖かった」
もし。
『付き合ってる』
と言われたら。
自分の初恋が終わってしまう。
そう思って。
聞けなかった。
「私も悪かったと思う」
陽菜乃は小さく言った。
「ちゃんと湊に聞けばよかった」
「陽菜乃は悪くない」
「でも――」
「違う」
湊は首を横に振った。
「聞けないような状況にしてたの、俺だから」
陽菜乃は少し目を見開いた。
「美羽を好きじゃないって、自分が分かってればそれでいいと思ってた」
「……」
「陽菜乃なら、俺のこと分かってるって勝手に思ってた」
湊は苦しそうに笑った。
「幼馴染だから」
その言葉。
ずっと二人をつないできた言葉。
でも。
同時に。
二人が恋人になるのを邪魔していた言葉でもある。
「陽菜乃が俺から離れ始めても」
湊は続ける。
「どうせそのうち元に戻ると思ってた」
「……」
「朝一緒に行かなくなっても」
「うん」
「昼も来なくなっても」
「……うん」
「水野といる時間が増えても」
柊真の名前。
陽菜乃の胸が少しだけ大きく鳴った。
「ずっと隣の家なんだから、陽菜乃が本当にいなくなるなんて思ってなかった」
湊は視線を落とした。
「俺、完全に甘えてた」
「……湊」
「ごめん」
もう一度。
はっきり謝られた。
陽菜乃は。
何も言えなかった。
怒っていたわけではない。
ずっと悲しかった。
苦しかった。
でも。
本当は。
湊を嫌いになりたくなかったから。
何も言わず、自分から離れた。
「……私ね」
陽菜乃はゆっくり口を開いた。
「ずっと、湊が好きだった」
湊の顔が上がる。
初めて。
本人に言った。
十年以上。
胸の中だけに隠していた気持ち。
「中学生の頃から」
いつから恋になったのかは。
もうはっきり思い出せない。
「湊が女子に告白されるたび嫌だった」
「……」
「でも、幼馴染じゃなくなるのが怖くて」
だから言わなかった。
「いつか湊も私を好きになってくれたらいいなって」
陽菜乃は少し笑った。
「ずっと思ってた」
湊の瞳が大きくなる。
「……陽菜乃」
「だから美羽ちゃんが来た時」
胸の奥が痛む。
「すごく怖かった」
「……」
「私の場所がなくなった気がした」
グラウンドで。
湊の隣に立つ美羽を初めて見た日。
あの日から。
少しずつ。
すべてが変わった。
「何度も泣きそうになった」
「ごめん」
「うん」
「本当にごめん」
「……うん」
陽菜乃は。
初めて。
その謝罪を受け取った。
しばらく。
二人とも話さなかった。
冬の風が、中庭を通り抜ける。
陽菜乃の髪が揺れ。
湊が小さく息を吐いた。
「俺も」
「え?」
湊が顔を上げる。
「俺もずっと好きだった」
陽菜乃の体が。
ぴたりと止まった。
「……誰を?」
分かっているはずなのに。
聞き返してしまう。
湊は。
今度は逃げなかった。
「陽菜乃」
「……」
「俺が好きなのは、ずっと陽菜乃」
心臓が。
大きく。
一度。
鳴った。
「……うそ」
「嘘じゃない」
「でも」
陽菜乃は混乱する。
「だって……」
今まで。
一度も。
「言ってくれなかった」
「うん」
「そんな感じもしなかった」
「……それは俺が悪い」
「女子に告白されても普通だったし」
「全部断ってた」
「……」
「付き合ったことない」
知らなかった。
「なんで?」
陽菜乃の声が震えた。
「どうして言わなかったの?」
ずっと好きだったなら。
どうして。
美羽にあんなに近づかれても。
どうして。
自分が離れていくまで。
「怖かった」
湊が答えた。
「……湊も?」
「陽菜乃に振られて、今までみたいにいられなくなるのが」
「……」
「俺も同じだった」
二人とも。
同じことを怖がって。
同じように黙っていた。
なのに。
その間に。
たくさんの勘違いが生まれた。
「……いつから?」
「中二くらい」
陽菜乃の目が大きくなる。
「そんな前?」
「うん」
「私も……そのくらい」
「マジ?」
「うん」
二人はしばらく見つめ合った。
本当なら。
笑ってしまうくらい。
ずっと両想いだった。
それなのに。
「……もっと早く」
陽菜乃の声が震える。
「もっと早く言ってよ」
胸の奥から。
今まで我慢していたものが、一気にこみ上げてきた。
「陽菜乃?」
「ずっと待ってたのに……」
目の奥が熱くなる。
「湊が好きって言ってくれたら」
何度。
想像しただろう。
「私、絶対嬉しかった」
「……うん」
「美羽ちゃんのことで、あんなに苦しまなくてよかった」
「……」
「湊から離れようって思わなくてよかった」
一粒。
涙が頬を伝った。
「陽菜乃」
湊が手を伸ばしかける。
でも。
触れる直前で止めた。
今の自分には。
勝手に触れる資格がないと思ったように。
「ごめん」
「……遅いよ」
陽菜乃は泣きながら言った。
「遅すぎるよ」
「うん」
湊は否定しなかった。
「分かってる」
その答えが。
余計に胸を締めつけた。
「でも」
湊が。
静かに続ける。
「遅いからって、言わないまま終わるのは嫌だった」
陽菜乃は涙をぬぐう。
「俺」
湊はまっすぐ見る。
「陽菜乃が好き」
「……」
「幼馴染だからじゃない」
昔から。
何度も言われてきた。
『兄妹みたい』
『家族みたい』
そのたび。
陽菜乃は少し傷ついた。
「一人の女の子として好き」
ずっと。
聞きたかった言葉。
「陽菜乃と朝一緒に行くのが好きだった」
「……」
「帰り道も」
「うん」
「俺の袖つかんでくるのも」
「……恥ずかしいから言わないで」
「でも好きだった」
湊が少しだけ笑う。
「水野にそれやってるの見た時、めちゃくちゃ嫌だった」
「……」
「弁当作った時も」
「あれはお礼だよ」
「分かってる」
「文化祭のうさぎも」
「……」
「クリスマスに手つないでるのも」
湊の声が少し苦しくなる。
「全部嫌だった」
陽菜乃は。
何も言えない。
「嫉妬してた」
初めて。
湊自身の口から聞いた。
「ずっと」
胸が揺れる。
もし。
これを数か月前に聞いていたら。
陽菜乃は。
迷わず湊の胸へ飛び込んでいたかもしれない。
でも。
今は。
違う。
「……湊」
「うん」
「私」
言わなければならない。
「今、すぐに答えられない」
湊の表情が少しだけ曇る。
でも。
「うん」
と答えた。
「柊真くんのことが」
名前を口にしただけで。
胸が動く。
「……大切なの」
「分かってる」
「クリスマス、一緒にいてすごく楽しかった」
「うん」
「柊真くんが学校休んだら寂しかった」
「……」
「ほかの女の子と話してると嫌だった」
湊の瞳が少し揺れる。
「私」
陽菜乃は、自分の胸元へ手を置いた。
「柊真くんを好きになり始めてる」
ちゃんと。
言えた。
湊は。
すぐには何も言わなかった。
冷たい風だけが。
二人の間を通り抜ける。
「……そっか」
やっと。
それだけ答えた。
「ごめん」
「なんで陽菜乃が謝るんだよ」
「だって」
「俺が遅かっただけだから」
湊は苦しそうに。
でも笑った。
「陽菜乃が悪いこと、一個もない」
その言葉に。
また涙が出そうになった。
「だから」
湊は続ける。
「今すぐ俺を選んでって言わない」
「……」
「水野のことも、ちゃんと考えて」
陽菜乃は驚いた。
「いいの?」
「よくはない」
湊はすぐに答えた。
「本当はめちゃくちゃ嫌」
「……」
「でも」
少しだけ笑う。
「今まで陽菜乃の気持ちちゃんと考えなかった俺が、今さら急かせないだろ」
陽菜乃は湊を見る。
昔から知っている。
大好きだった男の子。
でも。
今日の湊は。
少しだけ違って見えた。
「俺」
湊が言う。
「もう幼馴染だからって甘えない」
「……」
「陽菜乃にもう一回、俺を好きになってもらえるようにする」
「え?」
「だって」
湊は少しだけ照れたように視線をそらす。
「まだ振られてないだろ?」
「……」
「返事、まだなんだよな?」
「うん」
「じゃあ諦めない」
陽菜乃の胸が。
また大きく鳴った。
「ずるい」
「何が?」
「今まで何も言わなかったのに」
「うん」
「急にそんなこと言う」
「……ごめん」
「そこは謝るんだ」
二人とも。
ほんの少し。
笑った。
泣いたあとの陽菜乃の頬に。
冬の風が冷たく触れた。
校門を出るところで。
二人は立ち止まった。
「送る?」
湊が聞く。
以前なら。
『送る』
と勝手に決めていた。
陽菜乃はその違いに気づく。
「今日は大丈夫」
「分かった」
湊はそれ以上言わなかった。
「じゃあ」
「うん」
「気をつけて」
「湊も」
陽菜乃は一人で歩き出した。
数歩。
十歩。
振り返る。
湊はまだそこにいた。
目が合う。
少しだけ。
お互いに笑った。
帰り道。
陽菜乃は一人だった。
冬休みに入ったばかりの街。
駅前にはまだクリスマスの飾りが残っている。
明日には、少しずつお正月の飾りへ変わっていくのだろう。
陽菜乃も。
昨日までとは。
何かが変わった。
『俺が好きなのは、ずっと陽菜乃』
あれほど。
聞きたかった言葉。
ずっと。
夢に見ていた。
「……嬉しかった」
嘘ではない。
本当に。
すごく嬉しかった。
それなのに。
同時に。
浮かんだ顔がある。
柊真。
『陽菜乃が俺のこと考えて選んだんだろ』
クリスマスプレゼントを受け取って。
嬉しそうに笑った顔。
『嫌ならいいけど』
手を差し出してくれた時。
自分からその手を握った。
「……」
陽菜乃は白い手袋を見つめた。
柊真からもらったもの。
湊が好き。
その気持ちは。
まだ確かにある。
でも。
柊真への気持ちも。
もうなかったことにはできない。
「どうしたらいいんだろう……」
答えは出ない。
だから。
急いで出さない。
今度こそ。
噂でも。
思い込みでもなく。
自分の気持ちを。
ちゃんと確かめたい。
陽菜乃は。
白い手袋をした手を、そっと胸元へ当てた。
長かった初恋が叶うかもしれないと知った日。
それなのに。
陽菜乃の心は。
もう。
あの頃のように、湊だけを見てはいなかった。

