ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 十二月二十五日。

 クリスマスの翌朝。

 昨日まで駅前を華やかにしていたクリスマスの雰囲気が、学校では少しだけ薄れていた。

 それでも教室では、

「昨日イルミネーション見に行った!」

「クリスマスケーキ食べすぎた!」

「プレゼント何もらった?」

 そんな話で朝から盛り上がっている。

 二年五組の窓際。

 成瀬湊は、自分の席に座ったままスマホを見ていた。

 画面に表示されているのは、昨日の夜に悠人から送られてきたサッカー部の写真。

 けれど。

 湊が見ているのは、写真そのものではなかった。

 頭から離れないのは――。

 イルミネーションの光の中。

 白いコートを着た陽菜乃。

 その隣にいた、水野柊真。

 そして。

 二人がつないでいた手。

「……」

 湊はスマホを伏せた。

 見たくないのに。

 何度も思い出してしまう。

 陽菜乃は笑っていた。

『すごく楽しんでる』

 そう答えた時の顔。

 自分と一緒にいた時にも、何度も見た笑顔。

 でも昨日は。

 その笑顔を向けられていたのは、自分ではなかった。

「朝から暗いな」

 前の席から悠人が振り返る。

「別に」

「出た」

「何が」

「お前の『別に』」

 悠人はあきれたように笑った。

「昨日のことまだ引きずってんの?」

「何のこと」

「陽菜乃ちゃんと水野」

 湊は返事をしない。

 その態度だけで十分だったらしい。

 悠人が小さく息をつく。

「だったら、いいかげん本人に言えば?」

「……」

「好きなんだろ?」

 湊の指が止まる。

 少し前まで。

 そう聞かれても、

『幼馴染だから』

 とごまかしていた。

 でも。

 もう、自分にまで嘘をつく意味はなかった。

「……うん」

 小さく答える。

 悠人が目を丸くした。

「お前、やっと認めた?」

「うるさい」

「いや、そこ結構大事だろ」

「朝から騒ぐなよ」

「じゃあ早く告白しろって」

「簡単に言うな」

 湊は窓の外を見る。

 校庭には、冷たい冬の日差しが落ちている。

 昨日までなら。

 もしかすると、まだ間に合うと思えたかもしれない。

 でも。

 陽菜乃は柊真と手をつないでいた。

 あれを見たあとでは。

「もう……水野のこと好きかもしれない」

 自分で口にすると、胸が痛んだ。

「だから?」

「だからって……」

「陽菜乃ちゃんが水野好きなら、お前は何も言わないの?」

「……」

「また黙って見てる?」

 その言葉が刺さる。

 今までと同じ。

 ずっとそうだった。

 好きなのに言わない。

 大切なのに態度にしない。

 美羽との噂も。

 陽菜乃が離れていくことも。

 ちゃんと向き合わないまま。

 気づけば、こんなところまで来てしまった。

「……言うよ」

 湊は小さく答えた。

「ちゃんと」

「ならいいけど」

 悠人はそう言ったあと、ふと何かを思い出したようにスマホを取り出した。

「そうだ」

「何」

「その前に、お前これ知ってる?」

「何が?」

「一ノ瀬のSNS」

 美羽?

 湊は眉を寄せた。

「美羽のSNSなんて見てない」

「だろうな」

「何だよ」

「見たほうがいい」

 悠人の声が少しだけ真面目になった。

 湊は差し出されたスマホを受け取る。

「……?」

 画面に表示されていたのは、美羽のSNSだった。

 最新の投稿。

 昨日のイルミネーション。

 青と白に輝くクリスマスツリー。

 写真の端に。

 黒いコートを着た男子の肩が少しだけ写っている。

 見覚えがある。

 自分だ。

 その下には――。

『今年のクリスマス、幸せでした♡』

「……何これ」

 湊の眉が寄る。

「昨日の?」

「そう」

「でも昨日、みんないただろ」

「俺もいた」

「なのになんで……」

 コメントを見る。

『デート?』

『もしかして成瀬くん?』

『やっぱり付き合ってるの?』

『美羽ちゃん幸せそう♡』

 湊の指が止まる。

「……美羽、否定してない?」

「してない」

「なんで」

「それだけじゃない」

 悠人がスマホを操作する。

「もっと前」

 次に表示された投稿。

 文化祭の日。

 二つのクレープ。

 片方を持っているのは、湊の手。

『文化祭、思った以上に楽しかった』

「……これ」

「覚えてる?」

「買い出しの途中」

「だよな」

 湊は画面を見つめる。

 次。

 サッカー部の練習試合。

 自分の背番号が大きく写っている。

『今日いちばん応援してた人』

 次。

 テーブルの上の二本の飲み物。

 写真の端には、自分の腕時計。

『好きなものが同じって、ちょっと嬉しい』

「待って」

 湊の顔から、少しずつ表情が消えていく。

「この時、悠人もいたよな?」

「いた」

「三人だったよな?」

「そう」

「じゃあなんで俺と二人みたいになってるんだよ」

「だから見せてんの」

 さらに。

 誕生日の少し前。

 ラッピングされた手袋の写真。

『喜んでもらえますように』

 コメントには、

『成瀬くん用?』

『彼氏へのプレゼント?』

 その時も。

 美羽は否定していない。

「……」

 湊の中で。

 何かが少しずつつながり始めた。

 学校で何度も聞いた噂。

『成瀬と一ノ瀬、付き合ってるらしいよ』

 当時。

 湊は深く考えなかった。

 事実ではないから。

 自分が美羽を好きではないことは、自分が一番分かっていたから。

 だから、放っておけばそのうち消えると思っていた。

 でも。

『湊には、美羽ちゃんもいるでしょう?』

 陽菜乃の言葉。

『私がいつまでも一番近くにいたら、美羽ちゃんだって嫌だと思うから』

 朝、一緒に登校しなくなった。

 昼休みに自分を待たなくなった。

 帰りも。

 困った時も。

 少しずつ。

 陽菜乃は離れていった。

「……まさか」

 声がかすれる。

「陽菜乃、これ見てた?」

 悠人は少し考えた。

「一ノ瀬のことフォローしてるなら、可能性はあるんじゃね?」

「……」

 胸の奥が冷たくなる。

「お前さ」

 悠人が続ける。

「前、陽菜乃ちゃんから『一ノ瀬がいるから』みたいなこと言われてたよな?」

「……うん」

「じゃあ、かなり信じてたんじゃない?」

「でも」

 湊はスマホを握った。

「俺、美羽と付き合ってない」

「それは俺も知ってる」

「一回も」

「うん」

「好きでもない」

「分かってるって」

「だったら……」

 そこまで言って。

 湊は言葉を止めた。

 だったら何?

 付き合っていないなら。

 自分に恋愛感情がないなら。

 それで十分だった?

 陽菜乃に何も伝えなくても?

 噂を否定しなくても?

 美羽が自分の近くにいても?

「……俺も悪い」

 自然に出た。

 悠人が黙る。

「美羽を好きじゃないって、自分では分かってたから」

 湊は画面を見る。

「それでいいと思ってた」

 でも。

 陽菜乃には分からない。

 言わなければ。

 何も。

「……俺、何やってたんだろ」

 あんなに近くにいたのに。

 いちばん安心してほしかった相手を。

 ずっと不安にさせていたのかもしれない。


 昼休み。

「美羽」

 湊はサッカー部の部室前で、美羽を呼び止めた。

「湊くん?」

 美羽はいつものように笑って振り返った。

 けれど。

 湊の顔を見た瞬間。

 その笑顔が少しだけ止まった。

「どうしたの?」

「話ある」

「今?」

「うん」

 いつもより低い声だった。

 美羽も何かを感じ取ったらしい。

「……分かった」

 二人は人の少ない校舎裏へ移動した。

 冬の風が吹く。

 木々の枝はほとんど葉を落とし、冷たい空が広がっている。

「美羽」

「うん」

 湊は自分のスマホを見せた。

「これ」

 美羽の顔が固まる。

「……SNS?」

「何でこんな投稿してんの」

「こんなって?」

「俺と二人みたいに見えるやつ」

「……」

「クリスマスだって、サッカー部みんないただろ」

「嘘は書いてないよ」

 美羽は小さく答えた。

「湊くんと一緒にいたのは本当だし」

「でも、二人でいたみたいに見える」

「それは見る人が勝手に思っただけでしょ?」

「じゃあ」

 湊は画面を見せる。

「『付き合ってるの?』ってコメント、なんで否定してない?」

「……」

「美羽」

 返事はない。

「わざと?」

 美羽の指先が、制服のスカートをぎゅっとつかんだ。

「……だって」

「何」

「私、湊くんのこと好きだから」

 湊は何も言わなかった。

 分かっていた。

 薄々。

 でも。

 美羽本人から、こんなにはっきり聞いたのは初めてだった。

「ずっと好きだった」

 美羽の声が震える。

「一年の頃から」

「……」

「でもいつも小宮山さんがいた」

 その名前に。

 湊の表情が変わる。

「朝も一緒」

「……」

「学校でも、湊くんが一番気にするのは小宮山さん」

「陽菜乃は幼馴染だから」

「まだそれ言うの?」

 美羽が少しだけ笑った。

 でも。

 目は笑っていなかった。

「私、ずっと分かってたよ」

「何が」

「湊くんが小宮山さんを見る顔、ほかの女の子と全然違う」

「……」

「試合の日だって」

 美羽の声が少しずつ強くなる。

「私が目の前にいるのに、ずっと客席の小宮山さん探してた」

 湊は言い返せない。

「文化祭も」

「……」

「私と歩いてたのに、小宮山さんと水野くんばっかり見てた」

 全部。

 見られていた。

 自分では。

 まだ恋だと認めていなかった頃から。

「だから」

 美羽は唇をかんだ。

「少しくらい、私だって特別みたいに思われたかった」

「それで匂わせた?」

「……」

「みんなが付き合ってると思えば、そのうち本当にそうなるかもしれないって?」

 美羽の目に涙が浮かんだ。

「……そう思ったよ」

 正直な答えだった。

「だって私だって好きなんだもん」

「……」

「小宮山さんばっかりずるい」

「陽菜乃は関係ない」

「関係ある!」

 美羽の声が大きくなった。

「だって、小宮山さんは何もしなくても湊くんの特別だったじゃない!」

「何もしなくてもじゃない」

 湊はすぐに答えた。

「え?」

「小さい頃からずっと一緒だったから」

 何年も。

 笑って。

 喧嘩して。

 助けてもらって。

 助けて。

 その積み重ねだ。

「でも」

 湊は言葉を止めた。

 それなら。

 どうして。

 自分はその大事な関係に甘えていたのだろう。

「……いや」

 首を横に振る。

「今はそれじゃない」

 湊は美羽を見る。

「陽菜乃に何か言った?」

 美羽の目が揺れた。

「……何が?」

「俺と美羽のこと」

「別に」

「美羽」

「……」

「何言った?」

 美羽は答えない。

 でも。

 その態度だけで。

 湊の胸に嫌な予感が広がった。

「陽菜乃に付き合ってるって言った?」

「言ってない!」

 美羽がすぐに否定する。

 その言い方に。

 湊は気づいた。

「じゃあ何を言った?」

「……」

「美羽」

 少し長い間。

 美羽は俯いていた。

 そして。

「聞かれたの」

「何を」

「小宮山さんに」

 美羽の声が小さくなる。

「『湊と付き合ってるの?』って」

 湊の心臓が強く鳴った。

 陽菜乃が。

 美羽に。

 そこまで聞いていた。

「……それで?」

「……」

「何て答えた?」

 美羽が顔を上げない。

「美羽」

「『どうだろうね』って」

「……」

 頭の中が。

 一瞬、真っ白になった。

「付き合ってるとは言ってない」

 美羽が急いで続ける。

「だから嘘じゃないよ」

「同じだろ」

「違う!」

「陽菜乃がどう受け取るか分かってただろ!」

 思ったより大きな声が出た。

 美羽の肩がびくっと揺れる。

 湊も。

 一度目を閉じた。

「……ごめん」

 声を落とす。

 怒鳴りたいわけじゃない。

 でも。

 胸の中に。

 今まで感じたことのない怒りがあった。

 同時に。

 自分にも腹が立った。

「でも」

 湊は続ける。

「それはやっちゃだめだ」

「……」

「陽菜乃、ずっと信じてたかもしれない」

 だから。

 離れた。

 朝も。

 帰りも。

 自分の隣から。

「俺も悪かった」

 美羽が顔を上げる。

「……湊くん?」

「噂、ちゃんと否定しなかった」

 面倒だった。

 そのうち消えると思った。

 それに。

 自分は美羽を好きではない。

 だから関係ない。

 そんなふうに考えていた。

「美羽が俺を好きだって、ちゃんと考えようともしなかった」

「……」

「変に期待させてたなら、それも俺が悪い」

 美羽の目から。

 涙が一粒落ちた。

「でも」

 湊はきちんと美羽を見る。

「これからは距離取る」

「……」

「部活に必要なことは普通に話す。でも二人で帰ったり、個人的なプレゼントも受け取らない」

「湊くん……」

「SNSも」

 湊はスマホを見る。

「俺と付き合ってるみたいに見える投稿は、もうやめて」

「……分かった」

 美羽は泣きながらうなずいた。

 少しして。

「ねえ」

「何」

「本当に……私じゃだめ?」

 湊は黙った。

「私なら」

 美羽は泣きそうな声で続ける。

「サッカーのことも分かるよ」

「うん」

「試合も全部見に行ける」

「うん」

「小宮山さんみたいに、ほかの男の子のところに行ったりしない」

 その言葉に。

 湊は一瞬だけ苦しそうな顔をした。

 でも。

 答えは変わらなかった。

「ごめん」

「……」

「美羽じゃない」

 美羽が小さく息を吸う。

「やっぱり」

 涙をぬぐいながら。

 少しだけ笑った。

「小宮山さん?」

 今までなら。

 きっと。

『幼馴染だから』

 と逃げていた。

 でも。

 もう逃げない。

「……うん」

 湊は答えた。

「俺が好きなのは、陽菜乃」

 初めて。

 はっきり。

 自分の気持ちを言葉にした。


 その頃。

 二年二組。

「陽菜乃」

「なに?」

「さっきからそれ何回見てるの?」

 美緒に言われ。

 陽菜乃は慌ててスマホを伏せた。

「見てないよ」

「見てたよ」

「……ちょっとだけ」

 画面に表示されていたのは。

 昨日、柊真と撮った写真。

 イルミネーションの前。

 二人並んで。

 少しだけぎこちない笑顔。

「気に入った?」

「……うん」

 陽菜乃は小さく笑った。

「楽しかったから」

「水野くんと?」

「うん」

 以前なら。

 こんなふうに答えるだけでも恥ずかしかった。

 でも。

 昨日。

 手をつないだ。

 プレゼントを交換した。

 柊真に「かわいい」と言われて嬉しかった。

 そして。

 美羽の隣にいる湊を見ても。

 前ほど苦しくなかった。

「美緒ちゃん」

「ん?」

「私ね」

 陽菜乃は自分の手を見た。

 昨日。

 柊真とつないだ手。

「最近、ちょっと変なの」

「どう変?」

「柊真くんに会うの楽しみだし」

「うん」

「ほかの女の子と話してると気になるし」

「うん」

「昨日も……手、離したくないって思った」

 言ってから。

 顔が熱くなる。

「これって」

 美緒を見る。

「やっぱり……好きなのかな」

 美緒は少し笑った。

「陽菜乃はどう思う?」

「……」

 陽菜乃は教室の後ろを見る。

 柊真は友人と話している。

 笑っている横顔。

 それを見ただけで。

 少し嬉しくなる。

「……たぶん」

 陽菜乃は小さく答えた。

「好きになってきてる」

 口にした瞬間。

 胸がどきっと鳴った。

 でも。

 嫌ではなかった。


 放課後。

 サッカー部へ向かう途中。

 悠人が湊の横へ並んだ。

「話した?」

「うん」

「どうだった?」

「……美羽とはちゃんと話した」

「陽菜乃ちゃんには?」

「まだ」

「じゃあ次だな」

「分かってる」

 湊は校舎を見る。

 二階。

 二組。

 あそこに陽菜乃がいる。

 会いに行こうと思えば。

 今すぐ行ける。

 でも。

 話す前に。

 自分の中で決めなければならないことがあった。

「俺さ」

「何」

「美羽のSNSのことだけ話して」

『全部誤解だった』

 そう言えば。

 陽菜乃は戻ってくるだろうか。

 そんなことを一瞬考えた。

 でも。

「……それじゃだめだよな」

「何が?」

「陽菜乃が離れたの、全部美羽のせいじゃない」

 悠人が少しだけ笑う。

「ようやく分かった?」

「うるさい」

 でも。

 その通りだ。

 美羽は、誤解させた。

 それは事実。

 でも。

 自分も。

 陽菜乃に何も言わなかった。

 噂を放置した。

 美羽に線を引かなかった。

 何より。

 陽菜乃がいつまでも自分の隣にいると、勝手に思っていた。

「ちゃんと謝る」

 湊は言った。

「その上で」

「うん」

「好きって言う」

 悠人が笑う。

「やっとヒーローっぽくなってきたじゃん」

「何だよそれ」

「遅いけど」

「……分かってる」

 遅い。

 本当に。

 でも。

 だからといって。

 もう何もしない理由にはならない。

 陽菜乃が。

 今。

 水野を好きになり始めているとしても。

 自分の気持ちは。

 自分の言葉で。

 ちゃんと伝えたい。


 その日の夜。

 陽菜乃のスマホが震えた。

「……?」

 ベッドの上で宿題をしていた陽菜乃は、スマホを手に取った。

 表示された名前。

 ――湊。

 胸が。

 少しだけ大きく鳴る。

『明日、少し話せる?』

「……話?」

 何だろう。

 最近。

 ちゃんと二人で話したことはほとんどない。

 少し迷ったあと。

『うん。放課後なら』

 送る。

 すぐに返事。

『ありがとう』

 それだけ。

 陽菜乃はスマホを置いた。

 そして。

 机の上を見る。

 そこには。

 昨日柊真からもらった白い手袋。

 その隣には。

 湊から誕生日にもらった白い花の髪飾り。

 二つ。

 どちらも。

 陽菜乃にとって大切なもの。

「……」

 陽菜乃は、その二つをしばらく見つめていた。

 ずっと好きだった湊。

 今。

 心が動き始めている柊真。

 明日。

 湊は何を話すのだろう。

 陽菜乃はまだ知らなかった。

 長い間。

 自分だけが抱えていると思っていた初恋が。

 実はずっと。

 同じ人の胸の中にもあったことを。