ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 十二月も半ばを過ぎた。

 朝、校門をくぐると、いつもの学校が少しだけ華やかになっていた。

 昇降口には、生徒会が飾った小さなクリスマスツリー。

 廊下の窓には、白い雪の結晶をかたどった紙飾りが貼られている。

 冬休みまで、あと少し。

 そして――クリスマスまでも、あと一週間。

「陽菜乃、おはよ!」

「美緒ちゃん、おはよう」

 教室へ入ると、美緒がすぐに手を振ってきた。

 陽菜乃はマフラーを外しながら、自分の席へ向かう。

「今日も寒いね」

「朝、布団から出るのに十分かかった」

「私は十五分」

「負けた」

「これ勝ちなの?」

 二人で笑う。

 その時。

「陽菜乃」

 聞き慣れた低い声がして、陽菜乃は振り返った。

「柊真くん」

 教室の後ろから、柊真が歩いてくる。

 先日風邪で休んでいたとは思えないほど、顔色はすっかり戻っていた。

「もう風邪、本当に大丈夫?」

「何日前の話してんの」

「だって心配だったから」

「もう治ったって」

「ならいいけど」

 陽菜乃はほっとして笑った。

 柊真が学校を休んだあの日。

 一日中、空いた席ばかり見ていた。

 放課後には、先生に頼まれたプリントを届けるという理由があったとはいえ、わざわざ飲み物やゼリーまで買って柊真の家へ行った。

 そして次の日。

 柊真が教室にいるだけで、すごく嬉しかった。

 あの時の気持ちは、今も陽菜乃の胸に残っている。

「そうだ」

 柊真が思い出したように鞄を開けた。

「これ」

「え?」

 机の上に置かれたのは、小さな袋だった。

「なに?」

「この前のお守りのお礼……じゃなくて」

「お守り?」

「間違えた」

 柊真が少し眉を寄せる。

「風邪の時の差し入れのお礼」

「ああ……」

 陽菜乃は袋の中をのぞいた。

 入っていたのは、小さないちごミルク。

「……いちごミルク!」

「好きだろ」

「うん」

 陽菜乃の顔がぱっと明るくなる。

「覚えててくれたの?」

「いつも飲んでるじゃん」

「でも嬉しい」

「一本でそんな喜ぶ?」

「好きなもの覚えててもらえるのって嬉しいよ」

 陽菜乃が素直に言うと、柊真は一瞬だけ黙った。

「……そういうこと平気で言うよな」

「え?」

「なんでもねえ」

「また?」

 最近、柊真はよくそう言う。

 何か言いかけて、途中でやめる。

 そのたびに少しだけ気になる。

 でも。

 無理に聞くのも違うような気がして、陽菜乃はそれ以上追いかけなかった。

「ありがとう」

「うん」

 いちごミルクを両手で持つ。

 冷たいはずなのに。

 なんだか手の中が温かく感じた。

     

 昼休み。

「クリスマスどうするー?」

 莉子が突然、大きな声を出した。

「クリスマス?」

 陽菜乃が顔を上げる。

 美緒、莉子、陽菜乃。

 それから今日は柊真も近くでパンを食べている。

「二十四日!」

 莉子がスマホを見せてきた。

 画面には駅前のイルミネーション。

 青と金色の光に包まれた、大きなクリスマスツリーが写っている。

「今年、去年よりすごいんだって」

「きれい……」

 陽菜乃は思わず見入った。

 駅前には毎日のように行く。

 でも。

 夜のイルミネーションをゆっくり見たことはなかった。

「美緒は?」

「私は家族でご飯かな。その前なら行けるけど」

「陽菜乃は?」

「私?」

「予定ある?」

 聞かれて。

 陽菜乃は少しだけ考えた。

 真っ先に浮かんだのは。

 湊。

 小さい頃は、クリスマスになると小宮山家か成瀬家に集まった。

 ケーキを食べて。

 プレゼントを交換して。

 サンタの帽子をかぶって、写真を撮ったこともある。

 でも。

 高校生になってから。

 二人でクリスマスを過ごしたことはない。

 それに最近は。

 朝も一緒に行かない。

 帰りも別々。

 学校で顔を合わせても、以前ほど長く話さない。

「……特にないよ」

 陽菜乃は答えた。

「成瀬くんは?」

 莉子が聞く。

「分かんない」

「幼馴染なのに?」

「最近、あんまり聞かないから」

 自分で言って。

 胸が少しだけ痛んだ。

 でも。

 以前ほどではない。

 そのことに陽菜乃自身が少し驚く。

「じゃあみんなでイルミネーション行こうよ!」

「いいね」

 美緒が笑う。

「柊真くんも来る?」

 莉子が急に柊真へ振る。

「俺?」

「暇でしょ?」

「決めつけんな」

「予定あるの?」

「別にないけど」

「じゃあ決まり!」

「勝手だな」

 柊真はあきれたように言う。

 でも。

 断らなかった。

 陽菜乃はなぜか、それを少し嬉しいと思った。



 午後の授業が終わったあと。

 陽菜乃はダンス部へ向かうため、教科書を鞄へしまっていた。

 その時。

 スマホが震えた。

「……?」

 SNSの通知。

 何気なく画面を開く。

 そこに表示された名前を見て。

 陽菜乃の指が止まった。

 一ノ瀬美羽。

 投稿されたばかりの写真。

 駅前のクリスマスツリーだった。

 まだ夕方なので、空は完全には暗くない。

 それでも木々には光が灯っていて、とてもきれいだった。

 写真の下には。

『今年のクリスマス、楽しみ♡
 大好きな人と一緒に見られたらいいな』

「……」

 胸の奥が、ちくっとした。

 大好きな人。

 名前は書かれていない。

 でも。

 陽菜乃には、一人しか思い浮かばなかった。

(……湊だよね)

 さらに。

 二枚目の写真。

 サッカー部の練習後らしい集合写真。

 何人もいる中で。

 美羽は、湊のすぐ隣に立っている。

 肩が触れそうなくらい。

 コメントには。

『大好きな人って成瀬くん?』

『やっぱり二人お似合い!』

『クリスマス一緒に過ごすの?』

 美羽は。

 まだ何も返していなかった。

 否定も。

 肯定も。

 していない。

「……まただ」

 陽菜乃は小さくつぶやいた。

 試合。

 文化祭。

 部活帰り。

 何度も見てきた、美羽の投稿。

 名前を出してはいない。

 付き合っているとも書いていない。

 でも。

 見るたびに。

 まるで二人が特別な関係であるように感じてしまう。

「陽菜乃」

「……!」

 突然声をかけられて、陽菜乃は慌てて画面を閉じた。

「柊真くん」

「何見てた?」

「SNS」

「また成瀬のマネージャー?」

 どうして分かるのだろう。

「……うん」

 陽菜乃は苦笑した。

「顔で分かる?」

「分かる」

「そんなに?」

「前よりはマシだけど」

「え?」

 柊真が陽菜乃を見る。

「前はそういうの見たら、一日中へこんでただろ」

「……」

 確かに。

 以前なら。

 この投稿を見ただけで、部活にも集中できなかったかもしれない。

 でも今は。

 胸は痛い。

 寂しいとも思う。

 それでも。

 目の前にいる柊真を見ると。

 その痛みが少しだけ薄くなる。

「……ほんとだ」

「何?」

「前ほど苦しくないかも」

 口に出して。

 自分でも気づく。

「なんでだろう」

 陽菜乃は首をかしげた。

 柊真は何か言いたそうにした。

 でも。

「さあ」

 それだけだった。

     ◇

 その頃。

 五組の教室では。

「クリスマスイブ、サッカー部みんなで駅前行こうぜ」

 悠人が机に腰をかけながら言った。

「午前練で終わるんだろ?」

「そうらしい」

 湊は教科書を鞄へ入れる。

「湊も来るよな?」

「……分かんない」

「なんで?」

「予定決まってないから」

「予定?」

 悠人が少し笑う。

「陽菜乃ちゃん?」

 湊の手が止まった。

「声でかい」

「図星?」

「……」

 湊は何も答えない。

 クリスマス。

 ずっと考えていた。

 陽菜乃を誘えないか。

 二人でイルミネーションへ行けないか。

 少し前なら。

 普通に言えた。

『行こう』

 それだけで。

 でも今は。

 何を言っても。

 断られる気がする。

 朝も一緒ではなくなった。

 帰りも。

 昼休みも。

 そして。

 陽菜乃の隣には、柊真がいる時間が増えた。

「誘えばいいじゃん」

 悠人が言う。

「簡単に言うなよ」

「幼馴染なんだろ?」

「……だから困ってんだよ」

 湊自身。

 最近は分かってきていた。

 幼馴染だから。

 それだけでは足りない。

 陽菜乃は。

 自分が何も言わない間に。

 少しずつ離れている。

「早くしないと」

 悠人が何気なく言う。

「本当に水野に取られるぞ」

「……」

 その言葉が。

 以前よりずっと重く響いた。


「湊くん!」

 放課後。

 グラウンドへ向かう途中で、美羽が追いかけてきた。

「何?」

「クリスマスイブのこと聞いた?」

「部活のみんなで駅前行くやつ?」

「うん!」

 美羽が嬉しそうに笑う。

「湊くんも行こうよ」

「まだ分かんない」

「予定あるの?」

「……あるかもしれない」

 美羽の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。

「誰かと?」

「まだ何も決まってない」

「そっか」

 美羽はそれ以上聞かなかった。

 でも。

 誰を誘おうとしているのか。

 なんとなく分かってしまった。

 小宮山陽菜乃。

 美羽は唇を少しだけ結んだ。


 夕方。

 ダンス部の練習が終わった陽菜乃は、体育館の外へ出た。

「さむっ……」

 外はすっかり暗くなっている。

 吐く息が白い。

 陽菜乃はコートの前を閉じてから、スマホを見る。

 美緒からメッセージ。

『ごめん! 二十四日、親戚来ることになってイルミネーション無理かも!』

「えっ」

 さらに莉子。

『私も家族で出かけることになったー! ごめん!』

「……」

 陽菜乃は立ち止まった。

 さっきまで。

 みんなで行くつもりだった。

 でも。

 これでは。

「なくなっちゃった……」

 少し残念。

 あのイルミネーション。

 見てみたかった。

 それに。

 柊真も来ると思っていたから。

(……柊真くんも)

 自分がそう考えたことに気づき。

 陽菜乃は少しだけ戸惑った。

 イルミネーションが見たかった。

 それだけ?

 それとも。

 柊真と一緒に行きたかった?

「陽菜乃」

 声。

 顔を上げる。

「柊真くん」

 昇降口の壁に、柊真が寄りかかっていた。

「終わった?」

「うん」

「帰る?」

「うん」

 二人で学校を出る。

 少し歩いてから。

「そういえば」

 柊真が言った。

「クリスマス」

「……うん」

「美緒たち、行けなくなったんだろ」

「なんで知ってるの?」

「クラスのグループで言ってた」

「ああ」

 陽菜乃は少し笑った。

「仕方ないよね」

「行きたかった?」

「……ちょっと」

「イルミネーション?」

「うん」

 少しだけ。

 期待してしまう。

 でも。

 何を期待しているのか。

 自分でも分からない。

 柊真はしばらく何も言わなかった。

 そして。

「じゃあ行く?」

 陽菜乃は足を止めた。

「え?」

「二十四日」

「……」

「俺と」

 胸が。

 大きく鳴った。

「二人で?」

「嫌?」

 クリスマス。

 イルミネーション。

 男の子と二人。

 どう考えても。

 友達だけの約束とは、少し違うような気がする。

「……」

 陽菜乃は返事を迷った。

 頭に。

 湊の顔が浮かぶ。

 そして。

 美羽のSNSも。

『大好きな人と一緒に見られたらいいな』

 胸が少し痛む。

 でも。

 そのあと。

 目の前の柊真を見る。

 冷たい風の中。

 返事を待っている。

 無理に笑わない。

 急かさない。

 陽菜乃の答えを。

 ただ待ってくれている。

「……行きたい」

 自然に。

 言葉が出た。

 柊真が少しだけ目を見開く。

「ほんと?」

「うん」

 陽菜乃は笑った。

「柊真くんと一緒に、イルミネーション見たい」

 言ってから。

 急に恥ずかしくなる。

「あ……」

「何?」

「今の、ちょっと……」

「取り消す?」

「……」

 本当に取り消したい?

 陽菜乃は自分へ問いかける。

 答えは。

 すぐに出た。

「……取り消さない」

 小さな声。

 柊真が笑う。

「そっか」

「うん」

 陽菜乃も笑った。

 胸の奥が。

 じんわり温かかった。


 次の日。

 教室では。

 早速その話が広まった。

「えっ! 陽菜乃、水野くんとクリスマス!?」

「ちょっと莉子ちゃん!」

「二人で!?」

「声大きい!」

 陽菜乃は真っ赤になって莉子の腕をつかんだ。

「イルミネーション見に行くだけ!」

「それデートじゃない?」

「デートじゃ……」

 言いかける。

 でも。

 前みたいに。

 すぐ否定できなかった。

 デート。

 そう言われたら。

 恥ずかしい。

 でも。

 嫌ではない。

「……分かんない」

「え?」

「デートかどうかは……」

 陽菜乃は頬を赤くしたまま。

「でも、楽しみ」

 そう言った。

 莉子と美緒が顔を見合わせる。

「陽菜乃」

「なに?」

「顔、完全に恋する女子」

「ええっ!?」

「やっとだ」

「何が!?」

 クラスが笑い声に包まれる。

 柊真は自分の席で、

「うるせえ」

 とだけ言った。

 でも。

 どこか嬉しそうだった。


 その時。

 二年二組の教室の外。

 湊が立っていた。

 手には。

 スマホ。

 画面には、まだ送っていないメッセージ。

『クリスマス、予定ある?』

 昨日から。

 何度も書いて。

 消して。

 ようやく送ろうと思って。

 陽菜乃の教室まで来た。

 でも。

 中から聞こえた。

『水野くんとクリスマス』

『二人でイルミネーション』

 そして。

 陽菜乃の。

『楽しみ』

 という声。

「……」

 指が。

 動かなかった。

 送れない。

 湊は画面の文字を見つめた。

 そして。

 一文字ずつ。

 消していく。

『クリスマス、予定ある?』

 全部。

 消えた。

「……遅かった」

 誰にも聞こえない声。

 体育祭の時も。

 花火大会も。

 文化祭も。

 誕生日も。

 いつだって。

 陽菜乃は自分のところへ戻ってくると思っていた。

 幼馴染だから。

 ずっと隣にいたから。

 明日も同じだと思っていた。

 でも。

 陽菜乃は。

 もう。

 自分のところで待っているだけの女の子ではない。

 教室の中。

 陽菜乃が笑っている。

 その視線の先には。

 柊真。

 湊は。

 初めて。

 本当の意味で怖くなった。

 このまま何もしなければ。

 陽菜乃を。

 本当に失うかもしれない。



 放課後。

 陽菜乃は一人で、駅前のショーウインドーをのぞいていた。

 ダンス部で使う小物を買いに来た帰り。

 ガラスの向こうには。

 冬物のコート。

 マフラー。

 小さなバッグ。

「……」

 白いコートが目に入る。

(クリスマス……何着ていこう)

 そう考えた瞬間。

 自分で自分に驚いた。

 今まで。

 誰かと出かけるために。

 服をこんなに気にしたことがあっただろうか。

 花火大会の浴衣の時は。

 湊にかわいいと思ってほしかった。

 あの頃は。

 湊だけだった。

 でも今。

 思い浮かべているのは。

「柊真くん……」

 小さく名前を口にする。

 どんな服なら。

 かわいいと思ってくれるかな。

 そう考えてしまう。

 胸が。

 また少し速く鳴る。

 陽菜乃はショーウインドーに映る自分を見た。

 そして。

 困ったように。

 でも。

 少しだけ嬉しそうに笑った。

 クリスマスが。

 待ち遠しい。

 それはもう。

 イルミネーションが見たいからだけではなかった。

 水野柊真と。

 二人で過ごせることが。

 楽しみだった。

 その気持ちだけは。

 もう。

 自分に嘘をつくことができなかった。