十二月に入った最初の月曜日。
朝から、空は重たい灰色の雲に覆われていた。
天気予報では、今年いちばんの冷え込みになると言っていた。
陽菜乃は白いマフラーへ口元をうずめながら、校門をくぐった。
「寒い……」
吐いた息が、白く広がる。
以前なら、こんな日は隣を歩く湊に、
『今日すっごく寒いね』
と何度も話しかけていただろう。
湊が、
『だから手袋しろって言ったじゃん』
とあきれながら、自分のポケットへ入れていたカイロをくれる。
そんな朝が当たり前だった。
でも最近は、ほとんど一人で登校している。
最初の何日かは、寂しかった。
学校までの道が、いつもよりずっと長く感じた。
けれど少しずつ慣れてきた。
――慣れなくちゃ。
そう思っていた。
「陽菜乃ー!」
後ろから声がして振り返る。
「美緒ちゃん」
美緒が小走りで追いついてきた。
「一緒になった! おはよ」
「おはよう」
「寒すぎない?」
「寒い」
「手袋は?」
「今日は持ってきたよ」
「おお、成長してる」
「もう。私だって忘れない日あるもん」
「忘れないほうが普通なんだけど」
二人で笑いながら校舎へ向かう。
昇降口で靴を履き替え、教室へ入ると。
陽菜乃はいつものように、自分の席の少し後ろへ視線を向けた。
「……あれ?」
誰もいない。
柊真の席だった。
いつもなら、この時間にはもう来ている。
窓際の席で頬杖をついていたり。
机に伏せて眠そうにしていたり。
陽菜乃が教室へ入ると、
『おはよ』
と短く声をかけてくれる。
でも今日は、鞄すらない。
「柊真くん、まだ来てないんだ」
陽菜乃がつぶやく。
美緒が時計を見る。
「珍しいね。あと五分でホームルームだよ」
「寝坊かな」
「ありそう」
「でも柊真くん、意外と遅刻しないよ」
「陽菜乃、詳しいね」
「え?」
「なんでもなーい」
美緒は自分の席へ向かった。
陽菜乃は首をかしげながら席へ座った。
教科書を机の中へ入れる。
筆箱を出す。
それでも。
なんとなく落ち着かない。
教室の扉が開くたびに、つい顔を上げてしまう。
(まだかな)
一人入ってくる。
違う。
また一人。
違う。
そして予鈴。
結局、柊真は来なかった。
「水野は風邪で休みだそうだ」
朝のホームルーム。
担任の森川先生が出席簿を見ながら言った。
陽菜乃は思わず顔を上げた。
(風邪……)
「最近流行ってるから、お前らも手洗いうがいちゃんとしろよ」
「はーい」
クラスから返事が上がる。
それだけ。
柊真が一日休む。
ただ、それだけのことなのに。
陽菜乃は、空っぽの席をもう一度見た。
(大丈夫かな)
熱はあるのかな。
ご飯は食べられているのかな。
誰か家にいるのかな。
次々に気になってしまう。
「陽菜乃」
「え?」
美緒が前の席から振り返った。
「さっきから水野くんの席、何回見た?」
「見てないよ」
「見てるよ」
「だって風邪って聞いたから……」
「心配?」
「……うん」
素直にうなずく。
「いつも元気だから」
「ふうん」
美緒が意味ありげな顔をする。
「何?」
「成瀬くんが休んだ時も、そんな感じだった?」
「湊?」
聞かれて考える。
湊が風邪を引いた時。
幼い頃から何度もあった。
小学生ならプリントを届けたし。
中学生の頃は母に頼まれて、おかゆを持っていったこともある。
心配だった。
もちろん。
でも。
今、自分が柊真を気にしている感じは――。
「……分かんない」
「そっか」
美緒はそれ以上聞かなかった。
けれど陽菜乃の胸には、その質問が小さく残った。
◇
休み時間。
いつもの教室なのに、今日は妙に静かに感じる。
「小宮山、これ分かる?」
「え?」
クラスメイトに数学の問題を聞かれて、陽菜乃はノートを見る。
「えっとね……」
一緒に考えながらも、ふと横を見てしまう。
柊真がいれば、
『そこ公式違う』
と横から言ってきそう。
お昼。
「陽菜乃、食べよ」
「うん」
美緒や莉子と机を合わせる。
いつもなら途中で柊真が、
『それ一個くれ』
と陽菜乃のお弁当を見たり、
『今日はちゃんと野菜ある』
と逆に陽菜乃が注意したりする。
でも今日は。
柊真の席は空っぽ。
「……」
陽菜乃は卵焼きを箸でつまんだまま、その席を見る。
「陽菜乃」
「なに?」
莉子が笑っている。
「今日、水野いなくて寂しい?」
「えっ!?」
危うく卵焼きを落としそうになる。
「な、なんで?」
「さっきからめちゃくちゃ見てるもん」
「見てないよ!」
「見てるって」
美緒まで笑う。
「もう……」
陽菜乃の頬が熱くなる。
「ただ心配してるだけだよ」
「連絡した?」
「……してない」
「すればいいじゃん」
「でも、寝てたら悪いし」
「じゃあ返事いらないって書けば?」
陽菜乃はスマホを見る。
柊真とは、文化祭の連絡をきっかけにメッセージをするようになっていた。
最近は、たまに関係のない話もする。
陽菜乃が、
『今日ダンスうまくできた!』
と送ると、
『よかったじゃん』
と返ってくる。
柊真が、
『宿題どこ』
と聞いてきて、
『先生が言ってたの聞いてなかったの?』
と陽菜乃が返すこともあった。
でも。
自分から、
『風邪大丈夫?』
と送るのは。
なんとなく緊張する。
「……あとで送る」
「あとでねえ」
莉子がにやにやする。
「何その顔」
「なんでもないよ」
「みんな最近そればっかり!」
三人で笑った。
放課後。
陽菜乃はダンス部へ行く前に、先生から呼び止められた。
「小宮山」
「はい」
「悪いんだけど、水野と家近かったよな?」
「え?」
「方向同じだろ?」
「はい。駅の向こうですけど……」
「これ、今日配った進路希望の用紙。急がないから、近く通るなら届けてくれないか?」
先生が一枚の封筒を差し出す。
陽菜乃は一瞬驚いた。
「私が?」
「無理なら明日でもいいぞ」
「……届けます」
ほとんど迷わず答えていた。
「ありがとう。水野にも無理して学校来るなって言っといてくれ」
「はい」
封筒を受け取る。
胸の中が、少しだけ落ち着かなくなった。
(柊真くんの家……)
初めて行く。
住所は封筒の裏に書いてある。
駅から歩いて十分ほど。
陽菜乃の家とは逆方向だけれど、遠くはない。
「陽菜乃」
美緒が近づいてくる。
「どうしたの?」
「先生に、柊真くんのプリント届けてって」
「へえ」
美緒の顔が明るくなる。
「じゃあお見舞いだ」
「お見舞いじゃないよ。学校の用事」
「ついでに何か買ってけば?」
「……何か?」
「風邪なら飲み物とか」
陽菜乃は少し考えた。
柊真が好きな飲み物。
覚えている。
「……そうしようかな」
口にしてから。
自分でも少し驚いた。
でも。
何もしないで帰るより、そうしたかった。
ダンス部の練習を終えた頃には、外はもう暗くなっていた。
陽菜乃は駅前のコンビニへ寄った。
「何がいいかな……」
飲み物の棚の前。
スポーツドリンク。
お茶。
水。
「風邪の時って……」
迷う。
結局、スポーツドリンクとゼリー飲料、それからのど飴を買った。
レジ袋を持って店を出る。
冷たい風が吹き、髪が頬へかかった。
陽菜乃はスマホの地図を確認しながら歩く。
「こっち……かな」
住宅街へ入る。
知らない道。
少し不安。
以前なら、こういう時。
『湊、道分からない』
とすぐ連絡しただろう。
でも今日は。
自分で地図を見て歩く。
「……あった」
二階建ての家。
表札に、
『水野』
と書いてある。
陽菜乃は門の前で立ち止まった。
急に緊張してきた。
(どうしよう)
学校のプリントを渡すだけ。
それだけなのに。
制服の袖口をぎゅっと握る。
「……よし」
インターホンを押した。
ピンポーン。
数秒後。
『はい』
聞こえたのは、柊真とは違う男の子の声。
「あの、小宮山です。柊真くんのクラスメイトで……」
『兄ちゃんの?』
「う、うん」
少しして玄関が開いた。
出てきたのは、中学生くらいの男の子だった。
柊真に少し似ている。
でも髪は黒く、制服もきちんと着ている。
「こんにちは」
「こんにちは」
男の子は陽菜乃を見るなり、目を丸くした。
「兄ちゃんに女の子来た」
「えっ」
「しかもかわいい」
「ええっ!?」
陽菜乃の顔が一気に熱くなる。
「ち、違うよ。学校のプリント届けに来ただけで……」
「あ、俺、水野海斗。柊真の弟」
「小宮山陽菜乃です」
「知ってる」
「え?」
「兄ちゃんが――」
「海斗」
奥から低い声がした。
陽菜乃の胸が跳ねる。
柊真が廊下に立っていた。
「……陽菜乃?」
いつもの制服ではない。
黒いスウェット姿。
髪も少し乱れている。
顔色はいつもより白く、目も少し眠そうだった。
「柊真くん」
「何でいるの?」
「先生に頼まれて……」
封筒を見せる。
「進路希望のプリント」
「ああ」
「あと……」
陽菜乃はコンビニの袋を差し出した。
「これ」
「何?」
「風邪だから」
「……俺に?」
「うん」
柊真が袋の中を見る。
「スポドリとのど飴とゼリー?」
「何がいいか分からなくて……」
「全部?」
「買いすぎた?」
「いや」
柊真が少しだけ笑った。
「ありがと」
いつもより弱い声。
陽菜乃はその顔を見て、急に心配になった。
「熱あるの?」
「朝はあった」
「何度?」
「三十八ちょい」
「高いじゃん!」
思わず声が大きくなる。
「もう下がった」
「ほんと?」
「うん」
「病院行った?」
「行ったって」
「薬飲んだ?」
「飲んだ」
「ご飯は?」
「陽菜乃」
「なに?」
「母親みたい」
「だって心配だから!」
すぐに答えた。
柊真が黙る。
陽菜乃も自分が言った言葉に気づいた。
「……」
「……」
なぜか、急に恥ずかしくなった。
「そ、その……クラスのみんなも心配してたよ」
「みんな?」
「美緒ちゃんとか、莉子ちゃんとか」
「ふーん」
「……私も」
最後だけ小さな声になった。
柊真がこちらを見る。
「朝から、ずっと気になってた」
「……」
「いつもいるのに、席空いてるから変な感じで」
話しながら。
陽菜乃自身が気づいていく。
今日は何度も柊真を探した。
休み時間も。
昼休みも。
何かあるたびに、
(柊真くんなら何て言うかな)
と思っていた。
「早く元気になってね」
陽菜乃が笑う。
柊真はしばらく何も言わなかった。
そして。
「……明日は行く」
「無理しちゃだめだよ!」
「熱ないし」
「でも」
「陽菜乃がそんな寂しそうなら行かないと」
「え?」
陽菜乃の動きが止まる。
「私、寂しそうだった?」
「自分で言ったじゃん」
「違うよ! 変な感じって言っただけで……」
「同じだろ」
「違うもん」
柊真が楽しそうに笑う。
病人なのに。
「笑わないでよ」
「ごめん」
でも。
元気そうな笑顔を見られて。
陽菜乃は少しほっとした。
「兄ちゃん」
横から海斗が口を挟む。
「何」
「この人、彼女?」
「えっ!?」
陽菜乃の声が玄関に響いた。
「ち、違います!」
「海斗、黙れ」
「でも兄ちゃん、前に――」
「余計なこと言ったらスマホ没収する」
「ひど!」
海斗が口をとがらせる。
「ごめん、陽菜乃」
「う、ううん」
陽菜乃はまだ顔が熱かった。
彼女。
その言葉を聞いた瞬間。
どうしてこんなにどきっとしたのだろう。
「じゃあ私、帰るね」
「ああ」
「ちゃんと休んでね」
「分かった」
「明日も熱あったら学校来ちゃだめだよ」
「はいはい」
「返事適当」
「ちゃんと聞いてるって」
陽菜乃は少し笑う。
靴を履いて玄関を出ようとした時。
「陽菜乃」
呼び止められた。
「なに?」
「今日……来てくれてありがと」
いつもの軽い言い方ではなかった。
まっすぐな声。
陽菜乃の胸が、きゅっとする。
「……うん」
「気をつけて帰れよ」
「柊真くんも、おやすみ」
「まだ寝ねえけど」
「寝て!」
「分かったって」
今度こそ外へ出る。
玄関の扉が閉まる。
冷たい夜風が頬に触れた。
「……」
陽菜乃は胸元へ手を当てた。
心臓がまだ少し速い。
(なんで……?)
彼女って聞かれただけ。
それなのに。
どうしてあんなに恥ずかしかったのだろう。
駅へ向かう途中。
スマホが震えた。
美緒から。
『水野くんどうだった?』
陽菜乃は歩きながら返す。
『熱は下がったみたい。明日来るって言ってたけど、心配』
すぐに返事。
『めちゃくちゃ心配してるね』
『だって風邪だよ?』
『それだけ?』
陽菜乃は足を止めた。
「それだけ……?」
意味が分からない。
返事をしようとした、その時。
「陽菜乃?」
前から聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
「……湊」
湊がいた。
サッカー部帰りらしく、大きなバッグを肩にかけている。
隣には悠人もいた。
「今帰り?」
「うん」
「ダンス部、こんな遅かった?」
「今日は……」
言いかけて少し迷う。
「柊真くんの家に寄ってた」
湊の表情が変わった。
「水野の家?」
「うん」
「なんで?」
「今日休んだでしょう? 先生にプリント届けてって頼まれたの」
「……それだけ?」
陽菜乃は少し驚いた。
美緒と同じことを聞かれた。
「あと、風邪だったから飲み物とか持ってった」
「陽菜乃が?」
「うん」
「わざわざ買って?」
「だって心配だったから」
その瞬間。
湊が何も言わなくなった。
「湊?」
「……そっか」
「どうしたの?」
「別に」
最近、湊の「別に」が増えた。
陽菜乃には理由が分からない。
「じゃあ私、帰るね」
「待って」
「え?」
湊が一歩近づく。
「送る」
「大丈夫だよ」
「暗いから」
「駅から近いし」
「でも――」
「一人で帰れるよ」
陽菜乃は笑った。
「もう湊に送ってもらわなくても大丈夫」
その言葉。
自分では、前向きな意味で言ったつもりだった。
でも。
湊の顔が少しだけ傷ついたように見えた。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、気をつけて」
「ありがとう」
陽菜乃は歩き出した。
数歩進んでから。
なぜか気になって振り返る。
湊はまだ、その場所に立っていた。
「……お前」
陽菜乃が見えなくなってから、悠人が口を開いた。
「完全に負けてんじゃん」
「何が」
「水野」
「勝ち負けじゃない」
「陽菜乃ちゃん、あいつの家まで行ったんだろ」
「先生に頼まれただけ」
「でも差し入れは本人の意思」
「……」
「めちゃくちゃ気にしてんじゃん」
湊は答えない。
さっき。
『だって心配だったから』
そう言った陽菜乃。
自分が風邪を引いた時。
昔は家まで来てくれた。
でも最近なら。
陽菜乃は来てくれるだろうか。
そんなことを考えてしまった。
そして。
『もう湊に送ってもらわなくても大丈夫』
あの言葉。
本当なら。
陽菜乃が一人で何でもできるようになるのは、いいことのはずだ。
いつまでも自分が面倒を見る必要なんてない。
なのに。
全然嬉しくなかった。
「悠人」
「ん?」
「陽菜乃、最近変わったよな」
「変わったっていうか」
悠人が少し考える。
「お前から離れ始めただけじゃね?」
胸の奥に刺さる。
「……」
「前は何でもお前だったじゃん」
「うん」
「今は水野がいる」
湊は無意識に拳を握った。
「だからって」
「嫌なんだろ?」
「……」
「水野が陽菜乃ちゃんの特別になるの」
答えられなかった。
でも。
否定もできなかった。
次の日の朝。
陽菜乃は教室へ入るなり、真っ先に後ろを見た。
「……!」
柊真がいた。
いつもの席。
いつもの少し乱れた髪。
マスクはしているけれど、顔色は昨日よりずっといい。
陽菜乃の胸がぱっと明るくなる。
「柊真くん!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
柊真が顔を上げる。
「おはよ」
「もう大丈夫なの?」
「うん」
「ほんとに?」
「熱ない」
「無理してない?」
「してないって」
陽菜乃は柊真の机の前まで行った。
昨日まで空っぽだった席。
そこにいる。
それだけで。
なんだか安心した。
「よかった……」
本当にほっとして。
自然に笑った。
柊真が少しだけ目を丸くする。
「そんな嬉しい?」
「……え?」
「俺が学校来て」
聞かれて。
陽菜乃は少し考える。
昨日一日。
何度も柊真を探した。
話したいと思った。
心配した。
そして今。
顔を見ただけで、こんなに嬉しい。
「……うん」
陽菜乃は素直にうなずいた。
「嬉しい」
柊真が固まる。
「柊真くん?」
「……お前さ」
「なに?」
「朝からそれは反則」
「反則?」
「なんでもねえ」
「また?」
陽菜乃が笑う。
その時。
教室の外から、湊がこちらを見ていたことには気づかなかった。
湊は。
陽菜乃が柊真へ向けた笑顔を見て。
昨日まで胸の中にあった小さな不安が。
はっきりした形へ変わっていくのを感じていた。
一方の陽菜乃も。
まだ気づいていなかった。
湊以外の男の子が学校へ来ただけで。
こんなに嬉しくなる日が来るなんて。
少し前までの自分なら。
きっと想像もできなかったということに。
朝から、空は重たい灰色の雲に覆われていた。
天気予報では、今年いちばんの冷え込みになると言っていた。
陽菜乃は白いマフラーへ口元をうずめながら、校門をくぐった。
「寒い……」
吐いた息が、白く広がる。
以前なら、こんな日は隣を歩く湊に、
『今日すっごく寒いね』
と何度も話しかけていただろう。
湊が、
『だから手袋しろって言ったじゃん』
とあきれながら、自分のポケットへ入れていたカイロをくれる。
そんな朝が当たり前だった。
でも最近は、ほとんど一人で登校している。
最初の何日かは、寂しかった。
学校までの道が、いつもよりずっと長く感じた。
けれど少しずつ慣れてきた。
――慣れなくちゃ。
そう思っていた。
「陽菜乃ー!」
後ろから声がして振り返る。
「美緒ちゃん」
美緒が小走りで追いついてきた。
「一緒になった! おはよ」
「おはよう」
「寒すぎない?」
「寒い」
「手袋は?」
「今日は持ってきたよ」
「おお、成長してる」
「もう。私だって忘れない日あるもん」
「忘れないほうが普通なんだけど」
二人で笑いながら校舎へ向かう。
昇降口で靴を履き替え、教室へ入ると。
陽菜乃はいつものように、自分の席の少し後ろへ視線を向けた。
「……あれ?」
誰もいない。
柊真の席だった。
いつもなら、この時間にはもう来ている。
窓際の席で頬杖をついていたり。
机に伏せて眠そうにしていたり。
陽菜乃が教室へ入ると、
『おはよ』
と短く声をかけてくれる。
でも今日は、鞄すらない。
「柊真くん、まだ来てないんだ」
陽菜乃がつぶやく。
美緒が時計を見る。
「珍しいね。あと五分でホームルームだよ」
「寝坊かな」
「ありそう」
「でも柊真くん、意外と遅刻しないよ」
「陽菜乃、詳しいね」
「え?」
「なんでもなーい」
美緒は自分の席へ向かった。
陽菜乃は首をかしげながら席へ座った。
教科書を机の中へ入れる。
筆箱を出す。
それでも。
なんとなく落ち着かない。
教室の扉が開くたびに、つい顔を上げてしまう。
(まだかな)
一人入ってくる。
違う。
また一人。
違う。
そして予鈴。
結局、柊真は来なかった。
「水野は風邪で休みだそうだ」
朝のホームルーム。
担任の森川先生が出席簿を見ながら言った。
陽菜乃は思わず顔を上げた。
(風邪……)
「最近流行ってるから、お前らも手洗いうがいちゃんとしろよ」
「はーい」
クラスから返事が上がる。
それだけ。
柊真が一日休む。
ただ、それだけのことなのに。
陽菜乃は、空っぽの席をもう一度見た。
(大丈夫かな)
熱はあるのかな。
ご飯は食べられているのかな。
誰か家にいるのかな。
次々に気になってしまう。
「陽菜乃」
「え?」
美緒が前の席から振り返った。
「さっきから水野くんの席、何回見た?」
「見てないよ」
「見てるよ」
「だって風邪って聞いたから……」
「心配?」
「……うん」
素直にうなずく。
「いつも元気だから」
「ふうん」
美緒が意味ありげな顔をする。
「何?」
「成瀬くんが休んだ時も、そんな感じだった?」
「湊?」
聞かれて考える。
湊が風邪を引いた時。
幼い頃から何度もあった。
小学生ならプリントを届けたし。
中学生の頃は母に頼まれて、おかゆを持っていったこともある。
心配だった。
もちろん。
でも。
今、自分が柊真を気にしている感じは――。
「……分かんない」
「そっか」
美緒はそれ以上聞かなかった。
けれど陽菜乃の胸には、その質問が小さく残った。
◇
休み時間。
いつもの教室なのに、今日は妙に静かに感じる。
「小宮山、これ分かる?」
「え?」
クラスメイトに数学の問題を聞かれて、陽菜乃はノートを見る。
「えっとね……」
一緒に考えながらも、ふと横を見てしまう。
柊真がいれば、
『そこ公式違う』
と横から言ってきそう。
お昼。
「陽菜乃、食べよ」
「うん」
美緒や莉子と机を合わせる。
いつもなら途中で柊真が、
『それ一個くれ』
と陽菜乃のお弁当を見たり、
『今日はちゃんと野菜ある』
と逆に陽菜乃が注意したりする。
でも今日は。
柊真の席は空っぽ。
「……」
陽菜乃は卵焼きを箸でつまんだまま、その席を見る。
「陽菜乃」
「なに?」
莉子が笑っている。
「今日、水野いなくて寂しい?」
「えっ!?」
危うく卵焼きを落としそうになる。
「な、なんで?」
「さっきからめちゃくちゃ見てるもん」
「見てないよ!」
「見てるって」
美緒まで笑う。
「もう……」
陽菜乃の頬が熱くなる。
「ただ心配してるだけだよ」
「連絡した?」
「……してない」
「すればいいじゃん」
「でも、寝てたら悪いし」
「じゃあ返事いらないって書けば?」
陽菜乃はスマホを見る。
柊真とは、文化祭の連絡をきっかけにメッセージをするようになっていた。
最近は、たまに関係のない話もする。
陽菜乃が、
『今日ダンスうまくできた!』
と送ると、
『よかったじゃん』
と返ってくる。
柊真が、
『宿題どこ』
と聞いてきて、
『先生が言ってたの聞いてなかったの?』
と陽菜乃が返すこともあった。
でも。
自分から、
『風邪大丈夫?』
と送るのは。
なんとなく緊張する。
「……あとで送る」
「あとでねえ」
莉子がにやにやする。
「何その顔」
「なんでもないよ」
「みんな最近そればっかり!」
三人で笑った。
放課後。
陽菜乃はダンス部へ行く前に、先生から呼び止められた。
「小宮山」
「はい」
「悪いんだけど、水野と家近かったよな?」
「え?」
「方向同じだろ?」
「はい。駅の向こうですけど……」
「これ、今日配った進路希望の用紙。急がないから、近く通るなら届けてくれないか?」
先生が一枚の封筒を差し出す。
陽菜乃は一瞬驚いた。
「私が?」
「無理なら明日でもいいぞ」
「……届けます」
ほとんど迷わず答えていた。
「ありがとう。水野にも無理して学校来るなって言っといてくれ」
「はい」
封筒を受け取る。
胸の中が、少しだけ落ち着かなくなった。
(柊真くんの家……)
初めて行く。
住所は封筒の裏に書いてある。
駅から歩いて十分ほど。
陽菜乃の家とは逆方向だけれど、遠くはない。
「陽菜乃」
美緒が近づいてくる。
「どうしたの?」
「先生に、柊真くんのプリント届けてって」
「へえ」
美緒の顔が明るくなる。
「じゃあお見舞いだ」
「お見舞いじゃないよ。学校の用事」
「ついでに何か買ってけば?」
「……何か?」
「風邪なら飲み物とか」
陽菜乃は少し考えた。
柊真が好きな飲み物。
覚えている。
「……そうしようかな」
口にしてから。
自分でも少し驚いた。
でも。
何もしないで帰るより、そうしたかった。
ダンス部の練習を終えた頃には、外はもう暗くなっていた。
陽菜乃は駅前のコンビニへ寄った。
「何がいいかな……」
飲み物の棚の前。
スポーツドリンク。
お茶。
水。
「風邪の時って……」
迷う。
結局、スポーツドリンクとゼリー飲料、それからのど飴を買った。
レジ袋を持って店を出る。
冷たい風が吹き、髪が頬へかかった。
陽菜乃はスマホの地図を確認しながら歩く。
「こっち……かな」
住宅街へ入る。
知らない道。
少し不安。
以前なら、こういう時。
『湊、道分からない』
とすぐ連絡しただろう。
でも今日は。
自分で地図を見て歩く。
「……あった」
二階建ての家。
表札に、
『水野』
と書いてある。
陽菜乃は門の前で立ち止まった。
急に緊張してきた。
(どうしよう)
学校のプリントを渡すだけ。
それだけなのに。
制服の袖口をぎゅっと握る。
「……よし」
インターホンを押した。
ピンポーン。
数秒後。
『はい』
聞こえたのは、柊真とは違う男の子の声。
「あの、小宮山です。柊真くんのクラスメイトで……」
『兄ちゃんの?』
「う、うん」
少しして玄関が開いた。
出てきたのは、中学生くらいの男の子だった。
柊真に少し似ている。
でも髪は黒く、制服もきちんと着ている。
「こんにちは」
「こんにちは」
男の子は陽菜乃を見るなり、目を丸くした。
「兄ちゃんに女の子来た」
「えっ」
「しかもかわいい」
「ええっ!?」
陽菜乃の顔が一気に熱くなる。
「ち、違うよ。学校のプリント届けに来ただけで……」
「あ、俺、水野海斗。柊真の弟」
「小宮山陽菜乃です」
「知ってる」
「え?」
「兄ちゃんが――」
「海斗」
奥から低い声がした。
陽菜乃の胸が跳ねる。
柊真が廊下に立っていた。
「……陽菜乃?」
いつもの制服ではない。
黒いスウェット姿。
髪も少し乱れている。
顔色はいつもより白く、目も少し眠そうだった。
「柊真くん」
「何でいるの?」
「先生に頼まれて……」
封筒を見せる。
「進路希望のプリント」
「ああ」
「あと……」
陽菜乃はコンビニの袋を差し出した。
「これ」
「何?」
「風邪だから」
「……俺に?」
「うん」
柊真が袋の中を見る。
「スポドリとのど飴とゼリー?」
「何がいいか分からなくて……」
「全部?」
「買いすぎた?」
「いや」
柊真が少しだけ笑った。
「ありがと」
いつもより弱い声。
陽菜乃はその顔を見て、急に心配になった。
「熱あるの?」
「朝はあった」
「何度?」
「三十八ちょい」
「高いじゃん!」
思わず声が大きくなる。
「もう下がった」
「ほんと?」
「うん」
「病院行った?」
「行ったって」
「薬飲んだ?」
「飲んだ」
「ご飯は?」
「陽菜乃」
「なに?」
「母親みたい」
「だって心配だから!」
すぐに答えた。
柊真が黙る。
陽菜乃も自分が言った言葉に気づいた。
「……」
「……」
なぜか、急に恥ずかしくなった。
「そ、その……クラスのみんなも心配してたよ」
「みんな?」
「美緒ちゃんとか、莉子ちゃんとか」
「ふーん」
「……私も」
最後だけ小さな声になった。
柊真がこちらを見る。
「朝から、ずっと気になってた」
「……」
「いつもいるのに、席空いてるから変な感じで」
話しながら。
陽菜乃自身が気づいていく。
今日は何度も柊真を探した。
休み時間も。
昼休みも。
何かあるたびに、
(柊真くんなら何て言うかな)
と思っていた。
「早く元気になってね」
陽菜乃が笑う。
柊真はしばらく何も言わなかった。
そして。
「……明日は行く」
「無理しちゃだめだよ!」
「熱ないし」
「でも」
「陽菜乃がそんな寂しそうなら行かないと」
「え?」
陽菜乃の動きが止まる。
「私、寂しそうだった?」
「自分で言ったじゃん」
「違うよ! 変な感じって言っただけで……」
「同じだろ」
「違うもん」
柊真が楽しそうに笑う。
病人なのに。
「笑わないでよ」
「ごめん」
でも。
元気そうな笑顔を見られて。
陽菜乃は少しほっとした。
「兄ちゃん」
横から海斗が口を挟む。
「何」
「この人、彼女?」
「えっ!?」
陽菜乃の声が玄関に響いた。
「ち、違います!」
「海斗、黙れ」
「でも兄ちゃん、前に――」
「余計なこと言ったらスマホ没収する」
「ひど!」
海斗が口をとがらせる。
「ごめん、陽菜乃」
「う、ううん」
陽菜乃はまだ顔が熱かった。
彼女。
その言葉を聞いた瞬間。
どうしてこんなにどきっとしたのだろう。
「じゃあ私、帰るね」
「ああ」
「ちゃんと休んでね」
「分かった」
「明日も熱あったら学校来ちゃだめだよ」
「はいはい」
「返事適当」
「ちゃんと聞いてるって」
陽菜乃は少し笑う。
靴を履いて玄関を出ようとした時。
「陽菜乃」
呼び止められた。
「なに?」
「今日……来てくれてありがと」
いつもの軽い言い方ではなかった。
まっすぐな声。
陽菜乃の胸が、きゅっとする。
「……うん」
「気をつけて帰れよ」
「柊真くんも、おやすみ」
「まだ寝ねえけど」
「寝て!」
「分かったって」
今度こそ外へ出る。
玄関の扉が閉まる。
冷たい夜風が頬に触れた。
「……」
陽菜乃は胸元へ手を当てた。
心臓がまだ少し速い。
(なんで……?)
彼女って聞かれただけ。
それなのに。
どうしてあんなに恥ずかしかったのだろう。
駅へ向かう途中。
スマホが震えた。
美緒から。
『水野くんどうだった?』
陽菜乃は歩きながら返す。
『熱は下がったみたい。明日来るって言ってたけど、心配』
すぐに返事。
『めちゃくちゃ心配してるね』
『だって風邪だよ?』
『それだけ?』
陽菜乃は足を止めた。
「それだけ……?」
意味が分からない。
返事をしようとした、その時。
「陽菜乃?」
前から聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
「……湊」
湊がいた。
サッカー部帰りらしく、大きなバッグを肩にかけている。
隣には悠人もいた。
「今帰り?」
「うん」
「ダンス部、こんな遅かった?」
「今日は……」
言いかけて少し迷う。
「柊真くんの家に寄ってた」
湊の表情が変わった。
「水野の家?」
「うん」
「なんで?」
「今日休んだでしょう? 先生にプリント届けてって頼まれたの」
「……それだけ?」
陽菜乃は少し驚いた。
美緒と同じことを聞かれた。
「あと、風邪だったから飲み物とか持ってった」
「陽菜乃が?」
「うん」
「わざわざ買って?」
「だって心配だったから」
その瞬間。
湊が何も言わなくなった。
「湊?」
「……そっか」
「どうしたの?」
「別に」
最近、湊の「別に」が増えた。
陽菜乃には理由が分からない。
「じゃあ私、帰るね」
「待って」
「え?」
湊が一歩近づく。
「送る」
「大丈夫だよ」
「暗いから」
「駅から近いし」
「でも――」
「一人で帰れるよ」
陽菜乃は笑った。
「もう湊に送ってもらわなくても大丈夫」
その言葉。
自分では、前向きな意味で言ったつもりだった。
でも。
湊の顔が少しだけ傷ついたように見えた。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、気をつけて」
「ありがとう」
陽菜乃は歩き出した。
数歩進んでから。
なぜか気になって振り返る。
湊はまだ、その場所に立っていた。
「……お前」
陽菜乃が見えなくなってから、悠人が口を開いた。
「完全に負けてんじゃん」
「何が」
「水野」
「勝ち負けじゃない」
「陽菜乃ちゃん、あいつの家まで行ったんだろ」
「先生に頼まれただけ」
「でも差し入れは本人の意思」
「……」
「めちゃくちゃ気にしてんじゃん」
湊は答えない。
さっき。
『だって心配だったから』
そう言った陽菜乃。
自分が風邪を引いた時。
昔は家まで来てくれた。
でも最近なら。
陽菜乃は来てくれるだろうか。
そんなことを考えてしまった。
そして。
『もう湊に送ってもらわなくても大丈夫』
あの言葉。
本当なら。
陽菜乃が一人で何でもできるようになるのは、いいことのはずだ。
いつまでも自分が面倒を見る必要なんてない。
なのに。
全然嬉しくなかった。
「悠人」
「ん?」
「陽菜乃、最近変わったよな」
「変わったっていうか」
悠人が少し考える。
「お前から離れ始めただけじゃね?」
胸の奥に刺さる。
「……」
「前は何でもお前だったじゃん」
「うん」
「今は水野がいる」
湊は無意識に拳を握った。
「だからって」
「嫌なんだろ?」
「……」
「水野が陽菜乃ちゃんの特別になるの」
答えられなかった。
でも。
否定もできなかった。
次の日の朝。
陽菜乃は教室へ入るなり、真っ先に後ろを見た。
「……!」
柊真がいた。
いつもの席。
いつもの少し乱れた髪。
マスクはしているけれど、顔色は昨日よりずっといい。
陽菜乃の胸がぱっと明るくなる。
「柊真くん!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
柊真が顔を上げる。
「おはよ」
「もう大丈夫なの?」
「うん」
「ほんとに?」
「熱ない」
「無理してない?」
「してないって」
陽菜乃は柊真の机の前まで行った。
昨日まで空っぽだった席。
そこにいる。
それだけで。
なんだか安心した。
「よかった……」
本当にほっとして。
自然に笑った。
柊真が少しだけ目を丸くする。
「そんな嬉しい?」
「……え?」
「俺が学校来て」
聞かれて。
陽菜乃は少し考える。
昨日一日。
何度も柊真を探した。
話したいと思った。
心配した。
そして今。
顔を見ただけで、こんなに嬉しい。
「……うん」
陽菜乃は素直にうなずいた。
「嬉しい」
柊真が固まる。
「柊真くん?」
「……お前さ」
「なに?」
「朝からそれは反則」
「反則?」
「なんでもねえ」
「また?」
陽菜乃が笑う。
その時。
教室の外から、湊がこちらを見ていたことには気づかなかった。
湊は。
陽菜乃が柊真へ向けた笑顔を見て。
昨日まで胸の中にあった小さな不安が。
はっきりした形へ変わっていくのを感じていた。
一方の陽菜乃も。
まだ気づいていなかった。
湊以外の男の子が学校へ来ただけで。
こんなに嬉しくなる日が来るなんて。
少し前までの自分なら。
きっと想像もできなかったということに。

