十一月も終わりに近づいた朝。
窓の外は、まだ少し白くかすんでいた。
陽菜乃は制服のブレザーに腕を通すと、机の引き出しをそっと開けた。
奥には、青い包装紙に包まれた細長い箱が入っている。
湊の誕生日に渡すはずだった、スポーツタオル。
十一月十四日は、もうとっくに過ぎている。
「……」
陽菜乃は箱に指を伸ばしかけて、やめた。
結局、あの日から渡せないままだった。
次の日なら。
その次の日なら。
そう思っているうちに、日にちだけが過ぎてしまった。
今さら渡したら、変に思われるかもしれない。
それに――。
脳裏に浮かぶ。
美羽からプレゼントを受け取っていた湊。
サッカー部で楽しそうに話していた二人。
学校でも何度も耳にした、付き合っているという噂。
「……もう、いいよね」
誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやいた。
自分が湊を好きだからといって。
いつまでも隣にいていいとは限らない。
美羽が本当に湊を好きなら。
そして湊も、美羽といることを嫌がっていないなら。
幼馴染だからという理由で、自分だけが特別な位置にい続けるのは違う気がした。
「陽菜乃ー! もう七時四十五分よ!」
一階から母の声。
「はーい!」
陽菜乃は引き出しを閉めた。
今日は。
湊が迎えに来るより先に、学校へ行こう。
外へ出ると、冬の近づいた空気が頬に触れた。
「さむ……」
陽菜乃はマフラーへ顔を半分うずめる。
いつもの門の前。
いつもなら、ここに湊がいる。
『遅い』
と言いながら待っている。
でも今日はまだ誰もいない。
(今なら行ける)
陽菜乃は歩き出した。
一人で通学路を歩くのは、久しぶりだった。
家が隣だから。
小さい頃から、ほとんど毎朝一緒だった。
小学校の黄色い帽子をかぶっていた頃も。
中学校の少し大きすぎる制服を着ていた頃も。
高校生になってからも。
いつも横には湊がいた。
「……静か」
思わずつぶやく。
一人だと、足音がよく聞こえる。
ローファーが地面を踏む音。
遠くを走る車。
通学途中の生徒たちの声。
たった一人で歩いているだけなのに、道まで違って見えた。
スマホが震えた。
「……」
画面を見る。
湊だった。
『もう家出た?』
陽菜乃の指が止まる。
少し迷ってから、
『うん。今日は先に行ってるね』
と返した。
すぐに既読。
『なんで?』
胸がちくっとする。
(なんて返そう)
『たまには一人で行こうと思って』
送る。
『俺、今家の前なんだけど』
「……ごめん」
小さく声に出してしまった。
『ごめんね。明日からも先に行くかも』
送信。
今度は少しだけ間があった。
『何かあった?』
陽菜乃は歩く足を止めた。
何かあった。
本当はそう。
でも。
言えない。
『何もないよ』
また同じ言葉を使ってしまった。
しばらくして。
『そっか』
それだけ返ってきた。
陽菜乃はスマホを制服のポケットへしまった。
胸の奥が少し重い。
(これでいいの)
もう、湊に頼りすぎない。
一人で学校へ行ける。
一人で帰れる。
困ったことがあっても、すぐ湊を呼ばない。
そうしなければ。
いつまでたっても、自分は湊から離れられない。
「陽菜乃、おはよ……って、今日一人?」
教室へ入った瞬間、美緒が目を丸くした。
「おはよう」
「成瀬くんは?」
「今日は別」
「喧嘩した?」
「してないよ」
「じゃあなんで?」
陽菜乃は鞄を机の横へかけながら、小さく笑った。
「これからは一人で来ようかなって」
「……急だね」
「もう高校二年生だし」
「高校二年生でも幼馴染と登校する人はすると思うけど」
「そうだけど」
陽菜乃は教科書を机へ入れる。
「ずっと湊に頼るの、やめようかなって」
「それ、もしかして美羽ちゃんのこと?」
美緒はすぐに気づいた。
陽菜乃は答えず、筆箱を取り出す。
「やっぱり」
「……だって」
陽菜乃は小さく声を落とした。
「もし美羽ちゃんが湊の彼女だったら、嫌だと思う」
「だからまだ付き合ってるって決まってないでしょ」
「でも……」
言いかけた時。
「おはよ」
低い声が横からした。
柊真が教室へ入ってきた。
「柊真くん、おはよう」
「ん」
陽菜乃の机の横まで来た柊真が、じっと顔を見る。
「何?」
「今日早いな」
「そう?」
「いつもギリギリじゃん」
「今日は一人で来たから」
何気なく答えると、柊真の眉が少し上がった。
「成瀬は?」
「別々」
「へえ」
それだけ言って、自分の席へ向かおうとする。
でも、途中で止まった。
「陽菜乃」
「なに?」
「無理してねえ?」
陽菜乃は一瞬、答えられなかった。
「……してないよ」
「ならいいけど」
柊真はそれ以上聞かなかった。
その優しさが。
今は少しだけ、ありがたかった。
三時間目。
数学の授業が始まる直前。
陽菜乃は鞄の中を探していた。
「……ない」
もう一度。
教科書。
ノート。
ファイル。
「ない……」
「何が?」
隣の席から柊真が聞く。
「定規」
「定規?」
「今日使うって先生言ってたのに……」
「忘れた?」
「たぶん……」
いつもなら。
真っ先に思い浮かぶのは湊だった。
湊は筆箱の中に、いつも定規を二本入れている。
一年生の時も、
『忘れた』
と言えば、
『また?』
と言いながら貸してくれた。
(……でも)
今日は行かない。
五組まで借りに行けば、また同じだ。
何かあるたび湊に頼る自分のまま。
「これ使え」
「え?」
目の前に透明な定規が置かれた。
柊真。
「でも柊真くんは?」
「もう一本ある」
「……ほんと?」
「疑うなよ」
筆箱から黒い定規をもう一本取り出して見せる。
「ありがとう」
「うん」
陽菜乃は透明な定規を受け取った。
授業が始まる。
ノートへ線を引きながら。
陽菜乃は少し不思議な気持ちになった。
湊じゃなくても。
助けてくれる人はいる。
そんな当たり前のことを、今まであまり考えたことがなかった。
昼休み。
「今日、外で食べない?」
莉子が言った。
「中庭?」
「うん。日当たりいいし」
「行こう!」
美緒も賛成する。
陽菜乃はお弁当を持って立ち上がった。
すると。
「陽菜乃」
教室の入り口から声がした。
反射的に振り返る。
湊。
「……湊」
朝は一緒に来なかった。
だから。
今日初めて顔を合わせた。
「昼、食べる?」
「え?」
「俺、パン買ってきたから」
今までなら、
「うん!」
とすぐ答えていた。
でも今日は。
手元にはお弁当。
目の前には美緒と莉子。
「ごめん」
陽菜乃は小さく笑った。
「今日はみんなで中庭行く約束したの」
湊の表情が少しだけ止まる。
「……そっか」
「うん」
「じゃあまた」
「うん」
湊が教室を出ていく。
その背中を。
陽菜乃はつい目で追ってしまった。
(これでいい)
胸が痛くても。
これで。
「陽菜乃」
美緒が呼ぶ。
「行こう?」
「……うん」
中庭のベンチ。
冬に近づいているとはいえ、日なたは思ったより暖かかった。
「気持ちいいね」
「教室よりいいかも」
莉子がサンドイッチを食べながら言う。
陽菜乃もお弁当を開けた。
今日は鮭のおにぎりと、小さなハンバーグ。
「それうまそう」
声がして顔を上げる。
「柊真くん?」
少し離れたところに柊真が立っていた。
「水野も食べる?」
莉子が誘う。
「いいの?」
「いいよ!」
柊真も隣のベンチへ座る。
手には購買の焼きそばパン。
「またパンだけ?」
陽菜乃が聞く。
「今日は二個」
「そういう問題じゃないよ」
「母親二号」
「二号って何?」
「一号はうちの母親」
「もう」
陽菜乃が笑う。
その時。
ふと。
校舎二階の窓が目に入った。
五組。
湊が窓際に立っている。
「……」
目が合った。
陽菜乃の笑顔が少しだけ止まる。
湊は。
こちらを見たあと。
すぐに教室の奥へ戻っていった。
胸が少し痛い。
「陽菜乃」
「え?」
柊真が見ている。
「食わないの?」
「あ……食べる」
陽菜乃はおにぎりを手に取った。
湊のことを考えないように。
目の前の友達の話へ耳を傾けた。
その日の放課後。
ダンス部の練習は、いつもより遅くまで続いた。
体育館を出る頃には、校舎の外はすっかり暗くなっていた。
「寒い……」
陽菜乃はコートの前を閉じる。
美緒は今日は用事があり、先に帰っている。
一人で帰ろう。
そう思って昇降口へ向かった。
「陽菜乃」
「え?」
壁にもたれていた柊真が体を起こした。
「柊真くん、まだいたの?」
「委員会」
「こんな時間まで?」
「今終わった」
柊真が外を見る。
「一人?」
「うん」
「送る」
「え?」
「駅まで」
「大丈夫だよ」
「暗いだろ」
「でも……」
「俺もちょうど駅行くから」
本当かどうか分からなかった。
でも。
無理に恩を着せるような言い方ではない。
「……じゃあ、お願いしてもいい?」
「ああ」
二人で昇降口を出る。
夜の校庭は、昼間とはまるで違った。
照明がついているサッカー部のグラウンドだけが、明るく浮かんでいる。
「まだ練習してるんだ」
陽菜乃は思わず見る。
湊がいた。
走っている。
その近くには美羽。
陽菜乃はすぐ視線を前へ戻した。
「行こう」
「……ああ」
柊真も何も言わなかった。
駅までの道。
冬の風が強くなっていた。
「さむ……」
陽菜乃が小さくつぶやく。
「手袋は?」
「忘れた」
「お前ほんと忘れ物多いな」
「今日は持ってくるつもりだったの」
「結果忘れてるじゃん」
「……そうだけど」
陽菜乃は両手をコートの袖に隠した。
少しすると。
柊真が自分のポケットから小さなカイロを出した。
「ほら」
「え?」
「使え」
「柊真くんのじゃないの?」
「予備」
「また予備?」
「俺、陽菜乃と違って準備いいから」
「自慢しなくてもいいでしょう?」
そう言いながら受け取る。
手のひらが、じんわり温かくなる。
「……あったかい」
「よかったな」
柊真は前を向いたまま歩いている。
その横顔を。
陽菜乃は少しだけ見つめた。
最近。
苦しい時。
柊真がそばにいることが増えた。
無理に聞かない。
でも、困っていたらちゃんと気づいてくれる。
「柊真くん」
「ん?」
「いつもありがとう」
「またそれ?」
「だって」
陽菜乃はカイロを両手で包んだ。
「柊真くんといると、安心する」
口から出た瞬間。
柊真の足がほんの少し遅くなった。
「……陽菜乃」
「なに?」
「そういうの」
「?」
「いや」
柊真は顔をそらした。
「何でもねえ」
「最近みんな、何でもないって言いすぎだよ」
「じゃあ陽菜乃も言うなよ」
「私?」
「『何もない』って言ってるだろ」
言われて。
陽菜乃は何も答えられなかった。
確かに。
湊にも。
美緒にも。
何度も、
『何もない』
と言っている。
「……あるけど」
「うん」
「まだちゃんと言えない」
「じゃあ言えるまでいい」
柊真はそれだけだった。
聞かない。
責めない。
その優しさが、胸にしみた。
「……ありがとう」
「また言った」
二人で少しだけ笑った。
◇
同じ頃。
サッカー部の練習を終えた湊は、校門の前でスマホを見ていた。
『今日一緒に帰れる?』
夕方、陽菜乃へ送ったメッセージ。
返事は。
『ごめんね。今日は先に帰るね』
だった。
「……先にって」
グラウンドから出る時。
見えた。
柊真と一緒に歩いていく陽菜乃。
先に帰る。
自分とは。
水野とは一緒。
胸の奥が、ひどく落ち着かない。
「湊」
悠人が隣へ来た。
「最近、陽菜乃ちゃんと喧嘩した?」
「してない」
「じゃあ何?」
「知らない」
「朝も別々なんだろ?」
「……うん」
「昼も?」
「最近来ない」
「帰りも水野?」
湊が悠人を見る。
「なんで知ってんの」
「さっき見えた」
悠人が少しだけ呆れた顔をする。
「お前さ」
「何」
「陽菜乃ちゃんに避けられてるんじゃね?」
「……」
「心当たりないの?」
湊は答えられなかった。
少し前。
陽菜乃は言っていた。
『湊には、美羽ちゃんがいるでしょう?』
その言葉を、ちゃんと考えたことがなかった。
「美羽……?」
小さくつぶやく。
悠人が眉を上げる。
「何?」
「いや」
胸の中に。
初めて、小さな疑問が生まれた。
陽菜乃が離れ始めたことと。
美羽。
本当に。
何も関係がないのだろうか。
その夜。
陽菜乃はベッドの上でスマホを見ていた。
何気なくSNSを開く。
そして。
美羽の新しい投稿に目が止まった。
写真には。
二つの温かい飲み物。
テーブルの向こうには、男子の手だけが少し写っている。
見覚えのある腕時計。
(……湊)
すぐに分かった。
文章には。
『寒い日の部活帰り。
好きなものが同じって、ちょっと嬉しい』
名前はない。
湊だとも書いていない。
でも。
陽菜乃には分かってしまった。
コメント欄。
『また成瀬くん?』
『ほんと仲良しだね♡』
『もう付き合ってるって言って!』
美羽からの返信はない。
否定もしていない。
「……やっぱり」
陽菜乃はスマホを伏せた。
胸が痛い。
でも。
少し前とは違った。
涙は出なかった。
今日の帰り道。
『陽菜乃といると――』
いや。
柊真はそんなことは言っていない。
陽菜乃が、
『柊真くんといると安心する』
と言ったのだ。
その時の柊真の表情を思い出す。
少し困ったような。
少し照れたような顔。
「……柊真くん」
なぜだろう。
美羽と湊の写真を見たあとなのに。
最後に思い出したのは、柊真だった。
陽菜乃は枕を抱きしめる。
湊を好きな気持ちは。
まだ消えていない。
きっと、簡単には消えない。
でも。
苦しい時に思い浮かべる人が。
少しずつ。
変わり始めている。
そのことに。
陽菜乃自身は、まだはっきりとは気づいていなかった。
窓の外は、まだ少し白くかすんでいた。
陽菜乃は制服のブレザーに腕を通すと、机の引き出しをそっと開けた。
奥には、青い包装紙に包まれた細長い箱が入っている。
湊の誕生日に渡すはずだった、スポーツタオル。
十一月十四日は、もうとっくに過ぎている。
「……」
陽菜乃は箱に指を伸ばしかけて、やめた。
結局、あの日から渡せないままだった。
次の日なら。
その次の日なら。
そう思っているうちに、日にちだけが過ぎてしまった。
今さら渡したら、変に思われるかもしれない。
それに――。
脳裏に浮かぶ。
美羽からプレゼントを受け取っていた湊。
サッカー部で楽しそうに話していた二人。
学校でも何度も耳にした、付き合っているという噂。
「……もう、いいよね」
誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやいた。
自分が湊を好きだからといって。
いつまでも隣にいていいとは限らない。
美羽が本当に湊を好きなら。
そして湊も、美羽といることを嫌がっていないなら。
幼馴染だからという理由で、自分だけが特別な位置にい続けるのは違う気がした。
「陽菜乃ー! もう七時四十五分よ!」
一階から母の声。
「はーい!」
陽菜乃は引き出しを閉めた。
今日は。
湊が迎えに来るより先に、学校へ行こう。
外へ出ると、冬の近づいた空気が頬に触れた。
「さむ……」
陽菜乃はマフラーへ顔を半分うずめる。
いつもの門の前。
いつもなら、ここに湊がいる。
『遅い』
と言いながら待っている。
でも今日はまだ誰もいない。
(今なら行ける)
陽菜乃は歩き出した。
一人で通学路を歩くのは、久しぶりだった。
家が隣だから。
小さい頃から、ほとんど毎朝一緒だった。
小学校の黄色い帽子をかぶっていた頃も。
中学校の少し大きすぎる制服を着ていた頃も。
高校生になってからも。
いつも横には湊がいた。
「……静か」
思わずつぶやく。
一人だと、足音がよく聞こえる。
ローファーが地面を踏む音。
遠くを走る車。
通学途中の生徒たちの声。
たった一人で歩いているだけなのに、道まで違って見えた。
スマホが震えた。
「……」
画面を見る。
湊だった。
『もう家出た?』
陽菜乃の指が止まる。
少し迷ってから、
『うん。今日は先に行ってるね』
と返した。
すぐに既読。
『なんで?』
胸がちくっとする。
(なんて返そう)
『たまには一人で行こうと思って』
送る。
『俺、今家の前なんだけど』
「……ごめん」
小さく声に出してしまった。
『ごめんね。明日からも先に行くかも』
送信。
今度は少しだけ間があった。
『何かあった?』
陽菜乃は歩く足を止めた。
何かあった。
本当はそう。
でも。
言えない。
『何もないよ』
また同じ言葉を使ってしまった。
しばらくして。
『そっか』
それだけ返ってきた。
陽菜乃はスマホを制服のポケットへしまった。
胸の奥が少し重い。
(これでいいの)
もう、湊に頼りすぎない。
一人で学校へ行ける。
一人で帰れる。
困ったことがあっても、すぐ湊を呼ばない。
そうしなければ。
いつまでたっても、自分は湊から離れられない。
「陽菜乃、おはよ……って、今日一人?」
教室へ入った瞬間、美緒が目を丸くした。
「おはよう」
「成瀬くんは?」
「今日は別」
「喧嘩した?」
「してないよ」
「じゃあなんで?」
陽菜乃は鞄を机の横へかけながら、小さく笑った。
「これからは一人で来ようかなって」
「……急だね」
「もう高校二年生だし」
「高校二年生でも幼馴染と登校する人はすると思うけど」
「そうだけど」
陽菜乃は教科書を机へ入れる。
「ずっと湊に頼るの、やめようかなって」
「それ、もしかして美羽ちゃんのこと?」
美緒はすぐに気づいた。
陽菜乃は答えず、筆箱を取り出す。
「やっぱり」
「……だって」
陽菜乃は小さく声を落とした。
「もし美羽ちゃんが湊の彼女だったら、嫌だと思う」
「だからまだ付き合ってるって決まってないでしょ」
「でも……」
言いかけた時。
「おはよ」
低い声が横からした。
柊真が教室へ入ってきた。
「柊真くん、おはよう」
「ん」
陽菜乃の机の横まで来た柊真が、じっと顔を見る。
「何?」
「今日早いな」
「そう?」
「いつもギリギリじゃん」
「今日は一人で来たから」
何気なく答えると、柊真の眉が少し上がった。
「成瀬は?」
「別々」
「へえ」
それだけ言って、自分の席へ向かおうとする。
でも、途中で止まった。
「陽菜乃」
「なに?」
「無理してねえ?」
陽菜乃は一瞬、答えられなかった。
「……してないよ」
「ならいいけど」
柊真はそれ以上聞かなかった。
その優しさが。
今は少しだけ、ありがたかった。
三時間目。
数学の授業が始まる直前。
陽菜乃は鞄の中を探していた。
「……ない」
もう一度。
教科書。
ノート。
ファイル。
「ない……」
「何が?」
隣の席から柊真が聞く。
「定規」
「定規?」
「今日使うって先生言ってたのに……」
「忘れた?」
「たぶん……」
いつもなら。
真っ先に思い浮かぶのは湊だった。
湊は筆箱の中に、いつも定規を二本入れている。
一年生の時も、
『忘れた』
と言えば、
『また?』
と言いながら貸してくれた。
(……でも)
今日は行かない。
五組まで借りに行けば、また同じだ。
何かあるたび湊に頼る自分のまま。
「これ使え」
「え?」
目の前に透明な定規が置かれた。
柊真。
「でも柊真くんは?」
「もう一本ある」
「……ほんと?」
「疑うなよ」
筆箱から黒い定規をもう一本取り出して見せる。
「ありがとう」
「うん」
陽菜乃は透明な定規を受け取った。
授業が始まる。
ノートへ線を引きながら。
陽菜乃は少し不思議な気持ちになった。
湊じゃなくても。
助けてくれる人はいる。
そんな当たり前のことを、今まであまり考えたことがなかった。
昼休み。
「今日、外で食べない?」
莉子が言った。
「中庭?」
「うん。日当たりいいし」
「行こう!」
美緒も賛成する。
陽菜乃はお弁当を持って立ち上がった。
すると。
「陽菜乃」
教室の入り口から声がした。
反射的に振り返る。
湊。
「……湊」
朝は一緒に来なかった。
だから。
今日初めて顔を合わせた。
「昼、食べる?」
「え?」
「俺、パン買ってきたから」
今までなら、
「うん!」
とすぐ答えていた。
でも今日は。
手元にはお弁当。
目の前には美緒と莉子。
「ごめん」
陽菜乃は小さく笑った。
「今日はみんなで中庭行く約束したの」
湊の表情が少しだけ止まる。
「……そっか」
「うん」
「じゃあまた」
「うん」
湊が教室を出ていく。
その背中を。
陽菜乃はつい目で追ってしまった。
(これでいい)
胸が痛くても。
これで。
「陽菜乃」
美緒が呼ぶ。
「行こう?」
「……うん」
中庭のベンチ。
冬に近づいているとはいえ、日なたは思ったより暖かかった。
「気持ちいいね」
「教室よりいいかも」
莉子がサンドイッチを食べながら言う。
陽菜乃もお弁当を開けた。
今日は鮭のおにぎりと、小さなハンバーグ。
「それうまそう」
声がして顔を上げる。
「柊真くん?」
少し離れたところに柊真が立っていた。
「水野も食べる?」
莉子が誘う。
「いいの?」
「いいよ!」
柊真も隣のベンチへ座る。
手には購買の焼きそばパン。
「またパンだけ?」
陽菜乃が聞く。
「今日は二個」
「そういう問題じゃないよ」
「母親二号」
「二号って何?」
「一号はうちの母親」
「もう」
陽菜乃が笑う。
その時。
ふと。
校舎二階の窓が目に入った。
五組。
湊が窓際に立っている。
「……」
目が合った。
陽菜乃の笑顔が少しだけ止まる。
湊は。
こちらを見たあと。
すぐに教室の奥へ戻っていった。
胸が少し痛い。
「陽菜乃」
「え?」
柊真が見ている。
「食わないの?」
「あ……食べる」
陽菜乃はおにぎりを手に取った。
湊のことを考えないように。
目の前の友達の話へ耳を傾けた。
その日の放課後。
ダンス部の練習は、いつもより遅くまで続いた。
体育館を出る頃には、校舎の外はすっかり暗くなっていた。
「寒い……」
陽菜乃はコートの前を閉じる。
美緒は今日は用事があり、先に帰っている。
一人で帰ろう。
そう思って昇降口へ向かった。
「陽菜乃」
「え?」
壁にもたれていた柊真が体を起こした。
「柊真くん、まだいたの?」
「委員会」
「こんな時間まで?」
「今終わった」
柊真が外を見る。
「一人?」
「うん」
「送る」
「え?」
「駅まで」
「大丈夫だよ」
「暗いだろ」
「でも……」
「俺もちょうど駅行くから」
本当かどうか分からなかった。
でも。
無理に恩を着せるような言い方ではない。
「……じゃあ、お願いしてもいい?」
「ああ」
二人で昇降口を出る。
夜の校庭は、昼間とはまるで違った。
照明がついているサッカー部のグラウンドだけが、明るく浮かんでいる。
「まだ練習してるんだ」
陽菜乃は思わず見る。
湊がいた。
走っている。
その近くには美羽。
陽菜乃はすぐ視線を前へ戻した。
「行こう」
「……ああ」
柊真も何も言わなかった。
駅までの道。
冬の風が強くなっていた。
「さむ……」
陽菜乃が小さくつぶやく。
「手袋は?」
「忘れた」
「お前ほんと忘れ物多いな」
「今日は持ってくるつもりだったの」
「結果忘れてるじゃん」
「……そうだけど」
陽菜乃は両手をコートの袖に隠した。
少しすると。
柊真が自分のポケットから小さなカイロを出した。
「ほら」
「え?」
「使え」
「柊真くんのじゃないの?」
「予備」
「また予備?」
「俺、陽菜乃と違って準備いいから」
「自慢しなくてもいいでしょう?」
そう言いながら受け取る。
手のひらが、じんわり温かくなる。
「……あったかい」
「よかったな」
柊真は前を向いたまま歩いている。
その横顔を。
陽菜乃は少しだけ見つめた。
最近。
苦しい時。
柊真がそばにいることが増えた。
無理に聞かない。
でも、困っていたらちゃんと気づいてくれる。
「柊真くん」
「ん?」
「いつもありがとう」
「またそれ?」
「だって」
陽菜乃はカイロを両手で包んだ。
「柊真くんといると、安心する」
口から出た瞬間。
柊真の足がほんの少し遅くなった。
「……陽菜乃」
「なに?」
「そういうの」
「?」
「いや」
柊真は顔をそらした。
「何でもねえ」
「最近みんな、何でもないって言いすぎだよ」
「じゃあ陽菜乃も言うなよ」
「私?」
「『何もない』って言ってるだろ」
言われて。
陽菜乃は何も答えられなかった。
確かに。
湊にも。
美緒にも。
何度も、
『何もない』
と言っている。
「……あるけど」
「うん」
「まだちゃんと言えない」
「じゃあ言えるまでいい」
柊真はそれだけだった。
聞かない。
責めない。
その優しさが、胸にしみた。
「……ありがとう」
「また言った」
二人で少しだけ笑った。
◇
同じ頃。
サッカー部の練習を終えた湊は、校門の前でスマホを見ていた。
『今日一緒に帰れる?』
夕方、陽菜乃へ送ったメッセージ。
返事は。
『ごめんね。今日は先に帰るね』
だった。
「……先にって」
グラウンドから出る時。
見えた。
柊真と一緒に歩いていく陽菜乃。
先に帰る。
自分とは。
水野とは一緒。
胸の奥が、ひどく落ち着かない。
「湊」
悠人が隣へ来た。
「最近、陽菜乃ちゃんと喧嘩した?」
「してない」
「じゃあ何?」
「知らない」
「朝も別々なんだろ?」
「……うん」
「昼も?」
「最近来ない」
「帰りも水野?」
湊が悠人を見る。
「なんで知ってんの」
「さっき見えた」
悠人が少しだけ呆れた顔をする。
「お前さ」
「何」
「陽菜乃ちゃんに避けられてるんじゃね?」
「……」
「心当たりないの?」
湊は答えられなかった。
少し前。
陽菜乃は言っていた。
『湊には、美羽ちゃんがいるでしょう?』
その言葉を、ちゃんと考えたことがなかった。
「美羽……?」
小さくつぶやく。
悠人が眉を上げる。
「何?」
「いや」
胸の中に。
初めて、小さな疑問が生まれた。
陽菜乃が離れ始めたことと。
美羽。
本当に。
何も関係がないのだろうか。
その夜。
陽菜乃はベッドの上でスマホを見ていた。
何気なくSNSを開く。
そして。
美羽の新しい投稿に目が止まった。
写真には。
二つの温かい飲み物。
テーブルの向こうには、男子の手だけが少し写っている。
見覚えのある腕時計。
(……湊)
すぐに分かった。
文章には。
『寒い日の部活帰り。
好きなものが同じって、ちょっと嬉しい』
名前はない。
湊だとも書いていない。
でも。
陽菜乃には分かってしまった。
コメント欄。
『また成瀬くん?』
『ほんと仲良しだね♡』
『もう付き合ってるって言って!』
美羽からの返信はない。
否定もしていない。
「……やっぱり」
陽菜乃はスマホを伏せた。
胸が痛い。
でも。
少し前とは違った。
涙は出なかった。
今日の帰り道。
『陽菜乃といると――』
いや。
柊真はそんなことは言っていない。
陽菜乃が、
『柊真くんといると安心する』
と言ったのだ。
その時の柊真の表情を思い出す。
少し困ったような。
少し照れたような顔。
「……柊真くん」
なぜだろう。
美羽と湊の写真を見たあとなのに。
最後に思い出したのは、柊真だった。
陽菜乃は枕を抱きしめる。
湊を好きな気持ちは。
まだ消えていない。
きっと、簡単には消えない。
でも。
苦しい時に思い浮かべる人が。
少しずつ。
変わり始めている。
そのことに。
陽菜乃自身は、まだはっきりとは気づいていなかった。

