ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 十一月も終わりに近づいた朝。

 窓の外は、まだ少し白くかすんでいた。

 陽菜乃は制服のブレザーに腕を通すと、机の引き出しをそっと開けた。

 奥には、青い包装紙に包まれた細長い箱が入っている。

 湊の誕生日に渡すはずだった、スポーツタオル。

 十一月十四日は、もうとっくに過ぎている。

「……」

 陽菜乃は箱に指を伸ばしかけて、やめた。

 結局、あの日から渡せないままだった。

 次の日なら。

 その次の日なら。

 そう思っているうちに、日にちだけが過ぎてしまった。

 今さら渡したら、変に思われるかもしれない。

 それに――。

 脳裏に浮かぶ。

 美羽からプレゼントを受け取っていた湊。

 サッカー部で楽しそうに話していた二人。

 学校でも何度も耳にした、付き合っているという噂。

「……もう、いいよね」

 誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやいた。

 自分が湊を好きだからといって。

 いつまでも隣にいていいとは限らない。

 美羽が本当に湊を好きなら。

 そして湊も、美羽といることを嫌がっていないなら。

 幼馴染だからという理由で、自分だけが特別な位置にい続けるのは違う気がした。

「陽菜乃ー! もう七時四十五分よ!」

 一階から母の声。

「はーい!」

 陽菜乃は引き出しを閉めた。

 今日は。

 湊が迎えに来るより先に、学校へ行こう。


 外へ出ると、冬の近づいた空気が頬に触れた。

「さむ……」

 陽菜乃はマフラーへ顔を半分うずめる。

 いつもの門の前。

 いつもなら、ここに湊がいる。

『遅い』

 と言いながら待っている。

 でも今日はまだ誰もいない。

(今なら行ける)

 陽菜乃は歩き出した。

 一人で通学路を歩くのは、久しぶりだった。

 家が隣だから。

 小さい頃から、ほとんど毎朝一緒だった。

 小学校の黄色い帽子をかぶっていた頃も。

 中学校の少し大きすぎる制服を着ていた頃も。

 高校生になってからも。

 いつも横には湊がいた。

「……静か」

 思わずつぶやく。

 一人だと、足音がよく聞こえる。

 ローファーが地面を踏む音。

 遠くを走る車。

 通学途中の生徒たちの声。

 たった一人で歩いているだけなのに、道まで違って見えた。

 スマホが震えた。

「……」

 画面を見る。

 湊だった。

『もう家出た?』

 陽菜乃の指が止まる。

 少し迷ってから、

『うん。今日は先に行ってるね』

 と返した。

 すぐに既読。

『なんで?』

 胸がちくっとする。

(なんて返そう)

『たまには一人で行こうと思って』

 送る。

『俺、今家の前なんだけど』

「……ごめん」

 小さく声に出してしまった。

『ごめんね。明日からも先に行くかも』

 送信。

 今度は少しだけ間があった。

『何かあった?』

 陽菜乃は歩く足を止めた。

 何かあった。

 本当はそう。

 でも。

 言えない。

『何もないよ』

 また同じ言葉を使ってしまった。

 しばらくして。

『そっか』

 それだけ返ってきた。

 陽菜乃はスマホを制服のポケットへしまった。

 胸の奥が少し重い。

(これでいいの)

 もう、湊に頼りすぎない。

 一人で学校へ行ける。

 一人で帰れる。

 困ったことがあっても、すぐ湊を呼ばない。

 そうしなければ。

 いつまでたっても、自分は湊から離れられない。


「陽菜乃、おはよ……って、今日一人?」

 教室へ入った瞬間、美緒が目を丸くした。

「おはよう」

「成瀬くんは?」

「今日は別」

「喧嘩した?」

「してないよ」

「じゃあなんで?」

 陽菜乃は鞄を机の横へかけながら、小さく笑った。

「これからは一人で来ようかなって」

「……急だね」

「もう高校二年生だし」

「高校二年生でも幼馴染と登校する人はすると思うけど」

「そうだけど」

 陽菜乃は教科書を机へ入れる。

「ずっと湊に頼るの、やめようかなって」

「それ、もしかして美羽ちゃんのこと?」

 美緒はすぐに気づいた。

 陽菜乃は答えず、筆箱を取り出す。

「やっぱり」

「……だって」

 陽菜乃は小さく声を落とした。

「もし美羽ちゃんが湊の彼女だったら、嫌だと思う」

「だからまだ付き合ってるって決まってないでしょ」

「でも……」

 言いかけた時。

「おはよ」

 低い声が横からした。

 柊真が教室へ入ってきた。

「柊真くん、おはよう」

「ん」

 陽菜乃の机の横まで来た柊真が、じっと顔を見る。

「何?」

「今日早いな」

「そう?」

「いつもギリギリじゃん」

「今日は一人で来たから」

 何気なく答えると、柊真の眉が少し上がった。

「成瀬は?」

「別々」

「へえ」

 それだけ言って、自分の席へ向かおうとする。

 でも、途中で止まった。

「陽菜乃」

「なに?」

「無理してねえ?」

 陽菜乃は一瞬、答えられなかった。

「……してないよ」

「ならいいけど」

 柊真はそれ以上聞かなかった。

 その優しさが。

 今は少しだけ、ありがたかった。


 三時間目。

 数学の授業が始まる直前。

 陽菜乃は鞄の中を探していた。

「……ない」

 もう一度。

 教科書。

 ノート。

 ファイル。

「ない……」

「何が?」

 隣の席から柊真が聞く。

「定規」

「定規?」

「今日使うって先生言ってたのに……」

「忘れた?」

「たぶん……」

 いつもなら。

 真っ先に思い浮かぶのは湊だった。

 湊は筆箱の中に、いつも定規を二本入れている。

 一年生の時も、

『忘れた』

 と言えば、

『また?』

 と言いながら貸してくれた。

(……でも)

 今日は行かない。

 五組まで借りに行けば、また同じだ。

 何かあるたび湊に頼る自分のまま。

「これ使え」

「え?」

 目の前に透明な定規が置かれた。

 柊真。

「でも柊真くんは?」

「もう一本ある」

「……ほんと?」

「疑うなよ」

 筆箱から黒い定規をもう一本取り出して見せる。

「ありがとう」

「うん」

 陽菜乃は透明な定規を受け取った。

 授業が始まる。

 ノートへ線を引きながら。

 陽菜乃は少し不思議な気持ちになった。

 湊じゃなくても。

 助けてくれる人はいる。

 そんな当たり前のことを、今まであまり考えたことがなかった。


 昼休み。

「今日、外で食べない?」

 莉子が言った。

「中庭?」

「うん。日当たりいいし」

「行こう!」

 美緒も賛成する。

 陽菜乃はお弁当を持って立ち上がった。

 すると。

「陽菜乃」

 教室の入り口から声がした。

 反射的に振り返る。

 湊。

「……湊」

 朝は一緒に来なかった。

 だから。

 今日初めて顔を合わせた。

「昼、食べる?」

「え?」

「俺、パン買ってきたから」

 今までなら、

「うん!」

 とすぐ答えていた。

 でも今日は。

 手元にはお弁当。

 目の前には美緒と莉子。

「ごめん」

 陽菜乃は小さく笑った。

「今日はみんなで中庭行く約束したの」

 湊の表情が少しだけ止まる。

「……そっか」

「うん」

「じゃあまた」

「うん」

 湊が教室を出ていく。

 その背中を。

 陽菜乃はつい目で追ってしまった。

(これでいい)

 胸が痛くても。

 これで。

「陽菜乃」

 美緒が呼ぶ。

「行こう?」

「……うん」

 中庭のベンチ。

 冬に近づいているとはいえ、日なたは思ったより暖かかった。

「気持ちいいね」

「教室よりいいかも」

 莉子がサンドイッチを食べながら言う。

 陽菜乃もお弁当を開けた。

 今日は鮭のおにぎりと、小さなハンバーグ。

「それうまそう」

 声がして顔を上げる。

「柊真くん?」

 少し離れたところに柊真が立っていた。

「水野も食べる?」

 莉子が誘う。

「いいの?」

「いいよ!」

 柊真も隣のベンチへ座る。

 手には購買の焼きそばパン。

「またパンだけ?」

 陽菜乃が聞く。

「今日は二個」

「そういう問題じゃないよ」

「母親二号」

「二号って何?」

「一号はうちの母親」

「もう」

 陽菜乃が笑う。

 その時。

 ふと。

 校舎二階の窓が目に入った。

 五組。

 湊が窓際に立っている。

「……」

 目が合った。

 陽菜乃の笑顔が少しだけ止まる。

 湊は。

 こちらを見たあと。

 すぐに教室の奥へ戻っていった。

 胸が少し痛い。

「陽菜乃」

「え?」

 柊真が見ている。

「食わないの?」

「あ……食べる」

 陽菜乃はおにぎりを手に取った。

 湊のことを考えないように。

 目の前の友達の話へ耳を傾けた。


 その日の放課後。

 ダンス部の練習は、いつもより遅くまで続いた。

 体育館を出る頃には、校舎の外はすっかり暗くなっていた。

「寒い……」

 陽菜乃はコートの前を閉じる。

 美緒は今日は用事があり、先に帰っている。

 一人で帰ろう。

 そう思って昇降口へ向かった。

「陽菜乃」

「え?」

 壁にもたれていた柊真が体を起こした。

「柊真くん、まだいたの?」

「委員会」

「こんな時間まで?」

「今終わった」

 柊真が外を見る。

「一人?」

「うん」

「送る」

「え?」

「駅まで」

「大丈夫だよ」

「暗いだろ」

「でも……」

「俺もちょうど駅行くから」

 本当かどうか分からなかった。

 でも。

 無理に恩を着せるような言い方ではない。

「……じゃあ、お願いしてもいい?」

「ああ」

 二人で昇降口を出る。

 夜の校庭は、昼間とはまるで違った。

 照明がついているサッカー部のグラウンドだけが、明るく浮かんでいる。

「まだ練習してるんだ」

 陽菜乃は思わず見る。

 湊がいた。

 走っている。

 その近くには美羽。

 陽菜乃はすぐ視線を前へ戻した。

「行こう」

「……ああ」

 柊真も何も言わなかった。


 駅までの道。

 冬の風が強くなっていた。

「さむ……」

 陽菜乃が小さくつぶやく。

「手袋は?」

「忘れた」

「お前ほんと忘れ物多いな」

「今日は持ってくるつもりだったの」

「結果忘れてるじゃん」

「……そうだけど」

 陽菜乃は両手をコートの袖に隠した。

 少しすると。

 柊真が自分のポケットから小さなカイロを出した。

「ほら」

「え?」

「使え」

「柊真くんのじゃないの?」

「予備」

「また予備?」

「俺、陽菜乃と違って準備いいから」

「自慢しなくてもいいでしょう?」

 そう言いながら受け取る。

 手のひらが、じんわり温かくなる。

「……あったかい」

「よかったな」

 柊真は前を向いたまま歩いている。

 その横顔を。

 陽菜乃は少しだけ見つめた。

 最近。

 苦しい時。

 柊真がそばにいることが増えた。

 無理に聞かない。

 でも、困っていたらちゃんと気づいてくれる。

「柊真くん」

「ん?」

「いつもありがとう」

「またそれ?」

「だって」

 陽菜乃はカイロを両手で包んだ。

「柊真くんといると、安心する」

 口から出た瞬間。

 柊真の足がほんの少し遅くなった。

「……陽菜乃」

「なに?」

「そういうの」

「?」

「いや」

 柊真は顔をそらした。

「何でもねえ」

「最近みんな、何でもないって言いすぎだよ」

「じゃあ陽菜乃も言うなよ」

「私?」

「『何もない』って言ってるだろ」

 言われて。

 陽菜乃は何も答えられなかった。

 確かに。

 湊にも。

 美緒にも。

 何度も、

『何もない』

 と言っている。

「……あるけど」

「うん」

「まだちゃんと言えない」

「じゃあ言えるまでいい」

 柊真はそれだけだった。

 聞かない。

 責めない。

 その優しさが、胸にしみた。

「……ありがとう」

「また言った」

 二人で少しだけ笑った。

     ◇

 同じ頃。

 サッカー部の練習を終えた湊は、校門の前でスマホを見ていた。

『今日一緒に帰れる?』

 夕方、陽菜乃へ送ったメッセージ。

 返事は。

『ごめんね。今日は先に帰るね』

 だった。

「……先にって」

 グラウンドから出る時。

 見えた。

 柊真と一緒に歩いていく陽菜乃。

 先に帰る。

 自分とは。

 水野とは一緒。

 胸の奥が、ひどく落ち着かない。

「湊」

 悠人が隣へ来た。

「最近、陽菜乃ちゃんと喧嘩した?」

「してない」

「じゃあ何?」

「知らない」

「朝も別々なんだろ?」

「……うん」

「昼も?」

「最近来ない」

「帰りも水野?」

 湊が悠人を見る。

「なんで知ってんの」

「さっき見えた」

 悠人が少しだけ呆れた顔をする。

「お前さ」

「何」

「陽菜乃ちゃんに避けられてるんじゃね?」

「……」

「心当たりないの?」

 湊は答えられなかった。

 少し前。

 陽菜乃は言っていた。

『湊には、美羽ちゃんがいるでしょう?』

 その言葉を、ちゃんと考えたことがなかった。

「美羽……?」

 小さくつぶやく。

 悠人が眉を上げる。

「何?」

「いや」

 胸の中に。

 初めて、小さな疑問が生まれた。

 陽菜乃が離れ始めたことと。

 美羽。

 本当に。

 何も関係がないのだろうか。


 その夜。

 陽菜乃はベッドの上でスマホを見ていた。

 何気なくSNSを開く。

 そして。

 美羽の新しい投稿に目が止まった。

 写真には。

 二つの温かい飲み物。

 テーブルの向こうには、男子の手だけが少し写っている。

 見覚えのある腕時計。

(……湊)

 すぐに分かった。

 文章には。

『寒い日の部活帰り。
 好きなものが同じって、ちょっと嬉しい』

 名前はない。

 湊だとも書いていない。

 でも。

 陽菜乃には分かってしまった。

 コメント欄。

『また成瀬くん?』

『ほんと仲良しだね♡』

『もう付き合ってるって言って!』

 美羽からの返信はない。

 否定もしていない。

「……やっぱり」

 陽菜乃はスマホを伏せた。

 胸が痛い。

 でも。

 少し前とは違った。

 涙は出なかった。

 今日の帰り道。

『陽菜乃といると――』

 いや。

 柊真はそんなことは言っていない。

 陽菜乃が、

『柊真くんといると安心する』

 と言ったのだ。

 その時の柊真の表情を思い出す。

 少し困ったような。

 少し照れたような顔。

「……柊真くん」

 なぜだろう。

 美羽と湊の写真を見たあとなのに。

 最後に思い出したのは、柊真だった。

 陽菜乃は枕を抱きしめる。

 湊を好きな気持ちは。

 まだ消えていない。

 きっと、簡単には消えない。

 でも。

 苦しい時に思い浮かべる人が。

 少しずつ。

 変わり始めている。

 そのことに。

 陽菜乃自身は、まだはっきりとは気づいていなかった。