ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 十一月十四日。

 朝から空はきれいに晴れていた。

 冷たい風が住宅街を抜け、道の端に落ちた黄色い葉をさらさらと動かしている。

 陽菜乃は玄関の鏡の前でマフラーを巻き直しながら、何度も自分の鞄を気にしていた。

「……ちゃんと入ってる」

 小さく確認する。

 鞄の奥には、青い包装紙で包んだ細長い箱が入っている。

 今日は湊の十七歳の誕生日。

 毎年、陽菜乃は必ずプレゼントを渡してきた。

 小学生の頃は文房具。

 中学生になってからはタオルやスポーツ用品。

 去年は、サッカー部で使える小さなボトルケースを選んだ。

 そして今年は――。

 先月、湊と駅前のスポーツショップへ寄った時のこと。

『これ、いいな』

 湊が何気なく手に取ったスポーツタオルがあった。

 黒を基調にしたシンプルなデザイン。

 その時は買わなかったけれど、陽菜乃はちゃんと覚えていた。

 何日も迷った末に、同じものを探して買った。

(喜んでくれるかな)

 想像するだけで少し緊張する。

 この前。

 自分の誕生日には、湊が白い花の髪飾りをくれた。

 今も机の上の大切な場所に置いている。

 今日は自分の番。

「陽菜乃ー。湊くん来てるわよ!」

 一階から母の声。

「今行く!」

 陽菜乃は鞄を持ち、急いで階段を下りた。


「おはよう」

 門の前に湊が立っていた。

 紺色のマフラーを巻き、片手を制服のポケットに入れている。

「おはよう」

 陽菜乃はいつも通り隣に並んだ。

 でも。

 今日はどうしても湊の横顔を意識してしまう。

(今言う?)

 誕生日おめでとう。

 たったそれだけなのに。

 なぜか言うタイミングを逃している。

「陽菜乃」

「えっ」

「何?」

「な、何が?」

「さっきからこっち見てる」

「見てないよ」

「見てた」

「気のせい」

「絶対見てた」

 湊が少し笑う。

 陽菜乃は顔を前に向けた。

(言わなきゃ)

 去年までは普通に言えていた。

 どうして今年だけ、こんなに緊張するのだろう。

 理由は分かっている。

 前よりも、湊を「男の子」として意識するようになったから。

 体育祭。

 花火大会。

 文化祭。

 自分の誕生日。

 いろいろな出来事があって。

 そのたびに、好きだという気持ちが大きくなった。

「湊」

「ん?」

「今日……」

 そこで前方から声が飛んできた。

「湊ー!」

「あ」

 サッカー部の悠人だった。

「誕生日おめでとう!」

 大きな声。

「ありがとう」

 湊が笑う。

 陽菜乃は言おうとしていた言葉を飲み込んだ。

「朝からでかい声出すなよ」

「いいだろ、誕生日なんだから」

 悠人が湊の肩をたたく。

「今年も一つ大人になったなー」

「一つしか変わらないだろ」

「で、陽菜乃ちゃんからは?」

「え?」

 突然、自分へ話が向く。

 陽菜乃は慌てた。

「な、何が?」

「誕生日プレゼント」

「悠人!」

 湊が止める。

「いいじゃん。幼馴染なら毎年なんかあげてるんだろ?」

「それは……」

 陽菜乃の顔が熱くなる。

「まだ」

「まだ?」

「学校で渡すから!」

 思わず言ってしまった。

 湊が陽菜乃を見る。

「あるんだ」

「……あるよ」

「そっか」

 湊の口元が少しだけゆるんだ。

 それだけで、陽菜乃まで嬉しくなる。

「後でね」

「うん」

 今度こそ、ちゃんと渡そう。

 そう思った。


 昼休み。

 陽菜乃は、朝から何度目か分からないくらい鞄の中を確認していた。

「陽菜乃、まだ渡してないの?」

 美緒が呆れたように聞く。

「うん……」

「朝一緒だったんでしょ?」

「悠人くんが来ちゃって」

「じゃあ休み時間は?」

「湊、クラス違うし……」

「そこまで行けばいいじゃん」

「でも今日はみんなに囲まれてそうで」

「もう」

 美緒が笑う。

「プレゼント渡すだけなのに、告白するみたい」

「そ、そんなことないよ!」

「顔赤いよ」

「美緒ちゃん!」

 陽菜乃はマフラーに顔を半分隠したくなる。

 その時だった。

 廊下の向こうから、女子たちの楽しそうな声が聞こえてきた。

「すごーい!」

「それ一ノ瀬さんが作ったの?」

「かわいい!」

 なんとなく気になり、陽菜乃は教室の扉から廊下を見る。

 五組の前。

 そこに、美羽がいた。

 手には大きな紙袋。

 その周りを女子たちが囲んでいる。

「美羽ちゃん……」

「何してるんだろ」

 美緒も隣から見る。

 すると。

 教室の中から湊が出てきた。

「呼んだ?」

「湊くん!」

 美羽の表情がぱっと明るくなる。

「お誕生日おめでとう!」

 陽菜乃の胸が小さく跳ねた。

 美羽は大きな袋を湊へ差し出した。

「これ、プレゼント」

「え、俺に?」

「当たり前でしょ。今日誕生日じゃん」

「ありがと」

 湊が受け取る。

 周りの女子たちがすぐに盛り上がった。

「大きい!」

「何入ってるの?」

「開けてみて!」

 湊が少し困りながら袋を開ける。

 中から出てきたのは、サッカー用品のブランドの手袋だった。

「これ……」

「冬の練習、寒いでしょ?」

 美羽が笑う。

「湊くん、この前手冷たいって言ってたから」

「覚えてたんだ」

「当然」

 胸の奥がちくっとした。

(美羽ちゃんも、湊が欲しいものを知ってるんだ)

 自分だけではない。

 そんな当たり前のことが、今さら寂しい。

 さらに美羽は、小さな箱をもう一つ取り出した。

「あと、これも」

「まだあるの?」

「クッキー作ったの」

「手作り!?」

 周りがさらに騒ぐ。

「それ絶対本命じゃん!」

「もう彼女じゃん!」

 陽菜乃の指が、鞄の持ち手をぎゅっと握った。

 美羽は、

「もう、違うって!」

 と言いながら笑っている。

 でも。

 強く否定するわけではない。

 湊は困ったように、

「みんなうるさい」

 と笑っていた。

(……嬉しそう)

 そう見えた。

 陽菜乃は自分の鞄を見る。

 中にあるのは、小さなタオル。

 美羽の大きなプレゼントに比べたら、なんだかとても地味に思える。

「陽菜乃」

 美緒が呼ぶ。

「行こう?」

「……いい」

「どうして?」

「今は」

 陽菜乃は小さく笑った。

「美羽ちゃんのお祝いの邪魔しちゃ悪いから」

「邪魔じゃないでしょ」

「でも……」

 自分が行ったところで。

 何を言えばいいのだろう。

『私もプレゼントあるよ』

 そう言って。

 美羽の手袋や手作りクッキーの隣に、自分の小さなタオルを置く。

 想像しただけで恥ずかしくなる。

「後で渡す」

 陽菜乃は教室へ戻った。

 でも胸の奥では。

 その「後で」が来ないような気がしていた。


 午後の授業が終わる。

 チャイムが鳴った途端、教室は一気ににぎやかになった。

「陽菜乃、部活行こう!」

「うん」

 美緒に呼ばれ、陽菜乃は鞄を持つ。

 中のプレゼントは、まだそのまま。

「ほんとに渡さないの?」

「……部活終わってから」

「成瀬くん待ってるんじゃない?」

「今日はサッカー部あるし」

「じゃあ終わったら」

「うん」

 そう言いながらも、陽菜乃は自信がなかった。


 ダンス部の練習は、いつもより長く感じた。

「陽菜乃、次のターン遅れてる!」

「はい!」

 集中しようとしても。

 頭の中に美羽と湊が浮かんでくる。

「もう一回!」

 音楽が流れる。

 陽菜乃は大きく腕を伸ばした。

 踊っている間だけは、少し気持ちが楽になる。

 でも音が止まると。

 また胸の奥がもやもやする。

「今日はここまで!」

「ありがとうございました!」

 時計を見る。

 午後六時を過ぎていた。

「陽菜乃、帰る?」

「うん」

 美緒と一緒に体育館を出る。

 空はもう暗くなり始めている。

 校庭の照明がつき、遠くではまだサッカー部が練習していた。

「まだやってるね」

「……うん」

「待ってる?」

 陽菜乃は迷った。

 プレゼントは鞄の中。

 今日渡さなければ、誕生日が終わってしまう。

「少しだけ」

 そう答えた。


 十分。

 二十分。

 昇降口近くのベンチに座って、陽菜乃は待った。

 だんだん寒くなってくる。

 手に息を吹きかける。

(もう少しかな)

 グラウンドを見る。

 ようやく練習が終わったようだ。

 選手たちが片づけを始めている。

 陽菜乃は立ち上がった。

 その時。

「湊くん」

 聞き慣れた女子の声。

 美羽が湊のところへ歩いていった。

「これ、片づけ終わったら一緒に駅まで帰らない?」

「ああ」

 自然な返事。

「今日くらい誕生日の人に荷物持たせないであげる」

「俺の荷物だけど」

「いいから」

 二人が笑う。

 陽菜乃の足が止まった。

 今日。

 美羽は朝から湊を祝って。

 プレゼントを渡して。

 手作りのお菓子まで作って。

 最後は一緒に帰る。

(……私が入る場所、ないよね)

 そう思ってしまった。

 陽菜乃は鞄の上から、プレゼントの箱に触れた。

「陽菜乃?」

 後ろから声がした。

 振り向く。

 柊真だった。

「柊真くん」

「何してんの?」

「湊を待ってたの」

「誕生日だから?」

「……うん」

 柊真の視線がグラウンドへ向く。

 湊と美羽。

 何か察したようだった。

「渡せば?」

「え?」

「プレゼント」

「どうして知ってるの?」

「朝から鞄気にしてたし」

「……分かりやすい?」

「かなり」

 陽菜乃は困ったように笑う。

「でも、今日はいいかな」

「なんで」

「美羽ちゃんと帰るみたいだし」

「だから?」

「邪魔したくない」

 柊真の眉が少し寄る。

「またそれ?」

「え?」

「陽菜乃、あの女がいるとすぐ『邪魔だから』って引くだろ」

「だって……」

「成瀬がそう言ったの?」

「言ってない」

「じゃあ勝手に決めんなよ」

 少し強い言い方だった。

 陽菜乃は驚いて柊真を見る。

「ごめん」

「……俺に謝んな」

 柊真は頭をかいた。

「悪い。言い方きつかった」

「ううん」

「ただ」

 柊真は陽菜乃の鞄を見る。

「せっかく選んだんだろ」

「……うん」

「だったら渡したほうがいい」

 分かっている。

 でも。

「勇気出ない」

「陽菜乃」

「美羽ちゃんのプレゼント、すごかったの」

「プレゼントにすごいとかある?」

「あるよ」

「ねえよ」

 柊真はすぐに言った。

「欲しいもの覚えて選んだんだろ?」

 陽菜乃が顔を上げる。

「……うん」

「じゃあ、それでいいじゃん」

 その言葉に、少しだけ胸が温かくなる。

 でも。

 グラウンドでは、湊と美羽がこちらへ歩き始めていた。

 陽菜乃は反射的に一歩下がった。

「陽菜乃?」

「……帰る」

「え?」

「今日は無理」

 柊真が何か言おうとする。

 でも陽菜乃は、

「また明日!」

 と笑って、校門へ向かった。


「陽菜乃?」

 サッカー部の片づけを終えた湊が昇降口へ来た時。

 遠くに見えた後ろ姿。

 間違えようがない。

「今、陽菜乃いたよな?」

「いたね」

 美羽が答える。

 湊は辺りを見る。

 柊真が一人、校門近くに立っていた。

「水野」

 湊が近づく。

「陽菜乃、何してた?」

 柊真は湊を見る。

「本人に聞けば?」

「は?」

「ずっと待ってた」

 湊の表情が変わる。

「俺を?」

「たぶん」

「……なんで帰った?」

 柊真は一瞬、美羽を見る。

 それだけで。

 湊にも少し分かった。

「美羽?」

「知らねえ」

 柊真は肩をすくめる。

「でもさ」

「何?」

「お前も、もうちょい分かってやったら?」

「何を?」

「それが分かってないから言ってんだよ」

 柊真はそのまま帰っていった。

「なんだよ……」

 湊は陽菜乃が消えた方向を見る。

 今日。

 朝、悠人から聞いた。

『陽菜乃ちゃん、プレゼントあるって言ってたぞ』

 だから。

 ずっと少し楽しみにしていた。

 昼休みも。

 放課後も。

 陽菜乃が来るのをどこかで待っていた。

 でも結局。

 何もなかった。

(……渡すのやめた?)

 胸の奥に、寂しさが広がる。

 自分の誕生日なんて。

 陽菜乃にとって、もう昔ほど特別ではないのかもしれない。


 家へ帰った陽菜乃は、制服のまま自分の部屋へ入った。

 鞄を机の上へ置く。

 そして。

 奥から青い包みを取り出した。

「……渡せなかった」

 何時間も鞄の中に入っていたプレゼント。

 包装紙が少しだけ曲がっている。

 陽菜乃は椅子に座り、箱を両手で持った。

 本当は。

『誕生日おめでとう』

 って笑いたかった。

『これ、湊が前に欲しいって言ってたでしょう?』

 って渡したかった。

 でも。

 美羽の隣にいる湊を見たら。

 自分のプレゼントが急に子どもっぽく思えてしまった。

「……明日でもいいかな」

 一日遅れ。

 それでも渡さないよりはいい。

 そう思う。

 その時。

 スマホが光った。

 湊から。

『今日、何か用事あった?』

 陽菜乃の指が止まる。

 どう返そう。

『プレゼント渡したかった』

 本当のことを入力する。

 でも。

 送信ボタンを押せない。

 文字を全部消す。

『ううん。なんでもないよ』

 送る。

 すぐに既読がつく。

 でも返事はなかなか来なかった。

 数分後。

『そっか』

 たったそれだけ。

 陽菜乃の胸が、ちくりと痛んだ。


 隣の家。

 湊はベッドの上でスマホを見ていた。

『ううん。なんでもないよ』

 その文字。

「……なんでもない、か」

 小さくつぶやく。

 朝。

 陽菜乃はプレゼントがあると言っていた。

 なのに。

 何もくれなかった。

(誰か別のやつに渡したとか?)

 そんなはずはない。

 自分の誕生日なのだから。

 でも。

 最近の陽菜乃は、柊真といることが多い。

 文化祭でも。

 昼休みでも。

 放課後でも。

「……俺が勝手に期待しただけか」

 湊はスマホを枕元へ置いた。

 部屋の机には、今日もらったプレゼントが並んでいる。

 サッカー部の仲間。

 クラスメイト。

 美羽。

 たくさんの人に祝ってもらった。

 なのに。

 一番気になっているのは。

 もらえなかった一つだった。

 翌朝。

 陽菜乃は少し早く家を出た。

 鞄には、昨日渡せなかったプレゼント。

(今日は絶対渡す)

 そう決めていた。

 門を出る。

 いつもなら、そこに湊がいる。

 でも今日は誰もいなかった。

「……あれ?」

 スマホを見る。

 メッセージが一件。

『今日、悠人と先行く』

 陽菜乃はしばらく画面を見つめた。

「そっか……」

 胸が少し寂しくなる。

 昨日。

 なんでもないなんて言わなければよかったのかもしれない。

 でも今さら戻れない。

 陽菜乃はマフラーを巻き直して、一人で歩き始めた。

 鞄の中には。

 まだ渡せないままの誕生日プレゼント。

 そして。

 その朝。

 初めて。

 陽菜乃は、

 いつも隣にいてくれることは、当たり前じゃない

 ということを、はっきり感じていた。