ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 十月の終わり。

 朝の空気は、少しだけ冷たくなっていた。

 ついこの前まで半袖でも暑かったのに、今では登校する生徒のほとんどがブレザーを着ている。

 道の端には黄色く色づき始めた葉が落ち、風が吹くたびに、からからと軽い音を立てて転がっていった。

「寒くない?」

 隣を歩く湊が聞いた。

「少しだけ」

 陽菜乃は両手をこすり合わせた。

「手、冷たい」

「手袋すれば?」

「まだ十月だよ」

「陽菜乃、冷え性じゃん」

「でも、もう少し我慢する」

「なんで我慢すんの」

 湊があきれたように笑う。

 いつもの朝。

 いつもの通学路。

 けれど今日の陽菜乃は、少しだけ落ち着かなかった。

 今日は――。

 十月二十八日。

 陽菜乃の十七歳の誕生日だった。

(湊……覚えてるかな)

 気にしないつもりだった。

 もう高校二年生なのだから、幼い頃みたいに朝一番で、

『陽菜乃、誕生日おめでとう!』

 と言ってもらわなくてもいい。

 そう思っている。

 でも。

 家が隣同士だった二人は、昔からお互いの誕生日を誰よりよく知っていた。

 小学生の頃は、湊が朝からプレゼントを持ってきたこともある。

 中学生になってからは学校帰りにアイスを買ってくれた。

 去年だって、

『十六歳おめでとう』

 と言って、小さなペンケースをくれた。

 今も大切に使っている。

「陽菜乃」

「え?」

「信号」

「あっ」

 いつの間にか赤になっていた。

 陽菜乃は慌てて止まる。

 湊が横から顔をのぞき込んだ。

「今日、朝から変じゃない?」

「そう?」

「なんかずっと考えてる」

「……別に」

「また秘密?」

「うん」

 陽菜乃は笑ってごまかした。

 信号が青になる。

 二人で歩き出す。

 湊は何も言わない。

(……やっぱり忘れてる?)

 胸の奥が少しだけ沈んだ。

 でも仕方ない。

 湊だって忙しい。

 サッカー部の大会が近いと言っていたし、美羽も毎日その準備で大変そうだった。

(誕生日くらいで落ち込んだら子どもみたい)

 そう自分に言い聞かせた。

     

 教室の扉を開けた瞬間。

「陽菜乃!」

「えっ?」

 ぱんっ!

 小さなクラッカーの音がした。

 陽菜乃は驚いて肩を揺らす。

「お誕生日おめでとう!」

 美緒と莉子が笑いながら立っていた。

「び、びっくりした……!」

「成功!」

「陽菜乃、十七歳おめでとう!」

「ありがとう……」

 嬉しくなって笑う。

 クラスメイトたちからも、

「小宮山、今日誕生日なんだ!」

「おめでとう!」

 と次々に声をかけられる。

「ありがとう」

 何度も返しているうちに、朝の少し寂しかった気持ちがやわらいでいった。

「はい、これ私たちから」

 美緒から渡されたのは、小さな紙袋。

「開けていい?」

「もちろん」

 中には、かわいいハンドクリームとリップクリームが入っていた。

「わあ……」

「陽菜乃、こういうの好きでしょ?」

「うん。すごくかわいい」

 陽菜乃は胸元で袋を抱える。

「ありがとう。大事に使うね」

「喜んでもらえてよかった!」

 そこへ。

「何朝から騒いでんの」

 聞き慣れた低い声。

「柊真くん」

 柊真が鞄を片手に教室へ入ってきた。

「陽菜乃、今日誕生日なんだって」

 莉子が教える。

「知ってる」

「え?」

 陽菜乃は目を丸くした。

「知ってたの?」

「ああ」

「どうして?」

「前、書類に誕生日書いてただろ」

「書類?」

「体育祭係のやつ」

「……覚えてたの?」

「まあ」

 陽菜乃は少し驚いた。

 自分でも忘れていたようなことなのに。

「で」

 柊真は自分の席へ鞄を置き、小さな箱を取り出した。

「これ」

「……私に?」

「他に誰いんだよ」

 陽菜乃は両手で受け取った。

 白い箱に細いリボンがかかっている。

「開けていい?」

「好きにすれば」

 陽菜乃はそっとリボンを外した。

 中に入っていたのは、小さなキーホルダー。

 白いうさぎが、いちごを抱えている。

「あ……!」

「この前、雑貨屋で見てただろ」

 文化祭の買い出しに行った時。

 陽菜乃が、

『これかわいい』

 と言って手に取ったものだった。

 買おうか迷ったけれど、結局その日は買わなかった。

「覚えててくれたの?」

「たまたま」

「たまたまで買わないよ」

「じゃあ覚えてた」

 柊真が少しだけ笑う。

 陽菜乃の胸が温かくなった。

「ありがとう、柊真くん」

「うん」

「すごく嬉しい」

「……そういう顔すんなって」

「え?」

「何でもねえ」

 柊真が顔をそらす。

 美緒と莉子が顔を見合わせ、また意味ありげに笑っている。

「何?」

「なーんでもない」

「最近みんなそればっかり」

 陽菜乃が困ったように笑った、その時だった。

 教室の入り口に人影が見えた。

 湊。

 胸が跳ねる。

「……湊」

 目が合った。

 湊はいつものようにこちらへ来ようとして――。

 ふと、陽菜乃の手元を見た。

 柊真にもらった白いうさぎのキーホルダー。

 机の上には、誕生日プレゼントの袋。

「朝から楽しそうだな」

「うん。みんながお祝いしてくれたの」

 陽菜乃は嬉しくて、つい笑った。

「見て。これ柊真くんがくれたんだよ」

「……水野が?」

「うん」

「へえ」

 湊はキーホルダーを見る。

「かわいいでしょう?」

「まあ」

「前に欲しいって言ったの覚えててくれたの」

「……そう」

 短い返事。

 陽菜乃は少しだけ首をかしげた。

 湊の様子がおかしい。

 でも。

 それより気になることがあった。

 湊の口から、まだ一度も。

『誕生日おめでとう』

 を聞いていない。

「湊、どうしたの?」

「別に」

「何か用事?」

「ああ……」

 湊は少し迷ったように陽菜乃を見る。

「昼、部活のミーティングあるから」

「うん」

「今日はそっち来れない」

「そっか」

 それだけ?

 陽菜乃は期待してしまった自分が恥ずかしくなり、小さく笑った。

「分かった。頑張ってね」

「……うん」

 湊はまだ何か言いたそうだった。

 でも結局、

「じゃあ」

 と教室を出ていった。

 陽菜乃はその背中を見送る。

 手の中のキーホルダーは、とてもかわいい。

 柊真が覚えていてくれたことも嬉しい。

 みんなに祝ってもらえて、本当に幸せだ。

 それなのに。

 心のほんの小さなところが、寂しかった。

(湊……忘れちゃったんだ)

 十七歳になったからといって。

 誕生日を忘れられても平気なわけがない。


「陽菜乃、これも食べて!」

「もうお腹いっぱいだよ」

「誕生日だから特別!」

 昼休み。

 陽菜乃の机には、友達がおすそ分けしてくれたお菓子がたくさん並んでいた。

「いいなあ、人気者」

 柊真が隣でパンを食べながら言う。

「柊真くんも食べる?」

「誕生日なの陽菜乃だろ」

「私一人じゃ食べきれないよ」

「じゃあ一個」

「はい」

 陽菜乃がチョコレートを差し出す。

 柊真が受け取った。

「そういえば」

 莉子が言った。

「成瀬くんから何もらったの?」

「え?」

 陽菜乃の手が止まる。

「幼馴染なんでしょ? 毎年プレゼントくれそう」

「あー、確かに」

 美緒も反応する。

「今年はまだ?」

「……うん」

「放課後じゃない?」

「そうかな」

 陽菜乃は笑う。

「別にいいの」

「よくない顔してるけど」

 美緒が心配そうに言った。

「本当に大丈夫」

「忘れてるとは思えないけどなあ」

「忙しいんだよ」

 自分でそう言ってみる。

「サッカー部、大会前みたいだし」

 そこへ女子の一人が口を挟んだ。

「そういえばさっき、一ノ瀬さんが成瀬くん探してたよ」

「……美羽ちゃん?」

「うん。放課後ちょっと残ってほしいって言ってた」

 胸がきゅっと縮んだ。

「なんか大会の準備じゃない?」

「そうかも」

 陽菜乃は、なるべく普通に答えた。

 今日は自分の誕生日。

 だけど。

 湊にとっては、普通の一日なのかもしれない。

 美羽とサッカー部の予定のほうが大切なのは当然だ。

(それなのに私、何期待してるんだろう)

 恥ずかしくなる。

「陽菜乃」

 隣から柊真の声。

「なに?」

「放課後、暇?」

「ダンス部あるけど、そのあとなら」

「じゃあジュースおごる」

「どうして?」

「誕生日だから」

「プレゼントもらったのに?」

「別」

「でも……」

「嫌ならいい」

「嫌じゃない!」

 慌てて答えると、柊真が少し笑った。

「じゃあ決まり」

 陽菜乃も小さく笑う。

「ありがとう」

 今日一日。

 柊真の優しさに何度も助けられている。

 そのことが嬉しい。

 でも。

 心の奥ではやっぱり。

 湊に『おめでとう』と言ってほしかった。

 放課後。

 ダンス部の練習を終えた陽菜乃は、校門近くの自動販売機の前で柊真と合流した。

「何飲む?」

「自分で買うよ」

「誕生日なんだから選べ」

「じゃあ……いちごミルク」

「やっぱそれ」

「好きなんだもん」

 柊真がボタンを押す。

 がたん、と缶が落ちる。

「はい」

「ありがとう」

「本日何回目?」

「もう数えられない」

 二人で笑った。

 校門を出て少し歩く。

 夕方の空は薄い紫色に変わり始めていた。

 秋の風が制服のスカートを小さく揺らす。

「寒い?」

 柊真が聞く。

「少しだけ」

「これ着る?」

 自分の上着へ手をかける。

「大丈夫!」

 陽菜乃は慌てて首を横に振った。

「柊真くんが寒くなるよ」

「俺は平気」

「私も平気」

「じゃあ寒いって顔すんな」

「どんな顔?」

「こう」

 柊真が眉を下げた変な顔をする。

「そんな顔してない!」

「似てる」

「全然似てないよ!」

 陽菜乃は声を上げて笑った。

 今日。

 何度笑っただろう。

 楽しい誕生日だった。

 そう思いたい。

 でも。

 駅へ向かう途中。

 グラウンド側の門の前に、人影が見えた。

「あ……」

 湊。

 そして美羽。

 二人で話している。

 美羽が何か紙を見せ、湊が横からのぞき込んでいた。

 距離が近い。

 陽菜乃の足が止まる。

「陽菜乃?」

「……ううん」

 柊真も二人に気づいたようだった。

「行く?」

「いい」

「でも」

「大丈夫」

 陽菜乃は笑った。

「今日はもう帰る」

 誕生日を忘れられたことより。

 その日に別の女の子といる湊を見るほうが、少しだけつらかった。

 家へ帰ったのは、午後七時前。

「ただいま」

「おかえり!」

 リビングから母の明るい声がする。

 テーブルには誕生日用の料理が並んでいた。

 グラタン。

 サラダ。

 陽菜乃の好きないちごのケーキ。

「わあ……」

「今年もいちごでいいでしょ?」

「うん!」

 少し沈んでいた気持ちが明るくなる。

 家族みんなで夕食を食べる。

 姉の結衣からは、かわいいポーチをもらった。

「ありがとう!」

「十七歳おめでとう」

「うん」

 幸せだ。

 ちゃんと幸せ。

 なのに。

 食事が終わって部屋へ戻る途中。

 窓から隣の成瀬家を見る。

 湊の部屋には明かりがついていた。

「……帰ってたんだ」

 スマホを見る。

 メッセージはない。

(やっぱり忘れてるんだ)

 陽菜乃は少しだけ笑った。

「仕方ないよね」

 誰に言うでもなく、つぶやいた。

 その時。

 ピンポーン。

 玄関のチャイムが鳴った。

「陽菜乃ー!」

 一階から母の声。

「お客さんよ!」

「私に?」

 誰だろう。

 階段を下りる。

 玄関のドアを開けた瞬間。

「……湊?」

 そこにいた。

 黒いパーカー姿。

 片手には、小さな紙袋。

「遅い」

「え?」

「出てくるの」

「だって急だから……」

「はい」

 湊が紙袋を差し出した。

 陽菜乃は受け取れずに、じっと見た。

「……なに?」

「何って」

 湊が少し照れたように視線を外す。

「誕生日」

「……」

「十七歳、おめでとう」

 胸の奥が一気に熱くなった。

「覚えてたの?」

「は?」

 湊がこちらを見る。

「忘れるわけないだろ」

「でも朝、何も言わなかったから」

「朝渡したら学校持っていくだろ」

「……うん」

「壊れたら嫌だったから夜にしただけ」

「そうだったの……?」

「何だと思ってたんだよ」

「……忘れたと思ってた」

 正直に言う。

 湊は驚いた顔をしたあと、困ったように眉を下げた。

「陽菜乃の誕生日、忘れたことないだろ」

「うん……」

「じゃあ信じろよ」

 その言葉が嬉しくて。

 陽菜乃は思わず笑った。

「開けていい?」

「うん」

 紙袋の中から、小さな箱を出す。

 ふたを開ける。

 そこには。

 小さな白い花を形にした髪飾りが入っていた。

「……かわいい」

 銀色の細い土台に、白い花が三つ。

 真ん中には、小さな淡い青の石がついている。

「これ……」

「前、駅の店で見てただろ」

 陽菜乃は目を丸くした。

「湊も覚えてたの?」

「も?」

「あ……」

 言ってから気づく。

 柊真も同じように、陽菜乃が欲しがっていたものを覚えていてくれた。

 湊の目が少しだけ細くなる。

「水野?」

「え?」

「今日もらってたやつ」

「……うん」

 陽菜乃は手に持っていた髪飾りを見る。

「柊真くんも、前に私が欲しいって言ってたキーホルダー覚えててくれたの」

「へえ」

「嬉しかった?」

「うん」

 正直に答える。

「すごく嬉しかったよ」

「……そっか」

 湊が玄関の外へ視線を向ける。

 陽菜乃は不思議に思った。

「どうしたの?」

「別に」

「またそれ」

「だって別に」

 少しして。

 湊がぽつりと言った。

「水野のほうが先だったな」

「え?」

「誕生日祝ったの」

「学校一緒だから」

「プレゼントも、陽菜乃の好きなもの知ってたし」

「……湊?」

 ようやく気づく。

 もしかして。

 湊は。

「なんか悔しい」

「どうして?」

「知らない」

 湊自身も分かっていないような顔。

 それから、陽菜乃をじっと見る。

「なあ」

「なに?」

「俺のプレゼントも嬉しい?」

「もちろん!」

 すぐに答えた。

「すっごく嬉しい」

「……ほんと?」

「うん」

 陽菜乃は箱を胸元で大切に抱えた。

「だって湊が選んでくれたんだもん」

「幼馴染だから?」

「え?」

 思いがけない言葉だった。

 湊の表情は、いつもより少しだけ真剣だった。

「俺にもらったから嬉しいのって」

 湊が続ける。

「長い付き合いだから?」

「……」

 陽菜乃の心臓が大きく鳴った。

 違う。

 そうじゃない。

 湊だから嬉しい。

 好きな男の子が、自分の好きなものを覚えていて。

 時間をかけて選んでくれた。

 だから。

 こんなに嬉しい。

 でも。

 その気持ちを言えば。

『好き』

 まで伝わってしまいそうで。

「……湊は」

「何?」

「私が幼馴染じゃなかったら、プレゼントくれなかった?」

 逆に聞いてしまった。

 湊が驚く。

「それは……」

 すぐに答えてくれない。

 陽菜乃の胸が苦しくなった。

 やっぱり。

 自分が特別なのは、幼馴染だからなのかもしれない。

「ごめん。変なこと聞いた」

「陽菜乃」

「ほんとにありがとう」

 陽菜乃は笑う。

「大切にするね」

 湊は何か言いたそうだった。

 けれど。

「……うん」

 それ以上は言わなかった。

「じゃあ、また明日」

「うん。おやすみ」

「おやすみ」

 湊が隣の家へ戻っていく。

 陽菜乃は玄関先でその背中を見送った。


 部屋へ戻り。

 陽菜乃は鏡の前に座った。

 箱から髪飾りを出す。

 そっと髪につけてみる。

「……かわいい」

 鏡の中。

 白い花が、髪の横で小さく揺れている。

 今日一日。

 たくさんの人にお祝いしてもらった。

 美緒。

 莉子。

 クラスのみんな。

 柊真。

 家族。

 全部嬉しかった。

 でも。

「湊が覚えててくれて……よかった」

 口にした途端。

 自分の気持ちがよく分かった。

 プレゼントが欲しかったわけじゃない。

 ただ。

 今日という日を。

 湊にも特別だと思ってほしかった。

 自分が湊の誕生日を毎年楽しみにしているのと同じように。

(私はやっぱり、湊が好き)

 何度気づいても。

 同じところへ戻ってくる。

 そして。

 隣の家。

 自分の部屋へ戻った湊もまた、ベッドに座りながら考えていた。

『柊真くんも覚えててくれたの』

 嬉しそうに話していた陽菜乃。

「……なんであいつなんだよ」

 湊は自分でも分からないまま、枕へ顔をうずめた。

 陽菜乃が喜んでくれたことは嬉しい。

 なのに。

 その嬉しい気持ちの中に、どうしても引っかかるものがある。

 水野柊真。

 最近。

 陽菜乃の話の中に、彼の名前が増えている。

 それがどうしようもなく気になる。

 十七歳の誕生日。

 陽菜乃は。

 湊が自分を幼馴染としてしか見ていないと思い。

 湊は。

 陽菜乃の特別な場所へ柊真が近づいているように感じていた。

 二人の気持ちは確かに近いはずなのに。

 今日もまた。

 大事な言葉だけが、相手には届かなかった。