十月の終わり。
朝の空気は、少しだけ冷たくなっていた。
ついこの前まで半袖でも暑かったのに、今では登校する生徒のほとんどがブレザーを着ている。
道の端には黄色く色づき始めた葉が落ち、風が吹くたびに、からからと軽い音を立てて転がっていった。
「寒くない?」
隣を歩く湊が聞いた。
「少しだけ」
陽菜乃は両手をこすり合わせた。
「手、冷たい」
「手袋すれば?」
「まだ十月だよ」
「陽菜乃、冷え性じゃん」
「でも、もう少し我慢する」
「なんで我慢すんの」
湊があきれたように笑う。
いつもの朝。
いつもの通学路。
けれど今日の陽菜乃は、少しだけ落ち着かなかった。
今日は――。
十月二十八日。
陽菜乃の十七歳の誕生日だった。
(湊……覚えてるかな)
気にしないつもりだった。
もう高校二年生なのだから、幼い頃みたいに朝一番で、
『陽菜乃、誕生日おめでとう!』
と言ってもらわなくてもいい。
そう思っている。
でも。
家が隣同士だった二人は、昔からお互いの誕生日を誰よりよく知っていた。
小学生の頃は、湊が朝からプレゼントを持ってきたこともある。
中学生になってからは学校帰りにアイスを買ってくれた。
去年だって、
『十六歳おめでとう』
と言って、小さなペンケースをくれた。
今も大切に使っている。
「陽菜乃」
「え?」
「信号」
「あっ」
いつの間にか赤になっていた。
陽菜乃は慌てて止まる。
湊が横から顔をのぞき込んだ。
「今日、朝から変じゃない?」
「そう?」
「なんかずっと考えてる」
「……別に」
「また秘密?」
「うん」
陽菜乃は笑ってごまかした。
信号が青になる。
二人で歩き出す。
湊は何も言わない。
(……やっぱり忘れてる?)
胸の奥が少しだけ沈んだ。
でも仕方ない。
湊だって忙しい。
サッカー部の大会が近いと言っていたし、美羽も毎日その準備で大変そうだった。
(誕生日くらいで落ち込んだら子どもみたい)
そう自分に言い聞かせた。
教室の扉を開けた瞬間。
「陽菜乃!」
「えっ?」
ぱんっ!
小さなクラッカーの音がした。
陽菜乃は驚いて肩を揺らす。
「お誕生日おめでとう!」
美緒と莉子が笑いながら立っていた。
「び、びっくりした……!」
「成功!」
「陽菜乃、十七歳おめでとう!」
「ありがとう……」
嬉しくなって笑う。
クラスメイトたちからも、
「小宮山、今日誕生日なんだ!」
「おめでとう!」
と次々に声をかけられる。
「ありがとう」
何度も返しているうちに、朝の少し寂しかった気持ちがやわらいでいった。
「はい、これ私たちから」
美緒から渡されたのは、小さな紙袋。
「開けていい?」
「もちろん」
中には、かわいいハンドクリームとリップクリームが入っていた。
「わあ……」
「陽菜乃、こういうの好きでしょ?」
「うん。すごくかわいい」
陽菜乃は胸元で袋を抱える。
「ありがとう。大事に使うね」
「喜んでもらえてよかった!」
そこへ。
「何朝から騒いでんの」
聞き慣れた低い声。
「柊真くん」
柊真が鞄を片手に教室へ入ってきた。
「陽菜乃、今日誕生日なんだって」
莉子が教える。
「知ってる」
「え?」
陽菜乃は目を丸くした。
「知ってたの?」
「ああ」
「どうして?」
「前、書類に誕生日書いてただろ」
「書類?」
「体育祭係のやつ」
「……覚えてたの?」
「まあ」
陽菜乃は少し驚いた。
自分でも忘れていたようなことなのに。
「で」
柊真は自分の席へ鞄を置き、小さな箱を取り出した。
「これ」
「……私に?」
「他に誰いんだよ」
陽菜乃は両手で受け取った。
白い箱に細いリボンがかかっている。
「開けていい?」
「好きにすれば」
陽菜乃はそっとリボンを外した。
中に入っていたのは、小さなキーホルダー。
白いうさぎが、いちごを抱えている。
「あ……!」
「この前、雑貨屋で見てただろ」
文化祭の買い出しに行った時。
陽菜乃が、
『これかわいい』
と言って手に取ったものだった。
買おうか迷ったけれど、結局その日は買わなかった。
「覚えててくれたの?」
「たまたま」
「たまたまで買わないよ」
「じゃあ覚えてた」
柊真が少しだけ笑う。
陽菜乃の胸が温かくなった。
「ありがとう、柊真くん」
「うん」
「すごく嬉しい」
「……そういう顔すんなって」
「え?」
「何でもねえ」
柊真が顔をそらす。
美緒と莉子が顔を見合わせ、また意味ありげに笑っている。
「何?」
「なーんでもない」
「最近みんなそればっかり」
陽菜乃が困ったように笑った、その時だった。
教室の入り口に人影が見えた。
湊。
胸が跳ねる。
「……湊」
目が合った。
湊はいつものようにこちらへ来ようとして――。
ふと、陽菜乃の手元を見た。
柊真にもらった白いうさぎのキーホルダー。
机の上には、誕生日プレゼントの袋。
「朝から楽しそうだな」
「うん。みんながお祝いしてくれたの」
陽菜乃は嬉しくて、つい笑った。
「見て。これ柊真くんがくれたんだよ」
「……水野が?」
「うん」
「へえ」
湊はキーホルダーを見る。
「かわいいでしょう?」
「まあ」
「前に欲しいって言ったの覚えててくれたの」
「……そう」
短い返事。
陽菜乃は少しだけ首をかしげた。
湊の様子がおかしい。
でも。
それより気になることがあった。
湊の口から、まだ一度も。
『誕生日おめでとう』
を聞いていない。
「湊、どうしたの?」
「別に」
「何か用事?」
「ああ……」
湊は少し迷ったように陽菜乃を見る。
「昼、部活のミーティングあるから」
「うん」
「今日はそっち来れない」
「そっか」
それだけ?
陽菜乃は期待してしまった自分が恥ずかしくなり、小さく笑った。
「分かった。頑張ってね」
「……うん」
湊はまだ何か言いたそうだった。
でも結局、
「じゃあ」
と教室を出ていった。
陽菜乃はその背中を見送る。
手の中のキーホルダーは、とてもかわいい。
柊真が覚えていてくれたことも嬉しい。
みんなに祝ってもらえて、本当に幸せだ。
それなのに。
心のほんの小さなところが、寂しかった。
(湊……忘れちゃったんだ)
十七歳になったからといって。
誕生日を忘れられても平気なわけがない。
「陽菜乃、これも食べて!」
「もうお腹いっぱいだよ」
「誕生日だから特別!」
昼休み。
陽菜乃の机には、友達がおすそ分けしてくれたお菓子がたくさん並んでいた。
「いいなあ、人気者」
柊真が隣でパンを食べながら言う。
「柊真くんも食べる?」
「誕生日なの陽菜乃だろ」
「私一人じゃ食べきれないよ」
「じゃあ一個」
「はい」
陽菜乃がチョコレートを差し出す。
柊真が受け取った。
「そういえば」
莉子が言った。
「成瀬くんから何もらったの?」
「え?」
陽菜乃の手が止まる。
「幼馴染なんでしょ? 毎年プレゼントくれそう」
「あー、確かに」
美緒も反応する。
「今年はまだ?」
「……うん」
「放課後じゃない?」
「そうかな」
陽菜乃は笑う。
「別にいいの」
「よくない顔してるけど」
美緒が心配そうに言った。
「本当に大丈夫」
「忘れてるとは思えないけどなあ」
「忙しいんだよ」
自分でそう言ってみる。
「サッカー部、大会前みたいだし」
そこへ女子の一人が口を挟んだ。
「そういえばさっき、一ノ瀬さんが成瀬くん探してたよ」
「……美羽ちゃん?」
「うん。放課後ちょっと残ってほしいって言ってた」
胸がきゅっと縮んだ。
「なんか大会の準備じゃない?」
「そうかも」
陽菜乃は、なるべく普通に答えた。
今日は自分の誕生日。
だけど。
湊にとっては、普通の一日なのかもしれない。
美羽とサッカー部の予定のほうが大切なのは当然だ。
(それなのに私、何期待してるんだろう)
恥ずかしくなる。
「陽菜乃」
隣から柊真の声。
「なに?」
「放課後、暇?」
「ダンス部あるけど、そのあとなら」
「じゃあジュースおごる」
「どうして?」
「誕生日だから」
「プレゼントもらったのに?」
「別」
「でも……」
「嫌ならいい」
「嫌じゃない!」
慌てて答えると、柊真が少し笑った。
「じゃあ決まり」
陽菜乃も小さく笑う。
「ありがとう」
今日一日。
柊真の優しさに何度も助けられている。
そのことが嬉しい。
でも。
心の奥ではやっぱり。
湊に『おめでとう』と言ってほしかった。
放課後。
ダンス部の練習を終えた陽菜乃は、校門近くの自動販売機の前で柊真と合流した。
「何飲む?」
「自分で買うよ」
「誕生日なんだから選べ」
「じゃあ……いちごミルク」
「やっぱそれ」
「好きなんだもん」
柊真がボタンを押す。
がたん、と缶が落ちる。
「はい」
「ありがとう」
「本日何回目?」
「もう数えられない」
二人で笑った。
校門を出て少し歩く。
夕方の空は薄い紫色に変わり始めていた。
秋の風が制服のスカートを小さく揺らす。
「寒い?」
柊真が聞く。
「少しだけ」
「これ着る?」
自分の上着へ手をかける。
「大丈夫!」
陽菜乃は慌てて首を横に振った。
「柊真くんが寒くなるよ」
「俺は平気」
「私も平気」
「じゃあ寒いって顔すんな」
「どんな顔?」
「こう」
柊真が眉を下げた変な顔をする。
「そんな顔してない!」
「似てる」
「全然似てないよ!」
陽菜乃は声を上げて笑った。
今日。
何度笑っただろう。
楽しい誕生日だった。
そう思いたい。
でも。
駅へ向かう途中。
グラウンド側の門の前に、人影が見えた。
「あ……」
湊。
そして美羽。
二人で話している。
美羽が何か紙を見せ、湊が横からのぞき込んでいた。
距離が近い。
陽菜乃の足が止まる。
「陽菜乃?」
「……ううん」
柊真も二人に気づいたようだった。
「行く?」
「いい」
「でも」
「大丈夫」
陽菜乃は笑った。
「今日はもう帰る」
誕生日を忘れられたことより。
その日に別の女の子といる湊を見るほうが、少しだけつらかった。
家へ帰ったのは、午後七時前。
「ただいま」
「おかえり!」
リビングから母の明るい声がする。
テーブルには誕生日用の料理が並んでいた。
グラタン。
サラダ。
陽菜乃の好きないちごのケーキ。
「わあ……」
「今年もいちごでいいでしょ?」
「うん!」
少し沈んでいた気持ちが明るくなる。
家族みんなで夕食を食べる。
姉の結衣からは、かわいいポーチをもらった。
「ありがとう!」
「十七歳おめでとう」
「うん」
幸せだ。
ちゃんと幸せ。
なのに。
食事が終わって部屋へ戻る途中。
窓から隣の成瀬家を見る。
湊の部屋には明かりがついていた。
「……帰ってたんだ」
スマホを見る。
メッセージはない。
(やっぱり忘れてるんだ)
陽菜乃は少しだけ笑った。
「仕方ないよね」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
その時。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「陽菜乃ー!」
一階から母の声。
「お客さんよ!」
「私に?」
誰だろう。
階段を下りる。
玄関のドアを開けた瞬間。
「……湊?」
そこにいた。
黒いパーカー姿。
片手には、小さな紙袋。
「遅い」
「え?」
「出てくるの」
「だって急だから……」
「はい」
湊が紙袋を差し出した。
陽菜乃は受け取れずに、じっと見た。
「……なに?」
「何って」
湊が少し照れたように視線を外す。
「誕生日」
「……」
「十七歳、おめでとう」
胸の奥が一気に熱くなった。
「覚えてたの?」
「は?」
湊がこちらを見る。
「忘れるわけないだろ」
「でも朝、何も言わなかったから」
「朝渡したら学校持っていくだろ」
「……うん」
「壊れたら嫌だったから夜にしただけ」
「そうだったの……?」
「何だと思ってたんだよ」
「……忘れたと思ってた」
正直に言う。
湊は驚いた顔をしたあと、困ったように眉を下げた。
「陽菜乃の誕生日、忘れたことないだろ」
「うん……」
「じゃあ信じろよ」
その言葉が嬉しくて。
陽菜乃は思わず笑った。
「開けていい?」
「うん」
紙袋の中から、小さな箱を出す。
ふたを開ける。
そこには。
小さな白い花を形にした髪飾りが入っていた。
「……かわいい」
銀色の細い土台に、白い花が三つ。
真ん中には、小さな淡い青の石がついている。
「これ……」
「前、駅の店で見てただろ」
陽菜乃は目を丸くした。
「湊も覚えてたの?」
「も?」
「あ……」
言ってから気づく。
柊真も同じように、陽菜乃が欲しがっていたものを覚えていてくれた。
湊の目が少しだけ細くなる。
「水野?」
「え?」
「今日もらってたやつ」
「……うん」
陽菜乃は手に持っていた髪飾りを見る。
「柊真くんも、前に私が欲しいって言ってたキーホルダー覚えててくれたの」
「へえ」
「嬉しかった?」
「うん」
正直に答える。
「すごく嬉しかったよ」
「……そっか」
湊が玄関の外へ視線を向ける。
陽菜乃は不思議に思った。
「どうしたの?」
「別に」
「またそれ」
「だって別に」
少しして。
湊がぽつりと言った。
「水野のほうが先だったな」
「え?」
「誕生日祝ったの」
「学校一緒だから」
「プレゼントも、陽菜乃の好きなもの知ってたし」
「……湊?」
ようやく気づく。
もしかして。
湊は。
「なんか悔しい」
「どうして?」
「知らない」
湊自身も分かっていないような顔。
それから、陽菜乃をじっと見る。
「なあ」
「なに?」
「俺のプレゼントも嬉しい?」
「もちろん!」
すぐに答えた。
「すっごく嬉しい」
「……ほんと?」
「うん」
陽菜乃は箱を胸元で大切に抱えた。
「だって湊が選んでくれたんだもん」
「幼馴染だから?」
「え?」
思いがけない言葉だった。
湊の表情は、いつもより少しだけ真剣だった。
「俺にもらったから嬉しいのって」
湊が続ける。
「長い付き合いだから?」
「……」
陽菜乃の心臓が大きく鳴った。
違う。
そうじゃない。
湊だから嬉しい。
好きな男の子が、自分の好きなものを覚えていて。
時間をかけて選んでくれた。
だから。
こんなに嬉しい。
でも。
その気持ちを言えば。
『好き』
まで伝わってしまいそうで。
「……湊は」
「何?」
「私が幼馴染じゃなかったら、プレゼントくれなかった?」
逆に聞いてしまった。
湊が驚く。
「それは……」
すぐに答えてくれない。
陽菜乃の胸が苦しくなった。
やっぱり。
自分が特別なのは、幼馴染だからなのかもしれない。
「ごめん。変なこと聞いた」
「陽菜乃」
「ほんとにありがとう」
陽菜乃は笑う。
「大切にするね」
湊は何か言いたそうだった。
けれど。
「……うん」
それ以上は言わなかった。
「じゃあ、また明日」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
湊が隣の家へ戻っていく。
陽菜乃は玄関先でその背中を見送った。
部屋へ戻り。
陽菜乃は鏡の前に座った。
箱から髪飾りを出す。
そっと髪につけてみる。
「……かわいい」
鏡の中。
白い花が、髪の横で小さく揺れている。
今日一日。
たくさんの人にお祝いしてもらった。
美緒。
莉子。
クラスのみんな。
柊真。
家族。
全部嬉しかった。
でも。
「湊が覚えててくれて……よかった」
口にした途端。
自分の気持ちがよく分かった。
プレゼントが欲しかったわけじゃない。
ただ。
今日という日を。
湊にも特別だと思ってほしかった。
自分が湊の誕生日を毎年楽しみにしているのと同じように。
(私はやっぱり、湊が好き)
何度気づいても。
同じところへ戻ってくる。
そして。
隣の家。
自分の部屋へ戻った湊もまた、ベッドに座りながら考えていた。
『柊真くんも覚えててくれたの』
嬉しそうに話していた陽菜乃。
「……なんであいつなんだよ」
湊は自分でも分からないまま、枕へ顔をうずめた。
陽菜乃が喜んでくれたことは嬉しい。
なのに。
その嬉しい気持ちの中に、どうしても引っかかるものがある。
水野柊真。
最近。
陽菜乃の話の中に、彼の名前が増えている。
それがどうしようもなく気になる。
十七歳の誕生日。
陽菜乃は。
湊が自分を幼馴染としてしか見ていないと思い。
湊は。
陽菜乃の特別な場所へ柊真が近づいているように感じていた。
二人の気持ちは確かに近いはずなのに。
今日もまた。
大事な言葉だけが、相手には届かなかった。
朝の空気は、少しだけ冷たくなっていた。
ついこの前まで半袖でも暑かったのに、今では登校する生徒のほとんどがブレザーを着ている。
道の端には黄色く色づき始めた葉が落ち、風が吹くたびに、からからと軽い音を立てて転がっていった。
「寒くない?」
隣を歩く湊が聞いた。
「少しだけ」
陽菜乃は両手をこすり合わせた。
「手、冷たい」
「手袋すれば?」
「まだ十月だよ」
「陽菜乃、冷え性じゃん」
「でも、もう少し我慢する」
「なんで我慢すんの」
湊があきれたように笑う。
いつもの朝。
いつもの通学路。
けれど今日の陽菜乃は、少しだけ落ち着かなかった。
今日は――。
十月二十八日。
陽菜乃の十七歳の誕生日だった。
(湊……覚えてるかな)
気にしないつもりだった。
もう高校二年生なのだから、幼い頃みたいに朝一番で、
『陽菜乃、誕生日おめでとう!』
と言ってもらわなくてもいい。
そう思っている。
でも。
家が隣同士だった二人は、昔からお互いの誕生日を誰よりよく知っていた。
小学生の頃は、湊が朝からプレゼントを持ってきたこともある。
中学生になってからは学校帰りにアイスを買ってくれた。
去年だって、
『十六歳おめでとう』
と言って、小さなペンケースをくれた。
今も大切に使っている。
「陽菜乃」
「え?」
「信号」
「あっ」
いつの間にか赤になっていた。
陽菜乃は慌てて止まる。
湊が横から顔をのぞき込んだ。
「今日、朝から変じゃない?」
「そう?」
「なんかずっと考えてる」
「……別に」
「また秘密?」
「うん」
陽菜乃は笑ってごまかした。
信号が青になる。
二人で歩き出す。
湊は何も言わない。
(……やっぱり忘れてる?)
胸の奥が少しだけ沈んだ。
でも仕方ない。
湊だって忙しい。
サッカー部の大会が近いと言っていたし、美羽も毎日その準備で大変そうだった。
(誕生日くらいで落ち込んだら子どもみたい)
そう自分に言い聞かせた。
教室の扉を開けた瞬間。
「陽菜乃!」
「えっ?」
ぱんっ!
小さなクラッカーの音がした。
陽菜乃は驚いて肩を揺らす。
「お誕生日おめでとう!」
美緒と莉子が笑いながら立っていた。
「び、びっくりした……!」
「成功!」
「陽菜乃、十七歳おめでとう!」
「ありがとう……」
嬉しくなって笑う。
クラスメイトたちからも、
「小宮山、今日誕生日なんだ!」
「おめでとう!」
と次々に声をかけられる。
「ありがとう」
何度も返しているうちに、朝の少し寂しかった気持ちがやわらいでいった。
「はい、これ私たちから」
美緒から渡されたのは、小さな紙袋。
「開けていい?」
「もちろん」
中には、かわいいハンドクリームとリップクリームが入っていた。
「わあ……」
「陽菜乃、こういうの好きでしょ?」
「うん。すごくかわいい」
陽菜乃は胸元で袋を抱える。
「ありがとう。大事に使うね」
「喜んでもらえてよかった!」
そこへ。
「何朝から騒いでんの」
聞き慣れた低い声。
「柊真くん」
柊真が鞄を片手に教室へ入ってきた。
「陽菜乃、今日誕生日なんだって」
莉子が教える。
「知ってる」
「え?」
陽菜乃は目を丸くした。
「知ってたの?」
「ああ」
「どうして?」
「前、書類に誕生日書いてただろ」
「書類?」
「体育祭係のやつ」
「……覚えてたの?」
「まあ」
陽菜乃は少し驚いた。
自分でも忘れていたようなことなのに。
「で」
柊真は自分の席へ鞄を置き、小さな箱を取り出した。
「これ」
「……私に?」
「他に誰いんだよ」
陽菜乃は両手で受け取った。
白い箱に細いリボンがかかっている。
「開けていい?」
「好きにすれば」
陽菜乃はそっとリボンを外した。
中に入っていたのは、小さなキーホルダー。
白いうさぎが、いちごを抱えている。
「あ……!」
「この前、雑貨屋で見てただろ」
文化祭の買い出しに行った時。
陽菜乃が、
『これかわいい』
と言って手に取ったものだった。
買おうか迷ったけれど、結局その日は買わなかった。
「覚えててくれたの?」
「たまたま」
「たまたまで買わないよ」
「じゃあ覚えてた」
柊真が少しだけ笑う。
陽菜乃の胸が温かくなった。
「ありがとう、柊真くん」
「うん」
「すごく嬉しい」
「……そういう顔すんなって」
「え?」
「何でもねえ」
柊真が顔をそらす。
美緒と莉子が顔を見合わせ、また意味ありげに笑っている。
「何?」
「なーんでもない」
「最近みんなそればっかり」
陽菜乃が困ったように笑った、その時だった。
教室の入り口に人影が見えた。
湊。
胸が跳ねる。
「……湊」
目が合った。
湊はいつものようにこちらへ来ようとして――。
ふと、陽菜乃の手元を見た。
柊真にもらった白いうさぎのキーホルダー。
机の上には、誕生日プレゼントの袋。
「朝から楽しそうだな」
「うん。みんながお祝いしてくれたの」
陽菜乃は嬉しくて、つい笑った。
「見て。これ柊真くんがくれたんだよ」
「……水野が?」
「うん」
「へえ」
湊はキーホルダーを見る。
「かわいいでしょう?」
「まあ」
「前に欲しいって言ったの覚えててくれたの」
「……そう」
短い返事。
陽菜乃は少しだけ首をかしげた。
湊の様子がおかしい。
でも。
それより気になることがあった。
湊の口から、まだ一度も。
『誕生日おめでとう』
を聞いていない。
「湊、どうしたの?」
「別に」
「何か用事?」
「ああ……」
湊は少し迷ったように陽菜乃を見る。
「昼、部活のミーティングあるから」
「うん」
「今日はそっち来れない」
「そっか」
それだけ?
陽菜乃は期待してしまった自分が恥ずかしくなり、小さく笑った。
「分かった。頑張ってね」
「……うん」
湊はまだ何か言いたそうだった。
でも結局、
「じゃあ」
と教室を出ていった。
陽菜乃はその背中を見送る。
手の中のキーホルダーは、とてもかわいい。
柊真が覚えていてくれたことも嬉しい。
みんなに祝ってもらえて、本当に幸せだ。
それなのに。
心のほんの小さなところが、寂しかった。
(湊……忘れちゃったんだ)
十七歳になったからといって。
誕生日を忘れられても平気なわけがない。
「陽菜乃、これも食べて!」
「もうお腹いっぱいだよ」
「誕生日だから特別!」
昼休み。
陽菜乃の机には、友達がおすそ分けしてくれたお菓子がたくさん並んでいた。
「いいなあ、人気者」
柊真が隣でパンを食べながら言う。
「柊真くんも食べる?」
「誕生日なの陽菜乃だろ」
「私一人じゃ食べきれないよ」
「じゃあ一個」
「はい」
陽菜乃がチョコレートを差し出す。
柊真が受け取った。
「そういえば」
莉子が言った。
「成瀬くんから何もらったの?」
「え?」
陽菜乃の手が止まる。
「幼馴染なんでしょ? 毎年プレゼントくれそう」
「あー、確かに」
美緒も反応する。
「今年はまだ?」
「……うん」
「放課後じゃない?」
「そうかな」
陽菜乃は笑う。
「別にいいの」
「よくない顔してるけど」
美緒が心配そうに言った。
「本当に大丈夫」
「忘れてるとは思えないけどなあ」
「忙しいんだよ」
自分でそう言ってみる。
「サッカー部、大会前みたいだし」
そこへ女子の一人が口を挟んだ。
「そういえばさっき、一ノ瀬さんが成瀬くん探してたよ」
「……美羽ちゃん?」
「うん。放課後ちょっと残ってほしいって言ってた」
胸がきゅっと縮んだ。
「なんか大会の準備じゃない?」
「そうかも」
陽菜乃は、なるべく普通に答えた。
今日は自分の誕生日。
だけど。
湊にとっては、普通の一日なのかもしれない。
美羽とサッカー部の予定のほうが大切なのは当然だ。
(それなのに私、何期待してるんだろう)
恥ずかしくなる。
「陽菜乃」
隣から柊真の声。
「なに?」
「放課後、暇?」
「ダンス部あるけど、そのあとなら」
「じゃあジュースおごる」
「どうして?」
「誕生日だから」
「プレゼントもらったのに?」
「別」
「でも……」
「嫌ならいい」
「嫌じゃない!」
慌てて答えると、柊真が少し笑った。
「じゃあ決まり」
陽菜乃も小さく笑う。
「ありがとう」
今日一日。
柊真の優しさに何度も助けられている。
そのことが嬉しい。
でも。
心の奥ではやっぱり。
湊に『おめでとう』と言ってほしかった。
放課後。
ダンス部の練習を終えた陽菜乃は、校門近くの自動販売機の前で柊真と合流した。
「何飲む?」
「自分で買うよ」
「誕生日なんだから選べ」
「じゃあ……いちごミルク」
「やっぱそれ」
「好きなんだもん」
柊真がボタンを押す。
がたん、と缶が落ちる。
「はい」
「ありがとう」
「本日何回目?」
「もう数えられない」
二人で笑った。
校門を出て少し歩く。
夕方の空は薄い紫色に変わり始めていた。
秋の風が制服のスカートを小さく揺らす。
「寒い?」
柊真が聞く。
「少しだけ」
「これ着る?」
自分の上着へ手をかける。
「大丈夫!」
陽菜乃は慌てて首を横に振った。
「柊真くんが寒くなるよ」
「俺は平気」
「私も平気」
「じゃあ寒いって顔すんな」
「どんな顔?」
「こう」
柊真が眉を下げた変な顔をする。
「そんな顔してない!」
「似てる」
「全然似てないよ!」
陽菜乃は声を上げて笑った。
今日。
何度笑っただろう。
楽しい誕生日だった。
そう思いたい。
でも。
駅へ向かう途中。
グラウンド側の門の前に、人影が見えた。
「あ……」
湊。
そして美羽。
二人で話している。
美羽が何か紙を見せ、湊が横からのぞき込んでいた。
距離が近い。
陽菜乃の足が止まる。
「陽菜乃?」
「……ううん」
柊真も二人に気づいたようだった。
「行く?」
「いい」
「でも」
「大丈夫」
陽菜乃は笑った。
「今日はもう帰る」
誕生日を忘れられたことより。
その日に別の女の子といる湊を見るほうが、少しだけつらかった。
家へ帰ったのは、午後七時前。
「ただいま」
「おかえり!」
リビングから母の明るい声がする。
テーブルには誕生日用の料理が並んでいた。
グラタン。
サラダ。
陽菜乃の好きないちごのケーキ。
「わあ……」
「今年もいちごでいいでしょ?」
「うん!」
少し沈んでいた気持ちが明るくなる。
家族みんなで夕食を食べる。
姉の結衣からは、かわいいポーチをもらった。
「ありがとう!」
「十七歳おめでとう」
「うん」
幸せだ。
ちゃんと幸せ。
なのに。
食事が終わって部屋へ戻る途中。
窓から隣の成瀬家を見る。
湊の部屋には明かりがついていた。
「……帰ってたんだ」
スマホを見る。
メッセージはない。
(やっぱり忘れてるんだ)
陽菜乃は少しだけ笑った。
「仕方ないよね」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
その時。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「陽菜乃ー!」
一階から母の声。
「お客さんよ!」
「私に?」
誰だろう。
階段を下りる。
玄関のドアを開けた瞬間。
「……湊?」
そこにいた。
黒いパーカー姿。
片手には、小さな紙袋。
「遅い」
「え?」
「出てくるの」
「だって急だから……」
「はい」
湊が紙袋を差し出した。
陽菜乃は受け取れずに、じっと見た。
「……なに?」
「何って」
湊が少し照れたように視線を外す。
「誕生日」
「……」
「十七歳、おめでとう」
胸の奥が一気に熱くなった。
「覚えてたの?」
「は?」
湊がこちらを見る。
「忘れるわけないだろ」
「でも朝、何も言わなかったから」
「朝渡したら学校持っていくだろ」
「……うん」
「壊れたら嫌だったから夜にしただけ」
「そうだったの……?」
「何だと思ってたんだよ」
「……忘れたと思ってた」
正直に言う。
湊は驚いた顔をしたあと、困ったように眉を下げた。
「陽菜乃の誕生日、忘れたことないだろ」
「うん……」
「じゃあ信じろよ」
その言葉が嬉しくて。
陽菜乃は思わず笑った。
「開けていい?」
「うん」
紙袋の中から、小さな箱を出す。
ふたを開ける。
そこには。
小さな白い花を形にした髪飾りが入っていた。
「……かわいい」
銀色の細い土台に、白い花が三つ。
真ん中には、小さな淡い青の石がついている。
「これ……」
「前、駅の店で見てただろ」
陽菜乃は目を丸くした。
「湊も覚えてたの?」
「も?」
「あ……」
言ってから気づく。
柊真も同じように、陽菜乃が欲しがっていたものを覚えていてくれた。
湊の目が少しだけ細くなる。
「水野?」
「え?」
「今日もらってたやつ」
「……うん」
陽菜乃は手に持っていた髪飾りを見る。
「柊真くんも、前に私が欲しいって言ってたキーホルダー覚えててくれたの」
「へえ」
「嬉しかった?」
「うん」
正直に答える。
「すごく嬉しかったよ」
「……そっか」
湊が玄関の外へ視線を向ける。
陽菜乃は不思議に思った。
「どうしたの?」
「別に」
「またそれ」
「だって別に」
少しして。
湊がぽつりと言った。
「水野のほうが先だったな」
「え?」
「誕生日祝ったの」
「学校一緒だから」
「プレゼントも、陽菜乃の好きなもの知ってたし」
「……湊?」
ようやく気づく。
もしかして。
湊は。
「なんか悔しい」
「どうして?」
「知らない」
湊自身も分かっていないような顔。
それから、陽菜乃をじっと見る。
「なあ」
「なに?」
「俺のプレゼントも嬉しい?」
「もちろん!」
すぐに答えた。
「すっごく嬉しい」
「……ほんと?」
「うん」
陽菜乃は箱を胸元で大切に抱えた。
「だって湊が選んでくれたんだもん」
「幼馴染だから?」
「え?」
思いがけない言葉だった。
湊の表情は、いつもより少しだけ真剣だった。
「俺にもらったから嬉しいのって」
湊が続ける。
「長い付き合いだから?」
「……」
陽菜乃の心臓が大きく鳴った。
違う。
そうじゃない。
湊だから嬉しい。
好きな男の子が、自分の好きなものを覚えていて。
時間をかけて選んでくれた。
だから。
こんなに嬉しい。
でも。
その気持ちを言えば。
『好き』
まで伝わってしまいそうで。
「……湊は」
「何?」
「私が幼馴染じゃなかったら、プレゼントくれなかった?」
逆に聞いてしまった。
湊が驚く。
「それは……」
すぐに答えてくれない。
陽菜乃の胸が苦しくなった。
やっぱり。
自分が特別なのは、幼馴染だからなのかもしれない。
「ごめん。変なこと聞いた」
「陽菜乃」
「ほんとにありがとう」
陽菜乃は笑う。
「大切にするね」
湊は何か言いたそうだった。
けれど。
「……うん」
それ以上は言わなかった。
「じゃあ、また明日」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
湊が隣の家へ戻っていく。
陽菜乃は玄関先でその背中を見送った。
部屋へ戻り。
陽菜乃は鏡の前に座った。
箱から髪飾りを出す。
そっと髪につけてみる。
「……かわいい」
鏡の中。
白い花が、髪の横で小さく揺れている。
今日一日。
たくさんの人にお祝いしてもらった。
美緒。
莉子。
クラスのみんな。
柊真。
家族。
全部嬉しかった。
でも。
「湊が覚えててくれて……よかった」
口にした途端。
自分の気持ちがよく分かった。
プレゼントが欲しかったわけじゃない。
ただ。
今日という日を。
湊にも特別だと思ってほしかった。
自分が湊の誕生日を毎年楽しみにしているのと同じように。
(私はやっぱり、湊が好き)
何度気づいても。
同じところへ戻ってくる。
そして。
隣の家。
自分の部屋へ戻った湊もまた、ベッドに座りながら考えていた。
『柊真くんも覚えててくれたの』
嬉しそうに話していた陽菜乃。
「……なんであいつなんだよ」
湊は自分でも分からないまま、枕へ顔をうずめた。
陽菜乃が喜んでくれたことは嬉しい。
なのに。
その嬉しい気持ちの中に、どうしても引っかかるものがある。
水野柊真。
最近。
陽菜乃の話の中に、彼の名前が増えている。
それがどうしようもなく気になる。
十七歳の誕生日。
陽菜乃は。
湊が自分を幼馴染としてしか見ていないと思い。
湊は。
陽菜乃の特別な場所へ柊真が近づいているように感じていた。
二人の気持ちは確かに近いはずなのに。
今日もまた。
大事な言葉だけが、相手には届かなかった。

