ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 文化祭当日の朝。

 いつもは落ち着いている校舎が、今日は朝から別の場所のようににぎわっていた。

 廊下の天井には色とりどりの飾りがつるされ、教室の扉には手作りの看板が並んでいる。

『二年二組 青空カフェ』

『三年一組 お化け屋敷』

『一年四組 謎解きゲーム』

 まだ開場前なのに、生徒たちは忙しそうに廊下を行き来していた。

「陽菜乃、そのリボンこっち!」

「うん!」

 二年二組の教室では、最後の飾りつけが行われていた。

 陽菜乃は椅子の上に立ち、窓際へ青いリボンを結びつける。

「もう少し右!」

「こっち?」

「そうそう!」

 莉子の声を聞きながら、陽菜乃が背伸びをする。

 あと少し。

 指先が届きそうで届かない。

「ん……」

「無理すんなって」

 下から低い声がした。

「え?」

 見下ろすと、柊真が立っていた。

「貸せ」

「でも、あとちょっとだから」

「その『あとちょっと』で落ちるだろ、お前」

「落ちないよ」

「体育祭でも同じようなこと言ってた」

「今日は大丈夫」

 陽菜乃はもう一度背伸びをする。

 その瞬間。

 椅子の脚が少しだけ動いた。

「きゃっ!」

「ほら!」

 体がぐらりと傾く。

 けれど床へ落ちる前に、柊真の腕が陽菜乃の腰を支えた。

「……!」

 陽菜乃は反射的に柊真の肩をつかんだ。

「大丈夫?」

「う、うん……」

「だから言ったじゃん」

「ごめんなさい……」

「俺じゃなくて自分に謝れ」

 柊真は陽菜乃がしっかり立ったのを確認してから手を離した。

 近くにいた莉子が、にやにやしながら二人を見る。

「水野くん、反応早すぎ」

「何が?」

「陽菜乃が落ちる前に普通に抱き止めてたじゃん」

「こいつが落ちそうなの見えてたから」

「ふーん」

「何だよ」

「別にー」

「莉子ちゃん、変なこと言わないで」

 陽菜乃の頬が熱くなる。

 柊真は何も言わず、椅子へ上がった。

 陽菜乃が苦労していたリボンを、あっさり結びつける。

「はい」

「……背高いのずるい」

「何その負け惜しみ」

「だって私、あんなに頑張ったのに」

「頑張る場所間違ってんだよ」

 柊真が笑う。

 陽菜乃もつられて笑った。

 少し前まで。

 柊真とこんなふうに話すようになるなんて思っていなかった。

 学校では怖いと噂される男の子。

 でも陽菜乃にとっては、もう怖い人ではない。

 困った時には助けてくれて。

 落ち込んでいる時には、何も聞かずにそばにいてくれる。

 そして。

 自分が湊を好きだということを知っている、数少ない一人。

「陽菜乃!」

 美緒が教室へ入ってきた。

「そろそろダンス部集合だって!」

「えっ、もう?」

「あと三十分で出番!」

「あ……!」

 陽菜乃は時計を見る。

 本当だ。

「急がなきゃ!」

 慌てて鞄を持つ。

「陽菜乃」

 柊真に呼び止められた。

「なに?」

「転ぶなよ」

「転ばないもん!」

「さっき落ちかけたやつが言う?」

「もう!」

 陽菜乃は頬をふくらませながらも、最後には笑った。

「……行ってきます」

「ああ」

 柊真は少しだけ口元を上げた。

「頑張れ」

 その一言に背中を押されるように、陽菜乃は教室を出た。


 体育館の裏。

 ダンス部の控え室では、部員たちが衣装へ着替えていた。

 文化祭のステージは、体育祭とは違う振りつけだ。

 白いトップスに、淡い水色のスカート。

 髪はいつもより高い位置でまとめ、銀色の小さなリボンをつける。

「陽菜乃、こっち向いて」

「なに?」

 美緒が陽菜乃の前髪を少し整える。

「よし。かわいい」

「またそれ言う……」

「だって今日は特にかわいいもん」

「恥ずかしいよ」

 陽菜乃は鏡を見る。

 いつもの制服姿とは全然違う。

 自分じゃないみたい。

「……変じゃない?」

「変じゃない」

「ほんと?」

「成瀬くん、見たらびっくりするよ」

 その名前を聞いた瞬間。

 陽菜乃の胸が跳ねた。

「湊……来るかな」

「昨日、時間教えたんでしょ?」

「うん」

 昨日の夜。

 何度も文章を書き直して。

 やっと送った。

『明日、十一時からダンス部のステージなんだけど、時間あったら見に来てね』

 返事はすぐだった。

『行く』

 たった二文字。

 それだけで。

 昨日は眠る前まで何度もメッセージ画面を見てしまった。

「楽しみ?」

 美緒が聞く。

「……ちょっと」

「ちょっと?」

「いっぱい……」

 小さく訂正すると、美緒が笑った。

「素直でよろしい」

「もう」

 その時。

「みんな、集合!」

 部長の声が響く。

「行くよ!」

「はい!」

 陽菜乃は大きく息を吸い、体育館へ向かった。


 体育館には、大勢の生徒や保護者が集まっていた。

 舞台袖から客席をのぞく。

 人、人、人。

「わ……」

 さすがに緊張してきた。

 陽菜乃は無意識に衣装の袖をつまむ。

「大丈夫」

 美緒が隣から言った。

「陽菜乃は音楽始まったら平気だから」

「……うん」

 もう一度客席を見る。

 そして。

 見つけた。

(湊)

 後ろのほう。

 サッカー部の悠人たちと一緒に立っている。

 目立つから、すぐ分かった。

 湊がこちらに気づく。

 陽菜乃と目が合った。

 湊が少し驚いた顔をした。

(……変なのかな)

 不安になりかけた、その時。

 湊が小さく手を振った。

 陽菜乃も、ほんの少しだけ手を上げる。

 胸の中の緊張が、すっと軽くなった。

「始まるよ!」

「うん!」

 ステージへ出る。

 大きな拍手。

 音楽が流れ始めた。

 陽菜乃の表情が変わる。

 最初の一歩。

 腕を伸ばす。

 ターン。

 笑顔。

 踊っている時だけは、自分を隠さなくていい。

 人前で話すのは苦手なのに。

 ダンスなら、たくさんの人に見られていても怖くない。

 音楽に合わせて動けば、気持ちまで自由になる。

 陽菜乃は笑っていた。

 心から楽しくて。

 気づけば客席の誰かを見ることも忘れて、夢中で踊っていた。


「……あれ、本当に陽菜乃?」

 客席。

 悠人が驚いたように言った。

「うん」

 湊は短く答えた。

 目をそらせなかった。

 学校では。

 陽菜乃は大人しい。

 人前に出ればすぐに顔が赤くなるし、知らない男子に話しかけられるだけで慌てる。

 昔から。

 自分の後ろをついて歩くことが多かった。

 それなのに。

 舞台の上にいる陽菜乃は、まるで違う。

 たくさんの人の前で笑っている。

 堂々と踊って。

 誰より楽しそうに見えた。

「陽菜乃ちゃん、結構すごいな」

「……うん」

「かわいいし」

 湊がすぐ横を見る。

「何?」

 悠人が笑う。

「いや。普通にかわいいって言っただけだけど」

「……そう」

「お前、顔怖い」

「普通」

「彼氏みたいな反応すんなよ」

「してない」

 言い返しながらも、湊の視線はまた舞台へ戻る。

 陽菜乃が笑う。

 明るい照明の下。

 髪につけた銀色のリボンが揺れている。

 こんな陽菜乃を。

 自分は知らなかった。

 それが少し不思議で。

 同時に。

 たくさんの人が今、この陽菜乃を見ているのだと思うと、なぜか落ち着かなかった。


 ステージが終わる。

「ありがとうございました!」

 大きな拍手を浴びながら、陽菜乃たちは頭を下げた。

 舞台袖へ戻った瞬間。

「終わったぁ!」

「楽しかった!」

「間違えなかった!」

 部員たちが一気に笑顔になる。

 陽菜乃も胸元へ手を当てた。

「よかった……」

 最後まで踊れた。

 そして。

 湊も見ていてくれた。

 それだけで、今日はもう十分うれしい。

 着替えを終え、体育館の外へ出る。

「陽菜乃!」

 声をかけられた。

「え?」

 同じ学年の男子が何人か立っていた。

「さっきのダンスすごかった!」

「ありがとう」

「小宮山ってあんな踊れるんだな!」

「いつも大人しいからびっくりした」

 次々と話しかけられ、陽菜乃は少し困ってしまう。

「えっと……」

「一緒に写真撮ろうよ」

「俺も!」

「え?」

 断る理由もなく。

 陽菜乃は数人と写真を撮った。

「ありがとう!」

「う、うん」

 また別の男子が来る。

「小宮山、午後暇?」

「え?」

「うちのクラス一緒に回らない?」

「あ、でも……」

 どう答えよう。

 困っていると。

「陽菜乃」

 低い声がした。

 振り返る。

「柊真くん」

 柊真が廊下の壁にもたれていた。

「クラスの当番、もうすぐだろ」

「あ!」

 本当だ。

 カフェの係がある。

「忘れてた!」

「だと思った」

 柊真が男子たちを見る。

「悪い。こいつこのあと仕事あるから」

「あ、そっか」

「じゃあまた後で!」

 男子たちは去っていった。

 陽菜乃はほっとして胸をなで下ろす。

「助かった……」

「またか」

「え?」

「また俺に助けられた」

「ほんとだ」

 陽菜乃が笑う。

「ありがとう」

「何回目だよ」

「今日はまだ二回目」

「数えてる?」

「柊真くんがいつも言うから」

 柊真が笑った。

 それから陽菜乃を上から下まで見る。

「さっきの」

「ダンス?」

「うん」

「どうだった?」

 陽菜乃は少しだけ緊張した。

 柊真は何でもはっきり言う。

「……よかった」

「ほんと?」

「ああ」

「よかったぁ」

 陽菜乃が安心して笑う。

 すると柊真が少しだけ視線をそらした。

「つーか」

「なに?」

「かわいかった」

「……!」

 陽菜乃の頬が一気に熱くなる。

「急に言わないでよ……」

「聞いたの陽菜乃だろ」

「ダンスがどうだったか聞いただけだもん」

「感想」

「……もう」

 陽菜乃は恥ずかしくて顔を下げる。

 その時。

 廊下の少し先で、誰かが立ち止まっていた。


 湊だった。

 ステージが終わった陽菜乃へ、

『よかった』

 と伝えようと思っていた。

 ただそれだけ。

 でも。

 体育館から出てきた陽菜乃の周りには、すぐに男子が集まった。

 写真を撮って。

 話しかけて。

 そのあと現れたのは柊真。

 今。

 陽菜乃は柊真の前で頬を赤くしている。

(……何話してんだよ)

 聞こえない。

 それが余計に気になる。

「湊くん?」

 後ろから声をかけられた。

 一ノ瀬美羽。

 今日はサッカー部の出し物を手伝っているため、クラスTシャツの上にサッカー部のエプロンをつけている。

「こんなところにいたんだ」

「うん」

「ダンス見てた?」

「見てた」

「小宮山さん、すごかったね」

「……うん」

「かわいかったし」

 またその言葉。

 湊は無意識に陽菜乃を見る。

 柊真と一緒に歩き始めている。

「ねえ、湊くん」

「何?」

「このあと時間ある?」

「サッカー部の店?」

「それもあるけど」

 美羽が笑う。

「せっかくの文化祭だし、一緒に少し回らない?」

「みんなと?」

「……二人でもいいけど」

「え?」

 湊は美羽を見る。

 美羽は少しだけ頬を赤くしていた。

「冗談」

 すぐに笑う。

「買い出しあるから付き合ってほしいだけ」

「ああ」

「行こ」

「うん」

 湊は歩き出した。

 それでも。

 少し先を歩く陽菜乃と柊真が、気になって仕方なかった。


 二年二組のカフェは、予想以上の人気だった。

「いらっしゃいませ!」

「こちらへどうぞ!」

 陽菜乃はエプロンをつけ、注文を取っていた。

「二番テーブル、オレンジジュース二つ!」

「陽菜乃、ケーキお願い!」

「うん!」

 忙しい。

 でも楽しい。

 文化祭らしいにぎやかな空気。

 教室いっぱいに広がる甘い香り。

 友達の笑い声。

 陽菜乃は夢中で動き回った。

「小宮山さん!」

「はい!」

 呼ばれ、振り返る。

 男子のお客さんが笑っている。

「写真いい?」

「写真?」

「そのエプロン似合ってるから」

「えっ……」

「記念!」

「えっと……」

「陽菜乃」

 また柊真。

 トレーを片手に立っている。

「三番テーブル」

「あ!」

「注文待ってる」

「ご、ごめん!」

 陽菜乃は慌ててそちらへ向かう。

 男子は、

「水野、邪魔すんなよー」

 と笑った。

「仕事中だろ」

 柊真は気にせず返す。

 陽菜乃は少しだけ安心した。

 今日はなぜか、いつも以上に男子から話しかけられる。

 ダンスを見た人が多いからだろうか。

(みんな、そんなに見てたんだ……)

 なんだか恥ずかしい。


 午後二時。

 やっと休憩。

「疲れたぁ……」

 陽菜乃はエプロンを外し、美緒と廊下へ出た。

「何見る?」

「クレープ食べたい」

「さっきまでカフェにいたのに?」

「甘いものは別」

「美緒ちゃんらしい」

 二人で笑いながら歩く。

 階段を下りたところで。

 陽菜乃の足が止まった。

「……」

「陽菜乃?」

 廊下の向こう。

 湊と美羽が歩いていた。

 美羽の手には、クレープが一つ。

「湊くん、一口食べる?」

 美羽がクレープを差し出す。

「いいよ」

「いいから。これおいしいよ」

「じゃあちょっとだけ」

 湊が端を少しかじる。

 美羽が嬉しそうに笑った。

「でしょ?」

「うん」

 たったそれだけ。

 でも。

 陽菜乃には、とても近い二人に見えた。

 文化祭の廊下。

 並んで歩いて。

 一つのクレープを食べて。

(……デートみたい)

 胸の奥が痛くなる。

「陽菜乃」

 美緒が声を落とす。

「行ってみる?」

「……いい」

「でも」

「楽しそうだもん」

 陽菜乃は笑ってみせた。

「邪魔しちゃ悪いよ」

 また。

 同じ言葉を使ってしまった。

 邪魔。

 最近の陽菜乃は、自分が湊の近くへ行くことをそんなふうに考えるようになっている。

 少し前までは。

 湊の隣へ行くのに理由なんていらなかったのに。

 幼馴染だから。

 それだけでよかった。

 でも今は。

 美羽の存在を見るたびに、自分がそこにいてはいけないような気がする。

「じゃあ別のところ行こう!」

 美緒が明るく言ってくれる。

「うん」

 二人が方向を変えようとした時。

「陽菜乃」

 後ろから声。

 柊真だった。

「柊真くん」

「休憩?」

「うん」

「俺も」

 柊真が片手に文化祭パンフレットを持っている。

「どっか行く?」

「え?」

「暇なんだろ」

「美緒ちゃんと――」

「あ、私、莉子と約束あった!」

 突然、美緒が言った。

「え?」

「忘れてた! ごめん陽菜乃!」

「美緒ちゃん?」

「水野くん、陽菜乃よろしく!」

「ちょっと!」

 美緒はあっという間に走っていってしまった。

「……何あれ」

 柊真が首をかしげる。

「私にも分からない」

 二人で顔を見合わせる。

 そして。

「じゃあ行く?」

 柊真が言う。

「……うん」

 陽菜乃は少し迷ってからうなずいた。


 二人で文化祭を回る。

 お化け屋敷。

 ゲーム。

 写真スポット。

「陽菜乃、あれやる?」

「射的?」

「取れたらやる」

「何を?」

 陽菜乃が景品を見る。

 一番上に、小さな白いうさぎのぬいぐるみがあった。

「かわいい……」

「それ?」

「うん。でも難しそう」

「じゃあ取る」

「え?」

 柊真が料金を払った。

「ちょっと、柊真くん!」

「見てろ」

 一発目。

 外れる。

「あ」

「笑うな」

「笑ってないよ」

「顔笑ってる」

「ちょっとだけ」

 二発目。

 景品の箱が少し動く。

 三発目。

 ころん、と落ちた。

「……取れた!」

 陽菜乃が思わず手をたたく。

 店番の生徒からぬいぐるみを受け取った柊真は、それをそのまま陽菜乃へ差し出した。

「はい」

「え?」

「欲しかったんだろ」

「でも柊真くんが取ったのに」

「俺がうさぎ持って帰ってどうすんだよ」

「かわいいよ?」

「俺に似合うと思う?」

 陽菜乃は、柊真とうさぎのぬいぐるみを見比べる。

「……ちょっと面白いかも」

「返せ」

「わっ、嘘!」

 陽菜乃は慌ててぬいぐるみを胸元へ抱えた。

「ありがとう。大事にする」

 嬉しくて笑う。

 柊真はその顔を見て、少しだけ目をそらした。

「……ならいい」


 その頃。

「湊くん?」

 美羽が首をかしげる。

「さっきからどこ見てるの?」

「別に」

 湊の視線の先。

 校庭のベンチ。

 陽菜乃と柊真が座っていた。

 陽菜乃の腕には、小さな白いうさぎ。

 二人で何かを話している。

 陽菜乃が笑う。

「……また水野」

「仲いいよね」

 美羽が言う。

「最近いつも一緒じゃない?」

「同じクラスだから」

 湊は自分に言い聞かせるように答えた。

「でも」

 美羽が少し笑う。

「文化祭を二人で回るって、結構デートっぽいよね」

 湊の胸が重くなる。

「……違うだろ」

「そう?」

「陽菜乃はそんな……」

 言いかけて止まる。

 そんな何だ?

 水野を好きじゃない。

 そう言える根拠なんてない。

 自分は陽菜乃から、そんな話を聞いたことがない。

 むしろ。

 最近の陽菜乃は、柊真を頼ることが増えている。

 お弁当まで作っていた。

 花火大会でも一緒だった。

 文化祭も二人。

(……もしかして)

 本当に。

 陽菜乃は柊真を好きになり始めているのかもしれない。

 そう考えた瞬間。

 胸の奥が、強く痛んだ。

「湊くん?」

「……」

「大丈夫?」

「うん」

 湊は答えた。

 でも。

 全然、大丈夫ではなかった。


 夕方。

 文化祭が終わりに近づき、校内の人も少しずつ減ってきた。

 陽菜乃は教室へ戻り、うさぎのぬいぐるみを鞄へ入れた。

 その時。

「陽菜乃」

 聞き慣れた声。

 振り返る。

「湊」

 教室の入り口に湊が立っていた。

 今日。

 ちゃんと話すのは初めてだった。

「ダンス」

「え?」

「よかった」

 陽菜乃の胸が跳ねる。

「……見ててくれた?」

「最初から最後まで」

「ほんと?」

「うん」

 嬉しい。

 やっぱり。

 湊から言われると、どうしてこんなに嬉しいのだろう。

「ありがとう」

 陽菜乃は自然に笑った。

 湊も少し笑う。

 でも。

 すぐに視線が陽菜乃の鞄へ向いた。

 少しだけ顔を出している白いうさぎ。

「それ何?」

「あ、これ?」

 陽菜乃がぬいぐるみを出す。

「柊真くんが取ってくれたの」

「……水野?」

「うん。射的で」

「へえ」

 また。

 湊の声が少し変わった。

「かわいいでしょう?」

「……そう?」

「かわいいよ」

「陽菜乃、そういうの好きだっけ」

「うん」

「俺、知らなかった」

「え?」

 湊は少しだけ寂しそうな顔をした。

 でもすぐに、

「なんでもない」

 と視線を外す。

 陽菜乃も胸が少し痛んだ。

 自分だって。

 湊の知らないことが増えている。

 美羽は知っていて。

 自分は知らない。

 同じなのかもしれない。

「湊」

「何?」

「今日……美羽ちゃんと回ってたね」

「ああ。買い出し」

「……楽しかった?」

「普通」

「そっか」

「陽菜乃は?」

「え?」

「水野と」

 少し迷う。

「……楽しかったよ」

 正直に答えた。

 湊の表情が、ほんの少し曇る。

「そっか」

 短い言葉。

 それ以上、何も言ってくれない。

 陽菜乃も聞けない。

 本当は。

 美羽とデートだったの?

 そんなふうに聞きたいのに。

「じゃあ俺、片づけ戻る」

「うん」

「帰り……」

 湊が何か言いかける。

「え?」

「いや。何でもない」

 そのまま教室を出ていった。

 陽菜乃は一人残される。

 手の中には、柊真にもらった白いうさぎ。

 胸の中には。

 湊から言われた、

『ダンス、よかった』

 という言葉。

 嬉しいことはあった。

 楽しいこともあった。

 それなのに。

 なぜか最後には、少しだけ寂しい。

 同じ文化祭にいたのに。

 湊は美羽と。

 陽菜乃は柊真と。

 お互いに別の人の隣で過ごした一日。

 少し前まで。

 学校行事の日には、最後は必ず湊の隣にいた。

 それが当たり前だった。

 でも今は。

 その「当たり前」が。

 少しずつ、変わり始めていた。