ずっと隣にいた君が、遠くなった春

「陽菜乃、遅い」

玄関のドアを開けたとたん、聞き慣れた声が飛んできた。

「ご、ごめん……!」

小宮山陽菜乃は、ローファーを履きながら慌てて鞄を肩にかけた。

四月の朝。

家の前の桜は満開を少し過ぎていて、風が吹くたび、薄い花びらが住宅街の道に舞い落ちている。

門の前には、制服姿の男の子が立っていた。

成瀬湊。

陽菜乃の家の隣に住んでいる、幼稚園の頃からの幼馴染だ。

「七分待った」

「七分……」

「昨日、『絶対待たせない』って言ってたの誰?」

「……私です」

「だよな」

湊はあきれたように笑う。

その肩には、学校の鞄とは別に大きなスポーツバッグがかかっていた。

サッカー部のレギュラーである湊は、朝から部活の荷物が多い。

陽菜乃はそんな湊の前で両手を合わせた。

「ほんとにごめんね。髪がうまくまとまらなくて……」

「そこ?」

「だって今日、クラス写真あるでしょう?」

「誰もそこまで見てないって」

「湊はそういうの気にしなさすぎなの」

「陽菜乃が気にしすぎなんだよ」

そう言いながら、湊は陽菜乃の頭をじっと見る。

「な、なに?」

「いや」

湊の手が伸びてきた。

陽菜乃は反射的に肩をすくめる。

けれど湊は、陽菜乃の髪についた小さな桜の花びらを取っただけだった。

「ついてた」

「あ……ありがとう」

たったそれだけなのに、胸が小さく跳ねる。

陽菜乃はごまかすように顔を下げた。

湊は昔からこうだ。

困っていたら助けてくれる。

忘れ物をしたら貸してくれる。

人混みでは、はぐれないよう歩く速さを合わせてくれる。

小学生の頃から何も変わらない。

だから、こんなことでどきどきする自分のほうがおかしいのだと思う。

「行くぞ。ほんとに遅刻する」

「うん」

湊が歩き出し、陽菜乃もその隣に並ぶ。

それが、ずっと当たり前だった。

「成瀬くん、おはよう!」

校門を入ったところで、女子生徒の声が飛んできた。

「おはよう」

湊が軽く手を上げる。

それだけで、少し離れたところにいた女の子たちまで湊を見る。

陽菜乃はこっそり横顔を見上げた。

湊がモテることは知っている。

背が高くて、サッカーも上手で、笑うと爽やか。

おまけに、誰にでも自然に話せる。

一年生の頃から、何度も女子に告白されていた。

そのたびに陽菜乃は少しだけ胸がざわざわしたけれど、湊に彼女ができたという話は聞いたことがない。

だから安心していた。

たぶん……。

「陽菜乃」

「え?」

「またぼーっとしてる」

気づけば、湊が少し先から振り返っていた。

「ごめん」

「朝から何回謝ってんだよ」

「だって……」

慌てて追いつこうとして、陽菜乃は校舎前の小さな段差につまずいた。

「きゃっ」

前へ倒れそうになった瞬間。

ぐいっと腕を引かれる。

「危な」

気づけば、湊に腕をつかまれていた。

「……ありがとう」

「ほんとに見てて心配になる」

「そんなに?」

「何もないところで転びかけるやつ、なかなかいないから」

「もう……」

恥ずかしくなり、陽菜乃は頬をふくらませる。

すると湊が笑った。

こういう笑顔を見ると、やっぱり思う。

私は、この人が好きなんだ。

いつからかは分からない。

気づけばずっと。

でも、この気持ちは伝えられない。

だって――。

「じゃ、俺こっち」

昇降口で湊が五組のほうを指した。

「うん。私は二組」

「帰り、今日もダンス部?」

「うん。たぶん六時くらいまで」

「俺も部活」

「じゃあ今日は一緒に帰れないね」

そう口にした瞬間、自分でも驚くほど寂しくなった。

昔は、毎日のように一緒に帰っていた。

でも高校に入ってからは、湊はサッカー部。

陽菜乃はダンス部。

放課後の時間が合わない日が増えている。

「終わる時間合ったら連絡する」

湊が何でもないことのように言った。

陽菜乃は顔を上げる。

「ほんと?」

「一緒に帰れるだろ」

「……うん」

うれしくなって笑うと、湊が少しだけ目をそらした。

「じゃあな」

「うん。またあとで」

別々の廊下へ向かう。

ほんの少し離れるだけ。

それなのに陽菜乃は、何度も振り返りたくなる自分をこらえた。

「小宮山、おはよ」

教室に入った瞬間、低めの声をかけられた。

陽菜乃はびくっとして振り向く。

教室の後ろの席に、一人の男子が座っている。

少し明るい髪。

制服のネクタイも少しゆるい。

椅子に深く座って、窓の外を見ていた。

水野柊真。

同じクラスの男子だ。

目つきが少し鋭く、学校では、

『水野って怖いよね』

『中学の時、喧嘩してたらしいよ』

なんて噂もある。

陽菜乃自身、ちゃんと話したことはほとんどなかった。

「お、おはよう……」

「……なんでそんなびびってんの」

「び、びびってないよ」

「声震えてるけど」

柊真が少し笑った。

からかわれている。

そう分かっても、陽菜乃は恥ずかしくて視線を下げる。

「悪い。別に怒ってないから」

「うん……」

自分の席へ向かおうとした時だった。

鞄の口から、クリアファイルがするりと落ちる。

「あっ」

さらに筆箱。

ノート。

次々と床へ落ちた。

「……」

陽菜乃は固まった。

朝から何をやっているんだろう。

しゃがもうとした時、先に柊真が立ち上がる。

「ほんと危なっかしいな」

「ご、ごめんなさい」

「だからなんで俺に謝るんだよ」

柊真は床に落ちたノートを拾い、陽菜乃へ差し出した。

「ほら」

「ありがとう」

「あとは?」

「え?」

「まだ机の下に一冊ある」

「あ……ほんとだ」

陽菜乃が取ろうとすると、机の脚に頭をぶつけそうになる。

その前に、柊真の手が机の端を押さえた。

「待て。今ぶつけるだろ」

「……」

「図星?」

陽菜乃は何も言えなくなった。

柊真は小さく笑って、最後のノートも拾ってくれる。

「はい」

「あ、ありがとう……」

「小宮山って、いつもこんな感じ?」

「いつもじゃないよ」

「ほんとか?」

「……たぶん」

「自信ないじゃん」

初めて、柊真がはっきり笑った。

怖いと思っていた顔が、急に普通の高校生に見える。

陽菜乃もつられて、少し笑った。

「水野くんって、思ってたより優しいね」

言ってから、

(あ)

と思った。

失礼だったかもしれない。

けれど柊真は怒らなかった。

「それ、どういう意味?」

「ご、ごめん!」

「また謝った」

「だって……」

柊真は陽菜乃の慌てた顔を見て、楽しそうに笑う。

「まあいいけど」

それから少しだけ声を落とした。

「噂、全部信じんなよ」

陽菜乃は目を丸くする。

「え?」

「なんでもない」

ちょうどその時、担任が教室へ入ってきた。

柊真は自分の席へ戻る。

陽菜乃はその背中を見ながら思った。

(やっぱり、怖い人じゃないのかも)

それが、水野柊真とちゃんと話した最初の日だった。

放課後。

体育館では、ダンス部の音楽が響いていた。

「陽菜乃、次もう少し手を高く!」

「はい!」

先輩の声に答え、陽菜乃は腕を伸ばす。

授業中はおとなしいと言われることが多い。

でも、踊っている時だけは違った。

音楽が流れると、不思議と恥ずかしさがなくなる。

体を動かすのが楽しい。

みんなと動きがそろう瞬間も好き。

気づけば一時間以上が過ぎていた。

「今日はここまで!」

部長の声が響く。

「お疲れさまでした!」

みんなで頭を下げる。

陽菜乃はタオルで額の汗をぬぐい、スマホを見る。

六時十二分。

通知はない。

(湊、まだ部活かな)

一緒に帰れたらいいな。

そう思いながら、制服に着替えて体育館を出た。

夕方の校舎は、昼間よりずっと静かだった。

窓の外は、少しずつオレンジ色に染まり始めている。

陽菜乃は昇降口へ向かう途中、グラウンドの横を通った。

サッカー部はまだ練習中らしい。

ボールを蹴る音。

選手たちの声。

笛の音。

何となく足を止める。

広いグラウンドの中でも、湊はすぐ見つかった。

青い練習着を着て走っている。

小学生の頃からサッカーをしてきた湊。

試合をする姿は何度も見ている。

でも高校に入ってから、練習をこうして眺める機会は減っていた。

「湊……」

もちろん届かないくらい小さな声で呼んだ。

その時。

ピーッと笛が鳴り、練習が一度止まった。

選手たちがベンチへ戻ってくる。

陽菜乃は、

(終わるのかな)

と少し期待した。

でも。

「湊くん!」

女の子の明るい声が聞こえた。

陽菜乃の視線が自然とそちらへ向く。

ベンチのそばに、一人の女の子が立っていた。

肩につくくらいの髪を一つにまとめ、サッカー部のジャージを着ている。

手にはタオルとスポーツドリンク。

「はい。お疲れさま」

その女の子は迷うことなく湊へ近づき、飲み物を差し出した。

「ありがとう、美羽」

湊が受け取る。

陽菜乃の胸が、ちくっとした。

(美羽……?)

知らない名前だった。

女子マネージャーだろうか。

そういえば、今年からサッカー部に新しいマネージャーが入ったと聞いた気がする。

「今日すごかったね。シュート決めてたでしょ?」

「練習だから」

「練習でもすごいよ」

女の子――美羽は楽しそうに笑う。

湊も普通に返事をしている。

ただそれだけ。

何もおかしくない。

マネージャーが選手に飲み物を渡すなんて、当たり前だ。

頭では分かっている。

なのに。

なぜか、そこへ近づけなかった。

今までは。

湊の隣に女の子がいても、こんな気持ちにはならなかったはずなのに。

美羽は湊のすぐ横に立っている。

近い。

とても自然に見える。

まるで、そこがずっと自分の場所だったみたいに。

陽菜乃は制服の袖口をぎゅっと握った。

(変なの)

自分には関係ない。

湊と自分は、ただの幼馴染。

恋人じゃない。

美羽が誰であろうと、湊とどれだけ仲がよかろうと、口を出せる立場ではない。

それでも。

『ありがとう、美羽』

名前で呼んでいた。

そんな小さなことまで気になってしまう。

「あれ? 陽菜乃?」

背後から声がして、陽菜乃はびくっとした。

振り向くと、ダンス部の親友・佐伯美緒が立っていた。

「どうしたの? 帰らないの?」

「う、うん。今帰るところ」

「グラウンド見てた?」

「ちょっとだけ」

美緒は陽菜乃の視線の先を見る。

そしてすぐ、湊と美羽を見つけた。

「ああ。一ノ瀬美羽ちゃん」

「知ってるの?」

「有名じゃん。サッカー部のマネージャー。可愛いし」

「……そうなんだ」

「成瀬くんと同じクラスらしいよ」

陽菜乃の胸が、また少しざわつく。

同じクラス。

同じサッカー部。

放課後も一緒。

陽菜乃が知らない湊を、美羽はたくさん知っているのかもしれない。

「陽菜乃?」

「え?」

「顔、ちょっと暗いけど」

「そんなことないよ」

陽菜乃は慌てて笑った。

「帰ろ、美緒ちゃん」

「うん」

グラウンドに背を向ける。

本当は、湊に声をかけようと思っていた。

一緒に帰れそうか聞こうと思っていた。

でも、できなかった。


次の日。

朝の教室で、美緒が突然スマホを陽菜乃の前へ置いた。

「ねえ、陽菜乃」

「なに?」

「昨日のことなんだけど」

画面には、クラスのグループチャットが映っている。

『成瀬と一ノ瀬って付き合ってるってほんと?』

その文字を見た瞬間。

陽菜乃の指先が止まった。

「……え?」

「なんか噂になってるみたい」

「付き合って……?」

「まだ噂だよ」

美緒が慌てて付け足す。

でも陽菜乃には、その後の言葉があまり入ってこなかった。

昨日見た二人の姿が浮かぶ。

湊の隣にいた美羽。

当然のように飲み物を渡していた。

名前で呼び合っていた。

そして――とても、お似合いに見えた。

「本人に聞いてみたら?」

美緒が言う。

陽菜乃は顔を上げた。

「湊に?」

「うん。幼馴染なんでしょ?」

「……」

聞けばいい。

たった一言。

『美羽ちゃんと付き合ってるの?』

それだけなのに。

陽菜乃には、どうしても言える気がしなかった。

もし。

湊が笑って、

『うん』

と答えたら。

その瞬間、自分はどんな顔をすればいいのだろう。

「……聞かなくていい」

「陽菜乃?」

陽菜乃は小さく笑った。

「湊が誰と付き合ってても、私には関係ないもん」

口にした瞬間、胸が痛くなった。

関係ない。

そんなわけないのに。

ずっと好きだった。

誰より近くにいた。

ずっと自分が一番近いと思っていた。

でも――。

幼馴染だからといって。

これからもずっと、湊の隣にいられるとは限らない。

そんな当たり前のことを。

陽菜乃は十六歳の春になって、初めて知った。