「陽菜乃、遅い」
玄関のドアを開けたとたん、聞き慣れた声が飛んできた。
「ご、ごめん……!」
小宮山陽菜乃は、ローファーを履きながら慌てて鞄を肩にかけた。
四月の朝。
家の前の桜は満開を少し過ぎていて、風が吹くたび、薄い花びらが住宅街の道に舞い落ちている。
門の前には、制服姿の男の子が立っていた。
成瀬湊。
陽菜乃の家の隣に住んでいる、幼稚園の頃からの幼馴染だ。
「七分待った」
「七分……」
「昨日、『絶対待たせない』って言ってたの誰?」
「……私です」
「だよな」
湊はあきれたように笑う。
その肩には、学校の鞄とは別に大きなスポーツバッグがかかっていた。
サッカー部のレギュラーである湊は、朝から部活の荷物が多い。
陽菜乃はそんな湊の前で両手を合わせた。
「ほんとにごめんね。髪がうまくまとまらなくて……」
「そこ?」
「だって今日、クラス写真あるでしょう?」
「誰もそこまで見てないって」
「湊はそういうの気にしなさすぎなの」
「陽菜乃が気にしすぎなんだよ」
そう言いながら、湊は陽菜乃の頭をじっと見る。
「な、なに?」
「いや」
湊の手が伸びてきた。
陽菜乃は反射的に肩をすくめる。
けれど湊は、陽菜乃の髪についた小さな桜の花びらを取っただけだった。
「ついてた」
「あ……ありがとう」
たったそれだけなのに、胸が小さく跳ねる。
陽菜乃はごまかすように顔を下げた。
湊は昔からこうだ。
困っていたら助けてくれる。
忘れ物をしたら貸してくれる。
人混みでは、はぐれないよう歩く速さを合わせてくれる。
小学生の頃から何も変わらない。
だから、こんなことでどきどきする自分のほうがおかしいのだと思う。
「行くぞ。ほんとに遅刻する」
「うん」
湊が歩き出し、陽菜乃もその隣に並ぶ。
それが、ずっと当たり前だった。
「成瀬くん、おはよう!」
校門を入ったところで、女子生徒の声が飛んできた。
「おはよう」
湊が軽く手を上げる。
それだけで、少し離れたところにいた女の子たちまで湊を見る。
陽菜乃はこっそり横顔を見上げた。
湊がモテることは知っている。
背が高くて、サッカーも上手で、笑うと爽やか。
おまけに、誰にでも自然に話せる。
一年生の頃から、何度も女子に告白されていた。
そのたびに陽菜乃は少しだけ胸がざわざわしたけれど、湊に彼女ができたという話は聞いたことがない。
だから安心していた。
たぶん……。
「陽菜乃」
「え?」
「またぼーっとしてる」
気づけば、湊が少し先から振り返っていた。
「ごめん」
「朝から何回謝ってんだよ」
「だって……」
慌てて追いつこうとして、陽菜乃は校舎前の小さな段差につまずいた。
「きゃっ」
前へ倒れそうになった瞬間。
ぐいっと腕を引かれる。
「危な」
気づけば、湊に腕をつかまれていた。
「……ありがとう」
「ほんとに見てて心配になる」
「そんなに?」
「何もないところで転びかけるやつ、なかなかいないから」
「もう……」
恥ずかしくなり、陽菜乃は頬をふくらませる。
すると湊が笑った。
こういう笑顔を見ると、やっぱり思う。
私は、この人が好きなんだ。
いつからかは分からない。
気づけばずっと。
でも、この気持ちは伝えられない。
だって――。
「じゃ、俺こっち」
昇降口で湊が五組のほうを指した。
「うん。私は二組」
「帰り、今日もダンス部?」
「うん。たぶん六時くらいまで」
「俺も部活」
「じゃあ今日は一緒に帰れないね」
そう口にした瞬間、自分でも驚くほど寂しくなった。
昔は、毎日のように一緒に帰っていた。
でも高校に入ってからは、湊はサッカー部。
陽菜乃はダンス部。
放課後の時間が合わない日が増えている。
「終わる時間合ったら連絡する」
湊が何でもないことのように言った。
陽菜乃は顔を上げる。
「ほんと?」
「一緒に帰れるだろ」
「……うん」
うれしくなって笑うと、湊が少しだけ目をそらした。
「じゃあな」
「うん。またあとで」
別々の廊下へ向かう。
ほんの少し離れるだけ。
それなのに陽菜乃は、何度も振り返りたくなる自分をこらえた。
「小宮山、おはよ」
教室に入った瞬間、低めの声をかけられた。
陽菜乃はびくっとして振り向く。
教室の後ろの席に、一人の男子が座っている。
少し明るい髪。
制服のネクタイも少しゆるい。
椅子に深く座って、窓の外を見ていた。
水野柊真。
同じクラスの男子だ。
目つきが少し鋭く、学校では、
『水野って怖いよね』
『中学の時、喧嘩してたらしいよ』
なんて噂もある。
陽菜乃自身、ちゃんと話したことはほとんどなかった。
「お、おはよう……」
「……なんでそんなびびってんの」
「び、びびってないよ」
「声震えてるけど」
柊真が少し笑った。
からかわれている。
そう分かっても、陽菜乃は恥ずかしくて視線を下げる。
「悪い。別に怒ってないから」
「うん……」
自分の席へ向かおうとした時だった。
鞄の口から、クリアファイルがするりと落ちる。
「あっ」
さらに筆箱。
ノート。
次々と床へ落ちた。
「……」
陽菜乃は固まった。
朝から何をやっているんだろう。
しゃがもうとした時、先に柊真が立ち上がる。
「ほんと危なっかしいな」
「ご、ごめんなさい」
「だからなんで俺に謝るんだよ」
柊真は床に落ちたノートを拾い、陽菜乃へ差し出した。
「ほら」
「ありがとう」
「あとは?」
「え?」
「まだ机の下に一冊ある」
「あ……ほんとだ」
陽菜乃が取ろうとすると、机の脚に頭をぶつけそうになる。
その前に、柊真の手が机の端を押さえた。
「待て。今ぶつけるだろ」
「……」
「図星?」
陽菜乃は何も言えなくなった。
柊真は小さく笑って、最後のノートも拾ってくれる。
「はい」
「あ、ありがとう……」
「小宮山って、いつもこんな感じ?」
「いつもじゃないよ」
「ほんとか?」
「……たぶん」
「自信ないじゃん」
初めて、柊真がはっきり笑った。
怖いと思っていた顔が、急に普通の高校生に見える。
陽菜乃もつられて、少し笑った。
「水野くんって、思ってたより優しいね」
言ってから、
(あ)
と思った。
失礼だったかもしれない。
けれど柊真は怒らなかった。
「それ、どういう意味?」
「ご、ごめん!」
「また謝った」
「だって……」
柊真は陽菜乃の慌てた顔を見て、楽しそうに笑う。
「まあいいけど」
それから少しだけ声を落とした。
「噂、全部信じんなよ」
陽菜乃は目を丸くする。
「え?」
「なんでもない」
ちょうどその時、担任が教室へ入ってきた。
柊真は自分の席へ戻る。
陽菜乃はその背中を見ながら思った。
(やっぱり、怖い人じゃないのかも)
それが、水野柊真とちゃんと話した最初の日だった。
放課後。
体育館では、ダンス部の音楽が響いていた。
「陽菜乃、次もう少し手を高く!」
「はい!」
先輩の声に答え、陽菜乃は腕を伸ばす。
授業中はおとなしいと言われることが多い。
でも、踊っている時だけは違った。
音楽が流れると、不思議と恥ずかしさがなくなる。
体を動かすのが楽しい。
みんなと動きがそろう瞬間も好き。
気づけば一時間以上が過ぎていた。
「今日はここまで!」
部長の声が響く。
「お疲れさまでした!」
みんなで頭を下げる。
陽菜乃はタオルで額の汗をぬぐい、スマホを見る。
六時十二分。
通知はない。
(湊、まだ部活かな)
一緒に帰れたらいいな。
そう思いながら、制服に着替えて体育館を出た。
夕方の校舎は、昼間よりずっと静かだった。
窓の外は、少しずつオレンジ色に染まり始めている。
陽菜乃は昇降口へ向かう途中、グラウンドの横を通った。
サッカー部はまだ練習中らしい。
ボールを蹴る音。
選手たちの声。
笛の音。
何となく足を止める。
広いグラウンドの中でも、湊はすぐ見つかった。
青い練習着を着て走っている。
小学生の頃からサッカーをしてきた湊。
試合をする姿は何度も見ている。
でも高校に入ってから、練習をこうして眺める機会は減っていた。
「湊……」
もちろん届かないくらい小さな声で呼んだ。
その時。
ピーッと笛が鳴り、練習が一度止まった。
選手たちがベンチへ戻ってくる。
陽菜乃は、
(終わるのかな)
と少し期待した。
でも。
「湊くん!」
女の子の明るい声が聞こえた。
陽菜乃の視線が自然とそちらへ向く。
ベンチのそばに、一人の女の子が立っていた。
肩につくくらいの髪を一つにまとめ、サッカー部のジャージを着ている。
手にはタオルとスポーツドリンク。
「はい。お疲れさま」
その女の子は迷うことなく湊へ近づき、飲み物を差し出した。
「ありがとう、美羽」
湊が受け取る。
陽菜乃の胸が、ちくっとした。
(美羽……?)
知らない名前だった。
女子マネージャーだろうか。
そういえば、今年からサッカー部に新しいマネージャーが入ったと聞いた気がする。
「今日すごかったね。シュート決めてたでしょ?」
「練習だから」
「練習でもすごいよ」
女の子――美羽は楽しそうに笑う。
湊も普通に返事をしている。
ただそれだけ。
何もおかしくない。
マネージャーが選手に飲み物を渡すなんて、当たり前だ。
頭では分かっている。
なのに。
なぜか、そこへ近づけなかった。
今までは。
湊の隣に女の子がいても、こんな気持ちにはならなかったはずなのに。
美羽は湊のすぐ横に立っている。
近い。
とても自然に見える。
まるで、そこがずっと自分の場所だったみたいに。
陽菜乃は制服の袖口をぎゅっと握った。
(変なの)
自分には関係ない。
湊と自分は、ただの幼馴染。
恋人じゃない。
美羽が誰であろうと、湊とどれだけ仲がよかろうと、口を出せる立場ではない。
それでも。
『ありがとう、美羽』
名前で呼んでいた。
そんな小さなことまで気になってしまう。
「あれ? 陽菜乃?」
背後から声がして、陽菜乃はびくっとした。
振り向くと、ダンス部の親友・佐伯美緒が立っていた。
「どうしたの? 帰らないの?」
「う、うん。今帰るところ」
「グラウンド見てた?」
「ちょっとだけ」
美緒は陽菜乃の視線の先を見る。
そしてすぐ、湊と美羽を見つけた。
「ああ。一ノ瀬美羽ちゃん」
「知ってるの?」
「有名じゃん。サッカー部のマネージャー。可愛いし」
「……そうなんだ」
「成瀬くんと同じクラスらしいよ」
陽菜乃の胸が、また少しざわつく。
同じクラス。
同じサッカー部。
放課後も一緒。
陽菜乃が知らない湊を、美羽はたくさん知っているのかもしれない。
「陽菜乃?」
「え?」
「顔、ちょっと暗いけど」
「そんなことないよ」
陽菜乃は慌てて笑った。
「帰ろ、美緒ちゃん」
「うん」
グラウンドに背を向ける。
本当は、湊に声をかけようと思っていた。
一緒に帰れそうか聞こうと思っていた。
でも、できなかった。
次の日。
朝の教室で、美緒が突然スマホを陽菜乃の前へ置いた。
「ねえ、陽菜乃」
「なに?」
「昨日のことなんだけど」
画面には、クラスのグループチャットが映っている。
『成瀬と一ノ瀬って付き合ってるってほんと?』
その文字を見た瞬間。
陽菜乃の指先が止まった。
「……え?」
「なんか噂になってるみたい」
「付き合って……?」
「まだ噂だよ」
美緒が慌てて付け足す。
でも陽菜乃には、その後の言葉があまり入ってこなかった。
昨日見た二人の姿が浮かぶ。
湊の隣にいた美羽。
当然のように飲み物を渡していた。
名前で呼び合っていた。
そして――とても、お似合いに見えた。
「本人に聞いてみたら?」
美緒が言う。
陽菜乃は顔を上げた。
「湊に?」
「うん。幼馴染なんでしょ?」
「……」
聞けばいい。
たった一言。
『美羽ちゃんと付き合ってるの?』
それだけなのに。
陽菜乃には、どうしても言える気がしなかった。
もし。
湊が笑って、
『うん』
と答えたら。
その瞬間、自分はどんな顔をすればいいのだろう。
「……聞かなくていい」
「陽菜乃?」
陽菜乃は小さく笑った。
「湊が誰と付き合ってても、私には関係ないもん」
口にした瞬間、胸が痛くなった。
関係ない。
そんなわけないのに。
ずっと好きだった。
誰より近くにいた。
ずっと自分が一番近いと思っていた。
でも――。
幼馴染だからといって。
これからもずっと、湊の隣にいられるとは限らない。
そんな当たり前のことを。
陽菜乃は十六歳の春になって、初めて知った。
玄関のドアを開けたとたん、聞き慣れた声が飛んできた。
「ご、ごめん……!」
小宮山陽菜乃は、ローファーを履きながら慌てて鞄を肩にかけた。
四月の朝。
家の前の桜は満開を少し過ぎていて、風が吹くたび、薄い花びらが住宅街の道に舞い落ちている。
門の前には、制服姿の男の子が立っていた。
成瀬湊。
陽菜乃の家の隣に住んでいる、幼稚園の頃からの幼馴染だ。
「七分待った」
「七分……」
「昨日、『絶対待たせない』って言ってたの誰?」
「……私です」
「だよな」
湊はあきれたように笑う。
その肩には、学校の鞄とは別に大きなスポーツバッグがかかっていた。
サッカー部のレギュラーである湊は、朝から部活の荷物が多い。
陽菜乃はそんな湊の前で両手を合わせた。
「ほんとにごめんね。髪がうまくまとまらなくて……」
「そこ?」
「だって今日、クラス写真あるでしょう?」
「誰もそこまで見てないって」
「湊はそういうの気にしなさすぎなの」
「陽菜乃が気にしすぎなんだよ」
そう言いながら、湊は陽菜乃の頭をじっと見る。
「な、なに?」
「いや」
湊の手が伸びてきた。
陽菜乃は反射的に肩をすくめる。
けれど湊は、陽菜乃の髪についた小さな桜の花びらを取っただけだった。
「ついてた」
「あ……ありがとう」
たったそれだけなのに、胸が小さく跳ねる。
陽菜乃はごまかすように顔を下げた。
湊は昔からこうだ。
困っていたら助けてくれる。
忘れ物をしたら貸してくれる。
人混みでは、はぐれないよう歩く速さを合わせてくれる。
小学生の頃から何も変わらない。
だから、こんなことでどきどきする自分のほうがおかしいのだと思う。
「行くぞ。ほんとに遅刻する」
「うん」
湊が歩き出し、陽菜乃もその隣に並ぶ。
それが、ずっと当たり前だった。
「成瀬くん、おはよう!」
校門を入ったところで、女子生徒の声が飛んできた。
「おはよう」
湊が軽く手を上げる。
それだけで、少し離れたところにいた女の子たちまで湊を見る。
陽菜乃はこっそり横顔を見上げた。
湊がモテることは知っている。
背が高くて、サッカーも上手で、笑うと爽やか。
おまけに、誰にでも自然に話せる。
一年生の頃から、何度も女子に告白されていた。
そのたびに陽菜乃は少しだけ胸がざわざわしたけれど、湊に彼女ができたという話は聞いたことがない。
だから安心していた。
たぶん……。
「陽菜乃」
「え?」
「またぼーっとしてる」
気づけば、湊が少し先から振り返っていた。
「ごめん」
「朝から何回謝ってんだよ」
「だって……」
慌てて追いつこうとして、陽菜乃は校舎前の小さな段差につまずいた。
「きゃっ」
前へ倒れそうになった瞬間。
ぐいっと腕を引かれる。
「危な」
気づけば、湊に腕をつかまれていた。
「……ありがとう」
「ほんとに見てて心配になる」
「そんなに?」
「何もないところで転びかけるやつ、なかなかいないから」
「もう……」
恥ずかしくなり、陽菜乃は頬をふくらませる。
すると湊が笑った。
こういう笑顔を見ると、やっぱり思う。
私は、この人が好きなんだ。
いつからかは分からない。
気づけばずっと。
でも、この気持ちは伝えられない。
だって――。
「じゃ、俺こっち」
昇降口で湊が五組のほうを指した。
「うん。私は二組」
「帰り、今日もダンス部?」
「うん。たぶん六時くらいまで」
「俺も部活」
「じゃあ今日は一緒に帰れないね」
そう口にした瞬間、自分でも驚くほど寂しくなった。
昔は、毎日のように一緒に帰っていた。
でも高校に入ってからは、湊はサッカー部。
陽菜乃はダンス部。
放課後の時間が合わない日が増えている。
「終わる時間合ったら連絡する」
湊が何でもないことのように言った。
陽菜乃は顔を上げる。
「ほんと?」
「一緒に帰れるだろ」
「……うん」
うれしくなって笑うと、湊が少しだけ目をそらした。
「じゃあな」
「うん。またあとで」
別々の廊下へ向かう。
ほんの少し離れるだけ。
それなのに陽菜乃は、何度も振り返りたくなる自分をこらえた。
「小宮山、おはよ」
教室に入った瞬間、低めの声をかけられた。
陽菜乃はびくっとして振り向く。
教室の後ろの席に、一人の男子が座っている。
少し明るい髪。
制服のネクタイも少しゆるい。
椅子に深く座って、窓の外を見ていた。
水野柊真。
同じクラスの男子だ。
目つきが少し鋭く、学校では、
『水野って怖いよね』
『中学の時、喧嘩してたらしいよ』
なんて噂もある。
陽菜乃自身、ちゃんと話したことはほとんどなかった。
「お、おはよう……」
「……なんでそんなびびってんの」
「び、びびってないよ」
「声震えてるけど」
柊真が少し笑った。
からかわれている。
そう分かっても、陽菜乃は恥ずかしくて視線を下げる。
「悪い。別に怒ってないから」
「うん……」
自分の席へ向かおうとした時だった。
鞄の口から、クリアファイルがするりと落ちる。
「あっ」
さらに筆箱。
ノート。
次々と床へ落ちた。
「……」
陽菜乃は固まった。
朝から何をやっているんだろう。
しゃがもうとした時、先に柊真が立ち上がる。
「ほんと危なっかしいな」
「ご、ごめんなさい」
「だからなんで俺に謝るんだよ」
柊真は床に落ちたノートを拾い、陽菜乃へ差し出した。
「ほら」
「ありがとう」
「あとは?」
「え?」
「まだ机の下に一冊ある」
「あ……ほんとだ」
陽菜乃が取ろうとすると、机の脚に頭をぶつけそうになる。
その前に、柊真の手が机の端を押さえた。
「待て。今ぶつけるだろ」
「……」
「図星?」
陽菜乃は何も言えなくなった。
柊真は小さく笑って、最後のノートも拾ってくれる。
「はい」
「あ、ありがとう……」
「小宮山って、いつもこんな感じ?」
「いつもじゃないよ」
「ほんとか?」
「……たぶん」
「自信ないじゃん」
初めて、柊真がはっきり笑った。
怖いと思っていた顔が、急に普通の高校生に見える。
陽菜乃もつられて、少し笑った。
「水野くんって、思ってたより優しいね」
言ってから、
(あ)
と思った。
失礼だったかもしれない。
けれど柊真は怒らなかった。
「それ、どういう意味?」
「ご、ごめん!」
「また謝った」
「だって……」
柊真は陽菜乃の慌てた顔を見て、楽しそうに笑う。
「まあいいけど」
それから少しだけ声を落とした。
「噂、全部信じんなよ」
陽菜乃は目を丸くする。
「え?」
「なんでもない」
ちょうどその時、担任が教室へ入ってきた。
柊真は自分の席へ戻る。
陽菜乃はその背中を見ながら思った。
(やっぱり、怖い人じゃないのかも)
それが、水野柊真とちゃんと話した最初の日だった。
放課後。
体育館では、ダンス部の音楽が響いていた。
「陽菜乃、次もう少し手を高く!」
「はい!」
先輩の声に答え、陽菜乃は腕を伸ばす。
授業中はおとなしいと言われることが多い。
でも、踊っている時だけは違った。
音楽が流れると、不思議と恥ずかしさがなくなる。
体を動かすのが楽しい。
みんなと動きがそろう瞬間も好き。
気づけば一時間以上が過ぎていた。
「今日はここまで!」
部長の声が響く。
「お疲れさまでした!」
みんなで頭を下げる。
陽菜乃はタオルで額の汗をぬぐい、スマホを見る。
六時十二分。
通知はない。
(湊、まだ部活かな)
一緒に帰れたらいいな。
そう思いながら、制服に着替えて体育館を出た。
夕方の校舎は、昼間よりずっと静かだった。
窓の外は、少しずつオレンジ色に染まり始めている。
陽菜乃は昇降口へ向かう途中、グラウンドの横を通った。
サッカー部はまだ練習中らしい。
ボールを蹴る音。
選手たちの声。
笛の音。
何となく足を止める。
広いグラウンドの中でも、湊はすぐ見つかった。
青い練習着を着て走っている。
小学生の頃からサッカーをしてきた湊。
試合をする姿は何度も見ている。
でも高校に入ってから、練習をこうして眺める機会は減っていた。
「湊……」
もちろん届かないくらい小さな声で呼んだ。
その時。
ピーッと笛が鳴り、練習が一度止まった。
選手たちがベンチへ戻ってくる。
陽菜乃は、
(終わるのかな)
と少し期待した。
でも。
「湊くん!」
女の子の明るい声が聞こえた。
陽菜乃の視線が自然とそちらへ向く。
ベンチのそばに、一人の女の子が立っていた。
肩につくくらいの髪を一つにまとめ、サッカー部のジャージを着ている。
手にはタオルとスポーツドリンク。
「はい。お疲れさま」
その女の子は迷うことなく湊へ近づき、飲み物を差し出した。
「ありがとう、美羽」
湊が受け取る。
陽菜乃の胸が、ちくっとした。
(美羽……?)
知らない名前だった。
女子マネージャーだろうか。
そういえば、今年からサッカー部に新しいマネージャーが入ったと聞いた気がする。
「今日すごかったね。シュート決めてたでしょ?」
「練習だから」
「練習でもすごいよ」
女の子――美羽は楽しそうに笑う。
湊も普通に返事をしている。
ただそれだけ。
何もおかしくない。
マネージャーが選手に飲み物を渡すなんて、当たり前だ。
頭では分かっている。
なのに。
なぜか、そこへ近づけなかった。
今までは。
湊の隣に女の子がいても、こんな気持ちにはならなかったはずなのに。
美羽は湊のすぐ横に立っている。
近い。
とても自然に見える。
まるで、そこがずっと自分の場所だったみたいに。
陽菜乃は制服の袖口をぎゅっと握った。
(変なの)
自分には関係ない。
湊と自分は、ただの幼馴染。
恋人じゃない。
美羽が誰であろうと、湊とどれだけ仲がよかろうと、口を出せる立場ではない。
それでも。
『ありがとう、美羽』
名前で呼んでいた。
そんな小さなことまで気になってしまう。
「あれ? 陽菜乃?」
背後から声がして、陽菜乃はびくっとした。
振り向くと、ダンス部の親友・佐伯美緒が立っていた。
「どうしたの? 帰らないの?」
「う、うん。今帰るところ」
「グラウンド見てた?」
「ちょっとだけ」
美緒は陽菜乃の視線の先を見る。
そしてすぐ、湊と美羽を見つけた。
「ああ。一ノ瀬美羽ちゃん」
「知ってるの?」
「有名じゃん。サッカー部のマネージャー。可愛いし」
「……そうなんだ」
「成瀬くんと同じクラスらしいよ」
陽菜乃の胸が、また少しざわつく。
同じクラス。
同じサッカー部。
放課後も一緒。
陽菜乃が知らない湊を、美羽はたくさん知っているのかもしれない。
「陽菜乃?」
「え?」
「顔、ちょっと暗いけど」
「そんなことないよ」
陽菜乃は慌てて笑った。
「帰ろ、美緒ちゃん」
「うん」
グラウンドに背を向ける。
本当は、湊に声をかけようと思っていた。
一緒に帰れそうか聞こうと思っていた。
でも、できなかった。
次の日。
朝の教室で、美緒が突然スマホを陽菜乃の前へ置いた。
「ねえ、陽菜乃」
「なに?」
「昨日のことなんだけど」
画面には、クラスのグループチャットが映っている。
『成瀬と一ノ瀬って付き合ってるってほんと?』
その文字を見た瞬間。
陽菜乃の指先が止まった。
「……え?」
「なんか噂になってるみたい」
「付き合って……?」
「まだ噂だよ」
美緒が慌てて付け足す。
でも陽菜乃には、その後の言葉があまり入ってこなかった。
昨日見た二人の姿が浮かぶ。
湊の隣にいた美羽。
当然のように飲み物を渡していた。
名前で呼び合っていた。
そして――とても、お似合いに見えた。
「本人に聞いてみたら?」
美緒が言う。
陽菜乃は顔を上げた。
「湊に?」
「うん。幼馴染なんでしょ?」
「……」
聞けばいい。
たった一言。
『美羽ちゃんと付き合ってるの?』
それだけなのに。
陽菜乃には、どうしても言える気がしなかった。
もし。
湊が笑って、
『うん』
と答えたら。
その瞬間、自分はどんな顔をすればいいのだろう。
「……聞かなくていい」
「陽菜乃?」
陽菜乃は小さく笑った。
「湊が誰と付き合ってても、私には関係ないもん」
口にした瞬間、胸が痛くなった。
関係ない。
そんなわけないのに。
ずっと好きだった。
誰より近くにいた。
ずっと自分が一番近いと思っていた。
でも――。
幼馴染だからといって。
これからもずっと、湊の隣にいられるとは限らない。
そんな当たり前のことを。
陽菜乃は十六歳の春になって、初めて知った。

