ホテルで美月と隼人を見た夜から、一週間が過ぎた。
玲奈は、あの日のことを隼人へ尋ねていない。
隼人もまた、それ以上の説明をしなかった。
表面上は何も変わっていない。
朝になれば同じ食卓につく。
隼人は玲奈の大学の予定を尋ね、帰宅が遅くなる日は知らせてくる。
玲奈も「いってらっしゃい」と送り出し、「おかえりなさい」と迎える。
けれど。
ほんの少しだけ、何かが変わっていた。
以前の玲奈なら、夜になれば隼人の帰宅を待っていた。
時計を何度も見て、玄関から物音がすれば顔を上げた。
最近はそうしない。
夕食を済ませれば自室へ戻り、一条化粧品の資料を読む。
大学の課題を終わらせる。
眠くなれば先に眠る。
期待しなければ、寂しくならない。
その方法を覚え始めていた。
「玲奈様」
夕方、大学の正門前。
車の扉を開けた亮が、玲奈へ声をかけた。
「本日は一条本社でよろしいでしょうか」
「はい。お願いします」
玲奈は後部座席へ乗り込む。
今日は一条化粧品の若年層向け新商品の企画について、九条コーポレーションとの打ち合わせが予定されている。
前回、蓮から提案されたスターターセット。
その案をさらに具体化するための話し合いだ。
玲奈自身も、この一週間かなり調べた。
学生が一度に出せる価格。
SNSで好まれるデザイン。
小容量の商品をどれくらいの期間試せれば購入につながるのか。
美緒や大学の友人たちにも意見を聞いた。
初めて、自分の意見が会社の商品になるかもしれない。
そのことが嬉しかった。
「神谷さん」
「はい」
「私、少し仕事が好きかもしれません」
助手席の亮が振り返る。
「少し、ですか」
「まだ分からないことばかりなので」
玲奈は膝の上に置いた資料を見た。
「でも、自分が考えたことが誰かの役に立つのって嬉しいですね」
「良いことだと思います」
「隼人さんにも、いつかそう思ってもらえるくらいになれたらいいな」
言ってから、玲奈は窓の外へ視線を向けた。
どうして結局、隼人の名前が出てしまうのだろう。
褒めてもらいたい。
認めてもらいたい。
自分を十八歳の少女ではなく、一人の人間として見てほしい。
その気持ちは消せなかった。
一条化粧品本社での打ち合わせは、予想以上に長引いた。
「この価格じゃ利益が薄すぎる」
資料を見ながら、蓮がはっきり言った。
会議室の大きな窓の外では、夕方の空が薄い紫色に染まり始めている。
玲奈は自分が作った試算表を見直した。
「でも、最初から利益を大きく取るより、使ってもらうことを優先したほうがいいと思います」
「それで赤字になったら意味がない」
「赤字にならないところまで調整します」
「どうやって?」
玲奈は別の資料を出した。
「容器です」
蓮が眉を上げる。
「容器?」
「最初に考えていたガラス製をやめて、再生プラスチックに変えます」
「高級感が落ちるぞ」
「その代わり、色と形を工夫します」
玲奈は試作品の写真を机へ並べた。
「大学の友人二十人に見てもらいました。こっちのほうが可愛いって答えた人が十六人です」
蓮が写真を手に取る。
「ちゃんと調べたんだ」
「思いつきだけで話したら、九条社長にまた反対されるでしょう?」
「俺、そんなに意地悪?」
「かなり」
周囲の社員たちが小さく笑う。
蓮も楽しそうに笑った。
「言うようになったな、一条さん」
「九条社長が遠慮なく言うからです」
「そのほうが仕事は早い」
玲奈も笑った。
こうして意見をぶつけるのは嫌ではなかった。
蓮は玲奈が十八歳だからと話を簡単にしない。
分からなければ説明する。
間違っていれば違うと言う。
良ければ良いと認める。
その接し方が心地よかった。
会議が終わった頃には、午後七時を回っていた。
社員たちが資料を片づけ始める。
「玲奈」
慎吾が声をかけた。
「俺はこのあと工場長とオンライン会議がある。先に帰っていいぞ」
「分かりました」
「九条社長、本日はありがとうございました」
慎吾が蓮へ頭を下げる。
「こちらこそ」
蓮も立ち上がった。
「一条さん」
「はい?」
「このあと時間ある?」
玲奈は目を瞬いた。
「私ですか?」
「君以外に一条さんが何人いるんだよ」
「父もいます」
「確かに」
蓮が笑う。
「三十分だけ。さっきの価格設定、もう少し話したい」
玲奈は時計を見た。
まだ七時過ぎ。
黒川邸へは連絡すればいい。
「仕事のお話ですか?」
「もちろん」
「なら大丈夫です」
「近くのホテルのラウンジにしよう。ここだと君のお父さんが捕まえに来そうだ」
「お父様はそんなことしません」
少し離れたところにいた慎吾が、
「するぞ」
と返した。
「お父様!」
会議室にまた笑いが広がった。
ホテルのラウンジは、昼間とは違った落ち着いた雰囲気に包まれていた。
大きな窓の向こうには東京の夜景が広がり、無数の灯りが宝石のように瞬いている。
玲奈と蓮は窓際の席へ向かい合って座った。
亮は玲奈から見える範囲の、少し離れた席にいる。
「神谷君、相変わらずいるな」
蓮が亮へ視線を向ける。
「護衛ですから」
「黒川も過保護だな」
玲奈はメニューを閉じる。
「隼人さんのことは今関係ありません」
蓮が面白そうに玲奈を見る。
「怒った?」
「怒っていません」
「じゃあ何で顔変わった?」
「変わってません」
「分かりやすいな」
最近、いろいろな人から同じことを言われる。
玲奈は少し不満そうにアイスティーを飲んだ。
「で、価格の話ですよね」
「ああ」
蓮は資料を広げた。
そこからしばらくは真面目な仕事の話になった。
蓮は九条グループが持つECサイトの購入データを参考に、若い女性が試しやすい価格帯を玲奈へ説明する。
玲奈も大学で集めたアンケート結果を見せた。
「面白いな、これ」
「何がですか?」
「高級感より、持ち歩きやすさを選ぶ人が多い」
「大学生だと旅行にも持っていきたいので」
「じゃあ容器、もっと小さくしてもいいか」
「でも小さすぎると割高に感じます」
「難しいな」
「だから考えるんでしょう?」
蓮が玲奈を見る。
そして笑った。
「本当に変わったな」
「何がですか?」
「最初に会った時」
蓮はテーブルへ肘をつかず、椅子の背へ身体を預けた。
「黒川の奥さんって呼んだら、すごい顔で睨まれた」
「睨んでません」
「睨んでた」
「失礼なことを言うからです」
「今なら、何て呼べばいい?」
「一条さんでいいです」
「玲奈さんは?」
玲奈が目を丸くする。
「どうして急に下の名前になるんですか」
「親しくなったから?」
「なってません」
「ひどいな」
蓮が笑う。
玲奈もつられて笑った。
仕事をしている時の蓮は鋭い。
でも仕事を離れると、こんなふうに軽口を言う。
隼人とはまるで違う。
「そういえば」
蓮が玲奈の前に置かれた資料を見る。
「この表、お前が作ったの?」
「はい」
「よくできてる」
玲奈は驚いた。
「本当ですか?」
「ああ。少なくとも最初の頃よりずっといい」
「……嬉しい」
思わず笑顔になる。
「頑張ったので」
「分かる」
簡単な言葉。
けれど玲奈には嬉しかった。
頑張った。
それを誰かに認めてもらえるだけで、こんなに気持ちが軽くなる。
「黒川にも見せた?」
玲奈の笑顔が少し薄くなった。
「まだです」
「何で?」
「忙しそうだから」
本当は、それだけではない。
見せて、
『玲奈にはまだ早い』
と言われるのが怖かった。
もしそう言われたら、今まで頑張ってきたものまで否定されたように感じてしまう。
「見せればいいのに」
「いつか」
玲奈はそれで話を終わらせた。
蓮もそれ以上は聞かなかった。
その時、ウェイターがコーヒーを運んできた。
玲奈が資料を避けようとして手を伸ばす。
同じタイミングで蓮も手を出した。
二人の指先が触れた。
「あ」
玲奈がすぐに手を引こうとする。
ところが資料の端がテーブルから落ちかけた。
蓮が玲奈の手ごと押さえるようにして資料を止める。
「危ない」
「すみません」
「別に」
ほんの数秒。
それだけだった。
けれど。
少し離れた場所から、その光景を見ている男がいた。
隼人が同じホテルへ到着したのは、午後八時前だった。
海外企業の役員との会食。
予定より少し早く着いたため、橘とロビーを歩いていた。
「先方は十分ほど遅れるそうです」
橘がスマートフォンを確認しながら言う。
「ラウンジで待つか」
「あちらです」
隼人が何気なく視線を向ける。
そこで足が止まった。
窓際の席。
見覚えのある黒髪。
最初は似ているだけかと思った。
けれど違わない。
玲奈だった。
その向かい側に座っている男を見た瞬間。
隼人の表情が変わる。
九条蓮。
なぜ。
どうして二人でいる。
さらに。
玲奈が笑った。
隼人の目が細くなる。
自分といる時には、最近あんなふうに笑わない。
話しかければ答える。
時には笑う。
けれど以前より、どこか距離がある。
その玲奈が。
九条には楽しそうに笑っている。
「隼人様?」
橘が声をかける。
隼人は答えなかった。
今度は蓮が何かを言った。
玲奈が少しむっとした顔をして、それからまた笑う。
親しげだった。
思っていたより、ずっと。
そして。
テーブルの上で二人の手が重なった。
隼人の中で何かが切れた。
「会食は十分後だったな」
「はい」
「先に行っていてくれ」
「隼人様?」
隼人はもう歩き出していた。
「次回までに、ここの数字をもう一度――」
蓮が話していた時。
玲奈の背後から声がした。
「随分、楽しそうだな」
聞き間違えるはずがなかった。
玲奈の肩がびくりと揺れる。
振り返る。
「……隼人さん?」
そこに立っていたのは、間違いなく隼人だった。
黒いスーツ。
いつも通りきちんと整えられている。
けれど表情だけが違う。
怒っている。
玲奈にはすぐ分かった。
「どうしてここに?」
「俺の質問が先だ」
低い声。
「何をしている」
玲奈は一瞬戸惑った。
「仕事です」
「二人で?」
「はい」
隼人の眉が寄る。
蓮が椅子へ座ったまま、面白そうに隼人を見上げた。
「夫に許可が必要だったか?」
「九条」
「怖い顔するなよ」
蓮は少しも怯まない。
「仕事の打ち合わせだ」
「会社でやればいい」
玲奈の胸に小さな苛立ちが生まれた。
「会社で会議をしたあと、続きを話していただけです」
「なら社内で続ければいい」
「父が別の会議で使うので出てきたんです」
「他の会議室があるだろう」
「隼人さん」
玲奈は思わず声を強くした。
どうして責められているのだろう。
何も悪いことなどしていない。
「私は仕事をしていただけです」
隼人が玲奈を見る。
「仕事なら九条と二人になる必要はない」
その言葉で。
玲奈の中に、あの夜の光景が蘇った。
ホテルの客室。
髪を下ろした美月。
ネクタイを緩めた隼人。
『二人だけの秘密』
玲奈の表情から、少しずつ温度が消える。
「……そうなんですね」
隼人の眉が動く。
「何が」
玲奈はまっすぐ夫を見た。
「仕事でも、異性と二人きりになってはいけないんですね?」
「玲奈」
「知りませんでした」
「何が言いたい」
本当に分からないのだろうか。
玲奈は悲しくなった。
蓮も何かを察したらしい。
隼人へ向けて、少し冷たい笑みを浮かべる。
「黒川」
「何だ」
「お前、自分は秘書とホテルの部屋に二人でいるらしいな」
隼人の顔が変わった。
玲奈が蓮を見る。
「どうして――」
「噂になってる」
蓮は肩をすくめた。
「極秘案件でホテル使うのは珍しくないけどな」
そして隼人を見る。
「自分がやるのは仕事。妻がやれば駄目なのか?」
「お前には関係ない」
「あるよ」
蓮の声から笑いが消える。
「一条とは取引の話をしてる」
「会社の話なら一条社長としろ」
「今の企画は玲奈さんも参加している」
玲奈さん。
その呼び方に、隼人の視線が鋭くなる。
「いつから名前で呼ぶ仲になった」
玲奈は目を見開いた。
そこ?
今、気にするところがそこなの?
蓮は逆に楽しそうになった。
「今から」
「九条さん!」
玲奈が止める。
「冗談だよ」
「今、冗談を言うところじゃありません」
玲奈が蓮へ向かって言う。
そのやり取りさえ、隼人には気に入らなかった。
二人の間には、自分が知らない空気がある。
玲奈が蓮に遠慮なく言い返す。
蓮もそれを楽しんでいる。
隼人が知らないところで、二人はいつからこんなに近くなったのか。
「玲奈」
隼人が言う。
「帰るぞ」
玲奈は顔を上げた。
「まだお話が終わっていません」
「後日にしろ」
「嫌です」
隼人の表情が固まる。
玲奈自身も、こんなにはっきり拒否したのは初めてだった。
「あと十五分で終わります」
「玲奈」
「先に帰っていてください」
「……俺と帰らないのか」
声が少し変わった。
玲奈は一瞬だけ心が揺れる。
でも。
ここで従ったら、また同じだ。
隼人が決めて。
玲奈が受け入れる。
「亮さんと帰ります」
隼人の視線が、離れた場所にいる亮へ向く。
さらに機嫌が悪くなったのが分かった。
蓮が小さく笑う。
「大変だな、黒川」
「黙れ」
「妻の周り、男ばっかりになって」
「九条社長!」
玲奈が止める。
隼人が蓮を睨む。
その時。
蓮が玲奈の前に落ちていた紙を拾った。
「これ」
「あ、ありがとうございます」
玲奈が受け取る。
ただそれだけ。
けれど隼人の目には、蓮が玲奈へ近づくこと自体が気に入らない。
「玲奈」
今度の声は、怒りというより焦りに近かった。
「十五分だけです」
玲奈は言った。
「終わったら帰ります」
「……」
「私も、自分の仕事を途中で投げたくありません」
隼人は何も言えなくなった。
玲奈の顔。
そこには、以前のように自信なさげな少女の姿はなかった。
仕事を任され。
自分で考え。
自分の意見を守ろうとしている。
ほんの短い間に。
玲奈は隼人の知らない場所で変わり始めていた。
「分かった」
ようやく出た言葉。
玲奈が少し驚く。
「隼人さん?」
「十五分だ」
「……はい」
隼人は蓮を見る。
「九条」
「何?」
「余計なことをするな」
「何が余計か分からないな」
「全部だ」
「嫉妬深い夫だ」
隼人の表情が険しくなる。
玲奈の胸が大きく動いた。
嫉妬。
まさか。
隼人が?
蓮が冗談を言っているだけだ。
そう思うのに。
「俺は会食がある」
隼人は玲奈へ言った。
「終わったら連絡しろ」
「どうして?」
「迎えに行く」
「亮さんがいます」
「俺が行く」
有無を言わせない声。
けれど今度は、いつもの命令とは少し違って聞こえた。
隼人はそれだけ言うと、その場を離れた。
玲奈は遠ざかっていく背中を見つめる。
蓮が隣で小さく笑った。
「分かりやすいな」
玲奈が振り返る。
「何がですか?」
「旦那」
「全然分かりません」
「本当に?」
「はい」
玲奈は資料を揃える。
「怒っているだけでしょう?」
「何に?」
「九条さんが黒川のライバルだから」
蓮はしばらく玲奈を見る。
それから、
「そう思ってるなら、黒川も苦労するな」
と呟いた。
「何ですか?」
「何でもない」
玲奈は首を傾げた。
隼人が嫉妬している。
そんな都合のいいこと。
信じられるはずがなかった。
十五分後。
玲奈がホテルを出ると、正面玄関近くに黒い車が停まっていた。
「……え?」
隼人の車。
会食があると言っていたはずなのに。
車の横に立つ運転手が頭を下げた。
「玲奈様。隼人様より、こちらでお待ちするよう申しつかっております」
「隼人さんは?」
「会食へ向かわれました」
玲奈は言葉を失った。
迎えに来ると言ったのに。
自分は会食へ行かなければならないから、車だけ残したらしい。
「亮さんは?」
振り返ると、亮がすぐ後ろにいる。
「俺も同行いたします」
「……そう」
玲奈は車へ乗り込んだ。
本当に分からない人だ。
ホテルまで乗ってきた車を置いて、自分は別の車で会食へ向かったのだろう。
そこまでする必要があるのか。
玲奈は窓の外を眺めた。
昼間より冷えた夜の街。
ガラスへ自分の顔が映る。
そして。
蓮の言葉が頭へ蘇る。
『嫉妬深い夫だ』
「……まさかね」
思わず呟く。
亮が助手席から振り返る。
「何か?」
「何でもありません」
玲奈はすぐに首を横に振った。
隼人が自分に嫉妬する。
そんなわけがない。
自分を女性として見ているかどうかさえ分からないのに。
ただ。
玲奈は知らなかった。
同じ頃。
取引先との会食の席で。
いつもなら相手の話を一言一句聞き逃さない隼人が、珍しく何度も腕時計へ目を落としていたことを。
そして頭の中から。
玲奈が九条蓮へ向けて笑っていた顔が、どうしても離れなくなっていたことを。
玲奈は、あの日のことを隼人へ尋ねていない。
隼人もまた、それ以上の説明をしなかった。
表面上は何も変わっていない。
朝になれば同じ食卓につく。
隼人は玲奈の大学の予定を尋ね、帰宅が遅くなる日は知らせてくる。
玲奈も「いってらっしゃい」と送り出し、「おかえりなさい」と迎える。
けれど。
ほんの少しだけ、何かが変わっていた。
以前の玲奈なら、夜になれば隼人の帰宅を待っていた。
時計を何度も見て、玄関から物音がすれば顔を上げた。
最近はそうしない。
夕食を済ませれば自室へ戻り、一条化粧品の資料を読む。
大学の課題を終わらせる。
眠くなれば先に眠る。
期待しなければ、寂しくならない。
その方法を覚え始めていた。
「玲奈様」
夕方、大学の正門前。
車の扉を開けた亮が、玲奈へ声をかけた。
「本日は一条本社でよろしいでしょうか」
「はい。お願いします」
玲奈は後部座席へ乗り込む。
今日は一条化粧品の若年層向け新商品の企画について、九条コーポレーションとの打ち合わせが予定されている。
前回、蓮から提案されたスターターセット。
その案をさらに具体化するための話し合いだ。
玲奈自身も、この一週間かなり調べた。
学生が一度に出せる価格。
SNSで好まれるデザイン。
小容量の商品をどれくらいの期間試せれば購入につながるのか。
美緒や大学の友人たちにも意見を聞いた。
初めて、自分の意見が会社の商品になるかもしれない。
そのことが嬉しかった。
「神谷さん」
「はい」
「私、少し仕事が好きかもしれません」
助手席の亮が振り返る。
「少し、ですか」
「まだ分からないことばかりなので」
玲奈は膝の上に置いた資料を見た。
「でも、自分が考えたことが誰かの役に立つのって嬉しいですね」
「良いことだと思います」
「隼人さんにも、いつかそう思ってもらえるくらいになれたらいいな」
言ってから、玲奈は窓の外へ視線を向けた。
どうして結局、隼人の名前が出てしまうのだろう。
褒めてもらいたい。
認めてもらいたい。
自分を十八歳の少女ではなく、一人の人間として見てほしい。
その気持ちは消せなかった。
一条化粧品本社での打ち合わせは、予想以上に長引いた。
「この価格じゃ利益が薄すぎる」
資料を見ながら、蓮がはっきり言った。
会議室の大きな窓の外では、夕方の空が薄い紫色に染まり始めている。
玲奈は自分が作った試算表を見直した。
「でも、最初から利益を大きく取るより、使ってもらうことを優先したほうがいいと思います」
「それで赤字になったら意味がない」
「赤字にならないところまで調整します」
「どうやって?」
玲奈は別の資料を出した。
「容器です」
蓮が眉を上げる。
「容器?」
「最初に考えていたガラス製をやめて、再生プラスチックに変えます」
「高級感が落ちるぞ」
「その代わり、色と形を工夫します」
玲奈は試作品の写真を机へ並べた。
「大学の友人二十人に見てもらいました。こっちのほうが可愛いって答えた人が十六人です」
蓮が写真を手に取る。
「ちゃんと調べたんだ」
「思いつきだけで話したら、九条社長にまた反対されるでしょう?」
「俺、そんなに意地悪?」
「かなり」
周囲の社員たちが小さく笑う。
蓮も楽しそうに笑った。
「言うようになったな、一条さん」
「九条社長が遠慮なく言うからです」
「そのほうが仕事は早い」
玲奈も笑った。
こうして意見をぶつけるのは嫌ではなかった。
蓮は玲奈が十八歳だからと話を簡単にしない。
分からなければ説明する。
間違っていれば違うと言う。
良ければ良いと認める。
その接し方が心地よかった。
会議が終わった頃には、午後七時を回っていた。
社員たちが資料を片づけ始める。
「玲奈」
慎吾が声をかけた。
「俺はこのあと工場長とオンライン会議がある。先に帰っていいぞ」
「分かりました」
「九条社長、本日はありがとうございました」
慎吾が蓮へ頭を下げる。
「こちらこそ」
蓮も立ち上がった。
「一条さん」
「はい?」
「このあと時間ある?」
玲奈は目を瞬いた。
「私ですか?」
「君以外に一条さんが何人いるんだよ」
「父もいます」
「確かに」
蓮が笑う。
「三十分だけ。さっきの価格設定、もう少し話したい」
玲奈は時計を見た。
まだ七時過ぎ。
黒川邸へは連絡すればいい。
「仕事のお話ですか?」
「もちろん」
「なら大丈夫です」
「近くのホテルのラウンジにしよう。ここだと君のお父さんが捕まえに来そうだ」
「お父様はそんなことしません」
少し離れたところにいた慎吾が、
「するぞ」
と返した。
「お父様!」
会議室にまた笑いが広がった。
ホテルのラウンジは、昼間とは違った落ち着いた雰囲気に包まれていた。
大きな窓の向こうには東京の夜景が広がり、無数の灯りが宝石のように瞬いている。
玲奈と蓮は窓際の席へ向かい合って座った。
亮は玲奈から見える範囲の、少し離れた席にいる。
「神谷君、相変わらずいるな」
蓮が亮へ視線を向ける。
「護衛ですから」
「黒川も過保護だな」
玲奈はメニューを閉じる。
「隼人さんのことは今関係ありません」
蓮が面白そうに玲奈を見る。
「怒った?」
「怒っていません」
「じゃあ何で顔変わった?」
「変わってません」
「分かりやすいな」
最近、いろいろな人から同じことを言われる。
玲奈は少し不満そうにアイスティーを飲んだ。
「で、価格の話ですよね」
「ああ」
蓮は資料を広げた。
そこからしばらくは真面目な仕事の話になった。
蓮は九条グループが持つECサイトの購入データを参考に、若い女性が試しやすい価格帯を玲奈へ説明する。
玲奈も大学で集めたアンケート結果を見せた。
「面白いな、これ」
「何がですか?」
「高級感より、持ち歩きやすさを選ぶ人が多い」
「大学生だと旅行にも持っていきたいので」
「じゃあ容器、もっと小さくしてもいいか」
「でも小さすぎると割高に感じます」
「難しいな」
「だから考えるんでしょう?」
蓮が玲奈を見る。
そして笑った。
「本当に変わったな」
「何がですか?」
「最初に会った時」
蓮はテーブルへ肘をつかず、椅子の背へ身体を預けた。
「黒川の奥さんって呼んだら、すごい顔で睨まれた」
「睨んでません」
「睨んでた」
「失礼なことを言うからです」
「今なら、何て呼べばいい?」
「一条さんでいいです」
「玲奈さんは?」
玲奈が目を丸くする。
「どうして急に下の名前になるんですか」
「親しくなったから?」
「なってません」
「ひどいな」
蓮が笑う。
玲奈もつられて笑った。
仕事をしている時の蓮は鋭い。
でも仕事を離れると、こんなふうに軽口を言う。
隼人とはまるで違う。
「そういえば」
蓮が玲奈の前に置かれた資料を見る。
「この表、お前が作ったの?」
「はい」
「よくできてる」
玲奈は驚いた。
「本当ですか?」
「ああ。少なくとも最初の頃よりずっといい」
「……嬉しい」
思わず笑顔になる。
「頑張ったので」
「分かる」
簡単な言葉。
けれど玲奈には嬉しかった。
頑張った。
それを誰かに認めてもらえるだけで、こんなに気持ちが軽くなる。
「黒川にも見せた?」
玲奈の笑顔が少し薄くなった。
「まだです」
「何で?」
「忙しそうだから」
本当は、それだけではない。
見せて、
『玲奈にはまだ早い』
と言われるのが怖かった。
もしそう言われたら、今まで頑張ってきたものまで否定されたように感じてしまう。
「見せればいいのに」
「いつか」
玲奈はそれで話を終わらせた。
蓮もそれ以上は聞かなかった。
その時、ウェイターがコーヒーを運んできた。
玲奈が資料を避けようとして手を伸ばす。
同じタイミングで蓮も手を出した。
二人の指先が触れた。
「あ」
玲奈がすぐに手を引こうとする。
ところが資料の端がテーブルから落ちかけた。
蓮が玲奈の手ごと押さえるようにして資料を止める。
「危ない」
「すみません」
「別に」
ほんの数秒。
それだけだった。
けれど。
少し離れた場所から、その光景を見ている男がいた。
隼人が同じホテルへ到着したのは、午後八時前だった。
海外企業の役員との会食。
予定より少し早く着いたため、橘とロビーを歩いていた。
「先方は十分ほど遅れるそうです」
橘がスマートフォンを確認しながら言う。
「ラウンジで待つか」
「あちらです」
隼人が何気なく視線を向ける。
そこで足が止まった。
窓際の席。
見覚えのある黒髪。
最初は似ているだけかと思った。
けれど違わない。
玲奈だった。
その向かい側に座っている男を見た瞬間。
隼人の表情が変わる。
九条蓮。
なぜ。
どうして二人でいる。
さらに。
玲奈が笑った。
隼人の目が細くなる。
自分といる時には、最近あんなふうに笑わない。
話しかければ答える。
時には笑う。
けれど以前より、どこか距離がある。
その玲奈が。
九条には楽しそうに笑っている。
「隼人様?」
橘が声をかける。
隼人は答えなかった。
今度は蓮が何かを言った。
玲奈が少しむっとした顔をして、それからまた笑う。
親しげだった。
思っていたより、ずっと。
そして。
テーブルの上で二人の手が重なった。
隼人の中で何かが切れた。
「会食は十分後だったな」
「はい」
「先に行っていてくれ」
「隼人様?」
隼人はもう歩き出していた。
「次回までに、ここの数字をもう一度――」
蓮が話していた時。
玲奈の背後から声がした。
「随分、楽しそうだな」
聞き間違えるはずがなかった。
玲奈の肩がびくりと揺れる。
振り返る。
「……隼人さん?」
そこに立っていたのは、間違いなく隼人だった。
黒いスーツ。
いつも通りきちんと整えられている。
けれど表情だけが違う。
怒っている。
玲奈にはすぐ分かった。
「どうしてここに?」
「俺の質問が先だ」
低い声。
「何をしている」
玲奈は一瞬戸惑った。
「仕事です」
「二人で?」
「はい」
隼人の眉が寄る。
蓮が椅子へ座ったまま、面白そうに隼人を見上げた。
「夫に許可が必要だったか?」
「九条」
「怖い顔するなよ」
蓮は少しも怯まない。
「仕事の打ち合わせだ」
「会社でやればいい」
玲奈の胸に小さな苛立ちが生まれた。
「会社で会議をしたあと、続きを話していただけです」
「なら社内で続ければいい」
「父が別の会議で使うので出てきたんです」
「他の会議室があるだろう」
「隼人さん」
玲奈は思わず声を強くした。
どうして責められているのだろう。
何も悪いことなどしていない。
「私は仕事をしていただけです」
隼人が玲奈を見る。
「仕事なら九条と二人になる必要はない」
その言葉で。
玲奈の中に、あの夜の光景が蘇った。
ホテルの客室。
髪を下ろした美月。
ネクタイを緩めた隼人。
『二人だけの秘密』
玲奈の表情から、少しずつ温度が消える。
「……そうなんですね」
隼人の眉が動く。
「何が」
玲奈はまっすぐ夫を見た。
「仕事でも、異性と二人きりになってはいけないんですね?」
「玲奈」
「知りませんでした」
「何が言いたい」
本当に分からないのだろうか。
玲奈は悲しくなった。
蓮も何かを察したらしい。
隼人へ向けて、少し冷たい笑みを浮かべる。
「黒川」
「何だ」
「お前、自分は秘書とホテルの部屋に二人でいるらしいな」
隼人の顔が変わった。
玲奈が蓮を見る。
「どうして――」
「噂になってる」
蓮は肩をすくめた。
「極秘案件でホテル使うのは珍しくないけどな」
そして隼人を見る。
「自分がやるのは仕事。妻がやれば駄目なのか?」
「お前には関係ない」
「あるよ」
蓮の声から笑いが消える。
「一条とは取引の話をしてる」
「会社の話なら一条社長としろ」
「今の企画は玲奈さんも参加している」
玲奈さん。
その呼び方に、隼人の視線が鋭くなる。
「いつから名前で呼ぶ仲になった」
玲奈は目を見開いた。
そこ?
今、気にするところがそこなの?
蓮は逆に楽しそうになった。
「今から」
「九条さん!」
玲奈が止める。
「冗談だよ」
「今、冗談を言うところじゃありません」
玲奈が蓮へ向かって言う。
そのやり取りさえ、隼人には気に入らなかった。
二人の間には、自分が知らない空気がある。
玲奈が蓮に遠慮なく言い返す。
蓮もそれを楽しんでいる。
隼人が知らないところで、二人はいつからこんなに近くなったのか。
「玲奈」
隼人が言う。
「帰るぞ」
玲奈は顔を上げた。
「まだお話が終わっていません」
「後日にしろ」
「嫌です」
隼人の表情が固まる。
玲奈自身も、こんなにはっきり拒否したのは初めてだった。
「あと十五分で終わります」
「玲奈」
「先に帰っていてください」
「……俺と帰らないのか」
声が少し変わった。
玲奈は一瞬だけ心が揺れる。
でも。
ここで従ったら、また同じだ。
隼人が決めて。
玲奈が受け入れる。
「亮さんと帰ります」
隼人の視線が、離れた場所にいる亮へ向く。
さらに機嫌が悪くなったのが分かった。
蓮が小さく笑う。
「大変だな、黒川」
「黙れ」
「妻の周り、男ばっかりになって」
「九条社長!」
玲奈が止める。
隼人が蓮を睨む。
その時。
蓮が玲奈の前に落ちていた紙を拾った。
「これ」
「あ、ありがとうございます」
玲奈が受け取る。
ただそれだけ。
けれど隼人の目には、蓮が玲奈へ近づくこと自体が気に入らない。
「玲奈」
今度の声は、怒りというより焦りに近かった。
「十五分だけです」
玲奈は言った。
「終わったら帰ります」
「……」
「私も、自分の仕事を途中で投げたくありません」
隼人は何も言えなくなった。
玲奈の顔。
そこには、以前のように自信なさげな少女の姿はなかった。
仕事を任され。
自分で考え。
自分の意見を守ろうとしている。
ほんの短い間に。
玲奈は隼人の知らない場所で変わり始めていた。
「分かった」
ようやく出た言葉。
玲奈が少し驚く。
「隼人さん?」
「十五分だ」
「……はい」
隼人は蓮を見る。
「九条」
「何?」
「余計なことをするな」
「何が余計か分からないな」
「全部だ」
「嫉妬深い夫だ」
隼人の表情が険しくなる。
玲奈の胸が大きく動いた。
嫉妬。
まさか。
隼人が?
蓮が冗談を言っているだけだ。
そう思うのに。
「俺は会食がある」
隼人は玲奈へ言った。
「終わったら連絡しろ」
「どうして?」
「迎えに行く」
「亮さんがいます」
「俺が行く」
有無を言わせない声。
けれど今度は、いつもの命令とは少し違って聞こえた。
隼人はそれだけ言うと、その場を離れた。
玲奈は遠ざかっていく背中を見つめる。
蓮が隣で小さく笑った。
「分かりやすいな」
玲奈が振り返る。
「何がですか?」
「旦那」
「全然分かりません」
「本当に?」
「はい」
玲奈は資料を揃える。
「怒っているだけでしょう?」
「何に?」
「九条さんが黒川のライバルだから」
蓮はしばらく玲奈を見る。
それから、
「そう思ってるなら、黒川も苦労するな」
と呟いた。
「何ですか?」
「何でもない」
玲奈は首を傾げた。
隼人が嫉妬している。
そんな都合のいいこと。
信じられるはずがなかった。
十五分後。
玲奈がホテルを出ると、正面玄関近くに黒い車が停まっていた。
「……え?」
隼人の車。
会食があると言っていたはずなのに。
車の横に立つ運転手が頭を下げた。
「玲奈様。隼人様より、こちらでお待ちするよう申しつかっております」
「隼人さんは?」
「会食へ向かわれました」
玲奈は言葉を失った。
迎えに来ると言ったのに。
自分は会食へ行かなければならないから、車だけ残したらしい。
「亮さんは?」
振り返ると、亮がすぐ後ろにいる。
「俺も同行いたします」
「……そう」
玲奈は車へ乗り込んだ。
本当に分からない人だ。
ホテルまで乗ってきた車を置いて、自分は別の車で会食へ向かったのだろう。
そこまでする必要があるのか。
玲奈は窓の外を眺めた。
昼間より冷えた夜の街。
ガラスへ自分の顔が映る。
そして。
蓮の言葉が頭へ蘇る。
『嫉妬深い夫だ』
「……まさかね」
思わず呟く。
亮が助手席から振り返る。
「何か?」
「何でもありません」
玲奈はすぐに首を横に振った。
隼人が自分に嫉妬する。
そんなわけがない。
自分を女性として見ているかどうかさえ分からないのに。
ただ。
玲奈は知らなかった。
同じ頃。
取引先との会食の席で。
いつもなら相手の話を一言一句聞き逃さない隼人が、珍しく何度も腕時計へ目を落としていたことを。
そして頭の中から。
玲奈が九条蓮へ向けて笑っていた顔が、どうしても離れなくなっていたことを。

