触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

黒川家の援助を受けたからといって、一条化粧品の問題がすべて解決したわけではなかった。

資金繰りは落ち着いた。

取引を打ち切ると言っていた企業のいくつかも、黒川グループが支援に入ったことで態度を変えた。

けれど、一度離れてしまった顧客まで簡単に戻ってくるわけではない。

何より――。

「このまま黒川さんに頼りきりでは駄目なのよね」

大学の図書館。

講義を終えた玲奈は、一条化粧品の決算資料を前に小さく呟いた。

窓の外では、若葉をつけ始めた木々が春の日差しを受けて揺れている。

周囲では学生たちがレポートを書いたり、本を読んだりしていた。

玲奈の机だけ、大学一年生にはあまり似合わない資料が積まれている。

売上高。

店舗別利益。

広告宣伝費。

海外事業。

少し前まで見ただけで頭が痛くなっていた数字にも、最近は少しずつ慣れてきた。

分からないところには付箋を貼り、帰宅後に調べる。

それでも理解できなければ、父に聞いた。

隼人へ尋ねれば、もっと早いのかもしれない。

何度かそう思ったことはある。

けれど、まだ聞けずにいた。

黒川家が助けてくれた会社のことを、さらに隼人へ教えてもらう。

それでは結局、全部隼人に頼っている気がした。

玲奈は、自分にも何かできるようになりたかった。

スマートフォンが震える。

父からだった。

『今日、大学が終わったら会社へ来られるか?』

玲奈は時計を見る。

午後二時半。

次の講義はない。

『行けます。何かありましたか?』

すぐに返事が届く。

『新商品の企画会議がある。お前にも見てほしい』

玲奈の目が少し大きくなる。

企画会議。

今までは資料を見せてもらうだけだった。

実際の会議に呼ばれるのは初めてだ。

『分かりました。三時半頃には着けると思います』

返信すると、玲奈は急いで資料を片づけた。

「玲奈様」

図書館の外へ出ると、壁際で待っていた亮が声をかける。

「一条本社へ行きたいんです」

「承知しました」

「急にすみません」

「予定変更には慣れています」

亮はいつも通りだった。

行くなとも。

隼人へ確認するとも言わない。

玲奈はそんな亮との距離感を、今では心地よく感じていた。


一条化粧品本社。

子供の頃から何度も来たことのある場所なのに、最近は以前とは違って見える。

受付。

商品の展示スペース。

働いている社員たち。

幼い頃は、すべて父の会社のものだった。

けれど今は。

ここで働く一人一人の生活が、この会社の経営にかかっているのだと分かる。

玲奈がエレベーターへ向かう途中、若い女性社員二人が頭を下げた。

「玲奈様、こんにちは」

「こんにちは」

通り過ぎてから、背後で声が聞こえた。

「本当に大学へ通いながら会社の勉強もしてるんだって」

「社長のお嬢様なのに偉いよね」

玲奈は足を止めなかった。

けれど少しだけ嬉しかった。

結婚したからここへ来ているのではない。

誰かに言われたからでもない。

自分から知りたいと思って始めたことだ。

会議室へ入ると、すでに十人ほどの社員が集まっていた。

父・慎吾もいる。

「玲奈、こっちだ」

「お父様」

父の隣には、商品開発部長の三浦と、以前何度か顔を合わせた広報部の社員もいる。

玲奈は一番端の席へ座った。

「私、本当にいていいの?」

「今日は新しい若年層向け商品の話だ。むしろお前くらいの年齢の意見が聞きたい」

「それなら頑張ります」

慎吾が少し笑った。

結婚の話が出ていた頃、父はずっと苦しそうな顔をしていた。

最近ようやく、以前の表情が戻り始めている。

それだけでも玲奈には嬉しかった。

会議が始まった。

今回企画されているのは、二十代前半を主な購買層にした新しいスキンケアライン。

若い女性でも買いやすい価格。

見た目は可愛らしく。

けれど一条化粧品が長年大切にしてきた品質は落とさない。

試作品がテーブルに並べられる。

玲奈は淡い色のボトルを手に取った。

「可愛い」

思ったまま声に出した。

商品開発部長の三浦が嬉しそうに笑う。

「ありがとうございます」

けれど。

玲奈は容器をいろいろな角度から見た。

「でも……」

「何でしょう?」

「大学生が毎月買うには、少し高いかもしれません」

会議室の視線が集まる。

玲奈は少し緊張した。

父が促す。

「続けなさい」

「はい」

玲奈は資料を見る。

「この価格なら、もう少し高級感が欲しいと思います。逆に大学生を中心にするなら、内容量を少し減らしてでも三千円台にしたほうが買いやすいかも」

三浦がメモを取る。

「なるほど」

「あと、全部揃えないと駄目に見えるのも少し怖いです」

「怖い?」

「化粧水、乳液、美容液、クリームを全部買ったら、学生には結構な金額になりますよね」

玲奈は少し考えた。

「最初は二つだけでも大丈夫とか、そういう使い方を分かりやすくした方が買いやすいと思います」

広報担当の女性が頷いた。

「確かに、今の若い層にはライン使いを前提にしない訴求も必要ですね」

「SNSで短い動画にしても良さそう」

玲奈は大学で友人たちが見ているものを思い出しながら話した。

「使い方を説明するだけじゃなくて、朝時間がない時はこれだけ、とか」

慎吾が玲奈を見る。

「大学へ行かせてよかったな」

「まだ入ったばかりです」

会議室に笑いが広がった。

玲奈も笑う。

楽しかった。

自分の意見を聞いてもらえる。

知らないことは多い。

それでも、十八歳だから分かることもある。

ここでは誰も、玲奈を子供だからと会議から外さなかった。

「では、価格設定についてもう一度――」

三浦が話を戻そうとした時。

会議室の扉が開いた。

「社長。お客様がお見えになりました」

秘書が慎吾へ声をかける。

「今だったか?」

「予定より三十分ほど早く到着されたそうです」

「誰?」

玲奈が父を見る。

慎吾は時計を確認して立ち上がった。

「九条コーポレーションの社長だ」

玲奈の指が止まった。

「九条?」

その会社名は知っている。

経済誌でも何度も見た。

黒川グループと頻繁に比較される大手企業。

流通、ホテル、化粧品、アパレルまで幅広く手がける九条グループ。

黒川と競合する事業も多く、

財界最大のライバル

と書かれることもある。

「どうして九条さんが一条に?」

「新商品の販売について話を聞きたいと言ってきた」

玲奈は驚いた。

「でも一条は今、黒川グループと――」

「資本提携をしているだけだ。他社と取引をしてはいけない契約ではない」

確かにそうだ。

けれど。

隼人はどう思うのだろう。

ふと、そんなことを考えてしまった。

「玲奈はここにいなさい」

「いいの?」

「どうせなら聞いておけ」

慎吾が秘書へ頷く。

「通してくれ」

数分後。

扉が再び開いた。

入ってきた男性を見て、玲奈は思わず姿勢を正した。

若い。

父と同年代の社長を想像していた。

けれど現れた男は、隼人より少し年上に見える程度だった。

背が高く、黒に近い髪を自然に流している。

濃いグレーのスーツ。

隼人が近寄りがたいほど隙のない印象なら、この男はまったく違った。

口元には余裕のある笑み。

会議室にいる全員を一度見回しても、緊張する様子がない。

「予定より早く来てしまって申し訳ありません、一条社長」

「いえ。こちらこそお待たせしました、九条社長」

二人が握手を交わす。

「九条蓮です」

二十七歳で九条コーポレーションの社長に就任した人物。

雑誌では、

『財界の若き風雲児』

などと書かれていた。

父親である九条総一郎会長とは違い、採算が合わない事業を次々に整理し、新規事業へ積極的に投資する。

若い。

派手。

強引。

そんな評判も聞いたことがある。

蓮の視線が玲奈へ向いた。

そして止まる。

「……あれ?」

玲奈は少し居心地が悪くなった。

蓮が慎吾を見る。

「こちらは?」

慎吾が答えるより先に、蓮が思い出したように言った。

「ああ。黒川の奥さんか」

玲奈の胸がわずかに引っかかった。

黒川の奥さん。

間違いではない。

けれど。

慎吾が少し眉を寄せる。

「娘の玲奈です」

「一条玲奈さん」

蓮は言い直した。

そのことが、なぜか玲奈には少し嬉しかった。

「初めまして」

玲奈は立ち上がって頭を下げる。

「一条玲奈です」

「九条蓮。知ってるとは思うけど」

「一応」

「一応なんだ」

蓮が笑う。

玲奈は少し困った。

思っていたより話し方が軽い。

隼人なら初対面の相手に絶対こんな話し方はしない。

「新商品の会議?」

蓮がテーブルの試作品を見る。

「はい」

「黒川の奥さんが商品開発まで?」

まただ。

玲奈の笑顔が少しだけ曇る。

「私は一条化粧品の社長の娘でもありますので」

口調が少し強くなってしまった。

蓮が目を見開く。

父が、

「玲奈」

と小さく窘める。

けれど蓮は怒らなかった。

むしろ面白そうに笑った。

「悪かった」

素直に謝られ、今度は玲奈が戸惑う。

「別に……」

「一条玲奈さん、だったな」

「はい」

「覚えた」

何でもない言葉。

それなのに不思議だった。

最初に『黒川の奥さん』と言った男が、今度ははっきり玲奈の名前を呼んだ。

「せっかくだから俺も見ていい?」

蓮が試作品を指す。

慎吾が頷く。

「もちろんです」

そこから商談が始まった。

九条コーポレーションは、グループ傘下に若年層向けの商業施設や美容系ECサイトをいくつも持っている。

今回、一条化粧品が若い顧客層を狙った新商品を開発していると知り、取り扱いを検討したいという話だった。

玲奈は黙って聞いていた。

蓮は先ほどまでの軽い雰囲気から変わり、次々に具体的な質問をする。

「原価率は?」

「現在はこちらです」

「広告費をこの設定にすると、初年度は厳しくない?」

三浦が資料を出す。

「二年目以降の固定客獲得を想定しています」

「二年目まで客が残ればね」

厳しい。

けれど、ただ否定しているわけではなかった。

「俺なら初回だけ価格を落とす」

蓮が資料へ指を置く。

「いきなり現品を買わせない。小容量のスターターセットを作る」

玲奈が顔を上げた。

「それ、いいと思います」

つい声を出してしまった。

全員がこちらを見る。

「あ……すみません」

蓮が笑う。

「何で?」

「商談中だから」

「意見があるなら言えばいい」

その言い方には、玲奈の年齢を気にする様子がなかった。

玲奈は少し迷ってから口を開く。

「私もさっき、全部揃えるには高いと話していたんです」

「へえ」

「スターターセットなら大学生でも買いやすいし、肌に合うか試してから現品を買えます」

蓮が慎吾を見る。

「娘さんのほうが消費者感覚あるじゃないですか」

「今日はそれを聞くために呼んだんです」

慎吾が少し誇らしそうに答える。

玲奈の胸が温かくなる。

蓮は試作品を一つ手に取った。

「パッケージは?」

「まだ仮です」

玲奈が答える。

「俺なら、もう少しシンプルにする」

「どうしてですか?」

「写真に撮った時に映えるから」

「でもシンプルすぎると他の商品に埋もれません?」

「なら色を一色だけ目立たせる」

「一色?」

蓮が紙へ簡単な図を描く。

玲奈も自然と身を乗り出した。

「ここだけ色を入れる。並べた時にシリーズだと分かる」

「……可愛いかも」

「だろ?」

蓮が笑う。

玲奈もつられて笑った。

「九条社長、意外とこういうもの分かるんですね」

「意外は余計だな」

「だって男性だから」

「それ、偏見」

「すみません」

「全然反省してないだろ」

会議室に笑いが広がった。

慎吾が呆れたように娘を見る。

「玲奈、少し遠慮しなさい」

「すみません」

今度は本当に謝った。

けれど楽しかった。

知らないことを教えてもらう。

自分の意見も返す。

誰かと話しながら一つの商品を考える。

こんな時間は初めてだった。

そして蓮は、一度も、

『まだ十八だから』

とは言わなかった。


商談が終わったのは午後六時前だった。

会議室を出る頃には、窓の外が薄い橙色に染まっている。

玲奈はエントランスまで父と一緒に蓮を見送りに出た。

「詳しい条件は改めて送ります」

慎吾が言う。

「お願いします」

蓮が答える。

そして玲奈を見る。

「一条さん」

「はい?」

自分が呼ばれたのだと理解するまで少しかかった。

最近は、

玲奈様。

奥様。

黒川夫人。

そう呼ばれることのほうが多い。

「さっきの価格の話」

「はい」

「もう少し考えてみたら?」

「私が?」

「若い客向けの商品なんだから、実際にその世代の人間が考えるのが一番早い」

玲奈は少し戸惑う。

「でも私は専門家ではありません」

「専門家じゃないから分かることもあるだろ」

どこかで聞いたような言葉。

亮も、年齢だけで人を決めないと言ってくれた。

最近、自分の周りにいる男性たちは、隼人とは違う言葉を玲奈へくれる。

「……考えてみます」

「次に会う時、聞かせて」

「次?」

「うちと取引するなら、また会うだろ」

蓮は当然のように言った。

「それとも黒川に止められる?」

玲奈の表情が変わる。

「隼人さんは関係ありません」

思わず即答した。

蓮の眉が上がる。

「へえ」

「これは一条の会社の仕事です」

「いいね」

蓮が楽しそうに笑った。

「そういう顔するんだ」

「どういう顔ですか?」

「黒川の横にいる時より、今のほうがいい」

玲奈の胸がざわついた。

「……何を知っているんですか」

「何も」

「なら変なこと言わないでください」

「悪かったよ」

全然悪いと思っていない顔だった。

黒い車が正面へ停まる。

秘書らしい男性が後部座席の扉を開けた。

蓮は乗り込む前に、もう一度玲奈を振り返る。

「またな、一条玲奈さん」

今度は、フルネーム。

玲奈は少し呆れながら頭を下げた。

「失礼いたします、九条社長」

「蓮でいいよ」

「嫌です」

即答すると、蓮が声を上げて笑った。

車の扉が閉まる。

走り去っていく車を見送りながら、慎吾が隣でため息をついた。

「ずいぶん気に入られたな」

「からかわれただけでしょう?」

「どうだかな」

「お父様まで変なこと言わないで」

玲奈は先に社内へ戻ろうとした。

すると少し離れた場所で待っていた亮が近づいてくる。

「お疲れ様でした」

「神谷さん」

「楽しそうでしたね」

玲奈は瞬きをする。

「外まで聞こえてました?」

「笑い声だけ」

「恥ずかしい」

玲奈は頬へ手を当てた。

「でも、楽しかったです」

素直に言った。

今日初めて、自分の意見が会社の役に立つかもしれないと思えた。

それが何より嬉しかった。


帰りの車の中。

玲奈は今日もらった資料を読んでいた。

隣の席には誰もいない。

亮は助手席。

窓の外には夕暮れの東京が流れていく。

スターターセット。

価格設定。

SNS広告。

考えることはいくらでもある。

バッグの中でスマートフォンが震えた。

画面を見る。

隼人から。

『まだ一条本社か』

玲奈は時計を見る。

午後六時半。

朝、今日は会社へ寄ると伝えていなかった。

『今帰るところです』

すぐに電話がかかってきた。

玲奈は少し驚きながら通話ボタンを押す。

「もしもし」

『遅くないか』

開口一番、それだった。

玲奈は少しむっとする。

「会議があったんです」

『会議?』

「新商品の企画会議です」

『お前も出たのか』

「はい」

隼人の声が少し変わった。

『なぜ』

「お父様に呼ばれました」

『大学が終わったなら帰ればよかっただろう』

玲奈の胸に引っかかりが生まれる。

今日。

会議室では誰も、玲奈が参加することをおかしいとは言わなかった。

蓮ですら、意見があるなら言えばいいと言った。

それなのに。

「私も一条の会社のことを知りたいんです」

『それは分かるが』

「私だって、できることくらいあります」

少し強い言葉になった。

電話の向こうで隼人が言葉を選んでいる気配がする。

『できないとは言っていない』

「では、いいでしょう?」

『玲奈』

「今日はちゃんと役に立てたと思います」

それを否定されたくなかった。

『何の会議だった』

「若い人向けの新商品の企画です」

『そうか』

「それから九条コーポレーションとの商談もありました」

電話の向こうの空気が変わった。

玲奈にも分かった。

『……九条?』

「はい」

『九条総一郎か』

「いいえ。蓮社長です」

少しの間、隼人から返事がなかった。

「隼人さん?」

『九条蓮が来たのか』

「はい」

今までより明らかに声が低い。

「知り合いですか?」

『知っている』

「そうですよね。ライバル会社ですものね」

『あいつと何を話した』

玲奈は首を傾げた。

「商品についてです」

『それだけか』

「それだけって?」

『……いや』

玲奈には隼人が何を気にしているのか分からない。

「九条さん、面白い方ですね」

つい今日の感想を口にした。

今度こそ、隼人から返事がなくなる。

「隼人さん?」

『面白い?』

「はい。少し失礼ですけど」

『玲奈』

「何ですか?」

『九条には気をつけろ』

玲奈は眉を寄せた。

「どうしてですか?」

『あいつは仕事のためなら何でも利用する』

「でも今日は、ちゃんと一条のことを考えてくださいました」

『お前は知り合ったばかりだろう』

「隼人さんだって、私が知らないだけで九条さんを嫌っているのかもしれないでしょう?」

言ってから、少し強すぎたと思った。

けれど隼人も譲らない。

『とにかく二人きりでは会うな』

玲奈は目を見開いた。

「どうして二人きりで会う話になるんですか?」

『念のためだ』

「そんな予定ありません」

『ならいい』

なんだか腹が立つ。

いつもそうだ。

説明もせず、先に決める。

「隼人さん」

『何だ』

「私、自分で人を見ることくらいできます」

電話の向こうから返事がない。

「子供じゃありませんから」

今日はその言葉を、はっきり言えた。

『……分かっている』

以前と同じ返事。

けれど玲奈はもう、それで納得できなかった。

「なら、もう少し私を信じてください」

通話を終えたあと。

玲奈はスマートフォンを膝の上へ置いた。

胸が少し苦しい。

隼人と喧嘩をしたかったわけではない。

今日あったことを話したかった。

自分の意見が初めて会議で役に立ったこと。

新しい商品の話。

楽しかったこと。

本当は隼人にも聞いてほしかった。

けれど隼人が気にしたのは、九条蓮のことだった。

「……何なの」

玲奈は小さく呟いた。

助手席にいる亮は何も言わなかった。



同じ頃。

黒川ホールディングスの執務室。

隼人は通話を終えたスマートフォンを机へ置いた。

画面は暗くなっている。

けれど頭に残っているのは玲奈の声だった。

『九条さん、面白い方ですね』

面白い。

知り合ったばかりの男を。

しかも九条蓮を。

「……何が面白いんだ」

思わず低く呟く。

「何のお話ですか?」

書類を持って入ってきた美月が尋ねる。

隼人は答えなかった。

「玲奈さん?」

美月が名前を出す。

隼人の視線が向く。

「なぜそう思う」

「お顔を見れば」

美月は机へ資料を置いた。

「奥様が何か?」

「一条の会社に九条蓮が来た」

美月の表情がわずかに変わる。

「九条社長が?」

「ああ」

「一条化粧品との取引でしょうか」

「おそらく」

隼人は椅子の背へ身体を預けた。

業務提携上、問題はない。

一条化粧品は黒川の完全子会社ではない。

九条と取引してはいけない理由もない。

頭では理解している。

気に入らないのは、そこではなかった。

玲奈が九条と話した。

笑った。

面白いと言った。

それだけ。

本当にそれだけなのに。

どうしてこれほど落ち着かないのか。

「奥様はお若くていらっしゃいますから」

美月が静かに言う。

「九条社長のような方は、新鮮なのかもしれませんね」

隼人が美月を見る。

「どういう意味だ」

「九条社長は女性の扱いがお上手でしょう?」

「……」

「隼人さんとは正反対ですもの」

余計な一言。

いつもなら聞き流す。

けれど今日だけは引っかかった。

「玲奈はそういう女じゃない」

美月の笑顔が一瞬だけ止まる。

隼人自身も気づいていなかった。

美月は九条の話をしただけなのに。

反射的に玲奈を庇っていた。

「もちろんです」

美月はすぐに笑顔を戻す。

「ただ、九条社長がどう思うかは別ですけれど」

隼人の眉が寄る。

「……どういうことだ」

「玲奈様はお綺麗ですから」

美月は何でもないことのように言った。

「九条社長が興味を持っても、不思議ではないでしょう?」

隼人は答えなかった。

けれど。

机の上に置かれたスマートフォンへ向けた視線は、先ほどよりも険しくなっていた。

そして美月は、その変化を見逃さなかった。

玲奈と九条蓮。

この二人は――。

もしかしたら、自分が思っていた以上に使えるかもしれない。

隼人と玲奈を遠ざけるために。

美月は何も知らない顔で、次の資料を隼人の前へ差し出した。