土曜日の朝。
玲奈はいつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、寝室の床へ細長く伸びている。
枕元の時計を見る。
午前六時十二分。
普段なら、もう少し眠っていられる時間だった。
けれど目を閉じても、眠気は戻ってこない。
今日の午後。
隼人と出かける。
黒川家が新しく出店する宝飾店の内覧会。
仕事だ。
デートではない。
何度も自分へ言い聞かせた。
それでも。
結婚してから、隼人と二人でどこかへ出かけることはほとんどなかった。
パーティーには大勢の人がいる。
会社へ行けば美月がいる。
黒川邸では同じ屋根の下に暮らしていても、隼人は仕事に追われている。
今日だけは少し違う。
玲奈はベッドの上で身体を起こした。
「……何を期待してるんだろう」
自分で言って、頬が熱くなる。
数日前、隼人の会社へ焼き菓子を持っていった。
結局渡せなかった。
美月が隼人のジャケットを羽織っている姿を見た瞬間、渡す勇気がなくなった。
思い出すだけで、まだ胸の奥が小さく痛む。
けれど今日は、美月はいない。
隼人もはっきりと、
『玲奈と行く』
と言ったらしい。
そのことを佐和子から聞いたわけではない。
知らない。
ただ、隼人自身が玲奈の予定を聞いて誘った。
それだけで十分だった。
「今日は考えない」
玲奈は毛布を払い、ベッドから降りた。
香月美月のことは考えない。
せっかくの一日なのだから。
午前十時を過ぎると、玲奈の部屋には何着もの服が並んだ。
「こちらはいかがでしょう」
佐和子が差し出したのは、淡い水色のワンピースだった。
玲奈は鏡の前で合わせてみる。
「少し子供っぽくないですか?」
「そのようなことはございません」
「でも……」
玲奈は首を傾げる。
もう一着。
落ち着いた紺色のワンピース。
丈は膝下で、腰には細いベルト。
こちらのほうが大人っぽい。
「これにします」
「よくお似合いです」
「本当に?」
「はい」
玲奈は鏡へ向き直った。
髪はいつものように全部下ろさず、耳の上だけを軽くまとめてもらう。
アクセサリーは、小さな真珠のピアス。
派手すぎない。
それでも大学へ行く時よりは、少しだけ大人びている。
玲奈は何度も鏡を確認した。
「玲奈様」
「はい?」
佐和子が少し楽しそうに笑っている。
「何ですか?」
「いえ」
「絶対何か思っていますよね」
「楽しみにしていらっしゃるのだな、と」
玲奈の頬が熱くなる。
「仕事です」
「承知しております」
「本当に仕事ですから」
「はい」
全く信じていない顔。
玲奈は恥ずかしくなり、鏡へ向き直った。
「隼人さんは、もう帰ってきていますか?」
「先ほどお戻りになりました」
「会社へ行っていたんですか?」
「午前中だけだそうです」
玲奈は少し驚いた。
休日なのに、朝から会社へ行っていたらしい。
それでも午後の予定には間に合わせてくれた。
胸の奥が温かくなる。
「そろそろ下へ行きます」
「玲奈様」
佐和子に呼び止められる。
「はい?」
「今日は、楽しんでいらしてください」
玲奈は少しだけ目を丸くした。
それから、素直に頷いた。
「はい」
玄関ホールへ下りると、隼人はすでに待っていた。
黒ではなく、今日は濃いグレーのスーツ。
ネクタイも普段より柔らかな色を選んでいる。
仕事の会議へ向かう時より少しだけ雰囲気が違って見えた。
玲奈の足音に気づき、隼人が顔を上げる。
視線が止まる。
以前のパーティーでも同じことがあった。
玲奈は一瞬だけ期待した。
「……お待たせしました」
「ああ」
隼人は玲奈を上から下まで見た。
「その靴で歩けるか?」
玲奈の期待が一気にしぼむ。
「歩けます」
「ヒールが高い」
「五センチです」
「転ぶなよ」
「転びません」
「ならいい」
玲奈はむっとした。
「ほかに言うことはないんですか?」
隼人が怪訝そうに玲奈を見る。
「何が?」
「……何でもありません」
やっぱり言うんじゃなかった。
隼人の前では、少しでも期待すると必ず恥ずかしい思いをする。
玲奈は先に玄関へ向かった。
背後から隼人の声がする。
「玲奈」
「何ですか」
振り返らず答える。
「似合っている」
足が止まった。
玲奈はゆっくり振り返る。
隼人はもう玲奈を見ておらず、腕時計を確認していた。
「……何がですか?」
「服」
「服だけ?」
隼人がこちらを見る。
「何を言わせたいんだ」
「別に」
玲奈は唇を押さえた。
笑ってしまいそうだった。
たった一言。
それだけなのに。
胸の中で、さっきまでの不満が簡単に消えていく。
(本当にずるい)
隼人はきっと何も分かっていない。
自分がどれだけ玲奈の心を振り回しているのか。
「行くぞ」
「はい」
今度は素直に返事ができた。
宝飾店は銀座の一角にあった。
まだ正式開店前。
正面には黒川グループの名前が控えめに掲げられ、大きなショーウインドウには白い布が掛けられている。
店内へ入ると、責任者やスタッフが一斉に頭を下げた。
「黒川専務、お待ちしておりました」
「準備は」
「順調です」
玲奈は隼人の少し後ろを歩いた。
店内は白と淡い金色で統一されている。
照明は明るすぎず、ガラスケースに並ぶ宝石だけが柔らかく輝いていた。
ダイヤモンド。
サファイア。
エメラルド。
玲奈は宝石に詳しいわけではない。
それでも、職人が一つ一つ時間をかけて作ったものなのだと思うと、自然と足が止まった。
「気になるものがあるか?」
隣に来た隼人が尋ねる。
「これ」
玲奈は小さなペンダントを指した。
大きな宝石ではない。
細いプラチナの鎖に、小さな花を模したダイヤがついている。
「ずいぶん地味だな」
「地味じゃありません。可愛いです」
「もっと大きいものもある」
「私はこれくらいが好きです」
隼人がガラス越しにペンダントを見る。
「そうか」
玲奈は笑った。
「隼人さんは、女性のアクセサリーなんて分からなそうですね」
「分からない」
「即答ですね」
「必要なら専門家に聞く」
「夢がないです」
「宝石に夢を求めるのか?」
「そういう話じゃありません」
思わず笑う。
隼人もほんのわずかに口元を緩めた。
玲奈はそれを見逃さなかった。
(……笑った)
大きな変化ではない。
ほかの人なら気づかないくらい。
けれど玲奈には分かった。
胸が高鳴る。
今日は、いつもと違う。
会社でもない。
パーティーでもない。
美月もいない。
こうして隼人と普通に話せるだけで嬉しかった。
「玲奈」
「はい?」
「こっちも見ておけ」
隼人が奥の展示へ向かう。
玲奈はすぐ後を追った。
その時だった。
隼人のスマートフォンが震えた。
一度。
隼人は画面を見る。
着信相手を確認した瞬間、表情が仕事のものへ変わった。
「出る」
「はい」
隼人が少し離れる。
玲奈は一人でショーケースを見るふりをした。
声までは聞こえない。
けれど、隼人の表情が次第に厳しくなっていく。
嫌な予感がした。
数分後。
通話を終えた隼人が戻ってくる。
「玲奈」
その声だけで分かってしまった。
「……会社ですか?」
「ああ」
「何かあったんですか?」
「取引先との契約で問題が出た」
玲奈は胸の中の小さな期待を押し込めた。
「大変なんですか?」
「俺が確認する必要がある」
「そうですか」
仕方がない。
仕事だ。
隼人は会社を背負っている人なのだから。
玲奈は笑った。
「行ってきてください」
「悪い」
「私は大丈夫です」
本当は。
もう少し一緒にいたかった。
まだ店内を半分も見ていない。
この後、遅い昼食でも取れるのではないかと密かに期待していた。
でも言えるわけがない。
「車を用意させる。先に帰れ」
「隼人さんは?」
「会社へ行く」
「分かりました」
責任者が慌ただしく近づいてくる。
隼人はすぐに仕事の話を始めた。
玲奈はその横顔を見ながら、小さく息を吐いた。
仕方がない。
今日はここまで。
それでも楽しかった。
そう思うことにした。
黒川ホールディングスへ到着した隼人を待っていたのは、美月だった。
「申し訳ありません。休日にお呼び戻してしまって」
「資料は」
「会議室に」
美月が隼人の横を歩く。
「先方が突然条件を変更したと言っています」
「理由は」
「海外側の承認が取れなかったと」
隼人の眉が寄る。
「昨日の時点では問題ないと言っていただろう」
「ええ」
「担当者を呼べ」
「承知しました」
美月は歩きながら隼人を横目で見る。
予定通りだった。
実際、契約条件の一部に確認事項が出たのは事実。
ただし今日中に隼人本人が対応しなければならないほどの内容ではない。
担当役員だけでも十分だった。
月曜日まで待つこともできた。
それでも美月は、
『黒川専務に直接確認いただいたほうが安全です』
と先方へ伝えた。
嘘ではない。
ただ。
今日、隼人が玲奈と出かけていることを知っていたから。
(たった二週間で、妻らしい顔をされても困るのよ)
美月は表情を変えず、会議室の扉を開いた。
「どうぞ」
隼人が中へ入る。
美月はその背中を見つめた。
今日はこれでいい。
一つ予定を壊すだけ。
玲奈に思い知らせる。
隼人にとって一番大切なのは仕事。
そして、その仕事を支えるのは自分だ。
妻だからといって、いつでも隼人を独占できるわけではない。
そう分からせればいい。
玲奈はすぐに黒川邸へ帰らなかった。
「玲奈様、このままご自宅へ戻られますか?」
車の中で亮が尋ねる。
玲奈は窓の外を眺めた。
まだ午後三時前。
せっかく支度をして出てきたのに、このまま帰るのが少し寂しかった。
「……少し歩いてもいいですか?」
「もちろんです」
車を降り、玲奈は近くの通りを歩いた。
休日の銀座は人が多い。
買い物袋を持った夫婦。
手をつないで歩く恋人。
子供を連れた家族。
玲奈は無意識に目で追った。
誰も自分たちを気にしていない。
普通の土曜日。
普通に誰かと出かけている人たち。
「玲奈様」
亮が少し後ろから声をかける。
「疲れましたか?」
「いいえ」
「では、もう少し歩きますか?」
「はい」
玲奈は笑った。
亮は理由を聞かない。
なぜ隼人がいなくなったのかも。
玲奈が寂しいのかも。
ただ必要な距離を保ってくれる。
それがありがたかった。
少し歩いたところで、小さなカフェを見つけた。
「ここ、入ってもいいですか?」
「どうぞ」
窓際の席へ座る。
亮はいつものように少し離れた席を選ぼうとした。
「神谷さん」
「はい?」
「今日は一緒に座りませんか?」
亮が少し迷った。
「警護中ですので」
「向かいなら大丈夫でしょう?」
「……分かりました」
亮が正面へ座る。
玲奈は紅茶を注文した。
しばらくして、温かなカップが運ばれてくる。
「せっかくのお休みなのに、神谷さんも大変ですね」
「仕事ですから」
「またそれ」
玲奈は少し笑った。
亮もほんの少し表情を和らげる。
「旦那様は会社へ?」
「はい」
「急ぎの案件でしょうか」
「そうみたいです」
玲奈はカップの縁を指でなぞった。
「仕方ないですよね」
亮は何も言わない。
「隼人さんは忙しい人だから」
自分へ言い聞かせるように続けた。
「今日は少し一緒に出かけられただけでも良かったです」
「そう思っていらっしゃいますか?」
玲奈は顔を上げた。
亮はいつも通り落ち着いた表情。
「どういう意味ですか?」
「少し寂しそうに見えたので」
玲奈は言葉に詰まった。
やっぱり顔に出ていたらしい。
「……神谷さんも分かりやすいって言うんですね」
「玲奈様は、無理に笑う時だけ分かりやすいです」
胸の奥が揺れた。
玲奈はカップへ視線を落とす。
「そんなこと言われたの、初めてです」
隼人は玲奈が食べていないことには気づく。
寒そうなことにも。
帰宅時間にも。
けれど、寂しいと気づいたことはあるのだろうか。
玲奈自身が隠しているのだから、分からなくて当然だ。
それでも少しだけ思ってしまう。
気づいてほしい。
「今日、楽しみにしてたんです」
玲奈は初めて本音をこぼした。
「旦那様との外出を?」
「はい」
恥ずかしくなって、少し笑う。
「仕事なのに変ですよね」
「変ではないと思います」
「そうでしょうか」
「夫婦なら、一緒に出かけることを楽しみにしても普通でしょう」
夫婦なら。
その言葉が胸に残る。
玲奈は静かにカップを持ち上げた。
「私たち……普通の夫婦なんでしょうか」
亮はすぐには答えなかった。
「それは、俺には分かりません」
「ですよね」
「ただ」
亮が続ける。
「玲奈様が我慢してばかりなら、それを普通だと思わなくてもいいとは思います」
玲奈は亮を見つめた。
「我慢……」
「会社のために結婚されたとしても、寂しい時まで我慢する必要はないでしょう」
図星だった。
玲奈は何も言えなくなる。
父の会社を救うために結婚した。
だから隼人へ多くを求めてはいけない。
ずっとそう思っていた。
愛してほしい。
一緒にいてほしい。
もっと自分を見てほしい。
そんな願いを口にする資格はないと。
「……神谷さんって、時々ずるいですね」
亮が少し驚く。
「俺がですか?」
「聞きたくないことを、普通の顔で言うから」
亮は謝らなかった。
ただ、
「申し訳ありません」
と少しだけ困った顔をした。
玲奈は笑った。
今度は、無理に作った笑顔ではなかった。
午後八時。
玲奈は黒川邸のダイニングに一人でいた。
長いテーブル。
目の前には二人分の食器が用意されている。
午後六時頃。
隼人からメッセージが来た。
『仕事が長引いている。夕食には戻れない』
短い文章。
玲奈は、
『分かりました。お仕事頑張ってください』
と返した。
それから二時間。
玲奈は一人で食事を始めた。
隼人の席には誰もいない。
「玲奈様」
佐和子が声をかける。
「お食事、温め直しましょうか?」
「大丈夫です」
「ですが、ほとんど召し上がっておりません」
「お昼にケーキを食べたから」
嘘ではない。
カフェで少しだけ食べた。
でも食欲がない理由は、それだけではなかった。
今日。
本当なら今頃、隼人と何をしていただろう。
内覧会が終わって、そのまま一緒に夕食を食べていたかもしれない。
帰りの車で、今日見た宝石の話をしていたかもしれない。
そんな想像をしてしまう。
「……私、先に部屋へ戻ります」
玲奈はナプキンを置いた。
「かしこまりました」
椅子から立ち上がる。
その時。
玄関の方から物音がした。
玲奈の足が止まる。
「隼人さん?」
思わず声が明るくなる。
けれど入ってきたのは使用人だった。
「失礼いたします。隼人様からお電話でございます」
玲奈の胸が少し高鳴る。
「こちらへ繋いで」
「はい」
数秒後。
ダイニングにある電話を取る。
「もしもし」
『玲奈』
隼人の声。
それだけで嬉しい。
「お仕事、終わりましたか?」
『いや。まだかかる』
「そう……ですか」
『今日は悪かった』
玲奈は少し驚いた。
隼人が自分から謝ることは珍しい。
「仕事なら仕方ありません」
『内覧会も途中だった』
「でも、楽しかったです」
『そうか』
「はい」
本当はもっと一緒にいたかった。
けれど言わない。
『玲奈』
「はい」
『今度、また行くか』
玲奈の胸が跳ねた。
「……今度?」
『今日見られなかったところがあるだろう』
「あります」
『なら、時間を作る』
嬉しかった。
単純なくらいに。
「約束ですよ」
『ああ』
玲奈は笑った。
「じゃあ、お仕事頑張ってください」
『先に寝ろ』
「また子供扱い」
『夜更かしする必要がないと言っているだけだ』
「分かりました」
電話を切る。
胸の中が少し軽くなっていた。
今日の約束は途中で終わった。
でも次がある。
そう思えるだけで十分だった。
玲奈はまだ知らなかった。
隼人を会社へ呼び戻した案件が、本当はそこまで緊急ではなかったことを。
そして。
電話を終えた隼人のすぐそばに、美月がいたことも。
「奥様ですか?」
隼人が受話器を置くと、美月が尋ねた。
「ああ」
「仲がおよろしいんですね」
「何の話だ」
「わざわざお電話されるなんて」
隼人は美月を見た。
「予定を潰したからだ」
「申し訳ありません」
美月は頭を下げる。
「私が判断を誤りました」
隼人の視線が止まった。
「判断?」
「はい。念のため、隼人さんに直接確認いただいたほうがいいと思いまして」
隼人はテーブルの上の資料を見る。
今日一日確認した結果。
大きな問題ではなかった。
担当役員だけでも対応できた可能性が高い。
「次からは、俺を呼ぶ前に担当役員へ回せ」
「……承知しました」
「休日ならなおさらだ」
美月の胸が小さく痛んだ。
以前なら。
隼人は休日だろうと気にしなかった。
仕事なら何時でも来た。
それなのに今は違う。
玲奈との時間を失ったことを気にしている。
美月は微笑んだ。
「奥様とのお時間を邪魔してしまいましたね」
隼人は答えない。
けれど否定もしなかった。
それが、美月には何より気に入らなかった。
「では、次回から気をつけます」
穏やかにそう言いながら。
美月の中では、まったく別の考えが動き始めていた。
今日一度くらいなら、まだ偶然で済む。
けれど。
玲奈が隼人との時間を楽しみにするたび。
期待するたび。
その期待が叶わなければどうなるだろう。
いつか――。
『やっぱり私は、隼人さんには必要ない』
そう思う日が来るかもしれない。
美月は書類を閉じた。
「隼人さん」
「何だ」
「来週の夜、海外取引先との会食があります」
「予定に入れておけ」
「承知しました」
美月はいつもの秘書の顔で微笑んだ。
夫婦の時間など、いくらでも仕事に変えられる。
隼人の予定を誰より把握している自分なら。
玲奈が楽しみにする約束を、一つずつ減らしていくことだってできる。
その考えが胸に浮かんでも。
美月には、もう罪悪感はなかった。
玲奈はいつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、寝室の床へ細長く伸びている。
枕元の時計を見る。
午前六時十二分。
普段なら、もう少し眠っていられる時間だった。
けれど目を閉じても、眠気は戻ってこない。
今日の午後。
隼人と出かける。
黒川家が新しく出店する宝飾店の内覧会。
仕事だ。
デートではない。
何度も自分へ言い聞かせた。
それでも。
結婚してから、隼人と二人でどこかへ出かけることはほとんどなかった。
パーティーには大勢の人がいる。
会社へ行けば美月がいる。
黒川邸では同じ屋根の下に暮らしていても、隼人は仕事に追われている。
今日だけは少し違う。
玲奈はベッドの上で身体を起こした。
「……何を期待してるんだろう」
自分で言って、頬が熱くなる。
数日前、隼人の会社へ焼き菓子を持っていった。
結局渡せなかった。
美月が隼人のジャケットを羽織っている姿を見た瞬間、渡す勇気がなくなった。
思い出すだけで、まだ胸の奥が小さく痛む。
けれど今日は、美月はいない。
隼人もはっきりと、
『玲奈と行く』
と言ったらしい。
そのことを佐和子から聞いたわけではない。
知らない。
ただ、隼人自身が玲奈の予定を聞いて誘った。
それだけで十分だった。
「今日は考えない」
玲奈は毛布を払い、ベッドから降りた。
香月美月のことは考えない。
せっかくの一日なのだから。
午前十時を過ぎると、玲奈の部屋には何着もの服が並んだ。
「こちらはいかがでしょう」
佐和子が差し出したのは、淡い水色のワンピースだった。
玲奈は鏡の前で合わせてみる。
「少し子供っぽくないですか?」
「そのようなことはございません」
「でも……」
玲奈は首を傾げる。
もう一着。
落ち着いた紺色のワンピース。
丈は膝下で、腰には細いベルト。
こちらのほうが大人っぽい。
「これにします」
「よくお似合いです」
「本当に?」
「はい」
玲奈は鏡へ向き直った。
髪はいつものように全部下ろさず、耳の上だけを軽くまとめてもらう。
アクセサリーは、小さな真珠のピアス。
派手すぎない。
それでも大学へ行く時よりは、少しだけ大人びている。
玲奈は何度も鏡を確認した。
「玲奈様」
「はい?」
佐和子が少し楽しそうに笑っている。
「何ですか?」
「いえ」
「絶対何か思っていますよね」
「楽しみにしていらっしゃるのだな、と」
玲奈の頬が熱くなる。
「仕事です」
「承知しております」
「本当に仕事ですから」
「はい」
全く信じていない顔。
玲奈は恥ずかしくなり、鏡へ向き直った。
「隼人さんは、もう帰ってきていますか?」
「先ほどお戻りになりました」
「会社へ行っていたんですか?」
「午前中だけだそうです」
玲奈は少し驚いた。
休日なのに、朝から会社へ行っていたらしい。
それでも午後の予定には間に合わせてくれた。
胸の奥が温かくなる。
「そろそろ下へ行きます」
「玲奈様」
佐和子に呼び止められる。
「はい?」
「今日は、楽しんでいらしてください」
玲奈は少しだけ目を丸くした。
それから、素直に頷いた。
「はい」
玄関ホールへ下りると、隼人はすでに待っていた。
黒ではなく、今日は濃いグレーのスーツ。
ネクタイも普段より柔らかな色を選んでいる。
仕事の会議へ向かう時より少しだけ雰囲気が違って見えた。
玲奈の足音に気づき、隼人が顔を上げる。
視線が止まる。
以前のパーティーでも同じことがあった。
玲奈は一瞬だけ期待した。
「……お待たせしました」
「ああ」
隼人は玲奈を上から下まで見た。
「その靴で歩けるか?」
玲奈の期待が一気にしぼむ。
「歩けます」
「ヒールが高い」
「五センチです」
「転ぶなよ」
「転びません」
「ならいい」
玲奈はむっとした。
「ほかに言うことはないんですか?」
隼人が怪訝そうに玲奈を見る。
「何が?」
「……何でもありません」
やっぱり言うんじゃなかった。
隼人の前では、少しでも期待すると必ず恥ずかしい思いをする。
玲奈は先に玄関へ向かった。
背後から隼人の声がする。
「玲奈」
「何ですか」
振り返らず答える。
「似合っている」
足が止まった。
玲奈はゆっくり振り返る。
隼人はもう玲奈を見ておらず、腕時計を確認していた。
「……何がですか?」
「服」
「服だけ?」
隼人がこちらを見る。
「何を言わせたいんだ」
「別に」
玲奈は唇を押さえた。
笑ってしまいそうだった。
たった一言。
それだけなのに。
胸の中で、さっきまでの不満が簡単に消えていく。
(本当にずるい)
隼人はきっと何も分かっていない。
自分がどれだけ玲奈の心を振り回しているのか。
「行くぞ」
「はい」
今度は素直に返事ができた。
宝飾店は銀座の一角にあった。
まだ正式開店前。
正面には黒川グループの名前が控えめに掲げられ、大きなショーウインドウには白い布が掛けられている。
店内へ入ると、責任者やスタッフが一斉に頭を下げた。
「黒川専務、お待ちしておりました」
「準備は」
「順調です」
玲奈は隼人の少し後ろを歩いた。
店内は白と淡い金色で統一されている。
照明は明るすぎず、ガラスケースに並ぶ宝石だけが柔らかく輝いていた。
ダイヤモンド。
サファイア。
エメラルド。
玲奈は宝石に詳しいわけではない。
それでも、職人が一つ一つ時間をかけて作ったものなのだと思うと、自然と足が止まった。
「気になるものがあるか?」
隣に来た隼人が尋ねる。
「これ」
玲奈は小さなペンダントを指した。
大きな宝石ではない。
細いプラチナの鎖に、小さな花を模したダイヤがついている。
「ずいぶん地味だな」
「地味じゃありません。可愛いです」
「もっと大きいものもある」
「私はこれくらいが好きです」
隼人がガラス越しにペンダントを見る。
「そうか」
玲奈は笑った。
「隼人さんは、女性のアクセサリーなんて分からなそうですね」
「分からない」
「即答ですね」
「必要なら専門家に聞く」
「夢がないです」
「宝石に夢を求めるのか?」
「そういう話じゃありません」
思わず笑う。
隼人もほんのわずかに口元を緩めた。
玲奈はそれを見逃さなかった。
(……笑った)
大きな変化ではない。
ほかの人なら気づかないくらい。
けれど玲奈には分かった。
胸が高鳴る。
今日は、いつもと違う。
会社でもない。
パーティーでもない。
美月もいない。
こうして隼人と普通に話せるだけで嬉しかった。
「玲奈」
「はい?」
「こっちも見ておけ」
隼人が奥の展示へ向かう。
玲奈はすぐ後を追った。
その時だった。
隼人のスマートフォンが震えた。
一度。
隼人は画面を見る。
着信相手を確認した瞬間、表情が仕事のものへ変わった。
「出る」
「はい」
隼人が少し離れる。
玲奈は一人でショーケースを見るふりをした。
声までは聞こえない。
けれど、隼人の表情が次第に厳しくなっていく。
嫌な予感がした。
数分後。
通話を終えた隼人が戻ってくる。
「玲奈」
その声だけで分かってしまった。
「……会社ですか?」
「ああ」
「何かあったんですか?」
「取引先との契約で問題が出た」
玲奈は胸の中の小さな期待を押し込めた。
「大変なんですか?」
「俺が確認する必要がある」
「そうですか」
仕方がない。
仕事だ。
隼人は会社を背負っている人なのだから。
玲奈は笑った。
「行ってきてください」
「悪い」
「私は大丈夫です」
本当は。
もう少し一緒にいたかった。
まだ店内を半分も見ていない。
この後、遅い昼食でも取れるのではないかと密かに期待していた。
でも言えるわけがない。
「車を用意させる。先に帰れ」
「隼人さんは?」
「会社へ行く」
「分かりました」
責任者が慌ただしく近づいてくる。
隼人はすぐに仕事の話を始めた。
玲奈はその横顔を見ながら、小さく息を吐いた。
仕方がない。
今日はここまで。
それでも楽しかった。
そう思うことにした。
黒川ホールディングスへ到着した隼人を待っていたのは、美月だった。
「申し訳ありません。休日にお呼び戻してしまって」
「資料は」
「会議室に」
美月が隼人の横を歩く。
「先方が突然条件を変更したと言っています」
「理由は」
「海外側の承認が取れなかったと」
隼人の眉が寄る。
「昨日の時点では問題ないと言っていただろう」
「ええ」
「担当者を呼べ」
「承知しました」
美月は歩きながら隼人を横目で見る。
予定通りだった。
実際、契約条件の一部に確認事項が出たのは事実。
ただし今日中に隼人本人が対応しなければならないほどの内容ではない。
担当役員だけでも十分だった。
月曜日まで待つこともできた。
それでも美月は、
『黒川専務に直接確認いただいたほうが安全です』
と先方へ伝えた。
嘘ではない。
ただ。
今日、隼人が玲奈と出かけていることを知っていたから。
(たった二週間で、妻らしい顔をされても困るのよ)
美月は表情を変えず、会議室の扉を開いた。
「どうぞ」
隼人が中へ入る。
美月はその背中を見つめた。
今日はこれでいい。
一つ予定を壊すだけ。
玲奈に思い知らせる。
隼人にとって一番大切なのは仕事。
そして、その仕事を支えるのは自分だ。
妻だからといって、いつでも隼人を独占できるわけではない。
そう分からせればいい。
玲奈はすぐに黒川邸へ帰らなかった。
「玲奈様、このままご自宅へ戻られますか?」
車の中で亮が尋ねる。
玲奈は窓の外を眺めた。
まだ午後三時前。
せっかく支度をして出てきたのに、このまま帰るのが少し寂しかった。
「……少し歩いてもいいですか?」
「もちろんです」
車を降り、玲奈は近くの通りを歩いた。
休日の銀座は人が多い。
買い物袋を持った夫婦。
手をつないで歩く恋人。
子供を連れた家族。
玲奈は無意識に目で追った。
誰も自分たちを気にしていない。
普通の土曜日。
普通に誰かと出かけている人たち。
「玲奈様」
亮が少し後ろから声をかける。
「疲れましたか?」
「いいえ」
「では、もう少し歩きますか?」
「はい」
玲奈は笑った。
亮は理由を聞かない。
なぜ隼人がいなくなったのかも。
玲奈が寂しいのかも。
ただ必要な距離を保ってくれる。
それがありがたかった。
少し歩いたところで、小さなカフェを見つけた。
「ここ、入ってもいいですか?」
「どうぞ」
窓際の席へ座る。
亮はいつものように少し離れた席を選ぼうとした。
「神谷さん」
「はい?」
「今日は一緒に座りませんか?」
亮が少し迷った。
「警護中ですので」
「向かいなら大丈夫でしょう?」
「……分かりました」
亮が正面へ座る。
玲奈は紅茶を注文した。
しばらくして、温かなカップが運ばれてくる。
「せっかくのお休みなのに、神谷さんも大変ですね」
「仕事ですから」
「またそれ」
玲奈は少し笑った。
亮もほんの少し表情を和らげる。
「旦那様は会社へ?」
「はい」
「急ぎの案件でしょうか」
「そうみたいです」
玲奈はカップの縁を指でなぞった。
「仕方ないですよね」
亮は何も言わない。
「隼人さんは忙しい人だから」
自分へ言い聞かせるように続けた。
「今日は少し一緒に出かけられただけでも良かったです」
「そう思っていらっしゃいますか?」
玲奈は顔を上げた。
亮はいつも通り落ち着いた表情。
「どういう意味ですか?」
「少し寂しそうに見えたので」
玲奈は言葉に詰まった。
やっぱり顔に出ていたらしい。
「……神谷さんも分かりやすいって言うんですね」
「玲奈様は、無理に笑う時だけ分かりやすいです」
胸の奥が揺れた。
玲奈はカップへ視線を落とす。
「そんなこと言われたの、初めてです」
隼人は玲奈が食べていないことには気づく。
寒そうなことにも。
帰宅時間にも。
けれど、寂しいと気づいたことはあるのだろうか。
玲奈自身が隠しているのだから、分からなくて当然だ。
それでも少しだけ思ってしまう。
気づいてほしい。
「今日、楽しみにしてたんです」
玲奈は初めて本音をこぼした。
「旦那様との外出を?」
「はい」
恥ずかしくなって、少し笑う。
「仕事なのに変ですよね」
「変ではないと思います」
「そうでしょうか」
「夫婦なら、一緒に出かけることを楽しみにしても普通でしょう」
夫婦なら。
その言葉が胸に残る。
玲奈は静かにカップを持ち上げた。
「私たち……普通の夫婦なんでしょうか」
亮はすぐには答えなかった。
「それは、俺には分かりません」
「ですよね」
「ただ」
亮が続ける。
「玲奈様が我慢してばかりなら、それを普通だと思わなくてもいいとは思います」
玲奈は亮を見つめた。
「我慢……」
「会社のために結婚されたとしても、寂しい時まで我慢する必要はないでしょう」
図星だった。
玲奈は何も言えなくなる。
父の会社を救うために結婚した。
だから隼人へ多くを求めてはいけない。
ずっとそう思っていた。
愛してほしい。
一緒にいてほしい。
もっと自分を見てほしい。
そんな願いを口にする資格はないと。
「……神谷さんって、時々ずるいですね」
亮が少し驚く。
「俺がですか?」
「聞きたくないことを、普通の顔で言うから」
亮は謝らなかった。
ただ、
「申し訳ありません」
と少しだけ困った顔をした。
玲奈は笑った。
今度は、無理に作った笑顔ではなかった。
午後八時。
玲奈は黒川邸のダイニングに一人でいた。
長いテーブル。
目の前には二人分の食器が用意されている。
午後六時頃。
隼人からメッセージが来た。
『仕事が長引いている。夕食には戻れない』
短い文章。
玲奈は、
『分かりました。お仕事頑張ってください』
と返した。
それから二時間。
玲奈は一人で食事を始めた。
隼人の席には誰もいない。
「玲奈様」
佐和子が声をかける。
「お食事、温め直しましょうか?」
「大丈夫です」
「ですが、ほとんど召し上がっておりません」
「お昼にケーキを食べたから」
嘘ではない。
カフェで少しだけ食べた。
でも食欲がない理由は、それだけではなかった。
今日。
本当なら今頃、隼人と何をしていただろう。
内覧会が終わって、そのまま一緒に夕食を食べていたかもしれない。
帰りの車で、今日見た宝石の話をしていたかもしれない。
そんな想像をしてしまう。
「……私、先に部屋へ戻ります」
玲奈はナプキンを置いた。
「かしこまりました」
椅子から立ち上がる。
その時。
玄関の方から物音がした。
玲奈の足が止まる。
「隼人さん?」
思わず声が明るくなる。
けれど入ってきたのは使用人だった。
「失礼いたします。隼人様からお電話でございます」
玲奈の胸が少し高鳴る。
「こちらへ繋いで」
「はい」
数秒後。
ダイニングにある電話を取る。
「もしもし」
『玲奈』
隼人の声。
それだけで嬉しい。
「お仕事、終わりましたか?」
『いや。まだかかる』
「そう……ですか」
『今日は悪かった』
玲奈は少し驚いた。
隼人が自分から謝ることは珍しい。
「仕事なら仕方ありません」
『内覧会も途中だった』
「でも、楽しかったです」
『そうか』
「はい」
本当はもっと一緒にいたかった。
けれど言わない。
『玲奈』
「はい」
『今度、また行くか』
玲奈の胸が跳ねた。
「……今度?」
『今日見られなかったところがあるだろう』
「あります」
『なら、時間を作る』
嬉しかった。
単純なくらいに。
「約束ですよ」
『ああ』
玲奈は笑った。
「じゃあ、お仕事頑張ってください」
『先に寝ろ』
「また子供扱い」
『夜更かしする必要がないと言っているだけだ』
「分かりました」
電話を切る。
胸の中が少し軽くなっていた。
今日の約束は途中で終わった。
でも次がある。
そう思えるだけで十分だった。
玲奈はまだ知らなかった。
隼人を会社へ呼び戻した案件が、本当はそこまで緊急ではなかったことを。
そして。
電話を終えた隼人のすぐそばに、美月がいたことも。
「奥様ですか?」
隼人が受話器を置くと、美月が尋ねた。
「ああ」
「仲がおよろしいんですね」
「何の話だ」
「わざわざお電話されるなんて」
隼人は美月を見た。
「予定を潰したからだ」
「申し訳ありません」
美月は頭を下げる。
「私が判断を誤りました」
隼人の視線が止まった。
「判断?」
「はい。念のため、隼人さんに直接確認いただいたほうがいいと思いまして」
隼人はテーブルの上の資料を見る。
今日一日確認した結果。
大きな問題ではなかった。
担当役員だけでも対応できた可能性が高い。
「次からは、俺を呼ぶ前に担当役員へ回せ」
「……承知しました」
「休日ならなおさらだ」
美月の胸が小さく痛んだ。
以前なら。
隼人は休日だろうと気にしなかった。
仕事なら何時でも来た。
それなのに今は違う。
玲奈との時間を失ったことを気にしている。
美月は微笑んだ。
「奥様とのお時間を邪魔してしまいましたね」
隼人は答えない。
けれど否定もしなかった。
それが、美月には何より気に入らなかった。
「では、次回から気をつけます」
穏やかにそう言いながら。
美月の中では、まったく別の考えが動き始めていた。
今日一度くらいなら、まだ偶然で済む。
けれど。
玲奈が隼人との時間を楽しみにするたび。
期待するたび。
その期待が叶わなければどうなるだろう。
いつか――。
『やっぱり私は、隼人さんには必要ない』
そう思う日が来るかもしれない。
美月は書類を閉じた。
「隼人さん」
「何だ」
「来週の夜、海外取引先との会食があります」
「予定に入れておけ」
「承知しました」
美月はいつもの秘書の顔で微笑んだ。
夫婦の時間など、いくらでも仕事に変えられる。
隼人の予定を誰より把握している自分なら。
玲奈が楽しみにする約束を、一つずつ減らしていくことだってできる。
その考えが胸に浮かんでも。
美月には、もう罪悪感はなかった。

