それから数日、玲奈は大学生活に少しずつ慣れ始めていた。
朝は黒川邸から大学へ向かい、講義を受ける。
昼休みには美緒や新しくできた友人たちと学食へ行き、授業が早く終わった日はキャンパス内の図書館で一条化粧品の資料を読む。
亮は必要以上に近づかず、それでも玲奈が移動すれば必ず少し離れたところにいる。
最初は気になっていた護衛の存在も、今では大学生活の一部になりつつあった。
ただ――。
隼人との関係だけは、何も変わらない。
「今日も遅くなるんですか?」
朝食の席。
玲奈はコーヒーカップを手にした隼人へ尋ねた。
「ああ」
また。
最近、ほとんど毎日のように聞いている返事だった。
「何時頃ですか?」
「分からない。十一時は過ぎる」
「……そうですか」
玲奈は小さくパンをちぎった。
朝の光が大きな窓から差し込み、白いクロスを明るく照らしている。
向かい側に座る隼人は、すでに仕事へ気持ちを切り替えているようだった。
タブレットへ視線を落とし、届いたメールを確認している。
以前なら、それでも気にしなかった。
仕事が忙しい人なのだと思っていた。
けれど美月と会ってからは、どうしても余計なことを考えてしまう。
遅くなる。
それはつまり――。
(香月さんも一緒なのかな)
秘書なのだから当然だ。
隼人が仕事をしているなら、美月も仕事をしている。
理解している。
それでも胸の奥が落ち着かなかった。
「玲奈」
突然呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「はい」
「土曜日は予定があるか」
「土曜日?」
思いがけない質問だった。
「大学はありませんけど……」
「友人との約束は?」
「今のところありません」
「そうか」
それだけ言って、隼人はまた画面へ視線を戻した。
玲奈は待った。
けれど続きがない。
「……それだけですか?」
「何が」
「土曜日の予定を聞いたから」
「確認しただけだ」
「どうして?」
隼人はようやく顔を上げた。
「黒川家の宝飾部門で新しい店舗を出す。内覧会がある」
玲奈の胸が少し弾む。
「私も行くんですか?」
「嫌ならいい」
「嫌じゃありません」
答えるのが早すぎた。
隼人がわずかに玲奈を見る。
恥ずかしくなり、玲奈は紅茶へ手を伸ばした。
「その……黒川家のお仕事なら、私も見ておいたほうがいいと思って」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
本当は単純だった。
隼人と一緒に出かけられる。
それが嬉しかった。
パーティーでもなく、大人数での会食でもない。
たとえ仕事が目的でも、二人で同じ場所へ行ける。
「午後一時に出る」
「はい」
「服は佐和子に聞け」
「自分で選べます」
隼人の眉がわずかに動いた。
「派手なものは着るな」
「分かっています」
「ヒールも高すぎるものは――」
「隼人さん」
玲奈は少しむっとして隼人を見る。
「何だ」
「私、自分で服くらい選べます」
「そうか」
「そうです」
少しくらい反論してくるかと思ったのに、隼人はあっさり引いた。
そしてコーヒーを飲み終えると立ち上がる。
「なら任せる」
「……はい」
隼人が席を離れる。
玲奈はその背中を見送りながら、少しだけ笑った。
土曜日。
あと三日。
久しぶりに楽しみな予定ができた。
その日の夕方。
黒川ホールディングス最上階。
窓の外では、沈み始めた夕日が高層ビルのガラスへ赤い光を反射させていた。
隼人の執務室には、キーボードを打つ音と紙をめくる音だけが続いている。
「こちら、明日の取締役会で使用する資料です」
美月が厚いファイルを机へ置いた。
「確認した」
「もう?」
「さっきデータで見た」
「相変わらずお早いですね」
美月は微笑んだ。
隼人は返事をせず、別の資料へ手を伸ばす。
彼女にとって、それは珍しいことではない。
七年間。
隼人のそばで働いてきた。
仕事の速さも。
集中すると時間を忘れることも。
機嫌が悪い時ほど口数が減ることも。
疲れていても弱音を吐かないことも。
誰より知っているつもりだった。
だから……。
結婚の知らせを聞いた時、美月は信じられなかった。
しかも相手は十八歳。
高校を卒業したばかりの少女。
初めて玲奈を見た時も思った。
綺麗な子だ、と。
長い黒髪。
大きな瞳。
飾り気のない清楚な顔立ち。
男なら守ってやりたいと思うのかもしれない。
けれど隼人の隣に立つには若すぎる。
仕事の話も分からない。
社交界にも慣れていない。
隼人が何を好むかさえ知らない。
(どうして、あの子なの?)
美月は笑顔を崩さないまま、隼人を見つめた。
「隼人さん」
「何だ」
「最近、少し変わりましたね」
隼人の指が止まる。
「何が」
「以前より早く帰る日が増えました」
「そうか?」
「ええ」
美月は隼人の机の横へ回った。
「昔は午前零時を過ぎても平気で仕事をなさっていたのに」
「効率が悪いだけだ」
「奥様が待っていらっしゃるからではなく?」
隼人がようやく美月を見る。
その視線に、美月は笑みを深めた。
「冗談です」
「なら仕事をしろ」
「はい」
冷たい。
けれど昔からこうだった。
誰に対しても。
だから、美月だけは特別なのだと思っていた。
女性との食事に興味を示さない。
紹介話にも応じない。
恋愛の噂が出ても否定も肯定もしない。
そんな男のそばに、七年間ずっといられたのは自分だけ。
美月は、それを当然のように特別だと思っていた。
なのに。
たった十八歳の少女が現れた。
そして何の努力もせず、黒川隼人の妻になった。
「……寒いですね」
美月が呟く。
「空調を上げればいい」
隼人は書類を見たまま答えた。
「少しだけですから」
「ならその辺にあるものを使え」
美月の視線が動く。
ソファの背に、隼人のジャケットが掛かっていた。
昼間、別の会議室から戻った際に脱いだものだ。
「使っても?」
「ああ」
隼人は見てもいない。
美月はゆっくりとジャケットを手に取った。
男性用の大きなジャケット。
肩へ羽織る。
ほのかに隼人が使っている香水の匂いがした。
七年間そばにいながら、こんなことをしたのは初めてだった。
以前の美月なら、しなかった。
仕事と私情を混ぜれば、隼人に嫌われる。
それが分かっていたから。
けれど今は――。
「……暖かい」
美月が小さく笑う。
隼人は何も答えない。
その反応が少しだけ腹立たしかった。
美月がもう一歩近づこうとした時。
執務室の扉がノックされた。
「どうぞ」
隼人が答える。
扉が開いた。
「失礼します」
柔らかな女性の声。
美月の口元がわずかに上がった。
一条玲奈だった。
一時間ほど前。
玲奈は大学からの帰り道、一条化粧品の本社へ寄っていた。
父から頼まれていた書類を受け取るためだった。
用事はすぐに終わった。
そのまま黒川邸へ帰る予定だったが、ビルを出たところで紙袋を見つめた。
中には、小さな箱が入っている。
昨日、美緒と立ち寄った洋菓子店で買った焼き菓子だった。
隼人は甘いものが好きなのだろうか。
知らない。
だからこそ試してみたかった。
好みを知りたい。
美月だけが知っていることを羨ましがっているだけでは、何も変わらない。
だったら自分から知ればいい。
そう考えて買った。
けれど朝、渡せなかった。
隼人が急いでいたからだ。
「玲奈様、このままご自宅へ?」
車の横で亮が尋ねる。
玲奈は紙袋を見る。
「……黒川の会社へ寄ってもいいですか?」
「もちろんです」
「隼人さん、まだいますよね」
「確認します」
亮がスマートフォンを取り出す。
少しして頷いた。
「まだ社内にいらっしゃいます」
玲奈の胸が少し高鳴った。
「じゃあ、お願いします」
突然訪ねたら迷惑だろうか。
でも少しくらいなら。
焼き菓子を渡して、すぐ帰ればいい。
もしかしたら驚くかもしれない。
少しだけ喜んでくれたら――。
そんなことを考えながら向かった会社。
受付を通り、最上階へ。
以前来た時とは違い、玲奈の顔を覚えている社員も増えていた。
「奥様、こんばんは」
「こんばんは」
頭を下げられるたび、まだ少し落ち着かない。
隼人の執務室まで来ると、亮は廊下で待った。
玲奈は紙袋を持ち直し、扉をノックした。
「どうぞ」
隼人の声。
玲奈は小さく息を吐き、扉を開いた。
「失礼します」
最初に目に入ったのは隼人だった。
大きなデスクの向こう。
白いシャツ姿。
ネクタイは少し緩められている。
そして。
そのすぐそばに美月が立っていた。
玲奈の視線が止まる。
美月の肩には――。
見覚えのある黒いジャケット。
隼人が今朝、家を出る時に着ていたものだった。
「玲奈?」
隼人が驚いたように顔を上げる。
「どうした」
玲奈はすぐに答えられなかった。
美月がこちらを見る。
そして、自分の肩へ目を落とした。
「あ……」
まるで今初めて気づいたかのような顔。
「すみません、玲奈様」
「……何がですか?」
「こちら」
美月はジャケットの襟へ触れた。
「少し寒くて。隼人さんが貸してくださったんです」
玲奈の手に力が入った。
紙袋の持ち手が指へ食い込む。
「そう……ですか」
それしか言えなかった。
「返しますね」
「別にまだいい」
隼人が言った。
玲奈の胸がさらに沈む。
本人には何の意味もない言葉なのだろう。
寒いなら着ていればいい。
ただそれだけ。
けれど玲奈には違って聞こえた。
美月が隼人の服を着ている。
それを隼人が何とも思っていない。
二人にとっては自然なことなのだ。
「玲奈」
再び名前を呼ばれる。
「何か用だったのか?」
「あ……」
玲奈は紙袋を見る。
渡すつもりだった。
昨日から少し楽しみにしていた。
隼人は甘いものが好きですか、と聞こうと思っていた。
もし嫌いなら、次は別のものを選ぼうと思っていた。
そんな小さなことが、急にひどく恥ずかしく感じられた。
美月ならきっと知っている。
何が好きで。
何が嫌いで。
どの店なら喜ぶのか。
自分がこんなものを渡さなくても。
「一条の会社へ寄った帰りだったので」
玲奈は笑った。
「近くまで来たから、ご挨拶だけ」
「それだけか?」
「はい」
嘘だった。
隼人は玲奈の手元へ視線を落とした。
「その袋は?」
玲奈は反射的に背中側へ隠しそうになった。
「これは……」
「奥様」
美月が柔らかく笑う。
「もしかして、隼人さんへ何か?」
聞かれたくなかった。
「違います」
思わず答えた。
「大学の友人に渡すものです」
言ったあと、胸が痛んだ。
自分で隠した。
渡せばよかっただけなのに。
隼人は玲奈を数秒見つめてから、
「そうか」
とだけ答えた。
玲奈はその一言に、なぜか少し傷ついた。
違う。
引き止めてほしかったわけではない。
袋の中を確認してほしかったわけでもない。
けれど。
もう少し興味を持ってほしかった。
「では、私は帰ります」
「待て」
隼人が立ち上がった。
「俺もあと一時間ほどで終わる。一緒に帰るか?」
玲奈の胸が揺れる。
普段なら嬉しかった。
一時間くらい待つ。
そう答えただろう。
けれど今は。
美月が隼人のジャケットを羽織ったまま、すぐそばにいる。
ここで待っていたら、自分は何を見ることになるのだろう。
二人が当然のように仕事をする姿。
美月が隼人の予定を管理する姿。
隼人が彼女だけに分かる指示を出す姿。
もう見たくなかった。
「大丈夫です」
玲奈は笑顔を作った。
「亮さんも待っていますから」
隼人の眉がわずかに寄る。
「神谷がいるのか」
「はい」
「なら……」
何か言おうとした隼人より先に、美月が口を開いた。
「奥様は大学がお忙しいですものね。早くお帰りになったほうがよろしいと思います」
「……そうですね」
玲奈は美月へ頭を下げた。
「お仕事中にお邪魔しました」
「玲奈」
「土曜日、楽しみにしています」
その言葉だけは伝えたかった。
隼人を見る。
「忘れないでくださいね」
「ああ」
「では、お先に失礼します」
玲奈は扉へ向かった。
最後まで、美月の肩にある黒いジャケットを見ないようにした。
廊下へ出る。
扉が閉じた途端、玲奈の肩から力が抜けた。
「玲奈様?」
亮がすぐに近づく。
「どうされました?」
「何でもありません」
「……そうですか」
亮は無理に聞いてこない。
それが今はありがたかった。
二人でエレベーターへ向かう。
廊下には仕事を終えた社員たちが行き交っていた。
誰もが忙しそうにしている。
玲奈だけが、自分がひどく場違いな存在に思えた。
エレベーターへ乗る。
扉が閉まる。
鏡張りの壁に自分の姿が映った。
大学帰りの淡いベージュのワンピース。
肩には小さなバッグ。
手には焼き菓子。
どこから見ても十八歳の学生。
美月とは違う。
大人のスーツ。
仕事。
隼人と共有してきた七年間。
そして夫のジャケットを着るほどの距離。
「……神谷さん」
「はい」
「男性って、自分の上着を女性に貸すのは普通ですか?」
聞いてから後悔した。
亮が少し驚いた顔をする。
「状況によると思います」
「寒そうだったら?」
「貸す人もいるでしょう」
「そうですよね」
やっぱり。
普通のことなのだ。
自分が気にしすぎている。
「玲奈様」
「はい?」
「何かございましたか?」
「ありません」
玲奈は笑った。
「ただ聞いてみたかっただけです」
亮はしばらく玲奈を見ていた。
けれど、それ以上は踏み込まなかった。
一階へ着く。
エレベーターを降り、エントランスへ向かう途中。
玲奈は紙袋へ目を落とした。
「……これ、神谷さん食べます?」
亮が足を止めた。
「俺ですか?」
「はい」
「ご友人へのものでは?」
胸が痛んだ。
さっき自分でついた嘘。
玲奈は少し笑った。
「予定が変わりました」
「ですが――」
「甘いもの、嫌いですか?」
「嫌いではありません」
「じゃあ、もらってください」
玲奈は紙袋を差し出した。
亮はすぐには受け取らなかった。
「誰か別の方へ渡す予定だったのでは?」
優しい問いだった。
玲奈の笑顔が少し崩れそうになる。
「……もう、いいんです」
亮の目がわずかに細められる。
玲奈は困ったように笑った。
「せっかく買ったから、誰かに食べてもらったほうがいいでしょう?」
しばらくして。
亮は紙袋を受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
二人で外へ出る。
夜の街には、会社帰りの人々が歩いていた。
冷たい風が吹き、玲奈の黒髪が揺れる。
さっき美月が言った。
寒かったから、隼人が貸してくれた。
玲奈は自分の腕を抱いた。
別に寒くはない。
それなのに。
なぜだろう。
胸のあたりだけが、ひどく冷えているような気がした。
執務室。
玲奈が帰ったあと。
隼人は扉を見つめたまま動かなかった。
美月がジャケットを脱ぐ。
「ありがとうございました」
隼人は返事をしない。
「隼人さん?」
「香月」
「はい」
「玲奈が持っていた袋」
美月の指がわずかに止まる。
「ご友人への贈り物だそうですね」
「そう言っていたな」
隼人は机へ戻る。
けれど仕事を再開する様子はない。
玲奈はわざわざ会社へ来た。
本当に挨拶だけのために?
しかもあの紙袋。
隼人は以前、玲奈が同じ洋菓子店の紙袋を持っているところを見たことがあった。
結婚前、一条家を訪れた時だ。
『ここのフィナンシェ、美味しいんです』
嬉しそうに話していた。
その記憶が妙に残っている。
「……神谷が待っていると言ったな」
「え?」
「何でもない」
隼人はパソコンへ視線を戻した。
けれど集中できなかった。
最近、玲奈の口から神谷の名前を聞く回数が増えた。
大学。
カフェ。
そして今日も。
一方で玲奈は、自分には何も言わず帰った。
なぜか面白くない。
「隼人さん」
美月の声。
「土曜日の宝飾店内覧会ですが」
隼人が顔を上げる。
「何だ」
「私も同行いたしましょうか?」
「必要ない」
即答だった。
美月の笑顔がわずかに固まる。
「ですが、仕事上――」
「玲奈と行く」
短い言葉。
「取引先との話が必要なら、現地の責任者がいる」
「……承知しました」
美月は頭を下げる。
隼人はもう美月を見ていなかった。
机の端に置かれたスマートフォンへ一度だけ視線を向ける。
玲奈へ連絡するべきか。
けれど何を言う。
『さっきの袋は何だった』
そんなことを聞く理由がない。
『土曜日は忘れていない』
朝に約束したばかりだ。
結局、隼人は何も送らなかった。
そして美月は、そんな隼人の横顔を静かに見つめていた。
玲奈が来る前まで、自分には分からなかった。
隼人があの少女を目で追うこと。
帰ったあとまで気にすること。
ほんのわずかな表情の違いまで覚えていること。
その事実が、美月の胸を焼いた。
七年間そばにいた自分には、一度も向けられなかったもの。
それを玲奈は、何もしなくても手に入れている。
美月は手の中のジャケットを見下ろした。
今夜は偶然だった。
寒いと言った。
隼人が使えと言った。
ただそれだけ。
けれど玲奈は確かに傷ついた顔をした。
あの少女は気にしている。
自分と隼人の距離を。
美月の中に、初めてはっきりとした考えが浮かんだ。
――なら。
もっと見せればいい。
玲奈が自分から隼人を諦めるくらい。
妻よりも自分のほうが、この男のそばにいるのだと。
そう思わせればいい。
美月はジャケットを丁寧にソファへ戻した。
そして何事もなかったように、いつもの秘書の笑顔を浮かべた。
朝は黒川邸から大学へ向かい、講義を受ける。
昼休みには美緒や新しくできた友人たちと学食へ行き、授業が早く終わった日はキャンパス内の図書館で一条化粧品の資料を読む。
亮は必要以上に近づかず、それでも玲奈が移動すれば必ず少し離れたところにいる。
最初は気になっていた護衛の存在も、今では大学生活の一部になりつつあった。
ただ――。
隼人との関係だけは、何も変わらない。
「今日も遅くなるんですか?」
朝食の席。
玲奈はコーヒーカップを手にした隼人へ尋ねた。
「ああ」
また。
最近、ほとんど毎日のように聞いている返事だった。
「何時頃ですか?」
「分からない。十一時は過ぎる」
「……そうですか」
玲奈は小さくパンをちぎった。
朝の光が大きな窓から差し込み、白いクロスを明るく照らしている。
向かい側に座る隼人は、すでに仕事へ気持ちを切り替えているようだった。
タブレットへ視線を落とし、届いたメールを確認している。
以前なら、それでも気にしなかった。
仕事が忙しい人なのだと思っていた。
けれど美月と会ってからは、どうしても余計なことを考えてしまう。
遅くなる。
それはつまり――。
(香月さんも一緒なのかな)
秘書なのだから当然だ。
隼人が仕事をしているなら、美月も仕事をしている。
理解している。
それでも胸の奥が落ち着かなかった。
「玲奈」
突然呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「はい」
「土曜日は予定があるか」
「土曜日?」
思いがけない質問だった。
「大学はありませんけど……」
「友人との約束は?」
「今のところありません」
「そうか」
それだけ言って、隼人はまた画面へ視線を戻した。
玲奈は待った。
けれど続きがない。
「……それだけですか?」
「何が」
「土曜日の予定を聞いたから」
「確認しただけだ」
「どうして?」
隼人はようやく顔を上げた。
「黒川家の宝飾部門で新しい店舗を出す。内覧会がある」
玲奈の胸が少し弾む。
「私も行くんですか?」
「嫌ならいい」
「嫌じゃありません」
答えるのが早すぎた。
隼人がわずかに玲奈を見る。
恥ずかしくなり、玲奈は紅茶へ手を伸ばした。
「その……黒川家のお仕事なら、私も見ておいたほうがいいと思って」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
本当は単純だった。
隼人と一緒に出かけられる。
それが嬉しかった。
パーティーでもなく、大人数での会食でもない。
たとえ仕事が目的でも、二人で同じ場所へ行ける。
「午後一時に出る」
「はい」
「服は佐和子に聞け」
「自分で選べます」
隼人の眉がわずかに動いた。
「派手なものは着るな」
「分かっています」
「ヒールも高すぎるものは――」
「隼人さん」
玲奈は少しむっとして隼人を見る。
「何だ」
「私、自分で服くらい選べます」
「そうか」
「そうです」
少しくらい反論してくるかと思ったのに、隼人はあっさり引いた。
そしてコーヒーを飲み終えると立ち上がる。
「なら任せる」
「……はい」
隼人が席を離れる。
玲奈はその背中を見送りながら、少しだけ笑った。
土曜日。
あと三日。
久しぶりに楽しみな予定ができた。
その日の夕方。
黒川ホールディングス最上階。
窓の外では、沈み始めた夕日が高層ビルのガラスへ赤い光を反射させていた。
隼人の執務室には、キーボードを打つ音と紙をめくる音だけが続いている。
「こちら、明日の取締役会で使用する資料です」
美月が厚いファイルを机へ置いた。
「確認した」
「もう?」
「さっきデータで見た」
「相変わらずお早いですね」
美月は微笑んだ。
隼人は返事をせず、別の資料へ手を伸ばす。
彼女にとって、それは珍しいことではない。
七年間。
隼人のそばで働いてきた。
仕事の速さも。
集中すると時間を忘れることも。
機嫌が悪い時ほど口数が減ることも。
疲れていても弱音を吐かないことも。
誰より知っているつもりだった。
だから……。
結婚の知らせを聞いた時、美月は信じられなかった。
しかも相手は十八歳。
高校を卒業したばかりの少女。
初めて玲奈を見た時も思った。
綺麗な子だ、と。
長い黒髪。
大きな瞳。
飾り気のない清楚な顔立ち。
男なら守ってやりたいと思うのかもしれない。
けれど隼人の隣に立つには若すぎる。
仕事の話も分からない。
社交界にも慣れていない。
隼人が何を好むかさえ知らない。
(どうして、あの子なの?)
美月は笑顔を崩さないまま、隼人を見つめた。
「隼人さん」
「何だ」
「最近、少し変わりましたね」
隼人の指が止まる。
「何が」
「以前より早く帰る日が増えました」
「そうか?」
「ええ」
美月は隼人の机の横へ回った。
「昔は午前零時を過ぎても平気で仕事をなさっていたのに」
「効率が悪いだけだ」
「奥様が待っていらっしゃるからではなく?」
隼人がようやく美月を見る。
その視線に、美月は笑みを深めた。
「冗談です」
「なら仕事をしろ」
「はい」
冷たい。
けれど昔からこうだった。
誰に対しても。
だから、美月だけは特別なのだと思っていた。
女性との食事に興味を示さない。
紹介話にも応じない。
恋愛の噂が出ても否定も肯定もしない。
そんな男のそばに、七年間ずっといられたのは自分だけ。
美月は、それを当然のように特別だと思っていた。
なのに。
たった十八歳の少女が現れた。
そして何の努力もせず、黒川隼人の妻になった。
「……寒いですね」
美月が呟く。
「空調を上げればいい」
隼人は書類を見たまま答えた。
「少しだけですから」
「ならその辺にあるものを使え」
美月の視線が動く。
ソファの背に、隼人のジャケットが掛かっていた。
昼間、別の会議室から戻った際に脱いだものだ。
「使っても?」
「ああ」
隼人は見てもいない。
美月はゆっくりとジャケットを手に取った。
男性用の大きなジャケット。
肩へ羽織る。
ほのかに隼人が使っている香水の匂いがした。
七年間そばにいながら、こんなことをしたのは初めてだった。
以前の美月なら、しなかった。
仕事と私情を混ぜれば、隼人に嫌われる。
それが分かっていたから。
けれど今は――。
「……暖かい」
美月が小さく笑う。
隼人は何も答えない。
その反応が少しだけ腹立たしかった。
美月がもう一歩近づこうとした時。
執務室の扉がノックされた。
「どうぞ」
隼人が答える。
扉が開いた。
「失礼します」
柔らかな女性の声。
美月の口元がわずかに上がった。
一条玲奈だった。
一時間ほど前。
玲奈は大学からの帰り道、一条化粧品の本社へ寄っていた。
父から頼まれていた書類を受け取るためだった。
用事はすぐに終わった。
そのまま黒川邸へ帰る予定だったが、ビルを出たところで紙袋を見つめた。
中には、小さな箱が入っている。
昨日、美緒と立ち寄った洋菓子店で買った焼き菓子だった。
隼人は甘いものが好きなのだろうか。
知らない。
だからこそ試してみたかった。
好みを知りたい。
美月だけが知っていることを羨ましがっているだけでは、何も変わらない。
だったら自分から知ればいい。
そう考えて買った。
けれど朝、渡せなかった。
隼人が急いでいたからだ。
「玲奈様、このままご自宅へ?」
車の横で亮が尋ねる。
玲奈は紙袋を見る。
「……黒川の会社へ寄ってもいいですか?」
「もちろんです」
「隼人さん、まだいますよね」
「確認します」
亮がスマートフォンを取り出す。
少しして頷いた。
「まだ社内にいらっしゃいます」
玲奈の胸が少し高鳴った。
「じゃあ、お願いします」
突然訪ねたら迷惑だろうか。
でも少しくらいなら。
焼き菓子を渡して、すぐ帰ればいい。
もしかしたら驚くかもしれない。
少しだけ喜んでくれたら――。
そんなことを考えながら向かった会社。
受付を通り、最上階へ。
以前来た時とは違い、玲奈の顔を覚えている社員も増えていた。
「奥様、こんばんは」
「こんばんは」
頭を下げられるたび、まだ少し落ち着かない。
隼人の執務室まで来ると、亮は廊下で待った。
玲奈は紙袋を持ち直し、扉をノックした。
「どうぞ」
隼人の声。
玲奈は小さく息を吐き、扉を開いた。
「失礼します」
最初に目に入ったのは隼人だった。
大きなデスクの向こう。
白いシャツ姿。
ネクタイは少し緩められている。
そして。
そのすぐそばに美月が立っていた。
玲奈の視線が止まる。
美月の肩には――。
見覚えのある黒いジャケット。
隼人が今朝、家を出る時に着ていたものだった。
「玲奈?」
隼人が驚いたように顔を上げる。
「どうした」
玲奈はすぐに答えられなかった。
美月がこちらを見る。
そして、自分の肩へ目を落とした。
「あ……」
まるで今初めて気づいたかのような顔。
「すみません、玲奈様」
「……何がですか?」
「こちら」
美月はジャケットの襟へ触れた。
「少し寒くて。隼人さんが貸してくださったんです」
玲奈の手に力が入った。
紙袋の持ち手が指へ食い込む。
「そう……ですか」
それしか言えなかった。
「返しますね」
「別にまだいい」
隼人が言った。
玲奈の胸がさらに沈む。
本人には何の意味もない言葉なのだろう。
寒いなら着ていればいい。
ただそれだけ。
けれど玲奈には違って聞こえた。
美月が隼人の服を着ている。
それを隼人が何とも思っていない。
二人にとっては自然なことなのだ。
「玲奈」
再び名前を呼ばれる。
「何か用だったのか?」
「あ……」
玲奈は紙袋を見る。
渡すつもりだった。
昨日から少し楽しみにしていた。
隼人は甘いものが好きですか、と聞こうと思っていた。
もし嫌いなら、次は別のものを選ぼうと思っていた。
そんな小さなことが、急にひどく恥ずかしく感じられた。
美月ならきっと知っている。
何が好きで。
何が嫌いで。
どの店なら喜ぶのか。
自分がこんなものを渡さなくても。
「一条の会社へ寄った帰りだったので」
玲奈は笑った。
「近くまで来たから、ご挨拶だけ」
「それだけか?」
「はい」
嘘だった。
隼人は玲奈の手元へ視線を落とした。
「その袋は?」
玲奈は反射的に背中側へ隠しそうになった。
「これは……」
「奥様」
美月が柔らかく笑う。
「もしかして、隼人さんへ何か?」
聞かれたくなかった。
「違います」
思わず答えた。
「大学の友人に渡すものです」
言ったあと、胸が痛んだ。
自分で隠した。
渡せばよかっただけなのに。
隼人は玲奈を数秒見つめてから、
「そうか」
とだけ答えた。
玲奈はその一言に、なぜか少し傷ついた。
違う。
引き止めてほしかったわけではない。
袋の中を確認してほしかったわけでもない。
けれど。
もう少し興味を持ってほしかった。
「では、私は帰ります」
「待て」
隼人が立ち上がった。
「俺もあと一時間ほどで終わる。一緒に帰るか?」
玲奈の胸が揺れる。
普段なら嬉しかった。
一時間くらい待つ。
そう答えただろう。
けれど今は。
美月が隼人のジャケットを羽織ったまま、すぐそばにいる。
ここで待っていたら、自分は何を見ることになるのだろう。
二人が当然のように仕事をする姿。
美月が隼人の予定を管理する姿。
隼人が彼女だけに分かる指示を出す姿。
もう見たくなかった。
「大丈夫です」
玲奈は笑顔を作った。
「亮さんも待っていますから」
隼人の眉がわずかに寄る。
「神谷がいるのか」
「はい」
「なら……」
何か言おうとした隼人より先に、美月が口を開いた。
「奥様は大学がお忙しいですものね。早くお帰りになったほうがよろしいと思います」
「……そうですね」
玲奈は美月へ頭を下げた。
「お仕事中にお邪魔しました」
「玲奈」
「土曜日、楽しみにしています」
その言葉だけは伝えたかった。
隼人を見る。
「忘れないでくださいね」
「ああ」
「では、お先に失礼します」
玲奈は扉へ向かった。
最後まで、美月の肩にある黒いジャケットを見ないようにした。
廊下へ出る。
扉が閉じた途端、玲奈の肩から力が抜けた。
「玲奈様?」
亮がすぐに近づく。
「どうされました?」
「何でもありません」
「……そうですか」
亮は無理に聞いてこない。
それが今はありがたかった。
二人でエレベーターへ向かう。
廊下には仕事を終えた社員たちが行き交っていた。
誰もが忙しそうにしている。
玲奈だけが、自分がひどく場違いな存在に思えた。
エレベーターへ乗る。
扉が閉まる。
鏡張りの壁に自分の姿が映った。
大学帰りの淡いベージュのワンピース。
肩には小さなバッグ。
手には焼き菓子。
どこから見ても十八歳の学生。
美月とは違う。
大人のスーツ。
仕事。
隼人と共有してきた七年間。
そして夫のジャケットを着るほどの距離。
「……神谷さん」
「はい」
「男性って、自分の上着を女性に貸すのは普通ですか?」
聞いてから後悔した。
亮が少し驚いた顔をする。
「状況によると思います」
「寒そうだったら?」
「貸す人もいるでしょう」
「そうですよね」
やっぱり。
普通のことなのだ。
自分が気にしすぎている。
「玲奈様」
「はい?」
「何かございましたか?」
「ありません」
玲奈は笑った。
「ただ聞いてみたかっただけです」
亮はしばらく玲奈を見ていた。
けれど、それ以上は踏み込まなかった。
一階へ着く。
エレベーターを降り、エントランスへ向かう途中。
玲奈は紙袋へ目を落とした。
「……これ、神谷さん食べます?」
亮が足を止めた。
「俺ですか?」
「はい」
「ご友人へのものでは?」
胸が痛んだ。
さっき自分でついた嘘。
玲奈は少し笑った。
「予定が変わりました」
「ですが――」
「甘いもの、嫌いですか?」
「嫌いではありません」
「じゃあ、もらってください」
玲奈は紙袋を差し出した。
亮はすぐには受け取らなかった。
「誰か別の方へ渡す予定だったのでは?」
優しい問いだった。
玲奈の笑顔が少し崩れそうになる。
「……もう、いいんです」
亮の目がわずかに細められる。
玲奈は困ったように笑った。
「せっかく買ったから、誰かに食べてもらったほうがいいでしょう?」
しばらくして。
亮は紙袋を受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
二人で外へ出る。
夜の街には、会社帰りの人々が歩いていた。
冷たい風が吹き、玲奈の黒髪が揺れる。
さっき美月が言った。
寒かったから、隼人が貸してくれた。
玲奈は自分の腕を抱いた。
別に寒くはない。
それなのに。
なぜだろう。
胸のあたりだけが、ひどく冷えているような気がした。
執務室。
玲奈が帰ったあと。
隼人は扉を見つめたまま動かなかった。
美月がジャケットを脱ぐ。
「ありがとうございました」
隼人は返事をしない。
「隼人さん?」
「香月」
「はい」
「玲奈が持っていた袋」
美月の指がわずかに止まる。
「ご友人への贈り物だそうですね」
「そう言っていたな」
隼人は机へ戻る。
けれど仕事を再開する様子はない。
玲奈はわざわざ会社へ来た。
本当に挨拶だけのために?
しかもあの紙袋。
隼人は以前、玲奈が同じ洋菓子店の紙袋を持っているところを見たことがあった。
結婚前、一条家を訪れた時だ。
『ここのフィナンシェ、美味しいんです』
嬉しそうに話していた。
その記憶が妙に残っている。
「……神谷が待っていると言ったな」
「え?」
「何でもない」
隼人はパソコンへ視線を戻した。
けれど集中できなかった。
最近、玲奈の口から神谷の名前を聞く回数が増えた。
大学。
カフェ。
そして今日も。
一方で玲奈は、自分には何も言わず帰った。
なぜか面白くない。
「隼人さん」
美月の声。
「土曜日の宝飾店内覧会ですが」
隼人が顔を上げる。
「何だ」
「私も同行いたしましょうか?」
「必要ない」
即答だった。
美月の笑顔がわずかに固まる。
「ですが、仕事上――」
「玲奈と行く」
短い言葉。
「取引先との話が必要なら、現地の責任者がいる」
「……承知しました」
美月は頭を下げる。
隼人はもう美月を見ていなかった。
机の端に置かれたスマートフォンへ一度だけ視線を向ける。
玲奈へ連絡するべきか。
けれど何を言う。
『さっきの袋は何だった』
そんなことを聞く理由がない。
『土曜日は忘れていない』
朝に約束したばかりだ。
結局、隼人は何も送らなかった。
そして美月は、そんな隼人の横顔を静かに見つめていた。
玲奈が来る前まで、自分には分からなかった。
隼人があの少女を目で追うこと。
帰ったあとまで気にすること。
ほんのわずかな表情の違いまで覚えていること。
その事実が、美月の胸を焼いた。
七年間そばにいた自分には、一度も向けられなかったもの。
それを玲奈は、何もしなくても手に入れている。
美月は手の中のジャケットを見下ろした。
今夜は偶然だった。
寒いと言った。
隼人が使えと言った。
ただそれだけ。
けれど玲奈は確かに傷ついた顔をした。
あの少女は気にしている。
自分と隼人の距離を。
美月の中に、初めてはっきりとした考えが浮かんだ。
――なら。
もっと見せればいい。
玲奈が自分から隼人を諦めるくらい。
妻よりも自分のほうが、この男のそばにいるのだと。
そう思わせればいい。
美月はジャケットを丁寧にソファへ戻した。
そして何事もなかったように、いつもの秘書の笑顔を浮かべた。

