黒川邸へ戻って、一週間。
玲奈の生活は、以前と同じようでいて少しずつ変わっていた。
大学へ通い、一条化粧品へ顔を出し、帰宅すれば隼人と夕食を取る。
それだけなら、家を出る前と変わらない。
けれど朝食の席はもう離れていなかった。
長いダイニングテーブルの端と端ではなく、玲奈は隼人の隣に座るようになった。
隼人が帰宅の遅くなる日は、理由を話してくれる。
『今日は東都銀行との会食がある。橘と佐伯が同行する』
『十時には戻る予定だ』
以前なら必要ないと思っていたことまで、自分から伝えるようになった。
玲奈も、
『今日は一条の新商品会議があります』
『帰宅は八時くらいです』
と知らせる。
恋人同士なら当たり前なのかもしれない。
夫婦なら、もっと当たり前なのかもしれない。
けれど。
玲奈と隼人にとっては、その「当たり前」を作ることから始めなければならなかった。
そして、その日の朝。
玲奈が紅茶を飲んでいると、隣の隼人が突然言った。
「来週の金曜、空けられるか」
玲奈はカップから顔を上げた。
「夜ですか?」
「午後から」
「大学があります」
隼人の眉が少し寄る。
以前なら、
『休め』
と言ったかもしれない。
けれど今は違った。
「何時に終わる」
「二時です」
「なら三時に迎えを出す」
玲奈は少し笑った。
「まだ行くって言ってません」
隼人が玲奈を見る。
「来ないのか」
「内容を聞いてから決めます」
「……」
困ったような顔。
以前の玲奈なら、その顔だけで折れていた。
今はむしろ少し楽しい。
「何があるんですか?」
「黒川グループの創立記念式典だ」
玲奈の手が止まる。
「創立記念……」
「ああ」
当然ながら規模は大きい。
黒川グループは、国内外に数百社の関連企業を持つ巨大企業だ。
毎年開かれる創立記念式典には、経済界だけでなく政界や各国企業の関係者まで集まる。
玲奈も名前だけは知っていた。
「私も行くんですか?」
「ああ」
「どうして?」
隼人の眉がわずかに上がる。
「妻だから、と言ったら怒るか」
玲奈は少し考えた。
「理由がそれだけなら」
「分かった」
隼人は素直に言い直す。
「妻として同行してほしいのもある」
「はい」
「だが、それだけじゃない」
玲奈は隼人を見る。
「今年は一条化粧品との共同事業を発表する」
「え?」
「若年層向け新商品の件だ」
玲奈の目が大きくなる。
今、発売へ向けて最終調整に入っているスターターセット。
玲奈自身が企画へ深く関わってきた商品だ。
「黒川グループの新規事業事例として紹介する」
隼人は続けた。
「一条社長にも出てもらう。ただ」
少しだけ間を置き。
「玲奈にも壇上へ上がってほしい」
玲奈はしばらく答えられなかった。
「……私?」
「ああ」
「どうして私が?」
「企画に関わっただろう」
「でも私は社員じゃありません」
「それは承知している」
「それに、まだ大学一年生ですよ?」
言った途端。
玲奈自身が気づいた。
昔なら。
『私はまだ十八だから』
『高校を卒業したばかりだから』
誰かにそう言われることを嫌がっていた。
なのに今、自分で年齢を理由に引こうとしている。
隼人はそれを指摘しなかった。
ただ。
「嫌なら断っていい」
そう言った。
玲奈の胸が少し動く。
結婚前にも。
同じことを言われた。
嫌なら断っていい。
当時は、その言葉を「隼人も結婚を望んでいないから」だと誤解した。
今は違う。
玲奈の意思を尊重しているのだと分かる。
「でも」
隼人は続けた。
「俺は玲奈が出るべきだと思っている」
「……隼人さんが?」
「ああ」
迷いがない。
「一条の商品に、お前の意見がかなり反映されていることは資料を見て分かった」
玲奈が驚く。
「資料、見たんですか?」
「全部」
「全部?」
「一条社長からもらった」
いつの間に。
「アンケートも」
「大学の友達にお願いしたものまで?」
「ああ」
「恥ずかしい……」
玲奈は頬へ手を当てた。
手書きのメモまで入っていたはずだ。
かなり雑な文字もある。
「字はもう少し丁寧に書け」
「そこまで見たんですか!」
隼人の口元が少し緩む。
でもすぐ真面目な顔へ戻った。
「玲奈」
「はい」
「よくやったと思う」
思いがけない言葉だった。
玲奈の動きが止まる。
「大学へ行きながら、一条へ通って」
隼人は玲奈を見る。
「知らないことを自分で調べた」
「……」
「最初からできたわけじゃない。それでも、途中で投げなかった」
玲奈の胸がじんと熱くなる。
ずっと。
言ってほしかった。
隼人に。
認めてもらいたかった。
自分はただ守られるだけの子供ではないと。
「だから」
隼人は言った。
「俺の妻だからではなく、その仕事に関わった一人として出てほしい」
玲奈は俯いた。
目の奥が少し熱い。
「……ずるいです」
「何が」
「そういう言い方されたら、断れないじゃないですか」
「断ってもいいと言った」
「出ます」
隼人の目が少し和らぐ。
「そうか」
「でも」
玲奈は顔を上げた。
「失敗しても怒らないでください」
「失敗する前提なのか」
「緊張するんです!」
「分かった」
隼人はコーヒーへ手を伸ばしながら答えた。
「隣にいる」
その一言だけで。
玲奈の不安が少しだけ軽くなった。
創立記念式典の日。
都内の大型ホテルは、黒川グループの関係者で埋め尽くされていた。
地下駐車場には高級車が次々に入り、正面玄関には報道陣まで集まっている。
控室。
玲奈は大きな鏡の前で、自分の姿を見つめていた。
今日選んだのは、深い紺色のドレス。
肩や胸元を大きく出さない上品なデザインだが、腰から足元へ流れる布が美しく、以前好んでいた淡い色のドレスより大人びて見える。
黒髪は低い位置でまとめられている。
首元には。
隼人からもらった花のネックレス。
「玲奈」
背後から声がした。
鏡越しに隼人と目が合う。
黒のタキシード。
いつも以上に隙のない姿。
玲奈は振り返った。
「どうですか?」
以前なら。
聞く前から期待して。
隼人が何も言ってくれず落ち込んだ。
今日は自分から聞ける。
隼人は玲奈をしばらく見た。
「似合っている」
「それだけ?」
隼人の眉が寄る。
「またか」
「今日は大事な日なので、もう少しくらい」
「綺麗だ」
今度は玲奈が固まった。
予想より直球。
「……急に言わないでください」
「言えと言ったのは玲奈だろう」
「そうですけど」
玲奈は慌てて鏡へ向き直った。
顔が赤い。
隼人が隣へ立つ。
「緊張してるか」
「かなり」
「話す内容は覚えた?」
「昨日五回練習しました」
「俺の前で七回だ」
「数えてたんですか?」
「ああ」
隼人は玲奈の肩へ手を置こうとして。
一度止める。
玲奈はその動きに気づいた。
以前なら勝手に触れていた。
今は。
必ず玲奈の反応を見る。
玲奈は自分から少し近づいた。
「今日は大丈夫です」
隼人の手が玲奈の肩へそっと触れる。
「失敗してもいい」
「さっきと違いません?」
「失敗しないとは思っている」
「でも?」
「玲奈が思っているほど、周りは完璧を求めていない」
隼人は穏やかに言った。
「自分の言葉で話せばいい」
玲奈はゆっくり息を吐いた。
「はい」
控室の扉がノックされる。
「黒川社長。そろそろお願いいたします」
「分かった」
隼人が玲奈を見る。
「行くぞ」
そして。
手を差し出した。
玲奈は一瞬。
その手を見る。
以前なら。
夫だから当然のように取っていたかもしれない。
でも今日は違う。
玲奈は自分の意思で。
隼人の手を取った。
⸻
大広間。
千人近い招待客。
正面には巨大なスクリーン。
壇上には黒川グループの歴代会長の写真と、創立から現在までの歩みが映し出されている。
玲奈は会場へ入った瞬間、少し足が止まりそうになった。
「すごい……」
声が漏れる。
隼人が隣で小さく言う。
「前を見ろ」
「分かっています」
「俺の腕から離れるな」
玲奈は隼人を見る。
「緊張してるから?」
「違う」
「じゃあ?」
隼人の視線が会場へ向く。
玲奈もそちらを見る。
何人もの男性が玲奈へ視線を向けていた。
気づいた瞬間。
玲奈は少し笑いそうになる。
「……隼人さん」
「何だ」
「今、嫉妬しました?」
「していない」
「顔が怖いです」
「元からだ」
そんな返しをされ。
玲奈はとうとう小さく笑った。
以前なら。
隼人の独占欲に戸惑った。
今は。
自分だけに制限をかけるのではなく、ちゃんと気持ちを認めようとしていることが分かる。
それだけで違う。
会場を進む。
何人もの招待客が隼人へ挨拶する。
玲奈も妻として頭を下げる。
その途中。
「まあ」
少し高い女性の声。
振り返る。
そこにいたのは、名門財閥・西園寺家の令嬢、綾乃だった。
以前、社交界の集まりで一度だけ会ったことがある。
華やかな美貌。
磨き上げられた所作。
そして。
玲奈を見る目には、わずかな値踏みがあった。
「黒川様。ご無沙汰しております」
「西園寺さん」
隼人が形式的に答える。
綾乃は玲奈へ微笑む。
「奥様もお元気そうで」
「ありがとうございます」
「大学へ通われているとか」
「はい」
「お忙しいでしょう」
「楽しいです」
玲奈は普通に答えた。
綾乃の隣にいた別の令嬢が笑う。
「でも十九歳で財閥夫人なんて大変ですよね」
「そうですね」
「しかも一条家の経営までお手伝いされているとか」
言葉だけなら褒めている。
けれど。
声には少し違うものが混ざっていた。
「黒川家の支援があれば、学生さんでも企業のお仕事に参加できるんですね」
玲奈の胸が少しざわついた。
以前なら。
笑ってやり過ごしただろう。
自分には何も分からないから。
そう思って。
でも。
今は違う。
玲奈は穏やかに微笑んだ。
「黒川家に助けていただいているのは事実です」
令嬢たちが少し意外そうな顔をする。
「一条が危機にあった時、支えていただきました」
玲奈は続ける。
「だからこそ、支援していただくだけの会社では終わらせたくないと思っています」
「……」
「今回の新商品も、まだ成功したわけではありません」
自分の声。
以前より落ち着いている。
「でも、学生だからこそ分かることがあると思って参加しました」
綾乃が玲奈を見る。
「ずいぶん自信がおありなのね」
「いいえ」
玲奈は首を横に振る。
「自信はまだありません」
正直に答える。
「分からないことばかりです」
そして。
「だから勉強しています」
綾乃が何も言わなくなった。
その時。
隣にいた隼人が口を開いた。
「玲奈」
「はい?」
「行くぞ」
それだけ。
綾乃たちへ形式的に挨拶し、歩き出す。
少し離れたところまで来る。
玲奈は隼人を見る。
「助けてくれないんですね」
少し冗談めかして言う。
隼人は玲奈を見る。
「必要なかっただろ」
胸が強く鳴った。
「……そう思いました?」
「ああ」
たったそれだけ。
でも。
とても嬉しかった。
隼人が。
玲奈自身で答えられると思ってくれた。
守るために前へ出るのではなく。
隣で見ていてくれた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることか?」
「私には」
玲奈は少し笑った。
「かなり大事なことです」
式典が始まった。
黒川グループ会長・征一郎の挨拶。
海外企業からの祝辞。
今年度の事業方針。
そして。
新規事業紹介。
司会者が一条化粧品との共同プロジェクトを読み上げる。
巨大スクリーンに、新商品のパッケージが映った。
玲奈の胸が高鳴る。
自分が何度も見直した商品。
友人たちの意見を集めた。
価格を考えた。
容器を変えた。
たくさんの人と作ったもの。
「続きまして、一条化粧品代表取締役、一条慎吾様。そして商品企画に参加された一条玲奈様にご登壇いただきます」
名前が呼ばれた。
足が少し震える。
玲奈は立ち上がった。
隣の隼人を見る。
隼人は何も言わず。
小さく頷いた。
それだけで。
大丈夫と思えた。
壇上へ上がる。
照明が眩しい。
千人近い視線。
玲奈はマイクの前へ立った。
最初に準備していた文章。
覚えている。
でも。
隼人に言われた。
自分の言葉で話せばいい。
玲奈は会場を見渡した。
「一条玲奈です」
声が少し震えた。
それでも続ける。
「私は現在十九歳で、大学一年生です」
会場が静かになる。
「数か月前まで、企業の商品開発について何も知りませんでした」
玲奈は自分から言った。
恥ずかしくはなかった。
事実だから。
「一条化粧品の経営が厳しいと知った時も、私にできることはないと思っていました」
父を見る。
慎吾が穏やかな顔で聞いている。
「でも、大学へ通うようになって、同世代の友人たちがどんな商品を選ぶのか、何を高いと感じるのか、何なら毎日使いたいと思うのかを聞く機会が増えました」
玲奈はスクリーンを見る。
「それなら、私にも分かることがあるかもしれないと思いました」
最初の緊張が少しずつ消えていく。
「この商品は、私一人で作ったものではありません」
商品開発部。
広報。
工場。
父。
九条コーポレーション。
そして。
黒川グループ。
たくさんの人の力がある。
「私は意見を出しただけです。でも、その意見を大人だから、学生だからという理由で否定せず聞いてくださった方々がいました」
一瞬。
隼人を見る。
目が合う。
「私も、これからもっと学びたいと思っています」
玲奈は微笑んだ。
「一条化粧品が、誰かに助けていただくだけの会社ではなく、自分たちの力で選ばれる会社になるために」
言い終える。
深く頭を下げた。
そして。
会場から拍手が起こった。
最初は小さく。
やがて大きくなる。
玲奈は驚いて顔を上げた。
胸の奥が熱い。
父が隣で小さく言った。
「よくやった」
「……うん」
泣きそう。
でも。
今日は泣かない。
玲奈は笑った。
壇上を降りる。
最初に目に入ったのは。
隼人だった。
人々の間に立ち。
玲奈を見ている。
表情は大きく変わらない。
でも。
玲奈には分かる。
少し誇らしそう。
玲奈が近づく。
「どうでした?」
「良かった」
「本当に?」
「ああ」
隼人は玲奈を見る。
「俺が考えた原稿より良かった」
玲奈は目を丸くする。
「原稿、用意してたんですか?」
「念のため」
「見せてくれませんでしたよね?」
「玲奈が自分で書いたものを使いたいと言ったからだ」
「そうですけど」
隼人は少しだけ口元を緩める。
「正解だった」
その言葉に。
玲奈も笑った。
その時。
「ずいぶん立派になったな」
後ろから声。
振り返る。
蓮だった。
グレーの礼服姿。
今日は九条コーポレーション代表として招待されている。
「九条さん」
「ちゃんと壇上で喋れるじゃん」
「失礼ですね」
「褒めてる」
蓮が笑う。
「良かったよ」
玲奈も素直に頭を下げた。
「ありがとうございます」
隼人の視線が蓮へ向く。
「九条」
「何だよ」
「近い」
「まだ何もしてないだろ」
「距離の話だ」
玲奈は思わず額へ手を当てた。
「隼人さん」
「何だ」
「式典の最中です」
「分かっている」
蓮が楽しそうに笑う。
「前より分かりやすくなったな、お前」
「黙れ」
「玲奈さん、苦労するな」
「少しだけ」
玲奈が冗談で答える。
隼人が玲奈を見る。
「玲奈?」
「冗談です」
三人の間に。
以前のような張りつめた空気はなかった。
蓮はもう、無理に玲奈を奪おうとはしていない。
隼人も。
玲奈を誰にも会わせないよう囲い込もうとはしていない。
ただ。
嫉妬だけはするらしい。
「じゃあ俺は仕事へ戻る」
蓮が玲奈へ軽く手を上げる。
「新商品、売れなかったら責任取れよ」
「九条さんも販売に関わってるでしょう!」
「だから一緒に責任取る」
「なら最初からそう言ってください」
蓮が笑いながら離れていく。
玲奈も少し笑って見送った。
その隣で。
隼人が明らかに面白くなさそうな顔をしている。
「……何ですか?」
「何でもない」
「絶対何かあります」
「ない」
「九条さんに笑ったから?」
隼人が黙る。
玲奈は笑いそうになる。
「隼人さん」
「何だ」
「私、隼人さんの妻です」
隼人の目が少し変わる。
「知っている」
「私も知ってます」
玲奈は穏やかに言った。
「だから、そんなに心配しなくても大丈夫です」
隼人はしばらく玲奈を見た。
そして。
「努力する」
前にも聞いた返事。
玲奈は笑った。
「お願いします」
式典の終盤。
黒川家の関係者が壇上へ並び、記念撮影が行われることになった。
会長。
社長。
役員。
そして隼人。
玲奈は少し離れた場所で待っていた。
自分まで入るとは聞いていない。
スタッフが呼ぶ。
「黒川玲奈様もお願いいたします」
玲奈は驚いた。
「私もですか?」
「はい。ご家族の皆様で」
一瞬。
足が止まる。
黒川家の家族。
以前なら。
その言葉に居心地の悪さを感じた。
自分は会社を救うために嫁いできた人間。
本当の家族ではない。
どこかでそう思っていたから。
「玲奈」
壇上から隼人が呼ぶ。
玲奈は顔を上げた。
隼人の隣。
一人分の場所が空いている。
そこへ来い。
そういう意味。
玲奈は歩き出した。
階段を上がる。
隼人の隣へ立つ。
「ここ?」
「ああ」
玲奈が隣に並ぶと。
隼人の手が玲奈の腰へ回りかける。
一度。
玲奈の顔を見る。
玲奈は小さく頷いた。
その手が、そっと腰へ添えられた。
もう。
嫌ではない。
むしろ。
安心した。
カメラのフラッシュが何度も光る。
黒川家の記念写真。
その中で。
玲奈は初めて。
自分が借り物の場所に立っているとは思わなかった。
そして撮影が終わったあと。
隼人が玲奈の耳元で小さく言った。
「今日、来てもらって良かった」
玲奈は顔を向ける。
「妻だから?」
少し意地悪に聞いてみる。
隼人は一瞬。
玲奈を見る。
そして。
「ああ」
玲奈が目を瞬く。
隼人は続けた。
「俺の妻で」
腰へ添えた手に、ほんの少し力がこもる。
「それとは別に、玲奈自身にここにいてほしかった」
玲奈の胸が熱くなった。
以前なら。
妻という言葉だけで。
所有されているように感じたこともあった。
今は違う。
妻である自分。
一条玲奈である自分。
どちらも。
隼人は見ようとしてくれている。
玲奈は少し笑った。
「私も」
「何だ」
「今日、隼人さんの隣に来て良かったです」
「そうか」
「はい」
そして。
少し考えてから。
自分から隼人の腕へ手を添えた。
「これからも」
隼人が玲奈を見る。
「隣にいてもいいですか?」
隼人の眉が寄った。
「何だ、その聞き方は」
「確認です」
「必要ない」
「どうして?」
隼人は玲奈の手を取る。
今度は。
玲奈が聞く前に。
でも。
拒まないと分かっている触れ方だった。
「俺のほうが」
隼人は低く言った。
「いてくれと頼んだだろ」
玲奈は目を細める。
「そうでした」
会社のために始まった結婚。
最初は。
夫の隣に立つ資格さえ分からなかった。
けれど今は。
誰かに与えられた場所だからではない。
玲奈自身が選んで。
ここに立っている。
そのことが。
何より嬉しかった。
玲奈の生活は、以前と同じようでいて少しずつ変わっていた。
大学へ通い、一条化粧品へ顔を出し、帰宅すれば隼人と夕食を取る。
それだけなら、家を出る前と変わらない。
けれど朝食の席はもう離れていなかった。
長いダイニングテーブルの端と端ではなく、玲奈は隼人の隣に座るようになった。
隼人が帰宅の遅くなる日は、理由を話してくれる。
『今日は東都銀行との会食がある。橘と佐伯が同行する』
『十時には戻る予定だ』
以前なら必要ないと思っていたことまで、自分から伝えるようになった。
玲奈も、
『今日は一条の新商品会議があります』
『帰宅は八時くらいです』
と知らせる。
恋人同士なら当たり前なのかもしれない。
夫婦なら、もっと当たり前なのかもしれない。
けれど。
玲奈と隼人にとっては、その「当たり前」を作ることから始めなければならなかった。
そして、その日の朝。
玲奈が紅茶を飲んでいると、隣の隼人が突然言った。
「来週の金曜、空けられるか」
玲奈はカップから顔を上げた。
「夜ですか?」
「午後から」
「大学があります」
隼人の眉が少し寄る。
以前なら、
『休め』
と言ったかもしれない。
けれど今は違った。
「何時に終わる」
「二時です」
「なら三時に迎えを出す」
玲奈は少し笑った。
「まだ行くって言ってません」
隼人が玲奈を見る。
「来ないのか」
「内容を聞いてから決めます」
「……」
困ったような顔。
以前の玲奈なら、その顔だけで折れていた。
今はむしろ少し楽しい。
「何があるんですか?」
「黒川グループの創立記念式典だ」
玲奈の手が止まる。
「創立記念……」
「ああ」
当然ながら規模は大きい。
黒川グループは、国内外に数百社の関連企業を持つ巨大企業だ。
毎年開かれる創立記念式典には、経済界だけでなく政界や各国企業の関係者まで集まる。
玲奈も名前だけは知っていた。
「私も行くんですか?」
「ああ」
「どうして?」
隼人の眉がわずかに上がる。
「妻だから、と言ったら怒るか」
玲奈は少し考えた。
「理由がそれだけなら」
「分かった」
隼人は素直に言い直す。
「妻として同行してほしいのもある」
「はい」
「だが、それだけじゃない」
玲奈は隼人を見る。
「今年は一条化粧品との共同事業を発表する」
「え?」
「若年層向け新商品の件だ」
玲奈の目が大きくなる。
今、発売へ向けて最終調整に入っているスターターセット。
玲奈自身が企画へ深く関わってきた商品だ。
「黒川グループの新規事業事例として紹介する」
隼人は続けた。
「一条社長にも出てもらう。ただ」
少しだけ間を置き。
「玲奈にも壇上へ上がってほしい」
玲奈はしばらく答えられなかった。
「……私?」
「ああ」
「どうして私が?」
「企画に関わっただろう」
「でも私は社員じゃありません」
「それは承知している」
「それに、まだ大学一年生ですよ?」
言った途端。
玲奈自身が気づいた。
昔なら。
『私はまだ十八だから』
『高校を卒業したばかりだから』
誰かにそう言われることを嫌がっていた。
なのに今、自分で年齢を理由に引こうとしている。
隼人はそれを指摘しなかった。
ただ。
「嫌なら断っていい」
そう言った。
玲奈の胸が少し動く。
結婚前にも。
同じことを言われた。
嫌なら断っていい。
当時は、その言葉を「隼人も結婚を望んでいないから」だと誤解した。
今は違う。
玲奈の意思を尊重しているのだと分かる。
「でも」
隼人は続けた。
「俺は玲奈が出るべきだと思っている」
「……隼人さんが?」
「ああ」
迷いがない。
「一条の商品に、お前の意見がかなり反映されていることは資料を見て分かった」
玲奈が驚く。
「資料、見たんですか?」
「全部」
「全部?」
「一条社長からもらった」
いつの間に。
「アンケートも」
「大学の友達にお願いしたものまで?」
「ああ」
「恥ずかしい……」
玲奈は頬へ手を当てた。
手書きのメモまで入っていたはずだ。
かなり雑な文字もある。
「字はもう少し丁寧に書け」
「そこまで見たんですか!」
隼人の口元が少し緩む。
でもすぐ真面目な顔へ戻った。
「玲奈」
「はい」
「よくやったと思う」
思いがけない言葉だった。
玲奈の動きが止まる。
「大学へ行きながら、一条へ通って」
隼人は玲奈を見る。
「知らないことを自分で調べた」
「……」
「最初からできたわけじゃない。それでも、途中で投げなかった」
玲奈の胸がじんと熱くなる。
ずっと。
言ってほしかった。
隼人に。
認めてもらいたかった。
自分はただ守られるだけの子供ではないと。
「だから」
隼人は言った。
「俺の妻だからではなく、その仕事に関わった一人として出てほしい」
玲奈は俯いた。
目の奥が少し熱い。
「……ずるいです」
「何が」
「そういう言い方されたら、断れないじゃないですか」
「断ってもいいと言った」
「出ます」
隼人の目が少し和らぐ。
「そうか」
「でも」
玲奈は顔を上げた。
「失敗しても怒らないでください」
「失敗する前提なのか」
「緊張するんです!」
「分かった」
隼人はコーヒーへ手を伸ばしながら答えた。
「隣にいる」
その一言だけで。
玲奈の不安が少しだけ軽くなった。
創立記念式典の日。
都内の大型ホテルは、黒川グループの関係者で埋め尽くされていた。
地下駐車場には高級車が次々に入り、正面玄関には報道陣まで集まっている。
控室。
玲奈は大きな鏡の前で、自分の姿を見つめていた。
今日選んだのは、深い紺色のドレス。
肩や胸元を大きく出さない上品なデザインだが、腰から足元へ流れる布が美しく、以前好んでいた淡い色のドレスより大人びて見える。
黒髪は低い位置でまとめられている。
首元には。
隼人からもらった花のネックレス。
「玲奈」
背後から声がした。
鏡越しに隼人と目が合う。
黒のタキシード。
いつも以上に隙のない姿。
玲奈は振り返った。
「どうですか?」
以前なら。
聞く前から期待して。
隼人が何も言ってくれず落ち込んだ。
今日は自分から聞ける。
隼人は玲奈をしばらく見た。
「似合っている」
「それだけ?」
隼人の眉が寄る。
「またか」
「今日は大事な日なので、もう少しくらい」
「綺麗だ」
今度は玲奈が固まった。
予想より直球。
「……急に言わないでください」
「言えと言ったのは玲奈だろう」
「そうですけど」
玲奈は慌てて鏡へ向き直った。
顔が赤い。
隼人が隣へ立つ。
「緊張してるか」
「かなり」
「話す内容は覚えた?」
「昨日五回練習しました」
「俺の前で七回だ」
「数えてたんですか?」
「ああ」
隼人は玲奈の肩へ手を置こうとして。
一度止める。
玲奈はその動きに気づいた。
以前なら勝手に触れていた。
今は。
必ず玲奈の反応を見る。
玲奈は自分から少し近づいた。
「今日は大丈夫です」
隼人の手が玲奈の肩へそっと触れる。
「失敗してもいい」
「さっきと違いません?」
「失敗しないとは思っている」
「でも?」
「玲奈が思っているほど、周りは完璧を求めていない」
隼人は穏やかに言った。
「自分の言葉で話せばいい」
玲奈はゆっくり息を吐いた。
「はい」
控室の扉がノックされる。
「黒川社長。そろそろお願いいたします」
「分かった」
隼人が玲奈を見る。
「行くぞ」
そして。
手を差し出した。
玲奈は一瞬。
その手を見る。
以前なら。
夫だから当然のように取っていたかもしれない。
でも今日は違う。
玲奈は自分の意思で。
隼人の手を取った。
⸻
大広間。
千人近い招待客。
正面には巨大なスクリーン。
壇上には黒川グループの歴代会長の写真と、創立から現在までの歩みが映し出されている。
玲奈は会場へ入った瞬間、少し足が止まりそうになった。
「すごい……」
声が漏れる。
隼人が隣で小さく言う。
「前を見ろ」
「分かっています」
「俺の腕から離れるな」
玲奈は隼人を見る。
「緊張してるから?」
「違う」
「じゃあ?」
隼人の視線が会場へ向く。
玲奈もそちらを見る。
何人もの男性が玲奈へ視線を向けていた。
気づいた瞬間。
玲奈は少し笑いそうになる。
「……隼人さん」
「何だ」
「今、嫉妬しました?」
「していない」
「顔が怖いです」
「元からだ」
そんな返しをされ。
玲奈はとうとう小さく笑った。
以前なら。
隼人の独占欲に戸惑った。
今は。
自分だけに制限をかけるのではなく、ちゃんと気持ちを認めようとしていることが分かる。
それだけで違う。
会場を進む。
何人もの招待客が隼人へ挨拶する。
玲奈も妻として頭を下げる。
その途中。
「まあ」
少し高い女性の声。
振り返る。
そこにいたのは、名門財閥・西園寺家の令嬢、綾乃だった。
以前、社交界の集まりで一度だけ会ったことがある。
華やかな美貌。
磨き上げられた所作。
そして。
玲奈を見る目には、わずかな値踏みがあった。
「黒川様。ご無沙汰しております」
「西園寺さん」
隼人が形式的に答える。
綾乃は玲奈へ微笑む。
「奥様もお元気そうで」
「ありがとうございます」
「大学へ通われているとか」
「はい」
「お忙しいでしょう」
「楽しいです」
玲奈は普通に答えた。
綾乃の隣にいた別の令嬢が笑う。
「でも十九歳で財閥夫人なんて大変ですよね」
「そうですね」
「しかも一条家の経営までお手伝いされているとか」
言葉だけなら褒めている。
けれど。
声には少し違うものが混ざっていた。
「黒川家の支援があれば、学生さんでも企業のお仕事に参加できるんですね」
玲奈の胸が少しざわついた。
以前なら。
笑ってやり過ごしただろう。
自分には何も分からないから。
そう思って。
でも。
今は違う。
玲奈は穏やかに微笑んだ。
「黒川家に助けていただいているのは事実です」
令嬢たちが少し意外そうな顔をする。
「一条が危機にあった時、支えていただきました」
玲奈は続ける。
「だからこそ、支援していただくだけの会社では終わらせたくないと思っています」
「……」
「今回の新商品も、まだ成功したわけではありません」
自分の声。
以前より落ち着いている。
「でも、学生だからこそ分かることがあると思って参加しました」
綾乃が玲奈を見る。
「ずいぶん自信がおありなのね」
「いいえ」
玲奈は首を横に振る。
「自信はまだありません」
正直に答える。
「分からないことばかりです」
そして。
「だから勉強しています」
綾乃が何も言わなくなった。
その時。
隣にいた隼人が口を開いた。
「玲奈」
「はい?」
「行くぞ」
それだけ。
綾乃たちへ形式的に挨拶し、歩き出す。
少し離れたところまで来る。
玲奈は隼人を見る。
「助けてくれないんですね」
少し冗談めかして言う。
隼人は玲奈を見る。
「必要なかっただろ」
胸が強く鳴った。
「……そう思いました?」
「ああ」
たったそれだけ。
でも。
とても嬉しかった。
隼人が。
玲奈自身で答えられると思ってくれた。
守るために前へ出るのではなく。
隣で見ていてくれた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることか?」
「私には」
玲奈は少し笑った。
「かなり大事なことです」
式典が始まった。
黒川グループ会長・征一郎の挨拶。
海外企業からの祝辞。
今年度の事業方針。
そして。
新規事業紹介。
司会者が一条化粧品との共同プロジェクトを読み上げる。
巨大スクリーンに、新商品のパッケージが映った。
玲奈の胸が高鳴る。
自分が何度も見直した商品。
友人たちの意見を集めた。
価格を考えた。
容器を変えた。
たくさんの人と作ったもの。
「続きまして、一条化粧品代表取締役、一条慎吾様。そして商品企画に参加された一条玲奈様にご登壇いただきます」
名前が呼ばれた。
足が少し震える。
玲奈は立ち上がった。
隣の隼人を見る。
隼人は何も言わず。
小さく頷いた。
それだけで。
大丈夫と思えた。
壇上へ上がる。
照明が眩しい。
千人近い視線。
玲奈はマイクの前へ立った。
最初に準備していた文章。
覚えている。
でも。
隼人に言われた。
自分の言葉で話せばいい。
玲奈は会場を見渡した。
「一条玲奈です」
声が少し震えた。
それでも続ける。
「私は現在十九歳で、大学一年生です」
会場が静かになる。
「数か月前まで、企業の商品開発について何も知りませんでした」
玲奈は自分から言った。
恥ずかしくはなかった。
事実だから。
「一条化粧品の経営が厳しいと知った時も、私にできることはないと思っていました」
父を見る。
慎吾が穏やかな顔で聞いている。
「でも、大学へ通うようになって、同世代の友人たちがどんな商品を選ぶのか、何を高いと感じるのか、何なら毎日使いたいと思うのかを聞く機会が増えました」
玲奈はスクリーンを見る。
「それなら、私にも分かることがあるかもしれないと思いました」
最初の緊張が少しずつ消えていく。
「この商品は、私一人で作ったものではありません」
商品開発部。
広報。
工場。
父。
九条コーポレーション。
そして。
黒川グループ。
たくさんの人の力がある。
「私は意見を出しただけです。でも、その意見を大人だから、学生だからという理由で否定せず聞いてくださった方々がいました」
一瞬。
隼人を見る。
目が合う。
「私も、これからもっと学びたいと思っています」
玲奈は微笑んだ。
「一条化粧品が、誰かに助けていただくだけの会社ではなく、自分たちの力で選ばれる会社になるために」
言い終える。
深く頭を下げた。
そして。
会場から拍手が起こった。
最初は小さく。
やがて大きくなる。
玲奈は驚いて顔を上げた。
胸の奥が熱い。
父が隣で小さく言った。
「よくやった」
「……うん」
泣きそう。
でも。
今日は泣かない。
玲奈は笑った。
壇上を降りる。
最初に目に入ったのは。
隼人だった。
人々の間に立ち。
玲奈を見ている。
表情は大きく変わらない。
でも。
玲奈には分かる。
少し誇らしそう。
玲奈が近づく。
「どうでした?」
「良かった」
「本当に?」
「ああ」
隼人は玲奈を見る。
「俺が考えた原稿より良かった」
玲奈は目を丸くする。
「原稿、用意してたんですか?」
「念のため」
「見せてくれませんでしたよね?」
「玲奈が自分で書いたものを使いたいと言ったからだ」
「そうですけど」
隼人は少しだけ口元を緩める。
「正解だった」
その言葉に。
玲奈も笑った。
その時。
「ずいぶん立派になったな」
後ろから声。
振り返る。
蓮だった。
グレーの礼服姿。
今日は九条コーポレーション代表として招待されている。
「九条さん」
「ちゃんと壇上で喋れるじゃん」
「失礼ですね」
「褒めてる」
蓮が笑う。
「良かったよ」
玲奈も素直に頭を下げた。
「ありがとうございます」
隼人の視線が蓮へ向く。
「九条」
「何だよ」
「近い」
「まだ何もしてないだろ」
「距離の話だ」
玲奈は思わず額へ手を当てた。
「隼人さん」
「何だ」
「式典の最中です」
「分かっている」
蓮が楽しそうに笑う。
「前より分かりやすくなったな、お前」
「黙れ」
「玲奈さん、苦労するな」
「少しだけ」
玲奈が冗談で答える。
隼人が玲奈を見る。
「玲奈?」
「冗談です」
三人の間に。
以前のような張りつめた空気はなかった。
蓮はもう、無理に玲奈を奪おうとはしていない。
隼人も。
玲奈を誰にも会わせないよう囲い込もうとはしていない。
ただ。
嫉妬だけはするらしい。
「じゃあ俺は仕事へ戻る」
蓮が玲奈へ軽く手を上げる。
「新商品、売れなかったら責任取れよ」
「九条さんも販売に関わってるでしょう!」
「だから一緒に責任取る」
「なら最初からそう言ってください」
蓮が笑いながら離れていく。
玲奈も少し笑って見送った。
その隣で。
隼人が明らかに面白くなさそうな顔をしている。
「……何ですか?」
「何でもない」
「絶対何かあります」
「ない」
「九条さんに笑ったから?」
隼人が黙る。
玲奈は笑いそうになる。
「隼人さん」
「何だ」
「私、隼人さんの妻です」
隼人の目が少し変わる。
「知っている」
「私も知ってます」
玲奈は穏やかに言った。
「だから、そんなに心配しなくても大丈夫です」
隼人はしばらく玲奈を見た。
そして。
「努力する」
前にも聞いた返事。
玲奈は笑った。
「お願いします」
式典の終盤。
黒川家の関係者が壇上へ並び、記念撮影が行われることになった。
会長。
社長。
役員。
そして隼人。
玲奈は少し離れた場所で待っていた。
自分まで入るとは聞いていない。
スタッフが呼ぶ。
「黒川玲奈様もお願いいたします」
玲奈は驚いた。
「私もですか?」
「はい。ご家族の皆様で」
一瞬。
足が止まる。
黒川家の家族。
以前なら。
その言葉に居心地の悪さを感じた。
自分は会社を救うために嫁いできた人間。
本当の家族ではない。
どこかでそう思っていたから。
「玲奈」
壇上から隼人が呼ぶ。
玲奈は顔を上げた。
隼人の隣。
一人分の場所が空いている。
そこへ来い。
そういう意味。
玲奈は歩き出した。
階段を上がる。
隼人の隣へ立つ。
「ここ?」
「ああ」
玲奈が隣に並ぶと。
隼人の手が玲奈の腰へ回りかける。
一度。
玲奈の顔を見る。
玲奈は小さく頷いた。
その手が、そっと腰へ添えられた。
もう。
嫌ではない。
むしろ。
安心した。
カメラのフラッシュが何度も光る。
黒川家の記念写真。
その中で。
玲奈は初めて。
自分が借り物の場所に立っているとは思わなかった。
そして撮影が終わったあと。
隼人が玲奈の耳元で小さく言った。
「今日、来てもらって良かった」
玲奈は顔を向ける。
「妻だから?」
少し意地悪に聞いてみる。
隼人は一瞬。
玲奈を見る。
そして。
「ああ」
玲奈が目を瞬く。
隼人は続けた。
「俺の妻で」
腰へ添えた手に、ほんの少し力がこもる。
「それとは別に、玲奈自身にここにいてほしかった」
玲奈の胸が熱くなった。
以前なら。
妻という言葉だけで。
所有されているように感じたこともあった。
今は違う。
妻である自分。
一条玲奈である自分。
どちらも。
隼人は見ようとしてくれている。
玲奈は少し笑った。
「私も」
「何だ」
「今日、隼人さんの隣に来て良かったです」
「そうか」
「はい」
そして。
少し考えてから。
自分から隼人の腕へ手を添えた。
「これからも」
隼人が玲奈を見る。
「隣にいてもいいですか?」
隼人の眉が寄った。
「何だ、その聞き方は」
「確認です」
「必要ない」
「どうして?」
隼人は玲奈の手を取る。
今度は。
玲奈が聞く前に。
でも。
拒まないと分かっている触れ方だった。
「俺のほうが」
隼人は低く言った。
「いてくれと頼んだだろ」
玲奈は目を細める。
「そうでした」
会社のために始まった結婚。
最初は。
夫の隣に立つ資格さえ分からなかった。
けれど今は。
誰かに与えられた場所だからではない。
玲奈自身が選んで。
ここに立っている。
そのことが。
何より嬉しかった。

