結婚して二週間が過ぎても、玲奈はまだ黒川邸での暮らしに慣れなかった。
朝七時。
広いダイニングには、磨き上げられた長いテーブルが置かれている。
窓の外には丁寧に手入れされた庭園が広がり、朝日に濡れた緑が鮮やかに輝いていた。
玲奈の実家も決して小さな家ではなかったが、黒川邸は規模が違う。
廊下を歩けば使用人とすれ違い、食事の時間になれば何も言わなくても料理が運ばれてくる。
欲しいものがあれば、玲奈が口にする前に用意された。
不自由など一つもない。
だから余計に、寂しさを口にできなかった。
「おはようございます」
ダイニングへ入ると、すでに隼人が席についていた。
黒いスーツ。
白いシャツ。
きっちり締められた濃紺のネクタイ。
朝から完璧に仕事へ向かう姿だった。
「おはよう」
隼人が新聞から顔を上げる。
玲奈は向かい側の席へ座った。
隣ではない。
初日に案内されてから、ずっとここが玲奈の席だった。
テーブルが大きいため、少し声を張らなければ普通の会話さえ難しい。
玲奈は運ばれてきた紅茶にミルクを入れながら、向かい側をちらりと見た。
隼人はもう新聞へ目を戻している。
結婚して二週間。
朝食を一緒に取れる日は多い。
けれど、会話は驚くほど少なかった。
「今日は遅くなる」
隼人が新聞をめくりながら言った。
「そうですか」
「夕食は待たなくていい」
「はい」
「何か必要なものは?」
「ありません」
そこで会話が終わる。
夫婦というより、同じ家で暮らしている二人。
玲奈は小さくパンをちぎった。
結婚前は、もう少し話してくれた気がする。
会う回数こそ少なかったが、隼人は玲奈が何を話しても最後まで聞いてくれた。
大学で何を勉強したいのか。
好きな本。
苦手な食べ物。
そんな他愛ない話まで。
だから玲奈は、結婚して一緒に暮らせば少しずつ仲良くなれると思っていた。
ところが実際は逆だった。
隼人は朝早く家を出て、帰ってくるのは夜遅い。
玲奈が眠る前に帰ってくる日のほうが少ない。
そして、寝室は今も別々だった。
「玲奈」
突然呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「はい」
「食べないのか?」
見ると、自分の皿にはほとんど手をつけていない。
「食べています」
「減っていない」
「……朝はあまり入らなくて」
隼人の眉がわずかに寄った。
「体調が悪いのか?」
「違います」
「なら食べろ」
少し強い言い方。
玲奈は思わず唇を尖らせそうになった。
「子供じゃありません」
「分かっている」
即答だった。
けれど玲奈には、そうは思えなかった。
食事を残せば注意される。
夜遅くまで起きていれば寝ろと言われる。
一人で外出しようとすれば必ず護衛をつけられる。
先日は大学の入学前に友人と夕食へ出かけようとしただけなのに、
『十時までには帰れ』
と言われた。
父より厳しい。
「……本当に?」
つい、小さな声が漏れた。
「何が?」
「いいえ」
玲奈はパンを口へ運んだ。
隼人はしばらく玲奈を見ていたが、それ以上は尋ねてこなかった。
やがて時計を見る。
「そろそろ出る」
「はい」
玲奈も反射的に立ち上がった。
「いってらっしゃいませ」
隼人が一度足を止める。
「玲奈」
「はい?」
「玄関まで来なくていい」
「……そうですか」
「朝は冷える」
それだけ言って出ていく。
玲奈は立ったまま、閉じられた扉を見つめた。
優しい。
隼人は、きっと優しい人だ。
けれど。
(やっぱり……妻って感じじゃない)
大切にはされている。
けれど、その大切は妻へのものなのだろうか。
壊れやすいものを扱うような。
小さな妹を守るような。
そんな気がしてならなかった。
その日の午後。
玲奈は黒川ホールディングス本社の前に立っていた。
見上げるほど大きなガラス張りの高層ビル。
都心の一等地に建つ本社ビルは、近づくだけで圧倒される。
今日は隼人に会いに来たわけではない。
本来の目的は、黒川グループの傘下企業となった一条化粧品に関する資料を受け取ることだった。
父から、
『これから会社のことを知りたいなら、目を通しておきなさい』
と言われたのだ。
玲奈は結婚したからといって、一条家のことを忘れるつもりはなかった。
むしろ、自分の結婚によって会社が救われたからこそ、何が起きているのか知りたいと思うようになった。
受付で名前を告げると、女性社員の表情がわずかに変わった。
「一条……いえ、黒川玲奈様でいらっしゃいますね」
まだその名前には慣れない。
「はい」
「少々お待ちくださいませ」
受付の女性が急いで内線を入れる。
数分後、一人の女性がエレベーターから降りてきた。
玲奈は無意識に背筋を伸ばした。
綺麗な人。
最初に浮かんだのは、それだった。
身長は玲奈より十センチほど高いだろう。
濃いブラウンの髪は肩の下までゆるく巻かれ、落ち着いたグレーのスーツがよく似合っている。
大人っぽい。
洗練されている。
玲奈にはまだ出せない雰囲気を持っていた。
女性は玲奈の前まで来ると、上品に微笑んだ。
「初めまして。黒川専務の第一秘書をしております、香月美月と申します」
その名前を聞いた瞬間。
玲奈の胸の奥が小さく揺れた。
香月美月。
結婚式の日、紗良から聞いた名前。
隼人と長年噂になっている女性。
「……初めまして。一条玲奈です」
言ってから、少し迷った。
今は黒川玲奈と名乗るべきだったのだろうか。
美月はそれに気づいたのか、ほんの少しだけ笑みを深めた。
「一条様でよろしいのですか?」
「あ……」
「ご結婚されたのですから、黒川様でしょう?」
声も穏やかだった。
それなのに、玲奈は自分が失敗した子供のような気持ちになる。
「まだ、慣れていなくて」
「そうですよね。ご結婚されて、まだ二週間ですもの」
「はい」
「十八歳でいきなり環境が変われば、無理もありませんわ」
玲奈は少しだけ違和感を覚えた。
優しい言葉のはずなのに。
どうしてだろう。
『十八歳』
そこだけを強く言われたような気がした。
「資料をご用意しております。こちらへどうぞ」
美月に案内され、玲奈はエレベーターへ乗った。
最上階。
扉が開く。
床には厚い絨毯が敷かれ、壁には大きな絵画が飾られていた。
社員たちは美月を見ると自然に頭を下げる。
彼女がこの場所で長く働いてきたことが、歩き方一つからでも分かった。
迷いがない。
誰がどこにいて、何をしているのか分かっている。
ここは美月の場所なのだ。
玲奈は急に、自分だけが部外者のように感じた。
「こちらです」
美月が立ち止まった。
その先に、大きな扉がある。
『専務執務室』
玲奈は目を瞬いた。
「資料を受け取るだけでは……」
「ちょうど隼人さんもいらっしゃいますから」
玲奈の胸が跳ねた。
隼人さん。
美月はごく自然に夫の名前を呼んだ。
会社の秘書なら普通は『専務』ではないのだろうか。
そんなことを考えているうちに、美月がノックする。
「どうぞ」
聞き慣れた声。
美月が扉を開けた。
「失礼いたします」
玲奈もその後へ続く。
大きな窓の向こうに東京の街並みが広がる執務室。
中央のデスクには隼人が座っていた。
玲奈を見ると、少し意外そうに目を上げる。
「玲奈?」
「こんにちは」
「どうした」
「お父様から、一条化粧品の資料を受け取るように言われて……」
「ああ」
隼人が納得したように頷く。
「俺が持ち帰ると言ったはずだが」
「自分で来てみたかったんです」
「一人で?」
「運転手さんと来ました」
「神谷は?」
「……今日はお休みです」
隼人の眉が寄る。
「だからといって……」
「隼人さん」
美月が穏やかに割って入った。
「会社までいらしただけですわ。奥様ももう十八歳ですもの」
その言葉に玲奈は少し救われた。
ところが隼人は、
「年齢の問題じゃない」
と答える。
「黒川家の人間である以上、勝手に行動させられない」
勝手に。
その言葉が胸に刺さった。
「……申し訳ありません」
玲奈が小さく言うと、隼人が顔を上げる。
「別に怒ってはいない」
「分かっています」
本当は、少しだけ腹が立っていた。
けれど玲奈は言わなかった。
美月が二人を見比べて微笑む。
「奥様、こちらへどうぞ。資料をご説明しますね」
美月がデスクの横へ回る。
その時だった。
「あら」
美月が隼人の胸元へ手を伸ばした。
玲奈の視線が止まる。
「隼人さん、ネクタイが曲がっています」
「そうか?」
「朝から会議続きでしたものね」
美月の指が隼人のネクタイに触れる。
襟元を整え、結び目を少し動かす。
距離が近い。
とても近い。
隼人は嫌がる様子もなく、手元の書類を見ている。
それが、玲奈には一番つらかった。
特別なことではない。
二人にとっては、これが普通なのだ。
「これで大丈夫です」
「ありがとう」
何気ない会話。
けれど玲奈の胸が苦しくなる。
自分は夫のネクタイに触れたことなど一度もない。
朝、毎日のように向かい合って食事をしているのに。
手を伸ばせる距離にもいない。
そもそも玲奈には、隼人がどんな色のネクタイをよく使うのかさえ分からなかった。
「奥様?」
美月に呼ばれ、玲奈は慌てて顔を上げた。
「はい」
「こちらへどうぞ」
「……はい」
玲奈はソファへ座った。
美月も隣へ腰を下ろし、資料を開く。
説明は分かりやすかった。
数字に詳しくない玲奈にも理解できるよう、丁寧に話してくれる。
仕事のできる人なのだと思う。
「今回の資本提携で、一条化粧品は当面安定します」
「本当ですか?」
「ええ。新商品の開発費用についても黒川側から支援が入ります」
「よかった……」
玲奈は胸を撫で下ろした。
会社のことを考えると、美月への複雑な気持ちを抱く自分が恥ずかしくなる。
彼女は仕事をしているだけなのだ。
「あとは海外部門ですね」
美月が資料をめくる。
「この辺りは隼人さんがお詳しいです」
「香月」
隼人がデスクから声をかけた。
「次の会議は?」
美月は時計も確認せず答えた。
「十五時から東都銀行頭取との面談です。その後、十六時半からシンガポール支社とのオンライン会議。十八時から役員会です」
「夕食は?」
「二十時から桐生商事の会長と会食です」
「ああ」
美月は付け加える。
「いつものお店を取ってあります」
玲奈の指が資料の上で止まった。
いつもの店。
美月は隼人の一日の予定を全部知っている。
どこへ行くのか。
誰と会うのか。
何時に食事をするのか。
きっと、隼人がどの店を好んでいるのかも。
妻である玲奈が知らないことを、美月は何でも知っている。
「桐生会長は和食でよかったな」
「はい。隼人さんが前回お気に召していたお店です」
「任せる」
「承知しました」
自然だった。
あまりにも自然で、玲奈が入り込めるところなどないように見えた。
「玲奈?」
隼人に呼ばれる。
「はい」
「どうした?」
「何がですか?」
「さっきからぼんやりしている」
玲奈は首を横に振った。
「資料が難しくて」
嘘だった。
すると美月が小さく笑う。
「最初は仕方ありませんわ」
「……そうですね」
「玲奈様は、まだ高校をご卒業されたばかりですもの」
まただ。
玲奈の胸がざわつく。
美月は悪いことなど何一つ言っていない。
全部、本当のこと。
玲奈は十八歳。
高校を卒業したばかり。
仕事も知らない。
隼人のことも知らない。
美月の隣に並べば、自分がどれほど幼いか嫌でも分かってしまう。
「少しずつ覚えていけばよろしいんですよ」
美月が優しく微笑む。
玲奈も笑い返した。
「ありがとうございます」
そこへ内線電話が鳴った。
美月が立ち上がる。
「失礼します」
電話を取った彼女は、すぐ仕事の顔へ変わった。
「はい、香月です。……ええ、十五時で間違いありません。社長車は正面へお願いします」
玲奈は横顔を見つめた。
綺麗で、大人で、仕事ができる。
隼人と同じ世界にいる女性。
(この人なら……)
隼人の隣にいても、きっと誰も不思議に思わない。
結婚式の日に紗良から聞いた噂が蘇る。
本当は黒川さんと香月さんが結婚すると思われていた。
胸の奥が重くなる。
「玲奈」
隼人が立ち上がった。
「俺はそろそろ出る」
「あ……はい」
「帰りは車を使え」
「分かりました」
隼人が玲奈のそばまで来る。
一瞬、玲奈の心が期待した。
何か言ってくれるのかもしれない。
けれど隼人は玲奈の服装を見ると、
「その格好、寒くないか?」
淡い水色のワンピース。
袖は肘まである。
「大丈夫です」
「夜は冷える」
「帰りますから」
「ならいい」
そして玲奈の頭へ手を置いた。
ぽん、と軽く。
「気をつけて帰れ」
玲奈は動けなかった。
頭に残る大きな手の感触。
嬉しいはずなのに。
胸の奥は少し痛かった。
また子供扱い。
そう思ってしまった。
「行きましょう、隼人さん」
美月がバッグを持って扉の前で待っている。
「ああ」
二人が並ぶ。
隼人の横に立つ美月は、やはりよく似合っていた。
「では奥様、失礼いたします」
「はい。お仕事、頑張ってください」
玲奈は笑顔を作った。
隼人が扉を出る。
美月も続く。
けれどその直前。
美月が一度だけ振り返った。
玲奈を見る。
その唇には、ほんのわずかな笑みがあった。
先ほどまでの仕事用の穏やかな笑顔とは違う。
玲奈が意味を考えるより先に、美月は扉の向こうへ消えた。
一人になった執務室。
玲奈は膝の上へ視線を落とす。
左手には結婚指輪。
間違いなく、自分が隼人の妻だという証。
それなのに。
さっき二人が並んで歩いていく姿を見た時、玲奈にはどうしても思えなかった。
自分のほうが隼人に近い人間だなんて。
「……七年、か」
美月が隼人のそばにいた年月。
玲奈の結婚生活は、まだ二週間。
比べること自体がおかしい。
分かっている。
けれど……。
自分が知らない隼人を、美月はたくさん知っている。
好きな料理。
行きつけの店。
予定。
仕事。
きっと疲れた時の表情も。
機嫌が悪い時の癖も。
玲奈は何も知らない。
「妻なのに……」
また同じ言葉が口から出そうになり、玲奈は唇を閉じた。
妻だから何なのだろう。
この結婚は恋愛から始まったものではない。
隼人に愛される約束など、最初からどこにもなかった。
そう自分へ言い聞かせながらも、玲奈の頭からは先ほどの光景が離れなかった。
隼人のネクタイへ手を伸ばした美月。
それを当たり前のように受け入れた隼人。
そして……。
『隼人さん』
あまりにも自然に呼ばれた夫の名前。
玲奈は結婚指輪を指先でなぞった。
初めて会った美月は、嫌な女性ではなかった。
むしろ優しく、仕事のできる立派な人だった。
だから……。
玲奈はまだ気づいていなかった。
去り際に美月が向けたあの小さな笑みが、決して玲奈の気のせいではなかったことを。
朝七時。
広いダイニングには、磨き上げられた長いテーブルが置かれている。
窓の外には丁寧に手入れされた庭園が広がり、朝日に濡れた緑が鮮やかに輝いていた。
玲奈の実家も決して小さな家ではなかったが、黒川邸は規模が違う。
廊下を歩けば使用人とすれ違い、食事の時間になれば何も言わなくても料理が運ばれてくる。
欲しいものがあれば、玲奈が口にする前に用意された。
不自由など一つもない。
だから余計に、寂しさを口にできなかった。
「おはようございます」
ダイニングへ入ると、すでに隼人が席についていた。
黒いスーツ。
白いシャツ。
きっちり締められた濃紺のネクタイ。
朝から完璧に仕事へ向かう姿だった。
「おはよう」
隼人が新聞から顔を上げる。
玲奈は向かい側の席へ座った。
隣ではない。
初日に案内されてから、ずっとここが玲奈の席だった。
テーブルが大きいため、少し声を張らなければ普通の会話さえ難しい。
玲奈は運ばれてきた紅茶にミルクを入れながら、向かい側をちらりと見た。
隼人はもう新聞へ目を戻している。
結婚して二週間。
朝食を一緒に取れる日は多い。
けれど、会話は驚くほど少なかった。
「今日は遅くなる」
隼人が新聞をめくりながら言った。
「そうですか」
「夕食は待たなくていい」
「はい」
「何か必要なものは?」
「ありません」
そこで会話が終わる。
夫婦というより、同じ家で暮らしている二人。
玲奈は小さくパンをちぎった。
結婚前は、もう少し話してくれた気がする。
会う回数こそ少なかったが、隼人は玲奈が何を話しても最後まで聞いてくれた。
大学で何を勉強したいのか。
好きな本。
苦手な食べ物。
そんな他愛ない話まで。
だから玲奈は、結婚して一緒に暮らせば少しずつ仲良くなれると思っていた。
ところが実際は逆だった。
隼人は朝早く家を出て、帰ってくるのは夜遅い。
玲奈が眠る前に帰ってくる日のほうが少ない。
そして、寝室は今も別々だった。
「玲奈」
突然呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「はい」
「食べないのか?」
見ると、自分の皿にはほとんど手をつけていない。
「食べています」
「減っていない」
「……朝はあまり入らなくて」
隼人の眉がわずかに寄った。
「体調が悪いのか?」
「違います」
「なら食べろ」
少し強い言い方。
玲奈は思わず唇を尖らせそうになった。
「子供じゃありません」
「分かっている」
即答だった。
けれど玲奈には、そうは思えなかった。
食事を残せば注意される。
夜遅くまで起きていれば寝ろと言われる。
一人で外出しようとすれば必ず護衛をつけられる。
先日は大学の入学前に友人と夕食へ出かけようとしただけなのに、
『十時までには帰れ』
と言われた。
父より厳しい。
「……本当に?」
つい、小さな声が漏れた。
「何が?」
「いいえ」
玲奈はパンを口へ運んだ。
隼人はしばらく玲奈を見ていたが、それ以上は尋ねてこなかった。
やがて時計を見る。
「そろそろ出る」
「はい」
玲奈も反射的に立ち上がった。
「いってらっしゃいませ」
隼人が一度足を止める。
「玲奈」
「はい?」
「玄関まで来なくていい」
「……そうですか」
「朝は冷える」
それだけ言って出ていく。
玲奈は立ったまま、閉じられた扉を見つめた。
優しい。
隼人は、きっと優しい人だ。
けれど。
(やっぱり……妻って感じじゃない)
大切にはされている。
けれど、その大切は妻へのものなのだろうか。
壊れやすいものを扱うような。
小さな妹を守るような。
そんな気がしてならなかった。
その日の午後。
玲奈は黒川ホールディングス本社の前に立っていた。
見上げるほど大きなガラス張りの高層ビル。
都心の一等地に建つ本社ビルは、近づくだけで圧倒される。
今日は隼人に会いに来たわけではない。
本来の目的は、黒川グループの傘下企業となった一条化粧品に関する資料を受け取ることだった。
父から、
『これから会社のことを知りたいなら、目を通しておきなさい』
と言われたのだ。
玲奈は結婚したからといって、一条家のことを忘れるつもりはなかった。
むしろ、自分の結婚によって会社が救われたからこそ、何が起きているのか知りたいと思うようになった。
受付で名前を告げると、女性社員の表情がわずかに変わった。
「一条……いえ、黒川玲奈様でいらっしゃいますね」
まだその名前には慣れない。
「はい」
「少々お待ちくださいませ」
受付の女性が急いで内線を入れる。
数分後、一人の女性がエレベーターから降りてきた。
玲奈は無意識に背筋を伸ばした。
綺麗な人。
最初に浮かんだのは、それだった。
身長は玲奈より十センチほど高いだろう。
濃いブラウンの髪は肩の下までゆるく巻かれ、落ち着いたグレーのスーツがよく似合っている。
大人っぽい。
洗練されている。
玲奈にはまだ出せない雰囲気を持っていた。
女性は玲奈の前まで来ると、上品に微笑んだ。
「初めまして。黒川専務の第一秘書をしております、香月美月と申します」
その名前を聞いた瞬間。
玲奈の胸の奥が小さく揺れた。
香月美月。
結婚式の日、紗良から聞いた名前。
隼人と長年噂になっている女性。
「……初めまして。一条玲奈です」
言ってから、少し迷った。
今は黒川玲奈と名乗るべきだったのだろうか。
美月はそれに気づいたのか、ほんの少しだけ笑みを深めた。
「一条様でよろしいのですか?」
「あ……」
「ご結婚されたのですから、黒川様でしょう?」
声も穏やかだった。
それなのに、玲奈は自分が失敗した子供のような気持ちになる。
「まだ、慣れていなくて」
「そうですよね。ご結婚されて、まだ二週間ですもの」
「はい」
「十八歳でいきなり環境が変われば、無理もありませんわ」
玲奈は少しだけ違和感を覚えた。
優しい言葉のはずなのに。
どうしてだろう。
『十八歳』
そこだけを強く言われたような気がした。
「資料をご用意しております。こちらへどうぞ」
美月に案内され、玲奈はエレベーターへ乗った。
最上階。
扉が開く。
床には厚い絨毯が敷かれ、壁には大きな絵画が飾られていた。
社員たちは美月を見ると自然に頭を下げる。
彼女がこの場所で長く働いてきたことが、歩き方一つからでも分かった。
迷いがない。
誰がどこにいて、何をしているのか分かっている。
ここは美月の場所なのだ。
玲奈は急に、自分だけが部外者のように感じた。
「こちらです」
美月が立ち止まった。
その先に、大きな扉がある。
『専務執務室』
玲奈は目を瞬いた。
「資料を受け取るだけでは……」
「ちょうど隼人さんもいらっしゃいますから」
玲奈の胸が跳ねた。
隼人さん。
美月はごく自然に夫の名前を呼んだ。
会社の秘書なら普通は『専務』ではないのだろうか。
そんなことを考えているうちに、美月がノックする。
「どうぞ」
聞き慣れた声。
美月が扉を開けた。
「失礼いたします」
玲奈もその後へ続く。
大きな窓の向こうに東京の街並みが広がる執務室。
中央のデスクには隼人が座っていた。
玲奈を見ると、少し意外そうに目を上げる。
「玲奈?」
「こんにちは」
「どうした」
「お父様から、一条化粧品の資料を受け取るように言われて……」
「ああ」
隼人が納得したように頷く。
「俺が持ち帰ると言ったはずだが」
「自分で来てみたかったんです」
「一人で?」
「運転手さんと来ました」
「神谷は?」
「……今日はお休みです」
隼人の眉が寄る。
「だからといって……」
「隼人さん」
美月が穏やかに割って入った。
「会社までいらしただけですわ。奥様ももう十八歳ですもの」
その言葉に玲奈は少し救われた。
ところが隼人は、
「年齢の問題じゃない」
と答える。
「黒川家の人間である以上、勝手に行動させられない」
勝手に。
その言葉が胸に刺さった。
「……申し訳ありません」
玲奈が小さく言うと、隼人が顔を上げる。
「別に怒ってはいない」
「分かっています」
本当は、少しだけ腹が立っていた。
けれど玲奈は言わなかった。
美月が二人を見比べて微笑む。
「奥様、こちらへどうぞ。資料をご説明しますね」
美月がデスクの横へ回る。
その時だった。
「あら」
美月が隼人の胸元へ手を伸ばした。
玲奈の視線が止まる。
「隼人さん、ネクタイが曲がっています」
「そうか?」
「朝から会議続きでしたものね」
美月の指が隼人のネクタイに触れる。
襟元を整え、結び目を少し動かす。
距離が近い。
とても近い。
隼人は嫌がる様子もなく、手元の書類を見ている。
それが、玲奈には一番つらかった。
特別なことではない。
二人にとっては、これが普通なのだ。
「これで大丈夫です」
「ありがとう」
何気ない会話。
けれど玲奈の胸が苦しくなる。
自分は夫のネクタイに触れたことなど一度もない。
朝、毎日のように向かい合って食事をしているのに。
手を伸ばせる距離にもいない。
そもそも玲奈には、隼人がどんな色のネクタイをよく使うのかさえ分からなかった。
「奥様?」
美月に呼ばれ、玲奈は慌てて顔を上げた。
「はい」
「こちらへどうぞ」
「……はい」
玲奈はソファへ座った。
美月も隣へ腰を下ろし、資料を開く。
説明は分かりやすかった。
数字に詳しくない玲奈にも理解できるよう、丁寧に話してくれる。
仕事のできる人なのだと思う。
「今回の資本提携で、一条化粧品は当面安定します」
「本当ですか?」
「ええ。新商品の開発費用についても黒川側から支援が入ります」
「よかった……」
玲奈は胸を撫で下ろした。
会社のことを考えると、美月への複雑な気持ちを抱く自分が恥ずかしくなる。
彼女は仕事をしているだけなのだ。
「あとは海外部門ですね」
美月が資料をめくる。
「この辺りは隼人さんがお詳しいです」
「香月」
隼人がデスクから声をかけた。
「次の会議は?」
美月は時計も確認せず答えた。
「十五時から東都銀行頭取との面談です。その後、十六時半からシンガポール支社とのオンライン会議。十八時から役員会です」
「夕食は?」
「二十時から桐生商事の会長と会食です」
「ああ」
美月は付け加える。
「いつものお店を取ってあります」
玲奈の指が資料の上で止まった。
いつもの店。
美月は隼人の一日の予定を全部知っている。
どこへ行くのか。
誰と会うのか。
何時に食事をするのか。
きっと、隼人がどの店を好んでいるのかも。
妻である玲奈が知らないことを、美月は何でも知っている。
「桐生会長は和食でよかったな」
「はい。隼人さんが前回お気に召していたお店です」
「任せる」
「承知しました」
自然だった。
あまりにも自然で、玲奈が入り込めるところなどないように見えた。
「玲奈?」
隼人に呼ばれる。
「はい」
「どうした?」
「何がですか?」
「さっきからぼんやりしている」
玲奈は首を横に振った。
「資料が難しくて」
嘘だった。
すると美月が小さく笑う。
「最初は仕方ありませんわ」
「……そうですね」
「玲奈様は、まだ高校をご卒業されたばかりですもの」
まただ。
玲奈の胸がざわつく。
美月は悪いことなど何一つ言っていない。
全部、本当のこと。
玲奈は十八歳。
高校を卒業したばかり。
仕事も知らない。
隼人のことも知らない。
美月の隣に並べば、自分がどれほど幼いか嫌でも分かってしまう。
「少しずつ覚えていけばよろしいんですよ」
美月が優しく微笑む。
玲奈も笑い返した。
「ありがとうございます」
そこへ内線電話が鳴った。
美月が立ち上がる。
「失礼します」
電話を取った彼女は、すぐ仕事の顔へ変わった。
「はい、香月です。……ええ、十五時で間違いありません。社長車は正面へお願いします」
玲奈は横顔を見つめた。
綺麗で、大人で、仕事ができる。
隼人と同じ世界にいる女性。
(この人なら……)
隼人の隣にいても、きっと誰も不思議に思わない。
結婚式の日に紗良から聞いた噂が蘇る。
本当は黒川さんと香月さんが結婚すると思われていた。
胸の奥が重くなる。
「玲奈」
隼人が立ち上がった。
「俺はそろそろ出る」
「あ……はい」
「帰りは車を使え」
「分かりました」
隼人が玲奈のそばまで来る。
一瞬、玲奈の心が期待した。
何か言ってくれるのかもしれない。
けれど隼人は玲奈の服装を見ると、
「その格好、寒くないか?」
淡い水色のワンピース。
袖は肘まである。
「大丈夫です」
「夜は冷える」
「帰りますから」
「ならいい」
そして玲奈の頭へ手を置いた。
ぽん、と軽く。
「気をつけて帰れ」
玲奈は動けなかった。
頭に残る大きな手の感触。
嬉しいはずなのに。
胸の奥は少し痛かった。
また子供扱い。
そう思ってしまった。
「行きましょう、隼人さん」
美月がバッグを持って扉の前で待っている。
「ああ」
二人が並ぶ。
隼人の横に立つ美月は、やはりよく似合っていた。
「では奥様、失礼いたします」
「はい。お仕事、頑張ってください」
玲奈は笑顔を作った。
隼人が扉を出る。
美月も続く。
けれどその直前。
美月が一度だけ振り返った。
玲奈を見る。
その唇には、ほんのわずかな笑みがあった。
先ほどまでの仕事用の穏やかな笑顔とは違う。
玲奈が意味を考えるより先に、美月は扉の向こうへ消えた。
一人になった執務室。
玲奈は膝の上へ視線を落とす。
左手には結婚指輪。
間違いなく、自分が隼人の妻だという証。
それなのに。
さっき二人が並んで歩いていく姿を見た時、玲奈にはどうしても思えなかった。
自分のほうが隼人に近い人間だなんて。
「……七年、か」
美月が隼人のそばにいた年月。
玲奈の結婚生活は、まだ二週間。
比べること自体がおかしい。
分かっている。
けれど……。
自分が知らない隼人を、美月はたくさん知っている。
好きな料理。
行きつけの店。
予定。
仕事。
きっと疲れた時の表情も。
機嫌が悪い時の癖も。
玲奈は何も知らない。
「妻なのに……」
また同じ言葉が口から出そうになり、玲奈は唇を閉じた。
妻だから何なのだろう。
この結婚は恋愛から始まったものではない。
隼人に愛される約束など、最初からどこにもなかった。
そう自分へ言い聞かせながらも、玲奈の頭からは先ほどの光景が離れなかった。
隼人のネクタイへ手を伸ばした美月。
それを当たり前のように受け入れた隼人。
そして……。
『隼人さん』
あまりにも自然に呼ばれた夫の名前。
玲奈は結婚指輪を指先でなぞった。
初めて会った美月は、嫌な女性ではなかった。
むしろ優しく、仕事のできる立派な人だった。
だから……。
玲奈はまだ気づいていなかった。
去り際に美月が向けたあの小さな笑みが、決して玲奈の気のせいではなかったことを。

