黒川邸へ戻った翌朝。
玲奈は、いつもより少し早く目を覚ました。
窓の外には柔らかな朝日が広がっている。
カーテンの隙間から入り込んだ光が、床の上に細長く伸びていた。
見慣れた寝室。
数日前まで暮らしていた部屋なのに。
一条家から戻ってきた今は、少しだけ違って見える。
ここは黒川家から与えられた部屋。
そう思っていた。
けれど昨夜からは。
自分で戻ると決めた場所になった。
玲奈はベッドの上で身体を起こした。
左手を見る。
薬指には結婚指輪。
そしてドレッサーの上には、隼人から誕生日にもらった花のネックレスが置いてある。
昨日まで。
この二つを見るたびに複雑だった。
自分は本当に妻なのか。
隼人にとって必要な存在なのか。
そんなことばかり考えていた。
今は――。
「……妻、なんだよね」
自分で呟いて。
途端に恥ずかしくなる。
昨夜。
玄関ホールで。
『私、これからもあなたの妻でいたいです』
あんなことを言った。
しかも。
隼人に抱きしめられて。
『触ってもいいか』
なんて聞かれて。
思い出すだけで頬が熱くなる。
「もう……」
玲奈は枕へ顔を埋めた。
昨日の自分は、どうしてあんなに大胆だったのだろう。
嬉しかった。
それだけだ。
隼人が好きだと分かって。
自分も隼人を選べると分かって。
感情のままに言葉が出た。
けれど一晩経つと。
とんでもなく恥ずかしい。
「玲奈様」
扉の外から佐和子の声がした。
玲奈は慌てて顔を上げる。
「はい!」
「ご朝食のお支度が整いました」
「今行きます」
いつもより大きな声になった。
佐和子が扉の向こうで少し笑ったような気がした。
玲奈はベッドから降りる。
着替え。
髪を整え。
最後に。
少し迷ってから。
花のネックレスを手に取った。
ダイニングへ入ると。
隼人はすでにいた。
玲奈の足が一瞬止まる。
いつものように黒いスーツ。
新聞ではなく、タブレットを手にしている。
何も変わらない朝。
なのに。
玲奈の心臓だけが、昨日までとは違う。
隼人が顔を上げる。
目が合う。
「おはよう」
「……おはようございます」
なぜ敬語になったのか。
自分でも分からない。
玲奈は少し早足で席へ向かった。
以前と同じ。
長いテーブルの向かい側。
けれど。
座ろうとしたところで。
「玲奈」
「はい?」
隼人が自分の隣の椅子を見る。
「こっちへ座れ」
玲奈は目を瞬いた。
「え?」
「遠い」
それだけ。
でも。
胸が強く鳴った。
今まで。
ずっと向かい側だった。
大きなテーブルの端と端。
夫婦なのに。
声を少し張らなければ普通に会話もできない距離。
「……ここ?」
玲奈が隼人の隣の椅子を指す。
「ああ」
玲奈は少し迷いながら移動した。
椅子を引く。
座る。
近い。
思っていた以上に。
隼人の腕がすぐ隣にある。
手を伸ばせば触れられる距離。
玲奈は急に落ち着かなくなった。
佐和子が紅茶を置く。
その表情が。
明らかに楽しそうだ。
玲奈は小声で言った。
「佐和子さん」
「はい?」
「笑ってません?」
「いいえ」
「絶対笑ってます」
「気のせいでございます」
絶対に違う。
玲奈が少しむっとしている横で。
隼人がふと目を止めた。
「それ」
玲奈は顔を向ける。
「何ですか?」
隼人の視線が、玲奈の首元へ落ちる。
花のネックレス。
玲奈の頬が少し熱くなる。
「……つけてみました」
「そうか」
それだけ。
いつもなら。
玲奈は少し不満に思ったかもしれない。
でも今は。
隼人の口元がほんの少しだけ緩んだのが分かった。
「似合いますか?」
あえて聞いた。
隼人が玲奈を見る。
「似合う」
「即答」
「聞いたのは玲奈だろう」
「そうですけど」
玲奈は嬉しくなって、紅茶へ視線を落とした。
すると。
隼人の手が伸びてきた。
玲奈の髪を少し避ける。
ネックレスの留め具を見る。
「曲がってる」
「え?」
「後ろ」
隼人の指が、玲奈の首筋近くへ触れる。
ほんの少し。
それだけなのに。
玲奈の肩がびくっと揺れた。
隼人の手が止まる。
「……嫌だったか」
「違います!」
あまりにも早く否定してしまった。
隼人の眉が少し上がる。
玲奈は恥ずかしくなった。
「急だったから」
「そうか」
「それだけです」
「分かった」
隼人はゆっくり留め具を直した。
触れる指先は慎重だった。
昨夜。
『触っていいか』
そう聞いてくれたことを、ちゃんと覚えている。
そのことが。
玲奈には何より嬉しかった。
朝食の途中。
隼人のスマートフォンが震えた。
画面を確認した隼人の表情が、少し仕事のものへ戻る。
「何かありました?」
「ああ」
玲奈は少しだけ身構えた。
以前なら。
美月からの連絡かもしれない。
そう考えて胸がざわついた。
隼人は隠さなかった。
「人事からだ」
「……香月さん?」
「ああ」
玲奈の手が少し止まる。
隼人は続けた。
「今日付で、正式に経営企画室への異動が決まった」
玲奈はしばらく黙った。
予想していた。
それでも。
実際に聞くと複雑だった。
「辞めさせるわけではないんですね」
「仕事の能力まで否定するつもりはない」
隼人らしい答えだった。
「ただ、俺の専属には戻さない」
「……はい」
「玲奈」
「何ですか?」
隼人は少し言葉を選ぶ。
「不満か」
玲奈は首を横に振った。
「いいえ」
「ではなぜその顔だ」
「その顔って何ですか」
「複雑そうだ」
玲奈は少し考えた。
正直に言う。
「香月さんがしたことは、許せないです」
SNSの写真。
誕生日の予定。
ホテルでの匂わせ。
玲奈を傷つけるために意図的に行ったこと。
許す必要はないと思う。
「でも」
玲奈は紅茶へ視線を落とす。
「七年間、隼人さんを好きだったこと自体は……悪いことじゃないから」
隼人は何も言わない。
「私も、隼人さんを好きだから」
好きな人が自分を見てくれない苦しさ。
少しだけなら分かる。
「だから少しだけ、かわいそうだなって思っただけです」
隼人の眉が寄る。
「玲奈」
「はい?」
「そこまで考える必要はない」
「でも――」
「俺は同情で玲奈を選んだわけじゃない」
思いがけない言葉。
玲奈は目を瞬く。
「香月に同情して何かを変えるつもりもない」
はっきりしている。
隼人はこういうところだけは迷わない。
玲奈は少し笑った。
「隼人さんって、時々すごく冷たいですね」
「そうか」
「でも」
玲奈はネックレスへ指を触れた。
「今は、それでいいと思います」
美月に期待を持たせるような曖昧さを残すほうが。
きっと残酷だから。
午前十時。
黒川ホールディングス。
美月は段ボール箱へ自分の荷物を入れていた。
七年間使ったデスク。
ペン立て。
名刺ケース。
海外出張先で買った小さな置物。
すべてを。
一つずつ。
箱へ移す。
周囲の社員たちは、どう声をかければいいか迷っているようだった。
異動理由は公表されていない。
けれど。
美月のSNS投稿が社内で話題になったことは、誰もが知っている。
「香月さん」
奈緒が近づいてきた。
「何?」
以前なら。
美月は奈緒に細かく仕事の指示を出していた。
今は。
立場が変わった。
「社長の今日の予定について、確認したいことが」
美月の指が止まる。
「もう私の仕事じゃないでしょう」
奈緒が少し困った顔をする。
「……そうですね」
美月は箱へ視線を落とした。
「会議資料は共有フォルダに入れてある」
「はい」
「海外顧客の好みや注意点は一覧にしてあるから」
「ありがとうございます」
「それと――」
いつものように。
隼人の食事。
体調。
癖。
全部を説明しそうになった。
けれど。
美月は止めた。
もう。
そこまで口を出す必要はない。
いや。
出してはいけない。
「……何でもない」
奈緒が少し驚く。
美月は箱の蓋を閉じた。
「七年間、お疲れ様でした」
奈緒が言う。
その言葉に。
胸が少しだけ痛んだ。
「ありがとう」
美月は笑った。
今度の笑顔には。
昨日までのような棘はなかった。
ただ。
ひどく疲れていた。
デスクを離れる。
最後に。
隼人の執務室の扉を見る。
七年間。
毎日。
何度この扉を開けたのだろう。
『隼人さん』
そう呼べば。
いつも、
『仕事中は社長と呼べ』
と少し嫌そうな顔をされた。
それでも。
本気で止められるまでは。
どこか甘えていた。
自分だけは特別だと。
思いたかった。
けれど。
違った。
最後まで。
美月は秘書だった。
それを認めるまで。
ずいぶん遠回りをした。
「香月さん」
奈緒が呼ぶ。
美月は振り返らず答えた。
「何?」
「お元気で」
美月は少しだけ立ち止まる。
「同じ会社よ」
「そうでした」
小さな笑い。
美月も。
ほんの少しだけ笑った。
そして。
今度こそ。
執務室の前から離れた。
昼過ぎ。
玲奈は大学で講義を受けていた。
けれど。
少しだけ集中できなかった。
理由は。
朝。
隼人に言われた一言。
『今夜は早く帰る』
以前なら。
それだけ。
でも今日は違う。
『夕食を一緒に食べたい』
隼人が。
自分からそう言った。
命令でも。
予定確認でもない。
一緒に食べたい。
その言い方が嬉しかった。
「玲奈」
隣の美緒が小声で呼ぶ。
「何?」
「顔」
「また?」
「さっきからずっと笑ってる」
玲奈は慌てて口元を押さえる。
「笑ってない」
「笑ってる」
「講義中だから静かにして」
「はいはい」
美緒は楽しそうに前を向いた。
玲奈もノートへ視線を戻す。
けれど。
ペンを動かしながら。
また少しだけ笑ってしまった。
午後四時。
講義を終えて外へ出る。
正門近くには亮が待っていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
玲奈は自然に笑う。
亮が少しだけ玲奈を見る。
「今日は黒川邸へ?」
「はい」
「承知しました」
二人で車へ向かう。
途中。
玲奈は少し考えてから亮へ声をかけた。
「亮さん」
「はい」
「昨日のことなんですけど」
亮の足がほんの少し遅くなる。
玲奈は続ける。
「九条さんに求婚されました」
亮の表情が止まった。
玲奈は慌てる。
「断りました」
「……そうですか」
短い返事。
「はい」
玲奈は少しだけ緊張した。
「私、隼人さんのところへ戻りました」
「知っております」
「そうですよね」
護衛なのだから当然だ。
少し歩く。
玲奈は勇気を出して言った。
「亮さん」
「はい」
「私、ずっと甘えていました」
亮が玲奈を見る。
「寂しい時に」
「泣きたい時に」
「亮さんなら聞いてくれるって」
胸が少し苦しい。
「それで、もし亮さんを期待させていたなら……ごめんなさい」
亮はしばらく何も言わなかった。
春の終わりの風が吹く。
並木道の葉が揺れる。
「玲奈さん」
「はい」
「謝らないでください」
穏やかな声。
「俺が勝手に好きになっただけです」
玲奈の胸が痛んだ。
やはり。
そうだった。
「……いつから?」
思わず聞いてしまった。
亮は少しだけ笑った。
「聞きますか」
「すみません」
「最初は」
亮は前を向く。
「守らなければいけない人でした」
「はい」
「それがいつの間にか」
少しだけ声が柔らかくなる。
「笑っていてほしい人になりました」
玲奈は何も言えなかった。
「でも」
亮は続ける。
「旦那様と話した後の玲奈さんを見て」
「はい」
「俺では駄目なんだと分かりました」
玲奈の胸が締めつけられる。
「亮さん」
「だから、これで終わりにします」
すぐに。
そんなふうに。
簡単にはできないはずなのに。
亮は笑った。
「護衛は続けます」
「いいんですか?」
「仕事ですから」
玲奈は少しだけ笑った。
最後まで。
亮らしい。
「ありがとうございます」
「はい」
「でも」
亮の目が少し鋭くなる。
「旦那様がまた玲奈さんを泣かせたら」
玲奈は瞬きをする。
「その時は、もう一度考えます」
「何を?」
「奪うかどうか」
玲奈の目が大きくなる。
「亮さん!」
初めて。
亮が声を立てて笑った。
「冗談です」
「絶対違う」
「半分は」
「半分?」
「車が来ました」
また逃げた。
玲奈は少しむっとしながらも。
最後には笑った。
寂しさはある。
でも。
この人の優しさに助けられたことを。
玲奈はきっと忘れない。
午後六時半。
黒川邸。
玲奈がリビングへ入ると。
隼人がいた。
珍しく。
ジャケットを脱ぎ。
ネクタイも緩めている。
テーブルの上には仕事の資料がない。
「……本当に早い」
思わず口にした。
隼人が玲奈を見る。
「何だ」
「帰ってくるって言っても、七時半くらいだと思ってました」
「六時には会社を出た」
玲奈は少し驚く。
「そんなに早く?」
「ああ」
「仕事は?」
「明日やる」
以前なら。
絶対に言わなかった。
玲奈は少しだけ笑う。
「変わりましたね」
「誰のせいだ」
「私?」
「ああ」
隼人が悪びれず言う。
玲奈は隣のソファへ座った。
「悪い変化ですか?」
「分からない」
「そこは良いって言ってください」
隼人がほんの少し笑う。
「努力する」
それでも十分。
玲奈は笑った。
「今日」
隼人が言う。
「香月の異動が済んだ」
「……はい」
玲奈は静かに聞く。
「今後、俺の予定に香月が関わることはほとんどない」
「そこまで説明してくれなくても大丈夫です」
「必要だろ」
「昨日までなら」
玲奈は少し考える。
「今は、隼人さんが説明してくれるって分かったから」
隼人の表情が少し変わる。
玲奈は続ける。
「疑ったら聞きます」
「……ああ」
「勝手に思い込まないようにします」
「俺も」
「はい?」
「言う」
玲奈は目を瞬く。
隼人は少し言いにくそうだった。
「必要なことは」
「ちゃんと?」
「ああ」
「嫉妬した時も?」
隼人の顔が固まる。
玲奈が笑う。
「そこは別」
「どうしてですか」
「言わなくても分かるだろ」
「分かりません」
「玲奈」
「ちゃんと言うって今言いました」
隼人が額へ手を当てる。
玲奈は楽しそうに笑った。
これまで。
隼人が困ると、自分まで不安になった。
今は違う。
隼人の困った顔を見て。
少し可笑しいと思える。
それだけ。
二人の間に安心が増えたのだと思う。
夕食。
今日は。
長いテーブルではなく。
小さなダイニングルームを使った。
玲奈が以前、
「二人だけなのに、大きなテーブルは寂しい」
と口にしたことを。
隼人が覚えていたらしい。
小さな丸テーブル。
隣ではなく向かい側でも、手を伸ばせば届く距離。
「隼人さん」
「何だ」
「セロリ、嫌いなんですよね」
隼人のフォークが止まる。
玲奈が笑う。
「知ってます」
「香月から聞いたのか」
一瞬。
少しだけ空気が変わる。
でも。
玲奈は首を横に振った。
「以前、食事の時に聞きました」
「ああ」
「今度から」
玲奈は料理を見る。
「私にも、好きなものと嫌いなものを教えてください」
「なぜ」
「妻だから」
以前なら。
その言葉は玲奈を苦しめた。
今は。
自分から言える。
「香月さんより隼人さんのことを知りたいからじゃありません」
玲奈は笑った。
「私が知りたいからです」
隼人はしばらく玲奈を見る。
そして。
「ああ」
静かに答えた。
「何から聞く」
玲奈は少し考える。
「では」
楽しそうに指を折る。
「好きな食べ物」
「魚」
「広すぎます」
「焼いたもの」
「もう少し詳しく」
「面倒だな」
「ちゃんと答えるって約束しました」
「そんな約束はしてない」
「似たようなものです」
隼人が小さく息を吐く。
けれど。
答えてくれた。
好きな魚。
苦手な野菜。
コーヒーは朝だけ二杯飲むこと。
疲れていると食べなくなる癖。
そして。
好きな本。
好きな映画。
子供の頃に苦手だったもの。
仕事とは関係のない話。
玲奈が知りたかった隼人。
美月が知っていた『社長としての隼人』ではなく。
玲奈だけがこれから知っていく。
一人の男性としての。
黒川隼人。
その夜。
二人は初めて。
食事が終わってもすぐ席を立たなかった。
話すことがなくなるまで。
ゆっくり。
何でもない会話を続けた。
それだけの時間が。
玲奈には。
どんな高価な誕生日プレゼントよりも嬉しかった。
玲奈は、いつもより少し早く目を覚ました。
窓の外には柔らかな朝日が広がっている。
カーテンの隙間から入り込んだ光が、床の上に細長く伸びていた。
見慣れた寝室。
数日前まで暮らしていた部屋なのに。
一条家から戻ってきた今は、少しだけ違って見える。
ここは黒川家から与えられた部屋。
そう思っていた。
けれど昨夜からは。
自分で戻ると決めた場所になった。
玲奈はベッドの上で身体を起こした。
左手を見る。
薬指には結婚指輪。
そしてドレッサーの上には、隼人から誕生日にもらった花のネックレスが置いてある。
昨日まで。
この二つを見るたびに複雑だった。
自分は本当に妻なのか。
隼人にとって必要な存在なのか。
そんなことばかり考えていた。
今は――。
「……妻、なんだよね」
自分で呟いて。
途端に恥ずかしくなる。
昨夜。
玄関ホールで。
『私、これからもあなたの妻でいたいです』
あんなことを言った。
しかも。
隼人に抱きしめられて。
『触ってもいいか』
なんて聞かれて。
思い出すだけで頬が熱くなる。
「もう……」
玲奈は枕へ顔を埋めた。
昨日の自分は、どうしてあんなに大胆だったのだろう。
嬉しかった。
それだけだ。
隼人が好きだと分かって。
自分も隼人を選べると分かって。
感情のままに言葉が出た。
けれど一晩経つと。
とんでもなく恥ずかしい。
「玲奈様」
扉の外から佐和子の声がした。
玲奈は慌てて顔を上げる。
「はい!」
「ご朝食のお支度が整いました」
「今行きます」
いつもより大きな声になった。
佐和子が扉の向こうで少し笑ったような気がした。
玲奈はベッドから降りる。
着替え。
髪を整え。
最後に。
少し迷ってから。
花のネックレスを手に取った。
ダイニングへ入ると。
隼人はすでにいた。
玲奈の足が一瞬止まる。
いつものように黒いスーツ。
新聞ではなく、タブレットを手にしている。
何も変わらない朝。
なのに。
玲奈の心臓だけが、昨日までとは違う。
隼人が顔を上げる。
目が合う。
「おはよう」
「……おはようございます」
なぜ敬語になったのか。
自分でも分からない。
玲奈は少し早足で席へ向かった。
以前と同じ。
長いテーブルの向かい側。
けれど。
座ろうとしたところで。
「玲奈」
「はい?」
隼人が自分の隣の椅子を見る。
「こっちへ座れ」
玲奈は目を瞬いた。
「え?」
「遠い」
それだけ。
でも。
胸が強く鳴った。
今まで。
ずっと向かい側だった。
大きなテーブルの端と端。
夫婦なのに。
声を少し張らなければ普通に会話もできない距離。
「……ここ?」
玲奈が隼人の隣の椅子を指す。
「ああ」
玲奈は少し迷いながら移動した。
椅子を引く。
座る。
近い。
思っていた以上に。
隼人の腕がすぐ隣にある。
手を伸ばせば触れられる距離。
玲奈は急に落ち着かなくなった。
佐和子が紅茶を置く。
その表情が。
明らかに楽しそうだ。
玲奈は小声で言った。
「佐和子さん」
「はい?」
「笑ってません?」
「いいえ」
「絶対笑ってます」
「気のせいでございます」
絶対に違う。
玲奈が少しむっとしている横で。
隼人がふと目を止めた。
「それ」
玲奈は顔を向ける。
「何ですか?」
隼人の視線が、玲奈の首元へ落ちる。
花のネックレス。
玲奈の頬が少し熱くなる。
「……つけてみました」
「そうか」
それだけ。
いつもなら。
玲奈は少し不満に思ったかもしれない。
でも今は。
隼人の口元がほんの少しだけ緩んだのが分かった。
「似合いますか?」
あえて聞いた。
隼人が玲奈を見る。
「似合う」
「即答」
「聞いたのは玲奈だろう」
「そうですけど」
玲奈は嬉しくなって、紅茶へ視線を落とした。
すると。
隼人の手が伸びてきた。
玲奈の髪を少し避ける。
ネックレスの留め具を見る。
「曲がってる」
「え?」
「後ろ」
隼人の指が、玲奈の首筋近くへ触れる。
ほんの少し。
それだけなのに。
玲奈の肩がびくっと揺れた。
隼人の手が止まる。
「……嫌だったか」
「違います!」
あまりにも早く否定してしまった。
隼人の眉が少し上がる。
玲奈は恥ずかしくなった。
「急だったから」
「そうか」
「それだけです」
「分かった」
隼人はゆっくり留め具を直した。
触れる指先は慎重だった。
昨夜。
『触っていいか』
そう聞いてくれたことを、ちゃんと覚えている。
そのことが。
玲奈には何より嬉しかった。
朝食の途中。
隼人のスマートフォンが震えた。
画面を確認した隼人の表情が、少し仕事のものへ戻る。
「何かありました?」
「ああ」
玲奈は少しだけ身構えた。
以前なら。
美月からの連絡かもしれない。
そう考えて胸がざわついた。
隼人は隠さなかった。
「人事からだ」
「……香月さん?」
「ああ」
玲奈の手が少し止まる。
隼人は続けた。
「今日付で、正式に経営企画室への異動が決まった」
玲奈はしばらく黙った。
予想していた。
それでも。
実際に聞くと複雑だった。
「辞めさせるわけではないんですね」
「仕事の能力まで否定するつもりはない」
隼人らしい答えだった。
「ただ、俺の専属には戻さない」
「……はい」
「玲奈」
「何ですか?」
隼人は少し言葉を選ぶ。
「不満か」
玲奈は首を横に振った。
「いいえ」
「ではなぜその顔だ」
「その顔って何ですか」
「複雑そうだ」
玲奈は少し考えた。
正直に言う。
「香月さんがしたことは、許せないです」
SNSの写真。
誕生日の予定。
ホテルでの匂わせ。
玲奈を傷つけるために意図的に行ったこと。
許す必要はないと思う。
「でも」
玲奈は紅茶へ視線を落とす。
「七年間、隼人さんを好きだったこと自体は……悪いことじゃないから」
隼人は何も言わない。
「私も、隼人さんを好きだから」
好きな人が自分を見てくれない苦しさ。
少しだけなら分かる。
「だから少しだけ、かわいそうだなって思っただけです」
隼人の眉が寄る。
「玲奈」
「はい?」
「そこまで考える必要はない」
「でも――」
「俺は同情で玲奈を選んだわけじゃない」
思いがけない言葉。
玲奈は目を瞬く。
「香月に同情して何かを変えるつもりもない」
はっきりしている。
隼人はこういうところだけは迷わない。
玲奈は少し笑った。
「隼人さんって、時々すごく冷たいですね」
「そうか」
「でも」
玲奈はネックレスへ指を触れた。
「今は、それでいいと思います」
美月に期待を持たせるような曖昧さを残すほうが。
きっと残酷だから。
午前十時。
黒川ホールディングス。
美月は段ボール箱へ自分の荷物を入れていた。
七年間使ったデスク。
ペン立て。
名刺ケース。
海外出張先で買った小さな置物。
すべてを。
一つずつ。
箱へ移す。
周囲の社員たちは、どう声をかければいいか迷っているようだった。
異動理由は公表されていない。
けれど。
美月のSNS投稿が社内で話題になったことは、誰もが知っている。
「香月さん」
奈緒が近づいてきた。
「何?」
以前なら。
美月は奈緒に細かく仕事の指示を出していた。
今は。
立場が変わった。
「社長の今日の予定について、確認したいことが」
美月の指が止まる。
「もう私の仕事じゃないでしょう」
奈緒が少し困った顔をする。
「……そうですね」
美月は箱へ視線を落とした。
「会議資料は共有フォルダに入れてある」
「はい」
「海外顧客の好みや注意点は一覧にしてあるから」
「ありがとうございます」
「それと――」
いつものように。
隼人の食事。
体調。
癖。
全部を説明しそうになった。
けれど。
美月は止めた。
もう。
そこまで口を出す必要はない。
いや。
出してはいけない。
「……何でもない」
奈緒が少し驚く。
美月は箱の蓋を閉じた。
「七年間、お疲れ様でした」
奈緒が言う。
その言葉に。
胸が少しだけ痛んだ。
「ありがとう」
美月は笑った。
今度の笑顔には。
昨日までのような棘はなかった。
ただ。
ひどく疲れていた。
デスクを離れる。
最後に。
隼人の執務室の扉を見る。
七年間。
毎日。
何度この扉を開けたのだろう。
『隼人さん』
そう呼べば。
いつも、
『仕事中は社長と呼べ』
と少し嫌そうな顔をされた。
それでも。
本気で止められるまでは。
どこか甘えていた。
自分だけは特別だと。
思いたかった。
けれど。
違った。
最後まで。
美月は秘書だった。
それを認めるまで。
ずいぶん遠回りをした。
「香月さん」
奈緒が呼ぶ。
美月は振り返らず答えた。
「何?」
「お元気で」
美月は少しだけ立ち止まる。
「同じ会社よ」
「そうでした」
小さな笑い。
美月も。
ほんの少しだけ笑った。
そして。
今度こそ。
執務室の前から離れた。
昼過ぎ。
玲奈は大学で講義を受けていた。
けれど。
少しだけ集中できなかった。
理由は。
朝。
隼人に言われた一言。
『今夜は早く帰る』
以前なら。
それだけ。
でも今日は違う。
『夕食を一緒に食べたい』
隼人が。
自分からそう言った。
命令でも。
予定確認でもない。
一緒に食べたい。
その言い方が嬉しかった。
「玲奈」
隣の美緒が小声で呼ぶ。
「何?」
「顔」
「また?」
「さっきからずっと笑ってる」
玲奈は慌てて口元を押さえる。
「笑ってない」
「笑ってる」
「講義中だから静かにして」
「はいはい」
美緒は楽しそうに前を向いた。
玲奈もノートへ視線を戻す。
けれど。
ペンを動かしながら。
また少しだけ笑ってしまった。
午後四時。
講義を終えて外へ出る。
正門近くには亮が待っていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
玲奈は自然に笑う。
亮が少しだけ玲奈を見る。
「今日は黒川邸へ?」
「はい」
「承知しました」
二人で車へ向かう。
途中。
玲奈は少し考えてから亮へ声をかけた。
「亮さん」
「はい」
「昨日のことなんですけど」
亮の足がほんの少し遅くなる。
玲奈は続ける。
「九条さんに求婚されました」
亮の表情が止まった。
玲奈は慌てる。
「断りました」
「……そうですか」
短い返事。
「はい」
玲奈は少しだけ緊張した。
「私、隼人さんのところへ戻りました」
「知っております」
「そうですよね」
護衛なのだから当然だ。
少し歩く。
玲奈は勇気を出して言った。
「亮さん」
「はい」
「私、ずっと甘えていました」
亮が玲奈を見る。
「寂しい時に」
「泣きたい時に」
「亮さんなら聞いてくれるって」
胸が少し苦しい。
「それで、もし亮さんを期待させていたなら……ごめんなさい」
亮はしばらく何も言わなかった。
春の終わりの風が吹く。
並木道の葉が揺れる。
「玲奈さん」
「はい」
「謝らないでください」
穏やかな声。
「俺が勝手に好きになっただけです」
玲奈の胸が痛んだ。
やはり。
そうだった。
「……いつから?」
思わず聞いてしまった。
亮は少しだけ笑った。
「聞きますか」
「すみません」
「最初は」
亮は前を向く。
「守らなければいけない人でした」
「はい」
「それがいつの間にか」
少しだけ声が柔らかくなる。
「笑っていてほしい人になりました」
玲奈は何も言えなかった。
「でも」
亮は続ける。
「旦那様と話した後の玲奈さんを見て」
「はい」
「俺では駄目なんだと分かりました」
玲奈の胸が締めつけられる。
「亮さん」
「だから、これで終わりにします」
すぐに。
そんなふうに。
簡単にはできないはずなのに。
亮は笑った。
「護衛は続けます」
「いいんですか?」
「仕事ですから」
玲奈は少しだけ笑った。
最後まで。
亮らしい。
「ありがとうございます」
「はい」
「でも」
亮の目が少し鋭くなる。
「旦那様がまた玲奈さんを泣かせたら」
玲奈は瞬きをする。
「その時は、もう一度考えます」
「何を?」
「奪うかどうか」
玲奈の目が大きくなる。
「亮さん!」
初めて。
亮が声を立てて笑った。
「冗談です」
「絶対違う」
「半分は」
「半分?」
「車が来ました」
また逃げた。
玲奈は少しむっとしながらも。
最後には笑った。
寂しさはある。
でも。
この人の優しさに助けられたことを。
玲奈はきっと忘れない。
午後六時半。
黒川邸。
玲奈がリビングへ入ると。
隼人がいた。
珍しく。
ジャケットを脱ぎ。
ネクタイも緩めている。
テーブルの上には仕事の資料がない。
「……本当に早い」
思わず口にした。
隼人が玲奈を見る。
「何だ」
「帰ってくるって言っても、七時半くらいだと思ってました」
「六時には会社を出た」
玲奈は少し驚く。
「そんなに早く?」
「ああ」
「仕事は?」
「明日やる」
以前なら。
絶対に言わなかった。
玲奈は少しだけ笑う。
「変わりましたね」
「誰のせいだ」
「私?」
「ああ」
隼人が悪びれず言う。
玲奈は隣のソファへ座った。
「悪い変化ですか?」
「分からない」
「そこは良いって言ってください」
隼人がほんの少し笑う。
「努力する」
それでも十分。
玲奈は笑った。
「今日」
隼人が言う。
「香月の異動が済んだ」
「……はい」
玲奈は静かに聞く。
「今後、俺の予定に香月が関わることはほとんどない」
「そこまで説明してくれなくても大丈夫です」
「必要だろ」
「昨日までなら」
玲奈は少し考える。
「今は、隼人さんが説明してくれるって分かったから」
隼人の表情が少し変わる。
玲奈は続ける。
「疑ったら聞きます」
「……ああ」
「勝手に思い込まないようにします」
「俺も」
「はい?」
「言う」
玲奈は目を瞬く。
隼人は少し言いにくそうだった。
「必要なことは」
「ちゃんと?」
「ああ」
「嫉妬した時も?」
隼人の顔が固まる。
玲奈が笑う。
「そこは別」
「どうしてですか」
「言わなくても分かるだろ」
「分かりません」
「玲奈」
「ちゃんと言うって今言いました」
隼人が額へ手を当てる。
玲奈は楽しそうに笑った。
これまで。
隼人が困ると、自分まで不安になった。
今は違う。
隼人の困った顔を見て。
少し可笑しいと思える。
それだけ。
二人の間に安心が増えたのだと思う。
夕食。
今日は。
長いテーブルではなく。
小さなダイニングルームを使った。
玲奈が以前、
「二人だけなのに、大きなテーブルは寂しい」
と口にしたことを。
隼人が覚えていたらしい。
小さな丸テーブル。
隣ではなく向かい側でも、手を伸ばせば届く距離。
「隼人さん」
「何だ」
「セロリ、嫌いなんですよね」
隼人のフォークが止まる。
玲奈が笑う。
「知ってます」
「香月から聞いたのか」
一瞬。
少しだけ空気が変わる。
でも。
玲奈は首を横に振った。
「以前、食事の時に聞きました」
「ああ」
「今度から」
玲奈は料理を見る。
「私にも、好きなものと嫌いなものを教えてください」
「なぜ」
「妻だから」
以前なら。
その言葉は玲奈を苦しめた。
今は。
自分から言える。
「香月さんより隼人さんのことを知りたいからじゃありません」
玲奈は笑った。
「私が知りたいからです」
隼人はしばらく玲奈を見る。
そして。
「ああ」
静かに答えた。
「何から聞く」
玲奈は少し考える。
「では」
楽しそうに指を折る。
「好きな食べ物」
「魚」
「広すぎます」
「焼いたもの」
「もう少し詳しく」
「面倒だな」
「ちゃんと答えるって約束しました」
「そんな約束はしてない」
「似たようなものです」
隼人が小さく息を吐く。
けれど。
答えてくれた。
好きな魚。
苦手な野菜。
コーヒーは朝だけ二杯飲むこと。
疲れていると食べなくなる癖。
そして。
好きな本。
好きな映画。
子供の頃に苦手だったもの。
仕事とは関係のない話。
玲奈が知りたかった隼人。
美月が知っていた『社長としての隼人』ではなく。
玲奈だけがこれから知っていく。
一人の男性としての。
黒川隼人。
その夜。
二人は初めて。
食事が終わってもすぐ席を立たなかった。
話すことがなくなるまで。
ゆっくり。
何でもない会話を続けた。
それだけの時間が。
玲奈には。
どんな高価な誕生日プレゼントよりも嬉しかった。

