触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

黒川邸へ戻った翌朝。

玲奈は、いつもより少し早く目を覚ました。

窓の外には柔らかな朝日が広がっている。

カーテンの隙間から入り込んだ光が、床の上に細長く伸びていた。

見慣れた寝室。

数日前まで暮らしていた部屋なのに。

一条家から戻ってきた今は、少しだけ違って見える。

ここは黒川家から与えられた部屋。

そう思っていた。

けれど昨夜からは。

自分で戻ると決めた場所になった。

玲奈はベッドの上で身体を起こした。

左手を見る。

薬指には結婚指輪。

そしてドレッサーの上には、隼人から誕生日にもらった花のネックレスが置いてある。

昨日まで。

この二つを見るたびに複雑だった。

自分は本当に妻なのか。

隼人にとって必要な存在なのか。

そんなことばかり考えていた。

今は――。

「……妻、なんだよね」

自分で呟いて。

途端に恥ずかしくなる。

昨夜。

玄関ホールで。

『私、これからもあなたの妻でいたいです』

あんなことを言った。

しかも。

隼人に抱きしめられて。

『触ってもいいか』

なんて聞かれて。

思い出すだけで頬が熱くなる。

「もう……」

玲奈は枕へ顔を埋めた。

昨日の自分は、どうしてあんなに大胆だったのだろう。

嬉しかった。

それだけだ。

隼人が好きだと分かって。

自分も隼人を選べると分かって。

感情のままに言葉が出た。

けれど一晩経つと。

とんでもなく恥ずかしい。

「玲奈様」

扉の外から佐和子の声がした。

玲奈は慌てて顔を上げる。

「はい!」

「ご朝食のお支度が整いました」

「今行きます」

いつもより大きな声になった。

佐和子が扉の向こうで少し笑ったような気がした。

玲奈はベッドから降りる。

着替え。

髪を整え。

最後に。

少し迷ってから。

花のネックレスを手に取った。


ダイニングへ入ると。

隼人はすでにいた。

玲奈の足が一瞬止まる。

いつものように黒いスーツ。

新聞ではなく、タブレットを手にしている。

何も変わらない朝。

なのに。

玲奈の心臓だけが、昨日までとは違う。

隼人が顔を上げる。

目が合う。

「おはよう」

「……おはようございます」

なぜ敬語になったのか。

自分でも分からない。

玲奈は少し早足で席へ向かった。

以前と同じ。

長いテーブルの向かい側。

けれど。

座ろうとしたところで。

「玲奈」

「はい?」

隼人が自分の隣の椅子を見る。

「こっちへ座れ」

玲奈は目を瞬いた。

「え?」

「遠い」

それだけ。

でも。

胸が強く鳴った。

今まで。

ずっと向かい側だった。

大きなテーブルの端と端。

夫婦なのに。

声を少し張らなければ普通に会話もできない距離。

「……ここ?」

玲奈が隼人の隣の椅子を指す。

「ああ」

玲奈は少し迷いながら移動した。

椅子を引く。

座る。

近い。

思っていた以上に。

隼人の腕がすぐ隣にある。

手を伸ばせば触れられる距離。

玲奈は急に落ち着かなくなった。

佐和子が紅茶を置く。

その表情が。

明らかに楽しそうだ。

玲奈は小声で言った。

「佐和子さん」

「はい?」

「笑ってません?」

「いいえ」

「絶対笑ってます」

「気のせいでございます」

絶対に違う。

玲奈が少しむっとしている横で。

隼人がふと目を止めた。

「それ」

玲奈は顔を向ける。

「何ですか?」

隼人の視線が、玲奈の首元へ落ちる。

花のネックレス。

玲奈の頬が少し熱くなる。

「……つけてみました」

「そうか」

それだけ。

いつもなら。

玲奈は少し不満に思ったかもしれない。

でも今は。

隼人の口元がほんの少しだけ緩んだのが分かった。

「似合いますか?」

あえて聞いた。

隼人が玲奈を見る。

「似合う」

「即答」

「聞いたのは玲奈だろう」

「そうですけど」

玲奈は嬉しくなって、紅茶へ視線を落とした。

すると。

隼人の手が伸びてきた。

玲奈の髪を少し避ける。

ネックレスの留め具を見る。

「曲がってる」

「え?」

「後ろ」

隼人の指が、玲奈の首筋近くへ触れる。

ほんの少し。

それだけなのに。

玲奈の肩がびくっと揺れた。

隼人の手が止まる。

「……嫌だったか」

「違います!」

あまりにも早く否定してしまった。

隼人の眉が少し上がる。

玲奈は恥ずかしくなった。

「急だったから」

「そうか」

「それだけです」

「分かった」

隼人はゆっくり留め具を直した。

触れる指先は慎重だった。

昨夜。

『触っていいか』

そう聞いてくれたことを、ちゃんと覚えている。

そのことが。

玲奈には何より嬉しかった。


朝食の途中。

隼人のスマートフォンが震えた。

画面を確認した隼人の表情が、少し仕事のものへ戻る。

「何かありました?」

「ああ」

玲奈は少しだけ身構えた。

以前なら。

美月からの連絡かもしれない。

そう考えて胸がざわついた。

隼人は隠さなかった。

「人事からだ」

「……香月さん?」

「ああ」

玲奈の手が少し止まる。

隼人は続けた。

「今日付で、正式に経営企画室への異動が決まった」

玲奈はしばらく黙った。

予想していた。

それでも。

実際に聞くと複雑だった。

「辞めさせるわけではないんですね」

「仕事の能力まで否定するつもりはない」

隼人らしい答えだった。

「ただ、俺の専属には戻さない」

「……はい」

「玲奈」

「何ですか?」

隼人は少し言葉を選ぶ。

「不満か」

玲奈は首を横に振った。

「いいえ」

「ではなぜその顔だ」

「その顔って何ですか」

「複雑そうだ」

玲奈は少し考えた。

正直に言う。

「香月さんがしたことは、許せないです」

SNSの写真。

誕生日の予定。

ホテルでの匂わせ。

玲奈を傷つけるために意図的に行ったこと。

許す必要はないと思う。

「でも」

玲奈は紅茶へ視線を落とす。

「七年間、隼人さんを好きだったこと自体は……悪いことじゃないから」

隼人は何も言わない。

「私も、隼人さんを好きだから」

好きな人が自分を見てくれない苦しさ。

少しだけなら分かる。

「だから少しだけ、かわいそうだなって思っただけです」

隼人の眉が寄る。

「玲奈」

「はい?」

「そこまで考える必要はない」

「でも――」

「俺は同情で玲奈を選んだわけじゃない」

思いがけない言葉。

玲奈は目を瞬く。

「香月に同情して何かを変えるつもりもない」

はっきりしている。

隼人はこういうところだけは迷わない。

玲奈は少し笑った。

「隼人さんって、時々すごく冷たいですね」

「そうか」

「でも」

玲奈はネックレスへ指を触れた。

「今は、それでいいと思います」

美月に期待を持たせるような曖昧さを残すほうが。

きっと残酷だから。


午前十時。

黒川ホールディングス。

美月は段ボール箱へ自分の荷物を入れていた。

七年間使ったデスク。

ペン立て。

名刺ケース。

海外出張先で買った小さな置物。

すべてを。

一つずつ。

箱へ移す。

周囲の社員たちは、どう声をかければいいか迷っているようだった。

異動理由は公表されていない。

けれど。

美月のSNS投稿が社内で話題になったことは、誰もが知っている。

「香月さん」

奈緒が近づいてきた。

「何?」

以前なら。

美月は奈緒に細かく仕事の指示を出していた。

今は。

立場が変わった。

「社長の今日の予定について、確認したいことが」

美月の指が止まる。

「もう私の仕事じゃないでしょう」

奈緒が少し困った顔をする。

「……そうですね」

美月は箱へ視線を落とした。

「会議資料は共有フォルダに入れてある」

「はい」

「海外顧客の好みや注意点は一覧にしてあるから」

「ありがとうございます」

「それと――」

いつものように。

隼人の食事。

体調。

癖。

全部を説明しそうになった。

けれど。

美月は止めた。

もう。

そこまで口を出す必要はない。

いや。

出してはいけない。

「……何でもない」

奈緒が少し驚く。

美月は箱の蓋を閉じた。

「七年間、お疲れ様でした」

奈緒が言う。

その言葉に。

胸が少しだけ痛んだ。

「ありがとう」

美月は笑った。

今度の笑顔には。

昨日までのような棘はなかった。

ただ。

ひどく疲れていた。

デスクを離れる。

最後に。

隼人の執務室の扉を見る。

七年間。

毎日。

何度この扉を開けたのだろう。

『隼人さん』

そう呼べば。

いつも、

『仕事中は社長と呼べ』

と少し嫌そうな顔をされた。

それでも。

本気で止められるまでは。

どこか甘えていた。

自分だけは特別だと。

思いたかった。

けれど。

違った。

最後まで。

美月は秘書だった。

それを認めるまで。

ずいぶん遠回りをした。

「香月さん」

奈緒が呼ぶ。

美月は振り返らず答えた。

「何?」

「お元気で」

美月は少しだけ立ち止まる。

「同じ会社よ」

「そうでした」

小さな笑い。

美月も。

ほんの少しだけ笑った。

そして。

今度こそ。

執務室の前から離れた。


昼過ぎ。

玲奈は大学で講義を受けていた。

けれど。

少しだけ集中できなかった。

理由は。

朝。

隼人に言われた一言。

『今夜は早く帰る』

以前なら。

それだけ。

でも今日は違う。

『夕食を一緒に食べたい』

隼人が。

自分からそう言った。

命令でも。

予定確認でもない。

一緒に食べたい。

その言い方が嬉しかった。

「玲奈」

隣の美緒が小声で呼ぶ。

「何?」

「顔」

「また?」

「さっきからずっと笑ってる」

玲奈は慌てて口元を押さえる。

「笑ってない」

「笑ってる」

「講義中だから静かにして」

「はいはい」

美緒は楽しそうに前を向いた。

玲奈もノートへ視線を戻す。

けれど。

ペンを動かしながら。

また少しだけ笑ってしまった。


午後四時。

講義を終えて外へ出る。

正門近くには亮が待っていた。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です」

玲奈は自然に笑う。

亮が少しだけ玲奈を見る。

「今日は黒川邸へ?」

「はい」

「承知しました」

二人で車へ向かう。

途中。

玲奈は少し考えてから亮へ声をかけた。

「亮さん」

「はい」

「昨日のことなんですけど」

亮の足がほんの少し遅くなる。

玲奈は続ける。

「九条さんに求婚されました」

亮の表情が止まった。

玲奈は慌てる。

「断りました」

「……そうですか」

短い返事。

「はい」

玲奈は少しだけ緊張した。

「私、隼人さんのところへ戻りました」

「知っております」

「そうですよね」

護衛なのだから当然だ。

少し歩く。

玲奈は勇気を出して言った。

「亮さん」

「はい」

「私、ずっと甘えていました」

亮が玲奈を見る。

「寂しい時に」

「泣きたい時に」

「亮さんなら聞いてくれるって」

胸が少し苦しい。

「それで、もし亮さんを期待させていたなら……ごめんなさい」

亮はしばらく何も言わなかった。

春の終わりの風が吹く。

並木道の葉が揺れる。

「玲奈さん」

「はい」

「謝らないでください」

穏やかな声。

「俺が勝手に好きになっただけです」

玲奈の胸が痛んだ。

やはり。

そうだった。

「……いつから?」

思わず聞いてしまった。

亮は少しだけ笑った。

「聞きますか」

「すみません」

「最初は」

亮は前を向く。

「守らなければいけない人でした」

「はい」

「それがいつの間にか」

少しだけ声が柔らかくなる。

「笑っていてほしい人になりました」

玲奈は何も言えなかった。

「でも」

亮は続ける。

「旦那様と話した後の玲奈さんを見て」

「はい」

「俺では駄目なんだと分かりました」

玲奈の胸が締めつけられる。

「亮さん」

「だから、これで終わりにします」

すぐに。

そんなふうに。

簡単にはできないはずなのに。

亮は笑った。

「護衛は続けます」

「いいんですか?」

「仕事ですから」

玲奈は少しだけ笑った。

最後まで。

亮らしい。

「ありがとうございます」

「はい」

「でも」

亮の目が少し鋭くなる。

「旦那様がまた玲奈さんを泣かせたら」

玲奈は瞬きをする。

「その時は、もう一度考えます」

「何を?」

「奪うかどうか」

玲奈の目が大きくなる。

「亮さん!」

初めて。

亮が声を立てて笑った。

「冗談です」

「絶対違う」

「半分は」

「半分?」

「車が来ました」

また逃げた。

玲奈は少しむっとしながらも。

最後には笑った。

寂しさはある。

でも。

この人の優しさに助けられたことを。

玲奈はきっと忘れない。


午後六時半。

黒川邸。

玲奈がリビングへ入ると。

隼人がいた。

珍しく。

ジャケットを脱ぎ。

ネクタイも緩めている。

テーブルの上には仕事の資料がない。

「……本当に早い」

思わず口にした。

隼人が玲奈を見る。

「何だ」

「帰ってくるって言っても、七時半くらいだと思ってました」

「六時には会社を出た」

玲奈は少し驚く。

「そんなに早く?」

「ああ」

「仕事は?」

「明日やる」

以前なら。

絶対に言わなかった。

玲奈は少しだけ笑う。

「変わりましたね」

「誰のせいだ」

「私?」

「ああ」

隼人が悪びれず言う。

玲奈は隣のソファへ座った。

「悪い変化ですか?」

「分からない」

「そこは良いって言ってください」

隼人がほんの少し笑う。

「努力する」

それでも十分。

玲奈は笑った。

「今日」

隼人が言う。

「香月の異動が済んだ」

「……はい」

玲奈は静かに聞く。

「今後、俺の予定に香月が関わることはほとんどない」

「そこまで説明してくれなくても大丈夫です」

「必要だろ」

「昨日までなら」

玲奈は少し考える。

「今は、隼人さんが説明してくれるって分かったから」

隼人の表情が少し変わる。

玲奈は続ける。

「疑ったら聞きます」

「……ああ」

「勝手に思い込まないようにします」

「俺も」

「はい?」

「言う」

玲奈は目を瞬く。

隼人は少し言いにくそうだった。

「必要なことは」

「ちゃんと?」

「ああ」

「嫉妬した時も?」

隼人の顔が固まる。

玲奈が笑う。

「そこは別」

「どうしてですか」

「言わなくても分かるだろ」

「分かりません」

「玲奈」

「ちゃんと言うって今言いました」

隼人が額へ手を当てる。

玲奈は楽しそうに笑った。

これまで。

隼人が困ると、自分まで不安になった。

今は違う。

隼人の困った顔を見て。

少し可笑しいと思える。

それだけ。

二人の間に安心が増えたのだと思う。


夕食。

今日は。

長いテーブルではなく。

小さなダイニングルームを使った。

玲奈が以前、

「二人だけなのに、大きなテーブルは寂しい」

と口にしたことを。

隼人が覚えていたらしい。

小さな丸テーブル。

隣ではなく向かい側でも、手を伸ばせば届く距離。

「隼人さん」

「何だ」

「セロリ、嫌いなんですよね」

隼人のフォークが止まる。

玲奈が笑う。

「知ってます」

「香月から聞いたのか」

一瞬。

少しだけ空気が変わる。

でも。

玲奈は首を横に振った。

「以前、食事の時に聞きました」

「ああ」

「今度から」

玲奈は料理を見る。

「私にも、好きなものと嫌いなものを教えてください」

「なぜ」

「妻だから」

以前なら。

その言葉は玲奈を苦しめた。

今は。

自分から言える。

「香月さんより隼人さんのことを知りたいからじゃありません」

玲奈は笑った。

「私が知りたいからです」

隼人はしばらく玲奈を見る。

そして。

「ああ」

静かに答えた。

「何から聞く」

玲奈は少し考える。

「では」

楽しそうに指を折る。

「好きな食べ物」

「魚」

「広すぎます」

「焼いたもの」

「もう少し詳しく」

「面倒だな」

「ちゃんと答えるって約束しました」

「そんな約束はしてない」

「似たようなものです」

隼人が小さく息を吐く。

けれど。

答えてくれた。

好きな魚。

苦手な野菜。

コーヒーは朝だけ二杯飲むこと。

疲れていると食べなくなる癖。

そして。

好きな本。

好きな映画。

子供の頃に苦手だったもの。

仕事とは関係のない話。

玲奈が知りたかった隼人。

美月が知っていた『社長としての隼人』ではなく。

玲奈だけがこれから知っていく。

一人の男性としての。

黒川隼人。

その夜。

二人は初めて。

食事が終わってもすぐ席を立たなかった。

話すことがなくなるまで。

ゆっくり。

何でもない会話を続けた。

それだけの時間が。

玲奈には。

どんな高価な誕生日プレゼントよりも嬉しかった。