触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

隼人とすべてを話したからといって、翌日から何もかもが元通りになったわけではなかった。

玲奈はまだ一条家から大学へ通っている。

朝になれば昔から使っている部屋で目を覚まし、父と朝食を取る。

大学を終えれば一条化粧品へ顔を出し、新商品の企画会議に参加する。

そして夜になると――。

スマートフォンが鳴る。

以前とは違う。

隼人からだった。

『今日は何時に終わる』

『七時頃です』

『夕食は』

『父と食べます』

少し間を置いて。

『そうか』

たったそれだけ。

以前なら、

『帰れ』

と言われただろう。

あるいは、

『迎えを出す』

と勝手に決められたかもしれない。

けれど今は違う。

隼人は玲奈の予定を聞く。

それから、自分の予定も伝えてくる。

『今日は会食がある』

『香月さんも一緒ですか?』

玲奈が思い切って尋ねた時。

返事はすぐだった。

『違う、橘と佐伯が同行する』

さらに。

『香月はもう俺の秘書ではない』

そこまで書かれていた。

思わず笑ってしまった。

きっと玲奈が不安にならないように、必要以上に説明しているのだ。

あの隼人が。

一言伝えれば済むことを。

玲奈はベッドの上でスマートフォンを見ながら、小さく笑った。

少しずつ。

本当に少しずつ。

二人の関係は変わり始めていた。

でも。

玲奈はまだ黒川邸へ戻るとは言わなかった。

隼人も催促しない。

『待つ』

あの日。

そう言ってくれたから。

玲奈は、自分の答えを急いで出したくなかった。

会社のためでも。

父のためでも。

隼人が好きだと言ってくれたからでもなく。

自分自身の意思で。

選びたかった。

「玲奈様」

大学の正門を出たところで、亮が声をかけてきた。

「本日は一条本社でよろしいでしょうか」

「はい。お願いします」

護衛に戻ってからの亮は、以前と何も変わらなかった。

余計なことは聞かない。

必要以上に近づかない。

あの誕生日の夜についても、一度も口にしなかった。

それがありがたくもあり。

少し申し訳なくもあった。

車へ向かいながら。

玲奈は亮の横顔を見る。

「亮さん」

「はい」

名前で呼ぶことは、もう自然になっていた。

隼人が聞いたらまた不機嫌になるかもしれない。

そう考えると、少し可笑しい。

「今度、お礼をさせてください」

亮が玲奈を見る。

「何のお礼でしょう」

「いろいろです」

「いろいろ?」

「私が一人で泣いていた時、何度もそばにいてくれたから」

亮の歩みがほんの少し遅くなる。

玲奈は続けた。

「本当に助けてもらいました」

「仕事です」

いつもの返事。

玲奈は苦笑する。

「全部それで済ませますね」

「便利な言葉なので」

珍しく冗談めいた返事。

玲奈は笑った。

亮もほんのわずかに笑う。

それから。

少しだけ表情を変えた。

「玲奈さん」

今度は亮のほうが、様をつけなかった。

玲奈は足を止める。

亮も立ち止まった。

春より強くなった日差しが、大学前の並木道へ落ちている。

学生たちが二人の横を通り過ぎていく。

「何ですか?」

「旦那様とは……話せましたか」

玲奈は少し驚いた。

亮が自分から隼人のことを聞くのは珍しい。

「はい」

「そうですか」

それだけ。

でも。

亮の表情を見て。

玲奈は分かった。

この人には、きちんと伝えなければいけない。

「私」

玲奈は自分から言った。

「隼人さんを、もう一度信じてみたいと思っています」

亮の瞳がわずかに揺れた。

「……はい」

「でも、すぐ黒川邸へ戻るわけじゃありません」

「それでいいと思います」

やっぱり。

亮は玲奈の選択を否定しない。

「自分で決めたいんです」

「はい」

「今度は誰かのためじゃなくて」

玲奈は少しだけ笑った。

「私自身が、どうしたいのか」

亮は数秒、玲奈を見つめた。

それから静かに頷く。

「そうしてください」

「亮さん」

「玲奈さんが選んだなら」

亮の声は穏やかだった。

「俺は、それを守ります」

胸が少し痛んだ。

玲奈はもう。

亮の気持ちに気づいていた。

はっきり告白されたわけではない。

けれど。

自分を見る目。

あの誕生日の夜。

『好きな人に、自分を大切にしてほしいと思うのは普通です』

そう言ってくれた時の声。

気づかないほど、玲奈も幼くはない。

「……ありがとうございます」

それ以上。

何も言えなかった。

亮も求めなかった。

ただ。

いつものように車の扉を開けた。

「どうぞ」

「はい」

玲奈は乗り込む。

扉が閉まる直前。

亮がほんの少しだけ笑った。

それが。

なぜか少し寂しく見えた。


午後五時。

一条化粧品本社。

新商品企画会議は、これまでで一番良い雰囲気で終わった。

「スターターセットの最終試作品はこちらで進めます」

三浦部長が資料をまとめる。

「価格も予定通り三千九百八十円」

「はい」

玲奈も資料へ目を落とす。

ここまで来るのに時間がかかった。

最初は。

何も分からなかった。

売上。

原価。

広告。

販売戦略。

でも。

少しずつ勉強した。

大学の友人たちにアンケートも取った。

九条側とも何度も意見を交わした。

初めて。

自分が会社の役に立てたと実感できる商品。

「発売が楽しみですね」

玲奈が言うと。

「その前に売らないとな」

向かい側から声。

九条蓮だった。

「九条さん」

「商品は作って終わりじゃない」

「分かっています」

「本当に?」

「最近、そればっかりですね」

玲奈が少しむっとする。

会議室に笑いが広がった。

蓮も笑う。

「じゃあ今日のところは合格」

「何目線なんですか」

「取引先」

「偉そうな取引先ですね」

慎吾が少し離れた席で苦笑している。

最初に出会った頃に比べれば。

蓮と玲奈はずいぶん気軽に話せるようになっていた。

仕事仲間として。

そして。

少し年上の友人として。

会議が終わる。

社員たちが部屋を出ていく。

玲奈も資料を片づけようとした時。

「玲奈さん」

蓮に呼ばれた。

「はい?」

「少し時間ある?」

玲奈は時計を見る。

「少しなら」

「屋上行こう」

「屋上?」

「話がある」

いつもの軽さがない。

玲奈は少し不思議に思った。


一条本社の屋上には、小さな休憩用庭園がある。

社員たちが昼休みに利用する場所。

夕方の今は誰もいなかった。

街の向こうへ夕日が沈み始め、空は橙色から淡い紫へ変わっている。

蓮はフェンス近くまで歩いてから振り返った。

玲奈は少し離れたところで立ち止まる。

「話って何ですか?」

「黒川と話したんだろ」

いきなり核心。

玲奈は目を瞬いた。

「どうして分かるんですか?」

「顔」

「また?」

「最近の玲奈さん、かなり分かりやすいよ」

玲奈は少し頬を膨らませた。

「みんな同じこと言う」

「じゃあ事実だな」

蓮は笑う。

でも。

すぐに真面目な顔へ戻った。

「戻るの?」

玲奈は答えに詰まる。

「黒川のところへ」

夕方の風が吹いた。

玲奈の黒髪が揺れる。

「まだ……決めていません」

「まだ?」

「はい」

「好きなんだろ?」

玲奈は少し黙った。

以前なら。

否定したかもしれない。

今は。

「はい」

ちゃんと言える。

「好きです」

蓮の目がほんの少し細くなる。

でも笑わなかった。

「そっか」

短い返事。

少しだけ。

風の音だけが続く。

「九条さん?」

「俺さ」

蓮はフェンスへ背中を預けた。

「最初は本当に、黒川への嫌がらせ半分だったんだよ」

玲奈は眉を寄せる。

「ひどい」

「知ってる」

「私を使おうとしたんですか?」

「黒川の若い奥さんが一条の会議に出てるって聞いて、ちょっと興味を持った」

「最低」

「最後まで聞けよ」

蓮が笑う。

玲奈は腕を組んだ。

「聞いてます」

「でも」

蓮の表情が変わる。

「途中から、どうでもよくなった」

「何が?」

「黒川が」

玲奈は目を瞬いた。

蓮は玲奈をまっすぐ見る。

「君自身が面白くなった」

いつもの冗談ではない。

玲奈の胸がざわつく。

「知らないことをそのままにしない」

「意見を否定されたら調べ直す」

「家の会社だからって甘えない」

少しずつ。

蓮の声が優しくなる。

「それでいて、黒川のことで簡単に泣く」

「最後はいりません」

「そこも含めて」

玲奈の頬が熱くなる。

嫌な予感。

でも。

逃げてはいけない。

蓮は一歩、玲奈へ近づいた。

「玲奈さん」

「はい」

「黒川と別れるなら」

心臓が大きく鳴った。

「俺と結婚しない?」

玲奈は動けなかった。

冗談。

そう思いたかった。

でも。

蓮の顔に笑いはない。

「九条さん」

「政略じゃない」

蓮は続けた。

「一条がどうなっても関係ない」

「九条グループとの取引も関係ない」

夕日の中。

蓮の目だけが真っ直ぐ玲奈を見る。

「俺が一条玲奈を欲しい」

以前。

誰かに女として求めてもらえたら。

自分は嬉しいのではないかと思ったことがある。

隼人は触れてくれない。

妻として欲しがっているのか分からない。

美月のような女性のほうが似合う。

そんな不安の中で。

誰かが自分を求めてくれたなら。

その人を選べば、もっと楽なのではないかと。

ほんの少し。

考えたこともあった。

でも今。

実際に言われて。

玲奈の心に浮かんだ答えは。

驚くほどはっきりしていた。

「……ありがとうございます」

玲奈は頭を下げた。

蓮が小さく息を吐く。

「その言い方、もう答え分かった」

「すみません」

「謝るなって」

玲奈は顔を上げる。

「九条さんに会えて良かったです」

「それ、振る時によく言うやつ」

「本当に」

玲奈は笑った。

「私、自分に何ができるか分からなかったから」

蓮は黙っている。

「九条さんが、ちゃんと私の意見を聞いてくれた」

「仕事では厳しかったですけど」

「俺、優しかっただろ」

「どこが?」

「そこは肯定しろよ」

玲奈が笑う。

蓮も少し笑った。

そして。

玲奈はきちんと言った。

「でも、私は隼人さんが好きです」

胸に迷いはなかった。

「だから」

一度息を吸う。

「九条さんとは結婚できません」

蓮は空を見上げた。

「……知ってた」

「え?」

「たぶん無理だろうなって」

「だったらどうして」

「言わないまま終わるの嫌だから」

蓮らしい。

玲奈は少し笑った。

「ありがとうございます」

「もう一回言ったら怒るぞ」

「では、言いません」

「それでいい」

蓮はフェンスから離れる。

そして玲奈の横を通り過ぎる直前。

「でも」

足を止める。

「黒川がまた君を泣かせたら」

玲奈が振り返る。

蓮は少し意地悪そうに笑った。

「今度は遠慮しない」

「九条さん」

「離婚届持って俺のところへ来い」

「行きません」

「即答か」

「はい」

「可愛くないな」

「十九歳ですから」

玲奈が言うと。

蓮は声を上げて笑った。



その夜。

玲奈は父の書斎を訪れた。

慎吾はデスクで資料を読んでいた。

「お父様」

「どうした」

「少しいい?」

「ああ」

玲奈は父の向かいへ座る。

少し緊張していた。

「一条の会社」

慎吾が顔を上げる。

「うん」

「黒川からの支援って……今どのくらい必要?」

父の表情が変わる。

「なぜ聞く」

「ちゃんと知りたいから」

慎吾は資料を閉じた。

「資本提携そのものは続いているが、当初ほど依存はしていない」

「本当に?」

「ああ」

新商品の開発。

九条を含めた販路拡大。

不採算事業の整理。

この数か月で、一条化粧品は少しずつ立ち直っている。

「今すぐ黒川との提携を切っても平気、とは言わん」

慎吾は現実的に言った。

「だが、お前の婚姻がなければ会社が潰れるという状態では、もうない」

玲奈はゆっくり息を吐いた。

胸の奥にあった最後の鎖が。

ほどけるようだった。

「そう」

「玲奈」

父は娘を見る。

「黒川君と何か決めるのか」

玲奈は少し考えた。

「うん」

「離婚?」

「違う」

即答。

自分でも驚く。

慎吾の目が少し和らぐ。

玲奈は笑った。

「私、やっと分かったの」

「何が」

「今まで私」

玲奈は自分の左手を見る。

結婚指輪。

一条家へ来てからも外さなかった。

「会社のために隼人さんの妻になったと思ってた」

それは事実だ。

始まりは。

「だから、会社が助かったら……私は隼人さんの隣にいる理由がなくなるんだって、どこかで思ってた」

慎吾は黙って聞いている。

「でも」

玲奈は指輪を指先でなぞった。

「違った」

「……」

「会社がなくても」

「黒川家との約束がなくても」

胸の奥が温かい。

「私は隼人さんのそばにいたい」

自分で言って。

初めて。

完全に答えが出た。

「それが分かったから」

玲奈は顔を上げる。

「黒川邸へ帰ろうと思う」

慎吾はしばらく何も言わなかった。

そして。

「そうか」

たったそれだけ。

玲奈は少し拍子抜けした。

「反対しないの?」

「してほしいのか?」

「そうじゃないけど」

慎吾は小さく笑う。

「前にお前が嫁いだ時とは違う」

「違う?」

「あの時のお前は、一条の会社を背負っていた」

玲奈は黙る。

「今は自分で決めている」

父の声は優しかった。

「なら、俺が止める理由はない」

目の奥が熱くなる。

「お父様」

「ただし」

慎吾の顔が急に真剣になる。

「また泣いて帰ってきたら、次は簡単に返さない」

玲奈は思わず笑った。

「はい」


午後九時。

黒川邸。

隼人は書斎にいた。

デスクの上には仕事の資料。

けれど。

ほとんど進んでいない。

スマートフォンを見る。

玲奈からの連絡はない。

今日は。

九条との打ち合わせがあることを聞いていた。

本当なら。

気になって仕方がなかった。

何時に終わるのか。

二人きりではないか。

蓮が余計なことを言わないか。

何度も連絡したくなった。

でも。

我慢した。

玲奈が自分で決めると言った。

待つと言ったのは自分だ。

「……長い」

思わず呟く。

たった数日。

それなのに。

黒川邸はひどく静かだった。

以前も静かな家だった。

それを何とも思わなかった。

玲奈が来てから。

朝食の席で小さく文句を言う声が増えた。

帰宅すれば、

『おかえりなさい』

と聞こえるようになった。

リビングには大学の教科書が置かれ。

冷蔵庫には玲奈が買ってきた見慣れない菓子が増え。

庭には玲奈が好きだという白い花が植えられた。

いなくなって初めて分かった。

いつの間にか。

この家のあちこちに玲奈がいる。

「隼人様」

ノック。

佐和子だった。

「何だ」

「少々よろしいでしょうか」

「入れ」

扉が開く。

佐和子はなぜか少し笑っていた。

「お客様がお見えです」

隼人の眉が寄る。

「こんな時間に誰だ」

「玄関へお越しいただければ、お分かりになるかと」

「誰なのか言え」

「ご自分で」

妙に楽しそう。

隼人は立ち上がった。

何だ。

こんな時間に。

玄関ホールへ向かう。

階段を下りる。

そして。

途中で。

足が止まった。

玄関に。

一人の女性が立っている。

淡いベージュのワンピース。

長い黒髪。

足元には小さな旅行鞄。

隼人を見つけると。

大きな焦げ茶色の瞳が少しだけ揺れた。

「……玲奈?」

本当に。

しばらく理解できなかった。

玲奈が。

ここにいる。

「こんばんは」

少し緊張した声。

隼人は階段を下りた。

いつもより速い。

玲奈の前まで来る。

「どうした」

口から出たのは。

ひどく間の抜けた言葉だった。

玲奈が少し笑う。

「帰ってきました」

隼人の表情が止まる。

「……帰ると、言ってなかった」

「言ってません」

「なぜ」

「自分で決めてから言おうと思ったから」

隼人は玲奈を見る。

「決めた?」

「はい」

玲奈の手が、左手の結婚指輪へ触れる。

緊張している。

心臓がうるさい。

でも。

もう逃げない。

「一条の会社」

「……ああ」

「まだ黒川家との提携は必要です」

隼人の表情が少し硬くなる。

玲奈はすぐ続けた。

「でも、私があなたと結婚していないと会社が潰れる状態では、もうありません」

隼人は黙る。

「だから」

玲奈は一度、息を吸った。

「もし私が隼人さんと別れたいなら」

言葉にするだけで。

隼人の目が険しくなる。

「今なら、会社を理由にせず離れられます」

「玲奈」

「最後まで聞いてください」

隼人が口を閉じる。

玲奈はまっすぐ夫を見た。

「今日」

「九条さんに、結婚してほしいと言われました」

隼人の顔が完全に固まった。

空気が変わる。

「……何?」

声が低い。

玲奈は危うく笑いそうになる。

本当に。

分かりやすくなった。

「離婚するなら、自分と結婚しないかって」

「九条……」

今すぐ電話でもしそうな顔。

玲奈は慌てて続ける。

「断りました」

隼人の動きが止まる。

「……断った?」

「はい」

「なぜ」

玲奈は一瞬。

呆気に取られた。

「なぜって……」

隼人自身も。

聞いてから気づいたらしい。

少し気まずそうに目を逸らす。

玲奈はとうとう笑った。

「そこ、聞くんですか?」

「……確認だ」

「隼人さん」

「何だ」

玲奈は笑顔を消す。

そして。

今までで一番。

素直な気持ちを言葉にした。

「私が好きなのは、隼人さんだからです」

隼人の目が見開かれた。

玲奈の頬も熱い。

でも。

言えた。

「会社のためじゃありません」

一歩。

隼人へ近づく。

「黒川家のためでもありません」

もう一歩。

「お父様に言われたからでもないです」

玲奈は隼人の前に立つ。

「私が決めました」

そして。

自分から。

隼人の手を取った。

大きな手。

今まで。

何度か触れた。

でも。

玲奈から取るのは初めてだった。

隼人の指がわずかに動く。

「玲奈」

「はい」

玲奈は笑った。

少しだけ涙が滲んでいる。

「私、これからもあなたの妻でいたいです」

隼人は何も言わなかった。

一秒。

二秒。

玲奈が不安になる。

「隼人さん?」

「……今」

やっと声が出る。

「何と言った」

玲奈は目を瞬いた。

「聞こえなかったんですか?」

「もう一度」

「嫌です」

「玲奈」

「恥ずかしいので一回だけです」

隼人の眉が寄る。

「大事なところだ」

「ちゃんと聞いていたでしょう?」

「聞いていた」

「なら――」

次の瞬間。

隼人の腕が玲奈の腰へ回った。

玲奈の身体が引き寄せられる。

「きゃっ」

胸元へぶつかる。

驚いて顔を上げると。

すぐ近くに隼人の顔。

今まで。

こんなに近づいたことはなかった。

玲奈の心臓が跳ねる。

隼人も。

少しだけ苦しそうな顔をしていた。

「……触ってもいいか」

あの日と同じ問い。

玲奈の胸が温かくなる。

「もう触ってます」

「そういう意味じゃない」

低い声。

玲奈にも。

意味は分かった。

頬が熱くなる。

でも。

逃げなかった。

「はい」

小さく答える。

隼人の腕へ、自分から手を添える。

「いいです」

その言葉を聞いた瞬間。

隼人の表情が変わった。

けれど。

すぐには何もしなかった。

確認するように玲奈の目を見る。

本当に嫌ではないか。

そんなふうに。

玲奈は小さく笑う。

そして。

ほんの少しだけ背伸びをした。

「隼人さん」

「何だ」

「今度は待たせないでください」

隼人の目が揺れる。

「……分かった」

そう答えた声は。

今まで玲奈が聞いたことのないほど優しかった。

玄関ホールには。

少し離れたところで佐和子たち使用人がいる。

だから。

二人はそれ以上近づかなかった。

玲奈も。

今はそれで十分だった。

隼人の胸元へ額を預ける。

腕が少し強くなる。

「おかえり」

耳元で聞こえた。

玲奈は目を閉じた。

ずっと。

聞きたかった言葉のような気がした。

「ただいま」

会社を救うために始まった結婚。

愛されていないと思って。

何度も泣いて。

何度も諦めようとした。

けれど。

今は違う。

玲奈は。

誰かに選ばれたから、ここにいるのではない。

自分が。

この人を選んだ。

そして初めて。

黒川邸を――。

本当の意味で。

自分の帰る家だと思えた。