扉が閉じる音が、いつもより大きく聞こえた。
黒川ホールディングス最上階。
窓の向こうには、夕暮れの東京が広がっている。
沈みかけた太陽が高層ビルの窓を赤く染め、道路を走る車は小さな光の粒のようだった。
広い執務室にいるのは、玲奈と隼人の二人だけ。
玲奈はソファの前に立ったまま、どうしていいか分からず指先を重ねた。
つい数分前。
この部屋から出ていった美月。
そして、その直前に聞いてしまった隼人の言葉。
『それでも玲奈じゃなければ意味がない』
『帰ってきてほしい』
『俺を選んでほしい』
何度思い返しても、胸が熱くなる。
聞き間違いではない。
確かに隼人の声だった。
玲奈へ聞かせるために言った言葉でもない。
だからこそ信じられる。
けれど――。
それでも、分からないことはたくさん残っていた。
「座れ」
先に口を開いたのは隼人だった。
いつもの低い声。
玲奈は顔を上げる。
「はい」
向かい合う形でソファへ座った。
隼人も腰を下ろす。
テーブルを挟んでいるのに。
今日はいつもより距離が近く感じた。
玲奈は膝の上で手を握る。
何から聞けばいいのだろう。
本当は山ほどある。
美月のこと。
隼人の気持ち。
この結婚のこと。
そして。
ずっと玲奈の胸に引っかかってきたこと。
玲奈が迷っていると、隼人が口を開いた。
「まず」
「はい」
「香月の件は俺の責任だ」
玲奈は少し驚いて夫を見る。
「隼人さんの?」
「ああ」
「でも、SNSへ投稿したのは香月さんでしょう?」
「それ以前の話だ」
隼人は視線を少し落とした。
「俺が距離を曖昧にした」
玲奈は黙って聞く。
「俺にとって香月は仕事のできる秘書だった。それ以上でも、それ以下でもない」
昨日も聞いた。
それでも。
今日もう一度、隼人自身の口から聞けることが嬉しかった。
「だから、俺は気にしなかった」
「何をですか?」
「名前で呼ばれることも。ネクタイに触れられることも。ジャケットを使われることも」
玲奈の指先がわずかに動く。
全部。
玲奈が傷ついたことだ。
「俺に意味がなかったから、玲奈にも意味がないと思っていた」
隼人が苦い顔をする。
「馬鹿だった」
玲奈は思わず瞬きをした。
隼人が。
自分で自分を馬鹿だと言った。
「隼人さんでも、そういうこと言うんですね」
「玲奈」
少しだけ呆れた顔。
玲奈の口元が緩む。
けれど、すぐ真面目な表情へ戻った。
「……私、本当に嫌だったんです」
「ああ」
「香月さんが隼人さんに触れるの」
言葉にすると、まだ胸が痛む。
「会社へ行くたび、私が知らない隼人さんを香月さんが知っていて」
「……」
「好きな食べ物も、予定も、仕事も」
玲奈は俯いた。
「私より香月さんのほうが、ずっと隼人さんの妻みたいに見えました」
隼人の眉が寄る。
「それはない」
「私にはそう見えたんです」
「玲奈」
「だって私は何も知らなかったから」
玲奈は顔を上げる。
「聞いても、隼人さんはあまり話してくれないでしょう?」
「だから勝手に想像しました」
玲奈は小さく息を吐く。
「香月さんが好きなのかもしれない」
「違う」
今度はすぐだった。
「はい。今は分かっています」
「一度もない」
「もう分かりましたって」
玲奈が少し笑う。
隼人はそれでも念を押すように言った。
「本当にない」
その真剣な顔が。
少し可笑しくて。
少し嬉しい。
玲奈は初めて、胸の奥にあった美月への不安が静かに薄れていくのを感じた。
でも。
それが消えたことで。
もっと大きな疑問が残る。
玲奈の笑顔が消えた。
「では」
隼人が玲奈を見る。
「何だ」
玲奈は少し迷ってから。
ずっと聞きたかったことを口にした。
「どうして……私には触れなかったんですか?」
隼人の表情が固まった。
玲奈の頬が熱くなる。
それでも目を逸らさなかった。
「結婚した夜から」
声が少し小さくなる。
「ずっと別の部屋でした」
「ああ」
「十八歳だったからだって言いましたよね」
「そうだ」
「でも、それだけじゃないって」
以前。
そう言われた。
玲奈は何度、その理由を考えただろう。
自分に魅力がない。
子供だから。
美月のような大人の女性が好きだから。
政略結婚だから。
どれも玲奈を傷つけた。
「本当の理由を、教えてください」
隼人は答えない。
玲奈は待った。
今度は逃げたくなかった。
隼人にも、逃げてほしくない。
しばらくして。
隼人が深く息を吐いた。
「……怖かった」
玲奈の目が大きくなる。
聞き間違いかと思った。
「隼人さんが?」
「ああ」
「何がですか?」
隼人はすぐには答えなかった。
窓の向こうへ一度視線を向ける。
いつもなら迷わず仕事の判断を下す男が。
言葉を探していた。
「玲奈が俺と結婚した理由だ」
玲奈の胸が少し重くなる。
「一条の会社を救うためです」
「ああ」
「それが?」
「だからだ」
隼人は玲奈を見る。
「お前は十八だった」
「……はい」
「高校を卒業したばかりで、これから大学へ行って、友人と遊んで」
声が少し低くなる。
「本来なら、これから好きな男ができてもおかしくなかった」
玲奈は黙る。
「それなのに会社のために俺と結婚した」
隼人の手がわずかに握られる。
「俺は、お前の家が困っている時に、その立場を使って妻にした男だ」
「違います」
玲奈は反射的に言った。
隼人が顔を上げる。
「私が決めました」
「それでもだ」
「お父様にも、隼人さんにも断っていいって言われました」
「でも玲奈は断れなかった」
玲奈の口が閉じる。
否定できない。
会社。
社員。
家族。
全部を考えたら。
玲奈は自分の気持ちだけを優先することはできなかった。
「そんな玲奈に」
隼人は続ける。
「結婚したからという理由だけで触れたら」
そこで一度、言葉を止めた。
「俺は一生、自分を許せないと思った」
玲奈は息をするのも忘れていた。
「だから……?」
「ああ」
「私が嫌だったんじゃなくて?」
「逆だ」
あまりに早い返事。
玲奈の胸が大きく鳴る。
「逆……?」
隼人は苦しそうに眉を寄せた。
「玲奈」
「はい」
「俺は、お前が思っているほど理性的な男じゃない」
玲奈は意味が分からず、瞬きをする。
「どういう――」
「好きでもない女なら、あんなに距離を取る必要はなかった」
玲奈の頬が一気に熱くなる。
隼人も少し視線を逸らした。
「近くにいたら触れたくなる」
玲奈は動けない。
「抱きしめたくなる」
胸が苦しいくらい鳴っている。
「でも玲奈がそれを望んでいるのか、分からなかった」
隼人は初めて。
玲奈がずっと欲しかった言葉を。
少しずつ。
不器用に口にしていく。
「俺だけが欲しがっている状態で、夫婦だからとお前に触れるのが嫌だった」
玲奈は唇を開く。
声が出ない。
今まで。
ずっと逆だと思っていた。
自分に興味がないから触れない。
女として見ていないから。
それが。
「……好きだから?」
ようやく声が出た。
隼人が玲奈を見る。
逃げ道のない問い。
「好きだから、触れなかったんですか?」
長い間。
隼人は何も言わなかった。
玲奈の胸が苦しくなる。
また答えてくれないのかと思った時。
「そうだ」
低い声。
たった二文字。
それだけで。
玲奈の目に涙が滲んだ。
「……ずるい」
「何が」
「ずるいです」
「玲奈」
「そんなこと、今まで一言も言わなかったじゃないですか」
涙が頬を伝う。
でも。
悲しいだけの涙ではなかった。
「私、ずっと……」
玲奈は目元を拭う。
「自分には魅力がないんだって」
「何?」
隼人の顔が明らかに険しくなる。
「香月さんみたいな人が好きで、私は子供だから駄目なんだって」
「誰がそんなことを言った」
「誰も言ってません」
「ならなぜ――」
「隼人さんが何も言わないからでしょう!」
今度は玲奈が少し声を上げた。
隼人が黙る。
「私だって分からないんです!」
「……悪かった」
「すぐ謝らないでください」
「ではどうしろ」
「そういうところです!」
玲奈は泣きながら、少し笑った。
隼人も困ったように眉を寄せる。
こんな会話。
今までできなかった。
夫婦なのに。
本音を言えば。
喧嘩にもなる。
困る。
恥ずかしい。
それでも。
以前のように一人で泣くより、ずっといい。
玲奈は涙を拭った。
「……いつからですか?」
隼人の動きが止まる。
「何が」
「私を好きになったの」
隼人が急に黙った。
玲奈は眉を寄せる。
「また言わないんですか?」
「……長くなる」
「聞きます」
「玲奈」
「今日は逃がしません」
十九歳の妻に言われ。
隼人が小さく息を吐いた。
「十年前のことを覚えているか」
「十年前?」
玲奈は考える。
自分が九歳になる前。
まだ母が生きていた頃。
「黒川家の別荘へ来たことがある」
「別荘……」
ぼんやり。
記憶の奥に残っている。
夏。
緑の多い場所。
黒川家と一条家の家族が集まった。
そして。
いつも一人でいた少年。
「……隼人お兄ちゃん?」
思わず昔の呼び方が出た。
隼人の顔が少しだけ変わる。
「覚えていたのか」
「少しだけ」
玲奈は記憶を辿る。
十五歳くらいの隼人。
今よりずっと細く。
でもすでに大人びていて。
他の子供たちとは遊ばず、一人で本を読んでいた。
幼い玲奈は。
何度も隼人のところへ行った。
何を話しただろう。
「私……すごく邪魔してませんでした?」
「かなり」
玲奈の顔が赤くなる。
「やっぱり」
「本を読んでいる横でずっと話していた」
「すみません」
「今さらだ」
隼人の口元がわずかに緩む。
「でも」
その表情が少し遠くなる。
「当時の俺は、家のことで荒れていた」
玲奈は黙って聞く。
黒川家。
大きな財閥。
その後継者として育てられた隼人。
今なら。
十五歳の少年にどれほど大きな重圧があったのか、少し想像できる。
「誰と話しても、黒川家の後継者として扱われた」
隼人の声は静かだった。
「父親にも、祖父にも」
「……」
「玲奈だけだった」
「私?」
「ああ」
隼人が玲奈を見る。
「俺が何者かなんて気にしていなかった」
幼い少女。
財閥も会社も知らない。
ただ。
寂しそうな少年を見つけただけ。
『隼人お兄ちゃん、どうして笑わないの?』
『笑う理由がない』
『じゃあ、玲奈が笑わせてあげる』
そんなことを言った。
微かに。
思い出した。
「……私、そんな恥ずかしいこと言ったんですか?」
「言った」
「忘れてください」
「無理だ」
玲奈は顔を手で覆った。
隼人が少し笑う。
「それから白い花を渡された」
玲奈が顔を上げる。
「花?」
「クローバーの花」
胸の奥。
懐かしい記憶。
庭で見つけた小さな白い花。
「押し花にした」
「隼人さんが?」
「ああ」
「どうして?」
「……捨てられなかった」
玲奈は夫を見つめた。
胸が温かくなる。
でも。
隼人はすぐに付け加えた。
「当時から恋愛感情があったわけじゃない」
玲奈は小さく頷く。
「当たり前です」
「ただ」
隼人の目が優しくなる。
「玲奈は、俺にとって特別だった」
その言葉に。
玲奈の胸がきゅっとなる。
「その後、何年もほとんど会わなかった」
「そうですね」
「玲奈が高校を卒業する少し前。一条家の集まりで再会した」
玲奈にも覚えがある。
あの日。
久しぶりに会った隼人。
昔の『隼人お兄ちゃん』とはまるで違っていて。
玲奈は緊張してほとんど話せなかった。
「その時ですか?」
「ああ」
「……好きになったの」
隼人は少しだけ目を逸らす。
「認めるまで時間はかかった」
「どうして?」
「七歳下だ」
「そればっかり」
玲奈が少し頬を膨らませる。
「俺には大きい」
「私にはそんなに大きくありません」
「十九歳になったばかりの人間に言われてもな」
「また子供扱い」
「そういう意味じゃない」
二人の間に。
小さな笑いが生まれた。
玲奈は胸が温かかった。
こんなふうに話したかった。
ずっと。
夫婦らしい特別なことなどなくても。
ただ。
隼人の考えていることを知りたかった。
「じゃあ」
玲奈は少し真面目な顔になる。
「一条が危なくなった時」
隼人の表情も戻る。
「助けるって言ったのは……」
「ああ」
「隼人さん?」
「最初に提携を提案したのは俺だ」
玲奈は息を呑む。
「祖父じゃないんですか?」
「祖父は採算が取れないなら切れと言った」
「……」
黒川会長らしい。
隼人は続ける。
「俺が止めた」
「どうして……」
聞く必要もない。
でも。
聞きたかった。
隼人は玲奈を見る。
「玲奈の家だからだ」
涙がまた出そうになる。
玲奈は慌てて目元を押さえた。
「今日、泣いてばっかり」
「昔からよく泣く」
「泣いてません」
「泣いていた」
「子供の頃でしょう?」
「今もだ」
玲奈はむっとする。
でも。
嬉しかった。
「結婚も……隼人さんが言ったんですか?」
そこだけ。
玲奈は少し怖かった。
もし。
会社を助ける代わりに玲奈との結婚を要求したのなら。
やはり少し複雑だ。
隼人はすぐに首を横に振った。
「違う」
玲奈が顔を上げる。
「提携の話が進んだあと、両家から結婚の話が出た」
「……はい」
「俺は最初に条件を出した」
「条件?」
「玲奈が嫌なら、この話はなしだと」
玲奈の胸が大きく鳴る。
「お前には断っていいと言っただろう」
「覚えています」
『嫌なら断っていい』
確かに。
最初に隼人から言われた。
あの時は。
自分と結婚したくないから言っているのだと思った。
「……全部、逆だったんだ」
思わず呟く。
「何が」
「私が思っていたこと」
玲奈は少し笑った。
「結婚したくないから、断っていいって言われたと思ってました」
隼人の顔が固まる。
「……なぜそうなる」
「だって隼人さん、全然嬉しそうじゃなかったし」
「嬉しかった」
「嘘」
「本当だ」
「見えませんでした」
「表に出すのが得意じゃない」
「知ってます」
今なら。
嫌というほど分かる。
玲奈は一度息を吐いた。
「でも」
少しだけ表情を曇らせる。
「私、すぐには黒川邸へ戻れません」
隼人の表情が変わった。
「……そうか」
以前なら。
『帰れ』
と言ったかもしれない。
でも今は違う。
「理由を聞いてもいいか」
ちゃんと。
玲奈へ尋ねた。
そのことが嬉しかった。
「まだ、少し怖いんです」
「俺が?」
「隼人さんだけじゃありません」
玲奈は首を横に振る。
「私自身が」
「……」
「今日こうして話せて、すごく嬉しいです」
それは本当。
「でも今まで、私は隼人さんが少し優しくしてくれるたびに期待して」
「……ああ」
「違うかもしれないと思って、また傷ついて」
玲奈は膝の上の指を見つめた。
「だから、自分の気持ちをちゃんと整理したい」
隼人は黙って聞いている。
「会社のためじゃなく」
「はい」
「お父様のためでもなく」
玲奈は顔を上げる。
「私自身が、本当に隼人さんの妻でいたいって思えたら」
声は小さかった。
でも。
はっきり言った。
「その時、自分で帰りたいです」
隼人は長く玲奈を見つめた。
「……分かった」
驚くほど静かな返事。
玲奈が少し驚く。
「怒らないんですか?」
「怒ってほしいのか」
「違います」
隼人がほんの少し笑う。
「待つ」
玲奈の胸が温かくなる。
「ただし」
「何ですか?」
「九条とは二人で会うな」
玲奈の顔から笑顔が消えた。
「隼人さん」
「……」
「せっかくいい話をしていたのに」
隼人が視線を逸らす。
「それとこれは別だ」
「別じゃありません」
「仕事でも嫌だ」
あまりに素直。
玲奈は数秒。
夫を見つめた。
そして。
笑ってしまった。
「何がおかしい」
「だって」
笑いながら涙まで出そうになる。
「やっと言った」
「何を」
「九条さんだから嫌、じゃなくて」
玲奈は隼人を見る。
「自分が嫌だからって」
隼人は黙る。
「嫉妬してるんですか?」
直球だった。
隼人の顔が固まる。
玲奈は答えを待つ。
今度は逃げさせない。
「……してる」
低い声。
玲奈の目が大きくなる。
「もう一回」
「言わない」
「聞こえませんでした」
「嘘をつけ」
「隼人さん」
「玲奈」
少し恥ずかしそうな夫。
初めて見る。
玲奈は笑った。
胸の奥にあった長い長い寂しさが。
ほんの少しずつ。
温かなものへ変わっていく。
けれど。
まだ終わりではない。
玲奈が自分で隼人を選ぶために。
そして。
隼人が妻を『守る対象』ではなく、一人の女性として向き合うために。
二人には。
まだ越えなければならないものが残っていた。
黒川ホールディングス最上階。
窓の向こうには、夕暮れの東京が広がっている。
沈みかけた太陽が高層ビルの窓を赤く染め、道路を走る車は小さな光の粒のようだった。
広い執務室にいるのは、玲奈と隼人の二人だけ。
玲奈はソファの前に立ったまま、どうしていいか分からず指先を重ねた。
つい数分前。
この部屋から出ていった美月。
そして、その直前に聞いてしまった隼人の言葉。
『それでも玲奈じゃなければ意味がない』
『帰ってきてほしい』
『俺を選んでほしい』
何度思い返しても、胸が熱くなる。
聞き間違いではない。
確かに隼人の声だった。
玲奈へ聞かせるために言った言葉でもない。
だからこそ信じられる。
けれど――。
それでも、分からないことはたくさん残っていた。
「座れ」
先に口を開いたのは隼人だった。
いつもの低い声。
玲奈は顔を上げる。
「はい」
向かい合う形でソファへ座った。
隼人も腰を下ろす。
テーブルを挟んでいるのに。
今日はいつもより距離が近く感じた。
玲奈は膝の上で手を握る。
何から聞けばいいのだろう。
本当は山ほどある。
美月のこと。
隼人の気持ち。
この結婚のこと。
そして。
ずっと玲奈の胸に引っかかってきたこと。
玲奈が迷っていると、隼人が口を開いた。
「まず」
「はい」
「香月の件は俺の責任だ」
玲奈は少し驚いて夫を見る。
「隼人さんの?」
「ああ」
「でも、SNSへ投稿したのは香月さんでしょう?」
「それ以前の話だ」
隼人は視線を少し落とした。
「俺が距離を曖昧にした」
玲奈は黙って聞く。
「俺にとって香月は仕事のできる秘書だった。それ以上でも、それ以下でもない」
昨日も聞いた。
それでも。
今日もう一度、隼人自身の口から聞けることが嬉しかった。
「だから、俺は気にしなかった」
「何をですか?」
「名前で呼ばれることも。ネクタイに触れられることも。ジャケットを使われることも」
玲奈の指先がわずかに動く。
全部。
玲奈が傷ついたことだ。
「俺に意味がなかったから、玲奈にも意味がないと思っていた」
隼人が苦い顔をする。
「馬鹿だった」
玲奈は思わず瞬きをした。
隼人が。
自分で自分を馬鹿だと言った。
「隼人さんでも、そういうこと言うんですね」
「玲奈」
少しだけ呆れた顔。
玲奈の口元が緩む。
けれど、すぐ真面目な表情へ戻った。
「……私、本当に嫌だったんです」
「ああ」
「香月さんが隼人さんに触れるの」
言葉にすると、まだ胸が痛む。
「会社へ行くたび、私が知らない隼人さんを香月さんが知っていて」
「……」
「好きな食べ物も、予定も、仕事も」
玲奈は俯いた。
「私より香月さんのほうが、ずっと隼人さんの妻みたいに見えました」
隼人の眉が寄る。
「それはない」
「私にはそう見えたんです」
「玲奈」
「だって私は何も知らなかったから」
玲奈は顔を上げる。
「聞いても、隼人さんはあまり話してくれないでしょう?」
「だから勝手に想像しました」
玲奈は小さく息を吐く。
「香月さんが好きなのかもしれない」
「違う」
今度はすぐだった。
「はい。今は分かっています」
「一度もない」
「もう分かりましたって」
玲奈が少し笑う。
隼人はそれでも念を押すように言った。
「本当にない」
その真剣な顔が。
少し可笑しくて。
少し嬉しい。
玲奈は初めて、胸の奥にあった美月への不安が静かに薄れていくのを感じた。
でも。
それが消えたことで。
もっと大きな疑問が残る。
玲奈の笑顔が消えた。
「では」
隼人が玲奈を見る。
「何だ」
玲奈は少し迷ってから。
ずっと聞きたかったことを口にした。
「どうして……私には触れなかったんですか?」
隼人の表情が固まった。
玲奈の頬が熱くなる。
それでも目を逸らさなかった。
「結婚した夜から」
声が少し小さくなる。
「ずっと別の部屋でした」
「ああ」
「十八歳だったからだって言いましたよね」
「そうだ」
「でも、それだけじゃないって」
以前。
そう言われた。
玲奈は何度、その理由を考えただろう。
自分に魅力がない。
子供だから。
美月のような大人の女性が好きだから。
政略結婚だから。
どれも玲奈を傷つけた。
「本当の理由を、教えてください」
隼人は答えない。
玲奈は待った。
今度は逃げたくなかった。
隼人にも、逃げてほしくない。
しばらくして。
隼人が深く息を吐いた。
「……怖かった」
玲奈の目が大きくなる。
聞き間違いかと思った。
「隼人さんが?」
「ああ」
「何がですか?」
隼人はすぐには答えなかった。
窓の向こうへ一度視線を向ける。
いつもなら迷わず仕事の判断を下す男が。
言葉を探していた。
「玲奈が俺と結婚した理由だ」
玲奈の胸が少し重くなる。
「一条の会社を救うためです」
「ああ」
「それが?」
「だからだ」
隼人は玲奈を見る。
「お前は十八だった」
「……はい」
「高校を卒業したばかりで、これから大学へ行って、友人と遊んで」
声が少し低くなる。
「本来なら、これから好きな男ができてもおかしくなかった」
玲奈は黙る。
「それなのに会社のために俺と結婚した」
隼人の手がわずかに握られる。
「俺は、お前の家が困っている時に、その立場を使って妻にした男だ」
「違います」
玲奈は反射的に言った。
隼人が顔を上げる。
「私が決めました」
「それでもだ」
「お父様にも、隼人さんにも断っていいって言われました」
「でも玲奈は断れなかった」
玲奈の口が閉じる。
否定できない。
会社。
社員。
家族。
全部を考えたら。
玲奈は自分の気持ちだけを優先することはできなかった。
「そんな玲奈に」
隼人は続ける。
「結婚したからという理由だけで触れたら」
そこで一度、言葉を止めた。
「俺は一生、自分を許せないと思った」
玲奈は息をするのも忘れていた。
「だから……?」
「ああ」
「私が嫌だったんじゃなくて?」
「逆だ」
あまりに早い返事。
玲奈の胸が大きく鳴る。
「逆……?」
隼人は苦しそうに眉を寄せた。
「玲奈」
「はい」
「俺は、お前が思っているほど理性的な男じゃない」
玲奈は意味が分からず、瞬きをする。
「どういう――」
「好きでもない女なら、あんなに距離を取る必要はなかった」
玲奈の頬が一気に熱くなる。
隼人も少し視線を逸らした。
「近くにいたら触れたくなる」
玲奈は動けない。
「抱きしめたくなる」
胸が苦しいくらい鳴っている。
「でも玲奈がそれを望んでいるのか、分からなかった」
隼人は初めて。
玲奈がずっと欲しかった言葉を。
少しずつ。
不器用に口にしていく。
「俺だけが欲しがっている状態で、夫婦だからとお前に触れるのが嫌だった」
玲奈は唇を開く。
声が出ない。
今まで。
ずっと逆だと思っていた。
自分に興味がないから触れない。
女として見ていないから。
それが。
「……好きだから?」
ようやく声が出た。
隼人が玲奈を見る。
逃げ道のない問い。
「好きだから、触れなかったんですか?」
長い間。
隼人は何も言わなかった。
玲奈の胸が苦しくなる。
また答えてくれないのかと思った時。
「そうだ」
低い声。
たった二文字。
それだけで。
玲奈の目に涙が滲んだ。
「……ずるい」
「何が」
「ずるいです」
「玲奈」
「そんなこと、今まで一言も言わなかったじゃないですか」
涙が頬を伝う。
でも。
悲しいだけの涙ではなかった。
「私、ずっと……」
玲奈は目元を拭う。
「自分には魅力がないんだって」
「何?」
隼人の顔が明らかに険しくなる。
「香月さんみたいな人が好きで、私は子供だから駄目なんだって」
「誰がそんなことを言った」
「誰も言ってません」
「ならなぜ――」
「隼人さんが何も言わないからでしょう!」
今度は玲奈が少し声を上げた。
隼人が黙る。
「私だって分からないんです!」
「……悪かった」
「すぐ謝らないでください」
「ではどうしろ」
「そういうところです!」
玲奈は泣きながら、少し笑った。
隼人も困ったように眉を寄せる。
こんな会話。
今までできなかった。
夫婦なのに。
本音を言えば。
喧嘩にもなる。
困る。
恥ずかしい。
それでも。
以前のように一人で泣くより、ずっといい。
玲奈は涙を拭った。
「……いつからですか?」
隼人の動きが止まる。
「何が」
「私を好きになったの」
隼人が急に黙った。
玲奈は眉を寄せる。
「また言わないんですか?」
「……長くなる」
「聞きます」
「玲奈」
「今日は逃がしません」
十九歳の妻に言われ。
隼人が小さく息を吐いた。
「十年前のことを覚えているか」
「十年前?」
玲奈は考える。
自分が九歳になる前。
まだ母が生きていた頃。
「黒川家の別荘へ来たことがある」
「別荘……」
ぼんやり。
記憶の奥に残っている。
夏。
緑の多い場所。
黒川家と一条家の家族が集まった。
そして。
いつも一人でいた少年。
「……隼人お兄ちゃん?」
思わず昔の呼び方が出た。
隼人の顔が少しだけ変わる。
「覚えていたのか」
「少しだけ」
玲奈は記憶を辿る。
十五歳くらいの隼人。
今よりずっと細く。
でもすでに大人びていて。
他の子供たちとは遊ばず、一人で本を読んでいた。
幼い玲奈は。
何度も隼人のところへ行った。
何を話しただろう。
「私……すごく邪魔してませんでした?」
「かなり」
玲奈の顔が赤くなる。
「やっぱり」
「本を読んでいる横でずっと話していた」
「すみません」
「今さらだ」
隼人の口元がわずかに緩む。
「でも」
その表情が少し遠くなる。
「当時の俺は、家のことで荒れていた」
玲奈は黙って聞く。
黒川家。
大きな財閥。
その後継者として育てられた隼人。
今なら。
十五歳の少年にどれほど大きな重圧があったのか、少し想像できる。
「誰と話しても、黒川家の後継者として扱われた」
隼人の声は静かだった。
「父親にも、祖父にも」
「……」
「玲奈だけだった」
「私?」
「ああ」
隼人が玲奈を見る。
「俺が何者かなんて気にしていなかった」
幼い少女。
財閥も会社も知らない。
ただ。
寂しそうな少年を見つけただけ。
『隼人お兄ちゃん、どうして笑わないの?』
『笑う理由がない』
『じゃあ、玲奈が笑わせてあげる』
そんなことを言った。
微かに。
思い出した。
「……私、そんな恥ずかしいこと言ったんですか?」
「言った」
「忘れてください」
「無理だ」
玲奈は顔を手で覆った。
隼人が少し笑う。
「それから白い花を渡された」
玲奈が顔を上げる。
「花?」
「クローバーの花」
胸の奥。
懐かしい記憶。
庭で見つけた小さな白い花。
「押し花にした」
「隼人さんが?」
「ああ」
「どうして?」
「……捨てられなかった」
玲奈は夫を見つめた。
胸が温かくなる。
でも。
隼人はすぐに付け加えた。
「当時から恋愛感情があったわけじゃない」
玲奈は小さく頷く。
「当たり前です」
「ただ」
隼人の目が優しくなる。
「玲奈は、俺にとって特別だった」
その言葉に。
玲奈の胸がきゅっとなる。
「その後、何年もほとんど会わなかった」
「そうですね」
「玲奈が高校を卒業する少し前。一条家の集まりで再会した」
玲奈にも覚えがある。
あの日。
久しぶりに会った隼人。
昔の『隼人お兄ちゃん』とはまるで違っていて。
玲奈は緊張してほとんど話せなかった。
「その時ですか?」
「ああ」
「……好きになったの」
隼人は少しだけ目を逸らす。
「認めるまで時間はかかった」
「どうして?」
「七歳下だ」
「そればっかり」
玲奈が少し頬を膨らませる。
「俺には大きい」
「私にはそんなに大きくありません」
「十九歳になったばかりの人間に言われてもな」
「また子供扱い」
「そういう意味じゃない」
二人の間に。
小さな笑いが生まれた。
玲奈は胸が温かかった。
こんなふうに話したかった。
ずっと。
夫婦らしい特別なことなどなくても。
ただ。
隼人の考えていることを知りたかった。
「じゃあ」
玲奈は少し真面目な顔になる。
「一条が危なくなった時」
隼人の表情も戻る。
「助けるって言ったのは……」
「ああ」
「隼人さん?」
「最初に提携を提案したのは俺だ」
玲奈は息を呑む。
「祖父じゃないんですか?」
「祖父は採算が取れないなら切れと言った」
「……」
黒川会長らしい。
隼人は続ける。
「俺が止めた」
「どうして……」
聞く必要もない。
でも。
聞きたかった。
隼人は玲奈を見る。
「玲奈の家だからだ」
涙がまた出そうになる。
玲奈は慌てて目元を押さえた。
「今日、泣いてばっかり」
「昔からよく泣く」
「泣いてません」
「泣いていた」
「子供の頃でしょう?」
「今もだ」
玲奈はむっとする。
でも。
嬉しかった。
「結婚も……隼人さんが言ったんですか?」
そこだけ。
玲奈は少し怖かった。
もし。
会社を助ける代わりに玲奈との結婚を要求したのなら。
やはり少し複雑だ。
隼人はすぐに首を横に振った。
「違う」
玲奈が顔を上げる。
「提携の話が進んだあと、両家から結婚の話が出た」
「……はい」
「俺は最初に条件を出した」
「条件?」
「玲奈が嫌なら、この話はなしだと」
玲奈の胸が大きく鳴る。
「お前には断っていいと言っただろう」
「覚えています」
『嫌なら断っていい』
確かに。
最初に隼人から言われた。
あの時は。
自分と結婚したくないから言っているのだと思った。
「……全部、逆だったんだ」
思わず呟く。
「何が」
「私が思っていたこと」
玲奈は少し笑った。
「結婚したくないから、断っていいって言われたと思ってました」
隼人の顔が固まる。
「……なぜそうなる」
「だって隼人さん、全然嬉しそうじゃなかったし」
「嬉しかった」
「嘘」
「本当だ」
「見えませんでした」
「表に出すのが得意じゃない」
「知ってます」
今なら。
嫌というほど分かる。
玲奈は一度息を吐いた。
「でも」
少しだけ表情を曇らせる。
「私、すぐには黒川邸へ戻れません」
隼人の表情が変わった。
「……そうか」
以前なら。
『帰れ』
と言ったかもしれない。
でも今は違う。
「理由を聞いてもいいか」
ちゃんと。
玲奈へ尋ねた。
そのことが嬉しかった。
「まだ、少し怖いんです」
「俺が?」
「隼人さんだけじゃありません」
玲奈は首を横に振る。
「私自身が」
「……」
「今日こうして話せて、すごく嬉しいです」
それは本当。
「でも今まで、私は隼人さんが少し優しくしてくれるたびに期待して」
「……ああ」
「違うかもしれないと思って、また傷ついて」
玲奈は膝の上の指を見つめた。
「だから、自分の気持ちをちゃんと整理したい」
隼人は黙って聞いている。
「会社のためじゃなく」
「はい」
「お父様のためでもなく」
玲奈は顔を上げる。
「私自身が、本当に隼人さんの妻でいたいって思えたら」
声は小さかった。
でも。
はっきり言った。
「その時、自分で帰りたいです」
隼人は長く玲奈を見つめた。
「……分かった」
驚くほど静かな返事。
玲奈が少し驚く。
「怒らないんですか?」
「怒ってほしいのか」
「違います」
隼人がほんの少し笑う。
「待つ」
玲奈の胸が温かくなる。
「ただし」
「何ですか?」
「九条とは二人で会うな」
玲奈の顔から笑顔が消えた。
「隼人さん」
「……」
「せっかくいい話をしていたのに」
隼人が視線を逸らす。
「それとこれは別だ」
「別じゃありません」
「仕事でも嫌だ」
あまりに素直。
玲奈は数秒。
夫を見つめた。
そして。
笑ってしまった。
「何がおかしい」
「だって」
笑いながら涙まで出そうになる。
「やっと言った」
「何を」
「九条さんだから嫌、じゃなくて」
玲奈は隼人を見る。
「自分が嫌だからって」
隼人は黙る。
「嫉妬してるんですか?」
直球だった。
隼人の顔が固まる。
玲奈は答えを待つ。
今度は逃げさせない。
「……してる」
低い声。
玲奈の目が大きくなる。
「もう一回」
「言わない」
「聞こえませんでした」
「嘘をつけ」
「隼人さん」
「玲奈」
少し恥ずかしそうな夫。
初めて見る。
玲奈は笑った。
胸の奥にあった長い長い寂しさが。
ほんの少しずつ。
温かなものへ変わっていく。
けれど。
まだ終わりではない。
玲奈が自分で隼人を選ぶために。
そして。
隼人が妻を『守る対象』ではなく、一人の女性として向き合うために。
二人には。
まだ越えなければならないものが残っていた。

