触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

扉が閉じる音が、いつもより大きく聞こえた。

黒川ホールディングス最上階。

窓の向こうには、夕暮れの東京が広がっている。

沈みかけた太陽が高層ビルの窓を赤く染め、道路を走る車は小さな光の粒のようだった。

広い執務室にいるのは、玲奈と隼人の二人だけ。

玲奈はソファの前に立ったまま、どうしていいか分からず指先を重ねた。

つい数分前。

この部屋から出ていった美月。

そして、その直前に聞いてしまった隼人の言葉。

『それでも玲奈じゃなければ意味がない』

『帰ってきてほしい』

『俺を選んでほしい』

何度思い返しても、胸が熱くなる。

聞き間違いではない。

確かに隼人の声だった。

玲奈へ聞かせるために言った言葉でもない。

だからこそ信じられる。

けれど――。

それでも、分からないことはたくさん残っていた。

「座れ」

先に口を開いたのは隼人だった。

いつもの低い声。

玲奈は顔を上げる。

「はい」

向かい合う形でソファへ座った。

隼人も腰を下ろす。

テーブルを挟んでいるのに。

今日はいつもより距離が近く感じた。

玲奈は膝の上で手を握る。

何から聞けばいいのだろう。

本当は山ほどある。

美月のこと。

隼人の気持ち。

この結婚のこと。

そして。

ずっと玲奈の胸に引っかかってきたこと。

玲奈が迷っていると、隼人が口を開いた。

「まず」

「はい」

「香月の件は俺の責任だ」

玲奈は少し驚いて夫を見る。

「隼人さんの?」

「ああ」

「でも、SNSへ投稿したのは香月さんでしょう?」

「それ以前の話だ」

隼人は視線を少し落とした。

「俺が距離を曖昧にした」

玲奈は黙って聞く。

「俺にとって香月は仕事のできる秘書だった。それ以上でも、それ以下でもない」

昨日も聞いた。

それでも。

今日もう一度、隼人自身の口から聞けることが嬉しかった。

「だから、俺は気にしなかった」

「何をですか?」

「名前で呼ばれることも。ネクタイに触れられることも。ジャケットを使われることも」

玲奈の指先がわずかに動く。

全部。

玲奈が傷ついたことだ。

「俺に意味がなかったから、玲奈にも意味がないと思っていた」

隼人が苦い顔をする。

「馬鹿だった」

玲奈は思わず瞬きをした。

隼人が。

自分で自分を馬鹿だと言った。

「隼人さんでも、そういうこと言うんですね」

「玲奈」

少しだけ呆れた顔。

玲奈の口元が緩む。

けれど、すぐ真面目な表情へ戻った。

「……私、本当に嫌だったんです」

「ああ」

「香月さんが隼人さんに触れるの」

言葉にすると、まだ胸が痛む。

「会社へ行くたび、私が知らない隼人さんを香月さんが知っていて」

「……」

「好きな食べ物も、予定も、仕事も」

玲奈は俯いた。

「私より香月さんのほうが、ずっと隼人さんの妻みたいに見えました」

隼人の眉が寄る。

「それはない」

「私にはそう見えたんです」

「玲奈」

「だって私は何も知らなかったから」

玲奈は顔を上げる。

「聞いても、隼人さんはあまり話してくれないでしょう?」


「だから勝手に想像しました」

玲奈は小さく息を吐く。

「香月さんが好きなのかもしれない」

「違う」

今度はすぐだった。

「はい。今は分かっています」

「一度もない」

「もう分かりましたって」

玲奈が少し笑う。

隼人はそれでも念を押すように言った。

「本当にない」

その真剣な顔が。

少し可笑しくて。

少し嬉しい。

玲奈は初めて、胸の奥にあった美月への不安が静かに薄れていくのを感じた。

でも。

それが消えたことで。

もっと大きな疑問が残る。

玲奈の笑顔が消えた。

「では」

隼人が玲奈を見る。

「何だ」

玲奈は少し迷ってから。

ずっと聞きたかったことを口にした。

「どうして……私には触れなかったんですか?」

隼人の表情が固まった。

玲奈の頬が熱くなる。

それでも目を逸らさなかった。

「結婚した夜から」

声が少し小さくなる。

「ずっと別の部屋でした」

「ああ」

「十八歳だったからだって言いましたよね」

「そうだ」

「でも、それだけじゃないって」

以前。

そう言われた。

玲奈は何度、その理由を考えただろう。

自分に魅力がない。

子供だから。

美月のような大人の女性が好きだから。

政略結婚だから。

どれも玲奈を傷つけた。

「本当の理由を、教えてください」

隼人は答えない。

玲奈は待った。

今度は逃げたくなかった。

隼人にも、逃げてほしくない。

しばらくして。

隼人が深く息を吐いた。

「……怖かった」

玲奈の目が大きくなる。

聞き間違いかと思った。

「隼人さんが?」

「ああ」

「何がですか?」

隼人はすぐには答えなかった。

窓の向こうへ一度視線を向ける。

いつもなら迷わず仕事の判断を下す男が。

言葉を探していた。

「玲奈が俺と結婚した理由だ」

玲奈の胸が少し重くなる。

「一条の会社を救うためです」

「ああ」

「それが?」

「だからだ」

隼人は玲奈を見る。

「お前は十八だった」

「……はい」

「高校を卒業したばかりで、これから大学へ行って、友人と遊んで」

声が少し低くなる。

「本来なら、これから好きな男ができてもおかしくなかった」

玲奈は黙る。

「それなのに会社のために俺と結婚した」

隼人の手がわずかに握られる。

「俺は、お前の家が困っている時に、その立場を使って妻にした男だ」

「違います」

玲奈は反射的に言った。

隼人が顔を上げる。

「私が決めました」

「それでもだ」

「お父様にも、隼人さんにも断っていいって言われました」

「でも玲奈は断れなかった」

玲奈の口が閉じる。

否定できない。

会社。

社員。

家族。

全部を考えたら。

玲奈は自分の気持ちだけを優先することはできなかった。

「そんな玲奈に」

隼人は続ける。

「結婚したからという理由だけで触れたら」

そこで一度、言葉を止めた。

「俺は一生、自分を許せないと思った」

玲奈は息をするのも忘れていた。

「だから……?」

「ああ」

「私が嫌だったんじゃなくて?」

「逆だ」

あまりに早い返事。

玲奈の胸が大きく鳴る。

「逆……?」

隼人は苦しそうに眉を寄せた。

「玲奈」

「はい」

「俺は、お前が思っているほど理性的な男じゃない」

玲奈は意味が分からず、瞬きをする。

「どういう――」

「好きでもない女なら、あんなに距離を取る必要はなかった」

玲奈の頬が一気に熱くなる。

隼人も少し視線を逸らした。

「近くにいたら触れたくなる」

玲奈は動けない。

「抱きしめたくなる」

胸が苦しいくらい鳴っている。

「でも玲奈がそれを望んでいるのか、分からなかった」

隼人は初めて。

玲奈がずっと欲しかった言葉を。

少しずつ。

不器用に口にしていく。

「俺だけが欲しがっている状態で、夫婦だからとお前に触れるのが嫌だった」

玲奈は唇を開く。

声が出ない。

今まで。

ずっと逆だと思っていた。

自分に興味がないから触れない。

女として見ていないから。

それが。

「……好きだから?」

ようやく声が出た。

隼人が玲奈を見る。

逃げ道のない問い。

「好きだから、触れなかったんですか?」

長い間。

隼人は何も言わなかった。

玲奈の胸が苦しくなる。

また答えてくれないのかと思った時。

「そうだ」

低い声。

たった二文字。

それだけで。

玲奈の目に涙が滲んだ。

「……ずるい」

「何が」

「ずるいです」

「玲奈」

「そんなこと、今まで一言も言わなかったじゃないですか」

涙が頬を伝う。

でも。

悲しいだけの涙ではなかった。

「私、ずっと……」

玲奈は目元を拭う。

「自分には魅力がないんだって」

「何?」

隼人の顔が明らかに険しくなる。

「香月さんみたいな人が好きで、私は子供だから駄目なんだって」

「誰がそんなことを言った」

「誰も言ってません」

「ならなぜ――」

「隼人さんが何も言わないからでしょう!」

今度は玲奈が少し声を上げた。

隼人が黙る。

「私だって分からないんです!」

「……悪かった」

「すぐ謝らないでください」

「ではどうしろ」

「そういうところです!」

玲奈は泣きながら、少し笑った。

隼人も困ったように眉を寄せる。

こんな会話。

今までできなかった。

夫婦なのに。

本音を言えば。

喧嘩にもなる。

困る。

恥ずかしい。

それでも。

以前のように一人で泣くより、ずっといい。

玲奈は涙を拭った。

「……いつからですか?」

隼人の動きが止まる。

「何が」

「私を好きになったの」

隼人が急に黙った。

玲奈は眉を寄せる。

「また言わないんですか?」

「……長くなる」

「聞きます」

「玲奈」

「今日は逃がしません」

十九歳の妻に言われ。

隼人が小さく息を吐いた。

「十年前のことを覚えているか」

「十年前?」

玲奈は考える。

自分が九歳になる前。

まだ母が生きていた頃。

「黒川家の別荘へ来たことがある」

「別荘……」

ぼんやり。

記憶の奥に残っている。

夏。

緑の多い場所。

黒川家と一条家の家族が集まった。

そして。

いつも一人でいた少年。

「……隼人お兄ちゃん?」

思わず昔の呼び方が出た。

隼人の顔が少しだけ変わる。

「覚えていたのか」

「少しだけ」

玲奈は記憶を辿る。

十五歳くらいの隼人。

今よりずっと細く。

でもすでに大人びていて。

他の子供たちとは遊ばず、一人で本を読んでいた。

幼い玲奈は。

何度も隼人のところへ行った。

何を話しただろう。

「私……すごく邪魔してませんでした?」

「かなり」

玲奈の顔が赤くなる。

「やっぱり」

「本を読んでいる横でずっと話していた」

「すみません」

「今さらだ」

隼人の口元がわずかに緩む。

「でも」

その表情が少し遠くなる。

「当時の俺は、家のことで荒れていた」

玲奈は黙って聞く。

黒川家。

大きな財閥。

その後継者として育てられた隼人。

今なら。

十五歳の少年にどれほど大きな重圧があったのか、少し想像できる。

「誰と話しても、黒川家の後継者として扱われた」

隼人の声は静かだった。

「父親にも、祖父にも」

「……」

「玲奈だけだった」

「私?」

「ああ」

隼人が玲奈を見る。

「俺が何者かなんて気にしていなかった」

幼い少女。

財閥も会社も知らない。

ただ。

寂しそうな少年を見つけただけ。

『隼人お兄ちゃん、どうして笑わないの?』

『笑う理由がない』

『じゃあ、玲奈が笑わせてあげる』

そんなことを言った。

微かに。

思い出した。

「……私、そんな恥ずかしいこと言ったんですか?」

「言った」

「忘れてください」

「無理だ」

玲奈は顔を手で覆った。

隼人が少し笑う。

「それから白い花を渡された」

玲奈が顔を上げる。

「花?」

「クローバーの花」

胸の奥。

懐かしい記憶。

庭で見つけた小さな白い花。

「押し花にした」

「隼人さんが?」

「ああ」

「どうして?」

「……捨てられなかった」

玲奈は夫を見つめた。

胸が温かくなる。

でも。

隼人はすぐに付け加えた。

「当時から恋愛感情があったわけじゃない」

玲奈は小さく頷く。

「当たり前です」

「ただ」

隼人の目が優しくなる。

「玲奈は、俺にとって特別だった」

その言葉に。

玲奈の胸がきゅっとなる。

「その後、何年もほとんど会わなかった」

「そうですね」

「玲奈が高校を卒業する少し前。一条家の集まりで再会した」

玲奈にも覚えがある。

あの日。

久しぶりに会った隼人。

昔の『隼人お兄ちゃん』とはまるで違っていて。

玲奈は緊張してほとんど話せなかった。

「その時ですか?」

「ああ」

「……好きになったの」

隼人は少しだけ目を逸らす。

「認めるまで時間はかかった」

「どうして?」

「七歳下だ」

「そればっかり」

玲奈が少し頬を膨らませる。

「俺には大きい」

「私にはそんなに大きくありません」

「十九歳になったばかりの人間に言われてもな」

「また子供扱い」

「そういう意味じゃない」

二人の間に。

小さな笑いが生まれた。

玲奈は胸が温かかった。

こんなふうに話したかった。

ずっと。

夫婦らしい特別なことなどなくても。

ただ。

隼人の考えていることを知りたかった。

「じゃあ」

玲奈は少し真面目な顔になる。

「一条が危なくなった時」

隼人の表情も戻る。

「助けるって言ったのは……」

「ああ」

「隼人さん?」

「最初に提携を提案したのは俺だ」

玲奈は息を呑む。

「祖父じゃないんですか?」

「祖父は採算が取れないなら切れと言った」

「……」

黒川会長らしい。

隼人は続ける。

「俺が止めた」

「どうして……」

聞く必要もない。

でも。

聞きたかった。

隼人は玲奈を見る。

「玲奈の家だからだ」

涙がまた出そうになる。

玲奈は慌てて目元を押さえた。

「今日、泣いてばっかり」

「昔からよく泣く」

「泣いてません」

「泣いていた」

「子供の頃でしょう?」

「今もだ」

玲奈はむっとする。

でも。

嬉しかった。

「結婚も……隼人さんが言ったんですか?」

そこだけ。

玲奈は少し怖かった。

もし。

会社を助ける代わりに玲奈との結婚を要求したのなら。

やはり少し複雑だ。

隼人はすぐに首を横に振った。

「違う」

玲奈が顔を上げる。

「提携の話が進んだあと、両家から結婚の話が出た」

「……はい」

「俺は最初に条件を出した」

「条件?」

「玲奈が嫌なら、この話はなしだと」

玲奈の胸が大きく鳴る。

「お前には断っていいと言っただろう」

「覚えています」

『嫌なら断っていい』

確かに。

最初に隼人から言われた。

あの時は。

自分と結婚したくないから言っているのだと思った。

「……全部、逆だったんだ」

思わず呟く。

「何が」

「私が思っていたこと」

玲奈は少し笑った。

「結婚したくないから、断っていいって言われたと思ってました」

隼人の顔が固まる。

「……なぜそうなる」

「だって隼人さん、全然嬉しそうじゃなかったし」

「嬉しかった」

「嘘」

「本当だ」

「見えませんでした」

「表に出すのが得意じゃない」

「知ってます」

今なら。

嫌というほど分かる。

玲奈は一度息を吐いた。

「でも」

少しだけ表情を曇らせる。

「私、すぐには黒川邸へ戻れません」

隼人の表情が変わった。

「……そうか」

以前なら。

『帰れ』

と言ったかもしれない。

でも今は違う。

「理由を聞いてもいいか」

ちゃんと。

玲奈へ尋ねた。

そのことが嬉しかった。

「まだ、少し怖いんです」

「俺が?」

「隼人さんだけじゃありません」

玲奈は首を横に振る。

「私自身が」

「……」

「今日こうして話せて、すごく嬉しいです」

それは本当。

「でも今まで、私は隼人さんが少し優しくしてくれるたびに期待して」

「……ああ」

「違うかもしれないと思って、また傷ついて」

玲奈は膝の上の指を見つめた。

「だから、自分の気持ちをちゃんと整理したい」

隼人は黙って聞いている。

「会社のためじゃなく」

「はい」

「お父様のためでもなく」

玲奈は顔を上げる。

「私自身が、本当に隼人さんの妻でいたいって思えたら」

声は小さかった。

でも。

はっきり言った。

「その時、自分で帰りたいです」

隼人は長く玲奈を見つめた。

「……分かった」

驚くほど静かな返事。

玲奈が少し驚く。

「怒らないんですか?」

「怒ってほしいのか」

「違います」

隼人がほんの少し笑う。

「待つ」

玲奈の胸が温かくなる。

「ただし」

「何ですか?」

「九条とは二人で会うな」

玲奈の顔から笑顔が消えた。

「隼人さん」

「……」

「せっかくいい話をしていたのに」

隼人が視線を逸らす。

「それとこれは別だ」

「別じゃありません」

「仕事でも嫌だ」

あまりに素直。

玲奈は数秒。

夫を見つめた。

そして。

笑ってしまった。

「何がおかしい」

「だって」

笑いながら涙まで出そうになる。

「やっと言った」

「何を」

「九条さんだから嫌、じゃなくて」

玲奈は隼人を見る。

「自分が嫌だからって」

隼人は黙る。

「嫉妬してるんですか?」

直球だった。

隼人の顔が固まる。

玲奈は答えを待つ。

今度は逃げさせない。

「……してる」

低い声。

玲奈の目が大きくなる。

「もう一回」

「言わない」

「聞こえませんでした」

「嘘をつけ」

「隼人さん」

「玲奈」

少し恥ずかしそうな夫。

初めて見る。

玲奈は笑った。

胸の奥にあった長い長い寂しさが。

ほんの少しずつ。

温かなものへ変わっていく。

けれど。

まだ終わりではない。

玲奈が自分で隼人を選ぶために。

そして。

隼人が妻を『守る対象』ではなく、一人の女性として向き合うために。

二人には。

まだ越えなければならないものが残っていた。