翌朝。
目を覚ました玲奈は、しばらく天井を見つめていた。
一条家の自室。
薄いクリーム色の天井も、窓辺に置かれた小さな本棚も、高校生の頃から何も変わっていない。
けれど。
昨日までの自分とは、少しだけ何かが違っていた。
玲奈はゆっくり右手を頬へ添えた。
そこにもう温もりなど残っていない。
それなのに。
昨日、隼人の指が涙を拭ってくれた場所だけが、妙に意識された。
『触っていいか』
思い出す。
あの隼人が。
いつも玲奈の意思を聞くより先に、
帰れ。
待て。
行くな。
そう決めていた隼人が。
初めて玲奈へ許可を求めた。
そして。
『俺が香月を女性として見たことはない』
はっきりそう言った。
一度もない、と。
玲奈は毛布を胸元まで引き上げた。
「……だったら」
どうして。
今まで何も言ってくれなかったのだろう。
それさえ最初から分かっていたら。
あんなに美月へ怯えることもなかった。
ホテルで二人を見た夜も。
ジャケットを羽織った美月を見た時も。
SNSの写真を見た時も。
ここまで傷つかずに済んだ。
けれど。
全部隼人のせいにするのも違うことは分かっている。
玲奈も聞かなかった。
怖くて。
勝手に考えた。
勝手に傷ついた。
夫婦なのに。
二人とも言葉が足りなかったのだ。
スマートフォンが震えた。
玲奈の心臓が少し跳ねる。
画面を見る。
隼人。
『今日、大学が終わったら話したい』
短い文章。
玲奈は数秒、画面を見つめた。
以前なら。
それだけで慌てて予定を全部空けただろう。
でも。
今は少し違う。
玲奈は自分のスケジュールを確認する。
午後三時まで講義。
その後、一条化粧品の企画資料をまとめる予定だった。
少し考えてから返信する。
『五時半なら大丈夫です』
送信。
すぐに既読。
『分かった。会社で待っている』
会社。
黒川ホールディングス。
当然、美月もいる場所。
胸の奥に少しだけ不安が生まれる。
けれど。
玲奈はスマートフォンを伏せた。
逃げたくなかった。
美月のことも。
隼人とのことも。
そろそろ。
怖いから聞かない、という自分をやめたい。
「……行こう」
玲奈はベッドから降りた。
同じ朝。
黒川ホールディングス最上階。
美月は自分のデスクへ置かれた一枚の書類を見つめていた。
《秘書業務配置変更通知》
紙に並ぶ文字が、ひどく遠く見えた。
今後。
黒川隼人専属秘書から外れ、経営企画室付へ異動。
隼人の個人スケジュール管理は佐伯奈緒へ移管。
海外出張への同行も原則としてなくなる。
七年間。
守り続けてきた場所。
毎朝一番に隼人の予定を確認した。
会食相手。
移動時間。
出張先。
昼食。
体調。
何時に会社へ入り、何時に帰るのか。
誰より知っていた。
それが。
今日から自分の仕事ではなくなる。
「香月さん」
奈緒が遠慮がちに声をかける。
美月はゆっくり顔を上げた。
「何?」
「十時から、人事部長との面談だそうです」
「分かってるわ」
「それと……」
奈緒は言いにくそうに視線を下げる。
「黒川社長が、SNSの投稿についても確認したいと」
美月の指先がわずかに震えた。
昨日投稿した写真。
すでに削除した。
けれどスクリーンショットは広がっている。
隼人も知った。
そして。
玲奈にも説明したのだろう。
昨日。
車の中から見た。
玲奈の頬に触れる隼人。
あの男は、女へ自分から触れるような人ではない。
まして。
あんなに優しく。
「……分かった」
美月は通知書を裏返した。
奈緒はまだ立っている。
「何か?」
「いえ」
奈緒が少し迷う。
「香月さん」
「何」
「昨日の写真……」
美月の目が冷たくなる。
奈緒はそれでも続けた。
「あの日、二人きりではありませんでしたよね」
美月の唇がわずかに歪む。
「だから?」
「奥様が誤解されるような投稿は……」
「あなたに関係ある?」
奈緒の顔が強張る。
美月は立ち上がった。
「まだ私に仕事を教えられる立場じゃないでしょう」
「……すみません」
奈緒が頭を下げる。
それでも。
去り際に。
「でも、玲奈様は何も悪くないと思います」
美月の身体が止まった。
奈緒はそれ以上言わず、自分の席へ戻った。
玲奈は何も悪くない。
その言葉が。
胸の奥を鋭く抉った。
どうして皆。
玲奈ばかり。
隼人も。
佐和子も。
奈緒まで。
あの少女を庇う。
自分は七年。
誰にも甘えず働いた。
努力した。
隼人に相応しい女になろうとした。
それなのに。
何も知らない玲奈が現れて。
すべてを持っていった。
妻という場所も。
隼人の関心も。
そして今。
自分の仕事まで。
美月は執務室の扉を見る。
中には隼人がいる。
もう。
一度きちんと話さなければ。
このままでは終われない。
午前十時。
美月は人事部長との面談を終えたあと、そのまま隼人の執務室へ向かった。
ノックする。
「どうぞ」
いつもの声。
胸が痛んだ。
「失礼いたします」
隼人はデスクで資料を読んでいた。
顔を上げる。
美月が入った瞬間。
表情が少しだけ固くなる。
以前は。
そんな顔をされたことなどなかった。
「人事から説明は受けたな」
「はい」
美月は執務机の前へ立った。
「異動に異論はあるか」
「あります」
隼人の眉がわずかに動く。
「聞こう」
「私は七年間、あなたの秘書を務めてきました」
「知っている」
「仕事上のミスが理由でしょうか」
「違う」
「なら」
美月は声を抑えた。
「私があなたを好きだから?」
隼人の表情は変わらなかった。
「それだけなら異動させていない」
「では、なぜ」
「私情を業務へ持ち込んだからだ」
はっきり言われた。
「玲奈との予定を意図的に変えたこと」
美月の顔がわずかに強張る。
「SNSへ誤解を招く投稿をしたこと」
「……」
「ホテルの件もだ」
隼人は資料を机へ置いた。
「玲奈が来ると分かっていたのか」
美月は答えない。
「香月」
「……偶然です」
「本当に?」
「はい」
隼人はしばらく美月を見つめた。
七年間。
嘘をつけば見抜かれることくらい分かっている。
「分かった」
それだけ。
責めない。
怒鳴らない。
けれど。
信じてはいない。
美月には分かった。
「隼人さん」
「社内では社長と呼べ」
胸が痛い。
以前は許していた。
注意はされても、本気で拒絶されたことはなかった。
「……黒川社長」
美月は唇を噛んだ。
「私を専属から外したら、困るのはあなたです」
「困らない」
即答。
美月の顔から血の気が引く。
「佐伯もいる。橘もいる」
「でも私ほどあなたを理解している人はいません」
「仕事は理解している」
隼人は静かだった。
「俺自身を理解していると思ったことはない」
美月の胸が大きく痛んだ。
「ひどい……」
「事実だ」
「では玲奈さんは?」
また。
名前を口にしてしまった。
隼人の目が少し険しくなる。
「玲奈さんなら、あなたを理解しているんですか?」
「この話に玲奈は関係ない」
「あります!」
美月の声が初めて大きくなった。
「全部あの子が来てからです!」
隼人の顔が冷える。
「私は七年間――」
「その七年を、自分だけのもののように使うな」
美月の言葉が止まった。
「一緒に働いた。それだけだ」
「それだけ……」
「俺がお前に恋愛感情を示したことが一度でもあったか」
答えられない。
なかった。
一度も。
花を贈られたことも。
食事に誘われたことも。
好きだと言われたことも。
「でも」
美月は震える声で言った。
「誰とも付き合わなかった」
「だから何だ」
「私は……待っていたんです」
「待てと言った覚えはない」
残酷だった。
けれど。
正しかった。
美月自身も。
本当は分かっている。
勝手に期待した。
いつか選ばれると。
勝手に思った。
それでも。
認めたくなかった。
「だったら」
美月はゆっくり隼人へ近づいた。
「一度だけ」
隼人の眉が寄る。
「何を」
「一度だけ、私を見てください」
「香月」
「七年間を全部なかったことにしないで」
美月は机の横まで回った。
隼人が立ち上がる。
「近づくな」
「怖いんですか?」
「何?」
「私を女として見るのが」
隼人の表情が一気に冷える。
「勘違いするな」
「なら」
美月は笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「一度くらい、できるでしょう?」
一歩。
距離を詰める。
「玲奈さんには触れられるのに」
「やめろ」
「私にはどうして――」
美月は隼人の胸元へ両手を伸ばした。
その瞬間。
隼人が手首を掴む。
「離れろ」
「嫌です」
初めて。
美月は抵抗した。
「一度でいい」
「香月!」
「七年好きだったんです!」
美月の目から涙が落ちる。
「一度くらい、私を女として見てくれてもいいでしょう!」
身体を寄せる。
隼人はすぐに距離を取ろうとする。
それでも美月は袖を掴んだ。
「やめろ」
「嫌!」
「香月!」
そして。
美月は背伸びをした。
顔を近づける。
隼人の唇へ。
――触れる直前。
強い力で肩を押し戻された。
「やめろと言っている」
低い声。
今までで一番。
はっきりとした拒絶だった。
美月はよろめき、机へ手をつく。
「……そんなに」
涙が止まらない。
「そんなに、玲奈さんがいいんですか」
隼人は答えなかった。
それが。
美月には何より残酷だった。
「私は……」
声が崩れる。
「私なら、あなたを困らせないのに」
隼人の目が少し変わった。
「それが違う」
美月が顔を上げる。
「何が……」
「玲奈が俺を困らせることが問題なんじゃない」
隼人は静かに言った。
「困らされてもいいと思っている」
美月の瞳が大きくなる。
「怒られても」
「帰られても」
「他の男に笑いかけられて腹が立っても」
隼人の声は低かった。
自分自身に言い聞かせるようでもあった。
「それでも玲奈じゃなければ意味がない」
美月の顔が歪んだ。
それは。
初めてだった。
隼人が。
玲奈への気持ちを、ここまではっきり言葉にしたのは。
「……愛してるんですか」
震える問い。
隼人は少しだけ黙った。
そして。
「そうなんだと思う」
美月の涙が止まった。
あまりにも静かな言葉。
でも。
迷いはなかった。
「……思う?」
「俺はそういうことを考えてこなかった」
隼人は目を伏せた。
「だが玲奈がいなくなって分かった」
黒川邸。
玲奈がいない朝。
空いた席。
帰っても聞こえない、
『おかえりなさい』
そのすべてが。
思っていた以上に苦しかった。
「帰ってきてほしい」
隼人は小さく言った。
「俺を選んでほしい」
美月はもう。
何も言えなかった。
⸻
同じ頃。
午後五時十五分。
玲奈は黒川ホールディングスのエレベーターを降りた。
予定より十五分早い。
「玲奈様」
隣には亮。
約束通り、今日から護衛へ戻っている。
「こちらでお待ちしましょうか」
「はい」
玲奈は少し緊張しながら最上階の廊下を歩いた。
久しぶりに来た気がする。
以前ここへ来た時。
美月が隼人のジャケットを羽織っていた。
胸が少し痛む。
けれど。
昨日、隼人は話してくれた。
美月を女性として見たことはない。
だから。
今度は信じてみたい。
玲奈はそう思っていた。
秘書エリアへ入る。
そこに美月はいなかった。
奈緒が玲奈に気づき、立ち上がる。
「玲奈様」
「こんにちは」
「社長は執務室に……」
そこで奈緒が言葉を止めた。
少し困った顔。
玲奈が首を傾げる。
「どうしました?」
「いえ」
「隼人さん、会議中ですか?」
「香月さんが……」
奈緒が言いかけた時。
執務室の中から。
美月の声が聞こえた。
「七年好きだったんです!」
玲奈の足が止まった。
亮も表情を変える。
扉は完全には閉まっていない。
ほんの少し開いている。
中の声が漏れていた。
玲奈の心臓が大きく鳴る。
聞いてはいけない。
そう思う。
でも。
動けなかった。
「一度くらい、私を女として見てくれてもいいでしょう!」
次の瞬間。
玲奈の視界に。
隙間から二人の姿が見えた。
美月が隼人の胸元へ手を伸ばしている。
身体を寄せる。
顔を近づける。
玲奈の指先が冷たくなった。
でも。
昨日までの玲奈なら。
そこで逃げていたかもしれない。
見たものだけを信じて。
二人は親密なのだと決めつけて。
けれど。
今日は。
足を動かさなかった。
その直後。
隼人が美月をはっきり押し戻した。
「やめろと言っている」
玲奈の目が大きくなる。
美月の泣き声。
そして。
問い。
「そんなに、玲奈さんがいいんですか」
胸が。
強く鳴る。
玲奈は息をするのも忘れて。
答えを待った。
『それでも玲奈じゃなければ意味がない』
隼人の声。
玲奈の目が熱くなる。
『帰ってきてほしい』
そして。
『俺を選んでほしい』
玲奈の唇が震えた。
初めて。
聞いた。
隼人の本音。
自分へ向けてではない。
だからこそ。
嘘ではないと思えた。
玲奈に聞かせるための言葉ではない。
隼人自身の。
本当の気持ち。
「玲奈様……」
奈緒が心配そうに声をかける。
玲奈は目元へ手を当てた。
「大丈夫です」
声が震えている。
それでも。
今度の涙は。
今までのものとは違った。
苦しくて流す涙ではない。
⸻
執務室の中。
美月は俯いたまま立っていた。
隼人が呼び出しボタンへ手を伸ばす。
「今日は帰れ」
「……」
「明日から経営企画室へ行け」
美月は顔を上げた。
「もう……専属には戻れないんですね」
「ああ」
隼人の答えに迷いはない。
美月は唇を噛んだ。
「分かりました」
ようやく。
そう言った。
扉へ向かう。
そして。
開けた瞬間。
美月の身体が固まった。
廊下に。
玲奈が立っていた。
「……玲奈、さん」
玲奈も美月を見る。
以前なら。
目を逸らしたかもしれない。
自分より美しい。
大人。
隼人を七年間知っている女性。
それだけで自信を失った。
でも今日は。
逃げなかった。
美月の顔は泣いていた。
初めて見る。
余裕のない表情。
「聞いて……いたの?」
玲奈は少しだけ頷いた。
「はい」
美月の顔が歪む。
「どこから?」
玲奈は答えなかった。
美月は玲奈を見つめる。
その首元。
そこには。
誕生日に隼人から贈られた花のネックレスがあった。
今日。
玲奈は初めてそれを身につけてきた。
美月の目がそこへ止まる。
「それ……」
玲奈が指先でネックレスへ触れる。
「隼人さんからいただきました」
初めて。
自分から言った。
美月の唇が震える。
「……そう」
玲奈は美月を責めなかった。
SNSのことも。
誕生日のことも。
ホテルのことも。
聞きたいことはいくらでもある。
けれど。
今は。
何も言わなかった。
美月はそんな玲奈を一度だけ睨むように見て。
そのまま歩き去った。
亮が静かに道を空ける。
奈緒も何も言わない。
玲奈は遠ざかる美月の背中を見つめた。
少しだけ。
胸が痛んだ。
七年間。
一人の人を好きだった。
その気持ちだけなら。
玲奈にも分かるから。
でも。
だからといって。
誰かを傷つけていい理由にはならない。
玲奈はゆっくり執務室へ向いた。
その時。
隼人が扉の前に立っていた。
玲奈と目が合う。
顔が固まる。
「……玲奈?」
珍しく。
明らかに動揺していた。
「いつからいた」
玲奈は少し考えた。
「『それでも玲奈じゃなければ意味がない』くらいから」
隼人の顔から表情が消えた。
「……」
玲奈は初めて。
ほんの少しだけ笑った。
「隼人さん」
「忘れろ」
「嫌です」
即答した。
隼人が額へ手を当てる。
「玲奈」
「聞きました」
「……」
「全部」
隼人が本気で困った顔をしている。
そんな姿を。
玲奈は初めて見た気がした。
少し可笑しい。
そして。
嬉しかった。
「私とお話したいって言いましたよね」
「ああ」
「私もあります」
玲奈は執務室へ入る。
隼人は何も言わず、後ろから扉を閉めた。
今度は。
二人きり。
玲奈はもう逃げなかった。
隼人も。
曖昧な言葉だけでは済ませられない。
二人の政略結婚が始まってから。
初めて。
本当に夫婦になるための話をする時が。
ようやく来ようとしていた。
目を覚ました玲奈は、しばらく天井を見つめていた。
一条家の自室。
薄いクリーム色の天井も、窓辺に置かれた小さな本棚も、高校生の頃から何も変わっていない。
けれど。
昨日までの自分とは、少しだけ何かが違っていた。
玲奈はゆっくり右手を頬へ添えた。
そこにもう温もりなど残っていない。
それなのに。
昨日、隼人の指が涙を拭ってくれた場所だけが、妙に意識された。
『触っていいか』
思い出す。
あの隼人が。
いつも玲奈の意思を聞くより先に、
帰れ。
待て。
行くな。
そう決めていた隼人が。
初めて玲奈へ許可を求めた。
そして。
『俺が香月を女性として見たことはない』
はっきりそう言った。
一度もない、と。
玲奈は毛布を胸元まで引き上げた。
「……だったら」
どうして。
今まで何も言ってくれなかったのだろう。
それさえ最初から分かっていたら。
あんなに美月へ怯えることもなかった。
ホテルで二人を見た夜も。
ジャケットを羽織った美月を見た時も。
SNSの写真を見た時も。
ここまで傷つかずに済んだ。
けれど。
全部隼人のせいにするのも違うことは分かっている。
玲奈も聞かなかった。
怖くて。
勝手に考えた。
勝手に傷ついた。
夫婦なのに。
二人とも言葉が足りなかったのだ。
スマートフォンが震えた。
玲奈の心臓が少し跳ねる。
画面を見る。
隼人。
『今日、大学が終わったら話したい』
短い文章。
玲奈は数秒、画面を見つめた。
以前なら。
それだけで慌てて予定を全部空けただろう。
でも。
今は少し違う。
玲奈は自分のスケジュールを確認する。
午後三時まで講義。
その後、一条化粧品の企画資料をまとめる予定だった。
少し考えてから返信する。
『五時半なら大丈夫です』
送信。
すぐに既読。
『分かった。会社で待っている』
会社。
黒川ホールディングス。
当然、美月もいる場所。
胸の奥に少しだけ不安が生まれる。
けれど。
玲奈はスマートフォンを伏せた。
逃げたくなかった。
美月のことも。
隼人とのことも。
そろそろ。
怖いから聞かない、という自分をやめたい。
「……行こう」
玲奈はベッドから降りた。
同じ朝。
黒川ホールディングス最上階。
美月は自分のデスクへ置かれた一枚の書類を見つめていた。
《秘書業務配置変更通知》
紙に並ぶ文字が、ひどく遠く見えた。
今後。
黒川隼人専属秘書から外れ、経営企画室付へ異動。
隼人の個人スケジュール管理は佐伯奈緒へ移管。
海外出張への同行も原則としてなくなる。
七年間。
守り続けてきた場所。
毎朝一番に隼人の予定を確認した。
会食相手。
移動時間。
出張先。
昼食。
体調。
何時に会社へ入り、何時に帰るのか。
誰より知っていた。
それが。
今日から自分の仕事ではなくなる。
「香月さん」
奈緒が遠慮がちに声をかける。
美月はゆっくり顔を上げた。
「何?」
「十時から、人事部長との面談だそうです」
「分かってるわ」
「それと……」
奈緒は言いにくそうに視線を下げる。
「黒川社長が、SNSの投稿についても確認したいと」
美月の指先がわずかに震えた。
昨日投稿した写真。
すでに削除した。
けれどスクリーンショットは広がっている。
隼人も知った。
そして。
玲奈にも説明したのだろう。
昨日。
車の中から見た。
玲奈の頬に触れる隼人。
あの男は、女へ自分から触れるような人ではない。
まして。
あんなに優しく。
「……分かった」
美月は通知書を裏返した。
奈緒はまだ立っている。
「何か?」
「いえ」
奈緒が少し迷う。
「香月さん」
「何」
「昨日の写真……」
美月の目が冷たくなる。
奈緒はそれでも続けた。
「あの日、二人きりではありませんでしたよね」
美月の唇がわずかに歪む。
「だから?」
「奥様が誤解されるような投稿は……」
「あなたに関係ある?」
奈緒の顔が強張る。
美月は立ち上がった。
「まだ私に仕事を教えられる立場じゃないでしょう」
「……すみません」
奈緒が頭を下げる。
それでも。
去り際に。
「でも、玲奈様は何も悪くないと思います」
美月の身体が止まった。
奈緒はそれ以上言わず、自分の席へ戻った。
玲奈は何も悪くない。
その言葉が。
胸の奥を鋭く抉った。
どうして皆。
玲奈ばかり。
隼人も。
佐和子も。
奈緒まで。
あの少女を庇う。
自分は七年。
誰にも甘えず働いた。
努力した。
隼人に相応しい女になろうとした。
それなのに。
何も知らない玲奈が現れて。
すべてを持っていった。
妻という場所も。
隼人の関心も。
そして今。
自分の仕事まで。
美月は執務室の扉を見る。
中には隼人がいる。
もう。
一度きちんと話さなければ。
このままでは終われない。
午前十時。
美月は人事部長との面談を終えたあと、そのまま隼人の執務室へ向かった。
ノックする。
「どうぞ」
いつもの声。
胸が痛んだ。
「失礼いたします」
隼人はデスクで資料を読んでいた。
顔を上げる。
美月が入った瞬間。
表情が少しだけ固くなる。
以前は。
そんな顔をされたことなどなかった。
「人事から説明は受けたな」
「はい」
美月は執務机の前へ立った。
「異動に異論はあるか」
「あります」
隼人の眉がわずかに動く。
「聞こう」
「私は七年間、あなたの秘書を務めてきました」
「知っている」
「仕事上のミスが理由でしょうか」
「違う」
「なら」
美月は声を抑えた。
「私があなたを好きだから?」
隼人の表情は変わらなかった。
「それだけなら異動させていない」
「では、なぜ」
「私情を業務へ持ち込んだからだ」
はっきり言われた。
「玲奈との予定を意図的に変えたこと」
美月の顔がわずかに強張る。
「SNSへ誤解を招く投稿をしたこと」
「……」
「ホテルの件もだ」
隼人は資料を机へ置いた。
「玲奈が来ると分かっていたのか」
美月は答えない。
「香月」
「……偶然です」
「本当に?」
「はい」
隼人はしばらく美月を見つめた。
七年間。
嘘をつけば見抜かれることくらい分かっている。
「分かった」
それだけ。
責めない。
怒鳴らない。
けれど。
信じてはいない。
美月には分かった。
「隼人さん」
「社内では社長と呼べ」
胸が痛い。
以前は許していた。
注意はされても、本気で拒絶されたことはなかった。
「……黒川社長」
美月は唇を噛んだ。
「私を専属から外したら、困るのはあなたです」
「困らない」
即答。
美月の顔から血の気が引く。
「佐伯もいる。橘もいる」
「でも私ほどあなたを理解している人はいません」
「仕事は理解している」
隼人は静かだった。
「俺自身を理解していると思ったことはない」
美月の胸が大きく痛んだ。
「ひどい……」
「事実だ」
「では玲奈さんは?」
また。
名前を口にしてしまった。
隼人の目が少し険しくなる。
「玲奈さんなら、あなたを理解しているんですか?」
「この話に玲奈は関係ない」
「あります!」
美月の声が初めて大きくなった。
「全部あの子が来てからです!」
隼人の顔が冷える。
「私は七年間――」
「その七年を、自分だけのもののように使うな」
美月の言葉が止まった。
「一緒に働いた。それだけだ」
「それだけ……」
「俺がお前に恋愛感情を示したことが一度でもあったか」
答えられない。
なかった。
一度も。
花を贈られたことも。
食事に誘われたことも。
好きだと言われたことも。
「でも」
美月は震える声で言った。
「誰とも付き合わなかった」
「だから何だ」
「私は……待っていたんです」
「待てと言った覚えはない」
残酷だった。
けれど。
正しかった。
美月自身も。
本当は分かっている。
勝手に期待した。
いつか選ばれると。
勝手に思った。
それでも。
認めたくなかった。
「だったら」
美月はゆっくり隼人へ近づいた。
「一度だけ」
隼人の眉が寄る。
「何を」
「一度だけ、私を見てください」
「香月」
「七年間を全部なかったことにしないで」
美月は机の横まで回った。
隼人が立ち上がる。
「近づくな」
「怖いんですか?」
「何?」
「私を女として見るのが」
隼人の表情が一気に冷える。
「勘違いするな」
「なら」
美月は笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「一度くらい、できるでしょう?」
一歩。
距離を詰める。
「玲奈さんには触れられるのに」
「やめろ」
「私にはどうして――」
美月は隼人の胸元へ両手を伸ばした。
その瞬間。
隼人が手首を掴む。
「離れろ」
「嫌です」
初めて。
美月は抵抗した。
「一度でいい」
「香月!」
「七年好きだったんです!」
美月の目から涙が落ちる。
「一度くらい、私を女として見てくれてもいいでしょう!」
身体を寄せる。
隼人はすぐに距離を取ろうとする。
それでも美月は袖を掴んだ。
「やめろ」
「嫌!」
「香月!」
そして。
美月は背伸びをした。
顔を近づける。
隼人の唇へ。
――触れる直前。
強い力で肩を押し戻された。
「やめろと言っている」
低い声。
今までで一番。
はっきりとした拒絶だった。
美月はよろめき、机へ手をつく。
「……そんなに」
涙が止まらない。
「そんなに、玲奈さんがいいんですか」
隼人は答えなかった。
それが。
美月には何より残酷だった。
「私は……」
声が崩れる。
「私なら、あなたを困らせないのに」
隼人の目が少し変わった。
「それが違う」
美月が顔を上げる。
「何が……」
「玲奈が俺を困らせることが問題なんじゃない」
隼人は静かに言った。
「困らされてもいいと思っている」
美月の瞳が大きくなる。
「怒られても」
「帰られても」
「他の男に笑いかけられて腹が立っても」
隼人の声は低かった。
自分自身に言い聞かせるようでもあった。
「それでも玲奈じゃなければ意味がない」
美月の顔が歪んだ。
それは。
初めてだった。
隼人が。
玲奈への気持ちを、ここまではっきり言葉にしたのは。
「……愛してるんですか」
震える問い。
隼人は少しだけ黙った。
そして。
「そうなんだと思う」
美月の涙が止まった。
あまりにも静かな言葉。
でも。
迷いはなかった。
「……思う?」
「俺はそういうことを考えてこなかった」
隼人は目を伏せた。
「だが玲奈がいなくなって分かった」
黒川邸。
玲奈がいない朝。
空いた席。
帰っても聞こえない、
『おかえりなさい』
そのすべてが。
思っていた以上に苦しかった。
「帰ってきてほしい」
隼人は小さく言った。
「俺を選んでほしい」
美月はもう。
何も言えなかった。
⸻
同じ頃。
午後五時十五分。
玲奈は黒川ホールディングスのエレベーターを降りた。
予定より十五分早い。
「玲奈様」
隣には亮。
約束通り、今日から護衛へ戻っている。
「こちらでお待ちしましょうか」
「はい」
玲奈は少し緊張しながら最上階の廊下を歩いた。
久しぶりに来た気がする。
以前ここへ来た時。
美月が隼人のジャケットを羽織っていた。
胸が少し痛む。
けれど。
昨日、隼人は話してくれた。
美月を女性として見たことはない。
だから。
今度は信じてみたい。
玲奈はそう思っていた。
秘書エリアへ入る。
そこに美月はいなかった。
奈緒が玲奈に気づき、立ち上がる。
「玲奈様」
「こんにちは」
「社長は執務室に……」
そこで奈緒が言葉を止めた。
少し困った顔。
玲奈が首を傾げる。
「どうしました?」
「いえ」
「隼人さん、会議中ですか?」
「香月さんが……」
奈緒が言いかけた時。
執務室の中から。
美月の声が聞こえた。
「七年好きだったんです!」
玲奈の足が止まった。
亮も表情を変える。
扉は完全には閉まっていない。
ほんの少し開いている。
中の声が漏れていた。
玲奈の心臓が大きく鳴る。
聞いてはいけない。
そう思う。
でも。
動けなかった。
「一度くらい、私を女として見てくれてもいいでしょう!」
次の瞬間。
玲奈の視界に。
隙間から二人の姿が見えた。
美月が隼人の胸元へ手を伸ばしている。
身体を寄せる。
顔を近づける。
玲奈の指先が冷たくなった。
でも。
昨日までの玲奈なら。
そこで逃げていたかもしれない。
見たものだけを信じて。
二人は親密なのだと決めつけて。
けれど。
今日は。
足を動かさなかった。
その直後。
隼人が美月をはっきり押し戻した。
「やめろと言っている」
玲奈の目が大きくなる。
美月の泣き声。
そして。
問い。
「そんなに、玲奈さんがいいんですか」
胸が。
強く鳴る。
玲奈は息をするのも忘れて。
答えを待った。
『それでも玲奈じゃなければ意味がない』
隼人の声。
玲奈の目が熱くなる。
『帰ってきてほしい』
そして。
『俺を選んでほしい』
玲奈の唇が震えた。
初めて。
聞いた。
隼人の本音。
自分へ向けてではない。
だからこそ。
嘘ではないと思えた。
玲奈に聞かせるための言葉ではない。
隼人自身の。
本当の気持ち。
「玲奈様……」
奈緒が心配そうに声をかける。
玲奈は目元へ手を当てた。
「大丈夫です」
声が震えている。
それでも。
今度の涙は。
今までのものとは違った。
苦しくて流す涙ではない。
⸻
執務室の中。
美月は俯いたまま立っていた。
隼人が呼び出しボタンへ手を伸ばす。
「今日は帰れ」
「……」
「明日から経営企画室へ行け」
美月は顔を上げた。
「もう……専属には戻れないんですね」
「ああ」
隼人の答えに迷いはない。
美月は唇を噛んだ。
「分かりました」
ようやく。
そう言った。
扉へ向かう。
そして。
開けた瞬間。
美月の身体が固まった。
廊下に。
玲奈が立っていた。
「……玲奈、さん」
玲奈も美月を見る。
以前なら。
目を逸らしたかもしれない。
自分より美しい。
大人。
隼人を七年間知っている女性。
それだけで自信を失った。
でも今日は。
逃げなかった。
美月の顔は泣いていた。
初めて見る。
余裕のない表情。
「聞いて……いたの?」
玲奈は少しだけ頷いた。
「はい」
美月の顔が歪む。
「どこから?」
玲奈は答えなかった。
美月は玲奈を見つめる。
その首元。
そこには。
誕生日に隼人から贈られた花のネックレスがあった。
今日。
玲奈は初めてそれを身につけてきた。
美月の目がそこへ止まる。
「それ……」
玲奈が指先でネックレスへ触れる。
「隼人さんからいただきました」
初めて。
自分から言った。
美月の唇が震える。
「……そう」
玲奈は美月を責めなかった。
SNSのことも。
誕生日のことも。
ホテルのことも。
聞きたいことはいくらでもある。
けれど。
今は。
何も言わなかった。
美月はそんな玲奈を一度だけ睨むように見て。
そのまま歩き去った。
亮が静かに道を空ける。
奈緒も何も言わない。
玲奈は遠ざかる美月の背中を見つめた。
少しだけ。
胸が痛んだ。
七年間。
一人の人を好きだった。
その気持ちだけなら。
玲奈にも分かるから。
でも。
だからといって。
誰かを傷つけていい理由にはならない。
玲奈はゆっくり執務室へ向いた。
その時。
隼人が扉の前に立っていた。
玲奈と目が合う。
顔が固まる。
「……玲奈?」
珍しく。
明らかに動揺していた。
「いつからいた」
玲奈は少し考えた。
「『それでも玲奈じゃなければ意味がない』くらいから」
隼人の顔から表情が消えた。
「……」
玲奈は初めて。
ほんの少しだけ笑った。
「隼人さん」
「忘れろ」
「嫌です」
即答した。
隼人が額へ手を当てる。
「玲奈」
「聞きました」
「……」
「全部」
隼人が本気で困った顔をしている。
そんな姿を。
玲奈は初めて見た気がした。
少し可笑しい。
そして。
嬉しかった。
「私とお話したいって言いましたよね」
「ああ」
「私もあります」
玲奈は執務室へ入る。
隼人は何も言わず、後ろから扉を閉めた。
今度は。
二人きり。
玲奈はもう逃げなかった。
隼人も。
曖昧な言葉だけでは済ませられない。
二人の政略結婚が始まってから。
初めて。
本当に夫婦になるための話をする時が。
ようやく来ようとしていた。

