触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

翌朝。

目を覚ました玲奈は、しばらく天井を見つめていた。

一条家の自室。

薄いクリーム色の天井も、窓辺に置かれた小さな本棚も、高校生の頃から何も変わっていない。

けれど。

昨日までの自分とは、少しだけ何かが違っていた。

玲奈はゆっくり右手を頬へ添えた。

そこにもう温もりなど残っていない。

それなのに。

昨日、隼人の指が涙を拭ってくれた場所だけが、妙に意識された。

『触っていいか』

思い出す。

あの隼人が。

いつも玲奈の意思を聞くより先に、

帰れ。

待て。

行くな。

そう決めていた隼人が。

初めて玲奈へ許可を求めた。

そして。

『俺が香月を女性として見たことはない』

はっきりそう言った。

一度もない、と。

玲奈は毛布を胸元まで引き上げた。

「……だったら」

どうして。

今まで何も言ってくれなかったのだろう。

それさえ最初から分かっていたら。

あんなに美月へ怯えることもなかった。

ホテルで二人を見た夜も。

ジャケットを羽織った美月を見た時も。

SNSの写真を見た時も。

ここまで傷つかずに済んだ。

けれど。

全部隼人のせいにするのも違うことは分かっている。

玲奈も聞かなかった。

怖くて。

勝手に考えた。

勝手に傷ついた。

夫婦なのに。

二人とも言葉が足りなかったのだ。

スマートフォンが震えた。

玲奈の心臓が少し跳ねる。

画面を見る。

隼人。

『今日、大学が終わったら話したい』

短い文章。

玲奈は数秒、画面を見つめた。

以前なら。

それだけで慌てて予定を全部空けただろう。

でも。

今は少し違う。

玲奈は自分のスケジュールを確認する。

午後三時まで講義。

その後、一条化粧品の企画資料をまとめる予定だった。

少し考えてから返信する。

『五時半なら大丈夫です』

送信。

すぐに既読。

『分かった。会社で待っている』

会社。

黒川ホールディングス。

当然、美月もいる場所。

胸の奥に少しだけ不安が生まれる。

けれど。

玲奈はスマートフォンを伏せた。

逃げたくなかった。

美月のことも。

隼人とのことも。

そろそろ。

怖いから聞かない、という自分をやめたい。

「……行こう」

玲奈はベッドから降りた。


同じ朝。

黒川ホールディングス最上階。

美月は自分のデスクへ置かれた一枚の書類を見つめていた。

《秘書業務配置変更通知》

紙に並ぶ文字が、ひどく遠く見えた。

今後。

黒川隼人専属秘書から外れ、経営企画室付へ異動。

隼人の個人スケジュール管理は佐伯奈緒へ移管。

海外出張への同行も原則としてなくなる。

七年間。

守り続けてきた場所。

毎朝一番に隼人の予定を確認した。

会食相手。

移動時間。

出張先。

昼食。

体調。

何時に会社へ入り、何時に帰るのか。

誰より知っていた。

それが。

今日から自分の仕事ではなくなる。

「香月さん」

奈緒が遠慮がちに声をかける。

美月はゆっくり顔を上げた。

「何?」

「十時から、人事部長との面談だそうです」

「分かってるわ」

「それと……」

奈緒は言いにくそうに視線を下げる。

「黒川社長が、SNSの投稿についても確認したいと」

美月の指先がわずかに震えた。

昨日投稿した写真。

すでに削除した。

けれどスクリーンショットは広がっている。

隼人も知った。

そして。

玲奈にも説明したのだろう。

昨日。

車の中から見た。

玲奈の頬に触れる隼人。

あの男は、女へ自分から触れるような人ではない。

まして。

あんなに優しく。

「……分かった」

美月は通知書を裏返した。

奈緒はまだ立っている。

「何か?」

「いえ」

奈緒が少し迷う。

「香月さん」

「何」

「昨日の写真……」

美月の目が冷たくなる。

奈緒はそれでも続けた。

「あの日、二人きりではありませんでしたよね」

美月の唇がわずかに歪む。

「だから?」

「奥様が誤解されるような投稿は……」

「あなたに関係ある?」

奈緒の顔が強張る。

美月は立ち上がった。

「まだ私に仕事を教えられる立場じゃないでしょう」

「……すみません」

奈緒が頭を下げる。

それでも。

去り際に。

「でも、玲奈様は何も悪くないと思います」

美月の身体が止まった。

奈緒はそれ以上言わず、自分の席へ戻った。

玲奈は何も悪くない。

その言葉が。

胸の奥を鋭く抉った。

どうして皆。

玲奈ばかり。

隼人も。

佐和子も。

奈緒まで。

あの少女を庇う。

自分は七年。

誰にも甘えず働いた。

努力した。

隼人に相応しい女になろうとした。

それなのに。

何も知らない玲奈が現れて。

すべてを持っていった。

妻という場所も。

隼人の関心も。

そして今。

自分の仕事まで。

美月は執務室の扉を見る。

中には隼人がいる。

もう。

一度きちんと話さなければ。

このままでは終われない。


午前十時。

美月は人事部長との面談を終えたあと、そのまま隼人の執務室へ向かった。

ノックする。

「どうぞ」

いつもの声。

胸が痛んだ。

「失礼いたします」

隼人はデスクで資料を読んでいた。

顔を上げる。

美月が入った瞬間。

表情が少しだけ固くなる。

以前は。

そんな顔をされたことなどなかった。

「人事から説明は受けたな」

「はい」

美月は執務机の前へ立った。

「異動に異論はあるか」

「あります」

隼人の眉がわずかに動く。

「聞こう」

「私は七年間、あなたの秘書を務めてきました」

「知っている」

「仕事上のミスが理由でしょうか」

「違う」

「なら」

美月は声を抑えた。

「私があなたを好きだから?」

隼人の表情は変わらなかった。

「それだけなら異動させていない」

「では、なぜ」

「私情を業務へ持ち込んだからだ」

はっきり言われた。

「玲奈との予定を意図的に変えたこと」

美月の顔がわずかに強張る。

「SNSへ誤解を招く投稿をしたこと」

「……」

「ホテルの件もだ」

隼人は資料を机へ置いた。

「玲奈が来ると分かっていたのか」

美月は答えない。

「香月」

「……偶然です」

「本当に?」

「はい」

隼人はしばらく美月を見つめた。

七年間。

嘘をつけば見抜かれることくらい分かっている。

「分かった」

それだけ。

責めない。

怒鳴らない。

けれど。

信じてはいない。

美月には分かった。

「隼人さん」

「社内では社長と呼べ」

胸が痛い。

以前は許していた。

注意はされても、本気で拒絶されたことはなかった。

「……黒川社長」

美月は唇を噛んだ。

「私を専属から外したら、困るのはあなたです」

「困らない」

即答。

美月の顔から血の気が引く。

「佐伯もいる。橘もいる」

「でも私ほどあなたを理解している人はいません」

「仕事は理解している」

隼人は静かだった。

「俺自身を理解していると思ったことはない」

美月の胸が大きく痛んだ。

「ひどい……」

「事実だ」

「では玲奈さんは?」

また。

名前を口にしてしまった。

隼人の目が少し険しくなる。

「玲奈さんなら、あなたを理解しているんですか?」

「この話に玲奈は関係ない」

「あります!」

美月の声が初めて大きくなった。

「全部あの子が来てからです!」

隼人の顔が冷える。

「私は七年間――」

「その七年を、自分だけのもののように使うな」

美月の言葉が止まった。

「一緒に働いた。それだけだ」

「それだけ……」

「俺がお前に恋愛感情を示したことが一度でもあったか」

答えられない。

なかった。

一度も。

花を贈られたことも。

食事に誘われたことも。

好きだと言われたことも。

「でも」

美月は震える声で言った。

「誰とも付き合わなかった」

「だから何だ」

「私は……待っていたんです」

「待てと言った覚えはない」

残酷だった。

けれど。

正しかった。

美月自身も。

本当は分かっている。

勝手に期待した。

いつか選ばれると。

勝手に思った。

それでも。

認めたくなかった。

「だったら」

美月はゆっくり隼人へ近づいた。

「一度だけ」

隼人の眉が寄る。

「何を」

「一度だけ、私を見てください」

「香月」

「七年間を全部なかったことにしないで」

美月は机の横まで回った。

隼人が立ち上がる。

「近づくな」

「怖いんですか?」

「何?」

「私を女として見るのが」

隼人の表情が一気に冷える。

「勘違いするな」

「なら」

美月は笑った。

泣きそうな笑顔だった。

「一度くらい、できるでしょう?」

一歩。

距離を詰める。

「玲奈さんには触れられるのに」

「やめろ」

「私にはどうして――」

美月は隼人の胸元へ両手を伸ばした。

その瞬間。

隼人が手首を掴む。

「離れろ」

「嫌です」

初めて。

美月は抵抗した。

「一度でいい」

「香月!」

「七年好きだったんです!」

美月の目から涙が落ちる。

「一度くらい、私を女として見てくれてもいいでしょう!」

身体を寄せる。

隼人はすぐに距離を取ろうとする。

それでも美月は袖を掴んだ。

「やめろ」

「嫌!」

「香月!」

そして。

美月は背伸びをした。

顔を近づける。

隼人の唇へ。

――触れる直前。

強い力で肩を押し戻された。

「やめろと言っている」

低い声。

今までで一番。

はっきりとした拒絶だった。

美月はよろめき、机へ手をつく。

「……そんなに」

涙が止まらない。

「そんなに、玲奈さんがいいんですか」

隼人は答えなかった。

それが。

美月には何より残酷だった。

「私は……」

声が崩れる。

「私なら、あなたを困らせないのに」

隼人の目が少し変わった。

「それが違う」

美月が顔を上げる。

「何が……」

「玲奈が俺を困らせることが問題なんじゃない」

隼人は静かに言った。

「困らされてもいいと思っている」

美月の瞳が大きくなる。

「怒られても」

「帰られても」

「他の男に笑いかけられて腹が立っても」

隼人の声は低かった。

自分自身に言い聞かせるようでもあった。

「それでも玲奈じゃなければ意味がない」

美月の顔が歪んだ。

それは。

初めてだった。

隼人が。

玲奈への気持ちを、ここまではっきり言葉にしたのは。

「……愛してるんですか」

震える問い。

隼人は少しだけ黙った。

そして。

「そうなんだと思う」

美月の涙が止まった。

あまりにも静かな言葉。

でも。

迷いはなかった。

「……思う?」

「俺はそういうことを考えてこなかった」

隼人は目を伏せた。

「だが玲奈がいなくなって分かった」

黒川邸。

玲奈がいない朝。

空いた席。

帰っても聞こえない、

『おかえりなさい』

そのすべてが。

思っていた以上に苦しかった。

「帰ってきてほしい」

隼人は小さく言った。

「俺を選んでほしい」

美月はもう。

何も言えなかった。



同じ頃。

午後五時十五分。

玲奈は黒川ホールディングスのエレベーターを降りた。

予定より十五分早い。

「玲奈様」

隣には亮。

約束通り、今日から護衛へ戻っている。

「こちらでお待ちしましょうか」

「はい」

玲奈は少し緊張しながら最上階の廊下を歩いた。

久しぶりに来た気がする。

以前ここへ来た時。

美月が隼人のジャケットを羽織っていた。

胸が少し痛む。

けれど。

昨日、隼人は話してくれた。

美月を女性として見たことはない。

だから。

今度は信じてみたい。

玲奈はそう思っていた。

秘書エリアへ入る。

そこに美月はいなかった。

奈緒が玲奈に気づき、立ち上がる。

「玲奈様」

「こんにちは」

「社長は執務室に……」

そこで奈緒が言葉を止めた。

少し困った顔。

玲奈が首を傾げる。

「どうしました?」

「いえ」

「隼人さん、会議中ですか?」

「香月さんが……」

奈緒が言いかけた時。

執務室の中から。

美月の声が聞こえた。

「七年好きだったんです!」

玲奈の足が止まった。

亮も表情を変える。

扉は完全には閉まっていない。

ほんの少し開いている。

中の声が漏れていた。

玲奈の心臓が大きく鳴る。

聞いてはいけない。

そう思う。

でも。

動けなかった。

「一度くらい、私を女として見てくれてもいいでしょう!」

次の瞬間。

玲奈の視界に。

隙間から二人の姿が見えた。

美月が隼人の胸元へ手を伸ばしている。

身体を寄せる。

顔を近づける。

玲奈の指先が冷たくなった。

でも。

昨日までの玲奈なら。

そこで逃げていたかもしれない。

見たものだけを信じて。

二人は親密なのだと決めつけて。

けれど。

今日は。

足を動かさなかった。

その直後。

隼人が美月をはっきり押し戻した。

「やめろと言っている」

玲奈の目が大きくなる。

美月の泣き声。

そして。

問い。

「そんなに、玲奈さんがいいんですか」

胸が。

強く鳴る。

玲奈は息をするのも忘れて。

答えを待った。

『それでも玲奈じゃなければ意味がない』

隼人の声。

玲奈の目が熱くなる。

『帰ってきてほしい』

そして。

『俺を選んでほしい』

玲奈の唇が震えた。

初めて。

聞いた。

隼人の本音。

自分へ向けてではない。

だからこそ。

嘘ではないと思えた。

玲奈に聞かせるための言葉ではない。

隼人自身の。

本当の気持ち。

「玲奈様……」

奈緒が心配そうに声をかける。

玲奈は目元へ手を当てた。

「大丈夫です」

声が震えている。

それでも。

今度の涙は。

今までのものとは違った。

苦しくて流す涙ではない。



執務室の中。

美月は俯いたまま立っていた。

隼人が呼び出しボタンへ手を伸ばす。

「今日は帰れ」

「……」

「明日から経営企画室へ行け」

美月は顔を上げた。

「もう……専属には戻れないんですね」

「ああ」

隼人の答えに迷いはない。

美月は唇を噛んだ。

「分かりました」

ようやく。

そう言った。

扉へ向かう。

そして。

開けた瞬間。

美月の身体が固まった。

廊下に。

玲奈が立っていた。

「……玲奈、さん」

玲奈も美月を見る。

以前なら。

目を逸らしたかもしれない。

自分より美しい。

大人。

隼人を七年間知っている女性。

それだけで自信を失った。

でも今日は。

逃げなかった。

美月の顔は泣いていた。

初めて見る。

余裕のない表情。

「聞いて……いたの?」

玲奈は少しだけ頷いた。

「はい」

美月の顔が歪む。

「どこから?」

玲奈は答えなかった。

美月は玲奈を見つめる。

その首元。

そこには。

誕生日に隼人から贈られた花のネックレスがあった。

今日。

玲奈は初めてそれを身につけてきた。

美月の目がそこへ止まる。

「それ……」

玲奈が指先でネックレスへ触れる。

「隼人さんからいただきました」

初めて。

自分から言った。

美月の唇が震える。

「……そう」

玲奈は美月を責めなかった。

SNSのことも。

誕生日のことも。

ホテルのことも。

聞きたいことはいくらでもある。

けれど。

今は。

何も言わなかった。

美月はそんな玲奈を一度だけ睨むように見て。

そのまま歩き去った。

亮が静かに道を空ける。

奈緒も何も言わない。

玲奈は遠ざかる美月の背中を見つめた。

少しだけ。

胸が痛んだ。

七年間。

一人の人を好きだった。

その気持ちだけなら。

玲奈にも分かるから。

でも。

だからといって。

誰かを傷つけていい理由にはならない。

玲奈はゆっくり執務室へ向いた。

その時。

隼人が扉の前に立っていた。

玲奈と目が合う。

顔が固まる。

「……玲奈?」

珍しく。

明らかに動揺していた。

「いつからいた」

玲奈は少し考えた。

「『それでも玲奈じゃなければ意味がない』くらいから」

隼人の顔から表情が消えた。

「……」

玲奈は初めて。

ほんの少しだけ笑った。

「隼人さん」

「忘れろ」

「嫌です」

即答した。

隼人が額へ手を当てる。

「玲奈」

「聞きました」

「……」

「全部」

隼人が本気で困った顔をしている。

そんな姿を。

玲奈は初めて見た気がした。

少し可笑しい。

そして。

嬉しかった。

「私とお話したいって言いましたよね」

「ああ」

「私もあります」

玲奈は執務室へ入る。

隼人は何も言わず、後ろから扉を閉めた。

今度は。

二人きり。

玲奈はもう逃げなかった。

隼人も。

曖昧な言葉だけでは済ませられない。

二人の政略結婚が始まってから。

初めて。

本当に夫婦になるための話をする時が。

ようやく来ようとしていた。