触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

その写真を、玲奈は自分から探したわけではなかった。

見たくて見たわけでもない。

むしろ。

できることなら――知らないままでいたかった。



午後三時十分。

大学の講義を終えた玲奈は、キャンパス内のカフェにいた。

窓の外には、初夏の青々とした木々が並んでいる。

昼過ぎまで降っていた雨はすでに上がり、濡れた葉が陽の光を受けてきらきらと輝いていた。

店内には講義を終えた学生たちの声が飛び交っている。

玲奈の向かいには美緒。

テーブルの上には二人分のアイスティーと、半分ほど食べたチーズケーキ。

本来なら。

大学にいる間くらい、普通の十九歳として過ごせるはずだった。

けれど今日の玲奈は、何度もスマートフォンへ視線を落としていた。

隼人から連絡が来ていないか。

自分でも嫌になる。

一条家へ戻って二日目。

昨夜、隼人から届いたのは、

『神谷の警護復帰について手配した』

という短いメッセージだけだった。

玲奈は、

『ありがとうございます』

と返した。

それだけ。

本当は電話をすると言っていた。

けれど仕事が長引いたらしく、

『遅くなった。明日にする』

と連絡があった。

玲奈も、

『分かりました』

と返した。

以前の自分なら、待っただろう。

眠くても。

電話が来るかもしれないと思って、起きていた。

けれど昨夜はスマートフォンを枕元へ置いて、そのまま眠った。

少しずつ。

待たないことを覚えなければならない。

そう思っている。

「玲奈」

美緒に呼ばれ、玲奈は顔を上げた。

「何?」

「聞いてる?」

「聞いてるよ」

「じゃあ私、今何の話してた?」

玲奈は黙った。

美緒がため息をつく。

「全然聞いてないじゃん」

「……ごめん」

玲奈はストローで氷を動かした。

カラン、と小さな音がする。

美緒は玲奈の顔をじっと見た。

「黒川さんと何かあった?」

「どうしてそうなるの?」

「だって最近の玲奈、ずっとそんな顔してる」

「そんな顔って?」

「好きな人に言いたいことがあるのに、言えなくて勝手に苦しくなってる顔」

玲奈の手が止まった。

「……美緒って時々怖いね」

「親友歴、何年だと思ってるの」

玲奈は小さく笑った。

それから窓の外へ視線を向ける。

「少しだけ、一条の家に戻ってるの」

「え?」

美緒の表情が変わった。

「喧嘩?」

「……たぶん」

「たぶんって何」

「私にもよく分からない」

隼人と話せば話すほど。

分からないことが増える。

美緒は何か言おうとした。

その時。

玲奈のスマートフォンが震えた。

画面には通知。

メッセージを送ってきたのは――桜庭紗良。

幼い頃から付き合いのある令嬢仲間。

『玲奈、これ知ってる?』

続けて。

画像が一枚送られてきた。

玲奈は何気なく画面を開いた。

そして。

指が止まった。

「……え」

美緒が玲奈の顔を見る。

「どうしたの?」

玲奈は答えられなかった。

画面に映っているのは。

美月のSNSの投稿だった。

投稿されたのは、わずか十分前。

写真には、ホテルか高級レストランと思われるテーブル。

柔らかな照明。

二つ並んだワイングラス。

高級そうな料理。

そして。

写真の右端に映り込んでいる、男性の左手。

顔はない。

身体すらほとんど写っていない。

でも。

玲奈には分かった。

その腕時計。

黒い文字盤。

細かな傷の位置まで。

隼人が毎日のように身につけているものだった。

さらに。

男性の手元には、見慣れた黒いカフス。

それも。

玲奈が何度も見たことのあるもの。

写真に添えられた文章。

『長い一日の終わりに。
やっぱり、昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く。
七年経っても変わらないものって、あるんですね。』

玲奈の呼吸が浅くなった。

七年。

その数字。

何度聞いただろう。

美月と隼人が一緒にいた時間。

玲奈には絶対に埋められない年月。

さらに。

文章の最後には小さな白いハート。

名前は書いていない。

隼人とも。

社長とも。

恋人とも。

何一つ書いていない。

だからこそ。

言い逃れはいくらでもできる。

それでも。

分かる人には分かる。

隼人の腕時計を知っている人なら。

二人が長年仕事をしてきたことを知っている人なら。

「……玲奈?」

美緒の声。

玲奈は画面を見たまま動けなかった。

「これ……」

美緒がスマートフォンを覗き込む。

そして顔をしかめた。

「何、これ」

玲奈は唇を開く。

声が出ない。

紗良から、もう一通。

『香月美月さんの投稿。消されるかもしれないからスクショした』

その次。

『右に写ってるの、黒川さんじゃない?』

玲奈は返信できなかった。

胸の奥が。

ぎゅっと。

誰かに掴まれているように痛い。

「……隼人さんだと思う」

ようやく出た声。

「時計が」

美緒が玲奈を見る。

「でも、今日の写真とは限らないでしょう?」

玲奈の目が少し揺れる。

確かに。

そうだ。

今日撮ったものとは限らない。

昔の写真かもしれない。

仕事の会食かもしれない。

そもそも。

隼人と美月が二人きりだったという証拠もない。

周りに何人もいたかもしれない。

玲奈は自分に言い聞かせた。

(仕事かもしれない)

また。

同じ。

いつもそう。

仕事。

秘書。

昔から。

七年。

だから気にしてはいけない。

でも。

美月はわざわざ、

『昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く』

と書いた。

玲奈が見る可能性を考えなかったのだろうか。

いや。

「……見てほしかったのかな」

思わず漏れた。

美緒が眉を寄せる。

「誰に?」

玲奈は答えなかった。

自分に。

そう思った。

今までの美月の言葉を思い出す。

『七年もおそばにおりますと、何でも分かるようになるんです』

『いつものお店を取ってあります』

『隼人さんが貸してくださったんです』

『今夜のことは、二人だけの秘密ですね』

偶然。

全部偶然。

そう思おうとしていた。

でも。

もし。

偶然ではなかったら?

玲奈の背筋が冷たくなる。

「玲奈」

美緒がスマートフォンをテーブルへ伏せた。

「これだけで決めつけたら駄目」

「分かってる」

「黒川さんに聞こう」

「……聞いても」

玲奈の声が小さくなる。

「仕事だって言われると思う」

「じゃあ聞くだけ聞けばいいじゃん」

「美緒」

「玲奈はまた一人で考えて、一人で結論出そうとしてる」

図星だった。

玲奈は何も言えない。

「好きなんでしょう?」

胸が痛い。

玲奈は小さく頷いた。

「……うん」

「じゃあ聞きなよ」

「怖い」

初めて。

素直に言った。

「もし本当に……」

その先を言えない。

もし。

隼人が美月を好きだったら。

もし。

玲奈と結婚したのは本当に一条家との関係だけで。

本当は美月のような女性を愛していたら。

知らないままのほうが。

少しだけ幸せなのかもしれない。

「私……」

玲奈は画面へ視線を落とす。

「ずっと、香月さんのほうが隼人さんに似合うって思ってた」

「玲奈」

「仕事もできて、大人で」

声が震える。

「隼人さんのこと、何でも知ってる」

「だからって」

「私は何も知らない」

玲奈は笑った。

ひどく寂しい笑顔だった。

「今でも」


午後四時半。

玲奈は九条コーポレーション本社近くのラウンジにいた。

本当なら九条本社へ行く予定だった。

しかし今日は社内の大会議室が使用中とのことで、蓮から場所を変更したいと連絡が入ったのだ。

玲奈の前には資料が広げられている。

けれど。

内容がまったく頭へ入らなかった。

「玲奈さん」

蓮の声。

「はい」

「ここ、計算間違ってる」

「え?」

玲奈は資料を見る。

普段ならしないような単純なミス。

「すみません」

訂正する。

数分後。

「そこも違う」

「……すみません」

蓮はペンを置いた。

「今日は終わり」

玲奈が顔を上げる。

「でも、まだ――」

「仕事になってない」

はっきり言われた。

玲奈は俯く。

「申し訳ありません」

「怒ってない」

「でも」

「何があった?」

玲奈の指が止まった。

「何も」

「嘘」

隼人とは違う。

蓮はすぐに言う。

「ホテルで黒川に会った時よりひどい顔してる」

玲奈は答えなかった。

蓮が身を乗り出す。

「黒川?」

「違います」

「じゃあ秘書?」

玲奈の顔が上がった。

蓮は小さく息を吐く。

「当たりか」

「……どうして分かるんですか」

「前から気にしてただろ」

玲奈は少し迷った。

それから。

スマートフォンを蓮へ向けた。

「これ」

蓮が画面を見る。

数秒。

表情が変わった。

「香月美月のアカウント?」

「はい」

蓮は写真を拡大する。

時計。

カフス。

グラス。

そして文章。

「……ずいぶん分かりやすい匂わせだな」

玲奈の胸が痛む。

「やっぱりそう見えますか」

「見えるように撮ってる」

蓮は即答した。

「でも」

玲奈は慌てる。

「仕事かもしれません」

「仕事かどうかは知らない」

蓮は玲奈を見る。

「ただ、この女が『仕事に見せたい』とは思ってないのは確かだな」

玲奈は黙る。

「黒川に確認した?」

「してません」

「何で」

「……怖いから」

蓮が少し驚いた顔をする。

玲奈は視線を落とした。

「もし本当に二人が……」

言えない。

蓮はしばらく玲奈を見ていた。

それから。

「俺なら」

玲奈が顔を上げる。

「好きな女に、こんな顔させた時点で説明するけどな」

「九条さん」

「仕事だろうが何だろうが」

蓮の声は軽くない。

「誤解されて困るなら、誤解させないようにする」

玲奈の胸に刺さる。

「黒川が何を考えてるか、俺には分からない」

「……はい」

「でも」

蓮は玲奈をまっすぐ見る。

「玲奈さんがこんなに我慢する必要もないと思う」

その言葉。

最近。

何度聞いただろう。

亮も。

父も。

同じようなことを言った。

我慢しなくていい。

どうして隼人以外の人ばかりが。

玲奈の寂しさに気づくのだろう。

「……少し、外を歩いてもいいですか?」

「いいよ」

蓮は資料を閉じた。


同じ頃。

黒川ホールディングス。

「香月さん」

第二秘書・佐伯奈緒は、自分のスマートフォンを見つめたまま固まっていた。

昼休みに社員仲間から送られてきた画像。

美月のSNS。

奈緒は何度も確認した。

見間違いではない。

写真の男性。

顔はない。

けれど隼人の時計だ。

奈緒は毎日スケジュール管理をしている。

隼人の持ち物くらい分かる。

問題は。

その写真の日付だった。

奈緒には見覚えがあった。

「これ……先月の」

ホテルで極秘会議をした日。

奈緒は資料を届けるため、途中まで同席していた。

参加者は隼人と美月だけではない。

橘常務。

顧問弁護士。

海外法人責任者。

全部で六名。

写真は会議終了後。

ホテル内のレストランで全員が食事を取った際のものだ。

テーブルを切り取れば。

隼人と美月だけの食事に見える。

しかも。

「どうして、今……」

一か月近く前の写真を。

今日撮ったように投稿している。

そして。

《昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く》

仕事仲間が読むだけでも誤解する。

まして。

妻が見たら。

奈緒は立ち上がった。

迷った。

美月は先輩だ。

入社以来、仕事を教えてくれた。

厳しいが。

尊敬していた。

それでも。

これは違う。

奈緒は隼人の執務室の扉をノックした。

「どうぞ」

「失礼します」

隼人は資料から顔を上げる。

「何だ」

「社長」

少し迷って。

スマートフォンを差し出す。

「こちら、ご存じでしょうか」

隼人が画面を見る。

その瞬間。

表情が変わった。

「……何だ、これは」

奈緒の背筋が伸びる。

「香月さんが本日SNSへ投稿されたものです」

「今日?」

「はい」

隼人が画面を手に取る。

文章を読む。

顔から温度が消えていく。

「この写真はいつだ」

「先月十二日の海外案件会議後だと思います」

隼人もすぐに思い出した。

あの日。

ホテル。

玲奈に誤解をさせた夜。

その後。

参加者全員で簡単に食事をした。

隼人の隣に橘。

向かいに弁護士。

美月は斜め前だった。

二人きりなどではない。

「なぜこんな撮り方になっている」

奈緒は答えられない。

隼人が立ち上がった。

「香月は」

「本日は午後から外出しております」

「どこへ」

「取引先への資料届けと聞いております」

「戻りは」

「十八時予定です」

隼人はスマートフォンを取り出す。

最初に美月へかける。

出ない。

もう一度。

出ない。

隼人の眉が深く寄る。

「玲奈は」

口から出た名前。

奈緒は少し驚く。

「奥様、ですか?」

隼人はもう玲奈へ電話をかけていた。

一度。

繋がらない。

二度目。

出ない。

胸の奥に嫌な予感が広がる。

「……見たのか」

小さく呟く。

玲奈は以前。

自分と美月の距離が嫌だと、はっきり言った。

それなのに。

こんなものを見たら。

どう思う。

『やっぱり私は、隼人さんには必要ない』

玲奈なら。

そう考えかねない。

隼人はジャケットへ手を伸ばした。

「社長?」

「今日の残りは橘へ回せ」

「ですが十七時半から――」

「キャンセル」

迷いはなかった。

「玲奈を探す」

奈緒は何も言えなくなった。


玲奈は蓮と並んで、ビルの外へ出た。

夕方の街。

雨上がりの歩道に夕日が反射している。

少し離れて亮がついてきていた。

朝。

約束通り玲奈の護衛へ戻ってきた。

再会した時。

亮は何も聞かなかった。

ただ、

『本日より、またよろしくお願いいたします』

と頭を下げた。

それだけだった。

玲奈は歩きながら空を見る。

「雨、止んでよかった」

「そうだな」

蓮が答える。

しばらく二人とも何も話さなかった。

玲奈はスマートフォンをバッグへ入れた。

画面を見るのが嫌だった。

「九条さん」

「何?」

「もし」

玲奈は歩きながら言う。

「好きな人に、別に大切な人がいたら……どうします?」

蓮が玲奈を見る。

「諦める?」

「質問しているのは私です」

「じゃあ俺なら諦めない」

即答だった。

玲奈が少し笑う。

「九条さんらしい」

「ただし」

蓮の表情が少し真面目になる。

「相手の気持ちがはっきりそっちにあるなら、話は別」

玲奈は黙る。

「自分を選ぶ可能性がない女を、いつまでも縛りたくはない」

その言葉が胸へ落ちる。

「玲奈さんは?」

「私?」

「黒川が香月を好きだったら」

玲奈の足が少し遅くなる。

考えたくなかった。

でも。

考えなければならない。

「……離れます」

声は思っていたより静かだった。

蓮の表情が変わる。

「いいの?」

「だって」

玲奈は少し笑った。

「好きな人が幸せになりたい相手の邪魔はしたくありません」

言ってしまうと。

胸が激しく痛んだ。

隼人と離れる。

想像するだけで苦しい。

でも。

もし本当に美月を愛しているなら。

玲奈が妻の座に居座ることに、何の意味があるのだろう。

政略結婚として始まったのだから。

一条化粧品さえ自力で立て直せれば。

もう。

隼人を縛る理由はない。

「……会社」

玲奈が小さく呟く。

蓮が聞き返す。

「何?」

「一条化粧品を、もっと早く一人で立てるようにしないと」

「玲奈さん?」

玲奈の中で。

小さな考えが形になり始めていた。

黒川家からの支援がなくても。

一条が生きていけるようになれば。

この結婚を続けなければならない理由はなくなる。

そうすれば。

隼人も。

自分が本当に好きな人を選べる。

「玲奈」

突然。

背後から名前を呼ばれた。

聞き慣れた声。

玲奈の身体が止まる。

蓮も振り返る。

歩道の少し先。

黒い車の横に。

隼人が立っていた。

「……隼人さん」

どうして。

仕事中のはず。

隼人は玲奈だけを見ている。

蓮の存在など気にしていないように。

こちらへ歩いてくる。

いつもより速い。

そして。

玲奈の前で足を止めた。

「電話した」

「……気づきませんでした」

「そうか」

隼人の呼吸が、ほんの少し乱れている。

急いできたのだろうか。

「玲奈」

「はい」

「香月のSNSを見たか」

胸が大きく鳴った。

玲奈は答えなかった。

それだけで。

隼人には分かった。

「見たんだな」

「……はい」

隼人が目を閉じる。

ほんの一瞬。

「違う」

玲奈の胸が揺れる。

「何がですか」

「あの写真は今日じゃない」

「……」

「先月の海外案件の会議後だ」

玲奈は隼人を見る。

「二人ではない」

隼人は続ける。

「橘も、弁護士も、海外法人の担当者もいた」

玲奈の瞳が揺れた。

「本当に?」

「嘘を言う理由がない」

隼人はスマートフォンを取り出す。

奈緒から送られてきた当日の会議予定。

参加者。

レストラン予約。

すべて玲奈へ見せる。

「写真は切り取られている」

玲奈は画面を見つめた。

確かに。

六名。

「投稿した理由は、まだ聞いていない」

隼人の声が低くなる。

「だが、俺が許可したものじゃない」

玲奈は何も言えない。

隼人が。

説明している。

今まで。

何度聞いても、

『仕事だ』

だけだった。

それが初めて。

玲奈が誤解しないように、言葉を選んでいる。

「……でも」

玲奈は小さく言った。

「七年、一緒なのは本当ですよね」

隼人の表情が変わる。

「それは仕事だ」

「香月さんは、そう思っていないかもしれません」

その言葉で。

隼人が黙った。

玲奈の胸が冷える。

やっぱり。

何かある。

「……何ですか」

「玲奈」

「何か、あったんですか?」

隼人は数秒迷った。

以前なら。

言わなかっただろう。

玲奈を巻き込みたくない。

余計な心配をさせたくない。

そう考えて。

けれど。

その結果が今だ。

隼人は口を開いた。

「香月から、想いを告げられた」

玲奈の顔から血の気が引いた。

蓮も少し眉を動かす。

「……いつ」

「昨夜」

玲奈は動けない。

昨夜。

自分が一条家へ戻った夜。

「黒川邸で?」

「……ああ」

胸が痛い。

美月は。

玲奈がいない黒川邸へ行った。

そこで。

隼人へ想いを告げた。

玲奈の指先が震える。

それでも。

一番聞かなければならない。

「隼人さんは?」

声がかすれた。

「何て答えたんですか」

隼人は玲奈を見る。

逃げなかった。

「断った」

玲奈の呼吸が止まりそうになる。

「俺が香月を女性として見たことはない」

はっきり。

初めて。

玲奈がずっと聞きたかった言葉だった。

「一度もない」

胸の奥で。

固く結ばれていたものが、少しだけほどける。

それでも。

まだ。

すべてではない。

玲奈は隼人を見上げる。

「だったら……」

声が震える。

「どうして、今まで言ってくれなかったんですか」

隼人は答えられない。

「私、ずっと」

玲奈の目に涙が浮かぶ。

「ずっと怖かったんです」

「玲奈」

「香月さんのほうが好きなのかもしれないって」

一歩。

玲奈が後ろへ下がる。

「隼人さんは何も言ってくれないから」

声が崩れる。

「私、自分で考えるしかなかった」

隼人の胸が痛む。

「……悪かった」

玲奈が目を見開く。

隼人が。

謝った。

それも。

言い訳せずに。

「本当に」

隼人は続ける。

「悪かった」

玲奈の頬を涙が伝う。

隼人が反射的に手を伸ばしかける。

けれど。

途中で止めた。

触れていいか分からない。

以前なら、勝手に肩を抱いていたかもしれない。

今は。

「触っていいか」

玲奈の目がさらに大きくなる。

そんなことを。

隼人が聞くなんて。

玲奈は答えられなかった。

でも。

逃げなかった。

隼人はそれを拒絶ではないと受け取り。

そっと。

本当にそっと。

玲奈の頬に触れた。

親指で涙を拭う。

玲奈の胸が激しく鳴る。

こんなにも優しく。

隼人に触れられたのは。

初めてだった。

少し離れたところで。

蓮は二人を見ていた。

何も言わず。

ただ。

隼人を見る目だけが、少し複雑になっていた。

そして。

さらに離れた場所。

ビルの影に停まった一台の車の中から。

その光景を見ている女がいた。

美月だった。

玲奈の頬へ触れる隼人。

逃げない玲奈。

二人の距離。

「……どうして」

美月の唇が震える。

自分が投稿した写真は。

玲奈を遠ざけるはずだった。

隼人を信じられなくさせるはずだった。

なのに。

結果は逆。

隼人は初めて玲奈へすべて説明した。

自分の告白まで。

そして今。

自分には一度も向けなかった優しい手で。

玲奈の涙を拭っている。

美月の指が、スマートフォンを強く握る。

「どうして、私じゃないの……」

七年間。

待った。

支えた。

隣にいた。

それなのに。

隼人の心を動かしたのは。

何も知らなかった十九歳の少女。

美月の中で。

最後に残っていた理性が。

ゆっくりと。

音もなく、崩れ始めていた。