その写真を、玲奈は自分から探したわけではなかった。
見たくて見たわけでもない。
むしろ。
できることなら――知らないままでいたかった。
午後三時十分。
大学の講義を終えた玲奈は、キャンパス内のカフェにいた。
窓の外には、初夏の青々とした木々が並んでいる。
昼過ぎまで降っていた雨はすでに上がり、濡れた葉が陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
店内には講義を終えた学生たちの声が飛び交っている。
玲奈の向かいには美緒。
テーブルの上には二人分のアイスティーと、半分ほど食べたチーズケーキ。
本来なら。
大学にいる間くらい、普通の十九歳として過ごせるはずだった。
けれど今日の玲奈は、何度もスマートフォンへ視線を落としていた。
隼人から連絡が来ていないか。
自分でも嫌になる。
一条家へ戻って二日目。
昨夜、隼人から届いたのは、
『神谷の警護復帰について手配した』
という短いメッセージだけだった。
玲奈は、
『ありがとうございます』
と返した。
それだけ。
本当は電話をすると言っていた。
けれど仕事が長引いたらしく、
『遅くなった。明日にする』
と連絡があった。
玲奈も、
『分かりました』
と返した。
以前の自分なら、待っただろう。
眠くても。
電話が来るかもしれないと思って、起きていた。
けれど昨夜はスマートフォンを枕元へ置いて、そのまま眠った。
少しずつ。
待たないことを覚えなければならない。
そう思っている。
「玲奈」
美緒に呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「何?」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「じゃあ私、今何の話してた?」
玲奈は黙った。
美緒がため息をつく。
「全然聞いてないじゃん」
「……ごめん」
玲奈はストローで氷を動かした。
カラン、と小さな音がする。
美緒は玲奈の顔をじっと見た。
「黒川さんと何かあった?」
「どうしてそうなるの?」
「だって最近の玲奈、ずっとそんな顔してる」
「そんな顔って?」
「好きな人に言いたいことがあるのに、言えなくて勝手に苦しくなってる顔」
玲奈の手が止まった。
「……美緒って時々怖いね」
「親友歴、何年だと思ってるの」
玲奈は小さく笑った。
それから窓の外へ視線を向ける。
「少しだけ、一条の家に戻ってるの」
「え?」
美緒の表情が変わった。
「喧嘩?」
「……たぶん」
「たぶんって何」
「私にもよく分からない」
隼人と話せば話すほど。
分からないことが増える。
美緒は何か言おうとした。
その時。
玲奈のスマートフォンが震えた。
画面には通知。
メッセージを送ってきたのは――桜庭紗良。
幼い頃から付き合いのある令嬢仲間。
『玲奈、これ知ってる?』
続けて。
画像が一枚送られてきた。
玲奈は何気なく画面を開いた。
そして。
指が止まった。
「……え」
美緒が玲奈の顔を見る。
「どうしたの?」
玲奈は答えられなかった。
画面に映っているのは。
美月のSNSの投稿だった。
投稿されたのは、わずか十分前。
写真には、ホテルか高級レストランと思われるテーブル。
柔らかな照明。
二つ並んだワイングラス。
高級そうな料理。
そして。
写真の右端に映り込んでいる、男性の左手。
顔はない。
身体すらほとんど写っていない。
でも。
玲奈には分かった。
その腕時計。
黒い文字盤。
細かな傷の位置まで。
隼人が毎日のように身につけているものだった。
さらに。
男性の手元には、見慣れた黒いカフス。
それも。
玲奈が何度も見たことのあるもの。
写真に添えられた文章。
『長い一日の終わりに。
やっぱり、昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く。
七年経っても変わらないものって、あるんですね。』
玲奈の呼吸が浅くなった。
七年。
その数字。
何度聞いただろう。
美月と隼人が一緒にいた時間。
玲奈には絶対に埋められない年月。
さらに。
文章の最後には小さな白いハート。
名前は書いていない。
隼人とも。
社長とも。
恋人とも。
何一つ書いていない。
だからこそ。
言い逃れはいくらでもできる。
それでも。
分かる人には分かる。
隼人の腕時計を知っている人なら。
二人が長年仕事をしてきたことを知っている人なら。
「……玲奈?」
美緒の声。
玲奈は画面を見たまま動けなかった。
「これ……」
美緒がスマートフォンを覗き込む。
そして顔をしかめた。
「何、これ」
玲奈は唇を開く。
声が出ない。
紗良から、もう一通。
『香月美月さんの投稿。消されるかもしれないからスクショした』
その次。
『右に写ってるの、黒川さんじゃない?』
玲奈は返信できなかった。
胸の奥が。
ぎゅっと。
誰かに掴まれているように痛い。
「……隼人さんだと思う」
ようやく出た声。
「時計が」
美緒が玲奈を見る。
「でも、今日の写真とは限らないでしょう?」
玲奈の目が少し揺れる。
確かに。
そうだ。
今日撮ったものとは限らない。
昔の写真かもしれない。
仕事の会食かもしれない。
そもそも。
隼人と美月が二人きりだったという証拠もない。
周りに何人もいたかもしれない。
玲奈は自分に言い聞かせた。
(仕事かもしれない)
また。
同じ。
いつもそう。
仕事。
秘書。
昔から。
七年。
だから気にしてはいけない。
でも。
美月はわざわざ、
『昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く』
と書いた。
玲奈が見る可能性を考えなかったのだろうか。
いや。
「……見てほしかったのかな」
思わず漏れた。
美緒が眉を寄せる。
「誰に?」
玲奈は答えなかった。
自分に。
そう思った。
今までの美月の言葉を思い出す。
『七年もおそばにおりますと、何でも分かるようになるんです』
『いつものお店を取ってあります』
『隼人さんが貸してくださったんです』
『今夜のことは、二人だけの秘密ですね』
偶然。
全部偶然。
そう思おうとしていた。
でも。
もし。
偶然ではなかったら?
玲奈の背筋が冷たくなる。
「玲奈」
美緒がスマートフォンをテーブルへ伏せた。
「これだけで決めつけたら駄目」
「分かってる」
「黒川さんに聞こう」
「……聞いても」
玲奈の声が小さくなる。
「仕事だって言われると思う」
「じゃあ聞くだけ聞けばいいじゃん」
「美緒」
「玲奈はまた一人で考えて、一人で結論出そうとしてる」
図星だった。
玲奈は何も言えない。
「好きなんでしょう?」
胸が痛い。
玲奈は小さく頷いた。
「……うん」
「じゃあ聞きなよ」
「怖い」
初めて。
素直に言った。
「もし本当に……」
その先を言えない。
もし。
隼人が美月を好きだったら。
もし。
玲奈と結婚したのは本当に一条家との関係だけで。
本当は美月のような女性を愛していたら。
知らないままのほうが。
少しだけ幸せなのかもしれない。
「私……」
玲奈は画面へ視線を落とす。
「ずっと、香月さんのほうが隼人さんに似合うって思ってた」
「玲奈」
「仕事もできて、大人で」
声が震える。
「隼人さんのこと、何でも知ってる」
「だからって」
「私は何も知らない」
玲奈は笑った。
ひどく寂しい笑顔だった。
「今でも」
午後四時半。
玲奈は九条コーポレーション本社近くのラウンジにいた。
本当なら九条本社へ行く予定だった。
しかし今日は社内の大会議室が使用中とのことで、蓮から場所を変更したいと連絡が入ったのだ。
玲奈の前には資料が広げられている。
けれど。
内容がまったく頭へ入らなかった。
「玲奈さん」
蓮の声。
「はい」
「ここ、計算間違ってる」
「え?」
玲奈は資料を見る。
普段ならしないような単純なミス。
「すみません」
訂正する。
数分後。
「そこも違う」
「……すみません」
蓮はペンを置いた。
「今日は終わり」
玲奈が顔を上げる。
「でも、まだ――」
「仕事になってない」
はっきり言われた。
玲奈は俯く。
「申し訳ありません」
「怒ってない」
「でも」
「何があった?」
玲奈の指が止まった。
「何も」
「嘘」
隼人とは違う。
蓮はすぐに言う。
「ホテルで黒川に会った時よりひどい顔してる」
玲奈は答えなかった。
蓮が身を乗り出す。
「黒川?」
「違います」
「じゃあ秘書?」
玲奈の顔が上がった。
蓮は小さく息を吐く。
「当たりか」
「……どうして分かるんですか」
「前から気にしてただろ」
玲奈は少し迷った。
それから。
スマートフォンを蓮へ向けた。
「これ」
蓮が画面を見る。
数秒。
表情が変わった。
「香月美月のアカウント?」
「はい」
蓮は写真を拡大する。
時計。
カフス。
グラス。
そして文章。
「……ずいぶん分かりやすい匂わせだな」
玲奈の胸が痛む。
「やっぱりそう見えますか」
「見えるように撮ってる」
蓮は即答した。
「でも」
玲奈は慌てる。
「仕事かもしれません」
「仕事かどうかは知らない」
蓮は玲奈を見る。
「ただ、この女が『仕事に見せたい』とは思ってないのは確かだな」
玲奈は黙る。
「黒川に確認した?」
「してません」
「何で」
「……怖いから」
蓮が少し驚いた顔をする。
玲奈は視線を落とした。
「もし本当に二人が……」
言えない。
蓮はしばらく玲奈を見ていた。
それから。
「俺なら」
玲奈が顔を上げる。
「好きな女に、こんな顔させた時点で説明するけどな」
「九条さん」
「仕事だろうが何だろうが」
蓮の声は軽くない。
「誤解されて困るなら、誤解させないようにする」
玲奈の胸に刺さる。
「黒川が何を考えてるか、俺には分からない」
「……はい」
「でも」
蓮は玲奈をまっすぐ見る。
「玲奈さんがこんなに我慢する必要もないと思う」
その言葉。
最近。
何度聞いただろう。
亮も。
父も。
同じようなことを言った。
我慢しなくていい。
どうして隼人以外の人ばかりが。
玲奈の寂しさに気づくのだろう。
「……少し、外を歩いてもいいですか?」
「いいよ」
蓮は資料を閉じた。
同じ頃。
黒川ホールディングス。
「香月さん」
第二秘書・佐伯奈緒は、自分のスマートフォンを見つめたまま固まっていた。
昼休みに社員仲間から送られてきた画像。
美月のSNS。
奈緒は何度も確認した。
見間違いではない。
写真の男性。
顔はない。
けれど隼人の時計だ。
奈緒は毎日スケジュール管理をしている。
隼人の持ち物くらい分かる。
問題は。
その写真の日付だった。
奈緒には見覚えがあった。
「これ……先月の」
ホテルで極秘会議をした日。
奈緒は資料を届けるため、途中まで同席していた。
参加者は隼人と美月だけではない。
橘常務。
顧問弁護士。
海外法人責任者。
全部で六名。
写真は会議終了後。
ホテル内のレストランで全員が食事を取った際のものだ。
テーブルを切り取れば。
隼人と美月だけの食事に見える。
しかも。
「どうして、今……」
一か月近く前の写真を。
今日撮ったように投稿している。
そして。
《昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く》
仕事仲間が読むだけでも誤解する。
まして。
妻が見たら。
奈緒は立ち上がった。
迷った。
美月は先輩だ。
入社以来、仕事を教えてくれた。
厳しいが。
尊敬していた。
それでも。
これは違う。
奈緒は隼人の執務室の扉をノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
隼人は資料から顔を上げる。
「何だ」
「社長」
少し迷って。
スマートフォンを差し出す。
「こちら、ご存じでしょうか」
隼人が画面を見る。
その瞬間。
表情が変わった。
「……何だ、これは」
奈緒の背筋が伸びる。
「香月さんが本日SNSへ投稿されたものです」
「今日?」
「はい」
隼人が画面を手に取る。
文章を読む。
顔から温度が消えていく。
「この写真はいつだ」
「先月十二日の海外案件会議後だと思います」
隼人もすぐに思い出した。
あの日。
ホテル。
玲奈に誤解をさせた夜。
その後。
参加者全員で簡単に食事をした。
隼人の隣に橘。
向かいに弁護士。
美月は斜め前だった。
二人きりなどではない。
「なぜこんな撮り方になっている」
奈緒は答えられない。
隼人が立ち上がった。
「香月は」
「本日は午後から外出しております」
「どこへ」
「取引先への資料届けと聞いております」
「戻りは」
「十八時予定です」
隼人はスマートフォンを取り出す。
最初に美月へかける。
出ない。
もう一度。
出ない。
隼人の眉が深く寄る。
「玲奈は」
口から出た名前。
奈緒は少し驚く。
「奥様、ですか?」
隼人はもう玲奈へ電話をかけていた。
一度。
繋がらない。
二度目。
出ない。
胸の奥に嫌な予感が広がる。
「……見たのか」
小さく呟く。
玲奈は以前。
自分と美月の距離が嫌だと、はっきり言った。
それなのに。
こんなものを見たら。
どう思う。
『やっぱり私は、隼人さんには必要ない』
玲奈なら。
そう考えかねない。
隼人はジャケットへ手を伸ばした。
「社長?」
「今日の残りは橘へ回せ」
「ですが十七時半から――」
「キャンセル」
迷いはなかった。
「玲奈を探す」
奈緒は何も言えなくなった。
玲奈は蓮と並んで、ビルの外へ出た。
夕方の街。
雨上がりの歩道に夕日が反射している。
少し離れて亮がついてきていた。
朝。
約束通り玲奈の護衛へ戻ってきた。
再会した時。
亮は何も聞かなかった。
ただ、
『本日より、またよろしくお願いいたします』
と頭を下げた。
それだけだった。
玲奈は歩きながら空を見る。
「雨、止んでよかった」
「そうだな」
蓮が答える。
しばらく二人とも何も話さなかった。
玲奈はスマートフォンをバッグへ入れた。
画面を見るのが嫌だった。
「九条さん」
「何?」
「もし」
玲奈は歩きながら言う。
「好きな人に、別に大切な人がいたら……どうします?」
蓮が玲奈を見る。
「諦める?」
「質問しているのは私です」
「じゃあ俺なら諦めない」
即答だった。
玲奈が少し笑う。
「九条さんらしい」
「ただし」
蓮の表情が少し真面目になる。
「相手の気持ちがはっきりそっちにあるなら、話は別」
玲奈は黙る。
「自分を選ぶ可能性がない女を、いつまでも縛りたくはない」
その言葉が胸へ落ちる。
「玲奈さんは?」
「私?」
「黒川が香月を好きだったら」
玲奈の足が少し遅くなる。
考えたくなかった。
でも。
考えなければならない。
「……離れます」
声は思っていたより静かだった。
蓮の表情が変わる。
「いいの?」
「だって」
玲奈は少し笑った。
「好きな人が幸せになりたい相手の邪魔はしたくありません」
言ってしまうと。
胸が激しく痛んだ。
隼人と離れる。
想像するだけで苦しい。
でも。
もし本当に美月を愛しているなら。
玲奈が妻の座に居座ることに、何の意味があるのだろう。
政略結婚として始まったのだから。
一条化粧品さえ自力で立て直せれば。
もう。
隼人を縛る理由はない。
「……会社」
玲奈が小さく呟く。
蓮が聞き返す。
「何?」
「一条化粧品を、もっと早く一人で立てるようにしないと」
「玲奈さん?」
玲奈の中で。
小さな考えが形になり始めていた。
黒川家からの支援がなくても。
一条が生きていけるようになれば。
この結婚を続けなければならない理由はなくなる。
そうすれば。
隼人も。
自分が本当に好きな人を選べる。
「玲奈」
突然。
背後から名前を呼ばれた。
聞き慣れた声。
玲奈の身体が止まる。
蓮も振り返る。
歩道の少し先。
黒い車の横に。
隼人が立っていた。
「……隼人さん」
どうして。
仕事中のはず。
隼人は玲奈だけを見ている。
蓮の存在など気にしていないように。
こちらへ歩いてくる。
いつもより速い。
そして。
玲奈の前で足を止めた。
「電話した」
「……気づきませんでした」
「そうか」
隼人の呼吸が、ほんの少し乱れている。
急いできたのだろうか。
「玲奈」
「はい」
「香月のSNSを見たか」
胸が大きく鳴った。
玲奈は答えなかった。
それだけで。
隼人には分かった。
「見たんだな」
「……はい」
隼人が目を閉じる。
ほんの一瞬。
「違う」
玲奈の胸が揺れる。
「何がですか」
「あの写真は今日じゃない」
「……」
「先月の海外案件の会議後だ」
玲奈は隼人を見る。
「二人ではない」
隼人は続ける。
「橘も、弁護士も、海外法人の担当者もいた」
玲奈の瞳が揺れた。
「本当に?」
「嘘を言う理由がない」
隼人はスマートフォンを取り出す。
奈緒から送られてきた当日の会議予定。
参加者。
レストラン予約。
すべて玲奈へ見せる。
「写真は切り取られている」
玲奈は画面を見つめた。
確かに。
六名。
「投稿した理由は、まだ聞いていない」
隼人の声が低くなる。
「だが、俺が許可したものじゃない」
玲奈は何も言えない。
隼人が。
説明している。
今まで。
何度聞いても、
『仕事だ』
だけだった。
それが初めて。
玲奈が誤解しないように、言葉を選んでいる。
「……でも」
玲奈は小さく言った。
「七年、一緒なのは本当ですよね」
隼人の表情が変わる。
「それは仕事だ」
「香月さんは、そう思っていないかもしれません」
その言葉で。
隼人が黙った。
玲奈の胸が冷える。
やっぱり。
何かある。
「……何ですか」
「玲奈」
「何か、あったんですか?」
隼人は数秒迷った。
以前なら。
言わなかっただろう。
玲奈を巻き込みたくない。
余計な心配をさせたくない。
そう考えて。
けれど。
その結果が今だ。
隼人は口を開いた。
「香月から、想いを告げられた」
玲奈の顔から血の気が引いた。
蓮も少し眉を動かす。
「……いつ」
「昨夜」
玲奈は動けない。
昨夜。
自分が一条家へ戻った夜。
「黒川邸で?」
「……ああ」
胸が痛い。
美月は。
玲奈がいない黒川邸へ行った。
そこで。
隼人へ想いを告げた。
玲奈の指先が震える。
それでも。
一番聞かなければならない。
「隼人さんは?」
声がかすれた。
「何て答えたんですか」
隼人は玲奈を見る。
逃げなかった。
「断った」
玲奈の呼吸が止まりそうになる。
「俺が香月を女性として見たことはない」
はっきり。
初めて。
玲奈がずっと聞きたかった言葉だった。
「一度もない」
胸の奥で。
固く結ばれていたものが、少しだけほどける。
それでも。
まだ。
すべてではない。
玲奈は隼人を見上げる。
「だったら……」
声が震える。
「どうして、今まで言ってくれなかったんですか」
隼人は答えられない。
「私、ずっと」
玲奈の目に涙が浮かぶ。
「ずっと怖かったんです」
「玲奈」
「香月さんのほうが好きなのかもしれないって」
一歩。
玲奈が後ろへ下がる。
「隼人さんは何も言ってくれないから」
声が崩れる。
「私、自分で考えるしかなかった」
隼人の胸が痛む。
「……悪かった」
玲奈が目を見開く。
隼人が。
謝った。
それも。
言い訳せずに。
「本当に」
隼人は続ける。
「悪かった」
玲奈の頬を涙が伝う。
隼人が反射的に手を伸ばしかける。
けれど。
途中で止めた。
触れていいか分からない。
以前なら、勝手に肩を抱いていたかもしれない。
今は。
「触っていいか」
玲奈の目がさらに大きくなる。
そんなことを。
隼人が聞くなんて。
玲奈は答えられなかった。
でも。
逃げなかった。
隼人はそれを拒絶ではないと受け取り。
そっと。
本当にそっと。
玲奈の頬に触れた。
親指で涙を拭う。
玲奈の胸が激しく鳴る。
こんなにも優しく。
隼人に触れられたのは。
初めてだった。
少し離れたところで。
蓮は二人を見ていた。
何も言わず。
ただ。
隼人を見る目だけが、少し複雑になっていた。
そして。
さらに離れた場所。
ビルの影に停まった一台の車の中から。
その光景を見ている女がいた。
美月だった。
玲奈の頬へ触れる隼人。
逃げない玲奈。
二人の距離。
「……どうして」
美月の唇が震える。
自分が投稿した写真は。
玲奈を遠ざけるはずだった。
隼人を信じられなくさせるはずだった。
なのに。
結果は逆。
隼人は初めて玲奈へすべて説明した。
自分の告白まで。
そして今。
自分には一度も向けなかった優しい手で。
玲奈の涙を拭っている。
美月の指が、スマートフォンを強く握る。
「どうして、私じゃないの……」
七年間。
待った。
支えた。
隣にいた。
それなのに。
隼人の心を動かしたのは。
何も知らなかった十九歳の少女。
美月の中で。
最後に残っていた理性が。
ゆっくりと。
音もなく、崩れ始めていた。
見たくて見たわけでもない。
むしろ。
できることなら――知らないままでいたかった。
午後三時十分。
大学の講義を終えた玲奈は、キャンパス内のカフェにいた。
窓の外には、初夏の青々とした木々が並んでいる。
昼過ぎまで降っていた雨はすでに上がり、濡れた葉が陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
店内には講義を終えた学生たちの声が飛び交っている。
玲奈の向かいには美緒。
テーブルの上には二人分のアイスティーと、半分ほど食べたチーズケーキ。
本来なら。
大学にいる間くらい、普通の十九歳として過ごせるはずだった。
けれど今日の玲奈は、何度もスマートフォンへ視線を落としていた。
隼人から連絡が来ていないか。
自分でも嫌になる。
一条家へ戻って二日目。
昨夜、隼人から届いたのは、
『神谷の警護復帰について手配した』
という短いメッセージだけだった。
玲奈は、
『ありがとうございます』
と返した。
それだけ。
本当は電話をすると言っていた。
けれど仕事が長引いたらしく、
『遅くなった。明日にする』
と連絡があった。
玲奈も、
『分かりました』
と返した。
以前の自分なら、待っただろう。
眠くても。
電話が来るかもしれないと思って、起きていた。
けれど昨夜はスマートフォンを枕元へ置いて、そのまま眠った。
少しずつ。
待たないことを覚えなければならない。
そう思っている。
「玲奈」
美緒に呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「何?」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「じゃあ私、今何の話してた?」
玲奈は黙った。
美緒がため息をつく。
「全然聞いてないじゃん」
「……ごめん」
玲奈はストローで氷を動かした。
カラン、と小さな音がする。
美緒は玲奈の顔をじっと見た。
「黒川さんと何かあった?」
「どうしてそうなるの?」
「だって最近の玲奈、ずっとそんな顔してる」
「そんな顔って?」
「好きな人に言いたいことがあるのに、言えなくて勝手に苦しくなってる顔」
玲奈の手が止まった。
「……美緒って時々怖いね」
「親友歴、何年だと思ってるの」
玲奈は小さく笑った。
それから窓の外へ視線を向ける。
「少しだけ、一条の家に戻ってるの」
「え?」
美緒の表情が変わった。
「喧嘩?」
「……たぶん」
「たぶんって何」
「私にもよく分からない」
隼人と話せば話すほど。
分からないことが増える。
美緒は何か言おうとした。
その時。
玲奈のスマートフォンが震えた。
画面には通知。
メッセージを送ってきたのは――桜庭紗良。
幼い頃から付き合いのある令嬢仲間。
『玲奈、これ知ってる?』
続けて。
画像が一枚送られてきた。
玲奈は何気なく画面を開いた。
そして。
指が止まった。
「……え」
美緒が玲奈の顔を見る。
「どうしたの?」
玲奈は答えられなかった。
画面に映っているのは。
美月のSNSの投稿だった。
投稿されたのは、わずか十分前。
写真には、ホテルか高級レストランと思われるテーブル。
柔らかな照明。
二つ並んだワイングラス。
高級そうな料理。
そして。
写真の右端に映り込んでいる、男性の左手。
顔はない。
身体すらほとんど写っていない。
でも。
玲奈には分かった。
その腕時計。
黒い文字盤。
細かな傷の位置まで。
隼人が毎日のように身につけているものだった。
さらに。
男性の手元には、見慣れた黒いカフス。
それも。
玲奈が何度も見たことのあるもの。
写真に添えられた文章。
『長い一日の終わりに。
やっぱり、昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く。
七年経っても変わらないものって、あるんですね。』
玲奈の呼吸が浅くなった。
七年。
その数字。
何度聞いただろう。
美月と隼人が一緒にいた時間。
玲奈には絶対に埋められない年月。
さらに。
文章の最後には小さな白いハート。
名前は書いていない。
隼人とも。
社長とも。
恋人とも。
何一つ書いていない。
だからこそ。
言い逃れはいくらでもできる。
それでも。
分かる人には分かる。
隼人の腕時計を知っている人なら。
二人が長年仕事をしてきたことを知っている人なら。
「……玲奈?」
美緒の声。
玲奈は画面を見たまま動けなかった。
「これ……」
美緒がスマートフォンを覗き込む。
そして顔をしかめた。
「何、これ」
玲奈は唇を開く。
声が出ない。
紗良から、もう一通。
『香月美月さんの投稿。消されるかもしれないからスクショした』
その次。
『右に写ってるの、黒川さんじゃない?』
玲奈は返信できなかった。
胸の奥が。
ぎゅっと。
誰かに掴まれているように痛い。
「……隼人さんだと思う」
ようやく出た声。
「時計が」
美緒が玲奈を見る。
「でも、今日の写真とは限らないでしょう?」
玲奈の目が少し揺れる。
確かに。
そうだ。
今日撮ったものとは限らない。
昔の写真かもしれない。
仕事の会食かもしれない。
そもそも。
隼人と美月が二人きりだったという証拠もない。
周りに何人もいたかもしれない。
玲奈は自分に言い聞かせた。
(仕事かもしれない)
また。
同じ。
いつもそう。
仕事。
秘書。
昔から。
七年。
だから気にしてはいけない。
でも。
美月はわざわざ、
『昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く』
と書いた。
玲奈が見る可能性を考えなかったのだろうか。
いや。
「……見てほしかったのかな」
思わず漏れた。
美緒が眉を寄せる。
「誰に?」
玲奈は答えなかった。
自分に。
そう思った。
今までの美月の言葉を思い出す。
『七年もおそばにおりますと、何でも分かるようになるんです』
『いつものお店を取ってあります』
『隼人さんが貸してくださったんです』
『今夜のことは、二人だけの秘密ですね』
偶然。
全部偶然。
そう思おうとしていた。
でも。
もし。
偶然ではなかったら?
玲奈の背筋が冷たくなる。
「玲奈」
美緒がスマートフォンをテーブルへ伏せた。
「これだけで決めつけたら駄目」
「分かってる」
「黒川さんに聞こう」
「……聞いても」
玲奈の声が小さくなる。
「仕事だって言われると思う」
「じゃあ聞くだけ聞けばいいじゃん」
「美緒」
「玲奈はまた一人で考えて、一人で結論出そうとしてる」
図星だった。
玲奈は何も言えない。
「好きなんでしょう?」
胸が痛い。
玲奈は小さく頷いた。
「……うん」
「じゃあ聞きなよ」
「怖い」
初めて。
素直に言った。
「もし本当に……」
その先を言えない。
もし。
隼人が美月を好きだったら。
もし。
玲奈と結婚したのは本当に一条家との関係だけで。
本当は美月のような女性を愛していたら。
知らないままのほうが。
少しだけ幸せなのかもしれない。
「私……」
玲奈は画面へ視線を落とす。
「ずっと、香月さんのほうが隼人さんに似合うって思ってた」
「玲奈」
「仕事もできて、大人で」
声が震える。
「隼人さんのこと、何でも知ってる」
「だからって」
「私は何も知らない」
玲奈は笑った。
ひどく寂しい笑顔だった。
「今でも」
午後四時半。
玲奈は九条コーポレーション本社近くのラウンジにいた。
本当なら九条本社へ行く予定だった。
しかし今日は社内の大会議室が使用中とのことで、蓮から場所を変更したいと連絡が入ったのだ。
玲奈の前には資料が広げられている。
けれど。
内容がまったく頭へ入らなかった。
「玲奈さん」
蓮の声。
「はい」
「ここ、計算間違ってる」
「え?」
玲奈は資料を見る。
普段ならしないような単純なミス。
「すみません」
訂正する。
数分後。
「そこも違う」
「……すみません」
蓮はペンを置いた。
「今日は終わり」
玲奈が顔を上げる。
「でも、まだ――」
「仕事になってない」
はっきり言われた。
玲奈は俯く。
「申し訳ありません」
「怒ってない」
「でも」
「何があった?」
玲奈の指が止まった。
「何も」
「嘘」
隼人とは違う。
蓮はすぐに言う。
「ホテルで黒川に会った時よりひどい顔してる」
玲奈は答えなかった。
蓮が身を乗り出す。
「黒川?」
「違います」
「じゃあ秘書?」
玲奈の顔が上がった。
蓮は小さく息を吐く。
「当たりか」
「……どうして分かるんですか」
「前から気にしてただろ」
玲奈は少し迷った。
それから。
スマートフォンを蓮へ向けた。
「これ」
蓮が画面を見る。
数秒。
表情が変わった。
「香月美月のアカウント?」
「はい」
蓮は写真を拡大する。
時計。
カフス。
グラス。
そして文章。
「……ずいぶん分かりやすい匂わせだな」
玲奈の胸が痛む。
「やっぱりそう見えますか」
「見えるように撮ってる」
蓮は即答した。
「でも」
玲奈は慌てる。
「仕事かもしれません」
「仕事かどうかは知らない」
蓮は玲奈を見る。
「ただ、この女が『仕事に見せたい』とは思ってないのは確かだな」
玲奈は黙る。
「黒川に確認した?」
「してません」
「何で」
「……怖いから」
蓮が少し驚いた顔をする。
玲奈は視線を落とした。
「もし本当に二人が……」
言えない。
蓮はしばらく玲奈を見ていた。
それから。
「俺なら」
玲奈が顔を上げる。
「好きな女に、こんな顔させた時点で説明するけどな」
「九条さん」
「仕事だろうが何だろうが」
蓮の声は軽くない。
「誤解されて困るなら、誤解させないようにする」
玲奈の胸に刺さる。
「黒川が何を考えてるか、俺には分からない」
「……はい」
「でも」
蓮は玲奈をまっすぐ見る。
「玲奈さんがこんなに我慢する必要もないと思う」
その言葉。
最近。
何度聞いただろう。
亮も。
父も。
同じようなことを言った。
我慢しなくていい。
どうして隼人以外の人ばかりが。
玲奈の寂しさに気づくのだろう。
「……少し、外を歩いてもいいですか?」
「いいよ」
蓮は資料を閉じた。
同じ頃。
黒川ホールディングス。
「香月さん」
第二秘書・佐伯奈緒は、自分のスマートフォンを見つめたまま固まっていた。
昼休みに社員仲間から送られてきた画像。
美月のSNS。
奈緒は何度も確認した。
見間違いではない。
写真の男性。
顔はない。
けれど隼人の時計だ。
奈緒は毎日スケジュール管理をしている。
隼人の持ち物くらい分かる。
問題は。
その写真の日付だった。
奈緒には見覚えがあった。
「これ……先月の」
ホテルで極秘会議をした日。
奈緒は資料を届けるため、途中まで同席していた。
参加者は隼人と美月だけではない。
橘常務。
顧問弁護士。
海外法人責任者。
全部で六名。
写真は会議終了後。
ホテル内のレストランで全員が食事を取った際のものだ。
テーブルを切り取れば。
隼人と美月だけの食事に見える。
しかも。
「どうして、今……」
一か月近く前の写真を。
今日撮ったように投稿している。
そして。
《昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く》
仕事仲間が読むだけでも誤解する。
まして。
妻が見たら。
奈緒は立ち上がった。
迷った。
美月は先輩だ。
入社以来、仕事を教えてくれた。
厳しいが。
尊敬していた。
それでも。
これは違う。
奈緒は隼人の執務室の扉をノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
隼人は資料から顔を上げる。
「何だ」
「社長」
少し迷って。
スマートフォンを差し出す。
「こちら、ご存じでしょうか」
隼人が画面を見る。
その瞬間。
表情が変わった。
「……何だ、これは」
奈緒の背筋が伸びる。
「香月さんが本日SNSへ投稿されたものです」
「今日?」
「はい」
隼人が画面を手に取る。
文章を読む。
顔から温度が消えていく。
「この写真はいつだ」
「先月十二日の海外案件会議後だと思います」
隼人もすぐに思い出した。
あの日。
ホテル。
玲奈に誤解をさせた夜。
その後。
参加者全員で簡単に食事をした。
隼人の隣に橘。
向かいに弁護士。
美月は斜め前だった。
二人きりなどではない。
「なぜこんな撮り方になっている」
奈緒は答えられない。
隼人が立ち上がった。
「香月は」
「本日は午後から外出しております」
「どこへ」
「取引先への資料届けと聞いております」
「戻りは」
「十八時予定です」
隼人はスマートフォンを取り出す。
最初に美月へかける。
出ない。
もう一度。
出ない。
隼人の眉が深く寄る。
「玲奈は」
口から出た名前。
奈緒は少し驚く。
「奥様、ですか?」
隼人はもう玲奈へ電話をかけていた。
一度。
繋がらない。
二度目。
出ない。
胸の奥に嫌な予感が広がる。
「……見たのか」
小さく呟く。
玲奈は以前。
自分と美月の距離が嫌だと、はっきり言った。
それなのに。
こんなものを見たら。
どう思う。
『やっぱり私は、隼人さんには必要ない』
玲奈なら。
そう考えかねない。
隼人はジャケットへ手を伸ばした。
「社長?」
「今日の残りは橘へ回せ」
「ですが十七時半から――」
「キャンセル」
迷いはなかった。
「玲奈を探す」
奈緒は何も言えなくなった。
玲奈は蓮と並んで、ビルの外へ出た。
夕方の街。
雨上がりの歩道に夕日が反射している。
少し離れて亮がついてきていた。
朝。
約束通り玲奈の護衛へ戻ってきた。
再会した時。
亮は何も聞かなかった。
ただ、
『本日より、またよろしくお願いいたします』
と頭を下げた。
それだけだった。
玲奈は歩きながら空を見る。
「雨、止んでよかった」
「そうだな」
蓮が答える。
しばらく二人とも何も話さなかった。
玲奈はスマートフォンをバッグへ入れた。
画面を見るのが嫌だった。
「九条さん」
「何?」
「もし」
玲奈は歩きながら言う。
「好きな人に、別に大切な人がいたら……どうします?」
蓮が玲奈を見る。
「諦める?」
「質問しているのは私です」
「じゃあ俺なら諦めない」
即答だった。
玲奈が少し笑う。
「九条さんらしい」
「ただし」
蓮の表情が少し真面目になる。
「相手の気持ちがはっきりそっちにあるなら、話は別」
玲奈は黙る。
「自分を選ぶ可能性がない女を、いつまでも縛りたくはない」
その言葉が胸へ落ちる。
「玲奈さんは?」
「私?」
「黒川が香月を好きだったら」
玲奈の足が少し遅くなる。
考えたくなかった。
でも。
考えなければならない。
「……離れます」
声は思っていたより静かだった。
蓮の表情が変わる。
「いいの?」
「だって」
玲奈は少し笑った。
「好きな人が幸せになりたい相手の邪魔はしたくありません」
言ってしまうと。
胸が激しく痛んだ。
隼人と離れる。
想像するだけで苦しい。
でも。
もし本当に美月を愛しているなら。
玲奈が妻の座に居座ることに、何の意味があるのだろう。
政略結婚として始まったのだから。
一条化粧品さえ自力で立て直せれば。
もう。
隼人を縛る理由はない。
「……会社」
玲奈が小さく呟く。
蓮が聞き返す。
「何?」
「一条化粧品を、もっと早く一人で立てるようにしないと」
「玲奈さん?」
玲奈の中で。
小さな考えが形になり始めていた。
黒川家からの支援がなくても。
一条が生きていけるようになれば。
この結婚を続けなければならない理由はなくなる。
そうすれば。
隼人も。
自分が本当に好きな人を選べる。
「玲奈」
突然。
背後から名前を呼ばれた。
聞き慣れた声。
玲奈の身体が止まる。
蓮も振り返る。
歩道の少し先。
黒い車の横に。
隼人が立っていた。
「……隼人さん」
どうして。
仕事中のはず。
隼人は玲奈だけを見ている。
蓮の存在など気にしていないように。
こちらへ歩いてくる。
いつもより速い。
そして。
玲奈の前で足を止めた。
「電話した」
「……気づきませんでした」
「そうか」
隼人の呼吸が、ほんの少し乱れている。
急いできたのだろうか。
「玲奈」
「はい」
「香月のSNSを見たか」
胸が大きく鳴った。
玲奈は答えなかった。
それだけで。
隼人には分かった。
「見たんだな」
「……はい」
隼人が目を閉じる。
ほんの一瞬。
「違う」
玲奈の胸が揺れる。
「何がですか」
「あの写真は今日じゃない」
「……」
「先月の海外案件の会議後だ」
玲奈は隼人を見る。
「二人ではない」
隼人は続ける。
「橘も、弁護士も、海外法人の担当者もいた」
玲奈の瞳が揺れた。
「本当に?」
「嘘を言う理由がない」
隼人はスマートフォンを取り出す。
奈緒から送られてきた当日の会議予定。
参加者。
レストラン予約。
すべて玲奈へ見せる。
「写真は切り取られている」
玲奈は画面を見つめた。
確かに。
六名。
「投稿した理由は、まだ聞いていない」
隼人の声が低くなる。
「だが、俺が許可したものじゃない」
玲奈は何も言えない。
隼人が。
説明している。
今まで。
何度聞いても、
『仕事だ』
だけだった。
それが初めて。
玲奈が誤解しないように、言葉を選んでいる。
「……でも」
玲奈は小さく言った。
「七年、一緒なのは本当ですよね」
隼人の表情が変わる。
「それは仕事だ」
「香月さんは、そう思っていないかもしれません」
その言葉で。
隼人が黙った。
玲奈の胸が冷える。
やっぱり。
何かある。
「……何ですか」
「玲奈」
「何か、あったんですか?」
隼人は数秒迷った。
以前なら。
言わなかっただろう。
玲奈を巻き込みたくない。
余計な心配をさせたくない。
そう考えて。
けれど。
その結果が今だ。
隼人は口を開いた。
「香月から、想いを告げられた」
玲奈の顔から血の気が引いた。
蓮も少し眉を動かす。
「……いつ」
「昨夜」
玲奈は動けない。
昨夜。
自分が一条家へ戻った夜。
「黒川邸で?」
「……ああ」
胸が痛い。
美月は。
玲奈がいない黒川邸へ行った。
そこで。
隼人へ想いを告げた。
玲奈の指先が震える。
それでも。
一番聞かなければならない。
「隼人さんは?」
声がかすれた。
「何て答えたんですか」
隼人は玲奈を見る。
逃げなかった。
「断った」
玲奈の呼吸が止まりそうになる。
「俺が香月を女性として見たことはない」
はっきり。
初めて。
玲奈がずっと聞きたかった言葉だった。
「一度もない」
胸の奥で。
固く結ばれていたものが、少しだけほどける。
それでも。
まだ。
すべてではない。
玲奈は隼人を見上げる。
「だったら……」
声が震える。
「どうして、今まで言ってくれなかったんですか」
隼人は答えられない。
「私、ずっと」
玲奈の目に涙が浮かぶ。
「ずっと怖かったんです」
「玲奈」
「香月さんのほうが好きなのかもしれないって」
一歩。
玲奈が後ろへ下がる。
「隼人さんは何も言ってくれないから」
声が崩れる。
「私、自分で考えるしかなかった」
隼人の胸が痛む。
「……悪かった」
玲奈が目を見開く。
隼人が。
謝った。
それも。
言い訳せずに。
「本当に」
隼人は続ける。
「悪かった」
玲奈の頬を涙が伝う。
隼人が反射的に手を伸ばしかける。
けれど。
途中で止めた。
触れていいか分からない。
以前なら、勝手に肩を抱いていたかもしれない。
今は。
「触っていいか」
玲奈の目がさらに大きくなる。
そんなことを。
隼人が聞くなんて。
玲奈は答えられなかった。
でも。
逃げなかった。
隼人はそれを拒絶ではないと受け取り。
そっと。
本当にそっと。
玲奈の頬に触れた。
親指で涙を拭う。
玲奈の胸が激しく鳴る。
こんなにも優しく。
隼人に触れられたのは。
初めてだった。
少し離れたところで。
蓮は二人を見ていた。
何も言わず。
ただ。
隼人を見る目だけが、少し複雑になっていた。
そして。
さらに離れた場所。
ビルの影に停まった一台の車の中から。
その光景を見ている女がいた。
美月だった。
玲奈の頬へ触れる隼人。
逃げない玲奈。
二人の距離。
「……どうして」
美月の唇が震える。
自分が投稿した写真は。
玲奈を遠ざけるはずだった。
隼人を信じられなくさせるはずだった。
なのに。
結果は逆。
隼人は初めて玲奈へすべて説明した。
自分の告白まで。
そして今。
自分には一度も向けなかった優しい手で。
玲奈の涙を拭っている。
美月の指が、スマートフォンを強く握る。
「どうして、私じゃないの……」
七年間。
待った。
支えた。
隣にいた。
それなのに。
隼人の心を動かしたのは。
何も知らなかった十九歳の少女。
美月の中で。
最後に残っていた理性が。
ゆっくりと。
音もなく、崩れ始めていた。

