触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

美月は、自分の口からこぼれた言葉を取り戻すことができなかった。

「七年そばにいた私ではなく、結婚して数か月のあの子なのですか?」

黒川邸のリビング。

夜の庭に面した大きな窓は暗く、ガラスには室内の灯りだけが映っている。

静かな部屋の中央で、隼人は美月を見ていた。

いつもと同じ端正な顔。

けれど、その目だけが違う。

美月は七年間、隼人のさまざまな表情を見てきた。

大きな契約をまとめても喜びを表に出さない。

部下が失敗しても、必要以上に怒鳴らない。

厳しい要求を突きつける時でさえ、感情より理屈を優先する。

そんな男が今、自分を見つめる視線には、明確な警戒があった。

それが美月には耐えられなかった。

「……何を言っている」

低い声。

美月は一度唇を結んだ。

ここで笑って誤魔化すこともできた。

疲れていて変なことを言ってしまいました。

そう言えば、今まで通り秘書として隣に立てるかもしれない。

けれど。

もう無理だった。

玲奈が現れてから、何度自分に言い聞かせただろう。

結婚は政略。

隼人が愛しているわけではない。

あの少女は会社を救うために嫁いできただけ。

そのうち現実を知る。

夫婦の距離に耐えられなくなる。

隼人だって、いつか自分のほうを見る。

そう信じようとした。

なのに。

隼人は玲奈の予定を気にするようになった。

帰宅時間を気にする。

九条蓮に嫉妬する。

神谷亮に触れられたことを怒る。

誕生日の贈り物を自分で選ぶ。

そして今日は――。

仕事を放り出して、一条家まで玲奈を追いかけた。

美月の知らない隼人が、玲奈のために次々と現れていく。

もう見ていられなかった。

「……好きなんです」

自分の声が、思ったより静かだった。

隼人の眉がわずかに動く。

「私は、隼人さんが好きです」

とうとう言った。

七年間。

何度も喉元まで出かかった言葉。

仕事を教えてもらった日。

初めて海外出張へ同行した夜。

誰より遅くまで残業し、二人だけになった執務室。

仕事で失敗した時、

『次は同じことをするな。それでいい』

と責めずにいてくれた時。

一つずつ。

美月の中に積み重なっていった。

「ずっと……」

声が震える。

「ずっとお慕いしていました」

隼人は何も言わない。

その無言に耐えられず、美月は続けた。

「最初は言うつもりなんてありませんでした」

一歩だけ近づく。

「あなたは仕事以外に興味がない人だったから」

もう一歩。

「女性を紹介されても断る。誰とも付き合わない」

胸が苦しい。

「だから……私も待てました」

いつか。

いつか隼人が結婚を考える時。

一番近くにいる自分を選ぶのではないか。

そんな期待を抱いていた。

「私は、あなたのすぐそばにいたんです」

美月の目に涙が滲む。

「七年間」

隼人の表情は変わらない。

「なのに、どうして……」

とうとう声が崩れた。

「どうして玲奈さんなんですか?」

「香月」

「高校を卒業したばかりの子でしょう?」

言ってはいけない。

分かっている。

それでも止まらない。

「仕事だって分からない」

「隼人さんのことだって何も知らない」

「あなたが朝はコーヒーを二杯飲むことも、疲れている時は食事をほとんど取らなくなることも、考え事をしている時に右手でペンを回すことも――」

全部。

自分は知っている。

「私なら、あなたに無理をさせません」

美月は声を落とした。

「仕事を邪魔したりしない」

「実家に帰ったりしない」

「ほかの男と会って、あなたを困らせたりもしません」

隼人の目がわずかに細くなる。

けれど美月は気づかなかった。

「私なら、あなたの隣に立てます」

そして。

「玲奈さんより、ずっと――」

「もういい」

隼人の声が美月の言葉を切った。

美月が止まる。

「隼人さん……?」

「玲奈を比べる材料にするな」

冷たい声だった。

美月の胸が大きく痛む。

「でも私は――」

「七年そばにいたから何だ」

美月の顔から血の気が引いた。

隼人は感情的に怒鳴ってはいない。

だからこそ、言葉が強く突き刺さった。

「仕事をしてきたことには感謝している」

「……」

「お前は優秀な秘書だ。俺が任せた仕事の大半を、期待以上に処理してきた」

美月の胸に一瞬だけ希望が生まれる。

けれど。

「それ以上ではない」

その希望は、すぐに潰された。

「……それ以上では、ない?」

「ああ」

隼人は迷わなかった。

「一度も」

美月の唇が震える。

「嘘……」

「嘘を言う必要がない」

「一度も?」

「ない」

あまりにもはっきりしていた。

美月は笑おうとした。

できなかった。

「では……」

声がかすれる。

「七年間、私は何だったんですか」

「秘書だ」

隼人は答えた。

美月の目から涙が落ちる。

「そんな……」

あまりにも簡単。

七年という時間が、たった二文字で終わった気がした。

秘書。

ただそれだけ。

「玲奈さんは?」

聞かずにはいられなかった。

隼人の表情が初めて変わる。

ほんのわずか。

それだけでも。

七年間見続けてきた美月には分かった。

「……妻だ」

「それだけ?」

美月は食い下がる。

「政略結婚の妻でしょう?」

隼人が黙る。

美月の胸にわずかな希望が戻る。

「ほら」

涙を拭いながら、一歩近づいた。

「あなた自身だって分かっていないのでしょう?」

「何を」

「あの子を愛しているのか」

隼人の眉が寄る。

「会社のために嫁いできた子です」

「香月」

「十八歳だったから触れなかったのでしょう?」

美月は知っている。

黒川邸の使用人の間で、夫婦の寝室が別だという話は以前から耳にしていた。

「妻として求めていないからじゃないんですか?」

隼人の視線が冷える。

それでも美月は止まらなかった。

「だったら――」

美月はとうとう隼人の胸元へ手を伸ばした。

「私を見てください」

指先がスーツの胸元に触れる直前。

隼人がその手首を掴んだ。

強くはない。

けれど、それ以上近づくことを許さない力だった。

「やめろ」

「隼人さん」

「仕事の範囲を越えるな」

「もう越えています!」

美月は初めて声を上げた。

「七年も前から、とっくに越えています!」

涙で隼人の姿が滲む。

「私を一度くらい……女として見てください」

掴まれた手首が熱い。

その手にさえ、胸が高鳴ってしまう自分が情けなかった。

「一度でいいんです」

美月は隼人へ身体を近づけようとした。

「私だって……」

声が震える。

「あなたに触れてほしかった」

隼人の表情が険しくなる。

「香月」

「玲奈さんには触れていないのでしょう?」

その言葉で。

隼人の目が変わった。

美月は気づかず続ける。

「だったら私でも――」

「同じにするな」

低い声。

美月が動きを止める。

「何……?」

隼人は美月の手首を離した。

そして、一歩距離を取る。

「俺が玲奈に触れなかった理由を、お前が勝手に決めるな」

美月の胸がざわつく。

「では……どうして」

隼人は答えなかった。

けれど。

その目。

その表情。

美月はようやく気づき始める。

玲奈へ触れないのは。

興味がないからではない。

「まさか……」

美月の声が震えた。

「好き、なんですか」

隼人の指がわずかに動く。

それだけ。

けれど美月には十分だった。

「……嘘」

「香月」

「いつから?」

答えはない。

「いつから玲奈さんを?」

隼人の顔を見れば見るほど。

胸の奥が冷たくなる。

「結婚してから?」

違う。

美月は思った。

そんな短い時間ではない。

隼人が玲奈を見る目。

何かがある。

もっと前から。

「……まさか」

美月が一歩下がる。

「結婚する前から?」

隼人が目を逸らした。

その動きで。

答えを知ってしまった。

美月の顔が歪む。

「そんな……」

自分は七年待った。

その間。

隼人は誰も好きではないと思っていた。

だから待てた。

それなのに。

「私は何も知らなかったの……?」

「お前に話す必要はない」

「だって私は!」

そこまで言って、美月は止まった。

私は。

何だというのだろう。

秘書。

先ほど隼人自身がそう言った。

それ以上ではない。

「……帰ります」

もうここにはいられなかった。

「香月」

「明日、会社で」

美月は顔を見せないよう背を向ける。

「今日は失礼いたしました」

扉へ向かう。

けれど、その背中へ隼人の声が届いた。

「待て」

美月の足が止まる。

期待してしまった。

ほんの少し。

呼び止めてくれた。

もしかしたら。

「今日のことは、明日話す」

美月の期待が消える。

「……仕事として?」

「ああ」

隼人は冷静だった。

「今後の秘書体制も含めてな」

美月がゆっくり振り返る。

「秘書体制……?」

「今のまま、お前を俺の専属には置けない」

頭の中が真っ白になった。

「どうして」

「今聞くか?」

美月は答えられない。

自分が何をしたのか。

分かっている。

上司の自宅へ夜に押しかけ。

妻の留守中に想いを告げ。

触れようとした。

仕事と私情を完全に混同した。

「……玲奈さんのせいですか」

それでも。

そんな言葉しか出てこなかった。

隼人の表情が冷える。

「違う」

「でも――」

「お前自身の行動の結果だ」

美月は唇を噛んだ。

「明日、話す」

「……分かりました」

今度こそ。

美月は黒川邸を出た。

同じ夜。

一条家。

玲奈は自室のベッドに座り、スマートフォンを見つめていた。

隼人から届いたのは一通だけ。

『神谷の件は明日手配する』

それだけだった。

玲奈は何度も画面を見た。

『分かりました。ありがとうございます』

そう返した。

それ以降、やり取りはない。

「……何してるのかな」

呟いてから。

玲奈は自分で苦笑した。

離れて考えたいと言ったのは自分なのに。

結局。

隼人のことを考えている。

机の上には、誕生日にもらったネックレスの箱。

家を出る時。

持ってくるか迷った。

結局、バッグへ入れた。

玲奈は箱を開ける。

小さな花のペンダント。

照明を受け、ダイヤが静かに輝く。

「覚えていてくれたんだよね……」

あの日。

宝飾店でほんの数秒足を止めただけ。

それを隼人は覚えていた。

玲奈は指先でペンダントへ触れる。

好き。

やっぱり。

どれだけ腹が立っても。

離れても。

嫌いになれない。

「隼人さんは……どうなの?」

問いかけても。

答えてくれる人はいない。

玲奈は箱を閉じた。

その時。

スマートフォンが震えた。

隼人かと思い、すぐ手に取る。

しかし表示された名前は違った。

――九条蓮。

玲奈は少し驚いた。

仕事用に連絡先を交換している。

メッセージ。

『明日、一条の新商品について確認したい。大学終わりに時間ある?』

玲奈は考えた。

仕事。

今の企画について、九条側と詰めなければならない箇所が残っている。

『午後四時以降なら大丈夫です』

すぐに返信が来る。

『じゃあ四時半。九条本社だと黒川に警戒されそうだから外にする?』

玲奈は眉を寄せた。

『仕事ですから、本社で構いません』

『強くなったな』

『九条さんのせいです』

数秒後。

笑っているスタンプ。

玲奈も少しだけ笑った。

その瞬間。

ふと思う。

蓮とは。

こうして普通に会話ができる。

何を考えているのか、比較的分かりやすい。

亮もそうだ。

嬉しい。

嫌だ。

心配だ。

言葉にしてくれる。

隼人だけが。

一番知りたい人だけが。

何も言ってくれない。

「……ずるい」

玲奈はスマートフォンを伏せた。


翌日。

黒川ホールディングス。

午前九時。

美月はいつもより早く出社していた。

ほとんど眠れなかった。

鏡を見れば、目元には疲れが残っている。

それでも化粧で隠した。

仕事は仕事。

そう自分へ言い聞かせる。

デスクを整える。

隼人の予定を確認する。

いつも通りに。

七年間してきたことを。

「おはようございます」

社員たちが出社してくる。

「おはようございます」

美月も笑顔で返す。

誰も。

昨夜何があったか知らない。

そのことだけが救いだった。

午前九時十分。

エレベーターが開く。

隼人が降りてくる。

美月は反射的に立ち上がった。

「おはようございます」

「ああ」

それだけ。

いつもと同じ。

胸が痛む。

「隼人さん」

仕事の確認をしようとした時。

隼人が言った。

「香月。十時に橘と人事部長を呼べ」

美月の指が止まる。

「……はい」

「それと今日から、個人的な予定については佐伯へ引き継げ」

「佐伯さんへ?」

第二秘書の佐伯奈緒。

まだ二十四歳。

美月より経験は浅い。

「なぜですか」

「昨日話した通りだ」

周囲には社員がいる。

それ以上聞けない。

美月は頭を下げた。

「承知しました」

隼人が執務室へ入る。

扉が閉まる。

美月は立ったまま。

しばらく動けなかった。

たった一晩。

たった一度。

本音を口にしただけで。

七年間築いた場所まで失い始めている。

「香月さん?」

奈緒が心配そうに声をかける。

「顔色、大丈夫ですか?」

「大丈夫よ」

美月は笑った。

「少し寝不足なだけ」

「無理しないでくださいね」

奈緒が離れる。

その後ろ姿を見ながら。

美月の胸に、また黒い感情が広がる。

すべて。

玲奈が来てからだ。

玲奈さえいなければ。

自分は今まで通り、隼人の一番近くにいた。

そう思った瞬間。

机の上に置かれた隼人のスケジュール端末へ視線が落ちた。

今日の午後。

隼人には外部会議。

そして。

別の画面に表示された一条化粧品との連絡記録。

その中に、玲奈の名前。

さらに九条コーポレーションとの商品会議予定。

美月の目が止まる。

九条蓮。

玲奈。

隼人が最も気にしている男。

昨夜、自分は隼人へ近づいて拒絶された。

なら。

玲奈にも。

同じ苦しさを味わわせればいい。

自分の好きな男が。

自分ではない誰かと親密に見える苦しさを。

美月はスマートフォンを手に取った。

まだ終われない。

むしろ。

昨夜、初めて分かった。

隼人が玲奈を好きなのなら。

壊すべきものは、もっとはっきりしている。

玲奈の隼人への信頼。

それさえなくなればいい。

美月は画面を見つめながら、ゆっくり指を動かした。

今度は。

偶然に見せるだけでは終わらせない。

玲奈自身が、

「隼人さんには私ではなく、美月さんが必要なのだ」

と信じるようなものを。

作ればいい。

美月の中で。

最後の一線が、静かに消え始めていた。