美月は、自分の口からこぼれた言葉を取り戻すことができなかった。
「七年そばにいた私ではなく、結婚して数か月のあの子なのですか?」
黒川邸のリビング。
夜の庭に面した大きな窓は暗く、ガラスには室内の灯りだけが映っている。
静かな部屋の中央で、隼人は美月を見ていた。
いつもと同じ端正な顔。
けれど、その目だけが違う。
美月は七年間、隼人のさまざまな表情を見てきた。
大きな契約をまとめても喜びを表に出さない。
部下が失敗しても、必要以上に怒鳴らない。
厳しい要求を突きつける時でさえ、感情より理屈を優先する。
そんな男が今、自分を見つめる視線には、明確な警戒があった。
それが美月には耐えられなかった。
「……何を言っている」
低い声。
美月は一度唇を結んだ。
ここで笑って誤魔化すこともできた。
疲れていて変なことを言ってしまいました。
そう言えば、今まで通り秘書として隣に立てるかもしれない。
けれど。
もう無理だった。
玲奈が現れてから、何度自分に言い聞かせただろう。
結婚は政略。
隼人が愛しているわけではない。
あの少女は会社を救うために嫁いできただけ。
そのうち現実を知る。
夫婦の距離に耐えられなくなる。
隼人だって、いつか自分のほうを見る。
そう信じようとした。
なのに。
隼人は玲奈の予定を気にするようになった。
帰宅時間を気にする。
九条蓮に嫉妬する。
神谷亮に触れられたことを怒る。
誕生日の贈り物を自分で選ぶ。
そして今日は――。
仕事を放り出して、一条家まで玲奈を追いかけた。
美月の知らない隼人が、玲奈のために次々と現れていく。
もう見ていられなかった。
「……好きなんです」
自分の声が、思ったより静かだった。
隼人の眉がわずかに動く。
「私は、隼人さんが好きです」
とうとう言った。
七年間。
何度も喉元まで出かかった言葉。
仕事を教えてもらった日。
初めて海外出張へ同行した夜。
誰より遅くまで残業し、二人だけになった執務室。
仕事で失敗した時、
『次は同じことをするな。それでいい』
と責めずにいてくれた時。
一つずつ。
美月の中に積み重なっていった。
「ずっと……」
声が震える。
「ずっとお慕いしていました」
隼人は何も言わない。
その無言に耐えられず、美月は続けた。
「最初は言うつもりなんてありませんでした」
一歩だけ近づく。
「あなたは仕事以外に興味がない人だったから」
もう一歩。
「女性を紹介されても断る。誰とも付き合わない」
胸が苦しい。
「だから……私も待てました」
いつか。
いつか隼人が結婚を考える時。
一番近くにいる自分を選ぶのではないか。
そんな期待を抱いていた。
「私は、あなたのすぐそばにいたんです」
美月の目に涙が滲む。
「七年間」
隼人の表情は変わらない。
「なのに、どうして……」
とうとう声が崩れた。
「どうして玲奈さんなんですか?」
「香月」
「高校を卒業したばかりの子でしょう?」
言ってはいけない。
分かっている。
それでも止まらない。
「仕事だって分からない」
「隼人さんのことだって何も知らない」
「あなたが朝はコーヒーを二杯飲むことも、疲れている時は食事をほとんど取らなくなることも、考え事をしている時に右手でペンを回すことも――」
全部。
自分は知っている。
「私なら、あなたに無理をさせません」
美月は声を落とした。
「仕事を邪魔したりしない」
「実家に帰ったりしない」
「ほかの男と会って、あなたを困らせたりもしません」
隼人の目がわずかに細くなる。
けれど美月は気づかなかった。
「私なら、あなたの隣に立てます」
そして。
「玲奈さんより、ずっと――」
「もういい」
隼人の声が美月の言葉を切った。
美月が止まる。
「隼人さん……?」
「玲奈を比べる材料にするな」
冷たい声だった。
美月の胸が大きく痛む。
「でも私は――」
「七年そばにいたから何だ」
美月の顔から血の気が引いた。
隼人は感情的に怒鳴ってはいない。
だからこそ、言葉が強く突き刺さった。
「仕事をしてきたことには感謝している」
「……」
「お前は優秀な秘書だ。俺が任せた仕事の大半を、期待以上に処理してきた」
美月の胸に一瞬だけ希望が生まれる。
けれど。
「それ以上ではない」
その希望は、すぐに潰された。
「……それ以上では、ない?」
「ああ」
隼人は迷わなかった。
「一度も」
美月の唇が震える。
「嘘……」
「嘘を言う必要がない」
「一度も?」
「ない」
あまりにもはっきりしていた。
美月は笑おうとした。
できなかった。
「では……」
声がかすれる。
「七年間、私は何だったんですか」
「秘書だ」
隼人は答えた。
美月の目から涙が落ちる。
「そんな……」
あまりにも簡単。
七年という時間が、たった二文字で終わった気がした。
秘書。
ただそれだけ。
「玲奈さんは?」
聞かずにはいられなかった。
隼人の表情が初めて変わる。
ほんのわずか。
それだけでも。
七年間見続けてきた美月には分かった。
「……妻だ」
「それだけ?」
美月は食い下がる。
「政略結婚の妻でしょう?」
隼人が黙る。
美月の胸にわずかな希望が戻る。
「ほら」
涙を拭いながら、一歩近づいた。
「あなた自身だって分かっていないのでしょう?」
「何を」
「あの子を愛しているのか」
隼人の眉が寄る。
「会社のために嫁いできた子です」
「香月」
「十八歳だったから触れなかったのでしょう?」
美月は知っている。
黒川邸の使用人の間で、夫婦の寝室が別だという話は以前から耳にしていた。
「妻として求めていないからじゃないんですか?」
隼人の視線が冷える。
それでも美月は止まらなかった。
「だったら――」
美月はとうとう隼人の胸元へ手を伸ばした。
「私を見てください」
指先がスーツの胸元に触れる直前。
隼人がその手首を掴んだ。
強くはない。
けれど、それ以上近づくことを許さない力だった。
「やめろ」
「隼人さん」
「仕事の範囲を越えるな」
「もう越えています!」
美月は初めて声を上げた。
「七年も前から、とっくに越えています!」
涙で隼人の姿が滲む。
「私を一度くらい……女として見てください」
掴まれた手首が熱い。
その手にさえ、胸が高鳴ってしまう自分が情けなかった。
「一度でいいんです」
美月は隼人へ身体を近づけようとした。
「私だって……」
声が震える。
「あなたに触れてほしかった」
隼人の表情が険しくなる。
「香月」
「玲奈さんには触れていないのでしょう?」
その言葉で。
隼人の目が変わった。
美月は気づかず続ける。
「だったら私でも――」
「同じにするな」
低い声。
美月が動きを止める。
「何……?」
隼人は美月の手首を離した。
そして、一歩距離を取る。
「俺が玲奈に触れなかった理由を、お前が勝手に決めるな」
美月の胸がざわつく。
「では……どうして」
隼人は答えなかった。
けれど。
その目。
その表情。
美月はようやく気づき始める。
玲奈へ触れないのは。
興味がないからではない。
「まさか……」
美月の声が震えた。
「好き、なんですか」
隼人の指がわずかに動く。
それだけ。
けれど美月には十分だった。
「……嘘」
「香月」
「いつから?」
答えはない。
「いつから玲奈さんを?」
隼人の顔を見れば見るほど。
胸の奥が冷たくなる。
「結婚してから?」
違う。
美月は思った。
そんな短い時間ではない。
隼人が玲奈を見る目。
何かがある。
もっと前から。
「……まさか」
美月が一歩下がる。
「結婚する前から?」
隼人が目を逸らした。
その動きで。
答えを知ってしまった。
美月の顔が歪む。
「そんな……」
自分は七年待った。
その間。
隼人は誰も好きではないと思っていた。
だから待てた。
それなのに。
「私は何も知らなかったの……?」
「お前に話す必要はない」
「だって私は!」
そこまで言って、美月は止まった。
私は。
何だというのだろう。
秘書。
先ほど隼人自身がそう言った。
それ以上ではない。
「……帰ります」
もうここにはいられなかった。
「香月」
「明日、会社で」
美月は顔を見せないよう背を向ける。
「今日は失礼いたしました」
扉へ向かう。
けれど、その背中へ隼人の声が届いた。
「待て」
美月の足が止まる。
期待してしまった。
ほんの少し。
呼び止めてくれた。
もしかしたら。
「今日のことは、明日話す」
美月の期待が消える。
「……仕事として?」
「ああ」
隼人は冷静だった。
「今後の秘書体制も含めてな」
美月がゆっくり振り返る。
「秘書体制……?」
「今のまま、お前を俺の専属には置けない」
頭の中が真っ白になった。
「どうして」
「今聞くか?」
美月は答えられない。
自分が何をしたのか。
分かっている。
上司の自宅へ夜に押しかけ。
妻の留守中に想いを告げ。
触れようとした。
仕事と私情を完全に混同した。
「……玲奈さんのせいですか」
それでも。
そんな言葉しか出てこなかった。
隼人の表情が冷える。
「違う」
「でも――」
「お前自身の行動の結果だ」
美月は唇を噛んだ。
「明日、話す」
「……分かりました」
今度こそ。
美月は黒川邸を出た。
同じ夜。
一条家。
玲奈は自室のベッドに座り、スマートフォンを見つめていた。
隼人から届いたのは一通だけ。
『神谷の件は明日手配する』
それだけだった。
玲奈は何度も画面を見た。
『分かりました。ありがとうございます』
そう返した。
それ以降、やり取りはない。
「……何してるのかな」
呟いてから。
玲奈は自分で苦笑した。
離れて考えたいと言ったのは自分なのに。
結局。
隼人のことを考えている。
机の上には、誕生日にもらったネックレスの箱。
家を出る時。
持ってくるか迷った。
結局、バッグへ入れた。
玲奈は箱を開ける。
小さな花のペンダント。
照明を受け、ダイヤが静かに輝く。
「覚えていてくれたんだよね……」
あの日。
宝飾店でほんの数秒足を止めただけ。
それを隼人は覚えていた。
玲奈は指先でペンダントへ触れる。
好き。
やっぱり。
どれだけ腹が立っても。
離れても。
嫌いになれない。
「隼人さんは……どうなの?」
問いかけても。
答えてくれる人はいない。
玲奈は箱を閉じた。
その時。
スマートフォンが震えた。
隼人かと思い、すぐ手に取る。
しかし表示された名前は違った。
――九条蓮。
玲奈は少し驚いた。
仕事用に連絡先を交換している。
メッセージ。
『明日、一条の新商品について確認したい。大学終わりに時間ある?』
玲奈は考えた。
仕事。
今の企画について、九条側と詰めなければならない箇所が残っている。
『午後四時以降なら大丈夫です』
すぐに返信が来る。
『じゃあ四時半。九条本社だと黒川に警戒されそうだから外にする?』
玲奈は眉を寄せた。
『仕事ですから、本社で構いません』
『強くなったな』
『九条さんのせいです』
数秒後。
笑っているスタンプ。
玲奈も少しだけ笑った。
その瞬間。
ふと思う。
蓮とは。
こうして普通に会話ができる。
何を考えているのか、比較的分かりやすい。
亮もそうだ。
嬉しい。
嫌だ。
心配だ。
言葉にしてくれる。
隼人だけが。
一番知りたい人だけが。
何も言ってくれない。
「……ずるい」
玲奈はスマートフォンを伏せた。
翌日。
黒川ホールディングス。
午前九時。
美月はいつもより早く出社していた。
ほとんど眠れなかった。
鏡を見れば、目元には疲れが残っている。
それでも化粧で隠した。
仕事は仕事。
そう自分へ言い聞かせる。
デスクを整える。
隼人の予定を確認する。
いつも通りに。
七年間してきたことを。
「おはようございます」
社員たちが出社してくる。
「おはようございます」
美月も笑顔で返す。
誰も。
昨夜何があったか知らない。
そのことだけが救いだった。
午前九時十分。
エレベーターが開く。
隼人が降りてくる。
美月は反射的に立ち上がった。
「おはようございます」
「ああ」
それだけ。
いつもと同じ。
胸が痛む。
「隼人さん」
仕事の確認をしようとした時。
隼人が言った。
「香月。十時に橘と人事部長を呼べ」
美月の指が止まる。
「……はい」
「それと今日から、個人的な予定については佐伯へ引き継げ」
「佐伯さんへ?」
第二秘書の佐伯奈緒。
まだ二十四歳。
美月より経験は浅い。
「なぜですか」
「昨日話した通りだ」
周囲には社員がいる。
それ以上聞けない。
美月は頭を下げた。
「承知しました」
隼人が執務室へ入る。
扉が閉まる。
美月は立ったまま。
しばらく動けなかった。
たった一晩。
たった一度。
本音を口にしただけで。
七年間築いた場所まで失い始めている。
「香月さん?」
奈緒が心配そうに声をかける。
「顔色、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
美月は笑った。
「少し寝不足なだけ」
「無理しないでくださいね」
奈緒が離れる。
その後ろ姿を見ながら。
美月の胸に、また黒い感情が広がる。
すべて。
玲奈が来てからだ。
玲奈さえいなければ。
自分は今まで通り、隼人の一番近くにいた。
そう思った瞬間。
机の上に置かれた隼人のスケジュール端末へ視線が落ちた。
今日の午後。
隼人には外部会議。
そして。
別の画面に表示された一条化粧品との連絡記録。
その中に、玲奈の名前。
さらに九条コーポレーションとの商品会議予定。
美月の目が止まる。
九条蓮。
玲奈。
隼人が最も気にしている男。
昨夜、自分は隼人へ近づいて拒絶された。
なら。
玲奈にも。
同じ苦しさを味わわせればいい。
自分の好きな男が。
自分ではない誰かと親密に見える苦しさを。
美月はスマートフォンを手に取った。
まだ終われない。
むしろ。
昨夜、初めて分かった。
隼人が玲奈を好きなのなら。
壊すべきものは、もっとはっきりしている。
玲奈の隼人への信頼。
それさえなくなればいい。
美月は画面を見つめながら、ゆっくり指を動かした。
今度は。
偶然に見せるだけでは終わらせない。
玲奈自身が、
「隼人さんには私ではなく、美月さんが必要なのだ」
と信じるようなものを。
作ればいい。
美月の中で。
最後の一線が、静かに消え始めていた。
「七年そばにいた私ではなく、結婚して数か月のあの子なのですか?」
黒川邸のリビング。
夜の庭に面した大きな窓は暗く、ガラスには室内の灯りだけが映っている。
静かな部屋の中央で、隼人は美月を見ていた。
いつもと同じ端正な顔。
けれど、その目だけが違う。
美月は七年間、隼人のさまざまな表情を見てきた。
大きな契約をまとめても喜びを表に出さない。
部下が失敗しても、必要以上に怒鳴らない。
厳しい要求を突きつける時でさえ、感情より理屈を優先する。
そんな男が今、自分を見つめる視線には、明確な警戒があった。
それが美月には耐えられなかった。
「……何を言っている」
低い声。
美月は一度唇を結んだ。
ここで笑って誤魔化すこともできた。
疲れていて変なことを言ってしまいました。
そう言えば、今まで通り秘書として隣に立てるかもしれない。
けれど。
もう無理だった。
玲奈が現れてから、何度自分に言い聞かせただろう。
結婚は政略。
隼人が愛しているわけではない。
あの少女は会社を救うために嫁いできただけ。
そのうち現実を知る。
夫婦の距離に耐えられなくなる。
隼人だって、いつか自分のほうを見る。
そう信じようとした。
なのに。
隼人は玲奈の予定を気にするようになった。
帰宅時間を気にする。
九条蓮に嫉妬する。
神谷亮に触れられたことを怒る。
誕生日の贈り物を自分で選ぶ。
そして今日は――。
仕事を放り出して、一条家まで玲奈を追いかけた。
美月の知らない隼人が、玲奈のために次々と現れていく。
もう見ていられなかった。
「……好きなんです」
自分の声が、思ったより静かだった。
隼人の眉がわずかに動く。
「私は、隼人さんが好きです」
とうとう言った。
七年間。
何度も喉元まで出かかった言葉。
仕事を教えてもらった日。
初めて海外出張へ同行した夜。
誰より遅くまで残業し、二人だけになった執務室。
仕事で失敗した時、
『次は同じことをするな。それでいい』
と責めずにいてくれた時。
一つずつ。
美月の中に積み重なっていった。
「ずっと……」
声が震える。
「ずっとお慕いしていました」
隼人は何も言わない。
その無言に耐えられず、美月は続けた。
「最初は言うつもりなんてありませんでした」
一歩だけ近づく。
「あなたは仕事以外に興味がない人だったから」
もう一歩。
「女性を紹介されても断る。誰とも付き合わない」
胸が苦しい。
「だから……私も待てました」
いつか。
いつか隼人が結婚を考える時。
一番近くにいる自分を選ぶのではないか。
そんな期待を抱いていた。
「私は、あなたのすぐそばにいたんです」
美月の目に涙が滲む。
「七年間」
隼人の表情は変わらない。
「なのに、どうして……」
とうとう声が崩れた。
「どうして玲奈さんなんですか?」
「香月」
「高校を卒業したばかりの子でしょう?」
言ってはいけない。
分かっている。
それでも止まらない。
「仕事だって分からない」
「隼人さんのことだって何も知らない」
「あなたが朝はコーヒーを二杯飲むことも、疲れている時は食事をほとんど取らなくなることも、考え事をしている時に右手でペンを回すことも――」
全部。
自分は知っている。
「私なら、あなたに無理をさせません」
美月は声を落とした。
「仕事を邪魔したりしない」
「実家に帰ったりしない」
「ほかの男と会って、あなたを困らせたりもしません」
隼人の目がわずかに細くなる。
けれど美月は気づかなかった。
「私なら、あなたの隣に立てます」
そして。
「玲奈さんより、ずっと――」
「もういい」
隼人の声が美月の言葉を切った。
美月が止まる。
「隼人さん……?」
「玲奈を比べる材料にするな」
冷たい声だった。
美月の胸が大きく痛む。
「でも私は――」
「七年そばにいたから何だ」
美月の顔から血の気が引いた。
隼人は感情的に怒鳴ってはいない。
だからこそ、言葉が強く突き刺さった。
「仕事をしてきたことには感謝している」
「……」
「お前は優秀な秘書だ。俺が任せた仕事の大半を、期待以上に処理してきた」
美月の胸に一瞬だけ希望が生まれる。
けれど。
「それ以上ではない」
その希望は、すぐに潰された。
「……それ以上では、ない?」
「ああ」
隼人は迷わなかった。
「一度も」
美月の唇が震える。
「嘘……」
「嘘を言う必要がない」
「一度も?」
「ない」
あまりにもはっきりしていた。
美月は笑おうとした。
できなかった。
「では……」
声がかすれる。
「七年間、私は何だったんですか」
「秘書だ」
隼人は答えた。
美月の目から涙が落ちる。
「そんな……」
あまりにも簡単。
七年という時間が、たった二文字で終わった気がした。
秘書。
ただそれだけ。
「玲奈さんは?」
聞かずにはいられなかった。
隼人の表情が初めて変わる。
ほんのわずか。
それだけでも。
七年間見続けてきた美月には分かった。
「……妻だ」
「それだけ?」
美月は食い下がる。
「政略結婚の妻でしょう?」
隼人が黙る。
美月の胸にわずかな希望が戻る。
「ほら」
涙を拭いながら、一歩近づいた。
「あなた自身だって分かっていないのでしょう?」
「何を」
「あの子を愛しているのか」
隼人の眉が寄る。
「会社のために嫁いできた子です」
「香月」
「十八歳だったから触れなかったのでしょう?」
美月は知っている。
黒川邸の使用人の間で、夫婦の寝室が別だという話は以前から耳にしていた。
「妻として求めていないからじゃないんですか?」
隼人の視線が冷える。
それでも美月は止まらなかった。
「だったら――」
美月はとうとう隼人の胸元へ手を伸ばした。
「私を見てください」
指先がスーツの胸元に触れる直前。
隼人がその手首を掴んだ。
強くはない。
けれど、それ以上近づくことを許さない力だった。
「やめろ」
「隼人さん」
「仕事の範囲を越えるな」
「もう越えています!」
美月は初めて声を上げた。
「七年も前から、とっくに越えています!」
涙で隼人の姿が滲む。
「私を一度くらい……女として見てください」
掴まれた手首が熱い。
その手にさえ、胸が高鳴ってしまう自分が情けなかった。
「一度でいいんです」
美月は隼人へ身体を近づけようとした。
「私だって……」
声が震える。
「あなたに触れてほしかった」
隼人の表情が険しくなる。
「香月」
「玲奈さんには触れていないのでしょう?」
その言葉で。
隼人の目が変わった。
美月は気づかず続ける。
「だったら私でも――」
「同じにするな」
低い声。
美月が動きを止める。
「何……?」
隼人は美月の手首を離した。
そして、一歩距離を取る。
「俺が玲奈に触れなかった理由を、お前が勝手に決めるな」
美月の胸がざわつく。
「では……どうして」
隼人は答えなかった。
けれど。
その目。
その表情。
美月はようやく気づき始める。
玲奈へ触れないのは。
興味がないからではない。
「まさか……」
美月の声が震えた。
「好き、なんですか」
隼人の指がわずかに動く。
それだけ。
けれど美月には十分だった。
「……嘘」
「香月」
「いつから?」
答えはない。
「いつから玲奈さんを?」
隼人の顔を見れば見るほど。
胸の奥が冷たくなる。
「結婚してから?」
違う。
美月は思った。
そんな短い時間ではない。
隼人が玲奈を見る目。
何かがある。
もっと前から。
「……まさか」
美月が一歩下がる。
「結婚する前から?」
隼人が目を逸らした。
その動きで。
答えを知ってしまった。
美月の顔が歪む。
「そんな……」
自分は七年待った。
その間。
隼人は誰も好きではないと思っていた。
だから待てた。
それなのに。
「私は何も知らなかったの……?」
「お前に話す必要はない」
「だって私は!」
そこまで言って、美月は止まった。
私は。
何だというのだろう。
秘書。
先ほど隼人自身がそう言った。
それ以上ではない。
「……帰ります」
もうここにはいられなかった。
「香月」
「明日、会社で」
美月は顔を見せないよう背を向ける。
「今日は失礼いたしました」
扉へ向かう。
けれど、その背中へ隼人の声が届いた。
「待て」
美月の足が止まる。
期待してしまった。
ほんの少し。
呼び止めてくれた。
もしかしたら。
「今日のことは、明日話す」
美月の期待が消える。
「……仕事として?」
「ああ」
隼人は冷静だった。
「今後の秘書体制も含めてな」
美月がゆっくり振り返る。
「秘書体制……?」
「今のまま、お前を俺の専属には置けない」
頭の中が真っ白になった。
「どうして」
「今聞くか?」
美月は答えられない。
自分が何をしたのか。
分かっている。
上司の自宅へ夜に押しかけ。
妻の留守中に想いを告げ。
触れようとした。
仕事と私情を完全に混同した。
「……玲奈さんのせいですか」
それでも。
そんな言葉しか出てこなかった。
隼人の表情が冷える。
「違う」
「でも――」
「お前自身の行動の結果だ」
美月は唇を噛んだ。
「明日、話す」
「……分かりました」
今度こそ。
美月は黒川邸を出た。
同じ夜。
一条家。
玲奈は自室のベッドに座り、スマートフォンを見つめていた。
隼人から届いたのは一通だけ。
『神谷の件は明日手配する』
それだけだった。
玲奈は何度も画面を見た。
『分かりました。ありがとうございます』
そう返した。
それ以降、やり取りはない。
「……何してるのかな」
呟いてから。
玲奈は自分で苦笑した。
離れて考えたいと言ったのは自分なのに。
結局。
隼人のことを考えている。
机の上には、誕生日にもらったネックレスの箱。
家を出る時。
持ってくるか迷った。
結局、バッグへ入れた。
玲奈は箱を開ける。
小さな花のペンダント。
照明を受け、ダイヤが静かに輝く。
「覚えていてくれたんだよね……」
あの日。
宝飾店でほんの数秒足を止めただけ。
それを隼人は覚えていた。
玲奈は指先でペンダントへ触れる。
好き。
やっぱり。
どれだけ腹が立っても。
離れても。
嫌いになれない。
「隼人さんは……どうなの?」
問いかけても。
答えてくれる人はいない。
玲奈は箱を閉じた。
その時。
スマートフォンが震えた。
隼人かと思い、すぐ手に取る。
しかし表示された名前は違った。
――九条蓮。
玲奈は少し驚いた。
仕事用に連絡先を交換している。
メッセージ。
『明日、一条の新商品について確認したい。大学終わりに時間ある?』
玲奈は考えた。
仕事。
今の企画について、九条側と詰めなければならない箇所が残っている。
『午後四時以降なら大丈夫です』
すぐに返信が来る。
『じゃあ四時半。九条本社だと黒川に警戒されそうだから外にする?』
玲奈は眉を寄せた。
『仕事ですから、本社で構いません』
『強くなったな』
『九条さんのせいです』
数秒後。
笑っているスタンプ。
玲奈も少しだけ笑った。
その瞬間。
ふと思う。
蓮とは。
こうして普通に会話ができる。
何を考えているのか、比較的分かりやすい。
亮もそうだ。
嬉しい。
嫌だ。
心配だ。
言葉にしてくれる。
隼人だけが。
一番知りたい人だけが。
何も言ってくれない。
「……ずるい」
玲奈はスマートフォンを伏せた。
翌日。
黒川ホールディングス。
午前九時。
美月はいつもより早く出社していた。
ほとんど眠れなかった。
鏡を見れば、目元には疲れが残っている。
それでも化粧で隠した。
仕事は仕事。
そう自分へ言い聞かせる。
デスクを整える。
隼人の予定を確認する。
いつも通りに。
七年間してきたことを。
「おはようございます」
社員たちが出社してくる。
「おはようございます」
美月も笑顔で返す。
誰も。
昨夜何があったか知らない。
そのことだけが救いだった。
午前九時十分。
エレベーターが開く。
隼人が降りてくる。
美月は反射的に立ち上がった。
「おはようございます」
「ああ」
それだけ。
いつもと同じ。
胸が痛む。
「隼人さん」
仕事の確認をしようとした時。
隼人が言った。
「香月。十時に橘と人事部長を呼べ」
美月の指が止まる。
「……はい」
「それと今日から、個人的な予定については佐伯へ引き継げ」
「佐伯さんへ?」
第二秘書の佐伯奈緒。
まだ二十四歳。
美月より経験は浅い。
「なぜですか」
「昨日話した通りだ」
周囲には社員がいる。
それ以上聞けない。
美月は頭を下げた。
「承知しました」
隼人が執務室へ入る。
扉が閉まる。
美月は立ったまま。
しばらく動けなかった。
たった一晩。
たった一度。
本音を口にしただけで。
七年間築いた場所まで失い始めている。
「香月さん?」
奈緒が心配そうに声をかける。
「顔色、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
美月は笑った。
「少し寝不足なだけ」
「無理しないでくださいね」
奈緒が離れる。
その後ろ姿を見ながら。
美月の胸に、また黒い感情が広がる。
すべて。
玲奈が来てからだ。
玲奈さえいなければ。
自分は今まで通り、隼人の一番近くにいた。
そう思った瞬間。
机の上に置かれた隼人のスケジュール端末へ視線が落ちた。
今日の午後。
隼人には外部会議。
そして。
別の画面に表示された一条化粧品との連絡記録。
その中に、玲奈の名前。
さらに九条コーポレーションとの商品会議予定。
美月の目が止まる。
九条蓮。
玲奈。
隼人が最も気にしている男。
昨夜、自分は隼人へ近づいて拒絶された。
なら。
玲奈にも。
同じ苦しさを味わわせればいい。
自分の好きな男が。
自分ではない誰かと親密に見える苦しさを。
美月はスマートフォンを手に取った。
まだ終われない。
むしろ。
昨夜、初めて分かった。
隼人が玲奈を好きなのなら。
壊すべきものは、もっとはっきりしている。
玲奈の隼人への信頼。
それさえなくなればいい。
美月は画面を見つめながら、ゆっくり指を動かした。
今度は。
偶然に見せるだけでは終わらせない。
玲奈自身が、
「隼人さんには私ではなく、美月さんが必要なのだ」
と信じるようなものを。
作ればいい。
美月の中で。
最後の一線が、静かに消え始めていた。

