触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

「……本当に、よろしいのですか?」

大学から一条家へ向かう車の中で、新しい護衛の遠山が遠慮がちに尋ねた。

午後五時を少し回った頃。

朝から空を覆っていた雲はさらに厚くなり、車窓の向こうには今にも雨が落ちてきそうな灰色の街が流れている。

玲奈は膝の上に置いたバッグを両手で抱えたまま、窓の外を見ていた。

「はい」

短く答える。

「今日は一条様のお屋敷へお送りするように、ということでよろしいでしょうか」

「お願いします」

「黒川様には……」

そこで遠山は言葉を切った。

玲奈は視線を落とす。

「私から連絡します」

「承知しました」

遠山はそれ以上尋ねなかった。

ありがたかった。

朝。

隼人に、

『亮さんを戻さないなら、私がここを出ます』

そう告げた。

あの時は怒りに任せて口にした言葉だった。

大学へ着いて。

講義を受けて。

昼休みになって。

時間が経てば少し冷静になると思っていた。

けれど。

何度考えても、気持ちは変わらなかった。

隼人が嫌いになったわけではない。

むしろ、その逆だから苦しい。

好きだから。

一つ一つの言葉に期待して。

一つ一つの態度に傷つく。

昨日だってそうだった。

誕生日を覚えていてくれた。

自分が気に入ったネックレスを覚えていた。

わざわざ予定まで空けてくれた。

嬉しかった。

それなのに最後には、

『今は話せない』

そう言われた。

玲奈が一番知りたかったこと。

隼人が自分をどう思っているのか。

そこだけは教えてくれなかった。

そして翌朝には亮を遠ざけた。

自分の気持ちを説明せずに。

玲奈の気持ちも聞かずに。

また勝手に。

「……少し、疲れちゃった」

誰にも聞こえないほどの声で呟く。

黒川邸へ帰れば、また隼人のことを考えてしまう。

車が帰ってくる音を気にする。

夕食を一緒に食べられるのか期待する。

美月から連絡が入れば胸がざわつく。

そんな自分から。

ほんの少し離れたかった。

家出をしたいわけではない。

離婚をしたいと決めたわけでもない。

ただ。

自分の気持ちを考える時間が欲しい。

隼人の妻ではなく。

一条玲奈として。

一条家の門が見えてくる。

懐かしい白い外壁。

母が好きだった薔薇の庭。

つい数か月前までは毎日見ていた景色なのに、今では少しだけ懐かしい。

車が玄関前へ停まる。

扉が開くより先に、父・慎吾が屋敷から出てきた。

「玲奈?」

驚いた顔。

当然だ。

今日は泊まりに来ると伝えていない。

「お父様」

玲奈は車を降りた。

慎吾は娘の荷物を見る。

大学用のバッグ。

それだけ。

「どうした?」

「今日、泊まってもいい?」

慎吾の表情が変わった。

一瞬で、何かがあったのだと察したらしい。

「もちろんだ」

理由を聞くより先にそう答えた。

それだけで。

玲奈の胸が少し緩んだ。

「……ありがとう」

「中へ入れ。雨が降りそうだ」

「うん」

玄関へ向かう。

遠山もついてこようとしたが、玲奈は振り返った。

「遠山さん」

「はい」

「今日はここまでで大丈夫です」

「ですが、警護を――」

「一条家にも警備があります」

慎吾が間に入る。

「娘はこちらで預かります。黒川君には私からも伝えます」

遠山は困った顔をした。

黒川家から命じられている以上、簡単に帰れないのだろう。

玲奈は少し申し訳なくなった。

「隼人さんに怒られたら、私が勝手にしたと言ってください」

「玲奈様」

「本当のことですから」

遠山はしばらく迷ったあと、深く頭を下げた。

「では、邸宅周辺の警護担当と連携いたします」

「ありがとうございます」

遠山が離れる。

玲奈は一条家の扉をくぐった。

懐かしい香り。

磨かれた木の床。

廊下に飾られた母の好きだった絵。

胸が少し苦しくなる。

帰ってきた。

そう感じた。

けれど同時に。

もうここだけが自分の家ではないのだとも思った。

黒川邸にも。

置いてきたものがある。

服。

本。

大学の資料。

そして。

好きな人。

玲奈は唇を結んだ。

「玲奈」

父の声。

「部屋へ行くか?」

「うん」

「夕食は?」

「少しだけ食べる」

慎吾は頷いた。

それでも何も聞かなかった。

玲奈が自分から話すのを待ってくれている。

幼い頃から変わらない父の優しさだった。


玲奈の部屋は、嫁ぐ前のまま残されていた。

本棚。

白い机。

高校時代に使っていた小さなクッション。

卒業式の日に美緒たちと撮った写真。

玲奈はベッドへ腰を下ろした。

静かだった。

黒川邸よりずっと狭い部屋。

それなのに落ち着く。

スマートフォンを取り出す。

隼人へ連絡しなければ。

何と書けばいいのだろう。

『今日は実家に泊まります』

それだけでいい。

でも。

勝手に帰れば、また怒るだろう。

玲奈は入力する。

消す。

また入力する。

結局。

『今日は一条の家に泊まります。少し一人で考えたいです。明日は大学へここから行きます』

送信。

すぐには既読にならなかった。

仕事中だろう。

玲奈はスマートフォンを伏せた。

胸の奥が少し痛い。

本当は。

すぐに電話が来たらどうしようと思っている。

その一方で。

来なかったら寂しい。

また自分で期待している。

「……本当に嫌になる」

玲奈はベッドへ横になった。

十九歳になったばかりなのに。

恋愛一つで。

こんなに気持ちが忙しくなるなんて知らなかった。


黒川ホールディングス。

午後六時二十分。

隼人は会議室から執務室へ戻ったところで、スマートフォンを確認した。

玲奈からのメッセージ。

画面を見たまま、足が止まる。

『今日は一条の家に泊まります』

一度読む。

その次。

『少し一人で考えたいです』

隼人の顔から表情が消えた。

「隼人さん?」

後ろから美月が声をかける。

返事はない。

隼人はすぐに玲奈へ電話をかけた。

一度。

二度。

三度。

出ない。

再びかける。

やはり出ない。

「……玲奈」

低く名前を呼ぶ。

美月が隼人の横顔を見る。

「奥様に何か?」

隼人は答えず、今度は佐和子へ電話をかけた。

『はい、黒川邸でございます』

「玲奈は?」

『まだお戻りになっておりません』

「今日は戻らない」

『……左様でございますか』

佐和子の声には驚きより、どこか納得した響きがあった。

それが隼人には引っかかった。

「知っていたのか」

『いいえ。ただ……』

「何だ」

『今朝のご様子でしたら、少しお時間を置かれたほうがよろしいかもしれません』

隼人の眉が寄る。

「どういう意味だ」

『玲奈様は、かなりお疲れでいらっしゃいましたから』

電話が終わる。

隼人はすぐにバッグへ手を伸ばした。

「今日の残りは橘へ回せ」

美月が驚く。

「ですが、十九時から――」

「キャンセル」

「取締役との打ち合わせです」

「明日にする」

「隼人さん」

美月の声が少し強くなる。

「奥様のところへ行かれるのですか?」

隼人の手が止まった。

「なぜそう思う」

「今のご様子なら分かります」

美月は一歩近づく。

「ですが……追いかけてよろしいのでしょうか」

隼人が美月を見る。

「どういう意味だ」

「奥様は『一人で考えたい』とおっしゃったのでは?」

隼人の目が鋭くなる。

「画面を見たのか」

「見ておりません」

美月はすぐに答えた。

「ただ、隼人さんが先ほど『少し時間を置く』という話をされていたので」

嘘と真実を混ぜる。

「玲奈様も、少し距離を置きたいのではありませんか?」

隼人は黙った。

美月は慎重に続ける。

「追いかければ、かえって窮屈に思われるかもしれません」

その言葉。

以前の隼人なら。

もっともだと思ったかもしれない。

けれど今は。

「香月」

「はい」

「夫婦のことに口を出すな」

美月の表情が固まった。

「……申し訳ありません」

「それと」

隼人はジャケットを手に取る。

「今日はもう帰れ」

「ですが、まだ――」

「俺も帰る」

「一条家へ?」

隼人の視線が美月へ向く。

今度ははっきり警戒が混じっていた。

「聞こえなかったか」

「……失礼いたしました」

美月は頭を下げる。

隼人は執務室を出ていった。

扉が閉じる。

美月はしばらく動かなかった。

それから。

唇を強く噛んだ。

以前なら。

仕事を最優先した。

自分が言えば、冷静に考え直した。

今は違う。

玲奈が離れれば。

隼人は仕事を捨てて追いかける。

「どうして……」

七年間。

自分は隼人の仕事を守ってきた。

どんな無理にも付き合った。

誰より近くにいた。

それなのに。

玲奈はただ妻になっただけで。

隼人の優先順位を変えていく。

美月の指が震えた。

悔しさ。

焦り。

そして。

はっきりとした嫉妬。

もう。

玲奈が自分から諦めるのを待っているだけでは足りない。

そう思い始めていた。



午後七時過ぎ。

一条家。

玲奈は父と向かい合って夕食を取っていた。

子供の頃から使っている食堂。

黒川邸ほど広くはない。

テーブルも四人掛け。

父との距離が近い。

「食べられそうか?」

「うん」

玲奈はスープを一口飲んだ。

温かい。

ようやく少し食欲が戻った。

慎吾は娘を急かさず、自分の食事を続けている。

しばらくして玲奈が自分から口を開いた。

「お父様」

「何だ」

「私……わがままかな」

慎吾の手が止まる。

「何についてだ」

「結婚」

玲奈はスプーンを置いた。

「会社を助けてもらったでしょう?」

「ああ」

「黒川家には十分すぎるくらい良くしてもらってる」

「それと、お前が幸せかどうかは別だ」

玲奈は父を見る。

慎吾は静かだった。

「何があった」

玲奈は迷った。

夫婦のことを全部父へ話すのは恥ずかしい。

それでも。

「隼人さんが何を考えているのか、分からないの」

ぽつりと言った。

「優しい時もある」

「うん」

「すごく大切にしてくれる時も」

「うん」

「でも……私は妻なのか、妹みたいな存在なのか分からなくなる」

慎吾は黙って聞いている。

「秘書の人とはすごく近いの」

胸が痛む。

「仕事だって分かってる。でも、私にはしないことを、その人とは普通にしてるように見えて」

「玲奈」

「それで私が別の男性と話すと怒るの」

慎吾の眉がわずかに寄った。

「ずいぶん勝手だな」

思った以上にあっさり言われ、玲奈は少し驚いた。

「お父様」

「自分はいいが妻は駄目、では話にならん」

「でも……」

「黒川君にも事情はあるだろう」

慎吾は続ける。

「だが、事情があるなら説明するのが夫婦じゃないのか」

玲奈は視線を落とした。

「聞いたの」

「何を」

「私をどうしたいのか」

慎吾は娘を見る。

「黒川君は?」

「今は話せないって」

慎吾は大きく息を吐いた。

「……あの男」

低い声だった。

玲奈は慌てる。

「隼人さんを悪く言わないで」

慎吾が娘を見る。

それから少しだけ笑った。

「庇うんだな」

「……嫌いじゃないから」

「好きか」

玲奈は答えられなかった。

数秒後。

小さく頷く。

「うん」

慎吾は娘の顔を見つめた。

「なら、余計に苦しいな」

その一言に。

玲奈の目が少し熱くなる。

「……うん」

「でも玲奈」

「何?」

「好きだからといって、全部我慢する必要はない」

以前、亮にも似たことを言われた。

玲奈は指を重ねる。

「夫婦になるために結婚したんだろう」

「政略結婚だよ」

「始まりがどうであれ、今は夫婦だ」

慎吾がはっきり言う。

「お前が求めているのは、贅沢でもわがままでもない」

玲奈は唇を噛んだ。

「……私、少しここにいてもいい?」

「好きなだけいろ」

「隼人さん、怒るかも」

「ここはお前の実家だ」

父の声は揺らがなかった。

「俺が話す」

「それは嫌」

玲奈はすぐ首を振る。

「自分で話す」

慎吾は少し驚いてから、頷いた。

「分かった」

その時だった。

玄関のチャイムが鳴った。

食堂にいる二人が顔を上げる。

使用人が確認へ向かう。

数分もしないうちに、戻ってきた。

「旦那様」

「誰だ」

使用人が玲奈を一度見る。

「黒川隼人様がお見えです」

玲奈の身体が止まった。

胸が。

強く鳴る。

来た。

本当に。

「……どうして」

メッセージを送ってから一時間も経っていない。

仕事は?

予定は?

玲奈は椅子から立ち上がった。

慎吾も立つ。

「俺も行く」

「お父様」

「最初だけだ」

「……うん」

玄関へ向かう。

足が少し重い。

でも。

どこかで嬉しいと思ってしまう自分がいる。

追いかけてきてくれた。

たったそれだけで。

「駄目」

玲奈は小さく呟いた。

また期待している。

今度こそ。

何か言ってくれるのではないかと。


玄関ホール。

隼人は一人で立っていた。

仕事帰りのスーツ。

ネクタイもそのまま。

けれどいつもより少しだけ乱れて見える。

急いで来たのだと分かった。

玲奈を見つけた瞬間。

隼人の目が少しだけ和らぐ。

「玲奈」

名前を呼ばれる。

「……どうして来たんですか」

「迎えに来た」

即答。

玲奈の胸が揺れた。

慎吾の眉が上がる。

「黒川君」

「ご無沙汰しております」

隼人が頭を下げる。

「今日は玲奈を連れて帰ります」

慎吾の表情が冷たくなる。

「本人が帰りたいと言えばな」

隼人が玲奈を見る。

「帰るぞ」

以前なら。

ついて行ったかもしれない。

けれど玲奈は首を横に振った。

「今日は帰りません」

隼人の顔が固まった。

「玲奈」

「少し考えたいって、メッセージに書きました」

「考えるなら家でもできる」

「黒川邸にいると、隼人さんのことばかり考えてしまうんです」

隼人が言葉を失う。

慎吾も驚いたように娘を見る。

玲奈は続けた。

「帰ってくるかな」

「今日は一緒にご飯を食べられるかな」

「香月さんと一緒なのかな」

「そんなことばかり」

声が少し震える。

「だから、少し離れたいんです」

隼人の表情が変わる。

「香月とは――」

「今は、その話をしたいんじゃありません」

玲奈ははっきり遮った。

以前ならできなかった。

「私は、自分がどうしたいのか考えたいんです」

「俺は――」

「隼人さんも考えてください」

「何を」

玲奈はまっすぐ夫を見る。

「私をどうしたいのか」

前にも聞いた。

あの時は答えてくれなかった。

「守りたいのか」

「子供みたいに世話をしたいのか」

「黒川家の妻として置いておきたいだけなのか」

玲奈の指が震える。

「それとも……」

一度言葉を止める。

「一人の女性として、私と夫婦になりたいのか」

隼人の瞳が大きく揺れた。

今まで。

玲奈自身も、こんなに正面から言ったことはなかった。

恥ずかしい。

怖い。

でも。

もう曖昧なまま戻りたくない。

「それが分かるまで、帰りません」

隼人は長い間、何も言わなかった。

慎吾も口を出さない。

やがて。

隼人が低い声で言った。

「……一つだけ」

「何ですか」

「神谷のことは」

玲奈の顔が曇る。

またそれ。

と思った。

けれど隼人は続ける。

「明日、戻す」

玲奈が目を見開く。

「え?」

「護衛へ戻す」

「……いいんですか」

「よくない」

あまりにも正直な返事。

玲奈は瞬きをする。

隼人の眉が深く寄る。

「嫌だ」

「隼人さん」

「今でも嫌だ。お前のそばにいるのも、名前で呼ばれているのも」

玲奈の胸が大きく鳴る。

隼人は苦しそうに続けた。

「でも、お前が嫌がることを俺の都合だけで決めるのは……違うらしい」

不器用な言葉。

誰かに教えられたような言い方。

それでも。

隼人が初めて、自分から譲った。

玲奈のために。

胸が温かくなる。

でも。

これだけで帰ってはいけない。

玲奈は自分へ言い聞かせる。

「ありがとうございます」

「なら帰るか」

「帰りません」

隼人の顔が少し険しくなる。

「玲奈」

「それとこれは別です」

慎吾が後ろで咳払いをした。

笑いを堪えているように聞こえた。

「……分かった」

驚いたことに。

隼人はそれ以上強く言わなかった。

「今日は帰る」

玲奈は少し驚く。

「はい」

「明日、電話する」

「大学があります」

「夜にする」

「……分かりました」

隼人は少しだけ玲奈を見つめた。

手を伸ばしかけて。

やめる。

玲奈が以前、

『触らないでください』

と言ったことを覚えているのだろう。

その仕草に、胸が痛んだ。

「おやすみ、玲奈」

「……おやすみなさい」

隼人が玄関を出る。

玲奈はその背中を見送った。

車へ乗るまで。

門の向こうへ消えるまで。


黒川邸へ戻った隼人を待っていたのは。

美月だった。

午後九時を過ぎている。

本来なら、秘書が自宅まで訪ねる時間ではない。

リビングへ入った隼人は、ソファに座る美月を見て足を止めた。

「なぜいる」

美月が立ち上がる。

「急ぎの書類がありまして」

「明日でいい」

「ですが――」

「今日は帰れ」

以前なら。

仕事と言えば必ず確認した。

美月の表情がわずかに強張る。

「奥様は?」

隼人の目が冷たくなる。

「一条家だ」

「お戻りにならないのですか?」

「ああ」

美月は心の奥で、小さく安堵した。

まだ。

玲奈は帰っていない。

なら。

まだ間に合う。

「隼人さん」

美月は静かに近づいた。

「お疲れではありませんか?」

「何が」

「結婚されてから、ずっと」

声を柔らかくする。

「玲奈様のことばかり気にしていらっしゃる」

隼人の眉が寄る。

「私なら――」

美月は一歩、距離を縮めた。

「あなたを、そんなふうに困らせたりしません」

隼人の視線が美月へ落ちる。

美月の胸が高鳴る。

初めて。

ここまで直接的な言葉を口にした。

「七年間」

美月は続ける。

「私はずっと、あなたのおそばにいました」

隼人は何も言わない。

「あなたが何を嫌うかも」

「何を必要としているかも」

「誰より分かっているつもりです」

一歩。

さらに近づく。

「だから……」

美月が隼人の袖へ手を伸ばした。

その瞬間。

隼人が一歩後ろへ下がった。

美月の指は空を掴む。

「香月」

低い声。

「はい」

「俺の家で、俺の妻がいない時にする話じゃない」

美月の顔色が変わる。

「私は――」

「帰れ」

「隼人さん」

「今日は帰れと言った」

拒絶。

はっきりと。

美月は唇を結んだ。

それでも。

まだ終われなかった。

「……玲奈様は、あなたを置いてご実家へ帰られたのでしょう?」

隼人の目が鋭くなる。

「だから何だ」

「それでも玲奈様なのですか?」

長年抑えてきた感情が、とうとう漏れた。

「七年そばにいた私ではなく」

声が震える。

「結婚して数か月の、あの子なのですか?」

隼人の表情が変わった。

美月自身も。

言ってから気づいた。

もう。

秘書と上司の会話ではなかった。

隠し続けた気持ちが。

とうとう表へ出てしまった。

静かなリビング。

時計の音だけが聞こえる。

隼人は美月を見つめた。

「……香月」

今までにない声だった。

そして美月は。

その瞬間。

もう後戻りできないところまで来てしまったのだと、初めて理解した。