「……何をしている」
隼人の声は低かった。
怒鳴っているわけではない。
それなのに、部屋の空気が一瞬で張りつめた。
玲奈は亮の胸元から慌てて身体を離した。
泣いていたことを隠そうと、手の甲で頬を拭う。
けれど遅かった。
隼人はすべて見ている。
涙に濡れた玲奈の顔も。
その玲奈の肩へ置かれていた亮の手も。
そして二人の距離も。
「隼人さん……」
玲奈は立ち上がった。
亮もすぐに一歩下がる。
「旦那様」
「神谷」
隼人の視線は亮へ向けられたままだった。
「なぜ、こんな時間に玲奈の部屋にいる」
「お誕生日の贈り物をお渡しするためです」
「贈り物?」
隼人の目が、テーブルの上へ落ちた。
深緑色のブックカバー。
その横に置かれた小さな紙袋。
隼人の表情がさらに険しくなる。
「護衛が、警護対象へ個人的な贈り物をする必要があるのか」
「隼人さん」
玲奈がすぐに口を挟んだ。
「私がいただいたんです」
「見れば分かる」
「だったら、そんな言い方をしないでください」
隼人が玲奈を見る。
泣いた跡。
赤くなった目元。
頬にはまだ涙が残っている。
「……なぜ泣いていた」
玲奈の指先が止まる。
その質問だけは。
今、されたくなかった。
「何でもありません」
「何でもない顔じゃない」
「大丈夫です」
「大丈夫なら泣かないだろう」
いつもなら。
その言葉を嬉しいと思ったかもしれない。
自分の変化に気づいてくれた。
心配してくれている。
そう受け取れたかもしれない。
けれど今日は違った。
十九時に帰ると言った。
二人で過ごすつもりだった。
玲奈は待った。
何時間も。
それなのに帰ってきた夫は、事情を聞くより先に、亮が玲奈へ触れていたことを責めている。
「……隼人さんには関係ありません」
ぽつりと出た言葉に、隼人の顔が変わった。
「何?」
「もう、いいんです」
玲奈は俯いた。
「今日は終わりましたから」
「まだ誕生日は終わっていない」
玲奈は思わず時計を見た。
午後十時十五分。
確かに。
あと一時間四十五分はある。
でも。
そういうことではない。
「玲奈」
隼人が左手に持っていた紙袋を差し出そうとする。
そこで初めて玲奈は、それに気づいた。
濃紺の紙袋。
内覧会へ行った宝飾店の名前。
玲奈の目が少し大きくなる。
「これを――」
「旦那様」
亮の声が遮った。
隼人の視線が鋭く向く。
「何だ」
亮は静かに隼人を見る。
「今日は、玲奈様をお一人にしないほうがよろしいかと思います」
隼人の目から一気に温度が消えた。
「お前に言われることじゃない」
「承知しております」
「なら黙れ」
「ですが――」
「亮さん」
玲奈が止める。
亮は玲奈を見る。
「もう大丈夫です」
「玲奈様」
「本当に」
今度の笑顔も、無理に作ったものだった。
亮には分かった。
それでも。
ここで自分が残れば、玲奈をさらに困らせる。
亮は頭を下げた。
「では、失礼いたします」
扉へ向かう。
その横を通り過ぎる直前。
隼人が低い声で言った。
「明日、話がある」
亮の足が一瞬止まった。
「承知しました」
それだけ答え、部屋を出ていく。
扉が閉じた。
玲奈と隼人。
二人きり。
本来なら。
今日はそれを望んでいた。
朝からずっと。
十九歳の誕生日を、夫と二人で過ごしたかった。
なのに今は。
二人きりになったことが苦しかった。
隼人は紙袋を玲奈へ差し出した。
「……誕生日の贈り物だ」
玲奈はそれを見た。
数秒。
手を伸ばせなかった。
「開けてみろ」
「ありがとうございます」
丁寧な言葉。
玲奈は受け取った。
中から箱を出す。
蓋を開けると、小さな花を模したネックレスが入っていた。
玲奈は息を呑んだ。
覚えている。
宝飾店の内覧会。
何百万円もする華やかな宝石が並んでいる中で、玲奈が一番気に入ったもの。
『私はこれくらいが好きです』
そう言った。
「……覚えていたんですか」
「ああ」
玲奈の胸が揺れる。
嬉しかった。
本当なら。
飛び上がるほど嬉しい。
隼人が覚えていてくれた。
自分が何を好きだと言ったのか。
わざわざ用意してくれていた。
それなのに。
どうして涙が出そうになるのだろう。
「ありがとうございます」
玲奈は箱を閉じた。
隼人の眉が寄る。
「つけないのか」
「今は……いいです」
「気に入らなかった?」
「違います」
玲奈は首を横に振った。
「すごく素敵です」
「なら――」
「でも」
玲奈は箱を両手で持ったまま、夫を見る。
「私が欲しかったのは、これじゃありませんでした」
隼人の表情が止まった。
「……何?」
言ってしまった。
玲奈は唇を噛む。
本当は。
こんなことを言うつもりではなかった。
プレゼントを用意してくれただけでも十分だ。
仕事が入ったのも、隼人のせいではない。
そう思おうとした。
でも。
もう我慢するのが苦しかった。
「今日は……一緒にいてほしかったんです」
声が震える。
「朝、予定を空けておけって言ってくれたでしょう?」
「ああ」
「十九時には帰るって」
「そのつもりだった」
「分かっています」
玲奈の目にまた涙が浮かぶ。
「仕事だったんですよね」
「南條商事の会長が急に――」
「だから、分かってるんです!」
思わず声が大きくなった。
隼人が黙る。
玲奈自身も驚いた。
こんなふうに夫へ声を上げたことなどない。
「分かってるんです」
今度は小さな声だった。
「隼人さんは忙しい人で、会社にはたくさんの人がいて、私一人のために全部投げ出せないことくらい」
「玲奈」
「でも、今日だけは……」
涙が頬を伝う。
「私を選んでほしかった」
隼人の目が見開かれた。
「一度くらい」
玲奈は笑おうとする。
できなかった。
「仕事より私を選んでくれたらって、思ってしまったんです」
隼人は何も言わない。
「そんなことを考えるのは、駄目なんでしょうか」
「駄目じゃない」
すぐに返された。
玲奈が顔を上げる。
「なら……」
「今日の件は俺も知らなかった」
隼人の声が低くなる。
「俺は一度断った」
「え?」
「会食は断れと香月に伝えた」
玲奈の涙が止まる。
「……香月さん?」
「先方には、俺が出席すると伝わっていた」
隼人自身も、まだ美月が意図的にそうしたとは断定していない。
ただ。
以前にも休日の予定が、美月の判断で崩れた。
今日も。
偶然が重なりすぎている。
「後で確認する」
隼人はそう言った。
玲奈は胸の奥で何かが引っかかった。
また。
美月。
結局、今日も。
自分たちの間には、あの女性がいる。
「そうですか」
玲奈は静かに答えた。
「玲奈?」
「でも……今日はもう戻りません」
時間は戻らない。
待っていた十九時も。
一人で座った食卓も。
冷めていった料理も。
十九本のろうそくが刺さったままのケーキも。
全部。
「だから亮さんに慰めてもらったのか」
玲奈の表情が止まった。
隼人自身も。
言った瞬間、間違えたと分かった。
でも遅い。
「……何ですか、それ」
玲奈の目から悲しみが消えていく。
代わりに浮かんだのは、はっきりとした怒りだった。
「俺が帰らないから、神谷を部屋へ入れたのかと聞いている」
「亮さんはプレゼントを持ってきてくれただけです」
「抱かれていただろう」
「抱かれてなんて――」
「俺にはそう見えた」
「私が泣いていたから支えてくれたんです!」
「それでも男だ」
「だから何ですか!」
隼人が言葉を止める。
玲奈はもう抑えられなかった。
「隼人さんは、いつもそう!」
「何が」
「自分は何をしても仕事だからって言うのに、私が男性と少し話したり、助けてもらったりするだけで怒る!」
「九条や神谷と香月は違う」
「何が違うんですか!」
また。
同じ答え。
自分だけは違う。
美月とは仕事。
玲奈が男と接するのは許せない。
「香月さんは、隼人さんのネクタイに触れてもいいんですよね」
「玲奈」
「隼人さんのジャケットを着てもいい」
「それは――」
「ホテルの部屋で二人きりになってもいい!」
玲奈の声が震える。
「でも亮さんが泣いてる私の肩に触れたら駄目なんですか?」
隼人は答えない。
「どうして?」
玲奈は夫を見つめた。
「私だけ駄目なの?」
隼人の喉が動く。
答えはある。
本当は。
玲奈に他の男が触れるのが嫌だ。
自分では見たことのない顔を見せるのも。
名前を呼ぶのも。
頼るのも。
全部。
嫌だった。
でも。
その感情を言葉にできない。
「お前は俺の妻だ」
ようやく出てきたのは、それだった。
玲奈の顔から力が抜ける。
そして。
小さく笑った。
「……また、それですか」
「玲奈」
「都合がいいですね」
隼人の眉が寄る。
「どういう意味だ」
「隼人さんは、ご自分が怒る時だけ私を妻って呼ぶでしょう?」
「そんなことは――」
「あります」
玲奈ははっきり言った。
「九条さんと会えば『俺の妻』」
「亮さんに触れられれば『俺の妻』」
「では普段は?」
言葉が続かない。
胸が痛い。
それでも聞いた。
「普段の私は、隼人さんにとって何なんですか?」
「玲奈」
「妻なら……どうして触れてくれないんですか」
隼人の顔が変わる。
玲奈は止まれなかった。
「結婚してから、ずっと別の部屋で寝てる」
「それはお前が――」
「十八歳だったから?」
「そうだ」
「今日で十九歳です」
「年齢の数字だけの問題じゃない」
「だったら何ですか?」
隼人が黙る。
玲奈の目にまた涙が滲む。
「私には分からないんです」
玲奈は胸元を押さえた。
「私には触れないのに、ほかの男が触ると怒る」
「私を子供みたいに扱うのに、ほかの男の前では妻だと言う」
「香月さんには何をされても平気なのに、私には全部駄目って言う」
そして。
一番聞きたかったことが、とうとう口から出た。
「隼人さんは……私をどうしたいんですか?」
部屋が静かになる。
隼人は玲奈を見つめた。
答えなければいけない。
今。
ここで。
玲奈が何を求めているのか。
さすがの隼人にも分かった。
言えばいい。
好きだ。
ずっと特別だった。
結婚できると知った時、誰より嬉しかった。
でも。
十八歳の玲奈が父親の会社を救うために自分を選んだ。
そんな少女へ、
夫になったからという理由で欲望を押しつけることだけはしたくなかった。
ただそれだけだ。
なのに。
「……今は話せない」
その言葉を選んでしまった。
玲奈の瞳から光が消えた。
隼人はすぐに後悔した。
「玲奈、違う」
「もういいです」
「待て」
「聞いた私が悪かったです」
「そうじゃない」
隼人が玲奈へ手を伸ばす。
玲奈は一歩下がった。
ホテルの廊下でも。
同じように避けられた。
胸が痛む。
「触らないでください」
今度の言葉は、もっとはっきりしていた。
隼人の手が止まる。
「……分かった」
玲奈は顔を背けた。
「今日は一人にしてください」
「玲奈」
「お願いします」
それ以上は、隼人にも何も言えなかった。
⸻
翌朝。
玲奈が目を覚ました時、目元が重かった。
ほとんど眠れなかった。
カーテンを開ける。
昨夜の雨は上がっていた。
空は明るいのに、気持ちは晴れない。
十九歳になって最初の朝。
昨日までと何かが変わるわけではない。
けれど玲奈の中では、確かに何かが変わってしまった。
期待することに疲れた。
隼人が何を考えているのか。
好きなのか。
嫌いなのか。
妻として見ているのか。
子供なのか。
もう考えたくなかった。
「……大学行こう」
いつもの生活へ戻ればいい。
玲奈は支度を始めた。
⸻
玄関へ下りる。
そこには亮の姿がなかった。
代わりに。
見知らぬ男性が立っていた。
三十歳前後。
黒いスーツを着て、玲奈を見ると深く頭を下げる。
「おはようございます、玲奈様。本日より警護を担当いたします、藤堂の部下の遠山と申します」
玲奈の足が止まった。
「……本日より?」
「はい」
嫌な予感。
「神谷さんは?」
男性が少し答えに困る。
そこへ。
「俺が外した」
背後から隼人の声。
玲奈はゆっくり振り返った。
隼人が階段を下りてくる。
昨夜と変わらず。
きちんとスーツを着ている。
「……どういうことですか?」
「言った通りだ」
「亮さんを私の護衛から外したんですか?」
「ああ」
玲奈の胸に、怒りが一気に戻る。
「どうして?」
「昨日の件があった」
「何もありません!」
「警護対象との距離が近すぎる」
「私がお願いしたんです!」
「玲奈」
「泣いていた私が、一人でいたくなかったから!」
隼人の顔が少し歪む。
「それでもだ」
「どうして隼人さんが決めるんですか?」
「雇用主だからだ」
「私の護衛でしょう?」
「だから俺が責任を持つ」
「勝手すぎます!」
玄関にいた使用人たちが、気まずそうに視線を伏せる。
玲奈は構わなかった。
「亮さんを戻してください」
「できない」
「どうして!」
「俺が嫌だからだ」
玲奈が止まる。
隼人自身も。
言ってから気づいた。
初めて。
仕事でも。
安全でも。
立場でもない。
ただ自分が嫌だから。
そう口にしてしまった。
玲奈は隼人を見る。
「……嫌?」
「ああ」
隼人はもう誤魔化さなかった。
「神谷がお前のそばにいるのが気に入らない」
胸が大きく鳴った。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
期待してしまった。
でも。
玲奈は昨夜を思い出す。
何度期待して。
何度、自分の都合のいいように受け取って傷ついたか。
もう同じことはしたくなかった。
「それは隼人さんの問題ですよね」
隼人の表情が止まる。
「私には関係ありません」
「玲奈」
「亮さんは何も悪いことをしていません」
「……」
「私が泣いていたから、そばにいてくれただけです」
玲奈はまっすぐ隼人を見る。
「私が一人で泣いていた時に」
その言葉が隼人へ刺さる。
「あなたはいなかった」
隼人は何も言えなかった。
玲奈は続けた。
「亮さんを戻してください」
「それは――」
「戻さないなら」
玲奈はバッグの持ち手を強く握った。
「私がここを出ます」
隼人の顔色が変わった。
「……何を言ってる」
「一条の家から大学へ通います」
「駄目だ」
「どうして?」
「お前は俺の妻だ」
また。
その言葉。
玲奈は今度は笑わなかった。
「妻だから、この家にいないといけないんですか?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題なんですか?」
隼人は答えられない。
玲奈は静かに頭を下げた。
「大学へ行きます」
「玲奈」
「遠山さん」
新しい護衛へ声をかける。
男性は困った顔で隼人を見た。
「玲奈!」
隼人が強く名前を呼ぶ。
玲奈は振り返らなかった。
玄関の扉が開く。
朝の光が差し込む。
外へ一歩踏み出す直前。
玲奈は足を止めた。
「隼人さん」
背中を向けたまま言う。
「私を大切にしたいなら」
声は静かだった。
「私が大切に思っている人まで、勝手に奪わないでください」
隼人の胸が大きく痛んだ。
――私が大切に思っている人。
神谷を。
玲奈が。
そこまで大切に。
隼人の中に黒い感情が広がる。
けれど同時に。
昨日。
玲奈が泣いていた理由を作ったのは自分だ。
その玲奈のそばにいたのが神谷だった。
ただ、それだけ。
頭では分かっている。
それでも。
玲奈が自分ではなく別の男を頼った事実が。
どうしようもなく苦しかった。
玄関の扉が閉じる。
隼人はその場に立ち尽くした。
「……隼人様」
佐和子が遠慮がちに声をかける。
「何だ」
「差し出がましいことを申し上げてもよろしいでしょうか」
隼人が振り返る。
佐和子は長く黒川家に仕えてきた女性だ。
隼人が幼い頃から知っている。
「玲奈様がお求めなのは、監視でも、贈り物でもございません」
隼人の眉が寄る。
「では何だ」
佐和子は少しだけ困ったように微笑んだ。
「それを隼人様ご自身がお考えにならなければ、意味がないのではございませんか」
隼人は答えなかった。
玄関の向こうを見る。
すでに玲奈の乗った車は見えない。
昨日。
自分は十九歳になった妻へ、綺麗なネックレスを用意した。
けれど玲奈が欲しかったものは、それではなかった。
今日。
玲奈を守るためだと言って、護衛を代えた。
けれどそれすら、玲奈を傷つけた。
守りたい。
誰にも渡したくない。
自分のそばにいてほしい。
その気持ちだけは、昔から変わらない。
なのに。
自分が何かをするたび。
玲奈は少しずつ遠ざかっていく。
「……どうすればいい」
誰にも聞かせるつもりのなかった言葉が、初めて隼人の口から漏れた。
そしてその頃。
黒川ホールディングスでは。
美月が、すでに次の行動へ動き始めていた。
隼人が玲奈の護衛を交代させた。
その情報は、朝一番で彼女の耳にも入っている。
美月はデスクに座り、静かに笑った。
夫婦は確実に揉め始めている。
玲奈の近くには神谷亮。
そして九条蓮。
隼人の嫉妬は、思っていたよりずっと強い。
ならば。
その嫉妬をもっと煽ればいい。
玲奈が耐えられなくなるまで。
隼人自身の手で、妻を遠ざけさせればいいのだから。
隼人の声は低かった。
怒鳴っているわけではない。
それなのに、部屋の空気が一瞬で張りつめた。
玲奈は亮の胸元から慌てて身体を離した。
泣いていたことを隠そうと、手の甲で頬を拭う。
けれど遅かった。
隼人はすべて見ている。
涙に濡れた玲奈の顔も。
その玲奈の肩へ置かれていた亮の手も。
そして二人の距離も。
「隼人さん……」
玲奈は立ち上がった。
亮もすぐに一歩下がる。
「旦那様」
「神谷」
隼人の視線は亮へ向けられたままだった。
「なぜ、こんな時間に玲奈の部屋にいる」
「お誕生日の贈り物をお渡しするためです」
「贈り物?」
隼人の目が、テーブルの上へ落ちた。
深緑色のブックカバー。
その横に置かれた小さな紙袋。
隼人の表情がさらに険しくなる。
「護衛が、警護対象へ個人的な贈り物をする必要があるのか」
「隼人さん」
玲奈がすぐに口を挟んだ。
「私がいただいたんです」
「見れば分かる」
「だったら、そんな言い方をしないでください」
隼人が玲奈を見る。
泣いた跡。
赤くなった目元。
頬にはまだ涙が残っている。
「……なぜ泣いていた」
玲奈の指先が止まる。
その質問だけは。
今、されたくなかった。
「何でもありません」
「何でもない顔じゃない」
「大丈夫です」
「大丈夫なら泣かないだろう」
いつもなら。
その言葉を嬉しいと思ったかもしれない。
自分の変化に気づいてくれた。
心配してくれている。
そう受け取れたかもしれない。
けれど今日は違った。
十九時に帰ると言った。
二人で過ごすつもりだった。
玲奈は待った。
何時間も。
それなのに帰ってきた夫は、事情を聞くより先に、亮が玲奈へ触れていたことを責めている。
「……隼人さんには関係ありません」
ぽつりと出た言葉に、隼人の顔が変わった。
「何?」
「もう、いいんです」
玲奈は俯いた。
「今日は終わりましたから」
「まだ誕生日は終わっていない」
玲奈は思わず時計を見た。
午後十時十五分。
確かに。
あと一時間四十五分はある。
でも。
そういうことではない。
「玲奈」
隼人が左手に持っていた紙袋を差し出そうとする。
そこで初めて玲奈は、それに気づいた。
濃紺の紙袋。
内覧会へ行った宝飾店の名前。
玲奈の目が少し大きくなる。
「これを――」
「旦那様」
亮の声が遮った。
隼人の視線が鋭く向く。
「何だ」
亮は静かに隼人を見る。
「今日は、玲奈様をお一人にしないほうがよろしいかと思います」
隼人の目から一気に温度が消えた。
「お前に言われることじゃない」
「承知しております」
「なら黙れ」
「ですが――」
「亮さん」
玲奈が止める。
亮は玲奈を見る。
「もう大丈夫です」
「玲奈様」
「本当に」
今度の笑顔も、無理に作ったものだった。
亮には分かった。
それでも。
ここで自分が残れば、玲奈をさらに困らせる。
亮は頭を下げた。
「では、失礼いたします」
扉へ向かう。
その横を通り過ぎる直前。
隼人が低い声で言った。
「明日、話がある」
亮の足が一瞬止まった。
「承知しました」
それだけ答え、部屋を出ていく。
扉が閉じた。
玲奈と隼人。
二人きり。
本来なら。
今日はそれを望んでいた。
朝からずっと。
十九歳の誕生日を、夫と二人で過ごしたかった。
なのに今は。
二人きりになったことが苦しかった。
隼人は紙袋を玲奈へ差し出した。
「……誕生日の贈り物だ」
玲奈はそれを見た。
数秒。
手を伸ばせなかった。
「開けてみろ」
「ありがとうございます」
丁寧な言葉。
玲奈は受け取った。
中から箱を出す。
蓋を開けると、小さな花を模したネックレスが入っていた。
玲奈は息を呑んだ。
覚えている。
宝飾店の内覧会。
何百万円もする華やかな宝石が並んでいる中で、玲奈が一番気に入ったもの。
『私はこれくらいが好きです』
そう言った。
「……覚えていたんですか」
「ああ」
玲奈の胸が揺れる。
嬉しかった。
本当なら。
飛び上がるほど嬉しい。
隼人が覚えていてくれた。
自分が何を好きだと言ったのか。
わざわざ用意してくれていた。
それなのに。
どうして涙が出そうになるのだろう。
「ありがとうございます」
玲奈は箱を閉じた。
隼人の眉が寄る。
「つけないのか」
「今は……いいです」
「気に入らなかった?」
「違います」
玲奈は首を横に振った。
「すごく素敵です」
「なら――」
「でも」
玲奈は箱を両手で持ったまま、夫を見る。
「私が欲しかったのは、これじゃありませんでした」
隼人の表情が止まった。
「……何?」
言ってしまった。
玲奈は唇を噛む。
本当は。
こんなことを言うつもりではなかった。
プレゼントを用意してくれただけでも十分だ。
仕事が入ったのも、隼人のせいではない。
そう思おうとした。
でも。
もう我慢するのが苦しかった。
「今日は……一緒にいてほしかったんです」
声が震える。
「朝、予定を空けておけって言ってくれたでしょう?」
「ああ」
「十九時には帰るって」
「そのつもりだった」
「分かっています」
玲奈の目にまた涙が浮かぶ。
「仕事だったんですよね」
「南條商事の会長が急に――」
「だから、分かってるんです!」
思わず声が大きくなった。
隼人が黙る。
玲奈自身も驚いた。
こんなふうに夫へ声を上げたことなどない。
「分かってるんです」
今度は小さな声だった。
「隼人さんは忙しい人で、会社にはたくさんの人がいて、私一人のために全部投げ出せないことくらい」
「玲奈」
「でも、今日だけは……」
涙が頬を伝う。
「私を選んでほしかった」
隼人の目が見開かれた。
「一度くらい」
玲奈は笑おうとする。
できなかった。
「仕事より私を選んでくれたらって、思ってしまったんです」
隼人は何も言わない。
「そんなことを考えるのは、駄目なんでしょうか」
「駄目じゃない」
すぐに返された。
玲奈が顔を上げる。
「なら……」
「今日の件は俺も知らなかった」
隼人の声が低くなる。
「俺は一度断った」
「え?」
「会食は断れと香月に伝えた」
玲奈の涙が止まる。
「……香月さん?」
「先方には、俺が出席すると伝わっていた」
隼人自身も、まだ美月が意図的にそうしたとは断定していない。
ただ。
以前にも休日の予定が、美月の判断で崩れた。
今日も。
偶然が重なりすぎている。
「後で確認する」
隼人はそう言った。
玲奈は胸の奥で何かが引っかかった。
また。
美月。
結局、今日も。
自分たちの間には、あの女性がいる。
「そうですか」
玲奈は静かに答えた。
「玲奈?」
「でも……今日はもう戻りません」
時間は戻らない。
待っていた十九時も。
一人で座った食卓も。
冷めていった料理も。
十九本のろうそくが刺さったままのケーキも。
全部。
「だから亮さんに慰めてもらったのか」
玲奈の表情が止まった。
隼人自身も。
言った瞬間、間違えたと分かった。
でも遅い。
「……何ですか、それ」
玲奈の目から悲しみが消えていく。
代わりに浮かんだのは、はっきりとした怒りだった。
「俺が帰らないから、神谷を部屋へ入れたのかと聞いている」
「亮さんはプレゼントを持ってきてくれただけです」
「抱かれていただろう」
「抱かれてなんて――」
「俺にはそう見えた」
「私が泣いていたから支えてくれたんです!」
「それでも男だ」
「だから何ですか!」
隼人が言葉を止める。
玲奈はもう抑えられなかった。
「隼人さんは、いつもそう!」
「何が」
「自分は何をしても仕事だからって言うのに、私が男性と少し話したり、助けてもらったりするだけで怒る!」
「九条や神谷と香月は違う」
「何が違うんですか!」
また。
同じ答え。
自分だけは違う。
美月とは仕事。
玲奈が男と接するのは許せない。
「香月さんは、隼人さんのネクタイに触れてもいいんですよね」
「玲奈」
「隼人さんのジャケットを着てもいい」
「それは――」
「ホテルの部屋で二人きりになってもいい!」
玲奈の声が震える。
「でも亮さんが泣いてる私の肩に触れたら駄目なんですか?」
隼人は答えない。
「どうして?」
玲奈は夫を見つめた。
「私だけ駄目なの?」
隼人の喉が動く。
答えはある。
本当は。
玲奈に他の男が触れるのが嫌だ。
自分では見たことのない顔を見せるのも。
名前を呼ぶのも。
頼るのも。
全部。
嫌だった。
でも。
その感情を言葉にできない。
「お前は俺の妻だ」
ようやく出てきたのは、それだった。
玲奈の顔から力が抜ける。
そして。
小さく笑った。
「……また、それですか」
「玲奈」
「都合がいいですね」
隼人の眉が寄る。
「どういう意味だ」
「隼人さんは、ご自分が怒る時だけ私を妻って呼ぶでしょう?」
「そんなことは――」
「あります」
玲奈ははっきり言った。
「九条さんと会えば『俺の妻』」
「亮さんに触れられれば『俺の妻』」
「では普段は?」
言葉が続かない。
胸が痛い。
それでも聞いた。
「普段の私は、隼人さんにとって何なんですか?」
「玲奈」
「妻なら……どうして触れてくれないんですか」
隼人の顔が変わる。
玲奈は止まれなかった。
「結婚してから、ずっと別の部屋で寝てる」
「それはお前が――」
「十八歳だったから?」
「そうだ」
「今日で十九歳です」
「年齢の数字だけの問題じゃない」
「だったら何ですか?」
隼人が黙る。
玲奈の目にまた涙が滲む。
「私には分からないんです」
玲奈は胸元を押さえた。
「私には触れないのに、ほかの男が触ると怒る」
「私を子供みたいに扱うのに、ほかの男の前では妻だと言う」
「香月さんには何をされても平気なのに、私には全部駄目って言う」
そして。
一番聞きたかったことが、とうとう口から出た。
「隼人さんは……私をどうしたいんですか?」
部屋が静かになる。
隼人は玲奈を見つめた。
答えなければいけない。
今。
ここで。
玲奈が何を求めているのか。
さすがの隼人にも分かった。
言えばいい。
好きだ。
ずっと特別だった。
結婚できると知った時、誰より嬉しかった。
でも。
十八歳の玲奈が父親の会社を救うために自分を選んだ。
そんな少女へ、
夫になったからという理由で欲望を押しつけることだけはしたくなかった。
ただそれだけだ。
なのに。
「……今は話せない」
その言葉を選んでしまった。
玲奈の瞳から光が消えた。
隼人はすぐに後悔した。
「玲奈、違う」
「もういいです」
「待て」
「聞いた私が悪かったです」
「そうじゃない」
隼人が玲奈へ手を伸ばす。
玲奈は一歩下がった。
ホテルの廊下でも。
同じように避けられた。
胸が痛む。
「触らないでください」
今度の言葉は、もっとはっきりしていた。
隼人の手が止まる。
「……分かった」
玲奈は顔を背けた。
「今日は一人にしてください」
「玲奈」
「お願いします」
それ以上は、隼人にも何も言えなかった。
⸻
翌朝。
玲奈が目を覚ました時、目元が重かった。
ほとんど眠れなかった。
カーテンを開ける。
昨夜の雨は上がっていた。
空は明るいのに、気持ちは晴れない。
十九歳になって最初の朝。
昨日までと何かが変わるわけではない。
けれど玲奈の中では、確かに何かが変わってしまった。
期待することに疲れた。
隼人が何を考えているのか。
好きなのか。
嫌いなのか。
妻として見ているのか。
子供なのか。
もう考えたくなかった。
「……大学行こう」
いつもの生活へ戻ればいい。
玲奈は支度を始めた。
⸻
玄関へ下りる。
そこには亮の姿がなかった。
代わりに。
見知らぬ男性が立っていた。
三十歳前後。
黒いスーツを着て、玲奈を見ると深く頭を下げる。
「おはようございます、玲奈様。本日より警護を担当いたします、藤堂の部下の遠山と申します」
玲奈の足が止まった。
「……本日より?」
「はい」
嫌な予感。
「神谷さんは?」
男性が少し答えに困る。
そこへ。
「俺が外した」
背後から隼人の声。
玲奈はゆっくり振り返った。
隼人が階段を下りてくる。
昨夜と変わらず。
きちんとスーツを着ている。
「……どういうことですか?」
「言った通りだ」
「亮さんを私の護衛から外したんですか?」
「ああ」
玲奈の胸に、怒りが一気に戻る。
「どうして?」
「昨日の件があった」
「何もありません!」
「警護対象との距離が近すぎる」
「私がお願いしたんです!」
「玲奈」
「泣いていた私が、一人でいたくなかったから!」
隼人の顔が少し歪む。
「それでもだ」
「どうして隼人さんが決めるんですか?」
「雇用主だからだ」
「私の護衛でしょう?」
「だから俺が責任を持つ」
「勝手すぎます!」
玄関にいた使用人たちが、気まずそうに視線を伏せる。
玲奈は構わなかった。
「亮さんを戻してください」
「できない」
「どうして!」
「俺が嫌だからだ」
玲奈が止まる。
隼人自身も。
言ってから気づいた。
初めて。
仕事でも。
安全でも。
立場でもない。
ただ自分が嫌だから。
そう口にしてしまった。
玲奈は隼人を見る。
「……嫌?」
「ああ」
隼人はもう誤魔化さなかった。
「神谷がお前のそばにいるのが気に入らない」
胸が大きく鳴った。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
期待してしまった。
でも。
玲奈は昨夜を思い出す。
何度期待して。
何度、自分の都合のいいように受け取って傷ついたか。
もう同じことはしたくなかった。
「それは隼人さんの問題ですよね」
隼人の表情が止まる。
「私には関係ありません」
「玲奈」
「亮さんは何も悪いことをしていません」
「……」
「私が泣いていたから、そばにいてくれただけです」
玲奈はまっすぐ隼人を見る。
「私が一人で泣いていた時に」
その言葉が隼人へ刺さる。
「あなたはいなかった」
隼人は何も言えなかった。
玲奈は続けた。
「亮さんを戻してください」
「それは――」
「戻さないなら」
玲奈はバッグの持ち手を強く握った。
「私がここを出ます」
隼人の顔色が変わった。
「……何を言ってる」
「一条の家から大学へ通います」
「駄目だ」
「どうして?」
「お前は俺の妻だ」
また。
その言葉。
玲奈は今度は笑わなかった。
「妻だから、この家にいないといけないんですか?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題なんですか?」
隼人は答えられない。
玲奈は静かに頭を下げた。
「大学へ行きます」
「玲奈」
「遠山さん」
新しい護衛へ声をかける。
男性は困った顔で隼人を見た。
「玲奈!」
隼人が強く名前を呼ぶ。
玲奈は振り返らなかった。
玄関の扉が開く。
朝の光が差し込む。
外へ一歩踏み出す直前。
玲奈は足を止めた。
「隼人さん」
背中を向けたまま言う。
「私を大切にしたいなら」
声は静かだった。
「私が大切に思っている人まで、勝手に奪わないでください」
隼人の胸が大きく痛んだ。
――私が大切に思っている人。
神谷を。
玲奈が。
そこまで大切に。
隼人の中に黒い感情が広がる。
けれど同時に。
昨日。
玲奈が泣いていた理由を作ったのは自分だ。
その玲奈のそばにいたのが神谷だった。
ただ、それだけ。
頭では分かっている。
それでも。
玲奈が自分ではなく別の男を頼った事実が。
どうしようもなく苦しかった。
玄関の扉が閉じる。
隼人はその場に立ち尽くした。
「……隼人様」
佐和子が遠慮がちに声をかける。
「何だ」
「差し出がましいことを申し上げてもよろしいでしょうか」
隼人が振り返る。
佐和子は長く黒川家に仕えてきた女性だ。
隼人が幼い頃から知っている。
「玲奈様がお求めなのは、監視でも、贈り物でもございません」
隼人の眉が寄る。
「では何だ」
佐和子は少しだけ困ったように微笑んだ。
「それを隼人様ご自身がお考えにならなければ、意味がないのではございませんか」
隼人は答えなかった。
玄関の向こうを見る。
すでに玲奈の乗った車は見えない。
昨日。
自分は十九歳になった妻へ、綺麗なネックレスを用意した。
けれど玲奈が欲しかったものは、それではなかった。
今日。
玲奈を守るためだと言って、護衛を代えた。
けれどそれすら、玲奈を傷つけた。
守りたい。
誰にも渡したくない。
自分のそばにいてほしい。
その気持ちだけは、昔から変わらない。
なのに。
自分が何かをするたび。
玲奈は少しずつ遠ざかっていく。
「……どうすればいい」
誰にも聞かせるつもりのなかった言葉が、初めて隼人の口から漏れた。
そしてその頃。
黒川ホールディングスでは。
美月が、すでに次の行動へ動き始めていた。
隼人が玲奈の護衛を交代させた。
その情報は、朝一番で彼女の耳にも入っている。
美月はデスクに座り、静かに笑った。
夫婦は確実に揉め始めている。
玲奈の近くには神谷亮。
そして九条蓮。
隼人の嫉妬は、思っていたよりずっと強い。
ならば。
その嫉妬をもっと煽ればいい。
玲奈が耐えられなくなるまで。
隼人自身の手で、妻を遠ざけさせればいいのだから。

