「玲奈、本当にいいのか?」
父にそう尋ねられたのは、結婚式の三日前だった。
東京の中心部に建つ一条家の邸宅。その二階にある父の書斎には、夕暮れの淡い光が差し込んでいた。
窓の向こうには、幼い頃から何度も眺めてきた庭が広がっている。
母が好きだった白い薔薇。
玲奈が小学生の頃に父と一緒に植えた桜。
ずっと変わらないと思っていた景色なのに、今はすべてが遠く感じられた。
一条玲奈は、膝の上で両手を重ねた。
艶のある黒髪が肩から胸元へ流れ、大きな焦げ茶色の瞳が目の前の父を見つめる。
「何が?」
わざと何も分からないふりをすると、父一条慎吾は苦しそうに眉を寄せた。
「隼人君との結婚だ」
「……今さらでしょう?」
「今からでも断れる」
「お父様」
「会社のことなら気にしなくていい」
父は机の上に置かれた書類へ視線を落とした。
そこには、一条化粧品の経営状況を示す数字が並んでいる。
玲奈には、そのすべてを理解できるわけではない。
それでも、会社が危機にあることくらいは分かっていた。
大口取引先との契約終了。
新ブランドへの過剰投資。
海外事業の失敗。
資金繰りは限界に近づき、このままでは数か月以内に大規模な事業縮小を迫られる。
最悪の場合一条化粧品そのものがなくなる。
そして先月。
日本有数の企業グループを率いる黒川家から、救済の話が持ち込まれた。
資本提携。
経営支援。
取引先の紹介。
それだけなら、願ってもない話だった。
ただし、それと同時に持ち上がったのが――。
黒川家の御曹司、黒川隼人との結婚。
「お父様」
玲奈は静かに父を見つめた。
「会社には、何人の方が働いているの?」
「玲奈」
「本社だけじゃないでしょう? 工場の人も、お店の人もいる。家族のいる人だってたくさんいる」
「それをお前が背負う必要はない」
「でも、私は一条家の娘よ」
「十八歳の娘に背負わせるくらいなら、会社なんて……」
「嫌」
思ったより強い声が出た。
父が言葉を止める。
玲奈は唇をきゅっと結んだ。
つい数週間前まで、玲奈は制服を着て学校へ通っていた。
友達と卒業旅行の話をして、大学に入ったら何をしようかと笑っていた。
恋愛だって、まともにしたことがない。
そんな自分が、七歳年上の男性と結婚する。
しかも相手は、雑誌やニュースで何度も名前を見たことのある黒川財閥の御曹司。
怖くないはずがなかった。
それでも。
「私が結婚すれば、会社は助かるんでしょう?」
父は答えなかった。
それだけで十分だった。
玲奈は小さく笑った。
「なら、いいの」
「よくない」
「お父様」
「玲奈。私はお前を会社のために育てたのではない」
父の声が震えていた。
玲奈は胸の奥が痛くなった。
それでも泣かなかった。
泣けば、父はもっと自分を責める。
「分かっています」
玲奈は立ち上がり、父のそばまで歩いた。
「私が決めたの」
「……本当に?」
「うん」
「隼人君を……好きなのか?」
その質問だけは、困った。
玲奈は少し視線を下げた。
「分からない」
正直に答えた。
黒川隼人とは、これまで数えるほどしか会ったことがない。
端正な顔立ち。
背が高く、いつも黒や濃紺のスーツを着ている。
二十五歳とは思えないほど落ち着いていて、仕事の話をしている時は近寄りがたい雰囲気があった。
けれど、玲奈に対して乱暴なことを言ったことは一度もない。
婚約が決まった日も、
『嫌なら断っていい』
と最初に言ったのは隼人だった。
その言葉だけで、玲奈は少し救われた。
「でも……隼人さんなら、きっと大丈夫だと思う」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、父は苦しそうな顔で玲奈を見つめた。
三日後。
玲奈は黒川隼人の妻になった。
都内でも有数の格式を持つホテル。
大きなシャンデリアが輝く挙式会場には、財界、政界、芸能界まで、玲奈が名前だけ知っているような人々が集まっていた。
控室の鏡の前。
純白のウェディングドレスを着た玲奈は、鏡の中の自分をじっと見つめていた。
胸元から肩にかけては上品なレースで覆われ、腰から下には柔らかな生地が幾重にも重なっている。
黒髪は低い位置でまとめられ、白い花がいくつも飾られていた。
「玲奈、すごく綺麗」
幼馴染の桜庭紗良が背後から覗き込んでくる。
「ありがとう」
「でも顔、緊張しすぎ」
「だって……」
「まあ相手が黒川隼人じゃ、緊張するよね」
紗良はそう言ってから、慌てて口元を押さえた。
玲奈が振り返る。
「何?」
「いや、その……」
「何か知ってるの?」
「別に」
「紗良」
幼い頃からの付き合いだ。
隠し事をしている時くらい分かる。
玲奈が見つめ続けると、紗良は困ったように眉を下げた。
「本当に大したことじゃないから」
「言って」
「……黒川さんって、女性の噂がほとんどない人なんだけど」
玲奈の胸が少しざわつく。
「うん」
「一人だけ、ずっと名前が出てる人がいるの」
「……誰?」
「秘書」
「秘書?」
「香月美月さん。黒川さんより二歳上。大学の頃からそばにいるらしくて……すごく綺麗な人」
玲奈は鏡へ視線を戻した。
純白のドレスをまとった十八歳の自分。
大人っぽく化粧をしてもらっているのに、どこか制服姿の延長のように見える。
「付き合ってるの?」
「分からない。黒川さん本人は一度も認めてないし」
「そう……」
「玲奈、気にしないで。たぶん噂だけだから」
「うん」
笑ったつもりだった。
けれど、うまく笑えている自信はなかった。
その時、控室の扉が開いた。
「玲奈様。そろそろお時間です」
スタッフに呼ばれ、玲奈は立ち上がった。
胸の奥に生まれた小さな引っかかりを、そのまま飲み込んだ。
今から自分は妻になるのだ。
夫に長年噂されている女性がいるとしても。
政略結婚なのだから。
最初から愛されることを期待する方がおかしい。
そう思った。
「一条玲奈さんを、生涯の妻として……」
神父の言葉を聞きながら、玲奈は隣に立つ隼人を見上げた。
黒川隼人。
七歳年上の夫。
黒のタキシードを着た彼は、いつも以上に近寄りがたいほど美しく見えた。
黒い髪。
涼しげな目元。
すっと通った鼻筋。
玲奈が見上げていることに気づいたのか、隼人がこちらを見る。
目が合った。
「……玲奈?」
小さな声。
「な、何でもありません」
慌てて前へ向き直る。
こんな人が今日から自分の夫なのだ。
その事実がまだ現実とは思えない。
指輪の交換。
隼人が玲奈の左手を取る。
大きな手。
触れられた指先から、じわりと熱が広がった。
結婚指輪が薬指に通される。
玲奈はそれを見つめた。
嬉しい。
そう思ってしまった自分に驚いた。
会社のための結婚。
そう分かっていたはずなのに。
隼人が自分の夫になったことを、少しだけ嬉しいと思っている。
(……私、どうしたんだろう)
けれど考えている暇はなかった。
式はそのまま進み、やがて盛大な披露宴が始まった。
玲奈は何度も笑顔を作り、知らない人々に頭を下げた。
「若くて可愛らしい奥様ですね」
「黒川さんがこんなに早くご結婚されるとは」
「お幸せに」
何度も同じ言葉を聞いた。
そのたびに隣の隼人を見る。
彼は完璧だった。
玲奈が立つ時にはさりげなく手を差し出し、慣れないヒールで歩きにくそうにしていれば速度を合わせてくれる。
「疲れたか?」
「少しだけ」
「あと三十分だ。無理なら先に休め」
「大丈夫です」
「我慢するな」
ぶっきらぼうなのに優しい。
玲奈の胸が少し温かくなる。
もしかしたら。
本当に、少しずつ夫婦になれるのかもしれない。
そんな期待が生まれかけた。
夜……。
披露宴を終えた二人は黒川家の本邸へ向かった。
都心から車でしばらく走った先にある広大な敷地。
正門から玄関までですら車で数分かかる。
「……大きい」
思わず声にすると、隼人が隣から玲奈を見る。
「一条の家も十分大きいだろう」
「全然違います」
「そのうち慣れる」
その言葉に、玲奈は小さく胸が高鳴った。
そのうち。
つまり隼人は、玲奈がここで長く暮らすことを当たり前だと思っている。
そんな些細なことが嬉しかった。
屋敷へ入ると、使用人たちが一斉に頭を下げる。
「お帰りなさいませ、隼人様、玲奈様」
「……ただいま、戻りました」
まだ自分の家という感覚はない。
それでも玲奈がそう答えると、隼人がほんの少しこちらを見た。
「玲奈」
「はい?」
「疲れているだろう。部屋へ案内させる」
玲奈の心臓が大きく鳴った。
部屋。
今夜は――結婚初夜。
披露宴の間は考えないようにしていた。
けれど避けられることではない。
玲奈は十八歳。
恋人がいたこともない。
もちろん男性と夜を過ごした経験もない。
何をすればいいのか。
どう振る舞えばいいのか。
何も分からない。
「玲奈?」
「だ、大丈夫です」
「顔が赤いぞ」
「暑いだけです」
隼人が不思議そうに玲奈を見た。
(お願いだから気づかないで……)
玲奈に用意された部屋は、想像していたより落ち着いた雰囲気だった。
淡いクリーム色を基調とした家具。
大きな窓のそばには小さなソファ。
花瓶には玲奈の好きな白い薔薇まで飾られている。
「……私の好きな花」
思わず呟いた。
誰が用意してくれたのだろう。
メイドに手伝ってもらい、ドレスから淡い色のナイトドレスへ着替える。
髪もほどいた。
鏡の中には、さっきまで花嫁だった少女がいる。
「……少女じゃ駄目よね」
玲奈は自分の頬に触れた。
今日から妻なのだから。
しばらくすると、扉がノックされた。
心臓が跳ねる。
「はい」
扉が開き、隼人が入ってきた。
タキシードではない。
シャツに黒いスラックス。
ネクタイも外している。
それだけで昼間よりずっと大人の男性に見えた。
玲奈はベッドの端に座ったまま、どうしたらいいのか分からなくなる。
隼人は少し離れた場所で足を止めた。
「疲れたか?」
「……少し」
「今日は大変だったな」
「隼人さんも」
「俺は慣れている」
何に慣れているのだろう。
社交の場だろうか。
それとも――。
昼間に聞いた美月という秘書の存在が頭をよぎる。
玲奈は慌てて考えるのをやめた。
「玲奈」
「はい」
「今日は休め」
「……はい」
隼人がそれだけ言って、扉へ向かう。
玲奈は目を瞬いた。
「あの」
隼人が振り返る。
「どうした?」
「どこへ行くんですか?」
「自分の部屋だ」
玲奈はしばらく意味が分からなかった。
「……隼人さんのお部屋?」
「ああ」
「ここでは……寝ないんですか?」
その瞬間、自分が何を聞いているのか理解して、頬が一気に熱くなった。
けれど隼人は笑わなかった。
ただ玲奈を見つめる。
「玲奈」
「はい」
「君はまだ十八だ」
昼間にも似たようなことを言われた。
玲奈は膝の上で指を重ねる。
「でも……結婚しました」
「ああ」
「私たち、夫婦ですよね?」
「分かっている」
なら、どうして。
そう聞きたいのに声が出ない。
隼人は少しだけ視線を外した。
「無理に妻になる必要はない」
胸の奥に冷たいものが落ちた。
「……無理?」
「今日は疲れている。休め」
「私が嫌だからですか?」
思わず聞いてしまった。
隼人の表情が変わった。
「何?」
「いえ……」
「玲奈」
「何でもありません」
恥ずかしかった。
こんなことを聞くつもりではなかった。
隼人は自分と結婚したくて結婚したわけではない。
一条家との関係。
会社同士の利益。
黒川家の事情。
理由はいくらでもある。
そこに恋愛感情まで求めるなんて、自分勝手だ。
「おやすみなさい、隼人さん」
玲奈は笑った。
ちゃんと笑えているだろうか。
隼人は何か言いたそうに玲奈を見つめた。
けれど結局、
「……おやすみ」
それだけ残して部屋を出ていった。
扉が閉じる。
玲奈はしばらく動けなかった。
広すぎる寝室。
大きすぎるベッド。
隣には誰もいない。
左手の薬指には、昼間もらったばかりの結婚指輪がある。
玲奈はそっと指輪に触れた。
ほんの数時間前。
指輪をはめてもらった時は、嬉しかった。
これから少しずつ夫婦になれるのかもしれない。
そう思った。
けれど隼人は、自分に触れようともしなかった。
『君はまだ十八だ』
優しさなのかもしれない。
玲奈にも、それくらいは分かる。
それでも。
もし本当に好きな女性が目の前にいたら、同じように離れていくだろうか。
もし相手が美月という大人の女性だったなら?
そんな考えが浮かんでしまう。
「……馬鹿みたい」
まだ会ったことさえない女性に嫉妬するなんて。
しかもこれは政略結婚なのに。
玲奈はベッドへ横になった。
天井を見上げる。
今日、自分は十八歳で花嫁になった。
大勢の人に祝福された。
誰もが羨む黒川隼人の妻になった。
それなのに。
こんなに広いベッドで一人になるなんて、思っていなかった。
「妻なのに……」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
その夜。
玲奈は初めて、自分の結婚が少しだけ寂しいものなのだと知った。
父にそう尋ねられたのは、結婚式の三日前だった。
東京の中心部に建つ一条家の邸宅。その二階にある父の書斎には、夕暮れの淡い光が差し込んでいた。
窓の向こうには、幼い頃から何度も眺めてきた庭が広がっている。
母が好きだった白い薔薇。
玲奈が小学生の頃に父と一緒に植えた桜。
ずっと変わらないと思っていた景色なのに、今はすべてが遠く感じられた。
一条玲奈は、膝の上で両手を重ねた。
艶のある黒髪が肩から胸元へ流れ、大きな焦げ茶色の瞳が目の前の父を見つめる。
「何が?」
わざと何も分からないふりをすると、父一条慎吾は苦しそうに眉を寄せた。
「隼人君との結婚だ」
「……今さらでしょう?」
「今からでも断れる」
「お父様」
「会社のことなら気にしなくていい」
父は机の上に置かれた書類へ視線を落とした。
そこには、一条化粧品の経営状況を示す数字が並んでいる。
玲奈には、そのすべてを理解できるわけではない。
それでも、会社が危機にあることくらいは分かっていた。
大口取引先との契約終了。
新ブランドへの過剰投資。
海外事業の失敗。
資金繰りは限界に近づき、このままでは数か月以内に大規模な事業縮小を迫られる。
最悪の場合一条化粧品そのものがなくなる。
そして先月。
日本有数の企業グループを率いる黒川家から、救済の話が持ち込まれた。
資本提携。
経営支援。
取引先の紹介。
それだけなら、願ってもない話だった。
ただし、それと同時に持ち上がったのが――。
黒川家の御曹司、黒川隼人との結婚。
「お父様」
玲奈は静かに父を見つめた。
「会社には、何人の方が働いているの?」
「玲奈」
「本社だけじゃないでしょう? 工場の人も、お店の人もいる。家族のいる人だってたくさんいる」
「それをお前が背負う必要はない」
「でも、私は一条家の娘よ」
「十八歳の娘に背負わせるくらいなら、会社なんて……」
「嫌」
思ったより強い声が出た。
父が言葉を止める。
玲奈は唇をきゅっと結んだ。
つい数週間前まで、玲奈は制服を着て学校へ通っていた。
友達と卒業旅行の話をして、大学に入ったら何をしようかと笑っていた。
恋愛だって、まともにしたことがない。
そんな自分が、七歳年上の男性と結婚する。
しかも相手は、雑誌やニュースで何度も名前を見たことのある黒川財閥の御曹司。
怖くないはずがなかった。
それでも。
「私が結婚すれば、会社は助かるんでしょう?」
父は答えなかった。
それだけで十分だった。
玲奈は小さく笑った。
「なら、いいの」
「よくない」
「お父様」
「玲奈。私はお前を会社のために育てたのではない」
父の声が震えていた。
玲奈は胸の奥が痛くなった。
それでも泣かなかった。
泣けば、父はもっと自分を責める。
「分かっています」
玲奈は立ち上がり、父のそばまで歩いた。
「私が決めたの」
「……本当に?」
「うん」
「隼人君を……好きなのか?」
その質問だけは、困った。
玲奈は少し視線を下げた。
「分からない」
正直に答えた。
黒川隼人とは、これまで数えるほどしか会ったことがない。
端正な顔立ち。
背が高く、いつも黒や濃紺のスーツを着ている。
二十五歳とは思えないほど落ち着いていて、仕事の話をしている時は近寄りがたい雰囲気があった。
けれど、玲奈に対して乱暴なことを言ったことは一度もない。
婚約が決まった日も、
『嫌なら断っていい』
と最初に言ったのは隼人だった。
その言葉だけで、玲奈は少し救われた。
「でも……隼人さんなら、きっと大丈夫だと思う」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、父は苦しそうな顔で玲奈を見つめた。
三日後。
玲奈は黒川隼人の妻になった。
都内でも有数の格式を持つホテル。
大きなシャンデリアが輝く挙式会場には、財界、政界、芸能界まで、玲奈が名前だけ知っているような人々が集まっていた。
控室の鏡の前。
純白のウェディングドレスを着た玲奈は、鏡の中の自分をじっと見つめていた。
胸元から肩にかけては上品なレースで覆われ、腰から下には柔らかな生地が幾重にも重なっている。
黒髪は低い位置でまとめられ、白い花がいくつも飾られていた。
「玲奈、すごく綺麗」
幼馴染の桜庭紗良が背後から覗き込んでくる。
「ありがとう」
「でも顔、緊張しすぎ」
「だって……」
「まあ相手が黒川隼人じゃ、緊張するよね」
紗良はそう言ってから、慌てて口元を押さえた。
玲奈が振り返る。
「何?」
「いや、その……」
「何か知ってるの?」
「別に」
「紗良」
幼い頃からの付き合いだ。
隠し事をしている時くらい分かる。
玲奈が見つめ続けると、紗良は困ったように眉を下げた。
「本当に大したことじゃないから」
「言って」
「……黒川さんって、女性の噂がほとんどない人なんだけど」
玲奈の胸が少しざわつく。
「うん」
「一人だけ、ずっと名前が出てる人がいるの」
「……誰?」
「秘書」
「秘書?」
「香月美月さん。黒川さんより二歳上。大学の頃からそばにいるらしくて……すごく綺麗な人」
玲奈は鏡へ視線を戻した。
純白のドレスをまとった十八歳の自分。
大人っぽく化粧をしてもらっているのに、どこか制服姿の延長のように見える。
「付き合ってるの?」
「分からない。黒川さん本人は一度も認めてないし」
「そう……」
「玲奈、気にしないで。たぶん噂だけだから」
「うん」
笑ったつもりだった。
けれど、うまく笑えている自信はなかった。
その時、控室の扉が開いた。
「玲奈様。そろそろお時間です」
スタッフに呼ばれ、玲奈は立ち上がった。
胸の奥に生まれた小さな引っかかりを、そのまま飲み込んだ。
今から自分は妻になるのだ。
夫に長年噂されている女性がいるとしても。
政略結婚なのだから。
最初から愛されることを期待する方がおかしい。
そう思った。
「一条玲奈さんを、生涯の妻として……」
神父の言葉を聞きながら、玲奈は隣に立つ隼人を見上げた。
黒川隼人。
七歳年上の夫。
黒のタキシードを着た彼は、いつも以上に近寄りがたいほど美しく見えた。
黒い髪。
涼しげな目元。
すっと通った鼻筋。
玲奈が見上げていることに気づいたのか、隼人がこちらを見る。
目が合った。
「……玲奈?」
小さな声。
「な、何でもありません」
慌てて前へ向き直る。
こんな人が今日から自分の夫なのだ。
その事実がまだ現実とは思えない。
指輪の交換。
隼人が玲奈の左手を取る。
大きな手。
触れられた指先から、じわりと熱が広がった。
結婚指輪が薬指に通される。
玲奈はそれを見つめた。
嬉しい。
そう思ってしまった自分に驚いた。
会社のための結婚。
そう分かっていたはずなのに。
隼人が自分の夫になったことを、少しだけ嬉しいと思っている。
(……私、どうしたんだろう)
けれど考えている暇はなかった。
式はそのまま進み、やがて盛大な披露宴が始まった。
玲奈は何度も笑顔を作り、知らない人々に頭を下げた。
「若くて可愛らしい奥様ですね」
「黒川さんがこんなに早くご結婚されるとは」
「お幸せに」
何度も同じ言葉を聞いた。
そのたびに隣の隼人を見る。
彼は完璧だった。
玲奈が立つ時にはさりげなく手を差し出し、慣れないヒールで歩きにくそうにしていれば速度を合わせてくれる。
「疲れたか?」
「少しだけ」
「あと三十分だ。無理なら先に休め」
「大丈夫です」
「我慢するな」
ぶっきらぼうなのに優しい。
玲奈の胸が少し温かくなる。
もしかしたら。
本当に、少しずつ夫婦になれるのかもしれない。
そんな期待が生まれかけた。
夜……。
披露宴を終えた二人は黒川家の本邸へ向かった。
都心から車でしばらく走った先にある広大な敷地。
正門から玄関までですら車で数分かかる。
「……大きい」
思わず声にすると、隼人が隣から玲奈を見る。
「一条の家も十分大きいだろう」
「全然違います」
「そのうち慣れる」
その言葉に、玲奈は小さく胸が高鳴った。
そのうち。
つまり隼人は、玲奈がここで長く暮らすことを当たり前だと思っている。
そんな些細なことが嬉しかった。
屋敷へ入ると、使用人たちが一斉に頭を下げる。
「お帰りなさいませ、隼人様、玲奈様」
「……ただいま、戻りました」
まだ自分の家という感覚はない。
それでも玲奈がそう答えると、隼人がほんの少しこちらを見た。
「玲奈」
「はい?」
「疲れているだろう。部屋へ案内させる」
玲奈の心臓が大きく鳴った。
部屋。
今夜は――結婚初夜。
披露宴の間は考えないようにしていた。
けれど避けられることではない。
玲奈は十八歳。
恋人がいたこともない。
もちろん男性と夜を過ごした経験もない。
何をすればいいのか。
どう振る舞えばいいのか。
何も分からない。
「玲奈?」
「だ、大丈夫です」
「顔が赤いぞ」
「暑いだけです」
隼人が不思議そうに玲奈を見た。
(お願いだから気づかないで……)
玲奈に用意された部屋は、想像していたより落ち着いた雰囲気だった。
淡いクリーム色を基調とした家具。
大きな窓のそばには小さなソファ。
花瓶には玲奈の好きな白い薔薇まで飾られている。
「……私の好きな花」
思わず呟いた。
誰が用意してくれたのだろう。
メイドに手伝ってもらい、ドレスから淡い色のナイトドレスへ着替える。
髪もほどいた。
鏡の中には、さっきまで花嫁だった少女がいる。
「……少女じゃ駄目よね」
玲奈は自分の頬に触れた。
今日から妻なのだから。
しばらくすると、扉がノックされた。
心臓が跳ねる。
「はい」
扉が開き、隼人が入ってきた。
タキシードではない。
シャツに黒いスラックス。
ネクタイも外している。
それだけで昼間よりずっと大人の男性に見えた。
玲奈はベッドの端に座ったまま、どうしたらいいのか分からなくなる。
隼人は少し離れた場所で足を止めた。
「疲れたか?」
「……少し」
「今日は大変だったな」
「隼人さんも」
「俺は慣れている」
何に慣れているのだろう。
社交の場だろうか。
それとも――。
昼間に聞いた美月という秘書の存在が頭をよぎる。
玲奈は慌てて考えるのをやめた。
「玲奈」
「はい」
「今日は休め」
「……はい」
隼人がそれだけ言って、扉へ向かう。
玲奈は目を瞬いた。
「あの」
隼人が振り返る。
「どうした?」
「どこへ行くんですか?」
「自分の部屋だ」
玲奈はしばらく意味が分からなかった。
「……隼人さんのお部屋?」
「ああ」
「ここでは……寝ないんですか?」
その瞬間、自分が何を聞いているのか理解して、頬が一気に熱くなった。
けれど隼人は笑わなかった。
ただ玲奈を見つめる。
「玲奈」
「はい」
「君はまだ十八だ」
昼間にも似たようなことを言われた。
玲奈は膝の上で指を重ねる。
「でも……結婚しました」
「ああ」
「私たち、夫婦ですよね?」
「分かっている」
なら、どうして。
そう聞きたいのに声が出ない。
隼人は少しだけ視線を外した。
「無理に妻になる必要はない」
胸の奥に冷たいものが落ちた。
「……無理?」
「今日は疲れている。休め」
「私が嫌だからですか?」
思わず聞いてしまった。
隼人の表情が変わった。
「何?」
「いえ……」
「玲奈」
「何でもありません」
恥ずかしかった。
こんなことを聞くつもりではなかった。
隼人は自分と結婚したくて結婚したわけではない。
一条家との関係。
会社同士の利益。
黒川家の事情。
理由はいくらでもある。
そこに恋愛感情まで求めるなんて、自分勝手だ。
「おやすみなさい、隼人さん」
玲奈は笑った。
ちゃんと笑えているだろうか。
隼人は何か言いたそうに玲奈を見つめた。
けれど結局、
「……おやすみ」
それだけ残して部屋を出ていった。
扉が閉じる。
玲奈はしばらく動けなかった。
広すぎる寝室。
大きすぎるベッド。
隣には誰もいない。
左手の薬指には、昼間もらったばかりの結婚指輪がある。
玲奈はそっと指輪に触れた。
ほんの数時間前。
指輪をはめてもらった時は、嬉しかった。
これから少しずつ夫婦になれるのかもしれない。
そう思った。
けれど隼人は、自分に触れようともしなかった。
『君はまだ十八だ』
優しさなのかもしれない。
玲奈にも、それくらいは分かる。
それでも。
もし本当に好きな女性が目の前にいたら、同じように離れていくだろうか。
もし相手が美月という大人の女性だったなら?
そんな考えが浮かんでしまう。
「……馬鹿みたい」
まだ会ったことさえない女性に嫉妬するなんて。
しかもこれは政略結婚なのに。
玲奈はベッドへ横になった。
天井を見上げる。
今日、自分は十八歳で花嫁になった。
大勢の人に祝福された。
誰もが羨む黒川隼人の妻になった。
それなのに。
こんなに広いベッドで一人になるなんて、思っていなかった。
「妻なのに……」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
その夜。
玲奈は初めて、自分の結婚が少しだけ寂しいものなのだと知った。

