触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜

「玲奈、本当にいいのか?」

父にそう尋ねられたのは、結婚式の三日前だった。

東京の中心部に建つ一条家の邸宅。その二階にある父の書斎には、夕暮れの淡い光が差し込んでいた。

窓の向こうには、幼い頃から何度も眺めてきた庭が広がっている。

母が好きだった白い薔薇。

玲奈が小学生の頃に父と一緒に植えた桜。

ずっと変わらないと思っていた景色なのに、今はすべてが遠く感じられた。

一条玲奈は、膝の上で両手を重ねた。

艶のある黒髪が肩から胸元へ流れ、大きな焦げ茶色の瞳が目の前の父を見つめる。

「何が?」

わざと何も分からないふりをすると、父一条慎吾は苦しそうに眉を寄せた。

「隼人君との結婚だ」

「……今さらでしょう?」

「今からでも断れる」

「お父様」

「会社のことなら気にしなくていい」

父は机の上に置かれた書類へ視線を落とした。

そこには、一条化粧品の経営状況を示す数字が並んでいる。

玲奈には、そのすべてを理解できるわけではない。

それでも、会社が危機にあることくらいは分かっていた。

大口取引先との契約終了。

新ブランドへの過剰投資。

海外事業の失敗。

資金繰りは限界に近づき、このままでは数か月以内に大規模な事業縮小を迫られる。

最悪の場合一条化粧品そのものがなくなる。

そして先月。

日本有数の企業グループを率いる黒川家から、救済の話が持ち込まれた。

資本提携。

経営支援。

取引先の紹介。

それだけなら、願ってもない話だった。

ただし、それと同時に持ち上がったのが――。

黒川家の御曹司、黒川隼人との結婚。

「お父様」

玲奈は静かに父を見つめた。

「会社には、何人の方が働いているの?」

「玲奈」

「本社だけじゃないでしょう? 工場の人も、お店の人もいる。家族のいる人だってたくさんいる」

「それをお前が背負う必要はない」

「でも、私は一条家の娘よ」

「十八歳の娘に背負わせるくらいなら、会社なんて……」

「嫌」

思ったより強い声が出た。

父が言葉を止める。

玲奈は唇をきゅっと結んだ。

つい数週間前まで、玲奈は制服を着て学校へ通っていた。

友達と卒業旅行の話をして、大学に入ったら何をしようかと笑っていた。

恋愛だって、まともにしたことがない。

そんな自分が、七歳年上の男性と結婚する。

しかも相手は、雑誌やニュースで何度も名前を見たことのある黒川財閥の御曹司。

怖くないはずがなかった。

それでも。

「私が結婚すれば、会社は助かるんでしょう?」

父は答えなかった。

それだけで十分だった。

玲奈は小さく笑った。

「なら、いいの」

「よくない」

「お父様」

「玲奈。私はお前を会社のために育てたのではない」

父の声が震えていた。

玲奈は胸の奥が痛くなった。

それでも泣かなかった。

泣けば、父はもっと自分を責める。

「分かっています」

玲奈は立ち上がり、父のそばまで歩いた。

「私が決めたの」

「……本当に?」

「うん」

「隼人君を……好きなのか?」

その質問だけは、困った。

玲奈は少し視線を下げた。

「分からない」

正直に答えた。

黒川隼人とは、これまで数えるほどしか会ったことがない。

端正な顔立ち。

背が高く、いつも黒や濃紺のスーツを着ている。

二十五歳とは思えないほど落ち着いていて、仕事の話をしている時は近寄りがたい雰囲気があった。

けれど、玲奈に対して乱暴なことを言ったことは一度もない。

婚約が決まった日も、

『嫌なら断っていい』

と最初に言ったのは隼人だった。

その言葉だけで、玲奈は少し救われた。

「でも……隼人さんなら、きっと大丈夫だと思う」

自分に言い聞かせるようにそう言うと、父は苦しそうな顔で玲奈を見つめた。

三日後。

玲奈は黒川隼人の妻になった。

都内でも有数の格式を持つホテル。

大きなシャンデリアが輝く挙式会場には、財界、政界、芸能界まで、玲奈が名前だけ知っているような人々が集まっていた。

控室の鏡の前。

純白のウェディングドレスを着た玲奈は、鏡の中の自分をじっと見つめていた。

胸元から肩にかけては上品なレースで覆われ、腰から下には柔らかな生地が幾重にも重なっている。

黒髪は低い位置でまとめられ、白い花がいくつも飾られていた。

「玲奈、すごく綺麗」

幼馴染の桜庭紗良が背後から覗き込んでくる。

「ありがとう」

「でも顔、緊張しすぎ」

「だって……」

「まあ相手が黒川隼人じゃ、緊張するよね」

紗良はそう言ってから、慌てて口元を押さえた。

玲奈が振り返る。

「何?」

「いや、その……」

「何か知ってるの?」

「別に」

「紗良」

幼い頃からの付き合いだ。

隠し事をしている時くらい分かる。

玲奈が見つめ続けると、紗良は困ったように眉を下げた。

「本当に大したことじゃないから」

「言って」

「……黒川さんって、女性の噂がほとんどない人なんだけど」

玲奈の胸が少しざわつく。

「うん」

「一人だけ、ずっと名前が出てる人がいるの」

「……誰?」

「秘書」

「秘書?」

「香月美月さん。黒川さんより二歳上。大学の頃からそばにいるらしくて……すごく綺麗な人」

玲奈は鏡へ視線を戻した。

純白のドレスをまとった十八歳の自分。

大人っぽく化粧をしてもらっているのに、どこか制服姿の延長のように見える。

「付き合ってるの?」

「分からない。黒川さん本人は一度も認めてないし」

「そう……」

「玲奈、気にしないで。たぶん噂だけだから」

「うん」

笑ったつもりだった。

けれど、うまく笑えている自信はなかった。

その時、控室の扉が開いた。

「玲奈様。そろそろお時間です」

スタッフに呼ばれ、玲奈は立ち上がった。

胸の奥に生まれた小さな引っかかりを、そのまま飲み込んだ。

今から自分は妻になるのだ。

夫に長年噂されている女性がいるとしても。

政略結婚なのだから。

最初から愛されることを期待する方がおかしい。

そう思った。


「一条玲奈さんを、生涯の妻として……」

神父の言葉を聞きながら、玲奈は隣に立つ隼人を見上げた。

黒川隼人。

七歳年上の夫。

黒のタキシードを着た彼は、いつも以上に近寄りがたいほど美しく見えた。

黒い髪。

涼しげな目元。

すっと通った鼻筋。

玲奈が見上げていることに気づいたのか、隼人がこちらを見る。

目が合った。

「……玲奈?」

小さな声。

「な、何でもありません」

慌てて前へ向き直る。

こんな人が今日から自分の夫なのだ。

その事実がまだ現実とは思えない。

指輪の交換。

隼人が玲奈の左手を取る。

大きな手。

触れられた指先から、じわりと熱が広がった。

結婚指輪が薬指に通される。

玲奈はそれを見つめた。

嬉しい。

そう思ってしまった自分に驚いた。

会社のための結婚。

そう分かっていたはずなのに。

隼人が自分の夫になったことを、少しだけ嬉しいと思っている。

(……私、どうしたんだろう)

けれど考えている暇はなかった。

式はそのまま進み、やがて盛大な披露宴が始まった。

玲奈は何度も笑顔を作り、知らない人々に頭を下げた。

「若くて可愛らしい奥様ですね」

「黒川さんがこんなに早くご結婚されるとは」

「お幸せに」

何度も同じ言葉を聞いた。

そのたびに隣の隼人を見る。

彼は完璧だった。

玲奈が立つ時にはさりげなく手を差し出し、慣れないヒールで歩きにくそうにしていれば速度を合わせてくれる。

「疲れたか?」

「少しだけ」

「あと三十分だ。無理なら先に休め」

「大丈夫です」

「我慢するな」

ぶっきらぼうなのに優しい。

玲奈の胸が少し温かくなる。

もしかしたら。

本当に、少しずつ夫婦になれるのかもしれない。

そんな期待が生まれかけた。

夜……。

披露宴を終えた二人は黒川家の本邸へ向かった。

都心から車でしばらく走った先にある広大な敷地。

正門から玄関までですら車で数分かかる。

「……大きい」

思わず声にすると、隼人が隣から玲奈を見る。

「一条の家も十分大きいだろう」

「全然違います」

「そのうち慣れる」

その言葉に、玲奈は小さく胸が高鳴った。

そのうち。

つまり隼人は、玲奈がここで長く暮らすことを当たり前だと思っている。

そんな些細なことが嬉しかった。

屋敷へ入ると、使用人たちが一斉に頭を下げる。

「お帰りなさいませ、隼人様、玲奈様」

「……ただいま、戻りました」

まだ自分の家という感覚はない。

それでも玲奈がそう答えると、隼人がほんの少しこちらを見た。

「玲奈」

「はい?」

「疲れているだろう。部屋へ案内させる」

玲奈の心臓が大きく鳴った。

部屋。

今夜は――結婚初夜。

披露宴の間は考えないようにしていた。

けれど避けられることではない。

玲奈は十八歳。

恋人がいたこともない。

もちろん男性と夜を過ごした経験もない。

何をすればいいのか。

どう振る舞えばいいのか。

何も分からない。

「玲奈?」

「だ、大丈夫です」

「顔が赤いぞ」

「暑いだけです」

隼人が不思議そうに玲奈を見た。

(お願いだから気づかないで……)


玲奈に用意された部屋は、想像していたより落ち着いた雰囲気だった。

淡いクリーム色を基調とした家具。

大きな窓のそばには小さなソファ。

花瓶には玲奈の好きな白い薔薇まで飾られている。

「……私の好きな花」

思わず呟いた。

誰が用意してくれたのだろう。

メイドに手伝ってもらい、ドレスから淡い色のナイトドレスへ着替える。

髪もほどいた。

鏡の中には、さっきまで花嫁だった少女がいる。

「……少女じゃ駄目よね」

玲奈は自分の頬に触れた。

今日から妻なのだから。

しばらくすると、扉がノックされた。

心臓が跳ねる。

「はい」

扉が開き、隼人が入ってきた。

タキシードではない。

シャツに黒いスラックス。

ネクタイも外している。

それだけで昼間よりずっと大人の男性に見えた。

玲奈はベッドの端に座ったまま、どうしたらいいのか分からなくなる。

隼人は少し離れた場所で足を止めた。

「疲れたか?」

「……少し」

「今日は大変だったな」

「隼人さんも」

「俺は慣れている」

何に慣れているのだろう。

社交の場だろうか。

それとも――。

昼間に聞いた美月という秘書の存在が頭をよぎる。

玲奈は慌てて考えるのをやめた。

「玲奈」

「はい」

「今日は休め」

「……はい」

隼人がそれだけ言って、扉へ向かう。

玲奈は目を瞬いた。

「あの」

隼人が振り返る。

「どうした?」

「どこへ行くんですか?」

「自分の部屋だ」

玲奈はしばらく意味が分からなかった。

「……隼人さんのお部屋?」

「ああ」

「ここでは……寝ないんですか?」

その瞬間、自分が何を聞いているのか理解して、頬が一気に熱くなった。

けれど隼人は笑わなかった。

ただ玲奈を見つめる。

「玲奈」

「はい」

「君はまだ十八だ」

昼間にも似たようなことを言われた。

玲奈は膝の上で指を重ねる。

「でも……結婚しました」

「ああ」

「私たち、夫婦ですよね?」

「分かっている」

なら、どうして。

そう聞きたいのに声が出ない。

隼人は少しだけ視線を外した。

「無理に妻になる必要はない」

胸の奥に冷たいものが落ちた。

「……無理?」

「今日は疲れている。休め」

「私が嫌だからですか?」

思わず聞いてしまった。

隼人の表情が変わった。

「何?」

「いえ……」

「玲奈」

「何でもありません」

恥ずかしかった。

こんなことを聞くつもりではなかった。

隼人は自分と結婚したくて結婚したわけではない。

一条家との関係。

会社同士の利益。

黒川家の事情。

理由はいくらでもある。

そこに恋愛感情まで求めるなんて、自分勝手だ。

「おやすみなさい、隼人さん」

玲奈は笑った。

ちゃんと笑えているだろうか。

隼人は何か言いたそうに玲奈を見つめた。

けれど結局、

「……おやすみ」

それだけ残して部屋を出ていった。

扉が閉じる。

玲奈はしばらく動けなかった。

広すぎる寝室。

大きすぎるベッド。

隣には誰もいない。

左手の薬指には、昼間もらったばかりの結婚指輪がある。

玲奈はそっと指輪に触れた。

ほんの数時間前。

指輪をはめてもらった時は、嬉しかった。

これから少しずつ夫婦になれるのかもしれない。

そう思った。

けれど隼人は、自分に触れようともしなかった。

『君はまだ十八だ』

優しさなのかもしれない。

玲奈にも、それくらいは分かる。

それでも。

もし本当に好きな女性が目の前にいたら、同じように離れていくだろうか。

もし相手が美月という大人の女性だったなら?

そんな考えが浮かんでしまう。

「……馬鹿みたい」

まだ会ったことさえない女性に嫉妬するなんて。

しかもこれは政略結婚なのに。

玲奈はベッドへ横になった。

天井を見上げる。

今日、自分は十八歳で花嫁になった。

大勢の人に祝福された。

誰もが羨む黒川隼人の妻になった。

それなのに。

こんなに広いベッドで一人になるなんて、思っていなかった。

「妻なのに……」

小さく呟いた声は、誰にも届かない。

その夜。

玲奈は初めて、自分の結婚が少しだけ寂しいものなのだと知った。