死病の花嫁は薬商伯爵に溺愛される~大正政略結婚、不遇令嬢の幸福論~

 大正七年、三月。
 父の喪が明け、私は生まれ育った桐ケ谷の屋敷を去る日を迎えていた。

 先日、地元の神社で、私は天澤さんと祝言を挙げた。
 世間から見れば、彼との結婚は、家族を亡くして没落した男爵家の娘が伯爵家に拾われた――そんなふうに映っているのかもしれない。

 手にした荷物は、着物や身の回りのものをいくつか詰めた古びた葛籠(つづら)だけ。
 人影のないがらんとした玄関土間に立ち、私は最後にもう一度だけ、愛おしい我が家の景色を振り返った。
 千太の部屋、母がお茶を淹れていた台所、町の人たちが足を運んだ父の診療所――。もうこの家には、誰の声も響かず、しんと静まり返っている。

「……行ってまいります」

 私は仏壇のある奥の部屋、そして父の診療所のあった方角へ向かって静かに頭を下げた。溢れそうになる涙をぐっとこらえて背中を向ける。
 ガラガラと引き戸を開けて一歩外へ踏み出すと、三月の肌寒い風が私の頬を撫でていった。

 門の前には、見慣れた漆黒の自動車が停まっている。
 迎えに来てくれた篤志さんが、立ったまま私を静かに見守ってくれていた。

「お待たせしてすみません」
「いや、待ってないよ」

 車に近づくと、制服姿の若い運転手が降りてきて「お荷物は、こちらに積ませていただきます」と声をかけられた。
 葛籠がそっと後部座席の足元へ収められ、篤志さんに続いて私も車に乗り込む。
 車が発進し、遠ざかっていく見慣れた門柱を車窓から見つめながら、私は膝の上でギュッと拳をつくった。