父が寝ている部屋を出たあと、縁側から庭に下りた。
口もとを覆っていた手ぬぐいを取り、新鮮な空気を思い切り吸い込む。
ついこの間まで、この庭には千太の笑い声や母の呼ぶ声があったのに……。今はもう、なにも聞こえない。
ほうっとひとつ息を吐き、水で薄めた石炭酸の消毒液を霧吹きに入れて噴霧して、家の中を清潔に保った。
診療所に戻って父から持ってくるよう言われた薬を揃えていると、入口の扉を叩く音がしたため、そちらに足を向けた。
休診中の張り紙はしてあるけれど、誰か急病人でも出たのだろうか。
診察を求められても、父はあの状態なので対応は無理だ。私は医者ではないし、断るよりほかにない。
「ごめんください。桐ケ谷先生、いらっしゃいますか?」
この声は……。
引き戸の扉をそっと開けると、そこには背広姿の天澤さんが立っていた。
「……天澤様」
「あ、琴乃さん。ご無沙汰しています。少しお邪魔してもよろしいですか?」
診療所の中へ入っても父はいない。それでも、相手は伯爵家の当主で、父がお世話になっている人だ。玄関先で追い返すわけにはいかず、私は静かにうなずいた。
「前月、奥様が亡くなられたと……。すみません、仕事でふた月ほど上海へ行っていたので、昨日聞いたんです」
「つい先日、母の四十九日を済ませたところで……」
「通夜にも葬儀に参列できず、申し訳ありませんでした」
「そんな、謝らないでください」
口もとを覆っていた手ぬぐいを取り、新鮮な空気を思い切り吸い込む。
ついこの間まで、この庭には千太の笑い声や母の呼ぶ声があったのに……。今はもう、なにも聞こえない。
ほうっとひとつ息を吐き、水で薄めた石炭酸の消毒液を霧吹きに入れて噴霧して、家の中を清潔に保った。
診療所に戻って父から持ってくるよう言われた薬を揃えていると、入口の扉を叩く音がしたため、そちらに足を向けた。
休診中の張り紙はしてあるけれど、誰か急病人でも出たのだろうか。
診察を求められても、父はあの状態なので対応は無理だ。私は医者ではないし、断るよりほかにない。
「ごめんください。桐ケ谷先生、いらっしゃいますか?」
この声は……。
引き戸の扉をそっと開けると、そこには背広姿の天澤さんが立っていた。
「……天澤様」
「あ、琴乃さん。ご無沙汰しています。少しお邪魔してもよろしいですか?」
診療所の中へ入っても父はいない。それでも、相手は伯爵家の当主で、父がお世話になっている人だ。玄関先で追い返すわけにはいかず、私は静かにうなずいた。
「前月、奥様が亡くなられたと……。すみません、仕事でふた月ほど上海へ行っていたので、昨日聞いたんです」
「つい先日、母の四十九日を済ませたところで……」
「通夜にも葬儀に参列できず、申し訳ありませんでした」
「そんな、謝らないでください」



