ラストホイッスルが鳴る日

 六月。

 梅雨空が街を覆い、窓を叩く雨音だけが静かに響いていた。

 高校三年生の桐谷陽翔は、机に向かったまま問題集を開いていた。

 大学受験。

 引退した三年生が次に向かうべき目標。

 先生も親も「切り替えよう」と口をそろえて言った。

 頭では分かっている。

 けれど、心はまだグラウンドに置き去りのままだった。

 シャーペンを握る手が止まる。

 窓の外を見ると、雨に濡れた校庭が広がっていた。

 あの場所を走ることは、もうない。

 そう思うたびに胸が締めつけられた。

 昼休み。

 クラスメイトたちは進学や就職の話で盛り上がっていた。

「俺、東京の大学受ける。」

「推薦もらえそうなんだ。」

「共通テストまであと半年か。」

 陽翔も輪の中にはいたが、話は耳に入ってこなかった。

 気づけばスマートフォンを開き、サッカー部のグループチャットを眺めている。

 最後のメッセージは一か月前。

『みんな元気でな。』

 監督のその一言を最後に、誰も書き込まなくなっていた。

 画面を閉じるたび、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになる。

 放課後。

 陽翔は無意識のうちにグラウンドへ向かって歩いていた。

 フェンス越しに見える芝生では、一・二年生だけが練習している。

「ナイスシュート!」

「切り替えろ!」

 監督の声も聞こえる。

 いつもと変わらない光景。

 違うのは、その中に自分たち三年生がいないことだけだった。

 陽翔は少しだけ笑った。

「頑張れよ。」

 誰にも聞こえないほど小さな声だった。

 そのまま背を向け、歩き出す。

 もう振り返らない。

 そう決めたはずだった。

 その日の夜。

 部屋の整理をしていると、本棚の奥から一冊のノートが落ちた。

 表紙には「全国制覇ノート」と書かれている。

 一年生の頃から毎日書き続けた練習日誌だった。

 ページをめくる。

『今日はシュート練習を五百本。もっと決定力をつける。』

『二年生になった。今年こそ全国へ。』

『来年は絶対に優勝する。』

 どのページにも「全国」という文字が並んでいた。

 陽翔はページを閉じた。

「……もう終わったんだ。」

 そう言い聞かせても、涙が止まらなかった。

 翌日。

 学校帰り、駅前で偶然蓮と会った。

「お、陽翔。」

「久しぶり。」

 二人は自動販売機でジュースを買い、公園のベンチに腰掛けた。

 しばらく無言だった。

 やがて蓮が口を開く。

「俺さ、最近全然ボール触ってない。」

 陽翔も苦笑する。

「俺も。」

「見るのもつらい。」

「分かる。」

 二人は笑った。

 笑っているのに、目は笑っていなかった。

「もしさ。」

 蓮が空を見上げる。

「大会があったら、俺たち優勝できたかな。」

 陽翔は即答した。

「できたよ。」

「即答か。」

「だって、お前らとなら本気でそう思えた。」

 蓮は少し目を潤ませる。

「俺もだ。」

 その言葉だけで十分だった。

 夕焼けの空を見上げながら、二人は最後の春を思い出していた。

 帰宅すると、母が夕食を並べながら言った。

「最近、少し元気が戻ってきた?」

 陽翔は首を横に振る。

「まだ……かな。」

 母は優しく微笑む。

「焦らなくていいよ。」

「……。」

「悔しかった分だけ、本気だったってことだから。」

 その言葉に、陽翔は小さく頷いた。

 夜。

 机に向かって勉強を始める。

 少しだけ前を向こう。

 そう思えた、その時だった。

 スマートフォンが震えた。

 画面には、サッカー部のグループチャット。

 一か月以上止まっていた通知。

 送り主は監督・黒川。

『三年生へ。明日の夕方、時間がある者は学校へ来てほしい。話がある。』

 たった一文。

 それだけなのに、陽翔の胸は大きく高鳴った。

「……話?」

 蓮からすぐにメッセージが届く。

『何だと思う?』

『分からない。でも、行こう。』

 送信ボタンを押した瞬間、不思議と胸の奥に小さな火が灯った。

 消えかけていた希望の火。

 その火は、まだ誰にも気づかれないほど小さかった。

 けれど、それは確かに、止まっていた時間を少しだけ動かし始めていた。

――第五章「奇跡の知らせ」へ続く。