ラストホイッスルが鳴る日

 全国大会中止の知らせから、一週間が過ぎた。

 街は相変わらず静かだった。

 人通りの多かった商店街は閑散とし、駅前には「マスク着用」「ソーシャルディスタンス」の文字が並ぶ。テレビをつければ感染者数と医療現場のニュースばかりが流れ、明るい話題はどこにも見当たらなかった。

 陽翔は部屋の隅に立てかけられたスパイクを見つめていた。

 土の汚れが少し残ったままの一足。

 あの日の練習以来、一度も履いていない。

「……もう履くこともないのかな。」

 ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。

 スマートフォンが震えた。

 サッカー部のグループチャット。

『明日、オンラインで最後のミーティングをやります。全員参加してください。』

 監督からの連絡だった。

 「最後」という二文字が、胸に深く刺さる。

 翌日。

 画面には見慣れた仲間たちの顔が並んでいた。

 だが、誰も笑っていない。

 いつもなら冗談を言って場を和ませる蓮も、今日は静かだった。

 監督が画面越しにゆっくりと口を開く。

「本当なら、今ごろお前たちは県大会に向けて最後の調整をしていた。」

 誰も顔を上げられない。

「だが、それは叶わなかった。」

 監督は一度言葉を切る。

「……キャプテン。」

「はい。」

「最後に、みんなへ何か言ってやってくれ。」

 突然の指名だった。

 陽翔は言葉を探した。

 しかし、何も出てこない。

 励ましたい。

 前を向こうと言いたい。

 でも、自分自身が前を向けていなかった。

「……ごめん。」

 それが最初に出た言葉だった。

「キャプテン?」

「全国へ連れていくって約束したのに……。」

 涙があふれた。

「ごめん……。」

 画面の向こうで蓮が首を振る。

「謝るな。」

「でも……。」

「誰のせいでもない。」

 すると一年生の一人が涙をぬぐいながら言った。

「先輩たちと全国へ行きたかったです。」

 その一言で、堰を切ったように泣き声が広がる。

 画面越しの引退式。

 本来なら体育館で笑って写真を撮るはずだった。

 後輩から花束を受け取り、三年間を振り返るはずだった。

 それさえも叶わなかった。

 画面の中で監督が深く頭を下げる。

「すまない。」

「監督!」

 陽翔は思わず声を上げた。

「謝らないでください!」

「……。」

「監督のおかげでここまで来られました。」

 蓮も続く。

「俺たちは後悔してません。」

 誰も監督を責めなかった。

 責める相手など、どこにもいなかった。

 画面が消えると、部屋には静寂だけが残った。

 引退。

 その二文字が、こんなにもあっけないものだとは思わなかった。

 数日後。

 陽翔は学校へ荷物を取りに行った。

 校舎は静まり返り、部室の前には誰もいない。

 ロッカーを開けると、背番号「10」のユニフォームが丁寧に畳まれていた。

 キャプテンだけに与えられた番号。

 初めてもらった日、嬉しくて眠れなかったことを思い出す。

 そっと胸に抱き寄せる。

「終わったんだな……。」

 部室を出ると、フェンス越しにグラウンドが見えた。

 風が吹き、ゴールネットが静かに揺れる。

 誰も走っていない。

 誰の声もしない。

 あれほど賑やかだった場所は、まるで時間が止まってしまったようだった。

 陽翔はフェンスに手を添えた。

「ありがとう。」

 小さくそう呟き、一礼する。

 三年間の思い出が、一気によみがえった。

 勝って笑った日。

 負けて泣いた日。

 仲間と励まし合った日。

 すべてが、この場所に詰まっていた。

 帰り道、偶然、美月と出会った。

 二人は少し距離を空けて並んで歩く。

「最近、ちゃんと寝られてる?」

 美月が心配そうに尋ねる。

「まあ……ぼちぼち。」

 本当は眠れない夜が続いていた。

「陽翔。」

「ん?」

「泣きたい時は、泣いていいんだよ。」

 その言葉に、陽翔は立ち止まった。

「キャプテンだからって、ずっと強くいる必要なんてない。」

 美月の目にも涙が浮かんでいた。

「私も……悔しい。」

 マネージャーとして、誰より近くでチームを支えてきた彼女もまた、この結末を受け入れられずにいた。

「……ありがとう。」

 それ以上の言葉は出なかった。

 夕焼けに染まる帰り道。

 二人はしばらく無言のまま歩いた。

 数日後、学校から正式な通知が届く。

『三年生は部活動を引退とする。』

 その紙切れ一枚で、高校サッカー選手・桐谷陽翔の青春は終わった。

 部屋の壁に飾られたチーム写真。

 笑顔の仲間たち。

 その写真を見つめながら、陽翔は静かに目を閉じる。

「これで……終わりなんだ。」

 その夜、押し入れの奥にスパイクをしまった。

 まるで夢そのものをしまい込むように。

 陽翔は知らなかった。

 もう二度と履くことはないと思ってしまい込んだそのスパイクが、数か月後、自分を再びグラウンドへ連れ戻すことになるとは——。

――第四章「止まった時間」へ続く。