ラストホイッスルが鳴る日

 四月。桜の花びらが風に舞い、グラウンドの芝生を淡い桃色に染めていた。

 朝日を浴びながら、高校三年生の桐谷陽翔はサッカーボールを足元に転がし、大きく息を吸った。

「今年こそ、全国へ行こう。」

 キャプテンとして仲間にそう言葉を掛けると、部員たちは一斉に頷いた。

「もちろん!」

「三年間、このためにやってきたんだからな!」

「絶対に優勝しよう!」

 朝練開始前の円陣。

 それは、三年生全員が毎日欠かさず行っている儀式だった。

 陽翔たちが通う私立青葉高校サッカー部は、県内でも屈指の強豪校。

 しかし、あと一歩のところで全国大会を逃し続けていた。

 一年生の春は県ベスト八。

 二年生では準優勝。

 あと一勝。

 たった一勝届かなかった。

 だからこそ、今年に懸ける想いは誰よりも強かった。

「走るぞ!」

 監督・黒川の一声で、部員たちは一斉に駆け出す。

 朝六時半。

 誰も弱音を吐かない。

 冬も夏も、この時間に集まり続けた。

 泥だらけになりながらボールを追いかけ、何度転んでも立ち上がる。

 それが彼らの日常だった。

 陽翔は足元のボールを軽く浮かせると、そのままリフティングを始めた。

 一回。

 二回。

 三十回。

 五十回。

 百回。

 部内でもトップクラスのボールコントロール。

 努力の積み重ねだった。

「キャプテン、相変わらずうまいな。」

 声を掛けてきたのは幼なじみで副キャプテンの佐伯蓮。

「まだまだだよ。」

「いや、今年はいける。」

 蓮は笑った。

「全国。」

 その二文字を聞くだけで胸が熱くなる。

 三年間、何度も夢見た景色。

 満員のスタンド。

 テレビで見るような舞台。

 家族も先生も応援に来てくれる。

 そのために毎日走ってきた。

「今年で最後なんだよな……。」

 誰かがぽつりと呟いた。

 三年生にとって、高校サッカーはこれが最後。

 卒業すれば、それぞれ違う道へ進む。

 だから、この仲間で戦える時間は限られていた。

 練習後、陽翔は一人でグラウンドに残っていた。

 夕焼けに染まるゴールネット。

 ボールを置き、何度もシュートを打つ。

 一本外れる。

 もう一本。

 バーに当たる。

「くそっ。」

 納得できるまで帰らない。

 それが陽翔のこだわりだった。

「また居残り?」

 振り返ると、マネージャーの朝倉美月がスポーツドリンクを持って立っていた。

「ありがとう。」

「今日も遅いね。」

「全国に行くなら、これくらい普通だよ。」

 美月は少し笑った。

「陽翔って、本当にサッカー好きなんだね。」

「好きじゃなきゃ、ここまで続けられないよ。」

 ボールを抱えながら空を見上げる。

 雲ひとつない青空。

「優勝したらさ。」

 陽翔は照れくさそうに笑う。

「みんなで泣こう。」

「え?」

「嬉し泣き。」

 美月は少し目を潤ませながら笑った。

「うん。その日が来るといいね。」

 校舎から吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。

 陸上部は最後のダッシュ。

 野球部も声を張り上げている。

 どの部活も、それぞれの夢に向かって走っていた。

 高校生活は、一度きり。

 その一瞬一瞬が、かけがえのない時間だった。

 翌週。

 県大会の組み合わせ抽選会が行われた。

 体育館の大型スクリーンに次々と対戦カードが映し出される。

「初戦は北陵高校。」

「順調なら準決勝で去年の優勝校か。」

「決勝は聖南学院だな。」

 会場がざわめく。

 全国常連校との対戦。

 険しい道のりだった。

 だが、陽翔は笑っていた。

「最高じゃん。」

「え?」

「強い相手だから燃える。」

 蓮も笑う。

「やっぱりキャプテンはそう言うと思った。」

 帰り道。

 駅前には満開の桜。

 新入生が制服姿で写真を撮っていた。

 そんな穏やかな春の日だった。

 誰も知らなかった。

 この当たり前の日常が、もうすぐ終わってしまうことを。

 テレビでは海外で流行している未知のウイルスのニュースが流れていた。

『感染者が世界各地で増加しています――』

 陽翔はそれを横目で見ながら、あまり気にも留めなかった。

「日本は大丈夫だろ。」

 そう思っていた。

 誰もがそう思っていた。

 まさか、その見えないウイルスが、何よりも大切だった高校最後の春を奪ってしまうなど――。

 まだ、誰も知らなかった。

――第二章「突然の中止」へ続く。