四月も半ばを迎えた頃。
満開だった桜は少しずつ花びらを落とし、若葉がキャンパスを彩り始めていた。
陽斗と美緒は、恋人として二度目の春を穏やかに過ごしていた。
講義が終われば一緒に昼食を食べ、放課後は美術棟で過ごす。
そんな日常が、二人にとって当たり前になりつつあった。
けれど――。
当たり前だからこそ、気づけないこともある。
◇
「ごめん、美緒。」
スマートフォンを見つめながら、陽斗は申し訳なさそうにメッセージを送った。
『今日の約束だけど、ゼミの課題が終わりそうにない。また今度でもいい?』
送信ボタンを押してから数秒後。
『分かった。頑張ってね。』
返事はすぐに届いた。
短い文章。
いつもなら絵文字が添えられているのに、その日は文字だけだった。
「悪いことしたな……。」
そう呟きながらも、課題に追われる陽斗にはどうすることもできなかった。
◇
一方その頃。
美術棟のアトリエでは、美緒が一人でキャンバスに向かっていた。
窓の外では、小雨が静かに降り続いている。
机の上には、陽斗と行くはずだった映画のチケットが二枚。
「仕方ないよね……。」
そう言い聞かせても、胸の奥にぽっかり穴が空いたような気持ちは消えなかった。
最近の陽斗は忙しい。
ゼミ、レポート、アルバイト。
会える時間は以前より少なくなっていた。
頭では理解している。
それでも、少しだけ寂しかった。
◇
三日後。
二人は昼休みにいつもの中庭で顔を合わせた。
「課題終わった?」
「昨日やっと。」
「お疲れさま。」
美緒は笑っていた。
いつもの笑顔。
けれど、陽斗にはどこか無理をしているように見えた。
「……映画、ごめんな。」
「気にしてないよ。」
「本当に?」
「うん。」
その返事は優しかった。
優しすぎるくらいに。
だからこそ、陽斗は何も言えなくなった。
◇
数日後。
美術棟で作品展の準備が始まった。
美緒は一年生の指導役を任され、毎日忙しく動き回っていた。
「朝比奈先輩、この色ってどう混ぜればいいですか?」
「先輩、この構図見てもらえますか?」
後輩たちに囲まれながら、美緒は笑顔で答えている。
その姿を偶然見かけた陽斗は、少しだけ足を止めた。
そこへ、一人の男子学生が美緒に近づく。
「朝比奈さん、この前教えてもらった絵、完成しました。」
「本当? 見せて。」
二人は楽しそうに話し始めた。
自然な笑顔。
距離も近い。
その様子を見た瞬間、陽斗の胸に小さな違和感が生まれた。
「俺の知らない美緒……。」
すぐに首を振る。
そんなことを思う自分がおかしい。
美緒を信じている。
それなのに、胸の奥がざわついてしまう。
◇
その日の帰り道。
「さっき話してた人、後輩?」
何気ないふりをして尋ねる。
「うん。一年生。」
「仲良さそうだった。」
「作品の相談だよ。」
「そうなんだ。」
会話はそこで途切れた。
沈黙だけが続く。
雨がぽつりと降り始めた。
「降ってきたね。」
美緒が笑おうとする。
しかし陽斗は、どこか上の空だった。
「陽斗?」
「……いや、何でもない。」
その言葉に、美緒は少しだけ表情を曇らせた。
◇
翌日。
二人はほとんど連絡を取らなかった。
いつもなら送られてくる「おはよう」のメッセージもない。
昼休みも別々。
放課後も会えなかった。
たった一日。
それだけなのに、胸が苦しくなる。
「何やってるんだ、俺……。」
陽斗はベンチに座り、ため息をついた。
その時だった。
「やっぱりここにいた。」
聞き慣れた声。
振り向くと、美緒が少し息を切らしながら立っていた。
「探したんだよ。」
「美緒……。」
「ねぇ。」
少しだけ震える声。
「私、何かした?」
「え?」
「最近、陽斗が遠く感じる。」
その一言が胸に突き刺さる。
「違う。」
「違わないよ。」
美緒は寂しそうに笑った。
「映画の日から、ずっと。」
陽斗は何も言えなかった。
図星だったからだ。
◇
「俺さ。」
しばらく黙ったあと、ようやく口を開く。
「美緒が後輩と話してるの見て……。」
「うん。」
「なんか、変な気持ちになった。」
「変な気持ち?」
「嫉妬、かな。」
美緒は目を丸くした。
「忙しくて会えなくて、それなのに楽しそうに笑ってる美緒を見たら……。」
「俺がいなくても平気なのかなって。」
正直な気持ちだった。
格好悪くても、隠したくなかった。
すると、美緒はふっと笑った。
「陽斗。」
「ん?」
「私が笑えるのはね。」
一歩近づいてくる。
「陽斗がいるからだよ。」
その言葉に、胸が熱くなる。
「寂しかった。」
美緒は続けた。
「映画も楽しみにしてた。」
「ごめん。」
「でもね。」
そっと陽斗の手を握る。
「忙しいのも知ってる。」
「……。」
「だから我慢しようって思ってた。」
「美緒。」
「でも、我慢ばっかりだと苦しくなるね。」
その笑顔は少しだけ涙ぐんでいた。
◇
「約束しよう。」
陽斗は強く手を握り返す。
「忙しくても、一人で抱え込まない。」
「うん。」
「寂しかったらちゃんと言う。」
「うん。」
「嬉しいことも、不安なことも。」
「全部。」
二人は同時に笑った。
その瞬間、雨が止んだ。
雲の切れ間から夕日が差し込み、濡れたキャンパスが黄金色に輝く。
「晴れたね。」
「本当だ。」
「雨も悪くないかも。」
「どうして?」
「雨が降ったから、ちゃんと話せた。」
陽斗は思わず笑う。
「そうだな。」
二人は肩を並べて歩き出した。
繋いだ手は、もう離れない。
恋人だからこそ、ぶつかることもある。
分かり合えない日もある。
それでも、言葉を交わせば、心はまた近づいていく。
雨上がりの空に、小さな虹が架かっていた。
それは、二人の未来を優しく照らす希望のようだった。
──第三章「夢へ続くキャンバス」へ続く。
満開だった桜は少しずつ花びらを落とし、若葉がキャンパスを彩り始めていた。
陽斗と美緒は、恋人として二度目の春を穏やかに過ごしていた。
講義が終われば一緒に昼食を食べ、放課後は美術棟で過ごす。
そんな日常が、二人にとって当たり前になりつつあった。
けれど――。
当たり前だからこそ、気づけないこともある。
◇
「ごめん、美緒。」
スマートフォンを見つめながら、陽斗は申し訳なさそうにメッセージを送った。
『今日の約束だけど、ゼミの課題が終わりそうにない。また今度でもいい?』
送信ボタンを押してから数秒後。
『分かった。頑張ってね。』
返事はすぐに届いた。
短い文章。
いつもなら絵文字が添えられているのに、その日は文字だけだった。
「悪いことしたな……。」
そう呟きながらも、課題に追われる陽斗にはどうすることもできなかった。
◇
一方その頃。
美術棟のアトリエでは、美緒が一人でキャンバスに向かっていた。
窓の外では、小雨が静かに降り続いている。
机の上には、陽斗と行くはずだった映画のチケットが二枚。
「仕方ないよね……。」
そう言い聞かせても、胸の奥にぽっかり穴が空いたような気持ちは消えなかった。
最近の陽斗は忙しい。
ゼミ、レポート、アルバイト。
会える時間は以前より少なくなっていた。
頭では理解している。
それでも、少しだけ寂しかった。
◇
三日後。
二人は昼休みにいつもの中庭で顔を合わせた。
「課題終わった?」
「昨日やっと。」
「お疲れさま。」
美緒は笑っていた。
いつもの笑顔。
けれど、陽斗にはどこか無理をしているように見えた。
「……映画、ごめんな。」
「気にしてないよ。」
「本当に?」
「うん。」
その返事は優しかった。
優しすぎるくらいに。
だからこそ、陽斗は何も言えなくなった。
◇
数日後。
美術棟で作品展の準備が始まった。
美緒は一年生の指導役を任され、毎日忙しく動き回っていた。
「朝比奈先輩、この色ってどう混ぜればいいですか?」
「先輩、この構図見てもらえますか?」
後輩たちに囲まれながら、美緒は笑顔で答えている。
その姿を偶然見かけた陽斗は、少しだけ足を止めた。
そこへ、一人の男子学生が美緒に近づく。
「朝比奈さん、この前教えてもらった絵、完成しました。」
「本当? 見せて。」
二人は楽しそうに話し始めた。
自然な笑顔。
距離も近い。
その様子を見た瞬間、陽斗の胸に小さな違和感が生まれた。
「俺の知らない美緒……。」
すぐに首を振る。
そんなことを思う自分がおかしい。
美緒を信じている。
それなのに、胸の奥がざわついてしまう。
◇
その日の帰り道。
「さっき話してた人、後輩?」
何気ないふりをして尋ねる。
「うん。一年生。」
「仲良さそうだった。」
「作品の相談だよ。」
「そうなんだ。」
会話はそこで途切れた。
沈黙だけが続く。
雨がぽつりと降り始めた。
「降ってきたね。」
美緒が笑おうとする。
しかし陽斗は、どこか上の空だった。
「陽斗?」
「……いや、何でもない。」
その言葉に、美緒は少しだけ表情を曇らせた。
◇
翌日。
二人はほとんど連絡を取らなかった。
いつもなら送られてくる「おはよう」のメッセージもない。
昼休みも別々。
放課後も会えなかった。
たった一日。
それだけなのに、胸が苦しくなる。
「何やってるんだ、俺……。」
陽斗はベンチに座り、ため息をついた。
その時だった。
「やっぱりここにいた。」
聞き慣れた声。
振り向くと、美緒が少し息を切らしながら立っていた。
「探したんだよ。」
「美緒……。」
「ねぇ。」
少しだけ震える声。
「私、何かした?」
「え?」
「最近、陽斗が遠く感じる。」
その一言が胸に突き刺さる。
「違う。」
「違わないよ。」
美緒は寂しそうに笑った。
「映画の日から、ずっと。」
陽斗は何も言えなかった。
図星だったからだ。
◇
「俺さ。」
しばらく黙ったあと、ようやく口を開く。
「美緒が後輩と話してるの見て……。」
「うん。」
「なんか、変な気持ちになった。」
「変な気持ち?」
「嫉妬、かな。」
美緒は目を丸くした。
「忙しくて会えなくて、それなのに楽しそうに笑ってる美緒を見たら……。」
「俺がいなくても平気なのかなって。」
正直な気持ちだった。
格好悪くても、隠したくなかった。
すると、美緒はふっと笑った。
「陽斗。」
「ん?」
「私が笑えるのはね。」
一歩近づいてくる。
「陽斗がいるからだよ。」
その言葉に、胸が熱くなる。
「寂しかった。」
美緒は続けた。
「映画も楽しみにしてた。」
「ごめん。」
「でもね。」
そっと陽斗の手を握る。
「忙しいのも知ってる。」
「……。」
「だから我慢しようって思ってた。」
「美緒。」
「でも、我慢ばっかりだと苦しくなるね。」
その笑顔は少しだけ涙ぐんでいた。
◇
「約束しよう。」
陽斗は強く手を握り返す。
「忙しくても、一人で抱え込まない。」
「うん。」
「寂しかったらちゃんと言う。」
「うん。」
「嬉しいことも、不安なことも。」
「全部。」
二人は同時に笑った。
その瞬間、雨が止んだ。
雲の切れ間から夕日が差し込み、濡れたキャンパスが黄金色に輝く。
「晴れたね。」
「本当だ。」
「雨も悪くないかも。」
「どうして?」
「雨が降ったから、ちゃんと話せた。」
陽斗は思わず笑う。
「そうだな。」
二人は肩を並べて歩き出した。
繋いだ手は、もう離れない。
恋人だからこそ、ぶつかることもある。
分かり合えない日もある。
それでも、言葉を交わせば、心はまた近づいていく。
雨上がりの空に、小さな虹が架かっていた。
それは、二人の未来を優しく照らす希望のようだった。
──第三章「夢へ続くキャンバス」へ続く。



