『君と見つけた、春色の約束 そして、未来へ』

 春の風は、不思議だ。

 少し冷たさを残しながらも、どこか優しく背中を押してくれる。

 大学の正門へ続く桜並木を歩くたび、神崎陽斗は一年前のことを思い出していた。

 満開の桜。

 風に舞う花びら。

 そして、足元に落ちていた一冊のスケッチブック。

 あの日、そのスケッチブックを拾ったことが、すべての始まりだった。

「また昔のこと考えてるでしょ?」

 柔らかな声が耳に届く。

 振り向くと、白いカーディガンを羽織った朝比奈美緒が、くすっと笑いながら立っていた。

 肩まで伸びた髪が春風に揺れ、その笑顔は一年前と何も変わっていない。

「顔を見れば分かるんだから。」

「そんなに分かりやすい?」

「うん。陽斗は昔を思い出してる時、少しだけ優しい顔になるから。」

 そう言って笑う美緒に、陽斗は照れくさそうに頭をかいた。

「じゃあ、美緒は?」

「もちろん思い出してたよ。」

 二人は自然と視線を桜並木へ向ける。

「もしあの日、陽斗がスケッチブックを拾ってくれなかったら……。」

「きっと今も、お互い知らないままだったかもな。」

 その言葉に、美緒は少し首を振った。

「ううん。私はまたどこかで陽斗に出会ってた気がする。」

「そんな都合のいい話ある?」

「あるよ。」

 美緒は少しだけいたずらっぽく笑う。

「運命だったもん。」

 その一言に、陽斗は何も返せなかった。

 付き合い始めて一年。

 恋人同士になっても、美緒は時々、こんなふうに真っすぐな言葉を投げかけてくる。

 そのたびに、陽斗の心は初めて会った日のように少しだけ高鳴るのだった。

     ◇

「二年生かぁ。」

 学生証を受け取りながら、美緒が小さくつぶやく。

「早いよな。」

「一年ってあっという間だったね。」

「去年は毎日緊張してた。」

「私は陽斗が話しかけてくれるまで、『静かな人だなぁ』って思ってた。」

「実際静かだったし。」

「でも今は?」

「……美緒の前では、少しだけ。」

「少しだけ?」

「かなり。」

「ふふっ。」

 屈託なく笑う美緒を見ているだけで、陽斗まで笑顔になってしまう。

 恋をすると、人はこんなにも変われるのか。

 一年前の自分なら想像もできなかった。

     ◇

 昼休み。

 二人はお気に入りの中庭のベンチで昼食を広げていた。

 桜の花びらが風に舞い、芝生では新入生たちが楽しそうに笑っている。

「去年の私たちみたい。」

「確かに。」

「迷子になってたよね。」

「あれは美緒が地図逆さまに持ってたから。」

「えっ!? 陽斗だって一緒に迷ってたじゃん。」

「否定できない。」

 二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。

 笑い終えたあと、不意に美緒が空を見上げる。

「ねぇ。」

「ん?」

「来年には三年生なんだね。」

「そうだな。」

「その次は四年生。」

「うん。」

「卒業、しちゃうんだ。」

 その言葉に、陽斗は少しだけ胸が締めつけられた。

 今まで考えないようにしていた未来。

 大学生活は永遠ではない。

 いつか必ず終わりが来る。

 それでも――。

「卒業しても。」

 陽斗はゆっくりと言葉を紡いだ。

「俺たちは終わらない。」

 美緒は驚いたように目を見開く。

「恋人でいるとか、そういうことじゃなくて。」

 陽斗は照れながらも続ける。

「十年後も、二十年後も……その先も、一緒に笑っていられたらいいなって思ってる。」

 言い終えた瞬間、自分でも恥ずかしくなった。

「忘れて。」

「……忘れない。」

 美緒は静かに首を振った。

 そして、少し潤んだ瞳で微笑む。

「私も同じこと考えてた。」

 春風が吹く。

 桜が二人の間を舞い抜けていく。

 まるで、この瞬間を祝福するように。

     ◇

 放課後。

 美術棟のアトリエには、絵の具の香りが漂っていた。

 美緒は真っ白なキャンバスを前に、静かに筆を握る。

「今日は何を描くの?」

 陽斗が尋ねると、美緒は少しだけ考え込んでから答えた。

「まだ秘密。」

「また?」

「完成したら一番に見せる。」

「約束?」

「うん。」

 そう言って、小指を差し出す。

 陽斗も笑いながら小指を絡めた。

「約束。」

 指先から伝わる温もり。

 それは、一年前よりもずっと自然で、ずっと心地よかった。

 美緒はキャンバスへ向き直る。

 真っ白だった世界に、最初の一筆が描かれる。

 陽斗はその絵を見せてもらえなかった。

 けれど、それでよかった。

 きっとその絵には、美緒が描きたい未来が詰まっている。

 そして、その未来のどこかには、自分もいる。

 そんな気がしたから。

     ◇

 夕暮れ。

 帰り道の桜並木。

 オレンジ色に染まる空の下を、二人はゆっくり歩く。

「陽斗。」

「ん?」

「これから先も、春が来るたびに今日のこと思い出そうね。」

「ああ。」

「何年経っても。」

「約束。」

 二人はそっと手をつないだ。

 恋人になって一年。

 まだ知らない未来はたくさんある。

 楽しいことばかりじゃないかもしれない。

 泣く日も、迷う日も、すれ違う日もきっと訪れる。

 それでも――。

 二人なら乗り越えられる。

 あの日、桜の下で始まった物語は、まだ終わらない。

 これは、「恋」の続きではない。

 人生を共に歩むための、新しい物語の始まりだった。

──第二章「雨上がりのキャンパス」へ続く。