陽炎に揺れる夢

次の日の朝。

昨夜は不安でなかなか寝付けず、朝もいつも通りに起きられなかったせいで、遅刻ギリギリだ。

昇降口に勢いよく入り、乱雑に下駄箱に靴を押し込む。

慌てて階段を駆け上がると、廊下で一人の女子生徒とぶつかってしまった。

「ごめんなさい」と、咄嗟に声を出す。

驚いて振り返ったその生徒は、同じクラスの人だった。

「えっ、あっ、こっちこそごめんね。考え事しててボーッと歩いてたから」

私は一歩下がり、深く頭を下げて教室に入ろうとした。

「えっ、あっ、待って!」

「それ!」

彼女の指差す先を見ると、そこには私が編んだパンダのキーホルダーがあった。

ドキッとした。

(気づかれた? いや、そんなはずはない)

一瞬のことなのに、頭も心臓もうるさい。額から汗が滲んでいく。

「遠野さん、もしかしてボータンのファンなの?」

「えっ?」

「それ、ボータンが作ったパンダと同じだよね?」

あっ……

口を開けたまま、立ち尽くす。

(どう返すのが正解? 黙っているのは間違い?)

正体がバレてしまう怖さに、私は息を呑み、消え入りそうな声を必死に絞り出した。

「そう…なの、私、ボータンのファンなの…」

「やっぱりー? へぇ、ちょっと見せて」

そう言いながら、容赦なく手を伸ばしてくる。

怖くて私は身動きできず、簡単にパンダを触られてしまった。

「すごく綺麗にできてるね」

彼女はぴたっと動きを止めた。

「あれ? でも、なんかちょっと古い…」

ガバっとその子は顔を上げて

「もしかして…」

そこで一度言葉を切った。

まるで、死刑宣告される囚人のように、後がない気持ちを味わわされる。

「昔からボータンのファンなの?」

その瞬間、担任が教室に入ってきた。

「おーい、どうした、二人?
そんな入り口にいないで、さっさと座れー」

そう言いながら、担任は私たちに声をかけた。

クラス全員がこちらを振り返った。

朝比奈君も――眼鏡の奥の目は、とても心配そうに私を見つめていた。

私たちは慌てて座席に着いた。

休み時間になると、さっきぶつかった女子の周りに何人か集まり、時折チラチラと私を見ている気がした。

落ち着かない…。

前髪で存在を消している私は、実は編み物が好きで、可愛いものも好きで…。

その気持ちもすべて隠していたのに、唯一こっそり楽しんでいたこのパンダに、足を掬われることになるなんて。

(やっぱり私は、こんな小さなものさえ、隠さなくちゃいけなかったんだ…)

後悔が、押し寄せる。

昼休みになり、私は教室から逃げるように、人気のないいつもの隠れ場所へ向かおうと、お弁当の袋を手にした。

「遠野さん、待って」

さっきの女子が声をかけてきた。
周りには、彼女と話していた生徒たちもいる。

私は声も出せず、ただその場に立ち尽くした。

「あのね、遠野さん、編み物得意だと思ったんだけど、どうかな?」

「えっ?」

「実は、劇で使う小物で、毛糸で編んであるものが欲しいの」

そう言いながら、彼女は自分のスマホを私に差し出した。

画面には、ボータンのインスタが開かれている。

昨日、私がアップしたショールの写真だった。

「どうかな? こういうのが欲しいんだけど、なかなか見つからなくて…」

「あっても高くて買えないし。こんな綺麗な柄じゃなくていいの、無地でいい。この形に編むことはできないかな?」

彼女はお願いするように手を合わせる。
周りの子たちも、皆、同じように手を合わせて私を見ていた。

(無地で…これくらいなら、すぐに編めるだろう)

私は、コクリと頷いた。

「ほんと! いいの?」

「やったー。ありがとう!」

女子たちはホッとしたような顔をして喜び合う。

その光景を、私はただ呆然と眺めていた。

その中の一人が言った。

「大きさと色を紙に書いて持ってくるね。
毛糸はこっちで買うんだけど…実は毛糸を買ったことがなくて、太さとか色々あるでしょう?」

「遠野さん、毛糸を買うところからお願いできないかな?」

黙っている私を気遣うように、「無理なら無理って言ってもらっても全然大丈夫だからね。」と声をかけてくれる。

彼女は確か衣装担当の子だ。

とても優しい人たちだと思った。

無理強いはしない。そして何より、私を見つけて声をかけてくれたのだ。

「大丈夫。やってみるね」

私は、少しだけ嬉しさを滲ませた声を出した。

彼女たちが去った後、私は何となく朝比奈君を探した。

彼も自席からこちらを見ていた。

その目はとても穏やかで、まるで「よかったね」と言ってくれているかのようだった。

私は少しだけ顎を引き、心の中でそっと答えた。

(ありがとう)