ねえ、はやく降参してよ。 ――同じ苗字になっても、まだ足りない。甘くて焦れったい心理戦を続ける夫婦。

 ◇

 大きな窓から、昼下がりの光がたっぷりと満ちる空間。

 上の階に住む婦人が『古いものだから、気にしないで』と床に敷いてくれたのは、ボタニカル柄のラグだった。
 お礼を伝えながら、ハルと並んで座らせてもらう。

「楽しみだね」

 眼鏡姿の横顔に声をかけると、彼は短く頷いた。

 正面に用意された一脚のチェアは、まだ空のままだ。

『この前は、ありがとうね』

 斜め後ろから、先ほどの婦人が話しかけてくれる。

『いいえ!』

 私は笑顔で首を振った。

 私が美容師だと知った彼女は、先日、大好きだという映画のヒロインの写真を指差して尋ねてきた。

『どうしたら、こんなふうになれるかしら』
『これまで何度もお願いしているのだけど……いつもどこか違うのよね』

 それを聞いて、『よかったら……』と、顔まわりに少しだけハサミを入れさせてもらったのだ。

 鏡を見せると、目を輝かせて喜んでくれた。

 まさか異国の地で、あの瞬間を味わえるとは思っていなくて。
 私のほうこそ、感謝を伝えたくらいだ。