「ずっと、こうしたかった……詩織」
硬質なはずの声が、少しだけ湿っていた。段ボールの陰に向かって囁くときの、あの甘い声に似ていた。
初めて耳元で囁かれた自分の名前に、頭の奥が痺れた。
すぐ近くで、彼の喉が一度だけ、きつく鳴る音がした。私を抱きしめる腕が、かすかに強張る。
「もう、抑えなくていいですか」
藤堂さんが静かに聞いた。
「……いいですよ」
私が言うと、彼が小さく息を吐いた。
あの、何事にも動じない人が、安堵している。腕が、少しだけ強くなった。
「このまま、もう少しだけ」
耳のそばで、甘く言った。橙に呼びかけるときの声と、似ていた。
この人が崩れるところを、これからはもっと近くで見ていられる。
そう思ったら、藤堂さんのスーツの袖を掴む手に、自然と力がこもった。
眼鏡のない目尻に、笑い皺が浮かぶのが、こんなに近くで見えた。
今度は逃げなかった。腕の中でそっと顔を上げると、至近距離にある彼の目尻に、愛おしいあの三本の皺が刻まれている。
私は小さく背伸びをして、その皺をちゃんと正面から見つめた。
完璧な人の、一番不器用なところ。それをこれからずっと、独り占めできるのかもしれない。
橙は、段ボールの陰からその様子をじっと見ていた。
【完】



