「美月」
突然、低い声でここでの名前を呼ばれて、脳内のパニックが一瞬で収まった。
声のした方を見ると、テーブルの上座に見知らぬ男の人が座っていた。
ぱっと見の年齢は、30代半ばくらい。
キリっとした端正な顔立ちに、一本の髪の毛も乱さずビシッと決めたオールバック。
グレーのスーツをシワ一つなく完璧に着こなしている。
……この人が、美月さんの叔父さんかな?
「何だ? 僕のことをじろじろと……」
叔父さんがギロリとにらみつけてくる。
「そうよ。少しは落ち着きなさい」
今度は下座の方から、叔母さんのぴしゃりとした声が飛んできた。
そこには、同じく30代半ばくらいの、ばっちりメイクをした女の人が座っていた。
艶やかな黒髪を夜会巻きにまとめ、ベージュ色のワンピースを身にまとっている。
この人が、美月さんの叔母さんか。
二人とも隙がなさすぎて、息が詰まりそう……。
「は、はい……。すみません」
「まあいい。それより、お前に大事な話があるんだ」
叔父さんは、ナイフとフォークをお皿の上にハの字に置くと、真面目な顔で私に向き直った。
「大事な話?」
「ああ。近日中に、お前の見合いをすることになった」
「えっ? お見合い⁉」
「ああ。向こうもお前のことを気に入ってくれているみたいだ。高校を卒業と同時に結婚してもらうぞ」
いやいやいや、結婚って!
夢の中とはいえ、彼女扱いされるよりも重大……どころか、重すぎるよ!
「いや、急にそんなこと言われても困るし……」
「困る?」
小さな声でぼやいたはずなのに、叔父さんの耳には、しっかりと届いていたようだ。
「お前はいったい何を言っているんだ?」
叔父さんの声が一気に低くとがる。
「お前は十六夜グループの跡取りなんだ。会社の存続と発展のために、結婚相手は僕たちが決める。それに――」
まただ……。あの鋭い目でにらまれて、私は思わずすくみあがった。
「自由な校風の高校に転校させてやる代わりに、お前の今後の人生の選択権は僕たちに譲る。進学する大学も、結婚相手もだ。半年前にそう約束したはずだ」
「そんなの、初耳……」
「とぼけるなよ」
叔父さんは苛立った声で続けた。
「せっかく名門の女子校に入れたのに、お前が『馴染めない』と部屋に引きこもり、不登校になったことさえ忘れたのか?」
不登校⁉ 学校に馴染めないだけでも辛いのに、外にも出られなくなっていたなんて……。
そんな極限状態の美月さんに、この叔父さんはまったく釣り合いの取れてない交換条件を突きつけたの?
こんなの、あまりにも理不尽すぎるよ!
「嫌です!」
気づけば私は椅子から立ち上がって、叔父さんに向かって一気にまくし立てていた。
「たしかに、約束を守るのは大事です。でも、精神的にまいっているときに、正常な判断なんてできるわけがないでしょ! ていうか、転校とその後の人生の自由なんて、交換条件にしてはそっちの都合に偏りすぎるっての!」
「まあ、なんて生意気なの⁉」
叔母さんのヒステリックな声が飛んでくる。
「子供は大人の言うことに素直に従っていればいいのよ!」
「その通り」
叔父さんが深くうなずいて、冷たい声で言い放った。
「もう少し、跡取りとしての自覚を持て。今のきみは、ワガママで甘ちゃんで、自分のことしか考えていない。今のお前は本当に、どこぞの馬の骨とも知れない庶民の女と駆け落ちした兄さんにそっくりだぞ」
……ったく、何なの⁉
口を開けば、跡取り、跡取りって……。
本当は部外者の私でも、聞いているだけでもう限界!
美月さんがこの人たちのことを嫌っている理由がよくわかった。
「もっと私のことを……十六夜美月のことを、一人の人間としてちゃんと見てください!」
震える声で怒鳴った瞬間、重苦しい沈黙が落ちてきた。
叔父さんは完全にまばたきを忘れ、叔母さんは目を見開いて絶句している。
でも、もうこれ以上この人たちと一緒にいたくなくて、私は全速力でダイニングを飛び出した。
そのままひたすら走り続けて、どれくらいの時間がたっただろう。
「はぁっ……、ここどこ……?」
気づけば私は、薄暗い路地に立っていた。
あたりはしーんと静まり返っていて、人の気配がまったくない。
深い藍色の夜空には、金色の満月がぽつんと浮かんでいる。
夜も街灯で明るく、人でにぎわっている場所に住んでいるからかな。
静かな場所で一人ぼっちでいるときの夜って、こんなに心細いんだな……。
どうしよう? 引き返す?
でも、今はあの叔父さんと叔母さんの元へ帰りたくないし……。
とりあえず、少し休んで考えよう。
ちょうど近くに公園があることだし、とブランコに腰かけたそのときだった。
「きみ、もしかして十六夜美月ちゃん?」
「え? そうだけど、何?」
振り返って、返事をした次の瞬間、近くにいた人影にぐいっと腕を引っ張られた。
「おーい! 霧矢の女、つかまえたぞ!」
「マジか! お前、やるじゃん!」
「早くそいつを縛って連れて来い!」
……え? 何? 何が起こってるの⁉
これ、絶対にヤバいやつだよね⁉
「や……、やだっ! 触んないで‼」
金切り声で叫びながら、腕をつかむ手を振り払おうと抵抗しても遅かった。
「はいはーい。いい子だから、しばらくおねんねしてなって」
茶化すような声のあと、薬品を染み込ませた布で鼻と口を覆われて、私は意識を失ってしまった。
突然、低い声でここでの名前を呼ばれて、脳内のパニックが一瞬で収まった。
声のした方を見ると、テーブルの上座に見知らぬ男の人が座っていた。
ぱっと見の年齢は、30代半ばくらい。
キリっとした端正な顔立ちに、一本の髪の毛も乱さずビシッと決めたオールバック。
グレーのスーツをシワ一つなく完璧に着こなしている。
……この人が、美月さんの叔父さんかな?
「何だ? 僕のことをじろじろと……」
叔父さんがギロリとにらみつけてくる。
「そうよ。少しは落ち着きなさい」
今度は下座の方から、叔母さんのぴしゃりとした声が飛んできた。
そこには、同じく30代半ばくらいの、ばっちりメイクをした女の人が座っていた。
艶やかな黒髪を夜会巻きにまとめ、ベージュ色のワンピースを身にまとっている。
この人が、美月さんの叔母さんか。
二人とも隙がなさすぎて、息が詰まりそう……。
「は、はい……。すみません」
「まあいい。それより、お前に大事な話があるんだ」
叔父さんは、ナイフとフォークをお皿の上にハの字に置くと、真面目な顔で私に向き直った。
「大事な話?」
「ああ。近日中に、お前の見合いをすることになった」
「えっ? お見合い⁉」
「ああ。向こうもお前のことを気に入ってくれているみたいだ。高校を卒業と同時に結婚してもらうぞ」
いやいやいや、結婚って!
夢の中とはいえ、彼女扱いされるよりも重大……どころか、重すぎるよ!
「いや、急にそんなこと言われても困るし……」
「困る?」
小さな声でぼやいたはずなのに、叔父さんの耳には、しっかりと届いていたようだ。
「お前はいったい何を言っているんだ?」
叔父さんの声が一気に低くとがる。
「お前は十六夜グループの跡取りなんだ。会社の存続と発展のために、結婚相手は僕たちが決める。それに――」
まただ……。あの鋭い目でにらまれて、私は思わずすくみあがった。
「自由な校風の高校に転校させてやる代わりに、お前の今後の人生の選択権は僕たちに譲る。進学する大学も、結婚相手もだ。半年前にそう約束したはずだ」
「そんなの、初耳……」
「とぼけるなよ」
叔父さんは苛立った声で続けた。
「せっかく名門の女子校に入れたのに、お前が『馴染めない』と部屋に引きこもり、不登校になったことさえ忘れたのか?」
不登校⁉ 学校に馴染めないだけでも辛いのに、外にも出られなくなっていたなんて……。
そんな極限状態の美月さんに、この叔父さんはまったく釣り合いの取れてない交換条件を突きつけたの?
こんなの、あまりにも理不尽すぎるよ!
「嫌です!」
気づけば私は椅子から立ち上がって、叔父さんに向かって一気にまくし立てていた。
「たしかに、約束を守るのは大事です。でも、精神的にまいっているときに、正常な判断なんてできるわけがないでしょ! ていうか、転校とその後の人生の自由なんて、交換条件にしてはそっちの都合に偏りすぎるっての!」
「まあ、なんて生意気なの⁉」
叔母さんのヒステリックな声が飛んでくる。
「子供は大人の言うことに素直に従っていればいいのよ!」
「その通り」
叔父さんが深くうなずいて、冷たい声で言い放った。
「もう少し、跡取りとしての自覚を持て。今のきみは、ワガママで甘ちゃんで、自分のことしか考えていない。今のお前は本当に、どこぞの馬の骨とも知れない庶民の女と駆け落ちした兄さんにそっくりだぞ」
……ったく、何なの⁉
口を開けば、跡取り、跡取りって……。
本当は部外者の私でも、聞いているだけでもう限界!
美月さんがこの人たちのことを嫌っている理由がよくわかった。
「もっと私のことを……十六夜美月のことを、一人の人間としてちゃんと見てください!」
震える声で怒鳴った瞬間、重苦しい沈黙が落ちてきた。
叔父さんは完全にまばたきを忘れ、叔母さんは目を見開いて絶句している。
でも、もうこれ以上この人たちと一緒にいたくなくて、私は全速力でダイニングを飛び出した。
そのままひたすら走り続けて、どれくらいの時間がたっただろう。
「はぁっ……、ここどこ……?」
気づけば私は、薄暗い路地に立っていた。
あたりはしーんと静まり返っていて、人の気配がまったくない。
深い藍色の夜空には、金色の満月がぽつんと浮かんでいる。
夜も街灯で明るく、人でにぎわっている場所に住んでいるからかな。
静かな場所で一人ぼっちでいるときの夜って、こんなに心細いんだな……。
どうしよう? 引き返す?
でも、今はあの叔父さんと叔母さんの元へ帰りたくないし……。
とりあえず、少し休んで考えよう。
ちょうど近くに公園があることだし、とブランコに腰かけたそのときだった。
「きみ、もしかして十六夜美月ちゃん?」
「え? そうだけど、何?」
振り返って、返事をした次の瞬間、近くにいた人影にぐいっと腕を引っ張られた。
「おーい! 霧矢の女、つかまえたぞ!」
「マジか! お前、やるじゃん!」
「早くそいつを縛って連れて来い!」
……え? 何? 何が起こってるの⁉
これ、絶対にヤバいやつだよね⁉
「や……、やだっ! 触んないで‼」
金切り声で叫びながら、腕をつかむ手を振り払おうと抵抗しても遅かった。
「はいはーい。いい子だから、しばらくおねんねしてなって」
茶化すような声のあと、薬品を染み込ませた布で鼻と口を覆われて、私は意識を失ってしまった。



