月影の彼方



それは、新学期が始まる前の日だった。

「おい」
突然背中からかけられた声に驚いて振り向く。
俺に話しかけてくるやつなんて、いないはずなのに。

そこには、知らない少年が立っていた。
施設では、見ない顔だった。

「……お前さ、その後ろのやつ」

少年は、リッカを見て眉を顰めた。
ゴクン、と唾を飲み込む。
リッカの顔が険しくなる。

「晃くん!」
その時施設の職員が少年を呼ぶ。
晃、と呼ばれた少年は、チラ、とこちらを見ると、何か言いたそうにしていたが、俺が何も言わない為、諦めたように背中を向けた。


「今日からこの施設でみんなと一緒に暮らす、八神晃くんです」
「よろしくお願いします!」


十五歳の春。

———それが、俺たちの運命を変える出会いだった。


「八神くんはどうしてここに来たの?」
「今までどこに住んでたの?」
「どこ中だった?」

そいつは、あっという間に施設の話題の中心になった。
めったに入ってこない新しい入所者に、みんな興味津々みたいだった。

「うーん。俺?俺は……」
晃がチラ、とこちらを見る。

どうしてそんなに他人に興味が湧くのか。
施設に入ってくるやつなんて、大抵は親に捨てられたか、親が死んでいるかなのに。
傷の舐め合いみたいでなんだか気持ちが悪かった。

「あ、そうだ、新入り。お前にひとつ忠告してやる」

——来た。

「あいつ。あそこの隅っこのやつな。あいつには近付かない方がいいぞ」
「なんで?」
「あいつ、憑いてるんだよ。怒らせると殺されるぞ」

いつものことだった。
でも。

晃はそんな連中の言葉なんて興味がないみたいに、自分が持ってきた荷物を片付けて始めた。

「おい、聞いてるのか?」

誰かが語尾を強める。
その時だった。

「そんな怖いものじゃないと思うけど」

晃が淡々とした口調でそう言葉を落とした。

隣でリッカがゆっくりと視線を向けるのがわかった。

部屋の中が一瞬シーンとなる中、晃と目が合った。
晃は、へへっと軽く笑うと、
「そう言えば、便所どこ?」
と話題を変える。

「あ、ああ、こっち」
施設の中でも年長者の男の子が、晃を案内しながら部屋から出ていく。
周りもさっと引いて、俺とリッカだけが残された。

「……晴人、あいつには気をつけろよ」
リッカの低い声がする。
「……うん」
俺は、それだけ返すのがやっとだった。


晃が入所して、少し経った頃だった。

同い年。
同じ中学。
必然的に、通学路も同じになる。

「なぁ」

「……」

「なぁって」

一緒に登校する約束なんてしていない。
なのに晃は、施設を出てからずっと後ろをついてきていた。

「……晴人、どうする? 巻くか?」

「巻いてどうすんだよ。行き先同じだろ」

リッカの言葉にため息をつく。

関わりたくなかった。
放っておいてほしかった。
なのに。

「おーい、晴人ー!」

どうしてついてくる。
どうして話しかけてくるんだよ。

学校に着いてからも、それは変わらなかった。

「八神くんって、月島くんと同じ施設から来てるの?」

「そうだけど」

「月島くんって、やっぱり変なの?」

「は?」

「何もないところに向かって一人で喋ってるとか、月島くんの周りで物が勝手に動くとか、そういうの見たことある?」

「なにそれ。くだらねー」

晃は呆れたようにそう言った。
クラスメイトたちは怪訝そうな顔をする。
転校してきたばかりだというのに、晃の性格なら友達なんてすぐにできるはずだった。

「八神くんもなんか変だよね」

「月島と同類なんじゃね? 同じ施設だし」

そんな声が聞こえるようになるのに、時間はかからなかった。


昼休み。
屋上へ続く階段に腰掛けながら、晴人はぽつりと口を開いた。

「なぁ」

「ん?」

「なんでお前、俺のこと庇ったりしたんだよ」

「なにが?」

本気でわかっていないような顔だった。

「俺のこと庇ったせいで、お前まで変な奴扱いされてるだろ」

「だから?」

あまりにもあっさり返されて、言葉に詰まる。

「だからって……」

「だってお前、別に変じゃねーじゃん」

晴人の動きが止まる。

「普通だろ」

「……え?」

「変なのはあいつらの方だろ。何もわからねーくせに勝手に決めつけて、陰口ばっか言ってさ」

晃は肩をすくめた。

「俺、そういうの嫌いなんだよ」

胸の奥がひやりと冷たくなる。
なぜだか泣きそうだった。
そんなことを言われたのは、初めてだったから。

「それに」

「……なんだよ」

晃はじっとこちらを見る。
なぜかリッカの警戒が強くなった気がした。

「俺、お前と仲良くなりたいんだ」

「……」

「なぁ、今日の帰りゲーセン行かね?」

「は?」

あまりに話が飛びすぎて理解が追いつかない。

「俺、この街まだよくわかんねーし。案内してくれると助かる」

「……俺、ゲーセンとか行ったことないし」

「は!? マジで!?」

今日一番大きな声だった。
晴人もリッカも思わず肩を震わせる。

「じゃあ尚更じゃん!」

晃は身を乗り出した。

「開拓しようぜ!」

その勢いに押されるように。
張り詰めていたリッカの警戒が、少しだけ解けた。

「……晴人」

「ん?」

「ゲーセンとはなんだ」

「リッカ……」

「そんなに面白い場所なのか?」

「知らないよ」

思わずため息が漏れる。
晃が楽しそうに笑った。

俺に、初めてリッカ以外の話し相手ができた。
それが、友達と呼べるものだったのかはまだわからない。

でも。

あの日から、俺の日常は少しずつ変わり始めていた。