「志田五郎先生でしょうか?」
私の声が構内に反響して、巣を作って寛いでいた鳩が一斉に飛び出してきた。
昔から声が大きかったが、小学生になって剣道を始めてからはさらに大きくなった。
『よく通る声だ。カナはどこにいてもわかるから助かる。いい子だ』と父は褒めてくれたけど、クラスの男子は「うるせえ」と言って耳を塞いだ。
鳩と同様、ベンチから尻を半分落としてぐったりと眠っていた若い男も驚いて跳ね起きた。
何が起こったのか理解できないのか、私を通り越し、キョロキョロと辺りを見回していた。
その目は真っ赤に充血していて、一瞬ウサギを連想させた。
やがてその目がゆっくりと私に向かうと「あ、田代さ・・ん?田代加奈さんだね?」と想像を絶する優しく穏やかな声で訊ねた。
しかも目だけでなく頬まで赤く染めて、それはそれは嬉しそうなのだ。
やっぱり本当に窮地に追い込まれていて、藁にも縋る(若干15歳の女の子にも縋る)思いだったようだ。
「ハイ。田代加奈です。この度はお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
律儀に頭を下げると、ポニーテールの髪が首の前に垂れてくすぐったかった。
同時に胸の内もくすぐったかった。
だって、お世話になります、というセリフは本来、志田五郎が私に言うべきセリフなのだ。
でも、一応、もう高校生になるのだからと、父に目上の人を敬い、敬意を持って接するようにきつく言われてきたからきちんと挨拶することができた。
それにしてもどこからどうみてもチキン野郎であって、天下の月夜川高剣道部の監督らしさなんて微塵も感じられない。
こんな風体じゃ、誰かに頼らなきゃ生きていけないだろうな、と妙に納得すると同時に、何だか自分が少し偉くなったみたいに思えた。
私はこの男を救うのだ。このやせ細った生気のないチキンを救ってやるのだ。もっと敬え。もっと崇め奉れ、と心でほくそ笑んだ。

