この時代に来て、早一週間が過ぎた。
学校ではもとより授業などなく、軍の陣地構築や食糧増産などの慌ただしい毎日が続いた。
窓ガラスには弾が当たっても飛び散らないように習字用の半紙が貼られ、夜は電球に黒い布を巻いて光を外にもれないようにした。
何より深刻なのは、日に日に細くなっていく食糧事情だった。
「このご時世、白米なんてそうそう拝めるもんじゃないよ」
先輩達が諦め顔で言う通り、主食はいつも麦やカボチャ、時には大豆の搾りかすをお米に混ぜ込んだ、水分ばかりの『かさ増しご飯』だ。
それすらも、日が経つごとに目に見えて量が減っていく。
小鉢にカボチャを切ったのが四つ、お味噌汁にもカボチャ。
来る日も来る日もカボチャづくしで、一体いつになったらカボチャがなくなるのだろう?
耐えかねた誰かが、偵察がてら炊事場まで様子を見に行き、「朗報です!残りの在庫、あと五個!」と息を切らせて大部屋に飛び込んできた。
その瞬間、部屋のそこかしこから「おおっ!」と歓声と、パチパチと弾けるような拍手喝采が巻き起こった。
「あと四個!」「あと三個!」と、残りのカボチャの数が減るたびに、声は大きくなっていく。年末に見た大晦日のカウントダウンさながらの盛り上がりだった。
みんなの頭の中は、「明日はついに大根か、あるいはサツマイモか」という淡い期待でいっぱいだったのだ。
しかし数日後――。
運悪く炊事係として炊事場に呼び出された私は、目を疑う光景に直面した。
ゴトゴトと音を立ててやってきた馬車の荷台。そこには、これでもかとばかりにカボチャが山のように積み上げられていたのだ。
「あ……カボチャ……」
目の前に積まれた、見慣れた深緑色のゴツゴツとした塊の山。
それを見た瞬間、私は持っていたザルを落としそうになり、喉の奥から乾いた声が出た。
他のみんなも声こそもらしていないが、目が「カボチャ……」と訴えている。
完全に、魂が抜けかけたような目だった。
リンちゃんは目を擦りながら「あれ、おかしいな。幻覚が見える……」と呟く。
「リンちゃん、あれは現実だよ」
私が絶望混じりに答えると、後ろにいたサエちゃんが「はは、ははは……」と力なく笑った。
昨日、涙ぐましい努力の末に「あと一個!」を達成し、大部屋で「明日はついに大根かもしれない!」と手を取り合って喜んだあの時間は、一体何だったのだろう。
贅沢を言ってはいけない。食べ物があるだけで御の字なのだ。
きっと、ご飯を作ってくれる方が私達学生に食べさせようと一生懸命取ってきたカボチャなのだ。文句は言えない。
そう頭では分かっていても、これだけ連日カボチャを脳内に叩き込まれると、夢にまであの黄色い中身が出てきそうだった。
「よし、みんな!呆然としてないで、一気に下ろしちゃおう!」
上級生の先輩の、半ばヤケクソ気味な大声に弾かれ、私達は「はい……」と力なく地を這うような返事をして、一斉に動き出した。
重い。とにかく重い。
一個運ぶたびに、私達の絶望が一つずつ炊事場の床に積み上がっていく。
けれど、誰からともなく、
「……これだけあれば、当分ひもじい思いはしなくて済むね」
「そうよ。カボチャの煮物、カボチャの味噌汁、明日は趣向を変えてカボチャご飯かしら?」
「いっそカボチャをお餅みたいに潰して焼いてみない?」
と、少しでも美味しく食べるためのアイデアが飛び出し始めた。
その日の夜、大部屋に配られた夕食には、案の定、昼間運んだばかりのピカピカのカボチャが鎮座していた。
食堂に戻ると、まだ事情を知らないアスカちゃん達が「あっちゃー!」と頭を抱えたけれど、私達が「新章突入だよ」と告げると、またしてもドッと笑い声が起きた。
食堂では、週番と呼ばれる日直が点呼を取り、全員揃ってから天照大御神と書かれた神棚に柏手を打ち、いただきます。
食事を終え、食器を片付けた後、私は食堂の窓からそっと外を覗いた。
消灯時間までは二時間ほどのわずかな自由時間なのだが、現代のようにスマホがあるわけでも、テレビがあるわけでもない。大体はみんな、貴重な勉強時間にその全てを費やしていた。
勉強時間中は物音ひとつせず、鉛筆の削る音だけが響いている。
中には、消灯時間を過ぎているのにトイレの電球の下で立ったまま勉強したり、押し入れの中で布団を被って懐中電灯で勉強したり工夫を凝らしていた。
上級生の中には舎監に見つかって、懐中電灯や教科書やノートを取り上げられている子もいた。暗闇での火災は命取りになるから当然の措置なのだろうけれど、取り上げられた子は本当に悔しそうな顔をしていた。
そこまでしてでも勉強にしがみつく彼女達の熱意に、私はただ圧倒されていた。
現代にいた頃の私は、宿題なんてサボれるものならサボりたいし、テストなんてなくなればいいのにと本気で思っていた。それなのに、ここにあるのは『学びたくても学べない』という飢えのような渇望だ。
同時に、この時代の人達の持つエネルギーの凄まじさを思い知るエピソードも耳にする。
なんでも二年前、『英語の授業が嫌すぎる』という理由で、英語組の上級生が一致団結して白紙同盟や授業のボイコットを起こしたことがあるらしい。
先生や上級生には絶対服従のこの時代、当然、学校中を巻き込む上へ下への騒動となり、めちゃくちゃ怒られたのだそう。
その行動力に驚いてしまった。
アスカちゃんが嬉しそうにページをめくる。
教科書には、『楠木正成』という武将が説明されている。
現代の教科書なら、鎌倉末期から南北朝時代にかけての『歴史上の重要人物の一人』として、客観的な事実だけが淡々と書かれているはずのページ。
私達が覚えておくべきテストの暗記ワードとしては、せいぜい足利尊氏や後醍醐天皇くらいのものだろう。
けれど、アスカちゃんが広げた教科書の中の正成公は、まるで物語の英雄か神様のように、その勇敢さと忠誠心が熱烈に称えられていた。
何なら、現代の教科書では聞いたこともないような人の名前まで、細かくびっしりと載っている。
「ねえアスカちゃん、この楠木正成公の隣に書かれている『菊水』って、人の名前?」
私が挿絵の旗に描かれた模様と、その下に細かく書かれた文字を指差すと、アスカちゃんは「これはね」と嬉しそうに身を乗り出した。
「正成公の家紋の名前でもあるんだけど、ここに載っているのは息子の『楠木正行』公のことだよ。お父さんの遺志を継いで、やっぱり最期まで立派に戦ったの。お父さんとの今生の別れを描いた『桜井の別れ』の場面は、何度読んでも胸が熱くなっちゃう!」
アスカちゃんが教えてくれたその名前は、現代の私の記憶には全く残っていないものだった。
「……ねえ、アスカちゃん」
「ん?どうしたの?」
「アスカちゃんは、将来、何になりたいの?」
戦時中の女の子の『将来の夢』なんて、聞いていいものか一瞬躊躇ったけれど、聞かずにはいられなかった。アスカちゃんは一瞬だけきょとんとした後、照れくさそうに、ふにゃりと柔らかく笑った。
「私はね、学校の先生になりたいの。一高女を卒業したら、今度は私が子供達にたくさんのことを教えてあげたい。未明ちゃんは?」
「私は……」
言葉が詰まる。現代なら、どんな選択肢だって選べた。
お医者さんになりたい。
教師になりたい。
お洒落なカフェの店員さんや、漫画家になりたい。
過去も未来はも、溢れんばかりの希望や選択肢で満ちている。
先生になりたい、というアスカちゃんの夢。
いつか好きな物ををお腹いっぱい食べたいというみんなの願い。
それが、全部叶えば良いなと思う。
学校ではもとより授業などなく、軍の陣地構築や食糧増産などの慌ただしい毎日が続いた。
窓ガラスには弾が当たっても飛び散らないように習字用の半紙が貼られ、夜は電球に黒い布を巻いて光を外にもれないようにした。
何より深刻なのは、日に日に細くなっていく食糧事情だった。
「このご時世、白米なんてそうそう拝めるもんじゃないよ」
先輩達が諦め顔で言う通り、主食はいつも麦やカボチャ、時には大豆の搾りかすをお米に混ぜ込んだ、水分ばかりの『かさ増しご飯』だ。
それすらも、日が経つごとに目に見えて量が減っていく。
小鉢にカボチャを切ったのが四つ、お味噌汁にもカボチャ。
来る日も来る日もカボチャづくしで、一体いつになったらカボチャがなくなるのだろう?
耐えかねた誰かが、偵察がてら炊事場まで様子を見に行き、「朗報です!残りの在庫、あと五個!」と息を切らせて大部屋に飛び込んできた。
その瞬間、部屋のそこかしこから「おおっ!」と歓声と、パチパチと弾けるような拍手喝采が巻き起こった。
「あと四個!」「あと三個!」と、残りのカボチャの数が減るたびに、声は大きくなっていく。年末に見た大晦日のカウントダウンさながらの盛り上がりだった。
みんなの頭の中は、「明日はついに大根か、あるいはサツマイモか」という淡い期待でいっぱいだったのだ。
しかし数日後――。
運悪く炊事係として炊事場に呼び出された私は、目を疑う光景に直面した。
ゴトゴトと音を立ててやってきた馬車の荷台。そこには、これでもかとばかりにカボチャが山のように積み上げられていたのだ。
「あ……カボチャ……」
目の前に積まれた、見慣れた深緑色のゴツゴツとした塊の山。
それを見た瞬間、私は持っていたザルを落としそうになり、喉の奥から乾いた声が出た。
他のみんなも声こそもらしていないが、目が「カボチャ……」と訴えている。
完全に、魂が抜けかけたような目だった。
リンちゃんは目を擦りながら「あれ、おかしいな。幻覚が見える……」と呟く。
「リンちゃん、あれは現実だよ」
私が絶望混じりに答えると、後ろにいたサエちゃんが「はは、ははは……」と力なく笑った。
昨日、涙ぐましい努力の末に「あと一個!」を達成し、大部屋で「明日はついに大根かもしれない!」と手を取り合って喜んだあの時間は、一体何だったのだろう。
贅沢を言ってはいけない。食べ物があるだけで御の字なのだ。
きっと、ご飯を作ってくれる方が私達学生に食べさせようと一生懸命取ってきたカボチャなのだ。文句は言えない。
そう頭では分かっていても、これだけ連日カボチャを脳内に叩き込まれると、夢にまであの黄色い中身が出てきそうだった。
「よし、みんな!呆然としてないで、一気に下ろしちゃおう!」
上級生の先輩の、半ばヤケクソ気味な大声に弾かれ、私達は「はい……」と力なく地を這うような返事をして、一斉に動き出した。
重い。とにかく重い。
一個運ぶたびに、私達の絶望が一つずつ炊事場の床に積み上がっていく。
けれど、誰からともなく、
「……これだけあれば、当分ひもじい思いはしなくて済むね」
「そうよ。カボチャの煮物、カボチャの味噌汁、明日は趣向を変えてカボチャご飯かしら?」
「いっそカボチャをお餅みたいに潰して焼いてみない?」
と、少しでも美味しく食べるためのアイデアが飛び出し始めた。
その日の夜、大部屋に配られた夕食には、案の定、昼間運んだばかりのピカピカのカボチャが鎮座していた。
食堂に戻ると、まだ事情を知らないアスカちゃん達が「あっちゃー!」と頭を抱えたけれど、私達が「新章突入だよ」と告げると、またしてもドッと笑い声が起きた。
食堂では、週番と呼ばれる日直が点呼を取り、全員揃ってから天照大御神と書かれた神棚に柏手を打ち、いただきます。
食事を終え、食器を片付けた後、私は食堂の窓からそっと外を覗いた。
消灯時間までは二時間ほどのわずかな自由時間なのだが、現代のようにスマホがあるわけでも、テレビがあるわけでもない。大体はみんな、貴重な勉強時間にその全てを費やしていた。
勉強時間中は物音ひとつせず、鉛筆の削る音だけが響いている。
中には、消灯時間を過ぎているのにトイレの電球の下で立ったまま勉強したり、押し入れの中で布団を被って懐中電灯で勉強したり工夫を凝らしていた。
上級生の中には舎監に見つかって、懐中電灯や教科書やノートを取り上げられている子もいた。暗闇での火災は命取りになるから当然の措置なのだろうけれど、取り上げられた子は本当に悔しそうな顔をしていた。
そこまでしてでも勉強にしがみつく彼女達の熱意に、私はただ圧倒されていた。
現代にいた頃の私は、宿題なんてサボれるものならサボりたいし、テストなんてなくなればいいのにと本気で思っていた。それなのに、ここにあるのは『学びたくても学べない』という飢えのような渇望だ。
同時に、この時代の人達の持つエネルギーの凄まじさを思い知るエピソードも耳にする。
なんでも二年前、『英語の授業が嫌すぎる』という理由で、英語組の上級生が一致団結して白紙同盟や授業のボイコットを起こしたことがあるらしい。
先生や上級生には絶対服従のこの時代、当然、学校中を巻き込む上へ下への騒動となり、めちゃくちゃ怒られたのだそう。
その行動力に驚いてしまった。
アスカちゃんが嬉しそうにページをめくる。
教科書には、『楠木正成』という武将が説明されている。
現代の教科書なら、鎌倉末期から南北朝時代にかけての『歴史上の重要人物の一人』として、客観的な事実だけが淡々と書かれているはずのページ。
私達が覚えておくべきテストの暗記ワードとしては、せいぜい足利尊氏や後醍醐天皇くらいのものだろう。
けれど、アスカちゃんが広げた教科書の中の正成公は、まるで物語の英雄か神様のように、その勇敢さと忠誠心が熱烈に称えられていた。
何なら、現代の教科書では聞いたこともないような人の名前まで、細かくびっしりと載っている。
「ねえアスカちゃん、この楠木正成公の隣に書かれている『菊水』って、人の名前?」
私が挿絵の旗に描かれた模様と、その下に細かく書かれた文字を指差すと、アスカちゃんは「これはね」と嬉しそうに身を乗り出した。
「正成公の家紋の名前でもあるんだけど、ここに載っているのは息子の『楠木正行』公のことだよ。お父さんの遺志を継いで、やっぱり最期まで立派に戦ったの。お父さんとの今生の別れを描いた『桜井の別れ』の場面は、何度読んでも胸が熱くなっちゃう!」
アスカちゃんが教えてくれたその名前は、現代の私の記憶には全く残っていないものだった。
「……ねえ、アスカちゃん」
「ん?どうしたの?」
「アスカちゃんは、将来、何になりたいの?」
戦時中の女の子の『将来の夢』なんて、聞いていいものか一瞬躊躇ったけれど、聞かずにはいられなかった。アスカちゃんは一瞬だけきょとんとした後、照れくさそうに、ふにゃりと柔らかく笑った。
「私はね、学校の先生になりたいの。一高女を卒業したら、今度は私が子供達にたくさんのことを教えてあげたい。未明ちゃんは?」
「私は……」
言葉が詰まる。現代なら、どんな選択肢だって選べた。
お医者さんになりたい。
教師になりたい。
お洒落なカフェの店員さんや、漫画家になりたい。
過去も未来はも、溢れんばかりの希望や選択肢で満ちている。
先生になりたい、というアスカちゃんの夢。
いつか好きな物ををお腹いっぱい食べたいというみんなの願い。
それが、全部叶えば良いなと思う。



