「はい、いかがですか」
促されて壁いっぱいの鏡の前に立つ。
目の前にいたのは、連日の残業で限界を迎えていた干物女、その着の身着のままのしおれた姿ではなかった。
淡く上品なペールブルーのシルクワンピース。胸元の上品な刺繍も裾にかけての自然なラインも、その方面にはとんと疎いわたしにすら最高級の職人の手作りであることが見て取れるものだった。ほんのり色を乗せられた頬には繊細な仕上げがされていてくすみひとつ見えない。瞳がすこし大きくなったようにすら感じるのはどんな魔法を使ったのだろう。
わ、と声にならない息を吐いて手を口に当てる。きらきらと輝くような全身をすこしのあいだ見つめてから、でも、すぐに視線を落とした。浮かび上がりそうになるわたしの心をなにかが掴んで引き下ろしたのだ。戸惑うように目を合わせる女性たち。
わたしは小さく息を吐いてから目をまっすぐに上げ、にっこりと笑ってみせた。
いいよ、こなしてあげる。
わたしに落ち込む理由も資格もない。なにかの期待をできるような立場でもない。
きらきらに飾り付けてもらったサンドバッグ。立派に努めて見せましょう。体育会系の限界社畜、なめんなよ。
「……とっても素敵、です。嬉しい。ありがとうございます!」
あたまの上から抜けるような声でそう言うと、みんなほっとしたように破顔した。
「ああよかった、喜んでいただけて嬉しいわ。さっそく湊《みなと》さまにお見せしましょうね」
揃えて差し出された可愛らしいパンプスに足先を入れ、手を引かれて元の店内に戻る。
副部長は窓際のソファで脚を組み、向こうをむいて新聞を読んでいた。わたしたちが歩いてきたことに気づいて軽く振り返り、いったんあっちを向いて、だけどすぐに立ち上がりながらまたこちらに振り返った。いわゆる二度見。目を軽く見開いている。そのまま動かない。
わたしはその目を、真正面から見据えた。裾幅いっぱいに脚を踏み開く。わたしは仁王。
どうですか、あなたが起用した便利な頑丈女。
馬子にも衣裳、リスにもシルクでしょ。
「いかがですか、湊さま」
わたしの横にいた女性に声を向けられ、わたしに目を向けたまま固まっていた副部長はわずかに背をびくんと揺らした。どういう意味か分からないけれど、ゆっくり腕をあげ、あごと頬をさすっている。視線をだれもいない壁面の方向へ振り向けた。
「……あ、ああ。悪くないんじゃ、ない、ですか」
「ま。湊さまったら。そんなことでは逃げられてしまいますよ。こおんな素敵なお嬢さん、大事になさってくださいまし」
別の女性が副部長に大きな紙袋を手渡しながらたしなめるように声をかける。中身はわたしが着てきたものだろう。横を向いたままでそれを受け取り、ちらと居並ぶ女性たちを見遣って、それからこちらに視線を向ける。すぐに逸らす。誰を見るでもなく、ぺこり、と軽くあたまを下げる様子は、いつも冷徹な副部長には似つかわしくないものだった。
「……お世話になりました。決済はいつもの形でお願いします」
「はい、うけたまわりました。ありがとうございました」
うなずいて踵を返した副部長。慌ててついていこうとしたけれど、このまま行っていいものか迷って隣の女性に振り向く。彼女は頷いてどうぞという形に手を差し出し、それから半歩すすみでて、わたしの耳元に口を寄せた。
「がんばってください。湊さまを、よろしくお願いします」
わかりました。立派にお役を務めてみせます。完了後、廃棄されるまでは。あ、そのとき、この服もちゃんと返しにこなくちゃ。きっとレンタルだもんね。クリーニング、できるのかな。
いろいろ考えながらぺこりと頭を下げるしぐさは、たぶん衣装負けしていたと思う。
副部長はもう外に出て車の横で待っていた。不機嫌なのか、眉を戸惑うようなかたちで寄せてわたしを見ている。あ、待たせたから怒っているんだ。小走りになったが、履きなれないポインテッドトゥ。ちょうどヒールが小石にのって、倒れ込みそうになる。やばい。
と、ざざっ、という音。
気がつけばわたしの視界の半分は、青い空。
そして半分は、太陽を背負った副部長の顔だった。
「……大丈夫か」
三秒ほど固まって、ようやく肩から倒れかけたわたしの背を副部長が支えてくれていることが理解できた。副部長の鼻先がわたしのそれの、こぶしひとつぶんほどの距離にあることが理解できるまでにはさらに三秒を要した。
「あっひっ、ほうっ、ごっごご、ごめんなさい!」
身を捩り、飛び退るように距離をとる。両方の手のひらを前に突き出している。防御態勢である。副部長を、わたしから護るための。
わたしを抱えたままの姿勢で止まっていた彼だったが、やがてぷっと噴き出した。いつのまにか寄せていた眉がほどけている。
「君は、やっぱり君なんだな。安心した」
「……がさつな性格を修正できるお化粧品、はやく完成してほしいです」
副部長は軽く声をあげて笑い、運転席のほうへ移動した。わたしも助手席のドアをあけ、できるだけ服に皺が寄らないように静かに腰を落とす。
安心、かあ。がさつでよかった、見た目が変わってもやっぱり扱いやすそうだ、ってことだよね。大丈夫。ちゃんとやりますから。安心なさっててください。
滑り出したクルマのなかで、わたしはこんどは車窓に目を向けなかった。ずっと膝先に手を置き、その手を見つめている。口も開かない。
「そろそろ着くぞ。腹ごしらえしている時間はなさそうだが、構わないか」
「……はい」
「ん、なんだ。元気がないな。やはり腹が減ったか。では、なにか軽く入れるか。カフェなら、このあたりに……」
「いえ、大丈夫です。それに服、汚したら困ります。終わったらすぐお返ししなきゃいけないのに」
「……返す? なぜだ? ああ、やはりサイズが合わなかった場合のことか。まあ、だが、汚さずに食事するくらいのことは」
「わたし!」
強めの声が車内に響いた。びっくりした。誰の声だろう。
副部長は眉をあげ、言葉を呑みこんでこちらを見ている。
わたしの声に驚くわたしを置き去りにして、口は勝手に言葉を吐いてゆく。
「わたし、こんな高い服、着たことないし……汚さずに動くこつなんて、お作法なんて、わかりません。普段からこういうの着なれている副部長のお近くのひとたちとは違うんです!」
「……佐倉?」
「わたしは、どこにでもいる一般人なんです。がさつな一般人です。違うんです。副部長や、副部長のまわりの、皆さんとは……」
言葉を区切る。
やめろ。美月。やめろ。
「……やよいさん、みたいなひととは」



