終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 シャワー、ひねるじゃないですか。
 シャワーというか手元のやつ。
 お湯だしたいから。それはひねる。

 そうしたら、なんかダイヤルがものすごく左回りに捻り切ってあって。おもいっきり冷水を浴びました。いや普通は温度を確かめてから浴びるでしょって言われたらそうなんだけど、そうじゃない。普通じゃなかった。

 冷水を頭のてっぺんから胸元から脚先まで全力で浴びて、でも、わたしはぼうっと正面の壁を見つめてた。ぜんぜん平気。冷たいのか熱いのかわかってない。たぶん、身体の表面の温度センサーが仕事してなかったと思う。
 ばしゃばしゃという水音を聴きながら、狭いシャワールームのプラスチックの壁面に、わたしは泣き顔と笑い顔と怒った顔の中間をとろうとして失敗した表情を向けていたのだ。

 壁との距離、五センチ。できるだけ近くしていた。
 そうしないと、あのひとの表情が浮かんでくるから。
 小さな鏡を覗き込むように前髪を整えながら、切長の目をわたしに向けて細めながら言った、あの言葉を思い出してしまうから。

 君には、俺の婚約者になってもらう。

 ごん、という音がした。
 わたしの額がシャワー室の壁面を打撃した音だ。
 二回くらい、した。続けて三回。というか、永遠に、ごんごんごんと。

 こんやくしゃ。
 婚約者。
 コンヤクシャ。

 言葉を繰り返しすぎて意味がわからなくなってきた。なんとか崩壊。げしゅた……齧歯類崩壊? タルトタタン崩壊。なんでもいいや。なんでもいいけど、ほんとどういうこと。こんやくしゃ。なんかの悪口だったかな。ぽんこつを示す日本の古語。あ、なんか近いかも。

 うん、そうなんだ。たぶん。
 意地悪なんだ。副部長の。わたしを揶揄って、どんな反応するか、楽しんでる。
 そうだ。そうか。そうなのか……な。
 えへへ、と笑ったあとで、顔がくしゃってなる。
 もう自分の感情がわからない。というか名前も忘れかけてる。だれわたし。

 そうやってぐるぐると、まとまらない考えをかき混ぜているうちに、水音にちいさな異音が混ざったような気がした。気にも留めなかったけど、なんども繰り返されるそれがわたしの温度センサーを再起動させたらしい。

 「……つめたっ!」

 悲鳴とともに身体を引いて、わたしは温度のダイヤルを目いっぱい右に捻った。熱湯が出た。あっつ! と叫んで、今度は脳神経が再起動した。

 異音は、シャワールームの外に置いてあるわたしの携帯の着信音だった。メッセがきてる。
 あわててお湯を止めて、びしょ濡れのままスライドドアを細く開ける。床に転がしてあったスマートフォンがぶるぶると震えて画面を光らせていた。

 『朝食を買ってきた。あと五分で身支度を終えろ』
 「ひぃ」

 声が出た。鬼だ。悪魔だ。氷の工藤だ。
 といいながら時計を見上げると、シャワールームに入った時点から三十分すぎていた。わたしはどれだけ壁におでこをぶつけてたんだろう。ごめんなさい。絶対、ホテルの外でこつこつ踵を鳴らしながら待ってたやつだよね。ごめんなさい。

 バスタオルで身体を乱暴に拭く。着替えなんて持ってきてない。下着からなにからぜんぶ昨日のまんま。なんかもう哀しい。しわしわのブラウスとタイトスカートを身につける。ポーチをひっくり返して、指に触った順にメイクしていく。マッハメイク。寝坊の常習犯を舐めるな。濡れた髪を適当に後ろでひっつめる。
 ここまでで五分ぴったり。ちょうどそこで、こんこんと部屋のドアを叩く音。もういちどひぃという音を発してから、おそるおそる、細くドアを開く。

 「遅い」

 冷たい視線を落とされながら、わたしは半歩さがって首を垂れた。

 「もうしわけもござりません」
 「君の中では武士が流行しているのか。ほら、気にいるかわからないが」

 差し出された手には、チェーン店のカフェで買ってきたらしい紙袋。もう一方の手にはテイクアウトのコーヒー容器ふたつがぶら下がってる。

 「あ、ありがとうございます……」
 「外で食おうかとも思ったが、たぶんあまり人前に出たくはないだろうと思ってな」
 「ひど……」
 
 酷いが、ご明察だ。こんななりでどこにも行けない。
 とりあえずベッドに並んで腰掛け、紙袋を開いた。ふわん、と、香ばしい良い香り。温かいクロワッサンサンドだ。思わずごくりと喉を鳴らす。昨日、あのバーではお酒でお腹いっぱいになってしまって、おつまみくらいしか食べていなかったのだ。
 取り出してかじりつく。うう。うま。
 ふと視線を感じて顔を上げると、副部長がコーヒーを片手に、頬張るわたしを見て口角を持ち上げている。

 「……なんふか」

 どこか面白くなくて、食べながら睨み返す。

 「うまいか?」
 「おいしいれふ」
 「……ふ」
 「だから、なんふか」
 「なんでもない。むかし、子どものころに飼っていたリスを思い出しただけだ。そうやって頬袋にたくさんのひまわりを溜めていた」

 副部長は右に座っている。わたしは、左に顔を振った。見るでない。やっぱり齧歯類崩壊でにんげん辞めてたんだなわたし。
 もういちど、ふっと息を漏らす音が聞こえた。腕を持ち上げて時間を確認している気配。

 「九時を過ぎたな。そろそろかまわんだろう。佐倉、電話してもいいか?」
 「ろうろ」

 もしゃもしゃ口を動かしながら、壁のほうを向いたまま、どうぞと返事をする。副部長はスマートフォンを取り出してどこかへ発信している様子だった。

 「……湊《みなと》です。おひさしぶりです」

 相手が出たらしい。副部長の声色が、いつもの低く少し皮肉を帯びたようなものから、身内に向けるようなトーンに変わった。

 「え……はは。大丈夫です。ちゃんと食べてますよ。何歳になったと思ってるんですか」

 誰だろう。お母さん? いや、親戚のひとかな。

 「それで、突然なんですが、ちょっとそちらに伺いたくて……え、ああ。そうか、今日はその日でしたね。実にちょうどいい。お邪魔しても構いませんか。はい、はい……ありがとうございます。では、昼前には」

 電話を切った彼は、口角をわずかに持ち上げてこちらに振り向いた。食べ終わって口の周りのクロワッサンの破片を回収していたわたしと視線が合う。

 「佐倉、やはり君は持ってる」
 「へ?」
 「親戚巡りをするつもりだったが、その手間が省けた。全員集合だそうだ」