終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜


 「待、ち、なさい……っ!」
 「うおぅ……っ!」

 相手の腹に手を回し、体重を思いっきりかける。引き倒す。乗りかかるようになったけど、やっぱり男性だ。すぐに体勢を反転されて、腰のあたりに相手が乗るかたちになってしまった。
 圭太郎はわずかなあいだ躊躇うようなそぶりを見せたが、わたしの顔、陽奈を突き飛ばされて涙を浮かべながら歪んでいるわたしの表情が気に食わなかったのだろう。あるいは、嗜虐趣味に火がついたのか。
 手を振り上げる。にやりと口元を歪めている。
 殴られる。歯を、食いしばる。
 でも、ぜったいに、ぜったいに。一発は、殴り返してやる。

 と、そのとき。
 
 「……佐倉」

 きゅっと目を瞑ったわたしの耳に飛び込んできた声。静かで、穏やかで、だけど芯から冷え切った声。薄く目を開く。圭太郎の顔が歪んでいる。振り上げた手を、後ろに捻りあげられていたからだ。
 
 「言ったはずだ。まず自分を守れ、と」

 言いながら、副部長は圭太郎の腕を折らんばかりに引き上げた。悲鳴をあげる圭太郎。が、副部長は力を緩めない。目がマジだ。やばい、止めなきゃ、と思った時に、ちょうど会場の警備員さんが走ってきた。ち、と小さな音を出し、副部長は圭太郎の背をどんと膝で突いて転ばせた。さらに思い切り足を上げて踏みつけようとしたらしいが、その前に警備員が相手を取り押さえてしまった。
 気がつけば、起き上がった陽奈が一部始終をカメラにおさめている。ナイス。きっと、いろんなことの役に立つだろう。

 はあ、といったん息を吐いて、身体を起こそうとした。だけど、ずきっという鋭い痛みが襲って顔を顰めた。脚を捻ってしまったらしい。肩も、背中も打った。動けない。

 「……痛むのか」

 副部長がわたしのそばに膝をつき、背に手を当ててゆっくりと起こしてくれる。へへ、と照れ笑いをしながら、至近距離の顔から目を逸らす。

 「ちょ、っと、だけ……だいじょぶです。頑丈なだけが取り柄ですから。あ、それより副部長、中継のこと、いろいろとありが……」
 「黙れ」

 鋭い声に、逸らした目を戻す。鼻先の距離にある副部長の長いまつ毛。それが、ちいさく震えている。そのまつ毛の下の少し色素の薄い瞳がわたしをじっと見すえている。少しだけ雫を湛えて濡れているのは、目の前のわたしにしかわからなかったはずだ。

 と、風景が揺れた。めまいかと思ったけど、違う。驚いたような表情でこちらを見る周囲のひとたちの顔が、ぜんぶ下に流れてゆく。天井が近くなる。
 なにが起こったのかわからなかった。だって、わたしの人生においてそういう事態が生じるなんて、想像もしたことがなかったから。シミュレーション、できてなかったから。
 副部長は、わたしを抱えたまま立ち上がったのだ。背中と腰に手を入れた、いわゆるお姫さま抱っこ。持ち上げるときに、ふっ、と気合を入れたのがわかった。

 「や、ひっ、やめ、あの、重、わたし、重いから、おろし」
 「黙れと言った」

 耳元に強く短く、低い声を送られて、全身から力が抜ける。
 副部長はそのまま歩きはじめた。人混みから離れる。陽奈は目を丸くしたまま、反対方向に後ずさっていった。あとでめんどくさいなあれ、きっと。
 歩きながら、副部長が小さく細く、声を出す。その声が揺れている。歩く振動によるのか、他の理由があるのか、わたしにはわからない。

 「……壊してくれと、言った。小さな世界を。俺が、弥生が、閉じこもっていた世界を」
 「……」
 「君にしかできない、と、たしかに俺は言った。あんな出来事を利用して、君を縛り、俺は俺の仮面を脱げないままで、君に委ねた。ぜんぶを、君に。ああ、俺がそうさせたんだ。卑怯者だ、俺は。君がどう振舞うかに、俺の……ああ、ちくしょう、なにを言ってるんだ俺は」
 「……あ、の……」

 会場のロビーを横切って、階段の裏にあるソファのところにやってきた。誰もいない。そこにゆっくりとわたしを下ろして、副部長も左側に腰を落とした。長い脚のうえで手のひらを組み合わせ、それを額にごんごんと打ち付けて、かと思えばふうと息を吐いて背を丸めて、唸って。
 どうしていいかわからずに黙っていると、やがてなんどかの深呼吸を繰り返したのちに、やっと言葉を絞り出した。なぜか、両手で顔を覆っている。

 「……入社してすぐに、噂を聞いた。変わったやつだなと思った。それからずっと気にしていた。営業部を辞めると聞いて、すぐに引き抜いて、俺の手元に置いて。俺は自分が、なにをしたいのか理解できなかった。決めたはずだったのに。求めてはならないって。誰かを……そばにいてくれる、ひとを」
 「……え」
 「俺は、人並みの家族を持てない。人並みの幸福なんて、人並みの世界なんて、得られない。得てはならない。そう決めていた。だが……だが、勝ってしまったんだ。賭け、に」

 手のひらを外し、躊躇うように、怯えるように、わたしにわずかに視線を向け、そしてまたすぐに向こうを向いてしまった。

 「……あの日。賭けたんだ。終電で、君が隣に座ったとき。俺の肩で、眠ってしまったとき。最後まで目を醒まさなかったら。あの駅、想い出の場所まで、そのまま辿り着いたら……信じよう、って。このひとだ、って」

 おはよう、佐倉。いや、こんばんは、か。
 スーツの責任、取ってくれるんだろう?

 あの日の、あの夜の情景が目の前に立ち上がる。
 氷の工藤。鬼の、副部長。
 わずかにも崩れることがなかった彼が見せた、ちいさな綻び。その綻びの向こうに、緩めたネクタイの奥に、見えたもの。
 わたしに、わたしだけに、見せてくれたもの。

 「だから、もう……もう、やめてくれ。奪わないでくれ。俺から、取り上げないでくれ」
 「……なに、を……ですか」

 聴かせて、ほしい。聴きたくない。聴かなければいけない。聴くのが、怖い。
 指を持ち上げたのは、彼の背にそっと手を添えたのは、わたしじゃない。彼がわたしに、そうさせた。

 「……次は、耐えられない。耐える自信が、ない。こころを、許したもの。甘えたもの……大事なもの。今度、俺の手からそれがこぼれたら。そんな場面を、目の前で見ることになったら」
 「……」
 「壊せといった。俺の、世界を。だが、壊したまんまで置いていくやつがあるか。壊れた世界で……君が欠けた、世界で。俺がまた誰かを傷つけてしまった世界で。俺は、ひとりで、どうやって生きればいい」
 「ひとりじゃないです」

 ぽん、と言葉を返した。明るい声。ちょっと強めに。
 だって。
 そうしなければ、笑えないから。目の縁から、あったかいの、落ちちゃうから。
 そんな顔、いま、あなたに見せたくないから。

 「……ひとりじゃないです。ふくぶ……湊、さん、を、みんなみんな、見ています。見てきました。護って、慈しんで、想い続けて。だから……えぅ」

 最後の妙な声は、くるりと振り向いた副部長に肩をとんと押されて、ソファの背に倒れ込んだためだ。打った背中が痛むことはなかった。その前に、わたしの意識が飛びかけたから。
 副部長が、わたしに覆い被さっている。息のかかる距離。

 「……て、それか」
 「え」
 「ここまで俺に、言わせておいて、そうやって逃げるのか。綺麗な言葉を使うのか」
 「いや、あの、ちょっと、ま」
 「ふざけるな。言え。いますぐ回答しろ。明確に、平易に、かつ永続性のある表現をもって」
 「……は、い……?」

 ぐ、とさらに顔が近づく。鼻先が、触れる。

 「俺を……俺の、ことを……」

 目を見開いて。閉じなきゃいけないのかって迷って、でも、動くことができなくて。
 熱い。副部長の息が、握られた手首が、自分の頬が。
 天井の照明が彼の背にある。彼の輪郭が、きらきらしてる。
 目を閉じる前に見た情景は、そういうものだった。

 と、そのとき。
 階段の横にあった出入り口が、勢いよくばあんと開いた。
 その音にわたしたちはびくんと背を揺らし、互いに飛び退るように離れる。ソファに転がる。
 向いにある扉の向こう、たぶん劇場の舞台裏から顔を出したのは……。

 「あ、れ」

 ソファの上で隣り合いながら、不可思議なポーズを決めているわたしたち。
 弥生さんはそんな二人をじいっと見比べて、しばらく考え込むような表情をしていた。
 だけどやがてジャケットの内側からなにかを取り出して、高く掲げるような仕草。そして片手でぴいと笛を吹くようにしてから、その手を口に当ててくつくつと笑い、声を出した。

 「オフサイド! 佐倉さん、湊にいさん、反則です。はい、ふたりとも退場。ふふ」