たくさん笑って、たくさん喋って。
きらきらとした木漏れ日の落ちる静かな古い道を、両手を拡げて走り抜ける。誰もいない交差点でくるくると回りながら、この土地のことを言葉にし続ける。
説明なんかじゃない。
静かで穏やかで、そうして、副部長や千穂子さん、弥生さんを育ててくれたこの場所を。なんども調べて、訪ねているうちに大好きになった白い郷、神原郷のことをおもいっきり自慢しているだけ。
路地を見つければ入り込んで、階段を見つければぽんぽんと登って。お店をみれば飛び込んで、ひとを見れば話しかけて。
「わあ……ここ、すっごい見晴らし……えっ、あんな静かな通りから、こんなところに出られるんだ……うぉ、遠くに見えるの、海? えっすご、わああ」
竹林を抜けてひらけたところに立って、すうはあと深呼吸しながら喋っている言葉は、もう、誰かに向けてない。誰かに見られてるなんて思っていない。
と、右耳のイヤホン、会場からの音声が届いた。
『佐倉。来客が資料を開きはじめた。絶対に逃すな。企画書のどこかでその場所に触れていないか。写真なり地図を載せていないか』
副部長の声。でも、ほんの少し高い気がする。高揚してるように思えた。
はああ、と、あえてもういちど空に向けて手を広げて伸びをしてから、ぱっと陽奈の構えるカメラに振り返った。
「あ、そういえばここ、お手元の資料の七十二ページに載ってるかも。開発区画、十五番。でも、わたしだけの秘密の場所にしておきたかったなあ。いいや、今日はわたしが独占! みんなはまた今度、ね!」
わはは、という会場の声が耳に届いた。そして、かちゃかちゃとお皿やグラスの音。お料理、回り始めてるんだ。お酒も入ったのだろう。よかった。たぶん、もう大丈夫。このまま終演時刻までわたしが繋ごう。
でも。だけど。
大きな笑顔、大きな身振りを続けながら、ずっと胸に引っかかってることがある。
紹介すべきところはあらかた回って、会場の賑わいの音もさらに大きくなったころ、その声は右のイヤホンにふいに届いた。
『……佐倉さん』
弥生さんの、少し掠れたような声。よかった、気がついたんだ。
副部長が会場の音声を拾っているマイクを彼女に渡してくれたのだろう。
返事はできない。でも、目を見開いてふわって息を吸い込むような表情は、きっと彼女にわたしの安堵を伝えてくれたと思う。
でも、弥生さんの声は沈んでいた。
『ごめんなさい。ごめん、なさい。映像も企画も、あんなに一生懸命、用意していただいたのに。すべてはわたしの甘さです。周りも見ずにひとりで突っ走って、みんなに、佐倉さんにご迷惑をかけて。プロジェクト、守ってくださって……ありがとうございます』
ちがう。ちがうよ。
わたしは、好きになっちゃったんだよ。
あなたを育てたこの街が、あなたがつくったプロジェクトが、あなたといっしょに仕事をすることが……あなたが、好きな、ものが。
だから。
『最終、試合。こんな形で終わるなんて思わなかった。物語の最後は、きっと、みんなそれぞれの道に歩き出すって、そういう場面になるって、わたし、思っていて。今日はそういう日になるって思っていて』
ねえ。わたしの目を見て。見えるでしょ。見えて。伝わって。お願い。
『でも……でも。よかったのかな。よかった、んですよね。うん。そうしてみんな幸せに暮らしました、なんて、あり得ない。王子さまとお姫さまの出発を見送ったのなら、腹黒い魔女はすみやかに退場しなきゃ、ですね。ふふ』
弥生さん。弥生さん。
『……会の締めは、アルテミスホームさん側にお願いすることにしました。いろんなことの後始末があるから、途中だけど、わたしは社に戻ります。役員にも呼ばれてるし。もしかしたら、もうお会いすることもないかもしれない』
お願い。
『ありがとうございました。わがまま、付き合っていただいて。ほんとうにごめんなさい。最後にうまくはいかなかったけど、わたしは、それでも……』
「こんなに素敵な街を、こおんな、素敵なプロジェクトを!」
わたしは、カメラに向かってひときわ強い声を向けた。
言葉を切られた弥生さんが息を呑む音。
いちど唇をきゅっと噛み、俯いて、ばんと前を向く。
「作りあげたひとが、います。長い歴史を持つ街で、生まれて育って。そこに暮らしたひとを、そこで生まれた縁を、そこではぐくまれた想いを大事にしたひとがいます」
カメラに歩み寄る。言葉の途中で声が潤む。でも、止めない。
「そのひとがいたから、そのひとが変えようとしたから、まわりのひとも、世界も、変わることができた。新しい世界に向かって、歩き出すことができた。閉じこもっていた世界を、破ることができた」
手を広げる。空を抱くように。ぎゅっと、胸の前で組み合わせる。
「このプロジェクトの意味。大事にしたものと、新しいものを繋ぐこと。消えてしまった過去と、なにが待ってるかわからない未来を、結ぶこと。そのことを音楽にして、音に載せて、皆さんにお届けしたい。きっと伝わる。皆さんに、感じていただけると信じます」
はあっ、と、おおきく息を吸う。
カメラにさらに一歩、踏み出す。
思いっきり、思いっきり。気持ちの全部を載せた笑顔をつくる。
声を、張る。
「弥生さん! ピアノ!」
会場が静まった。
わたしも、なにもいわない。手を後ろに組んで、微笑みながら待っている。
信じている。
ながい時間に思えた。
でも、きっと、一分も経っていなかったんじゃないかと思う。
その音、会場の隅に置いてあったピアノからの柔らかい音は、すぐにうねるような旋律に変わっていった。叫ぶように強く、囁くように静かに。
泣いてる。やっぱり、泣いてる。あのときとおんなじ。だけど……音楽なんか、ピアノなんかぜんぜんわからないのに、見えてくる。
弥生さんが、高いたかいところに、歩いてゆく姿が。きらきらと彼女を包む、金色に輝く光の粒に抱かれながら。
会場からさざなみのような拍手が聴こえ始めたころ、陽奈のスマホに着信があったらしい。左手で器用に操作して画面を見せてくれた。会場の情景。スクリーンに大写しになっているのは弥生さん。現地で映像を切り替えてくれたんだろう。時折り目元を拭いながら、おおきく身体を使いながら、思いっきり音を作っている彼女は、ほんとうに綺麗だった。
はあ、っと息を吐いて、陽奈に指でオーケーをつくってみせた。終わったよ、って意味だ。カメラを下ろす陽奈。互いに顔を見合わせ、へへ、と笑い合って、二人ともにへなへなとしゃがみ込んだ。
つ、か、れたあ……。
◇
「うなぎ。会社の近くの、あのお店の。特上で、どんぶりじゃないやつで」
「……もう少しこう、なんか、手心を加えていただくわけにはいきますまいか……」
「いかぬ。そちがいうたことじゃ。諦めよ」
「……はい……」
かくりと肩を落とし、陽奈が先にゆくのを重い足取りで追ってゆく。交わしている言葉は約束の確認だ。
なんか知らないけど、いい絵を作ればいいんすね。代わりにお昼おごってくださいね。わたしが食べたいもの、なんでも。いいっすね。いい、っす、ね。撮影前に陽奈はそう言い、わたしは頷いた。こないだ引越したばっかりで、冬のボーナスは揃えた家具の払いに充てればすずめの涙しか残らない。その涙を陽奈に捧げることとなったのである。
さようなら、ちょっといい温泉。
さようならデパ地下弁当。
さっきは息を切らせて登った坂を、とぼとぼと降りて。松の木立がある角を曲がればもう、目の前に公営劇場が現れる。中の音が聞こえるわけはないけれど、時間的にはもう、お開きが近い。弥生さんのピアノにきっと、みんな拍手を送って終わった頃だろう。
よかった、なあ。ほんとに。
にへら、と崩したわたしの顔を、ちょうど振り返った陽奈が気味悪そうに見てくる。
正面玄関に入ると、ちょうどまさに割れんばかりの拍手。同時に、ロビーの向こうの扉が開いた。何人かのひとが出てくる。散会になったのだろう。そこで、ふと思いついた。
「あ、陽奈ちゃん、お客さんにインタビューしよう。感想」
「うなぎのあと、締めパフェ追加で」
「……はい」
陽奈はくいっと親指を立てて走っていった。ロビーの向こう、ちょうど出てきたひとりに駆け寄る。高価そうなスーツに身を包んで、背を丸めた、小柄な男性。その神経質そうな顔に陽奈がレンズを向けた、その瞬間。
「どけっ!」
「きゃっ」
カメラを横叩きにして、肩からどんと陽奈にぶつかる。たまらずに転がる陽奈。その男は、そうして、わたしの方に顔を向けた。
ぶわり、と、記憶が降ってくる。
止めるんだよ、このプロジェクトを。
引き摺り下ろすんだ、あの耄碌ばばあと、生意気な孫娘をな。
「……っ」
相手も、気がついたらしい。あの時、顔は見られていない。でも、わたしの今の表情でわかったんだろう。走り出そうとし、転がった陽奈に足がかかった。蹴るような仕草で彼女を乗り越える。ロビーに出てきたひとたちをかき分けるように、正面出口から離れようとする。
なんにも、考えてない。計算できてない。
だから、なんでわたしがパンプスを脱ぎ捨てたのか、わからない。
でも、だけど、踏み切った。全力で。
数秒のあとには、その男、圭太郎の背中に飛びついていた。



